沈む?! ポパースレッド

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216考える名無しさん
4帰納をめぐる同族の4つの問題

機能についてのヒュームの問題を第二節で定式化したが、これには原理的な重要性があると思う。
しかし、この問題の定式化にはほかにもいくつかの仕方がある。
それらは問題の別の面を映し出しているので、この問題についての異なった相もしくは段階の議論と見なせるものである。
本節ではそういった諸相の4つを区別しておきたい。

(1)第二節での定式化にほんの少し変更を加えたもの。
これはラッセルの難問と呼んでもよいが、「狂人と科学者はどこが違うのか」というかたちの問いで定式化できよう。
これと深く関わっているのが「境界設定の問題」、つまり科学理論の経験的性格をいかに適切に特徴づけるかという問題である。

(2)いわゆる「合理的信念の問題」

(3)未来について推論を引き出すことができるか、あるいは未来は過去に似ているかという問題。
これはヒューム自身が帰納の問題からはっきりとは見分けられなかった問題であり、「明日についてのヒュームの問題」と呼んでおこう。

これら3つの問題はどれも、理論的、認識論的、方法論的性格の問題である。
本節では、これらを解決するのになんら新しい考え方はいらないことを明らかにしようと思う。
ところが議論の進行にともなって、第四の相または段階を区別することになるだろう。
それは見かけでは第三の相に似ているが、論理的性格においてはまったく異なっている。
それは次のように呼んでおいてよいだろう。

(4)「明日についての問題の形而上学的な相」、または「帰納の問題の第四の相、あるいは形而上学的な相」。
この第四の相の問題は第五節で論じることにしよう。
本節では、はじめの3つの相もしくは段階に議論を絞ることとする。
217考える名無しさん:03/03/22 12:47
T

バートランド・ラッセルは、カント以来の哲学者のうちではじめて、帰納についてのヒュームの問題がもつ威力をあますことなく感じ取った。
ヒュームが正しいとすれば、普遍的な性格をもつ知識は存在しえないことをカントは明確に見て取っていた。
したがって、科学的知識も存在しえなくなるとカントは考えた。
しかし彼は、数学とか、さらに重要なものとしては、ニュートン力学といった例は、確実な科学的知識がじっさいに所有されていることを示していると考えたので、
哲学の中心問題は、そうした知識の存在がいかにして可能であり、ヒュームがどうして誤っていたかを説明することにあると考えた。

ラッセルも問題を似たように理解した。
しかし彼がこの問題を解決した具体的なやり方は、カントとはたいへん異なるものであった。
(たとえばラッセルは、数学の確実な知識と対比して力学の法則をたんに確からしい知識として描くことにより、カントが論じた数学と物理化学との溝とをさらに広げた)
帰納についてラッセルは、いろいろな場所で詳細に論じている。
その最初は、彼の比類なき著書『哲学の諸問題』『哲学入門』であると思う。
薄いけれども偉大なこの著書では、ヒュームが問題をつくりだしたとは述べていないが、『西洋哲学史』ではそう述べている。
この本のヒュームに関する章では、ラッセルは問題を次のように定式化した。
ヒュームが正しく観測からは理論を確かなものにするいかなる推論も引き出せないとすれば、科学を信じることはもはや合理的ではなくなる。
なぜなら、科学理論だと申し立てられたものは、それがどれほど恣意的なものであっても、他の理論と同じようによいもの―あるいは正当化可能なもの―となるからである。
というのも、どんな理論も正当化可能ではないからである。
だから、かりにもヒュームが正しいなどということがあれば、「狂気と正気に違いがなくなること」ことになり、
結果として、狂人の妄想や錯覚も、偉大な科学者のなした理論や発見と同じく、すじの通ったものとなってしまうであろう。
218考える名無しさん:03/03/22 13:10
このラッセルの難問に対しては、第二節の議論のなかに、表立っては言ってないものの、簡潔で実質的に完全な答えがすでにある。
じつのところ、科学者の理論が真であるという主張は正当化できるものではない。
それはじっさい、錯覚は真であるとの主張が正当化できないのと同じである。
にもかかわらず、科学者の理論のほうがよい―観測上よりよく指示されているという狭い意味におけるよりもよりよい―という主張は擁護できる。
というのも、一方の理論とは矛盾するが他方とは両立するかもしれないという意味において、観測事実が二つの理論の優劣を決するかもしれないからである。
ヒュームの論証は、観測から理論いついてどんな結論も引き出してはならない、ということを確立しているわけではない。
それが確立したのは、観測から理論を立証する推論を引き出すことはできないということであり、反証する推論を引き出す可能性は未決のままになっていたのである。
換言すれば、観察言明が真であることから理論の偽を推論することは演繹として完全に妥当でありうるということである。
219考える名無しさん:03/03/22 13:27
ラッセルによる帰納の問題についての挑発的な定式化に対する以上のような答えに対しては、わたくしの見るところ、反論の余地はない。
(もっとも、問題の第一の相を、これから論じる第二や第三の相と混同することがなければだが)。
ヒュームが正しかったとしたら科学など不可能になってしまうと言うとき、ラッセルはただ次の点を見落としていたに過ぎないように思われる。
すなわちヒュームの論証は、観測から理論を反証する推論を引き出すことが妥当でないと示したわけではないということである。
ラッセルの考えは、カントの科学観、つまり科学とはよく確立された知識であるという見方には適合するが、科学理論は仮説的で推測的な知識であるというラッセル自身の科学観にはそぐわない。
じっさい、ラッセルは多くの箇所で科学の方法を描いているが、その議論では帰納を持ち出す必要などないのである。
たとえば彼はこう書いている。
「論理は、以前のようにもろもろの可能性への障害ではなく、想像力を大いに開放するものとなった。
それは、思慮の浅い常識では思いつくことができない無数の選択肢を提示する。
したがって論理が提示する数多くの選択肢という世界から、決定が可能なときに、どれに決定するかという課題は経験に委ねられる。」
この美しい一節で鍵となる言葉は、おそらく、「決定が可能なときに」だろう。
この一節を書いたとき、ラッセルが次の点を理解していたことはほとんど疑いえないと思う。
つまり、決定が可能なときに、「無数の選択肢」のなかのいくつかを拒否すること可能であるが、ひとつを選び取るという積極的な決定は可能ではないということである。
ところが、あきらかにラッセルは、これが典型的な場合であるどころか唯一の場合であることを理解してなかった。
あるいは、ここからヒュームが提起した帰納の論理的問題を解決できることを理解してなかったように思われる。

220考える名無しさん:03/03/22 13:28
このような仕方で問題を解決することに関しては、ひとつだけだが重要な点を付け加えておく必要がある。
それは観測だけでは、観測だけでは必ずしも二つの競合する理論のうち、どちらがよいのかを決められるわけではないということである。
とはいえ、二つの理論にかんして決定的実験をおこなえるという特別な場合には、決められることがあるかもしれない。
しかし、一般には観測だけでは足りない。また二つの理論の功罪についての批判的議論も必要である。
そうした議論においては、理論は解くはずだとされている問題をはたして解いているか、
説明するはずだと見なしていることを説明しているか、問題をたとえばアド・ホックな仮説によって移し変えただけではないか、
理論はテスト可能なのか、どれほどよくテストできるのか、といったことを検討しなければならないのである。

こうした問いは(わたくしの言う「境界設定の問題」と深く結びついており)たいへんに重要である。
なぜなら二つの理論には、価値の点では雲泥の差があるのに、観測事実はどちらの理論とも等しく両立しうるからである。
けれども、その理由はまったく異なっていて、
一方の理論は、観測によって厳しくテストされているにもかかわらず両立するが、他方の理論はただテストできない、
つまり、あらゆる観測がこの理論と両立してしまうという理由で、両立するという場合があるのである。
(最初の方の理論の例としては、ニュートンの理論とか、あるいは世界の調和の理論と結びついた、惑星はみな楕円軌道を描くというケプラーの理論が挙げられるし、
二番目のほうの理論としては、惑星はみな魂をもち、神々であるとするプラトンの理論を挙げてもよいだろう。)

二つの理論の説明価値とテスト可能性についての問題が解決されてはじめて、
それらは本当に競合していたのかどうか、また、一方を否とし、もって他方を「よりよい」と示す決定的な観測実験にかけることができるのかどうかを語ることができる。
このようにして、つまり、多くの試みと誤りを経てということだが、
ついには観測によるテストを含めた批判的議論の現状からすれば、検討された他のどんな理論よりも真理に近づいていると見える理論が得られたと言えるようになるのである。

続く