178さんは私を正確に理解してくれています。
>>181 最初から指摘しています。
何度も。
「絶え間ない自己批判のトートロジー」
l氏を正確に理解している178氏の文章
>>178
きょえい-しん 【虚栄心】
みえを張りたがる気持ち。「―を満足させる」
>>187 だから、哲学のどういった点を指してそれを言っているの?
あなたの発言には、(あなたなりの)結論があるだけで、論証が一切無い。
さらに言えば、それぞれの結論が、この場合の対象である「哲学」の
どういった点を指しているのかまったく説明していない。
192 :
考える名無しさん:02/03/18 00:12
扱っているのが意味のある問題になってしまうと
今の哲学という学問から外に出てしまうのが哲学の問題点。
常に学問のアウトロー。
哲学史のおさらいになっちゃうけど、
アリストテレスはこのあたり明確に意識して
哲学の位置付けをかたってますよね。
つまり、「メタフィジック」=形而上学と
哲学的思考の位相を明確に定義してる。
形而上学っていうのは、自分自身を含む世界を
基礎付けようと、世界観の枠組みを提出する
好意とされている。つまり、定義からして
形而上学=哲学ってのは自己循環的な問いであり、
具体的に世界を分析する思考=「物理学」=フィジックス
が結果的に「学問」に収束するようには、その思考の位相が
前提されてないわけですよ。つまり、科学的に実証もできなければ
数学のように演繹的思考で導かれる体系でもない。
にもかかわらず、そういう特異な問い=世界のあり方への問い
を発せざるをえないものとして、人間の思考の営みが考えられてる
わけですよね。アリストテレスの問いを復活させたハイデガーの
「存在者の存在性」っていう発想もそうだし。
そうたい-てき さう― 【相対的】
(形動)他との関係・比較の上で成り立っているさま。⇔絶対的「―な見方」「物価上昇は―に収入減をもたらす」
ぜったい-てき 【絶対的】
(形動)物事が絶対であるさま。何物にも制限されないさま。⇔相対的「―な権力」「―な優位に立つ」
195 :
考える名無しさん:02/03/18 22:14
よくわからんけどハイデガーとかが言ってる「存在そのものに対する驚き」とかって
俺たちが「自分が何かを考えてる」ことに対する驚きってことなん?
>1 が自己循環性を指摘しているとは思えないが。
指摘しているというより、他人にしているはずの発言が
実は誰よりも1氏自身にあてはまるという点で、
1氏は自己循環そのものの発言を繰り返している。
そして結局みんなその循環に巻き込まれてきた。
・・・・・・。
哲学は新たな自明性(暗黙の世界観・形而上学から帰結する
世界へのパースペクティブ)を引き出すように議論がなされる
べきだ。ホワイトヘッドはこのような趣旨のことをいっています。
彼にとっても「哲学」とは、形而上学そのものにほかなりませんでした。
詩人とおなじ地平で世界についてかたらねばならないともいっています。
但し、ロジカルに。それを彼は「観念の冒険」と呼ぶわけです。
結局人間って相対的にしか物事を見れないんだから、
もっと相対化しようぜ。
199 :
考える名無しさん:02/03/18 22:36
絶対的
相対論
絶対的相対的論
>198
まだおわかりでないようですが、
相対性におちてゆかざるをえない機制をはらみながら
にもかかわらず、絶対性を希求しつづけていくなかでしか
問いの権利を確保できない思考=哲学。
はじめから潜在性や絶対性を否定するなら、その時点で
哲学は不要ということです。
202 :
考える名無しさん:02/03/18 22:46
>>193 >科学的に実証もできなければ数学のように演繹的思考で導かれる体系でもない。
つまりぱーふぇくとなわけですね。論理性が潜り込む余地が無いという意味で。
それはそれで1つの美ですね。
203 :
考える名無しさん:02/03/18 22:48
>論理性が潜り込む余地が無い
そうなんですか? 論理で切り分けられる保証がないものと
解釈していたんだけれど。
哲学では主観と客観、相対と絶対という区別はあんまり意味ないと思うんだよね。
おそらく概念を固定化して道具のように対象として扱うことによって可能になるんだと思う。
>>203 あなたの思考のベクトルが空しさの方角を向いているだけかと。
>>201 そうか。難しいね。僕わ学が無いからわからんですな。
がんばります。
>202
あるいみそうでしょうね。但し、体系自身の整合性自体には
当然論理性や合理性は要求されるわけですけどね。
でも本質的には詩人と同じコトバといっていいとおもいます。
じゃあ何が数学等の演繹的思考と違うかっていうと(以下私見ですが)
形而上学といえども、それを語るにはロジカルに、つまり論理学
を援用する部分もあるわけです。
数学や論理学と同様に前提(公理)から個々のテーゼが
導出されるように形而上学体系が語られる場合場合も当然あるの
でしょうが、ただ、一点他の学問とちがうのは諸学が暗黙に前提に
する形而上学を明示的に語り、新たな前提を意識的にかつ自明性を
引き出しつつもうける試み、ていう点でしょう。
端的に例をだすと、主客二元論もひとつの形而上学で、それに
かわりうる世界のありかたを提示するってのが、20世紀初頭から
のモチーフになってますよね。そうした枠組みは演繹的に導出される
わけでもないですよね。新しい枠組みをガバッと語るってかたちに
なる。体系内のディティールに関しては、その枠組みが前提にする
基本的前提(公理)からの導出になり、体系内の整合性・合理性の
確保は論理学にのっとりおこなわれるってかんじでしょうか。
でも、基本的前提の提出は、まさに詩的なわけです。
>>208 難しいですね。でも個性的なモデルを提唱する自由度は大きそうでそうした中で1さんのいう「堕落」を待ち受ける罠があるのかな。
178さんはいいところまで考えています。
でも、肝心な点を忘れています。
それは、あなたが言っていることをあなた自身に適用すること。
つまりあなたはまだ、自分だけが高見から見下ろす地点、
相対化の地点に立っています。
あくまで、その地点に立ち続けるというのなら、
それは体系を主張する必要があると思うし、
「血」も必要だと思う。
「血」があるかないな、それがファシストになるか、人の心をうつかの
違いだと思うけれど。
私が勝手に178さんを相対化したことで、
怒り出すのなら、178さんは自分の言っていることを
信じていないわけです。
その矛盾。
私はそこからスタートしたのだけど、いきなり高見から始め
すぎたようですね。
私は論理の破綻していない、哲学者はあまり信用ができないのです。
「真理であることがなぜ真理なのか?」
この問いには大きな意味があると思います。
これはニヒリズムでしょうか。
しかし、肝心な点、ニヒリズムも実は、選択であるということ。
破綻した主張。すべての主張が必ず破綻する運命だとして。
人間は相対化しないと自分を認識できないらしい
結局、みんな好き勝手に考えているだけ。
そしてこれは、まさに現実そのもの。
私は常識を知るために遠回りしたけど、
「思想に優劣などない。」という事実を今は体感しています。
つまり、もし哲学をやって、
「何かを主張する」などという人がいたら、それだけで
「虚栄心」と断罪しても構わないわけです。
なぜなら、「内容」になどなんの意味がないから。
私の言う「虚栄心」とはこういう意味なのです。
つまり、思想には何の優劣もないというのに、
「難しく考える」ということをする人たち。
なぜ「難しいことが真理なのですか?」と聞きたいのです。
つまり、なぜそういう一定の方向(偏向)に向かって、進むのですか?
それにはそれなりの理由があると思います。
つまり、それが「虚栄心」。
哲学においては、人間においては、
どこかに向かおうとするだけで、それはもう
人間的なことなのです。
人間であることを超越しようとする哲学のもとめる真理においては、
それはくだらないこと。
ですから、
もし哲学が学問だというのなら、
その指針(公理)は何なのですか?
そしてまたもしそんな前提が最初からあるのなら、
それが「真理」ではないのですか?
哲学は何者でもないことを目指しているのに、そしてそれが
自己矛盾なのに、
勝手に「学問」などと名を付けている人は、
哲学とは何の関係もない人間だということはあまりに明白。
自己矛盾はそれで一つの体系。
>>216 何者でもないことを目指しているのは「何者でもないことを目指している哲学」じゃないですか?
この断定が確かに自己矛盾ですね。
哲学が自己矛盾なら、学問ではあり得ないという断定自体があり得ない。
哲学を他のと一緒にしたくないんだよ。1は。僕もそう。
他の学問とちがって「方法論自体を問題にしている」んだから差別して欲しいんだよ。
わかってくれよ。
哲学=虚栄心の水の上に咲く花、 違いますか?
222 :
考える名無しさん:02/03/19 00:41
つうか、哲学がどうだこうだいうなら、具体的な例を示しなさい。
憶測だけの「あなたが勝手に想像した哲学」についていくら批判を述べられても、
読んでるほうはつまらん。
>>218 はい、そうです。
>>219 ですから、思考の優劣はないと言っているように、
トートロジーの中から何かを選択するのは、自由でしょう。
>>220 むしろなぜ哲学をそんな枠にいれたがるのか、不思議ですね。
1さんのいわんとするところはわかるきがします。
別に私は自分の言葉を「高み」から流してるつもりは
ないいのだけど・・・
弁明するとすれば、相対化の海原のなかでどういうかたちであれ
絶対化を試みるっていう信仰にもにた決断をせざるをえない
悲哀はあるとおもうんです。そして、それがまたひとつの決断でしか
ないという相対化におちてゆく過程をながめつつ、またひとつの
立場を決断によって選び取ってゆく・・・
まさにシーシュポスにもにた刑罰に身をゆだね、そのしんどさに
たえ、かつ、楽しむところにしか、哲学する快楽はないのかなーっと。
自己分裂てきですよね、基本的に哲学っていう精神の運動性は。
真剣につきつめると反社会的にすらなりうる危険性をはらんで
いるとおもいますよ。本質的に。
学問ってのはどういう意味ですか
lさん。
教えて欲しいです。
がくもん 【学問】
(名)スル
(1)一定の原理によって説明し体系化した知識と、理論的に構成された研究方法などの全体をいう語。「―に志す」
(2)勉強をすること。知識を得るために学ぶこと。また、それによって得た知識。「―のある人」〔中世・近世には「学文」とも書かれた〕
この意味でいいですか?gooで調べたのですが。
226 :
統合幕僚会議議長:02/03/19 00:49
ジエイカンエライジエイカンエライジエイカンエライジエイカンエライ・・・。
選択が自由なら学問であるというのも真だろ?
枠ですか。
分かっていただけなかったようで残念です。
229 :
考える名無しさん:02/03/19 01:14
>>226 根の暗い事は止めた方がよろしいかと・・。そんな事ばかりやってるから「議長」になれないのでは。
このスレ終わっちゃったのかな?
むしろ、体系化された学問の方が学問じゃないって気がするんだよね。
例えば、高校で学ぶ数学や物理、これは学問じゃなくて科目。
その意味で哲学ほど、学問らしい学問もないんじゃないの。
231 :
考える名無しさん:02/04/11 22:12
終わりません。
ただ誰も私の話についてこれないだけ。
「学ぶ」って「まねる」が語源なんだよね?
いろんな人に触れて自分を創っていくことにつながるから、
ほんとの学問だよね、きっと。
>むしろ、体系化された学問の方が学問じゃないって気がするんだよね。
>例えば、高校で学ぶ数学や物理、これは学問じゃなくて科目
その意味で大学で学ぶ数学や物理ほど、学問らしい学問も(略)
哲学は学問、昔は学問は哲学のみ、早い時期に医学科学が離れていったけど最近まで心理学などは哲学だった。
そういう意味で哲学は離れて独り立っていないの学問の総体。
235 :
考える名無しさん:
age