□□□マイスター・エックハルト□□□

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1エルクハット
神秘主義の総合スレです。
2エルクハット:02/04/03 16:44
神秘主義哲学をくそ真面目に語ろう。
3エルクハット:02/04/03 16:52
4石川梨華 ◆RIKAwz.6 :02/04/03 20:08
 /  ̄ \パカ! 
 ∨∨∨∨
\(^▽^)/ <名スレにつき、あげまーす♪
∧∧∧∧∧
|       |
|  りか   |
\___ノ
5考える名無しさん:02/04/03 20:35
6考える名無しさん:02/04/03 23:11
お、こんなスレが
とりあえず基本はラテン語説教集のほうですね
7Aurelius:02/04/03 23:27
6です
とりあえずエックハルトの諸思想ははっきり分かれているのですが
常に相互に対応し合う三つの精神的な層からなる一つの緊張場面よりなります。
それは
1)形而上学の、理論的な層
2)宗教的遂行の、神秘主義的ともいえる生動的な層
3)神学的な層

1と2の違いについてエックハルトはこう述べています
「一人の実人生の達人は千人の学匠にまさる」
またハイデガー曰く
「それには、思索の鋭さと深さの極みが属する」

3についてですが、それは前述の二つの、形而上学と説教とを包み込む
全体的な関係の輪郭を形作っています。
(アンセルムスの「知ることを求める信仰」)

ちなみに「離脱」(abgeschiedeheit)というエックハルトの根本概念は
形而上学的な中にはそもそも入っていないことに注意して下さい
8Aurelius:02/04/03 23:36
余談ですが、エックハルトの本で基本的なところを並べさせてもらいます
(とはいっても独学ですのでたかが知れてますが)
講談社学術文庫の
エックハルト 上田閑照
神の慰めの書 相原信作訳
岩波文庫の
エックハルト説教集 田島照久編訳
そして法政大学出版局の
マイスター・エックハルト ベルンハルト・ヴェルテ著 大津留直訳
ここらへんから入られてはいかかでしょうか?
9考える名無しさん:02/04/03 23:37
シュタイナーも神秘主義?
10考える名無しさん:02/04/03 23:45
そういあ神学スッドレってなかったね。
個人的には神秘主義よりもスコラ哲学とかの方に興味があるんだが。
11Aurelius:02/04/03 23:46
さて、続きです。
法政大学出版局のマイスター・エックハルトに準ずる流れで書いていきますね

「離脱」とはなんでしょうか?
人間に特有なある構造(宗教的経験へと入れる)となっています。

人間は一つの開かれた関係構造であり、根源的に世界の諸形象が属しています。
人は諸形象を我性を持ってorなしで 意に留めることができます。
我性 Eigenschaftとは通常、性質と訳されます。
さて、我々は、我性をもって諸形象を持つことが、もはやあたりまえの時代に生きています。
それは歴史的必然性によってなる、ともいえるでしょう。
(私見ですがハイデガーの表象的、確定的、安全確保的な思惟
ともいえるのかもしれません。まだ、?がつくところではありますが)

さて、エックハルトは聖書の言葉を用いています。
「心の貧しいものは幸いである」
人間を肯定的に拘束しているものを否定的に拒絶しなければならない、
人間は全く静寂(純粋な静寂、開放、広がり、受容性)になるべきだ、とも。
それは一つの解放という肯定的な意味ももつのです。
12Aurelius:02/04/03 23:51
>>9
るどるふ・しゅたいなーですか?w
>>10
神秘主義、ときくと如何なるものぞ?と身構えてしまうのはわかりますが
ことにエックハルトなどに至れば、そこには深い思惟の構築があると私は思っています。
例えば彼はトマス・アクィナスがあえて踏み込まなかった、踏み込めなかった次元へ
その足を進めたものだ、ともいえるでしょう。

ちなみに前述のヴェルテ、ですが、彼がその著作を記したのは
最晩年のハイデガーとの対話を機録に、となっています。
13考える名無しさん:02/04/03 23:57
>>12
ルドルフです。
14Aurelius:02/04/04 00:01
>>13
ちくま学芸文庫でそれらしくありましたね、神智学とやらが(藁
シロウトにはオススメしません(藁
15考える名無しさん:02/04/04 00:04
宗教版に行くと、「神学を共に学ぼう」スレッドがあるよ。
16Aurelius:02/04/04 00:09
さて、処女性と純潔性について、です。
それは純粋な「放任」の本質でもあります。
放任、とは何でしょうか?
やや長いのですが、がむばってヴェルテの本よりコピペしたいと思います。

・全く静寂になった者について、その人は、全てをそれが何であるか、いかにあるかについて
あるがままに、放任する(あらしめる)ということができる。
それによって、その人はある新しい転換された仕方で
全てのものと結びついていることができる。
すべてのものはそのものについてその人が干渉することなく
その人にとって、そして、その人の前で自由に己を展開することが許される。
世界の広がりは、それに固有な根源性から開示される。

・全ての形象を破棄するのではなく、我性なしに形象を留めるべき。
17石川梨華 ◆RIKAwz.6 :02/04/04 00:33
面白いage。
18Aurelius:02/04/04 00:38
>>15
神学を共に学ぼう!
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1013083624/

ここれすね?w

>>17
わかった、続き書きますw
19Aurelius:02/04/04 00:55
「離脱」について軽く述べてみますね。
離脱、とはフッサールにおけるエポケーに近い、のかもしれません。
現象学の”「対象性に関係するあらゆる存在定立を停止する」ことが重要”
「対象性」という根源的な現象を開示することを目的としているのはご存知だと思います。

エックハルトはそこから神の次元へといこうとします。
ゆえに、神は他の形而上学的な諸理論やその諸概念とは
大いに異なる独特の形態を獲得するに至ります。

ちなみにハイデガーは「放下 Gelassenheit」において
「エックハルトからは多くの良きことを学ぶことができる」と述べています
20Aurelius:02/04/04 01:25
ちょっと脱線。
シュライエルマッハーの
「宗教の本質を語りうるのは
有限な個別者の仲に無限の宇宙を各自が直観し、
感じ味わうことによってである」
という言葉があります。
宇宙 universumとはもともと「一者へと向った者」という意味があります。
このスレの後で述べるであろうエックハルトのいう同一性などとも絡めたいのですが。
しかし果たしてuniversumは被造物としてとらえていいものなのでしょうか?
クザーヌスのnon-esseとの絡みで今一度考えてみたいところなのですが…
21Aurelius:02/04/04 02:16
エックハルトはドイツ語の第二十三説教においてこう述べています
「存在、善性、真理は同じく広い
なぜなら存在がある限り、それは善であり、真であるから」
存在が広がれば広がるほど、善性も真理も広がります。
その際、神(純粋な存在、純粋な真理、純粋な善性)が考えられています。

さて、善性とはなんでしょうか?
神の慰めの書より、ですが
「聖アウグスティヌスは言っている
『これやあれやの善を止めなさい。
そうすれば汚れなき善性、己のうちに漂いながら
純粋な広がりの仲に存在する。それが神である』」

また、神は存在である Deus est esse
存在は神である esse est deus(独語ではwesen 本質・現成と訳しています)

存在と真理を結びつけるのが善性だ、とも述べた上で三位一体については
「被造物においては、父に対応する存在者と、子に対応する心理と、
聖霊に固有の仕方で対応する善とは、互い置換されるのであり、一であるのだが
概念によっては区別されているのであり、それは父と子と聖霊が一であるが
関係のみによって区別されているようなものである」
と『「ヨハネによる福音書」註解』の360にて述べています
(P321 キリスト教神秘主義著作集第七巻 中山善樹著 教文館)
22考える名無しさん:02/04/04 02:20
ジョン・ケージの著作を読んで興味を持ちました。
やっぱキリスト教に通じてないと読みにくいですか?
23Aurelius:02/04/04 02:26
>>22
どうでしょうか、やはりキリスト教独自の言いまわしに違和感を覚えるかもしれません。
しかしそれでも一読してみる価値はあるかと思われます
(夜食にチャーハンをつくるのでしばしレス遅れますw)
2422:02/04/04 02:36
>>23
じゃ、チャーハンを食べたら、オススメの本を教えてください(w。
初心者用の・・・解説書でもいいです。
25Aurelius:02/04/04 02:50
>>24
タダマー
と、食べながらカキコです
ええと、>>8 をちょっとご覧になって下さい。
解説&説教が少々ついているのが
講談社学術文庫のエックハルト 上田閑照
です。たぶんこれが一番読みやすいかもしれません
2622:02/04/04 02:52
>>25
それなら本棚にしまってある。
読んでみることにします。
27考える名無しさん:02/04/04 06:41
参加する気はないけど頑張って欲しいスレだな応援するよ
28考える名無しさん:02/04/04 11:16
>>22に同じくジョン・ケージが言及してたので興味あり。
29Aurelius:02/04/04 23:17
さて、本題の続きをカキコする前に
前述の個所にちょいとつけくわえを

これは講談社学術文庫のエックハルトのまえがきにもあったことなんですが
(ほぼコピペの文章となりますが)
>>19
>ちなみにハイデガーは「放下 Gelassenheit」において
「エックハルトからは多くの良きことを学ぶことができる」と述べています

のあたりについて、です。
このGelassenheitは、エックハルトにおける根本語の一つであった
Lassenからきてるのです。
Lassenとは「手放す、捨てる、放下する、捨離する」、そして
「捨てきった落ちついた自由」がGelassenheitなんですね。
これが宗教的には我意を捨てることが眼目となっているのですが
エックハルトはその遂行を「友のために、且つ、神のために、神を捨てる」
(Gott lassen)とまでいっているのです。
この神を捨てる、という概念がやや理解しがたいかもしれませんが、
それは「我が神を所有するとき、しばしば巨大な我になるため」ともあります。
これは>>20 にて軽く触れたエックハルトのいう同一性のあたりで
明らかになっていくことでしょう。。
30Aurelius:02/04/04 23:43
「第3番目として、神は存在するから認識するのではなく、
神は認識するから存在するのであり、
したがって神は認識であり、認識素のものが
神の存在の基盤であるように、今は見えることを私は示す」
エックハルトは神においては、認識が存在の基礎であり、その逆ではない
とここに述べています。
この存在というものは存在者の存在について考えられている、とされます。
では存在者の存在とは?
それは事実性であり、「我在り」ということでもあり、
つまり自分を自分自身に前以って、企投し、遂行し、
自分自身によっていきることによって存在する、という二重の上に成っています。
また、そういうことを規定されることも、第3の要素として
存在者の存在に属するのです。
31カンりか ◆RIKAwz.6 :02/04/05 11:15
エックハルト研究序説でも買ってみます。
32カンりか ◆RIKAwz.6 :02/04/06 01:45
エックハルト研究序説、むずいし!!なんとかして!!!
33カンりか ◆RIKAwz.6 :02/04/06 01:56
エックハルトも、読書会やりませんか?
34Aurelius:02/04/06 02:54
今帰宅です
ちょいとまた続きかきますか

>>32
買ったの?w
そっちのほうは図書館で借りてすましてるのに
ラテン語説教集(こっちのほうが高い)は手元にある罠。。
35Aurelius:02/04/06 03:29
エックハルトはアリストテレスの引用を使い、こう述べています
「視覚は全ての色彩が見えるためには無色でなければならなく、
また思惟能力はすべてを考えることができるように
どんな自然の形式も持ってはならない、とアリストテレスは言っている。
こうして神が全ての存在の原因であることができ、
全てに先だって全てを持つことができるために、
神御自身もまた、存在やそれに似たものを持たない、と私は主張する。」

認識とは「開空処する」という事故遂行を指しています。
そして精神とはその状態であるため、全てから自由、存在者の全ての存在から
自由でなくてはならないのです。
無色、無形式という諸否定は、
純粋な否定の否定としての一つの否定性への傾向を持ちます。
それは無私なる「離脱」の沈黙でもあり、無の無の境地ともいえるのではないでしょうか?
無は「離脱」の偉大なるエポケーに生きる人間にとって純粋な現象なのです。

第六説教には
「無に等しいもの達だけが神に等しい」と述べられています。
「離脱」した人間ー神の臨在、そこにおける同一性の思想があるのですが
そこが当時も誤解され彼が異端とされた理由の一つでもありました。
と、同時に現代においても理解されにくい点かもしれませんので
次に、それについて触れたいと思います。
36Aurelius:02/04/06 03:48
>>33
ちなみに今、このカキコは>>11に触れたとおり
法政大学出版局 マイスター・エックハルト 
ベルンハルト・ヴェルテ著 大津留直訳
をベースに進めてますので、よければこちらのほうをご覧下さい
37Aurelius:02/04/06 04:18
『義(ただ)しい人は永遠に生きる』
という第六説教の中のとある箇所
(聖餐式においてパンがイエスの肉へと変容する秘蹟について)で
「他者へと変容されるものは、その変容において他者と一つになる。
そのように私は彼(神)へと変容され、それによって神が私を神御自身の分身として
つまり、神と”一つであって等しくはないもの”として、用いる」

つまり、例えば第十二説教で
「私の眼が色を見るときは、眼は全ての色から純潔でなければならない。
私が青か白の色を見るとき、色を見ている目の視覚は、
そこで見ているものともその眼によってい見られているものとも同じものだ」
と、述べられているとおりです。
(続く)
38Aurelius:02/04/06 04:26
それは出来事の同一性であり、出来事の同一性とは
「存在構成要素として同一でないものが、
見るという出来事においては同一である」ということです。
また、集一作用とは
「作用する者と作用される者とが、それらの両面から
一つの作用することという同じコトへ集一すること」を意味します。

しかしここで注意してもらいたいことがあります。
出来事、集一作用の同一性は、存続者の同一性ではない、ということです。
この場合も、神と被造物との区別はあくまでも保たれ続けるのです。

出来事、集一作用の同一性は、存続することの非同一性を
切り捨てにすることなどないのであり、むしろその同一性は、
非同一性を区別として初めて可能にするのです。
39Aurelius:02/04/06 04:36
どんな仕事においても、哲学的実験を試みる余地はある。
哲学研究が、低劣な労働に過ぎないケースもある。
仕事と哲学の二元論は回避せよ、万国の哲学徒よ。
「知識をつけることは、行動することのはじまりであり、行動
することは、つけた知識を完成させることである行わなければ
、知っているとは言えない。知っていても行わないのは、まだ
知らないのと同じである」
学園紛争花盛りだったころ、ブルジョア的一流企業への就職を
拒否し、地にはいつくばって生きるのら、とその後頑張っている
人たちっているみたい。でも、ときどきプライドからかルサンチマン
からか、難し〜い言葉が出てくるのよね。わかる人わかって、感じで。
人生ってやり直しきかないし、辛いですね。
40Aurelius:02/04/06 07:00
>>39
ダレですか?藁
このスレ用のHNを詐称したところで何も意味がないというのにw
…ま、漏れも寝るとしますか、、
41石川梨華 ◆RIKAwz.6 :02/04/06 14:34
>>39
藁ました。

>>Aureliusさん
ありがとうございます。
ラテン語説教集は8000円ですね・・これも買います。
42Aurelius ◆ESSE.EOM :02/04/06 19:06
>>41
か、買うって、、そうポンポン買える金があるのか、、いいなぁ。。
まぁいいさ、阪神勝ったし。。
と、いうわけでまた後で続きカキコしますね。
(などといってこんなトリップつけてみたり)
43Aurelius ◆ESSE.EOM :02/04/06 19:31
アリストテレスはこう述べています
「知覚されるものと、知覚することの作用態は同一であり、一つである。
しかし存在はこれらにとって、同一ではない」
『霊魂論』には
「作用態におけるヌースは事柄である」とあり、
それは精神は「作用によって在ること」において
観察される限界において事柄である、ということです。
つまり精神の作用対は事柄を考えることにあるのです。
非同一者の同一性、それは遂行の同一性である、
とトマス・アクィナスが述べているとおりですね。

アリストテレスの
「遂行における知られたものと、遂行による知性とは一つである」
という言葉に対するトマス・アクィナスの解釈は
「遂行における知られたものの形相は、知性そのものの形相である」
となっています。
(続く)
44Aurelius ◆ESSE.EOM :02/04/07 00:59
トマス・アクィナスの「『霊魂論』註解」より
「質量的な存在に沿えば、あらゆる事柄はただそれがそうであるに過ぎない。
例えば、この石はこの石以外の何物でもない。
それに対して、非質量的な存在は広く、ある意味無限であり、
その非質量的な存在に沿えば、
事柄はそれがそうあるものだけではなく、ある意味で、他者でもあるのである」

たとえば、石の存在についてですが、これは己自身により
己自身に限定している、己自身と関わっているだけの質量的存在、といえます。
では非質量的存在とは何でしょうか?
それは、それ自身の存在の限界を越え、広められており
「ある仕方で」それでないものでもあります。

*非同一者との同一性が、一つの鋭く、弁証法的な形で表されており、
存在の様態と結合されており、その都度、
同一性の独特の様態が現れ出てくるともいえます。
この諸形態が今度は、質良性、非質良性という
基本的な諸性質と関連させられるのです。
トマス・アクィナスにとってはそこから存在者の存在を区分する
最高の諸観点が出てくることとなるのです。
つまり、同一性の様態における差異、特に遂行の同一性という現象、
したがって、非同一者とも結びつく同一性が、
全体的な体系企投の基礎を成していることを意味します。

エックハルトの思想は、原始的な汎神論と異なり、古典的伝統に触れています。
つまり「離脱」した者は神と一つになるのであって、等しくなってしまうのではないのです。
出来事の同一性というものは、個別存在の差異を止揚するのではなく
この差異をはじめて可能にするのですね。
主・客観として区別されるべきものが、一つのものへと収斂され
この統一へと止揚されるところにその真意があるのです。
45Aurelius ◆ESSE.EOM :02/04/07 01:24
余談ですが
差異などと書いてたらデリダたんの
綴りに<<A>>の文字をもつ差延とやらを思い出しちまったヨw
デリダのいう現前性をエックハルト云々とまじえて考えてみるのも
それはそれでおもしろいカモカモw
46考える名無しさん:02/04/07 01:53
>>45デリダたんもエックハルトも何もかもいっしょくたに
〈否定神学〉なんてレッテルはっつけて片付けちゃう人もいますね。

>>38作用の同一性というと「生成に存在の刻印を押す」という
ニーチェの永遠回帰の思想との類似性を考えてしまいます。
そんな安易な飛躍をしないで古典を読むAureliusさんカコイイ!

>>44 ストーンヘンジとかもそうだけど、
石が石であって石でないというありかたは宗教の根幹ですね。
47Aurelius ◆ESSE.EOM :02/04/07 02:24
>>46
もっといえばなんでもかんでも(・∀・)ダツコウチク!なヒトが、、
しかも東たんかぶれなヒトが、、、w
ノリスのあたりから読めばいいんだろうけど。。

エックハルトやらその前のトマス・アクィナスやらの時代には
アリストテレスとの対決が強いられた時代でしたからねぇ。。。
いえ、安易だ、とは思いませんよ。
漏れ自身、理想をいうなら様々な流れから本質(つうか漏れにとって都合のよいw)
と思えるようなものを、核を再構築していきたいヒトですし
・・・そういえるのは若さと知識のなさゆえなのでしょうが(藁
48東秀樹:02/04/07 02:26
デカルト以前は読む気がしません。
49Aurelius ◆ESSE.EOM :02/04/07 14:33
ああ、今日も阪神勝ってくれ。。。
よし片岡!でかした!
あ、とりみだしてしまいました。すみません

さて、前回の同一性の続きをちょっと。
単に現前して、己と関わるだけの存在者の存在の同一性は、
硬直してしまい、変容と運動とを許容しない、そこでストップしてしまうんですね。
集一作用による同一性について、なのですが、そこには
諸々の可能性が生き生きと変容してゆく一つの広い展開空間が現れています。
エックハルトは第六説教の中で
「神と私とは、この集一作用において一つである。神は作用し、私は生成する」
と述べています。この生成するとはどういうことでしょうか?
神の臨在を「現 ダー」へと生成することなのです。

(ツーアウトからフルベースってアホですか、阪神w)
50Aurelius ◆ESSE.EOM :02/04/08 19:33
さて、前回の続きです。
…って今日から大学かと思っていったら明日からだった、萎えw

『金の器のように』聖句への第十六b説教の箇所より
「各々、一つの形象には二つの性質がある。
その一つは形象(像)が、その像を写す当のものから、その形象自身の存在を
手段なしに、意志を越えたところで受け取るということである。
なぜなら、その形象の存在には、ある自然な現れ方があり、
枝が木から突き出るように、自然から現れ出るからである」

これによると形象、鏡像は鏡にうつされたものの顔を示すことが
鏡の本質、存在なのだ、ということになるのではないでしょうか。
この顔とは、鏡の存在ではなく、鏡に映ったものの存在のことです。
鏡は他者から自分の本質を「手段なしに」「意志を越えたところで」受け取ります。
これは鏡像以外の諸形象においてもいえるのかもしれません。
例えば、言葉、あるいは言語習慣。

(安易にここでラカンたんが云々w)
(続く)
51石川梨華 ◆RIKAwz.6 :02/04/10 01:06
アウレリウスさんage
52Aurelius ◆ESSE.EOM :02/04/10 19:19
さて、前回の続きです。

出来事の同一性が、一方の側面へ向って、
一つの発生源としての出来事として見えます。
そして形象は、映されたものから発生し、そこから出発して
何かを映すものにおいて形象になるのです。
「形象は、その形象自身のものでもなく、その形象自身のためにあるのでもない」
と第十六b説教にて述べられている通りです。

つまりこういえることができると思います。
「形象が形象であるのはその他者のためであり、その源泉はそこになく
形象自身がその他者という方向において源泉となる」

第一、第二の極から区別して、この統一と融合とを名づけるならば
一つの三極的な形態がそこに成立するのです。
このあたりはキリスト教の三位一体を踏まえながら展開されていきます。
次回はそのあたりについて述べたいと思います。
53考える名無しさん:02/04/10 21:25
>>50
離脱、とはフッサールにおけるエポケーに近い、のかもしれません。
現象学の”「対象性に関係するあらゆる存在定立を停止する」ことが重要”
「対象性」という根源的な現象を開示することを目的としているのはご存知だと思います。

神秘主義、ときくと如何なるものぞ?と身構えてしまうのはわかりますが
ことにエックハルトなどに至れば、そこには深い思惟の構築があると私は思っています。
例えば彼はトマス・アクィナスがあえて踏み込まなかった、踏み込めなかった次元へ
その足を進めたものだ、ともいえるでしょう。
余談ですが、エックハルトの本で基本的なところを並べさせてもらいます
(とはいっても独学ですのでたかが知れてますが)

ちなみに前述のヴェルテ、ですが、彼がその著作を記したのは
最晩年のハイデガーとの対話を機録に、となっています。
人間は一つの開かれた関係構造であり、根源的に世界の諸形象が属しています。
人は諸形象を我性を持ってorなしで 意に留めることができます。
我性 Eigenschaftとは通常、性質と訳されます。
54考える名無しさん:02/04/10 21:52
阪神どうしたんだろう?つよい。。。。。
ぼくは2年前まで大阪にいたから阪神ファン。
今は、神宮球場まで歩いていける大学の寮に住んでいます。
今度、応援にいこう!今年は楽しみ。
55Aurelius ◆ESSE.EOM :02/04/12 02:37
>>53 コピペカヨ、、、ヒマなこったw
>>54 漏れも信じられん。。。
さて、明日からヤボ用でしばし東京です。のでカキコできませぬ。

>>49
>「神と私とは、この集一作用において一つである。神は作用し、私は生成する」
この、生成ですが、キルケゴールやティリッヒのそれと比べつつ
考えてみるのもおもしろいかもしれませんね。
56考える名無しさん:02/04/12 03:42
クザーヌ酢との比較研究キボーーーーンヌ
57Aurelius ◆ESSE.EOM :02/04/12 13:41
さて、今から新幹線のって東京です。都落ちです、都落ち(藁
ま、そんな私事はおいといて、、、

>>56
クザーヌスとの比較研究ですか。
そうですね、いろいろと見るところはあります。
例えば、です。
クザーヌスは”存在しうるところのすべて” omne id quod esse potestである神を
deus でなく possest(可能現実存在)と名づけていました。
何故彼はesse ではなく posse esse となしたのでしょうか?
エックハルトにおいてのそれはあくまでesseです。
このへんはクザーヌスの知ある無知を読んでいただいたらわかるところなのですが。
またクザーヌスは宇宙universumを一で無限である、としています。
そういったところをおいおいカキコしていきたいと思うのですが、、、
今は時間がないのでまた今度w
58石川梨華 ◆RIKAwz.6 :02/04/21 00:25
クザーヌスage
無限に大きな三角形!!
60考える名無しさん:02/04/21 00:28
アリストテレスの可能体から来てる?
61Aurelius ◆ESSE.EOM :02/04/21 06:20
帰宅しましたが、ちょいと東京でハメをはずしてきて自己嫌悪
アウグスティヌスの告白でも読んで鬱から抜けようとしてるとこですw
続きは今夜か月曜にでも書きます
62Aurelius ◆ESSE.EOM :02/04/22 19:21
お久しぶりです。
シャワーあがりで髪乾くまでの間にカキコです。ちと図書館逝かなければ

さて、父性と子性についてです。
源泉は父であり、形象としての父の似姿が子とされます。
その二つの結びつきが、三位一体である、とエックハルトは説きます。
神との合一というものは、つまり「離脱」した人間が神の形象、似姿となり、
神の息子になるものである、というわけです。

第十六b説教より、「離脱」した人間について、ですが
「ここでは神が媒介なしに形象の内におり、
形象が媒介なしに神の内におる」
形象は「離脱」した人間において魂に刻まれた似姿を意味しています。
また他の箇所で同じことが子性と父性を使って表現されています。
(続く)
63Aurelius ◆ESSE.EOM :02/04/22 19:25
(続きです)
それはこうです。
『あらゆる良い贈り物』という聖句についての第4説教
「父は、彼の子を永遠なる認識において産む。
そして全くそのように、彼の子を彼自身の自然のうちにおけるように
魂の内に産む。
そして父の存在は、喜んでであれ、苦しんでであれ、
魂の内に彼の子を産むことに掛かっている」

「離脱」の根底で人間は、神が臨在するための静寂なる空間となり、
彼のうちにはそのほかに何もありません。
彼は神を映す似姿であり、そのうちに神が現れる形象でもあります。
その形象は神からのみ起こってくるものです。
臨在という分割されない全体的統一における、
はっきりした方向を具えた源泉からの出来事でもあります。
現象的に媒介は存在せず、つまり中間は存在しないのです。
この出来事が父性である、とされています。
人間は、彼であるもの、神の臨在を全面的に神から受け取ります。
そう、自分自身を神から受け取るのです。
(も少しだけこの部分は続きます)
64Aurelius ◆ESSE.EOM :02/04/22 19:32
(続き)
第4説教にてエックハルトはこう述べています。
「父が私のうちに、彼の子を産むところでは
私はその同じ子であり、他の者ではない。
人間存在においては我々(神と私)は確かに異なるが
しかしそこでは私はその同じ子であり、他の者ではないのである」

「離脱」における人間は、父の純粋な現れである、ということですね。
いうなれば、こうです。
”我々は人間存在(あるいは人間性)においては確かに異なるが、
しかし<そこでは>私はその同じ子である”

ちょいと余談です。
エックハルトのラテン語著作集のうちのある程度が
上智大学中世思想研究所からでている
中世思想原典集成 16 ドイツ神秘思想
にあります。しかし、分厚い、重い、高い、と学部生泣かせなので
図書館にて借りましょうw
・・・漏れ、専門と全然関係ないことばっかやってるなぁ。。。
65石川梨華 ◆RIKAwz.6 :02/04/23 19:36
そのシリーズ、高いすぎますねぇ・・
すぐには買えそうもありません。

アウレリウスさんの専門は?
66考える名無しさん:02/04/23 19:40
いずれ平凡社らいぶらりに入んないかな?
67ちゃーみー ◆RIKAwz.6 :02/04/26 21:20
ラテン語説教集、買ったYO!
68Aurelius ◆ESSE.EOM :02/04/28 05:43
GWですなぁ。。。
しかし俺のこの体温に依存する癖はどうにかならんもんか、、、(藁

>>65 心理系なヒトのはずだったのですが、、院には別系統で逝きたいなーとw
>>67 ・・・お金、イパーイあるのか?!w

さて、そろそろ続きでもカキコしましょか、、、
69Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/02 18:39
お久しぶりです。阪神はまだかろうじて勝っています。

さて、詩篇にこんな言葉があります
「主よ、あなたの御顔の光が、我々の上に印されている」

トマス・アクィナスは神的な精神としてのヌースというアリストテレス的思想を
アウグスティヌス的に、キリスト教的、新プラトン主義的に解釈したことは
ご存知だと思います。その彼の解釈によるとこの言葉は
「魂の内にあると同時に、魂を越えて」となります
”この光(真理の光=神)は、確かに常にすでに我々のところへ達しているが、
我々はその光に達することができない”
いいかえるならばこうです。
神の概念というものは、ある、が、
それが何であるか、とらえることはできない、ということです。
この最初の「ある」という箇所について、少し脱線して考えてみましょうか
(続きます)
70Stoa:02/05/02 19:28
>>66
何十年後になるか…(泣
71Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/06 22:48
お久しぶりです。
前回の「ある」ということについてトマスも交えて詳しく述べようか、
などと思ったのですが、いささかややこしくなる、というよりそれだけで
ものすごい量になるので保留させてもらいますw

さて、続きですが
アウグスティヌス、告白、Z、c17、23より
神的なものの認識を妨げるもの、より(世界の名著verからですが)
「そのとき私は、あなたの見られえぬものを、造られたものを通して悟り、
たしかにながめたのですが、まなざしをつけておくことができず、
弱さのためにうちしりぞけられていつもの状態につきもどされ、
いま一瞥したものにたいするなつかしい想い出と、
香りをかいだだけでアベルことのできなかったものへの
やるせない思いだけが、私のもとに残ったのでした」

神とは何かを知らない人間を、エックハルトはこう例えます。
「葡萄酒を地下室に持っていながら、飲んだことも、試したこともないために
それがどんなに美味いか知らない男のようなものだ」
72Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/06 22:50
>>71
>香りをかいだだけでアベルことのできなかったものへの
アベル、ではなく、食べる、でした、失礼。

エックハルトの言葉にこのようなものがあります
「私が神を見る眼は、神が私を見る、その同じ眼である」
ヘーゲルはこれをフランツ・フォン・ベーダーから聞き
「宗教の概念 Begriff der Religion」の中で引用しています。
またヤスパースはキルケゴールの言葉を借り、
「実存とは、自分自身とその中で超越と関わる自己存在である」
と定式化しています。
73考える名無しさん:02/05/10 21:10

コノスレ タノシミ デモチャ-ハンタベタクナル。

キタイアゲ。
74Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/10 21:32
>>73
ちょうど常駐してました、、、
そういわれると嬉しくなったり
そして阪神が勝っているのでとてもウレシイのですw
そうですね、阪神が勝っていて嬉しいのでそれにあった説教の箇所を
今日は書くとしましょうか。

『すべての良い贈り物』という聖句についての第4説教より
「すべての被造物は、一つの純粋な無である。
存在を持たないものは無であり、全ての被造物は存在を持たない。
何故なら、それらの存在は、神の臨在に依存しているからである」

被造物としての存在は単なる仮象である、ということです
それは自分の存在を保持し、定立する力を持ちません。
全面的に神の臨在にのみ、依存している、ということです。
つまりは神のみが源泉であり、そこから存在を与える、ということになります。

さて、このあたりでアリストテレス以来の、形相と本質のそれを思い浮かべて下さい。
しかし、やはり「神」などと書くと胡散臭く感じるところもあるかもしれません。
それでは、その「神」というものを、最近のデリダのように読んでみるのは
どうでしょうか?従来の「他者」として読まず
”一定のルールにおいて把握できるのならばそれはもはや他者ではない”
という、読み方で、です(その読み方は昔からありますがw)
75Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/10 21:42
>>74
>さて、このあたりでアリストテレス以来の、形相と本質のそれを思い浮かべて下さい。
本質、ではなく、質量です、失礼。。。
やはり阪神虚塵戦見ながらのカキコはムチャだ。。。w
しかし、圧倒的じゃないか、我が軍は・・・
76Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/10 21:43
・・・質料です。。。
すみません、このままいったら勝ちそうなので浮き足立っています。。
77考える名無しさん:02/05/10 21:45
時機を逃してはならないかと。そうして、あくまで、隠微に。
P=m(v)2といいますし
78 ◆RIKAwz.6 :02/05/10 21:46
ギレンワロタヨw
79Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/10 21:47
>>77
RIJ−1/2GIJR=KTIJ
とすぐにこの公式が思い浮かんでしまいます
アインシュタインロマンに胸をときめかしていました。。。

ああ、雑談してる場合じゃないっ!w
80Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/10 21:48
あ、まだ浮かれてるや、俺。。。
-KTIJ、ネw
81Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/13 22:06
…鯖移転でスレ逝ったかと思い、取り乱してしまった五月の夕暮れ…
おまけに阪神首位陥落です、激萎え。。
82Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/13 22:24
『創世記註解』より
「被造物は、被造物の存在を持っている。
被造物の存在、あるいは、被造物にとっての存在は<存在の受容>である。
こうして、神にとっては、存在は<存在の授与>である」

被造物の存在は「持つ」といっても「持つ」のではなく、
全面的に神からの流出として、授与としての存在であり
主人は神である、ということです。
またこうも書かれています。

「神と私、我々はこの集一作用において、一つである。
神は作用し、私は生成する」

作用と生成の統一の式を、創造についての定式としても理解することができます。
83考える名無しさん:02/05/14 05:58

 カゴチャン
8483:02/05/15 01:41

 誤爆申し訳ない。>ALL

 このスレの皆さんに善い事がありますように。
85Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/17 00:48
第四説教より
「神が一瞬でも被造物から眼を逸らしたら、被造物は無に帰してしまうだろう」

一瞬、アインシュタインの
「君が月を見ていないのならば、月は存在しないのかね?」
という、量子論者に対して語ったセリフを思い出しましたw

まぁ、このエックハルトの言、全ての被造物は純粋な無である、
という命題は、一つの創造概念からの当然の帰結にすぎません。

さて、ここでアリストテレスのメタクシュ(あるいは媒介)という概念を考えて下さい。
見られるものと当の見ている眼の間にあるもの、
つまり、見ることのために透過可能な空間があり、
それは媒介ではあるが、無なのだ、というやつです。
被造物は二重の仕方で媒介します。
それは自身において受けとめられ、
神の光に開かれた自己において、ということです。
86石川梨華 ◆RIKAwz.6 :02/05/17 01:48
阪神首位による続き記念あげ。
あうれりうすさんの解釈は面白いですね。いつも有難うございます。

>>83-84
どういう誤爆か気になるところですね。

87Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/17 01:49
さて。。今日はもう少し続けてみたいと思います。
そしていよいよ佳境に入っていく、と思われます。
何せ、ここらへんこそ、漏れ自身が思っているところの
ポイントでもあるのですから。。。

世界の存在の本来的な本質、とは一体何なのでしょうか?
それは、神を神にとっての他者において現すことである、
とエックハルトは説いています。
多を基礎付ける統一に対する多の関係について、
『「知恵の書」註解』より、引用してみます
「一者は全体として此岸であり、多であり、
数えられるものである全ての中へ降りてきた。
これら、全ての個別的なものにおいて、一者は分けられておらず
一者としての無傷の侭、すべての数を注ぎ込んで
一者の統一によって、それら全てに形式を与える。」

まず、多はそれが”一つの多”であるのみ、
多を硬性するそれぞれの個別者が再び一であるが故にのみ、
存在しうるのです。
そして一者は、多、非一であるものにおいても、一者でありうります。

世界における多と充溢、
これにおける破壊されざる統一は神の形象であり、一者の形象である、
ということです、つまり、神にとっての他者における形象でもあるのです。

世界は、唯一の神がその神にとっての他者において現れる場としての
非他者でもあるのです。
神は、世界の統一において現れるのです。
それは差異における統一、ともいえます。
(続きます)
88Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/17 01:51
>>86
イェア!w
阪神首位です。サイコーですw
他スレでもぶしつけにカキコしたのですが、
そちらさんの専門は一体どこらへんなんですか?
ちょいと気がかりになったものでしてw

さて、気をとりなおして続きをまた書くとしますか。。。
89Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/17 01:58
さて、”宇宙”Universumという言葉があります。
これはもともと「一者げ向った者」という意味でもあります。

私はここでシュライエルマッハーのある言葉を思い出します。
「宗教とは、宇宙の直観と感情である」
この言葉は、同一性の問題、差異の問題をも示唆しているかのように
読むことができるのではないでしょうか?
私は宗教、いえ、宗教的本質、といいなおしたほうがいいのでしょうか、
そういった核というものは、人間に元々備わっている
プリミティブなものだ、と考えている人間です。
それらとともにエックハルトを読み解いていきたいのです。
かといって、京都学派の流れにのるつもりもありませんが・・・
(まだ続きます)
90Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/17 02:02
>>89
>「一者に向った者」
です。タイプミスです、スミマセン

前レスの続きですが・・・
『「創世記」註解』より
「一律な態度をとる一者から、常にそして直接、一者が出現する。
しかしこの一者は神から一者として出てきた全宇宙自身である。
この一者は、すなわち、宇宙の多くの部分における一者である。
それは、神ご自身が作り出す一者であり、
あるいは、存在、生、思惟、作用において単純ではあるが、
形相に関しては非常に豊かである一者であることに対応している。」

「第二に注意されるべきことは、
宇宙、あるいは世界は、それの存在が単純であればあるほど、
そして、それの部分が多岐に、そして多くのものへと分節すればするほど、
ますます完璧になることである。」
(まだ続きます)
91Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/17 02:08
スピノザのエチカより、このあたりを引用してみます。
定理15「全て在るものは神のうちにある、そして神なしには何物も在りずまた考えられない」
定理16「神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で
(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じてなければならぬ」
上にあげた箇所の意味は実際にエチカを読んでみてもらうことをオススメします。
そういえば哲板にエチカのスレがあったので、それに目を通してもらうのも
よいかもしれませんね(私も見させてもらってます)
(まだ続きます)
92Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/17 02:19
問題は”統一の場所としての人間”です。
全てのものが、現存在を獲得する場所であるのは
それらのものの分散においてだけではありません。
それらの共同性においてでもあるのです。
人間において、初めて、世界の内部で、世界が世界に、
つまり「一者へ向った」宇宙となるのではないでしょうか?

私のもっているパスカル全集(人文書院)のパンセにはこうあります。
「すべての物体、大空、星、地球、その王国などは、
精神のいとささやかなものにすら値しない。
なぜなら、精神はそれら一切と自己自身を知っているが、
それらの物体は何事も知らないからである。」
物質は、世界とその地平を持っていない、ということです。
93Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/17 02:28
現存在において、全てのものが現にあり、全てのものが一つの統一でもあるのです。
現存在とは、創造の紐帯、統一を印す刻印であり、
創造主と被造物を結ぶ紐帯でもあり、
神の厚遇された似姿でもある、と彼は説きます。
人間によって全宇宙は神の似姿となるのです。
そしてその力が、その根源へと反射してゆく鏡でもあるのです。

第二十一説教の三命題に表現されているようなことでもあります。
「神は、神のすべての作品において、全てのものを思っておられる。
魂はすべてのものである。・・・
魂はすべてであり、一者である」
94Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/17 02:36
「平均的な既存的解意の当然さや安心感のなかには、
それぞれの現存在が宙に浮びながら
次第に深い根源喪失へ押しながされていくのに対し、
その当然さや安心感に守られている現存在自身には
この不動の無気味さが気づかれずに覆われている、
ということが含まれているのである 」
これは、ハイデガーの「存在と時間」(ちくま版の上のほうです)の
363ページからの引用です。
存在そのものが、本質上有限で、無のうちに
保持されている現存在の超越の中に顕れる、と
いう状態にあるのです。

ここに、もう一度シュライエルマッハーのあの言葉を交えてみましょう。
「宗教の本質を語りうるのは
有限な個別者の中に無限の宇宙を各自が直観し、
感じ味わうことによってである」
95Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/17 02:49
「他者への愛」という独自の思想がシュライエルマッハーにはあります。
それは、人間は一方で宇宙の一員としての普遍性を共有しつつも、
他方で互いに代替不可能な固体(自然本性)を承認しあう、という思想です。
(これが彼がスピノザともっとも違うところなのですが)
シュライエルマッハーのそこの箇所を引用してみましょう。
「さてしかし、お前は最先にして最後のものである。
愛がなければ何らの形成もない。
そして独自の形成がなければ、愛における感性もない。
一が他を補いつつ、両者は不可分に伸長していく。
私は倫理のこの二大条件が私のうちに合一せられているのを見る 」

近年のデリダはやけに宗教的なところがありますw
そんな彼のいう神、とは、他者というものでもあります。
この他者は、絶対的に合い入れない、理性の範疇外の他者のことでもあります。
カントが「宗教論」の中で述べた神、のように。

さて、そんな「他者」を、シュライエルマッハーのいう”他者”の存在の中に
感じ取り、それら両者に愛を持つことが近年における
反ニーチェ的な指標となりうるのではないでしょうか?

(だいぶ電波入っているところもありますがw
ここらあたりが今のところの私の感想ですね。
今日はこんな遅くまでカキコしまくってるので
途中で支離滅裂になってる箇所もあるかもしれませんが
そこらへんはご愛嬌、ということでお許し願いたいですw)
96ちゃーみー ◆RIKAwz.6 :02/05/17 22:13
>>アウレリウスさん
おつかれさまです。

わたしの教授の専門は、フランス哲学です。
先生方からは、論理学に鞍替えしたほうがいいんじゃないか?
とか、ポストモダンでもファッションをやったほうがいい、とか言われてます(鬱)
97ルサンチマン伊藤:02/05/17 22:34
すいません、ちょっと聞きたいんですが,マイスター・エックハルトのマイスターは名前なんですか?
それとも称号なんですか?称号だとしたら,本名は何でしょうか?
98Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/18 02:58
>>96
ファッションときましたか(藁
しかし専門で哲学やってるヒトにはやっぱり負い目を感じますね。
こっちのは何せ生兵法なのでw

>>97
マイスターは称号です。
Johannes Eckhart が本名となっていますが
ホーホハイムの出なので
エックハルト・フォン・ホーホハイムとも呼ばれるそうです。
エックハルトとは語義的には「刀の如く剛毅き者」らしいですね。
・・・カコイイw
99考える名無しさん:02/05/18 08:01
えっク春と
100考える名無しさん:02/05/18 21:39
>>96
特定できますたw
101Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/21 22:32
・・・結局のところ、西田哲学とかにもあるような
絶対的矛盾的自己同一、にでも逝かなしゃあないのかなぁ、、
などと思ってしまいます。。
永平寺でも逝って禅でも組むか。。。
102石川梨華 ◆RIKAwz.6 :02/05/24 01:03
>>100
院生?

上田あげ。
103考える名無しさん:02/05/27 07:46
田島あげ。
104Aurelius ◆ESSE.EOM :02/05/28 00:40
お久しぶりです。。。
>>95にて少し触れた「他者」なのですが
それに触れる最適の場所が宗教的共同体
ぶっちゃけていえば、六甲おろしを歌っているときの甲子園のような
そういった「自我」ではなく「自己」の触れ合いの場にて・・・
などとも感じる今日この頃です(阪神、頑張ってるので、、w)
105考える名無しさん:02/06/02 03:43
哲学専攻じゃないけど、マリアとマルタの話はいいな。
別に右翼は嫌いじゃないけど、最近増えすぎたコヴァどもに聞かせてやりたい。
106Aurelius ◆ESSE.EOM :02/06/03 02:15
>>105
ああ、漏れもエックハルトのその話はスキです。
通常の解釈とは違うので・・・

エックハルトについて、もう少し思うところが、
というよりもまとめたノートがあるので、近日中にまた
カキコしたいと思っています
107考える名無しさん:02/06/03 03:18
>別に右翼は嫌いじゃないけど、最近増えすぎたコヴァどもに聞かせてやりたい。

おまえら、そんなに国、国という前に、もっとやるべきことがあるのではないのか?
国というものは、そういう人たちによって動いているものなのではないか?
108:02/06/04 22:07
早く書けよ、アウレリウスさんよ。
109石川梨華 ◆RIKAwz.6 :02/06/04 22:59
>>108
 ________________
|まぁまぁ、気長に待ちましょう。 |
|保全あげ! |
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   ( ^▽^)ノホイッ!
110カルロス・ゴーン:02/06/04 23:09
さっさとしろ。
スピードが肝心なんだ!
111考える名無しさん:02/06/11 03:01
アウレリウスは逃亡した模様。
112Aurelius ◆ESSE.EOM :02/06/11 23:48
お久しぶりです
W杯がはじまりました。実はサカー好きな人なのです。
毎日毎日テレビの前にいますよ、ええ。
友人に誘われて今月ヒサシブリに(遊びのですが)サカーの試合にでも
でる予定の漏れです。。


それでは今日はエックハルトの聖書解釈について触れたいと思います

「出エジプト記」
神に依る世界にして、神のうちにおける世界、神が自己自身をおいてある。

「智恵の書」宇宙の隠されたロゴスとしての、世界の内にある紙

「創世記」世界は原理、すなわちロゴスにおいて基礎づけられており
    それゆえ世界の創造は絶え間ない読解、熟慮、永続的対話となる。

「ヨハネによる福音書」世界における光としてのロゴス。
このロゴスは、内在的にして救済史的三位一体のうちに留まる。
恩寵に満ちた神の自己告示となる。
113王様:02/06/11 23:55
サッカーや野球好きの哲学者は
信用ならんな。
114Aurelius ◆ESSE.EOM :02/06/12 00:08
>>113
漏れは哲学者でもなんでもないんですがw
それをいうならデリダたんもハイデガーたんもサカー好きニダw

さて、エックハルトの哲学的根本概念について、です。
第一論集である命題論集は次のように分類されています。
第一論文:存在と存在するもの、およびその反対者である無について
第二論文:一性と一なるもの、およびその反対者、すなわち多について
第三論文:真性と真なるもの、およびその反対者、すなわち偽について
第四論文:善性と善なるもの、およびその反対者、すなわち悪について
第五論文:愛、およびその反対者である罪について
第六論文:倫理的に善きもの、すなわち徳、また義(ただ)しきもの
   およびその反対者である倫理的に悪しきもの、悪徳、また不義なるものについて
第七論文:全体者、およびその反対者である部分について
第八論文:普遍的にして差別なきもの、
       およびその反対者である固有にして差別あるものについて
第九論文:上位の自然、およびその反対者である下位の自然について
第十論文:第一のもの、および究極のものについて
第十一:イデア、根拠、
      およびその反対者である形式なきもの、また根拠なきものについて
第十二:それによってものが有るもの、および有るところのもの
     すなわち差別あるものについて
第十三:最高の存在である神自身について
      この存在は、非在の他に反対者をもたない、ということについて
第十四:実体、および偶有性について
115Aurelius ◆ESSE.EOM :02/06/12 00:17
カンタンに手に入るエックハルトの著作をちょいとリストアップしておきますね
ラテン語著作集の、なのですが
第一巻の「創世記註解」と第三巻「ヨハネによる福音書註解」は
”創世記註解、ヨハネ福音書註解”中山善樹訳(教文館)1993 があります。

また”中世思想原典集成16 ドイツ神秘思想”(平凡社)2001にも
四つほど、いろいろと収録されていたと思います。


(しかしまだ阪神ががんばっています。。夢のようです。。。)
116考える名無しさん:02/06/13 22:34
神秘主義ね。
117考える名無しさん:02/06/13 22:47
カスタネダ>>>>>>エックハルト
118Aurelius ◆ESSE.EOM :02/07/04 09:20
お久しぶりです
もうレポートの時期です、忙しいのれす。。。

さて、目下私が思索中の宗教性というものが
たとえばガダリなどのいう「帝国」へのアンチテーゼになるのではないか
などと、夢を見る日々なのですが、、、
119考える名無しさん:02/07/04 09:43
>>104
デュルケムみたいですね。
120Aurelius ◆ESSE.EOM :02/07/04 10:06
>>119
しかし私は思うのです
そういった熱狂的な「場」においては「個」というものが失われてるのではないか?と
そういったものは「宗教性」ではなく、それの衣、人間が人間であるが故の
ためのものにすぎないと感じます
ですから、個の本当の意味においての連帯というものこそが理想である、と思うのです
現代は「速度」の時代です
我々は「速度」によってグローバル化した(逃げ場がなくなった)世界を
手に入れるにいたりました。そしてあらわれてくる「帝国」という概念。
しかしながら、同時に「速度」によって我々は、より一層「個」を自覚することが
できる時代にきたのではないでしょうか?(eg ネット社会など)
ですから、今こそが宗教の時代なのではないか?などと思ってしまうのです
もっとも、この宗教というものも、私なりの定義の宗教なのですが
121Aurelius ◆ESSE.EOM :02/07/04 10:09
などと、ありきたりのことをカキコしてしまいました

問題は阪神です。ここにきて3連勝。。。素晴らしい。。。w

ええと、まぁ、とにかく、上にあったような面においても
神秘主義というものが、宗教性というものが、より必要とされているのではないでしょうか
122いしかわ ◆RIKAwz.6 :02/07/10 20:00
( ^▽^)ノホイッ!
123Aurelius ◆ESSE.EOM :02/07/22 16:09
お久しぶりです。
暑くて暑くて死にそうな日々を送っています
最高気温34.6℃で湿度96%ってアホですか、関西は
来月から信州→東京→北海道、と逃避行を始めますが、、、w

さて、アンセルムスの言葉にこういったものがあります
「知解を求める信仰」「信仰を通じての理解」
(fides quaerens intellectum, intollectus fidei)
こういった点が、私自身の信条ともなっているわけですが、、、
などといった個人的な点はさておき、、、

エックハルトの聖書解釈について今一度触れてみましょう

「出エジプト記」
神に依る世界にして、神の内における世界。
神が自己自身をおいてある。

「智恵の書」
宇宙の隠されたロゴスとしての、世界の内にある神

「創世記」
世界は原理、すなわちロゴスにおいて基礎づけられており
それゆえ世界の創造は絶え間ない読解、熟慮、永続的対話となる

「ヨハネによる福音書」
世界における光としてのロゴス

ここにおけるロゴスは、内在的にして救済史的三位一体のうちに留まる、
恩寵に満ちた神の自己啓示となる、とあります。
とりあえず聖書を一眺めすると、エックハルトの解釈がどういうものであるか
よく理解できると思いますが・・・
124Aurelius ◆ESSE.EOM :02/07/22 23:53
エックハルトは、偶有性の範疇による思索は除外されねばならぬ、としていました
では、偶有的なものとは一体何をさすのでしょうか?
それは、主語(担い手、根底に横たわるもの)において
主語によって存在を受け取るもの、とされます。
しかし、同時に、主語の後に来、主語によって初めてその存在を与えられ
主語に外的に付帯するものである、とも述べられるものです。
偶有的なものは、数と部分を獲得します。
そして主語はそれら偶有的なものが存在を得た根拠としてみられるので、
このような偶有的なるものの規定を受け取るようになります。
偶有的なものはこうして存在者の存在者となるのです。
(続きます)
125Aurelius ◆ESSE.EOM :02/07/23 00:10
では根源語とはどういったものなのでしょうか。
既に存在しているものに、後続として付帯するのではなく、先行するものである。
とエックハルトは述べています。
で、あるからして、先行するものの優位性というものが
前述した偶有性に対してある、とされているのです。

根源語の内の第一のものは、存在、です。
それはそれの意味するところのものであり、それと同一のものでもあります。

それは直接的、第一根拠から直接由来し、それ故、包括的とされます。
存在から存在を通して、存在の内においてすべては「存在」し
それ自身は何者からも由来しない、ともされます。
だからこそエックハルトはさらにこういいます。
存在によって生じ来るある何かは、存在でないものは
存在しないのであり、無である、と。
存在そのものは現勢であり、現実性であり、充実した完成である、とされるのです。
(これが、ヒトとなったキリストのことをさす、と想像するのは容易いことでしょう)
126Aurelius ◆ESSE.EOM :02/07/23 00:25
エックハルトは
存在というものは全てのものの現実性であり、
全ての形相の現実性である、といいます。
また、すべてのものは存在へと向い、存在を希求するのだ、とも。
そして彼はこう言うにいたります。
知性の対象は存在するものであり、それゆえ、今ここが問題とならない、と。

(次は 先行するもの、上位なもの、について触れたいと思います)
127石井ちゃん ◆RIKAwz.6 :02/07/23 22:08
惚れ惚れするような説明ですね。
◆ESSE.EOMというトリップ・・・
age
128Aurelius ◆ESSE.EOM :02/07/23 23:51
>>127
いえいえ、いろんなところのものを自分なりにまとめてみただけです
…トリップはせっかくだからesseでつけてみました

さて、前回触れました、先行するもの、というものを
エックハルトは上位なもの、と見なしました。
それは後続するものから何ものも受容しない、ということです。
逆に高位のもの(第一のもの)は低位のものに働きかけ
その特質と特性をもって低位のものへと下降し、
低位のものを自己と似たものとなす、と彼は考えます。
(いかにもキリスト教、アガペー的なものを私は感じますが)
つまり、原因が原因されたものに、
能動的なものが受動するものに対するのと同じことを意味します。

これは、一性や非分割性についても同じことがいえます。
低位にて分割されてあるもの=高位においては分割されないもの
と考えることもできるでしょう。
「高位なものは低位なものにおいて、分割されることはあり得ない、
むしろ分割されることなくとどまり、低位にて分割されたものを統一し、
一にもたらすのである」とエックハルトが述べるとおりでしょう。
(続く)
129Aurelius ◆ESSE.EOM :02/07/23 23:57
ちなみに、エックハルトがそう述べたもので例をあげるとすれば
当時、考えられていた「魂」という概念がそれに当たるのではないでしょうか。

「また、生あるものへの「分割」においても分割されることはなく、
分割されぬままとどまり、それ自身の内において、
個の「部分」を一にもたらすものである。
一つの生、一つの魂、一つの存在、
すべてのもののうちにおける一つの生とするのである」

「一なるものにおいて階梯は存在しない。
そこには他よりも低いものもなく、
形態、秩序、あるいは現実性の差異もない」

と、エックハルトは述べています。
そうですね、これはよくいわれていることなのですが
ハイデガーを読みながらエックハルトを
エックハルトを読みながらハイデガーを読んでみると面白い、と私も思います。
130Aurelius:02/08/04 22:54
旅先からカキコです
とりあえず北にでもついたらちゃんとカキコするつもりです
というわけでアゲてみます
しかし東京は、、、久しぶりにくるとよい。。。
131考える名無しさん:02/08/04 23:14
>>130 東京へようこそ!
132Aurelius:02/08/09 22:49
やっと北の大地に辿り着けました
トリップがどんなのだったか、ド忘れしてしまったのですが
とりあえず明日より思うところを書いていきたいと思います
133考える名無しさん:02/08/10 00:07
Gelassenheit
134Aurelius:02/08/14 23:52
お久しぶりです
北の大地よりカキコです
牧草地帯を散歩しながら思索にふける、というのもまたよい経験かもしれませんね。
この大地において存在者と存在、というものを天啓のように感じ取れたら幸いですw

さて、その存在なのですが、エックハルトは
「存在するものは存在を表示している」と述べています
そして彼は存在的、と存在論的、の区別をも述べます。
前のカキコで「ハイデガー云々」といいましたが、まさしくここらへんを参照すると
興味深い読解ができそうです。
「全ての存在は神から仲介者なしに、直接受け取っている」とエックハルトはいいます。
このあたりから、もう今すぐにでも後期ハイデガーのそれと連関させたい気分ですが
今は少しはやる気持ちを押さえるとしましょうかw

とはいえどもこれより記す部分は、それに連関する場所でしょうが、、
これは私が好意的な目で見ているだけなのかもしれませんが、エックハルトにおいては
例えばデカルト以降の(それ以前の、ともいえるでしょう)
”まず主観ありき”的な現存在理解とは異なる感をえれるからです。
伝統的な形而上学をハイデガーは存在神論(onto-theo-logie)と見なします。
ですが、エックハルトの主張する「存在者」としての神は
はたして後期ハイデガーにおける「存在者」と同義なのでしょうか?

むしろそうではなく、「臨在するものの臨在」(das Anwesen des Anwesenden)
として読み取れるのではないでしょうか。
また、エックハルトの感じる神性の無、というものも、単純な虚無などではなく
無ー存在者(das Nicht-Seinde)なのではないでしょうか。

少し急ぎすぎた感もありますが、こういった視点でこの夏は
今一度、いえ、以前からこの視点だったのでしょう、そしてもう少し読解を重ね、
エックハルト理解と私自身の神理解を深めていきたいと思います
135Aurelius:02/08/25 22:00
何故だか北の果てにてカトリックのシスターと黙想の日の機会が与えられました。
沈黙の火。黙想の日というものは今まで数度経験したことはあるのですが
まさかここにおいて黙想することになるとは夢にも思いませんでしたw
少しばかりエックハルトについておたずねしたところ
新しい刺激を受けることができましたので、もう一度テクストを読みなおす日々です。

・・・しかし、漏れもその人みたいに砂漠に入って修行せなならんのか。。。w
136Aurelius:02/08/25 22:08
沈黙の日や・・・
燃えてどうすんねん。。。まぁ確かに穏やかに燃えるようなもんやけどw
コンタクトはずすとダメダメです
137シャヘル ◆JXIc03eQ :02/09/02 00:49
おお、この様なスレが。
Aureliusさん、エックハルト教えてくれてどうもありがとうです。
ここもじっくり読まさせてもらいます。

ちゅうか・・・こっち来られてたんすか。涼しいでしょ。
138Aurelius ◆ESSE.EOM :02/09/05 04:50
お久しぶりです
やっと関西に戻りました
暑いです。アホみたいに暑いです、こっち。。。

この間は存在ウンヌンの箇所だったのですが、、
エックハルトもご多分に漏れず、
存在者というものは、神から仲介者なしに直接、存在を受け取っている、
と語っています。
ここらへんはやれ、本質的形相がどうだの、の範囲に入っていくワケですw

○魂は全体としてまた直接的に魂ある身体の中にあり
 形相と呼ばれるべきものをこの身体に与えている。
 しかもいかなる仲介もなしに
 存在は全体の存在であり、全体として一である

○形相の「浸透」は直接的であり、全体的である。
 ここでいわれる形相は、最内奥までを形成しているのである。
 そしてこのことは、特にまだ何よりもまず存在に妥当する。
 存在は形相の、各々の形相の現実性である。

(続きます)
139Aurelius ◆ESSE.EOM :02/09/05 04:50
さて、スピノザの『エチカ』より少し引用しましょう
エチカ、第5部、定理29(岩波の、です。畠中尚志訳)
「精神は永遠の相のもとに認識するすべてのものを、
身体の現在の現実的存在を考えることによって認識するのではなく、
身体の本質を永遠の相のもとに考えることによって認識する」

そしてノーマン・O・ブラウンは
「神秘主義的伝統では我々はヒトツの身体の成員であり、
願望あるいは無想は現実と取り違えられてしまう。
スピノザは、神秘主義的身体を脱神秘化することにより、
表象から伝達、共同体、交感、コミュニズムといった観念を引き継ぎ、
それらを合理的な目標に変形する。
つまり、ヒトツの身体になることが社会行動の目標になるのだ」
と、述べます。

(まだ続きます)
140Kurihara:02/09/05 05:01
>>139
人類補完計画そのままですね、
その「ヒトツの身体」というのは。
はっきり言ってキモチワルイです。
141Aurelius ◆ESSE.EOM :02/09/05 05:16
>願望あるいは夢想は現実と取り違えられてしまう
誤字でした、、まぁ気を取りなおしていきましょう。

願望、あるいは夢想、というものは、しかし現実のためには必要なものではないでしょうか?
私自身は宗教性、というものを倫理、道徳以前のものとして置いています。
人間は存在を、他者を感じ、恐れつつも前を見て前にもいる他者に近づこうとします。
人間の本来性とは「関係」というものにもある、ということもできるでしょう。
人間は当初より、社会的なもの(というより他者)に対する欲求をアプリオリに持っているものです。
そのコナトゥスは倫理をつくろうと思ってつくるのではありません。
ヘンな表現ですが、それこそ自然発生的に第一の倫理は
人間によって(しかしそれは宗教性によって)作られたのでしょうか。

しかし問題は現在における倫理、道徳です。
(続きま、、、しょうw)
142考える名無しさん:02/09/05 05:24
良スレにつき、住み着きたいと思います。
143Aurelius ◆ESSE.EOM :02/09/05 05:28
>>140
と、いうよりも、庵野は用語をそれとなくパラパラと使い
しかも「余り深く考えずにあえてエサ撒きのために使う」という確信犯だから
ヲタ受けするアニメが作れるだけなのですw
要するに、ありゃ演出ですw
とまぁ、アニメ論はいいとして、、、

場の力、というものを(少なくとも異なる文化形態における共通性を)
捉え様という動きの中で、我々の頭上にあるものを指す試みも多々ありました。
デュルケムに始まり、それはバタイユ、カイヨワでも見うけられるものです。
場の力、構造における力、聖なるもの、というものはかつては原始的な宗教祭儀にありました。
また、神政というものがある種の民主性ということも事実の一つです。
その神政においては権力が差し出される、という形が
(ルソーやらホッブズを紐解くまでもなく、それは現在の社会もですが、
果たして我々は差し出すだけのものを持っているのでしょうか?)
民主性へと変化していったことは歴史が語ることの一つでしょう。
問題は、その変化の過程で聖なるもの、が戦争に変わったところにあるのです。
(もちょいと続きましょうw)
144Aurelius ◆ESSE.EOM :02/09/05 05:32
現在の、というよりも最初に人間社会ができた瞬間からの、ことなのですが
もはや世界、という入物の外枠は実在化したシミュラクル(理性的国家)に過ぎません。
結局は(宗教性という、表層にあるロゴスだけではなく、
人間の無意識的本質かつ”自然”な生、を微々にしか感じられないため、
あるいは無視をしてしまうために)
実在的シミュラクルの視点からのみの倫理、道徳しか築けないのではないでしょうか。

(まだ続くんですヨ、、、w
いや、ちゃんと勉強してない人間なんでいい加減ですし、
論理の途中を全部書くの面倒なんではしょってカキコしてますしw)
145考える名無しさん:02/09/05 05:33
Aurelius 様
割り込み失礼します。
Wandering Joy: Meister Eckhart's Mystical Philosophy
by Reiner Schurmann
Lindisfarne Books; ISBN: 0970109717; (March 15, 2001)
最近再刊されたこの本知っていらっしゃいますか?
英語圏のエックハルト関連本のなかでも秀逸の名著だと思います。
amazon.com で検索すると目次やらいろいろ見れますので
ご参考までに。
146Aurelius ◆ESSE.EOM :02/09/05 05:45
そうです、人間は真にロゴス中心主義的にはなれません。
宗教的”道徳性と宗教がそこで”仕方なしに再び”要請されるのですが、
外枠はもはや”大衆化されたプラトニズム”の神ではなく、
実在的シミュラクルの”理性的国家”という”目標”をも踏まえた
いわば従来の言葉による「理性と宗教」の神でなくてはならないのではないでしょうか。

しかし我々はとても弱いものです。
現在の世界(戦争、聖なるもの)に一見従順に見えるのは
権力を自発的に差し出しているためではなく、
ネクロフィリア的にその場へと進んでいるためによります。
そして日常生活という名の仮初に逃亡するに至るのです。

(久々に戻ってカキコなのでマジで長文です。。。)
147Kurihara:02/09/05 05:49
>>143
「エサ撒き」というのは確信犯というより
照れ隠しでしょう。庵野さんは大変な勉強家で
知識をひけらかせるだけの努力はしているの
ですが、その知識のひけらかしをそのままひけらかし
だと言うと知的でないアニヲタのみなさんへの
皮肉になるので、ギャグとしてやっただけとけむに巻いた
のだと思いますよ。ここには知的前衛と無知な大衆
というおなじみの対立図式の一つの転形があると思います。
知的前衛の一人である僕としてはそう考えざるを得ませんね。
148Aurelius ◆ESSE.EOM :02/09/05 05:51
>>142
エックハルトはとってもいいですヨw
神秘主義ってきいたらとってもウサンクサイですけど(藁

>>145
いえ、知りませんでした。ありがとうございます。
なにせ独学、というかまだ学部生で適当にやってるだけですので
そういった情報は本当にありがたいです。
私自身が本当にちゃんとエックハルトを読めているのか、という恐れもありますしw

ただ言葉というものはーそれが言語であるにも関わらずー
エックハルトの言葉は理性の範疇外のものへと私達を導いてくれるような気がします。
149考える名無しさん:02/09/05 05:57
>>147
そうなんだー!へー!.。oO(ッテ マジコイツウゼー)
150Aurelius ◆ESSE.EOM :02/09/05 06:01
(続きです)
ではそういった現代の構図に対し、理想的、と思えるのはどういったものでしょうか。
いえ、理想的、ではなく、本来的、といったほうがいいかもしれません。
しかしそれがこの世界において成就される、だなんてことまで私は思いません。
そういった意味でスピノザを現代に復活させた人々の考え方には
途中までは同意なのですが、そこにそんなに明るい絵は見ていません。
宗教的な言い方なので哲板でいうのもアレなんですが
(もっとも、私は神とやらを信じてはいませんw まだ感じているだけです)
本来的な世界というものは、やはり現世においてはありえないのでしょう。
(などといいつつ死後の世界なんて信じてませんw 期待、妄想のレベルですw)

ともかくも、そういった現在の世界の構造において、
なのに私達はここにおいて初めて、一瞬だけでまた構造に埋没するのですが
個というものを自覚できる時代にあるのではないでしょうか。

この逃げ場のないグローバル化した社会、”帝国”に我々は生きています。
”帝国”の打破は各個人における宗教性の自覚をおいて他ならないのでしょう
(なんか学生運動みたいだな、鬱。藁)
(次あたりでそろそろマトメますw)
151Kurihara:02/09/05 06:03
>>149
アニヲタの方ですか?
なら即刻このスレから出ていって下さい。
あずまんが大王スレがあなたのことを
待っていますのでね。
152Aurelius ◆ESSE.EOM :02/09/05 06:06
人間の本来性ー理性中心主義ではひずみが生まれるのは仕方ありません。
実在的シミュラクルと”自覚”した理性の塔が、偶像が、しかし必要なのです。

人間の本来性が「関係」においてあることは共感してもらえると思えます。。
その「関係」を我々は理性においてではなく「感じる」ことができるのです。
(逆にいえば、真の意味で「感じる」ことによってでしか捉えられない)
故に、あたかもキルケゴールのいう諸段階(階段状のもの、とは正確には異なりますが)
を逆に宗教的段階より、”もう一度始める”その階段を降りることにより、
社会、道徳、倫理が再結晶化されるのは理性によるものではなく、
人間の”必然性””本来性”によって行うことができるのではないでしょうか。
(最後にもうヒトマトメしましょう)
153考える名無しさん:02/09/05 06:07
>>151
ほんとうにごめんなさい.。oO(アニヲタオマエダロ,マジキモ)
154Kurihara:02/09/05 06:11
僕はアニヲタではありません。
あずまんが大王スレの削除依頼を
ついさっき出して来たばかりなの
ですからね。
155Aurelius ◆ESSE.EOM :02/09/05 06:14
宗教というものはもっと原理的な、人間が互いの”関係”、あるいは”神”を感じることによって
(神政は最初の民主制でした)”自然”に生成されたものなのです。
故に、私達は肥大化した文明における諸問題を
その文明の基盤となってしまったロゴス中心主義より
”人為的・理性的かつネクロフィリア的”に創り出された法(ロウ)
(それは特定の社会において、文化でしか通用しないことは明白です)や
”倫理”と名のつく”偶像”において解決の糸口を見つけ出すのではありません。
内奥からの慟哭を感じ、目覚めさせることによって解決を計るべきなのではないでしょうか。
もっともそれもまた理性という名の偶像に犯されることもやむをえないものです。
しかし常に内奥からの慟哭を感じつづけ、理性的倫理的世界、
かつその要求というものが、すでに矛盾をはらんだものであることを自覚しなくてはなりません。
故に、宗教性というものが、自然として求められるのです。

(こういったことをこういった風に言う、ということ自体が
論理矛盾になっているのですw)
しかし、この論理矛盾を内包しつつも超えた(超えようとした)ところに
ーあたかも詩的言語が内部と外部との間にあるようにー
エックハルトの言葉は私達に語りかけてくれるような気がするのです。
ですから、私はこれからもエックハルトを読みつづけていきたいと思います。
156Aurelius ◆ESSE.EOM :02/09/05 06:16
むぅ、、、多少眠い中でカキコなので
ちょい見なおしたらアレな部分が多すぎる。。。藁
勉強しなおしてきましょう。。。。
157Aurelius ◆ESSE.EOM :02/09/08 14:59
何を思ったか宗教板を覗いてみますた
・・・なんだ、ありゃ、ほとんどデンパじゃねぇか。。。w
いや、きっと漏れもこのスレも一種のデンパなのかなぁ。。。w
158Aurelius ◆ESSE.EOM :02/09/17 04:53
お久しぶりです。
そういえば、存在云々のところから話がずれましたねw

存在、のことですが、エックハルトは存在的、と存在論的、な区別についても
語っていました。
そして、全ての存在は神から、仲介者なしに直接存在を受け取っている、と述べます。
(続けます。アサゴハン食べてからw)
159考える名無しさん:02/09/17 05:27
ヴェルテの本を翻訳した大津留氏は、毎年K西学院で集中講義
やってるだろ。今年もある(あった?)んじゃないのかな。
何度か講義に出たことがあるけど、話の内容は結構面白かったぞ。
身体が悪いので、講義の時間が変則的だったのは少し困ったけど。
160Aurelius ◆ESSE.EOM :02/09/17 05:35
>>159
やってますね
たしか経済と絡めてどーこーじゃなかったですか?<去年あたり
今年はエックハルトについてはなかったような気がします。
161考える名無しさん:02/09/17 10:18
162Aurelius ◆ZEESSE.EOM :02/10/18 03:27
お久しぶりです
そういえばエックハルトの研究書の一つで
Richard Woods の
Eckhart's Wayを手に入れました。

まだ読んでいる最中なのですが、なかなかおもしろげな本です。
とりあえず読み終わったら要旨だけでもちょこちょことカキコしていきたいですねぇ。。
163考える名無しさん:02/11/06 06:17
講談社学術文庫のやつを古本屋でみつけたけど買うべき?
164Aurelius ◆ZEESSE.EOM :02/11/15 12:45
>>163
まぁ、興味があれば買っても損はないと思われます
165Aurelius ◆ZEESSE.EOM :02/11/15 12:46
学術文庫の、というと神の慰めの書、ですか?
それとも上田閑照のエックハルト、ですかねぇ
166正受老人:02/11/17 06:02
Aureliusさん。エックハルトは、悟りを開いたのか?
167考える名無しさん:02/11/17 12:39
エックハルトはラテン語ですか?
 ここは料スレっすね
168Aurelius ◆ZEESSE.EOM :02/11/19 01:37
>>166
悟りというものをどのように規定するかによります。
私としては殺仏殺祖という概念で悟りがいえる、という立場にあるのですが・・・
しかし人間が日々、生活を送る中で仏教的悟りのままの生活ができるか、
と問われれば、疑問符をつけなければならないでしょう。

これは私見なのですが、二元論を突破した彼方こそがキリスト教のもつ本来的宗教性である、と思います
そしてそれは実存者が実存の二重性を持つがために(このへんはレヴィナスチックですがw)
その宗教性の持続というものは、限りなく不可能に近いともいえます。
私達はその宗教性を感じる度に、そしてそれは二元論の裂け目のこちらへ回帰する度に、
二元論の突破をー論理矛盾なのですが対象として捉えなおし「祈る」ことしかできません。
だがその祈りですらアポリアを含んでいます。
故に日常における本当の祈り、生活が必要とされる、と私は理解しています。
そのレベルの生活を、エックハルトは実践していたのではないでしょうか?

>>167
彼はラテン語とドイツ語でテクストを残しています。
というのは、ドイツ語による説教は民衆のため。
ラテン語によるテクストはアカデミックな場のため、だからです。
169考える名無しさん:02/11/19 02:43
このスレスゲー好き

マターリ度がちょうどいい
本棚に眠ってる岩波文庫の説教集でも読んでみよう
170考える名無しさん:02/11/19 03:22
Aurelius さんのお奨めの聖書はどこの出版ですか?
がルバリって人の翻訳っていいんですか?
あと岩波文庫訳とか
171Aurelius ◆ZEESSE.EOM :02/11/19 03:49
友人が遊びに来てまして、今、ハミガキしながらこのスレを覗いているところです。
そろそろ寝なきゃやヴぁいので寝ることにしますが、、、w

>>169
どんな本でも久しぶりにページを開くと新たな感動があるものです
是非どうぞw

>>170
ガルバリ、、?ちょいと知りませんが、、
んー、まぁ、いえることは新共同訳も口語訳も訳としてはカンペキではないってことですね
まぁ、聖書なんて95%ぐらいがイエスの直接の言葉ではありませんしw
あ、最近の研究ではそれくらいっていう数値なだけなんですがね
岩波訳はそれなりにおすすめできますけどねぇ、、、
英語がある程度いけるのでしたら、RSVをおすすめします。
しかし値段的なことを考えますと、普通の新共同訳の聖書が
一番リーズブナルでしょうw
172考える名無しさん:02/11/19 12:09
聖書―旧約・新約  フェデリコ・バルバロ (翻訳)

価格:¥6,600 出版社: 講談社
レビュー
出版社/著者からの内容紹介
わが国ではじめての理解を深めるイラスト・地図つき旧約・新約聖書 イラスト530図、歴史地図142図

・愛の知恵をもってこの労作にあたり、聖書への活躍をいわば集大成したバルバロ神父
 に対する賞賛を惜しまない――駐日バチカン大使マリオ・ピオ・ガスパリ
・バルバロさんの人柄のような、人間的で面白い聖書――黒沢明
・教会が大切にしてきた伝統的な解釈を基礎に、平明で気品あるこの聖書が家庭で、書
 斎で、居間で、心から親しまれることを望む――浜尾実
・バルバロさんの聖書は言葉も洗練されていて読みやすく、解説が十分にゆきとどいて
 いるので、はじめて聖書を読む人にも親切な手引き書となっている――田中澄江
〈訳者序文より〉
聖書をひらく時には、「創世の書」からではなくて、「私を信じるものは死してなお生きる」
というキリストのみことばから読みはじめてもらいたい。
翻訳の仕事はたいそう困難をともなう。「神の奥義、宇宙、人間の存在、苦痛と死の奥義」
にふれる場合は、1つのことばを他のことばにかえるということだけではなく、ある沈黙、人間のある叫び、祈り、すすり泣きさえも他のことばに変えねばならない。……

著者紹介
1913、イタリア・ベネチア生まれ。1934、ローマ・グレゴリアン大哲学科卒。
1935、宣教師として来日。1947、聖書翻訳に着手。1961、イタリア騎士勲章受賞。
1965、文部省より文化功労感謝状拝受。1970、『キリスト伝』で日本翻訳文化賞受賞。
1996.2.29、イタリアで死去。著書80冊余。

ガルバリじゃなくてバルバロでした。すんません。なんかレビュー読むとよさげ
なので気になってたので聞いてみたかったのです。
173考える名無しさん:02/12/03 21:13
老子や禅をやってるものです。最近やっとエックハルトを知りました。なんかあったら書きます。
…って、レスとまってる?
174Aurelius:02/12/03 23:33
メインPCのモニターがおなくなりになったので
友人のノートをかりてカキコです
というかトリップはメインPCのHDDにあるのです、、、w

>>173
イェア!
そういえば、エックハルトとレヴィナスの他者論について書こうかなぁ
とか無茶なこと思ってるのですが、、、
はたして書けるのでしょうか、、、w
175Aurelius:02/12/03 23:37
>>172
ちょいと知ってるヒトにそれ、よいのかどうなのか聞いてみることにします

バルバロときいて「ヴァルヴァロだぞォッ!」というガンネタを、、略
176考える名無しさん:02/12/04 00:37
エックハルトよりもエッカートの方が響きがいいと思うんだけど、どう?
177考える名無しさん:02/12/10 06:00
保全age
178考える名無しさん:02/12/10 06:00
所詮神秘主義
179Aurelius:02/12/10 06:12
>>178
じゃあ、ハイデガーもダメってことですね(藁

つか、寝ます。。
180興味本位:02/12/11 20:26
興味本位の質問です。
ローゼンベルグ「20世紀の神話」にエックハルトがいっぱい出てくるようです。
(怠惰にも読んでないのです。すんません。)
ただ興味はあります。
ローゼンベルグのエックハルト理解について何かご存知でしょうか?
ミーハーな質問ですが、どうぞよろしくお願いします。
181新刊情報:02/12/12 21:01
シンガク コウヨウ
神学綱要

ニコラウス・クザーヌス著
大出哲(おおいで・さとし)訳 野沢建彦(のざわ・たてひこ)訳 
国文社

本体3500円  20cm 227 49p (アウロラ叢書 )
4-7720-0497-1 / 2002.11 対象:学術
182考える名無しさん:02/12/12 23:43
上田アンド田島sage
183173:02/12/30 16:43
保守
184Aurelius:02/12/31 01:35
お久しぶりです、大晦日ですね。
今やっと帰宅です。

>>180
ああ、それでしたら1975の現代思想の8・9月号をご覧になったらどうでしょうか
『デカルトと現代』っていうサブタイトルなんですけど
その中に「ヴァイマール期の反近代思考」 清水多吉
という論文があります。
で、それでローゼンベルグのエックハルト理解について少し触れられていました。
どうやらローゼンベルグの芸術論の原論にすぎないのではないか
というふうにそれには記されていましたが。。。
直接ローゼンベルグの著作を読んだわけではないのであれですがw
185panta:02/12/31 01:37
ageというのがあったけど消えた。私はpanta、厚い文の中に居る。
解ったですか?
186興味本位:02/12/31 10:11
>184
ローゼンベルグについてのレスありがとうございます。
素人の興味本位の質問につきあっていただいてすいません。
参考にさせていただきます。

素人考えですが、旧秩序の破壊を志向する者が、神秘主義に惹かれるというのは割合あるのではないでしょうか?
ウエーバーの「プロ倫」の中でも、旧秩序の破壊者である「資本主義の精神」の源として、ルターからドイツ神秘主義にさかのぼっています。

素人の雑感ですが。。。。


187考える名無しさん:03/01/10 10:46
>>186
ヴェーバーは間違っていたがな
188山崎渉:03/01/18 09:43
(^^)
189Aurelius:03/01/23 00:58
>>188
んー、それは神秘主義のどゆ側面に、でしょうか。
ん、ウェーバーのあれは神秘主義以来の内面重視と
それからのプロテスタント(ピューリタン、でいいかw)から
見られる外的なもの、たとえば道徳云々の比較であって
そこから資本主義の精神が〜っていうヤツですよね。

ええと、ご質問の意図としては旧秩序の破壊を志向した者=ルター
であって、彼が神秘主義にひかれていたので、、ということでしょうか?
まぁ厳密な意味でルターが旧秩序の破壊をどれだけ本気に志向していたのか
というのは断言することができませんが、、それはともかく置いておいてw
ルターの場合、神秘主義に惹かれていた、というのは時間系列的に
考えてみても(この言い方好きじゃないんですけどねw)自明かと思われます。

そういった統一志向を持ったプロテスタントのそれは
(カトリックにももちろんあるんですけど)ウェーバーに従うとすると
資本主義云々にも見うけられる側面だとは思います。
即ち<統一>とは(一者との、といったほうがいいかもしれません)
とても「暴力的」なものである、ということです。
ここらへんの統一&暴力的はレヴィナスなんかも指摘するところで
その通りだと思います。
これはカトリック的な(中世的な社会)から資本主義的な社会へ
以降してもなんら変わることはないものですから。
そこらへんはフーコーまじえて考えたら面白いかもしれませんね。
狂気の歴史、とかw

ともかく、問題は人間、なわけなんです(続く、、つもりですw
190Aurelius:03/01/23 01:06
で、ここでいう神秘主義、エックハルトにおける神秘主義というものは
<一者>に対する<統一>でハァハァ
っていうプロティノス以来の、ハイデガーの存在素敵* でもいいですかw
そういったものとはまた少し違うわけです。
同時にレヴィナスなんかがいうような存在コワイ超ヤバイ
という意味だけでもありません。両者のいいとこどり、みたいなものだ、
と私は感じています<エックハルトの神秘主義

なにせ、これは統一だけでなく、生活についても触れるものなのですから。
そういった意味で禅仏教に対して、アドバンテージがあるんじゃないか
と思っています。
これはシュライエルマッハーの宇宙の直観云々に繋がる、と踏んでいます
(ヘーゲル?ヘーゲルなんて…と九鬼も言ってましたねw)
あ、でもそれはベルクソンの哲学的直観みたいな楽天的なもんでもありません

んー、個人的にはデリダとかの批判に耐え得ることができるもの、
本質的にはポストモダンな思想とあんまかわらないんじゃないかなぁ、、
と思いつつ、エックハルトを読んでいる日々なんですが・・・w

今日も長文でかつ駄文になってしまいました。。。
とりあえず、もう少し勉強してきまつ、、、
191考える名無しさん:03/01/24 17:00
ドイツ語説教集を読んでいて思ったけど、
離脱しつつ日常生活を送るのってイメージわかないな?
192Aurelius:03/01/25 01:08
完全に離脱しながら生活を送る、ということは実際問題、できないと思います。
というのは、仮に離脱ができたとしても(宗教的経験・体験、と言いかえましょうかw)
しかしながらそれを感じ取った瞬間ー直観といったほうがいいかもしれません

この直観は知覚(Wahrnehmen)と狭義の思惟(Denken)との作用の
完全な平衡状態としての直観(Anschauen)と考えて下さい。
ですが、そういった直観をしたとしても、瞬間、我々は
有機的作用が勝っている場合には知覚、知的作用が勝っている場合は
狭義の思惟にある、と思います(これはschleiermacherの考え方ですね)。
schleiermacherなどはその瞬間にのみ、永遠がある、といいました。
(続きましょうw)
193Aurelius:03/01/25 01:24
で、そんな永遠の状態、絶対者とともにある状態にずーっといれるか?
といったら、いれるかゴルァ!っていうもんなんですよね、現実って。

じゃあ、離脱しつつ(ホントに離脱しつつ生活はあれだけれどw)
生活するってどゆことなんでしょうか?
それは「祈る」あるいは「祈り」だと思います。
祈りがそのまま本当の(本当ってコトバもキライですけどw)生活となるわけです。

ま、ここらへんのことは >>168 で少し触れたと思うので
そちらをご覧下さいw

このへんについてはそれなりに書いたことがあったのですが、
そのテクストが別のPCに入っていまして、、
しかもそっちのモニターが死亡してしまったので、今、とりだせないんですw
(まだ友人に借りたノート使ってるのでw)
ですので、至らない説明ですが、上述したそれで納得していただけたら幸いです
194191:03/01/25 05:17
ありがとうございます。
なんとなく分かったような気がしますw
もう少し説教集を読み込んで、考えていきたいと思います。
195173:03/01/26 05:13
>>194
『絶対無と神』南山宗教文化研究所/編 春秋社
古い本だからあれだけど、読みやすいしいいと思います。
196Aurelius ◆ZEESSE.EOM :03/02/05 23:35
お久しぶりです。
やっとメインPC、というかモニタが入ったのでトリップつきでカキコできます
いや、ベツにトリップなんざどうでもいいんですけどねw

そういえば、その”祈り”のアポリアー人間の有限性故のーについでですが
『神の慰めの書』相原信作訳 講談社学術文庫
の中の様々な箇所でエックハルトは触れていますので
よろしければ、是非w

というか、論文終わるのかなぁ、、、俺。。。
197Aurelius ◆ZEESSE.EOM :03/02/05 23:36
ああっ?!
トリップにZがついてるw
気がつかないうちにトリップ、ヒトケタ多くなってたんですね、、w
198考える名無しさん:03/02/13 22:54
すげぇw Aureliusって何者?
しかし、自分の存在が神が神である原因というのは、自分にとっての神でしかないのでは。
199Aurelius ◆ZEESSE.EOM :03/02/14 01:32
>>198
ただの一介の学部生ですよ。
ん、質問の意図、なんとなくわかるんですけど
ちと日本語として通じにくいんですが、、、w
200考える名無しさん:03/02/14 01:50
>じゃあ、離脱しつつ(ホントに離脱しつつ生活はあれだけれどw)
>生活するってどゆことなんでしょうか?

クリシュナムルティやグルジェフを読んでみなよ。
少しは理解できるかもしれないから。
201考える名無しさん
おい、山崎! この良スレも上げとけよ。