沈む?! ポパースレッド

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216考える名無しさん
4帰納をめぐる同族の4つの問題

機能についてのヒュームの問題を第二節で定式化したが、これには原理的な重要性があると思う。
しかし、この問題の定式化にはほかにもいくつかの仕方がある。
それらは問題の別の面を映し出しているので、この問題についての異なった相もしくは段階の議論と見なせるものである。
本節ではそういった諸相の4つを区別しておきたい。

(1)第二節での定式化にほんの少し変更を加えたもの。
これはラッセルの難問と呼んでもよいが、「狂人と科学者はどこが違うのか」というかたちの問いで定式化できよう。
これと深く関わっているのが「境界設定の問題」、つまり科学理論の経験的性格をいかに適切に特徴づけるかという問題である。

(2)いわゆる「合理的信念の問題」

(3)未来について推論を引き出すことができるか、あるいは未来は過去に似ているかという問題。
これはヒューム自身が帰納の問題からはっきりとは見分けられなかった問題であり、「明日についてのヒュームの問題」と呼んでおこう。

これら3つの問題はどれも、理論的、認識論的、方法論的性格の問題である。
本節では、これらを解決するのになんら新しい考え方はいらないことを明らかにしようと思う。
ところが議論の進行にともなって、第四の相または段階を区別することになるだろう。
それは見かけでは第三の相に似ているが、論理的性格においてはまったく異なっている。
それは次のように呼んでおいてよいだろう。

(4)「明日についての問題の形而上学的な相」、または「帰納の問題の第四の相、あるいは形而上学的な相」。
この第四の相の問題は第五節で論じることにしよう。
本節では、はじめの3つの相もしくは段階に議論を絞ることとする。
217考える名無しさん:03/03/22 12:47
T

バートランド・ラッセルは、カント以来の哲学者のうちではじめて、帰納についてのヒュームの問題がもつ威力をあますことなく感じ取った。
ヒュームが正しいとすれば、普遍的な性格をもつ知識は存在しえないことをカントは明確に見て取っていた。
したがって、科学的知識も存在しえなくなるとカントは考えた。
しかし彼は、数学とか、さらに重要なものとしては、ニュートン力学といった例は、確実な科学的知識がじっさいに所有されていることを示していると考えたので、
哲学の中心問題は、そうした知識の存在がいかにして可能であり、ヒュームがどうして誤っていたかを説明することにあると考えた。

ラッセルも問題を似たように理解した。
しかし彼がこの問題を解決した具体的なやり方は、カントとはたいへん異なるものであった。
(たとえばラッセルは、数学の確実な知識と対比して力学の法則をたんに確からしい知識として描くことにより、カントが論じた数学と物理化学との溝とをさらに広げた)
帰納についてラッセルは、いろいろな場所で詳細に論じている。
その最初は、彼の比類なき著書『哲学の諸問題』『哲学入門』であると思う。
薄いけれども偉大なこの著書では、ヒュームが問題をつくりだしたとは述べていないが、『西洋哲学史』ではそう述べている。
この本のヒュームに関する章では、ラッセルは問題を次のように定式化した。
ヒュームが正しく観測からは理論を確かなものにするいかなる推論も引き出せないとすれば、科学を信じることはもはや合理的ではなくなる。
なぜなら、科学理論だと申し立てられたものは、それがどれほど恣意的なものであっても、他の理論と同じようによいもの―あるいは正当化可能なもの―となるからである。
というのも、どんな理論も正当化可能ではないからである。
だから、かりにもヒュームが正しいなどということがあれば、「狂気と正気に違いがなくなること」ことになり、
結果として、狂人の妄想や錯覚も、偉大な科学者のなした理論や発見と同じく、すじの通ったものとなってしまうであろう。
218考える名無しさん:03/03/22 13:10
このラッセルの難問に対しては、第二節の議論のなかに、表立っては言ってないものの、簡潔で実質的に完全な答えがすでにある。
じつのところ、科学者の理論が真であるという主張は正当化できるものではない。
それはじっさい、錯覚は真であるとの主張が正当化できないのと同じである。
にもかかわらず、科学者の理論のほうがよい―観測上よりよく指示されているという狭い意味におけるよりもよりよい―という主張は擁護できる。
というのも、一方の理論とは矛盾するが他方とは両立するかもしれないという意味において、観測事実が二つの理論の優劣を決するかもしれないからである。
ヒュームの論証は、観測から理論いついてどんな結論も引き出してはならない、ということを確立しているわけではない。
それが確立したのは、観測から理論を立証する推論を引き出すことはできないということであり、反証する推論を引き出す可能性は未決のままになっていたのである。
換言すれば、観察言明が真であることから理論の偽を推論することは演繹として完全に妥当でありうるということである。
219考える名無しさん:03/03/22 13:27
ラッセルによる帰納の問題についての挑発的な定式化に対する以上のような答えに対しては、わたくしの見るところ、反論の余地はない。
(もっとも、問題の第一の相を、これから論じる第二や第三の相と混同することがなければだが)。
ヒュームが正しかったとしたら科学など不可能になってしまうと言うとき、ラッセルはただ次の点を見落としていたに過ぎないように思われる。
すなわちヒュームの論証は、観測から理論を反証する推論を引き出すことが妥当でないと示したわけではないということである。
ラッセルの考えは、カントの科学観、つまり科学とはよく確立された知識であるという見方には適合するが、科学理論は仮説的で推測的な知識であるというラッセル自身の科学観にはそぐわない。
じっさい、ラッセルは多くの箇所で科学の方法を描いているが、その議論では帰納を持ち出す必要などないのである。
たとえば彼はこう書いている。
「論理は、以前のようにもろもろの可能性への障害ではなく、想像力を大いに開放するものとなった。
それは、思慮の浅い常識では思いつくことができない無数の選択肢を提示する。
したがって論理が提示する数多くの選択肢という世界から、決定が可能なときに、どれに決定するかという課題は経験に委ねられる。」
この美しい一節で鍵となる言葉は、おそらく、「決定が可能なときに」だろう。
この一節を書いたとき、ラッセルが次の点を理解していたことはほとんど疑いえないと思う。
つまり、決定が可能なときに、「無数の選択肢」のなかのいくつかを拒否すること可能であるが、ひとつを選び取るという積極的な決定は可能ではないということである。
ところが、あきらかにラッセルは、これが典型的な場合であるどころか唯一の場合であることを理解してなかった。
あるいは、ここからヒュームが提起した帰納の論理的問題を解決できることを理解してなかったように思われる。

220考える名無しさん:03/03/22 13:28
このような仕方で問題を解決することに関しては、ひとつだけだが重要な点を付け加えておく必要がある。
それは観測だけでは、観測だけでは必ずしも二つの競合する理論のうち、どちらがよいのかを決められるわけではないということである。
とはいえ、二つの理論にかんして決定的実験をおこなえるという特別な場合には、決められることがあるかもしれない。
しかし、一般には観測だけでは足りない。また二つの理論の功罪についての批判的議論も必要である。
そうした議論においては、理論は解くはずだとされている問題をはたして解いているか、
説明するはずだと見なしていることを説明しているか、問題をたとえばアド・ホックな仮説によって移し変えただけではないか、
理論はテスト可能なのか、どれほどよくテストできるのか、といったことを検討しなければならないのである。

こうした問いは(わたくしの言う「境界設定の問題」と深く結びついており)たいへんに重要である。
なぜなら二つの理論には、価値の点では雲泥の差があるのに、観測事実はどちらの理論とも等しく両立しうるからである。
けれども、その理由はまったく異なっていて、
一方の理論は、観測によって厳しくテストされているにもかかわらず両立するが、他方の理論はただテストできない、
つまり、あらゆる観測がこの理論と両立してしまうという理由で、両立するという場合があるのである。
(最初の方の理論の例としては、ニュートンの理論とか、あるいは世界の調和の理論と結びついた、惑星はみな楕円軌道を描くというケプラーの理論が挙げられるし、
二番目のほうの理論としては、惑星はみな魂をもち、神々であるとするプラトンの理論を挙げてもよいだろう。)

二つの理論の説明価値とテスト可能性についての問題が解決されてはじめて、
それらは本当に競合していたのかどうか、また、一方を否とし、もって他方を「よりよい」と示す決定的な観測実験にかけることができるのかどうかを語ることができる。
このようにして、つまり、多くの試みと誤りを経てということだが、
ついには観測によるテストを含めた批判的議論の現状からすれば、検討された他のどんな理論よりも真理に近づいていると見える理論が得られたと言えるようになるのである。

続く
221Sophia:03/03/22 15:50
良スレですね。
222考える名無しさん:03/03/24 08:55
U

こうしてラッセルの難問は片づけることができ、帰納の問題の第一の相は終わった。
問題の第二の相は、「合理的信念の問題」と呼べるが、わたくしの考えでは第一の相にくらべればあまり重要ではないし、さして興味をひくものでもない。
この問題は次のようにして生じてくる。
ときとして観測が「よい」理論と「悪い」理論を区別する助けになるということ、およびどうしてそうなるかを示すことになんの論理的困難もないと認めたところで、
科学の信頼性が説明されたわけでも、科学の成果−すなわち観測によってよくテストされた理論−を信じることが合理的であるという事実が説明されたわけでもない、と主張せざるをえない。
よい理論であるためには、いままでのところ反証を免れているということ以上のものがなければならない。
われわれがいつでも可謬的であり、そしてたいへん誤りを犯しやすいということ、さらに科学理論はみな推測であることを認めたとしても、科学には膨大な量の肯定的知識があることを否定するのは合理的ではない。
しかし、どうしたらこの立場−このむしろ控えめな科学への信念−の合理性を認め、同時にヒュームの正しさを認めることができるのだろうか。

これは新しい難問である。
しかしわたくしの見解では、この難問は最初の問題に比べると重要性の点でも興味深さの点でも劣る。
そう考えるのは、わたくしが信念の哲学についてをあまり興味をもっていないことにもよるが、また、それを片付けるにはじっさい新しい考えはなんら必要としないという事実にもよる。
それにもかかわらず、この新しい難問、あるいは問題の第二段階は、状況を明瞭にする助けになるかもしれない。
223考える名無しさん:03/03/24 09:28
科学の推測的な性格については合意が得られたと仮定しよう。
すなわち、われわれの科学理論は、証拠と議論の結果によってどれほど「成功し」またよく「支持されている」としても、不確かなままであり、どんな変更を加える必要が生じるのかを予見することはできないと仮定してみよう。
したがって、こう仮定しておこう。
本書で科学および科学理論への「合理的信念」が語られるとしたら、その意味するところは、なんらかの特定の理論が真であることを信じるのが合理的であるということではない、と。
この点はきわめて重要である。
それでは、「合理的信念」の対象は何か。
それは、思うに、真理ではないのであって、科学の理論がテストを含む厳しい批判に耐えているという限りでの、理論のいわゆる真理らしさ(あるいは「真理接近度」)である。
(正しいにせよ、誤っているにせよ)信じられているのは、ニュートン理論とかアインシュタイン理論が真であるということではない。
これらの理論が、よりよい理論に取って代わられる可能性はあるにしても、真理へのよい近似になっているということなのである。
この信念は、やはり、合理的であると主張しておきたい。
明日には力学の法則(あるいはそう思われているもの)が突然変わってしまうとしても、この信念はやはり合理的である。
というのは、この場合、新たに観測された規則性だけでなく、古い規則性も説明しなければならないという問題に直面するからである。
問題は、(a)ある条件のもとで、古い理論がよい近似として得られうるような理論を構築すること、
そして、(b)どんな環境(初期条件)が規則性の変化をもたらしたのかを示すことであろう。
このアプローチは、のりこえられた理論が近似として生き延びることを保証しており、実在論と科学の方法から要請されるものである。
ただ変化が起こったことを感受し、それを記録するだけなら、それは奇跡を認めることに等しく、合理的説明の探求を放棄することになり、したがって科学の課題−合理性−を放棄することになるだろう。

224考える名無しさん:03/03/24 09:28
こうした考察からわかるように、よく験証された科学の成果の真理らしさについての信念は、じっさい合理的であり、そしてそれらの結果がのりこえられたあとでさえ、合理的なのである。
くわえて、その信念の強さには程度がある。
ここでは程度をはかる二つの異なるケース、次元を区別しておく必要がある。
すなわち、理論の真理らしさの程度と、ある理論が(ある程度の)真理らしさを達成したというわれわれの信念がもつ合理性の程度である。
わたくしは以上の二つのうち、はじめのものを「真理接近度」、二番目のものを「験証度」と呼んできた。
真理への接近あるいは験証にかんして二つの理論を比較することができるという意味で、それらは「比較を行う概念」である。
しかし、それらの概念は一般には(つまり、確率理論では例外があるかもしれないが)数値的評価をともなうわけではない。
二つの競合する理論がなしうるかぎりくまなく批判されテストされたとし、結果としてそのうちの一方の験証度が他方よりも大きいとすれば、一般に、前者のほうが後者よりも真理へのよりよい近似であると信じる理由があることになるだろう。
この見解によれば、科学とその成果の−したがって、またそれらを信じることの−合理性は、本質的にその発展に、つまり新しい理論の相対的な長所についての議論がたえず更新されていくことに深く関係している。
すなわち、理論が発展的に投げ捨てられることに結びついているのであって、
帰納主義者が信じているように、支持する観測結果が累積して理論が発展的に打ち固まっていく(あるいは確率が増加する)などということに結びついているわけではない。
225考える名無しさん:03/03/24 15:51
山ほどある例のなかからこのことを示す例をひとつ挙げよう

―中略―

コペルニクス・モデルへの確信、信念、選択が合理的なのは、現段階での批判的議論の結果にもとづいているからである。
ある理論を選択するのが「合理的」だと言えるのは、それが議論可能であり、そして綿密な批判的議論、つまり、この理論は真でないと、あるいは、競合理論にくらべて真理に近づいてはいないことを示そうとする巧妙な試みに耐えている場合である。
じっさい、これこそわたくしの知るかぎり「合理的」という言葉の最良の意味である。
 信念の合理性は、先に述べた意味では、ときとともに、また文化的伝統ごとに、そして程度は限られているとはいえ、どのような人々の集団が議論を行っているかによって変化する。
なぜなら、新しい議論、新しい批判的な考え方は、信念の合理性を変えるかもしれないからである。
新しい実験結果が同様の効果をもちうることは言うまでもない。
226考える名無しさん:03/03/24 15:52
 しかしながら、批判的議論の現状というものは、ある理論がほかにくらべて優っているかどうかということにかんして、きわめて明快なことがある。
それはまた、ある理論が偽であることについてもきわめて明快なことがあるが、しかし、それが真であるということについてはそうではない。
十分で徹底的な批判的議論の結果、そのような明快な評価が得られたときには、そうした評価は過去の例を見るとふつうその後の議論においても支持されてきた。
つまり、二つの理論の相対的評価が逆転し、明確に拒絶されていた理論が復活することなど、極めて稀な話である。
これとは対照的に、「帰納的証拠」にもとづく評価が逆転することは驚くほど頻繁である。
だから、帰納に反対する帰納的証拠というものがあるわけである。
批判的評価がなぜ稀なのかは容易に説明できる。
十分な批判的議論というものは、じつは偏見があるのに気づいてなかったとか、観測証拠が架空のものだったり、それを誤解していたりしていたなどということでもないかぎり、力をもちつづけるからである。
批判的評価の多くはそれが生き延びてきたということ、また、最良の理論が置き換えられた時でさえ、その理論はそう判断されたその当時では得られるかぎりで最良の理論であったとする判断が覆されることはまずなかったということ、
こうしたことを主張することは、批判的方法が過去において驚くほど成功してきたということである。
227考える名無しさん:03/03/24 15:53
しかし、将来においてもそうであろうと結論してはならない。
問題は手におえないほど難しくなってしまうかもしれない。
あるいは、われわれの知性が衰えるかもしれない。
結局のところ、十分に訓練された科学者が何千人いようと、より難しくより原理的な科学上の問題に成功裡に貢献できるのは、ほんの一握りの人々である。
こうしたごくわずかの科学者がいなくなってしまったら、科学は停滞してしまうかもしれない。
あるいは、なんらかの偏見が堕落のもととなるかもしれない。
テクニックを見せびらかそうとか、精密さをあがめたてまつるといった流行が勝利して、明快さと単純さと真理への探求の邪魔をするかもしれない。
科学に王道はない。成功を保証する方法もない。
いかなる知識論にせよ、成功の理由を説明しながら、今後も成功しつづけると予測できてしまうとしたら、それは説明も予測もやりすぎているのである。
228考える名無しさん:03/03/24 16:02
中略

理論を、あるいは理論が真であるという信念を正当化することはできないし、また、それらの理論が真理に近づいているという信念を正当化することもできない。
しかしながら、ある理論を選んだこと―ときとして非常に堅固な選択―を議論の現在の結果に照らして合理的に擁護することはできる。
科学の方法は合理的であり、現にある最良のものである。だから、その諸成果を受け入れることは合理的である。
しかしそのことは、それらの諸成果に忠誠を誓うという意味ではない。
どこで期待を裏切られるか、予断を許さないのだから。
 けれども、どのような実際的な目的についても、科学の諸成果を信頼するのは理にかなっており、合理的である。
というのも、実践とはいつでも選択を意味するからである。
われわれは行動するにあたり、あれこれのやり方をとれる。(行動しないというのも、もちろん可能な行動のひとつに他ならない。)
そして、じっさいの行動の根拠としてある科学理論を受け入れたり、あるいは拒否したりする時には、他方の理論よりもこちらの理論を選択していることになる。
そうした選択ができる場合には、二つの競合する理論のうち、テストも含めて長期にわたる批判的議論を生き延びた方を選ぶのが合理的である。
229考える名無しさん:03/03/24 16:07
ここで、最後の論点を指摘しておくべきだろう。
信念は、じっさいの行動においては必要とされるだろう。
人は行動する動物だからこそ、信じる動物なのである。
理論家は、理論家としては、信念なしでもやっていくことができる。
理論家にとっては、最大の真理接近度を有するように見える理論とて信じるべきものではなく、さらなる進歩に向かうかぎりで意義を有する理論でしかない。
それはまた、さらに批判をつづけていくにあたいするものとして理論家によって選び出された理論なのである。
もちろん、理論家でさえ、理論家として行動しなければならない。
たとえば、自分の問題を選ばなければならない。
そのかぎりで、彼もまたやはり信念によって、そしてまた疑念によって導かれているのであろう。

続く・・・
230考える名無しさん:03/03/24 16:09
長かった、風邪引いてもうた・・・
次回、Vを書き込む
でも著作権にひっかかりそうな気がしてきた
231考える名無しさん:03/03/27 06:27
V

帰納の問題の第三の相は、わたくしの考えでは、重要性と比べて第二の問題と比べてさえ劣っている。
第一の相は方法にかかわるさし迫った実際的な問題−すなわち良い理論と悪い理論をいかにして区別するかという問題−であった。
第二の相は重要さでは劣るものの、多少とも切迫したところがあった。なぜなら、我々は「信じている」ということのふつうの意味で科学の諸成果を信じているからである。
また、そう信じることが「合理的」ということのふつうの意味で合理的であるからである。
このことがわれわれの解決案の論理的なフレームワークのなかでどのように説明されるのか一目瞭然というわけではなかったので、そこになにがしか意味をもった問題があったわけである。
 しかし、問題の第三の相、わたくしが「明日についての問題」と呼ぶものは、いったん最初の二つの相が明瞭になれば、よくある哲学上の混乱に過ぎないことがわかると思われる。(それがじっさいには、形而上学的なな第四段階と混同されていない限りでだが)
ヒュームやラッセルのような帰納主義者が、この問題とわたくしが帰納の問題と呼んだものとは区別できないと考えるのはまちがいないであろう。
さらには、こちらのほうが帰納の問題の定式化としてはむしろ優れているとさえ考えられるかもしれない。
しかし、わたくしが非帰納主義者の立場から与えた解決の本質的部分は、まさしく問題の第一相こそ原理的性格をおびていて、これに比べれば第三の相は劣っていることをはっきり認めた点にある。
問題の第三の相はこう定式化してよいだろう。
「未来は過去に似ているとどうして分かるのか」
あるいは、おそらく、「自然法則が明日も成立しつづけるだろうとどうして分かるのか」
232考える名無しさん:03/03/30 03:20
これら2つの問いうち、第一の問いに対するもっとも単純で直接的な答えは、以下のようになる。
「わたくしは、未来が過去に似ているかどうかは知らない。
それどころか、過去と未来がさまざまな点でーじっさい、帰納主義者が『自然の斉一性』の実例として言及するほとんど全ての局面でー異なるだろうと予測するだけの十分な理由がある。
だから、日々食べなれているパンが毒に変わることだってある(麦角から大規模な中毒を起こしたフランスの事例を思い出してみよ)。
空気は呼吸する人々を窒息させるかもしれない(ハンブルクにおける大気汚染を思い出してみよ)。
そして、いちばんの信頼をよせた親友が恐るべき敵になってしまうかもしれない(全体主義社会を思い出してみよ)。
ここで、第一の問いに対するこのような答えは要領を得ていない、と言われたとしよう。
その趣旨は、第一の問いの意味は第二の問い(「自然法則が明日も成立しつづけるだろうとどうしてわかるのか」)によってこそ明確に述べられているのだから、ということであろう。
だが、わたくしの答えはふたたび、断固としてこうである。
「こんにち自然法則と考えられているものが、明日には論駁された推測と見なされるのかどうか、わたくしは知らない。じっさい、これは麦角中毒より頻繁に生じるように思われる。」
 しかし、この答えでもまだ要領を得ていないと言われるかもしれない。
問われていたのは、論駁されるかもしれない仮説ではなく、本物の自然法則、本物の自然の規則性であり、それらが変わるかもしれないという可能性だというのが、その言わんとするところであろう。
だが、この問いに対するわたくしの答えは大したものではない。自然にありとあらゆる変化があるが、いわゆる自然法則は、変化の間、不変のままであるものについての陳述である。
そして不変量であると考えられていたものが変化すると分かったならば、誤った推測が成されていたのである。
それは、自然法則ではなかったということである。
233考える名無しさん:03/04/04 17:43
 しかしながら、帰納主義者はこうした答えには満足しない。
彼らには、これで問題の第三の相、明日についての問題が解決したとは感じられないのである。
 彼らの疑いは、「験証度」にかんするわたくしのいくつかの見解にかかわっている。
わたくしはたびたび、験証度とは、理論がこれまで批判やテストにどう耐えてきたか、また批判的議論の徹底性、そしてかけられたテストの厳しさについての要約された報告、つまり評価に他ならないと述べてきた。
 またときには験証度を、当の理論が「テストに耐えうることで生存への適性を証明できた」程度としても描き出してきた。
しかし、これによって言おうとしたことは、そうした箇所の文脈を見れば分かるように、験証度とは理論が厳しいテストに生き延びた過去の適性の報告であるということでしかなかった。
ダーウィンと同じくわたくしも、(動物であれ理論であれ)テストを生き延びたことでテストに耐え抜く適性を示したものが、
将来のすべての、あるいはほとんどの、またはいくつかのテストにも耐え抜く適性を示したとは考えもしなかった。
じじつ、理論はいかによくテストされたとしても、明日には反駁されるかもしれないと思う
―とりわけ、だれかがその理論を懸命に反駁しようとしていたり、またそれをテストしたりするにあたって新しい考えをもっていれば。
 しかし、験証度が理論の過去における実績の評価にほかならないとしたら、帰納の問題は、明日についての問題というかたちでふたたび生じてきはしないであろうか。
というのも、ある理論の験証度―すなわち理論の過去の実績―は、その理論の未来の実績についてのわれわれの期待も決めるのではないか、と考えられるのだから。
わたくしは、みずから否定したにもかかわらず、未来のテストに耐えぬく傾向を、過去の実績にもとづいて理論に帰すという過ちを犯してはいないか。
 そうした傾向をわたくしが理論に帰してしまっているならば、みずからの理論を破綻させるに等しい、つまり、それでは帰納推理になってしまうだろうという点は認める。
しかし、論点をあきらかにするには、すでに述べた議論の範囲を超える必要はまったくない。
234考える名無しさん:03/04/04 17:58
おおお、いよいよ佳境に。わくわく。
一応sageますが心の中ではage。
235考える名無しさん:03/04/04 23:05
アドルノってゴミだよね。
とっくにポパーに論破されまくり。
236教えて九台さ:03/04/05 20:57
ポパーって、ラスキの弟子なの?
博士論文をラスキの指導下で書いたってほんと?
237考える名無しさん:03/04/07 17:06
要点はこうである。わたくしは、高度に検証された理論の方が、将来のテストに耐えることが特にありそうだとか、たぶん耐えるだろう、といったたぐいのことは信じていない。
あるいはそうした理論のほうが、それほど高度に験証されていない理論よりも耐えられるだろうとも考えていない。
それどころか、理論が生き残る見込みは、とりわけ、その理論が属している科学の特定分野における進歩の度合い、研究者がこの特定の分野に寄せる関心、彼らが新しいテストを考案しようとする努力に大きく依存するだろう。
しかし、進歩の度合いは、まさしく批判の水準とテストの水準が非常に高い分野−すなわち、高度に験証された理論がある分野−において大きいであろう。
 したがってわたくしが、より高度に験証された理論のほうが、験証の度合いが劣る理論よりも一般に長生きすると期待するはずもない。
理論の生存期待値は、思うに験証度とともに伸びるものではないし、またテストに耐え抜いたという過去における能力とともに伸びるものでもない。