哲学が学問には成り得ないなんてことは
「少しでも考えるということを知っている人間」なら実感として
知っているはず。
ここで問題になってくるのは、この「哲学」という言葉が
何を意味しているかということです。
哲学を大学の哲学科が専門としている形骸化した哲学研究だと
勘違いしている人間、ただ形式に流されているだけの人間は
哲学を学問と主張します。
(最低レベルの人間)
*この種の人間は哲学とは何の縁もない人間です。
哲学が「考えることを考えること」、「絶え間ない自己批判のトートロジー」
であることを知っている人間は、
哲学が学問になるはずがないことを知っています。
(中級レベルの人間)
この種の人間は、一見謙遜をしている風でありながら、
結局は哲学をするということの虚栄心から逃れられません。
哲学は目的にはなりえず、ただ結果として哲学的欲求がそこに
あるだけのことは心の底ではしっているが、それでは虚しいので、
趣味として、敢えて哲学を目的化し、結局虚栄心まみれになっている
人間。
(堕落した、質の悪い人間)
この種の人間は、堕落しています。
上級レベルの人間の意見がもしあるなら聞きたいです。
2 :
考える名無しさん:02/03/17 19:22
最低レベル、中級、上級って何?そういうことを考えることを考えてみたら?
>>2 対話をするためには、私も一定の立場を敢えてとらなければ
なりません。
「中級レベル」で終わらないためにも。
もちろんこの試みも必ず失敗におわるのでしょうが。
それが哲学の運命。
まあ確かに、「俺哲学してるんだ」っていうのはおかしいですね。
「俺哲学好きなんだ」とは言うけど。
>>4 そうですね。
「哲学をしている」ということは(厳密に言えば哲学という言葉自体)
哲学を目的化することであり、
そうなれば、哲学自信の性質として
「なぜあなたは、私は、哲学をするのか?」
という問い、批判が生じ、これは自己矛盾になります。
この辺の理解まで到達していない人間が、「哲学は学問」などと主張していますが、
この種の人間は、最初から哲学とは何の関係もない思考しかしていないので、
「哲学の泥沼」を感じることもなく、ただ形式にしたがって、自動的に
考えていくだけのようです。
(最低レベル)
次に
「哲学が好き」という言葉には、端的に言って「悲哀」を感じますが、
私はそれは堕落ではないかと思います。
人間として、哲学に興味をもってしまうということ、人生自体から
逃れようとすること、それは意気地のないことだと思います。
これは急に結論から言ってしまっているので、私の話は早急すぎるかも
しれませんが。
哲学とは、つまりすべてを理解しようとすること、
すべてを自分の足下に相対化しようとすること、
しかし、一番の本質、
自分自身すら相対化する。
相対化している自分自身を相対化するということ。
私はもっと単純に言ってしまってもいいのではないかと思います。
結局生きるのが嫌な人間、人生の舞台から逃れたい人間、そういう
欲求が哲学を生んでいます。
人間であることに満足できない人間という、矛盾を含んだ悲哀。
「哲学が好き」っていうのは哲学者と呼ばれる人々の著書なんかを
読むのが好きってことです。説明不足すみません。
>人間として、哲学に興味をもってしまうということ、人生自体から
逃れようとすること、それは意気地のないことだと思います。
どういう事ですね?まあ「哲学」って何だっていうスレで哲学って
言葉を連発するんだから混乱するのも当たり前か。
いつの間にか1と2の対話スレになってしまった。
ごめん、6読まずに書き込んだ。
観想的人生 と 実践的人生
ふたつの類型をたて前者を批判しているのですね。
あなたの試みも哲学論である限りは前者に属する。
哲学批判こそが哲学である。
そのようにして哲学は生き延びる。
それが「絶え間ない自己批判のトートロジー」という
中級レベルか?
哲学で哲学から逃れようとする試み自体が
ますます哲学から逃れられない原因となる。
しかし学問とは何か?
その点に関して1さんの立場が未だ不明確だ。
>>7 >「哲学が好き」っていうのは哲学者と呼ばれる人々の著書なんかを
>読むのが好きってことです。説明不足すみません。
もちろん私もそういう意味で受け取りました。
俺はもうちょっと哲学を広い意味でとらえてますけど。
例えば「ピーナッツ」のサリーの哲学「関係ないでしょ?」も哲学かなあ、
と思ったりしてます。
>>9 学問とは、私はただの形式に過ぎないと思います。
もしくは実践。
しかし哲学は目的にはなり得ません。
哲学は自己意識そのものから、この世のすべてを
相対化しようとする試みであり、そして必ず、自己矛盾になります。
>>11 私は哲学は「すべて」であり、またそのすべて自体をさらに
相対化しようとするために自己矛盾のトートロジーに陥るものだと
思います。
例えば、今のこの私の話も。
立ち止まることも、走り続けることも、できない(しない)人間、
「自分は何もしていない」と主張する人間、
それが哲学をするということ。
「自分は何もしていない」と大声で叫ぶ人間。
哀れだと思います。
哲学をしている人間は、人間であることに不満なのでしょうか。
>>13 うんうん、そう思う。
今頑張ってみたけど、定義づけようとすると矛盾が永遠に生じますね、
「哲学」って言葉は。
>哲学とは、つまりすべてを理解しようとすること、
>すべてを自分の足下に相対化しようとすること、
そうするとさ、結局どこにも居場所がなくなっちゃって
唯一の観測点たる「自分」にしがみついているしかなくなって
しまうと思うよ(現に私がそうだけど)。
で、
>自分自身すら相対化する。
>相対化している自分自身を相対化するということ。
ってことになるとさ、もう誰にも自分にも感情を
そそがないということになるけどそれは不可能だよね。
「自分自身さえ相対化する」というのは、
「他者(あるいは他者との関係)を相対化する」ことの延長にある、
「『他者によって相対化されうる自分』を超越したい」、
すなわち、他者に相対化されない絶対的なものでありたいということから
来るんだろうか。
自分が「哲学」書を読み始めたきっかけって
心に巣くった、どうしようもない空隙を
生めるための手段だったよ。最初は。
哲学なんて好きじゃない。今も昔も。
失ってしまったものを取り戻して、
油断すると立ってられないほど
鋭く差し込まれるような空隙が
ほんわかと埋まるのが、いちばんいい。
そうすれば、常に問いかけ続けなければならない状態、
つまり、トートロジーも雲散霧消するじゃない。
×生めるための手段だったよ。最初は。
○埋めるための手段だったよ。最初は。
>>15 はい、私もいつもそう感じています。
>>16 それが中級レベルと私が表現した
「絶え間ない自己批判のトートロジー」ですね。
>すなわち、他者に相対化されない絶対的なものでありたいということから
>来るんだろうか。
そうかもしれません。
「絶対に何ものにもなりたくない、絶対に相対化されたくない」
という欲求、けれど、実際は、そういう
「わがままを言っているだけの人間」になっているという、
情けない状況。
これが「哲学的欲求」の実相ではないでしょうか。
哲学は学問ではない。(1)
ここの学問にあんたの「学問はだたの形式に過ぎない」や
「学問は実践である」を使って、
哲学は形式ではない。(2)
哲学は実践ではない。(3)
としてみると、(2)(3)の主張はうなずける気もする。
しかし、「学問とは、私はただの形式に過ぎないと思います。
もしくは実践。」という規定はあまりにも広すぎて、そこに
学問ではないものも含まれてしまう。
いまいちど学問とは何か?
>哲学は自己意識そのものから、この世のすべてを
>相対化しようとする試みであり、そして必ず、自己矛盾になります。
ここからすると「学問は無矛盾な体系である」という主張が取りだせそうだが
「学問」には1さんはたいして興味をもっていないのだろう。
>>17 私は大事なことを忘れていた気がします。
ある種の人間には、「哲学が心のなぐさめ」だという事実。
哲学という言葉はなしにして、
哲学的に考える(こんな風に表現します)ことで、心が
慰めらる人間がいるということ。
しかし、それは虚栄心と紙一重。
22 :
考える名無しさん:02/03/17 20:10
哲学は「全て」ではないですよ。
全てといったのでは結局何もいっていないのと同じことです。
ハイデガーは「存在と時間」や「形而上学入門」で
存在を「限定」しています。
いろんな学問がありますよね。数学、化学、文学、心理学、歴史学、語学、、、
と。そういうのって全て「これはなんだ」「なぜここにあるのか」「どうやったら
みんなが幸せになれるのか」とかいう疑問から生まれてきたわけですよ。
その疑問の段階が哲学。と俺は思いますが。
けっこうきついね(ニガワラ)>1=21
>しかし、それは虚栄心と紙一重。
哲学的に考えて状況を整理しなければ
ならない状態、というのもあると思うけどなあ。
日常の範囲では処理できない「事件」に触れてしまったならば、
それまでの自分の現実とは遊離した思考空間から、
感情を安定させる土台を引っ張ってくるしかないと思うしさ。
悲しみさんとかいう人も便利によく使ってたけど、
「虚栄心」ってなに?
26 :
考える名無しさん:02/03/17 20:16
>>20 私が哲学を学問であり得ないというのは、
「哲学はすべてであり、またそのことは矛盾を含む」
だと思うからです。
だから「あり得ない」のです。単純に「学問でない」ではなく。
学問でないもの=哲学 ではありません。
ですから、この場合には、学問とは何かというのは二次的な意義しかありません。
28 :
考える名無しさん:02/03/17 20:18
いきなり論証を経ない結論(哲学は目的にはなりえず、ただ結果として哲学的欲求がそこにあるだけ)
から始まって、それを論拠にいろいろいわれてもなあ。
自分は、ギリシア哲学を読みまくってたよ。
そこで、擬似的にダイアローグしてた。
読む前は、内面でモノローグしっぱなしだったけど、
読んでいくうちに少しずつモノローグの度合いが減った。
直裁的なロジックだけでなく、読んでいくうちに触れて吸収した、
感情を相対化しながら、関係や構造を汲み取ろうとする努力、
それを可能にする心的姿勢のようなものを含めて、
自分は「哲学的な考え方」と意味付けているような気がする。
>>22 しかしハイデガー自身も一瞬で相対化されることから
逃れられるでしょうか。
「ハイデガーなんてまったく興味もないし、知らないし、
何の関係もない」
もしくは、
「ハイデガーは間違っている」
もちろん、
「ハイデガーは完全に正しい」にしても。
私はこの種の相対化に哲学の本質をみます。
個々の細かい議論、壮大な体系は立派だとしても、そこに
みるのは虚栄心以上の価値が見いだせるでしょうか。
31 :
考える名無しさん:02/03/17 20:23
l=悲しみ=マリー=m
33 :
考える名無しさん:02/03/17 20:29
>>l
つうか、
単に「あなた」にとって「虚栄心」が絶対的な基準になっているということを
繰り返しているだけのようにしか見えない。
あなた以外の人間が、どういった言動が、何故、
虚栄心のために行動しているといえるのか、
ちゃんと説明してくれ。
もちろん、「虚栄心」自体の定義も、きちんと行う必要があると思う。
34 :
考える名無しさん:02/03/17 20:29
哲学的ニヒリストに付ける薬は無い。
35 :
考える名無しさん:02/03/17 20:30
>>32 それは幸い。悲しみさんは「虚栄心」という言葉を濫用するけれど、
「虚栄心」って何なのかは明かしてくれない。
「虚栄心」ってなんですか?
36 :
考える名無しさん:02/03/17 20:30
>>30 哲学がいつ物事を相対化したでしょう?
既存の哲学を相対化して全てを想定するのは
観念論でありニヒリズムです。
>>32 これは、・・・・・・へえ、驚いたな。真偽はともかく、本人がそう言ってるなら。
38 :
考える名無しさん:02/03/17 20:33
虚栄心についてきちんと私の話をする必要があるようです。
私は例えば、ハイデガー(誰でもかまいません。すべての人間)
にこう聞きたいのです。
「あなたの言っていることが真理だとして、なぜあなたは
真理を語るのですか?」
「真理は語られることでその性質を変える恐れはないでしょうか?」
「なぜあなた(ハイデガー)が真理をみつけられたのですか?」
「なぜ真理であることが真理なのですか?」
もし誰かが私のこの疑問を納得させてくれるのなら、私は虚栄心
などと言い出しません。
しかしそれが誰もできないのなら、
「あなたは“私がそれを主張した、私は偉い”
と言いたいだけなのではありませんか?」
が最も正当な解釈だと考えます。
40 :
考える名無しさん:02/03/17 20:43
>>39 意味が分かりません。
虚栄心について何もいってないじゃん。
それになんで哲学を語ったことが偉いことになるの?
41 :
考える名無しさん:02/03/17 20:44
質問が多すぎるYO
42 :
考える名無しさん:02/03/17 20:44
哲学哲学っていってるけど、おまえら自分が頭がいいって
いいたいだけちゃうんか?
煎じ詰めると1さんの主張ってこういう単純なことなの?
つまり、哲学は、一瞬で崩壊するということ。
哲学の運命として哲学が自己矛盾がさけられない限り。
その崩壊後の残骸、結局のところの、有り体な解釈、
それが「虚栄心」。
ようするに、崩壊後の解釈などどうでもよく、
結局のところ、せいぜい倫理的に「虚栄心」という指摘で
十分だということ。
虚栄心という指摘をうけるまでもなく、すでに哲学は自己矛盾では
ないでしょうか。
ただそのことに気がつかない人のために、哲学の崩壊後の姿、「虚栄心」
を指摘することで、哲学とは何かを真に考える契機にしています。
哲学をする動機が、
悲哀でも、虚栄心でも、不安でも、趣味でも、
同じです。
ただ虚栄心から哲学をしている人間だけが、哲学の本質を知らず、
ただ自動機械のように「考えるだけ」なので、
哲学の崩壊後の残骸を「虚栄心」と指摘することには、現実的な
意味があると思います。
45 :
考える名無しさん:02/03/17 20:48
結局哲学は現代に於いて諸分野の科学に分裂してしまったと思うのです。
元来哲学、学問の「目的」は身の回りの不可解な事柄に説明を与え、
それによって確信を持って充実した人生を送る事が出来るようにする事
だったのではないでしょうか。
そしてその延長線上に哲学の基礎を疑う手段としての「相対化」が生じ、
「哲学」が科学に変貌していったのだと思います。
47 :
考える名無しさん:02/03/17 20:51
近現代になって初めて哲学が生まれたって主張してる人もいるね。
>>46 手段としての哲学、
「人生を豊かにするための哲学」
という発想はすばらしいと思います。
けれど、私はそんな哲学をいままで一度も知らない。
誤解されてるけど説明するのはモドカシイ。。。
50 :
考える名無しさん:02/03/17 20:54
>>43 1さんのつかう「つまり」だの「結局のところ」だの「ようするに」
だのに怠惰さが感じられる。ぼくの洞察力が足りないだけかも知れない
けど、説明不足な感じがします。
51 :
考える名無しさん:02/03/17 20:54
>>48 それは、本を読んでも、著者の虚栄心をあげつらうことに囚われて、
書かれている内容を真面目に読み取ろうとしてないだけではないの。
学問ってのは人間の積み重ねの営みでしょうが。ちがうかい?lさん
いつまでも「絶え間ない自己批判のトートロジー」
なんてしていられるものかどうか。
最近読んだ文章を思い出しました。引用しておきます。
『文章トレーニング』白井健策,ちくま文庫,1987
第一章
2 分水嶺は三十五歳?
文章の分水嶺
・・・・・・当り前といえば当り前のことかもしれませんが、年配の人と、若い人とは、
書くものが違う、ということです。
もう少し詳しく説明しましょう。
私は毎週、宿題を出しました。六百字ほどのものを書いてもらうのです。自由題
でなく、教室のみんなが同じひとつの題について書いてくるようにしたのです。
・・・・・・かえって来る宿題を、一回や二回見ただけでは気づかないのですが、何週間
にもわたって出しつづけ、読みつづけると、面白いことが見えてきます。
極端な言い方をすると、年配の人はそれぞれいつも同じことを書き、若い人はいつも
ばらばらなことを書く、という現象です。
同じことを書く、といっても、毎回違う題を出しているはずだ、とお思いになるでしょう。
そうです。毎回、新しい題を出すのです。それでもなお、同じことを書いてくるのです。
たとえば、ある中年女性の場合。一、二回読んだだけでは気がつきませんが、いくつも
この人の書いたものを読んでいると、この人の心の中には常に亡父の面影があり、この人の
考えはいつもその周辺を舞っているようだということがわかってきます。
それが何より証拠には、この人は、どんな題が出ても、必ず亡父に関係のある一文を
書くのです。「家族」は父の思い出であり、「手」は幼い時のがっしりした父の手の感触
であり、「紙」は女学生時代に読んだ父からの手紙の手ざわりであり、そして「時計」
はもちろん父が提げていた懐中時計の音、というあんばいです。
これはいささかはっきりしすぎている場合かも知れません。しかし大なり小なり、
差はあっても、年配の人にはこういう傾向が認められます。
・・・・・・いつも満州(中国東北部)からの引揚げにまつわる話を書く人、いつも結婚生活
における自分の立場を書く人、いつもボランティア(自発的奉仕)活動について
書く人、と主題は人さまざまです。どんな題でも、主題開陳のきっかけになり得ます。
しかし、そういう文章を毎週ほぼ必ず夜を徹して読みながら、私は深い感慨に打たれる
のが常でした。
ひとはだれしも、何かを持っている。他人の触れ得ない何かだ。すべての柿の実に
柿の種があるように、それは硬い種かも知れない。あるいは捕えがたい焔のようなもの
かも知れない。問題意識と呼ばれるものかも知れない。原体験といわれるものかも知れない。
あるいはたんなる知的興味の対象かも知れない。いつのころからか、ひとはひとつの種を
腹中に蔵し、それを育て、その周辺をぐるぐるとまわりながら生きてゆくものらしい。
・・・・・・若い人の関心は遠心的である。年をとった人の関心は求心的になる。若い人の
文章は拡散の方向性をもつ。年をとった人の文章は収斂の傾向を帯びる。
ということがわかったのはまことに興味深い発見でした。
・・・・・・いったい何歳が「若さ」と「年配」の境界線なのか、・・・・・・
結論をいいますと、拡散した人生経験が収斂の季節を迎える峠は、人によってさまざま、
個人差があります。従って確たる境界線があるわけではない。しかし、大ざっぱにみて
(別にこまかい調査をしたわけではないので印象からの判断ですが)平均して三十五歳くらい
が分水嶺か、という気がします。
・・・・・・文章に関する限り、右にのべた私の経験から推すと、ひとは三十五歳前後で
青年時代を卒業し、それぞれの核というか、種のようなものを抱きはじめるのではないか、
と創造されます。
54 :
考える名無しさん:02/03/17 20:59
虚栄心の定義がよくわからんが、とりあえず、
ニュートンとかは名誉欲が強かったみたいだし、
名誉を求めてなされた学問的な大発見というのは数多い。
もちろん、無欲な学者も多いけれど、
それが学問の条件でなければならない理由が無い。
もう少し楽天的になった方が良いんじゃないかなとしか言いようが無い。
56 :
考える名無しさん:02/03/17 21:03
音楽 のように 哲楽 に したらよいのでは内科
>>53 面白い話ですね。
自己批判をやめて、何者かになること。
それとも一生何者にもならないでいること。
58 :
考える名無しさん:02/03/17 21:03
要するに哲学は相対的なものにすぎなくって
それを知ってる自分は一歩ぬきんでてる、と言いたいんでしょ?
んなもん哲学じゃないっての。相対化なんて誰でもできるよ。もちろん観念的にね。
だれかの文章を引用して相対化
>>58 まったく違います。
ごめんなさい、私の話が伝わっていないみたい。
哲学は相対的なんていっていません。
すべてを相対化する営みが哲学、そしてそういう行為自体には自己矛盾が
含まれています。
>それを知ってる自分は一歩ぬきんでてる、と言いたいんでしょ?
それは虚栄心です。
>>53 このスレの本線の話しではないですが、
35才というのは人生を70年ととらえるとちょうど中間地点。
誕生 0歳 < 35歳 > 70歳 死
35歳までが拡散してゆく人生。
35歳以降は収斂していく人生。
35歳からはそれまでの人生経験のもと死を見据えた人生になる。
これでは単純すぎかな?
>>54 哲学は学問ではあり得ないというのが私の前提です。
63 :
考える名無しさん:02/03/17 21:08
>>62 論拠がまったく提示されていないんだけど。
あなたの考える学問の要件とは何で、哲学に欠けているのは何なの?
65 :
考える名無しさん:02/03/17 21:09
どーでもいいが、デリダを読んでみる。
>>63 私のここまでの話を一瞬で
「論拠がない」
とあなたが私の言えること。
それが哲学の本質だと思います。
また、私は、「学問ではないもの」という論拠で
哲学を捉えていません。
「学問ではあり得ない」という趣旨です。
そしてその説明は、すでに
>>27で説明をしました。
>すべてを相対化する営みが哲学
これは絶対間違ってると思う。結局問題はそこにある。
(ちなみに「哲学は純粋な学問です」のスレ主ではないです。)
>>67 誤解を与えてしまったかもしれません。
こう言います。
「人間はすべてを相対化できる、けれど、実は何一つ相対化できない。」
69 :
考える名無しさん:02/03/17 21:15
>>68 だから相対化してるのはあなたでしょ。
それをなぜ哲学に収斂させる?
論拠がなければ学問ではないわけ?
すべてを相対化する営みが哲学
「人間はすべてを相対化できる、けれど、実は何一つ相対化できない。」
そういう含蓄的な書き込みはズルイと思う。
>>69 そんな論拠ならば、
そのあなたの意見も「あなた」の意見でしかありません。
74 :
考える名無しさん:02/03/17 21:19
>>69のどこが論拠なんだよ。
んなこと言ってたらコミュニケーションは不可能だよ。
ここで議論する意味なんて全くないね。
>>71 >すべてを相対化する営みが哲学
>「人間はすべてを相対化できる、けれど、実は何一つ相対化できない。」
なにこれ??
説明希望。
>35歳からはそれまでの人生経験のもと死を見据えた人生になる。
先の引用からは略しましたが、この文章の筆者はアメリカ人に
「中年」をいくつからと考えるか聞いてまわったことがあるそうで、
その中で一番多かったのが「三十五歳かな」という返事だったそうです。
生きてきた時間が残された時間よりも長くなってくると自然と自分の
人生に対して一定の見方・価値を見出すようになるのでしょうね
(私は「若い人」なのでまだわかりませんけれど)。
>「人間はすべてを相対化できる、けれど、実は何一つ相対化できない。」
つまり、「彼はすべてを相対化できる、けれど、私は彼を相対化できる」
ということ?
77 :
考える名無しさん:02/03/17 21:20
>>66 >それが哲学の本質だと思います。
その「哲学の本質」とういうのは具体的になんなの?
>>27 においても、あなたは学問の要件を示していないね。
哲学自体についてだけ、いくら述べたところで、
学問の要件がなければ、
「学問ではない」、「学問ではあり得ない」どちらの結論も
示しえないと思うけれど?
分かってると思うけど、根本から相対的な人間は自己循環に陥らざるを得ない。
要するに砂場を作った尻からぶち壊す悪ガキみたいなもの。
一段階として相対的になるのは良いけれどもそこで止まってちゃ何にもならない。
こういう物の言い方は物凄く幼稚に見えるかも知れないけど。
79 :
考える名無しさん:02/03/17 21:22
結局あなたは相対化を「絶対化」してるだけだよ。
私が説明していたこと、
「一瞬の相対化」
「それはあなたの意見でしかない。」
「それはハイデガーの意見でしかない。」
がまさに69さんに現れています。
つまり私の意見も一瞬で相対化され、私の哲学も一瞬で崩壊します。
私は言葉では、論理では表現不可能なことを説明しようとしています。
81 :
考える名無しさん:02/03/17 21:22
哲学が学問でないという前に、1自身が学問的でないのが問題。
学問的であろうとして学問的になれなかったのか。
あるいは宗教系の人か。
あるいはその両者か。
>要するに砂場を作った
→砂場に作った城を
「学問」って何よ?
まずそこから言及しないと不毛じゃない?
書き込む前に、過去レスよく読んで、彼女(?)の言葉一つ一つを
理解しようとしろ。そして、書き込みたいことを考えろ。
考えて考え抜け。
そして、傍観しろ。
>>79 もちろん、そういう意見も私を相対化します。
(この仕組みが分かりますか?)
そろそろ意地の張り合いに移行しそうな雰囲気。
2者いると相対化される。すべてものは。
88 :
考える名無しさん:02/03/17 21:25
今日はもう落ちます。
90 :
考える名無しさん:02/03/17 21:25
>>85 何度も言うけどもしそうだったらコミュニケーションは不可能だよ。
あなたの言う言葉一つ一つが私にとって何も意味を持たない。
91 :
考える名無しさん:02/03/17 21:27
【今日の要点】
・ l (
>>1 ) は「学問」の定義を示していない。
>>91 私の言ってることの意味が分かってないみたいですね。
94 :
考える名無しさん:02/03/17 21:30
どう考えても煽りスレだな・・・
95 :
考える名無しさん:02/03/17 21:32
相対化してるはずが独善的に見えるのは不思議ですね。
>>92 「今日の要点は・・・・・・」というのが相対化なら、
「分かってない」というのは絶対化ですね。
それにしても今日の進行はいつになくクールだ。
97 :
学問=哲学(素人):02/03/17 21:33
所謂哲学者で根本から相対的な人間は一人としていなかった。
空手で言う「茶帯」的人間が誤解に基づいて思想を形成してしまうとそうなる。
>>96 だから「虚栄心」なんです。
哲学に興味があることは悪いことかもしれません。
99 :
考える名無しさん:02/03/17 21:34
他の学問は何らかの役に立つのになぜ現代哲学は役にたたないのでしょう?
企業がこぞって哲学専攻の学生を取る時代は来るのでしょうか?
100 :
学問=哲学(素人):02/03/17 21:34
不治の病やね。
認識の正当性はあくまでも相対的なもの、
っていう考え方はダメなの?
>>98 あなたの意見に対する検証結果ははまたあしたみなさい。
落ちるときに落ちないと時間の無駄だよ。
103 :
考える名無しさん:02/03/17 21:35
>95
過度の相対主義は独善主義に他ならないからね
相対的に認識できる視点が唯一相対主義にのみ存在するならそれはすでに相対主義とは呼べない代物であるというところかな
悲しみ相手にするとひどい目に会うよ。
>>97 体系を築いた人間だけが哲学者なのですか?
有名な西洋人ですね。
それに、真に哲学者といえる人にも2種類あると思います。
体系を主張した人間。
根本から相対的な人間。
私はどちらでも同じことだと思います。
106 :
考える名無しさん:02/03/17 21:37
2種類あるが同一である?
107 :
学問=哲学(素人):02/03/17 21:37
拳で語り合いたいです。
>>103 >過度の相対主義は独善主義に他ならないからね
これも相対化です。
相対主義も独我論も私には差異は見いだせません。
絶対的相対主義という矛盾。
>>99 日本史、世界史を潜行してる人を企業がこぞって取らないのと
同じだと思う。
110 :
考える名無しさん:02/03/17 21:39
>>105 根本から相対的な人間なんていないよ。
いるとしたら廃人か?
家畜の肉を食うように人間の肉を食える?
わからないこと2
l氏の言う絶対的相対主義に含まれる意味は?
>>105 人は何をしようが結局は死ぬ。
ゆえに何をしようが同じこと。
そのような怠惰なニヒリズムの論理は危険です。
それにしても「有名な西洋人ですね。」
この「有名」の使い方はとても悲しみさんっぽんだよなあ。
>過度の相対主義は独善主義に他ならないからね
>相対的に認識できる視点が唯一相対主義にのみ存在するならそれはすでに相対主義とは呼べない代物であるというところかな
「独善主義はいけないこと」
っていう道徳的な議論になってないですか?
すべての認識は相対的なものでしか有り得ない
っていう議論とはまた別だと思いますが。
>>112 名前が違うのだからそのような考え方は無意味。
同じようでもちがう人ととらえるべき。
そして、がんばって知識のすり合わせをしてくださいオマエラ。
115 :
学問=哲学(素人):02/03/17 21:43
考え方のレベルに於いての話。生活的常識とは別。
116 :
考える名無しさん:02/03/17 21:45
要するにこの人は、ワイドショー的な浅薄な先入観、
「学問=高尚」「虚栄心=下賎」といった価値基準を、
哲学に適用しようとしてるだけなんじゃないだろうか。
「虚栄心」にしても、「学問」にしても、
「なんとなくわかるだろ」的な傍証を積み上げて、
(
>>39 とかが最たるものだが )
説明したことにしてしまってる。
具体的な説明は絶対にしない。
実際のところ、具体的な考えがあるんじゃなくって、
浅薄な先入観だけで書いてるとしか思えないし、
そういった説明だけで、
>>(この仕組みが分かりますか?)
みたいなことを平気で言う。
要するに
「私はそのあたりは適当に考えてるんだから、あなたも適当に判断する義務がある」
ということだ。
まあ、どういう考え方をするのも個人の自由だけれど、
自分の考えが浅薄だからといって、他人に同じようにに
浅薄に考えることを強要するのはおかしかないか。
117 :
学問=哲学(素人):02/03/17 21:46
相対化地点に留まると言う事は全てを認めないと言う事じゃないすか?
人それぞれ自由に考え、生活する事は構わないけれども、
こういうタイプの人間は公の場に於いて発言する資格は無いと思う。
118 :
学問=哲学(素人):02/03/17 21:47
「目的」とか「真理」を避けるのがトレンドなのかも知れないけど。
119 :
考える名無しさん:02/03/17 21:48
>>117 相対主義も二種類いると思うよ。
全てを認めるか、相対化しか認めないか。
1は後者に見えるね。
>>116 そんな風な相対化も十分起こり得ます。
そして今実際に起こっていますね。
「どうせ大したことは言っていないんだろう」
>>117 >こういうタイプの人間は公の場に於いて発言する資格は無いと思う。
まさにそれが哲学の本質だと思います。
だから私は哲学は不道徳だと思うのです。
大学で勉強してる人に1の内容を検証して欲しい。
検証って言葉は適当に判断してください。
122 :
学問=哲学(素人):02/03/17 21:50
取り合えず俺が言いたいのは「言いたい事が無いなら黙ってなさい。」と言う事だけ。
(別に煽りじゃないです。)
もう本当に落ちます。
私を相対化するのはかまいませんが、
それだけが目的になるのは虚栄心だと思います。
このスレッドの出発点は、相対化することを相対化することで
自己矛盾のはずだったから。
あなた自身を相対化するほうが、哲学だと言えないでしょうか?
>>120 落ちるのか、もうちょっと、僕らを論破していくのか
はっきりしてくれ。
お願いします。
対立し相反する主張のいずれが正しいかという
ことを考えるとき、
主張の正当性は相対的なものであるという
結論に一度は達すると思うんですが。
126 :
考える名無しさん:02/03/17 21:52
>>123 つうか、
主張の内容の「虚栄心」という言葉への依存度に比して、
この言葉に対する説明が無さ過ぎる。
127 :
考える名無しさん:02/03/17 21:54
>>120 だからこそ、自分の意見を相手にわかるように説明するのが、
議論における最低限のマナーになるわけだが、
あなたはそれをやってないということだよ。
だから、悲しみを相手にするのやめれ。無駄だからさ。
>無駄だからさ。
まあ、無駄だと思えば無駄さ。
>>128 そもそも、世界は無駄だし。考えようによっては。
いいじゃん。
それは単なるあなたの解釈の一つで、
その認識の正当性は相対的なものですよ。
>その認識の正当性は相対的なものですよ。
だから、「思えば」って仮定してるじゃない。
生かすも殺すも、価値判断するのも自分次第だよ。
1より。
>哲学が学問には成り得ないなんてことは
>「少しでも考えるということを知っている人間」なら実感として
>知っているはず。
「はず」ってのはこの場合どういう意味でしょうか
悲しみを相手にすることが「無駄」でなければなんだろう。
それ以外に何も言いようがないのだけど。
135 :
考える名無しさん:02/03/17 22:02
まあ、定期的にこの板に現れる、厨房の一つの類型ではあるから、
訓練にはなるのではないかと。
136 :
考える名無しさん:02/03/17 22:02
> 日本史、世界史を潜行してる人を企業がこぞって取らないのと
> 同じだと思う。
哲学というのは正確には哲学史ですか?
137 :
考える名無しさん:02/03/17 22:03
錬金術史みたいなもんだな
>135
何の訓練だよ。
おまえら、どうせ原子記号ほとんど言えないんだろ? スレ的な。
結局、仕事には関係ないよって企業が多いからかと。
哲学は売れない。
140 :
考える名無しさん:02/03/17 22:07
>>138 厨房に煽られない、厨房に真剣に対応することの虚しさを知る。
1で
>ここで問題になってくるのは、この「哲学」という言葉が
>何を意味しているかということです。
とl氏は言ってますが。その後で哲学は何を意味してるか
説明されましたっけ?
>140
もうそれをほとほと痛感した挙げ句の果てに、
無駄だって結論に達したわけよ。
>>140 前とは何か違ってくるのではないか。
という無駄な期待が原動力。
僕思うに、ね、
1氏は自分を絶対化してる。これは当然のこと。
で、みんなはみんなで自分を絶対化してるわけだから、
1氏に露骨に絶対を主張されると「そんなはずはない」
と思うわけだ。「そんな簡単に結論づけていいはずがない」と。
だから、みんなは1氏を相対化しようとするんだけど、
1氏は確信犯的にやってるわけだから「相対化だ」と言って
自分の絶対性を保守する。1氏独特の語彙もそれを守る助けと
なる。
これをやることで1氏は読み手に何をしてほしいのかと言えば、
「あなた自身を相対化する」こと、すなわち、1氏のような
言説、あるいは存在が自分にとってもっと権威的、実際的に
現れたとき、自分は自分の絶対性を守っていられるかどうか
考えることではないだろうか。
もちろん、ここまで言うだけなら僕も1氏を相対化したに
過ぎないことになるけども。
悲しみ=マリー=mって、普段は、
イコールで結んでも都合が悪いから無視するんだよな。
>>32のように速攻で否定するということは、やはり別人なんだろうか?
でも似てるよね。lって。
>>145 悲しみさんに”非常に良く似ている”l氏っていうことで
いいんじゃないかな。
あくまで、”ただの似ている人”ってことで付き合えばいいかと。
147 :
考える名無しさん:02/03/17 22:17
>>144 そこで使ってる相対化や絶対化は1の基準で使われてると思いますが。
ペースにはまってるよ。
でも論破は不可能だろうね。独我論と一緒で。
対極に見えて他者に語る言葉を持たない点で同じ。
>そこで使ってる相対化や絶対化は1の基準で使われてると思いますが。
もちろん、そうですよ。
>ペースにはまってるよ。
だから、ペースにいったんははまらないといけないのさ。
普段はまってるいろんな「ペース」と同じように(1氏のように
言えば「哲学」とかね)。
>でも論破は不可能だろうね。
こういう考え方がこのスレッドの活用を大きく妨げているんじゃない?
150 :
考える名無しさん:02/03/17 22:22
つうか、相対自体、本当に論及する必要があるのかどうか怪しい。
>>6 でいっていることも、結局、自分の思い込みの羅列でしかないように思うが。
151 :
考える名無しさん:02/03/17 22:25
>>148 オレは1の言ってることは観念論にすぎないと思うんだけど。
全てを可能にする(全てが意味を持たない)1の言葉になんの意味があるの?
>こういう考え方がこのスレッドの活用を大きく妨げているんじゃない?
むしろオレは最大限好意的に受け止めてるよ。
とーとろじーを楽しめオマエラ
l氏の主張:
哲学は
「考えることを考えること」あるいは「絶え間ない自己批判のトートロジー」
である
>哲学が学問になるはずがないことを知っています。
>(中級レベルの人間)
と
>上級レベルの人間の意見がもしあるなら聞きたいです。
から察するに、つまり自分が中レベルの人間であるということなのでしょうか。
>そしてこの種の人間は、一見謙遜をしている風でありながら、
>結局は哲学をするということの虚栄心から逃れられません。
自分もこの種の人間であるといってるわけなので、自分を他人に当てはめてる
のかしら。ステレオタイプって言うんでしょうか。あってるかな?
>哲学は目的にはなりえず、ただ結果として哲学的欲求がそこに
(中略
>(堕落した、質の悪い人間)
>この種の人間は、堕落しています。
よくわかりませんでした。だれか教えてくれ。
>上級レベルの人間の意見がもしあるなら聞きたいです。
上級レベルってどんなのなんだろ。上級レベルの存在を否定してないか?
まんなか辺で、どうだろ。
154 :
考える名無しさん:02/03/17 22:33
つうか、その観念自体が、きちんと語られていないこと自体が問題なのだろう。
l がどういったことを「虚栄心」と呼び、
どういった理由で「学問ではあり得ない」といっているのか、
明確に分からないまま、反論し、 l はそれは違うと答える。
論点が定まっていないから永遠に収束しない。
>全てを可能にする(全てが意味を持たない)1の言葉になんの意味があるの?
僕はこういうワケのわからないもの(でも少しだけ分かる気がするもの)を
見るとウキウキしますがね。そのままではどうにもならないかもしれないけど、
自分の中のもやもやした部分を探っていくことで得られるものもあると思うし、
それ自体楽しいからしゃべってんです。
>むしろオレは最大限好意的に受け止めてるよ。
ん、「活用を妨げてる」とは言い過ぎたかもしれない。
ただ、「論破しよう」なんて肩肘張っててもつまらない結果にしか
ならないと思うからそう言ったんだ。まず「論破された」と
思うところから始まらないと「楽しく」ならないと思う。
つまり、酒の肴にぴったりのスレ
>>156 ははは、このスレッド、垣根が低いわりにはみなさんマナーが
いいですね。珍しい。
>>155 論破は無理というのは、人間を規定する絶対的な根拠がないから、
誰が何を言おうと完全な否定は不可能だという意味で。
でもそれは妄想としか言われないと思うな。
>人間を規定する絶対的な根拠がないから
? この「人間」とはどういう意味ですか?
>>159 この人にとっては説明なんだろうけれど、
私には、質問と(虚栄心自体の説明を省いて辿りついた)
結論の提示しか読み出せない。
>>161 へえ・・・・・・、さらにわからないな(笑)
「1氏のように」言葉を使っているのかしらん。
じゃあ、たとえば文字通り受け取って以下の質問は妥当ですか?
「『人間を規定する絶対的な根拠』として『自分が人間であること』
は有効ですか?」
>>163 無効です。
人間を説明するために人間という言葉を使うトートロジーだね。
トートロジー
[tautology]
(1)同語反復。
(2)〔論〕 変項の値のいかんにかかわらず、常に真であるような論理式。論理学の規則の体系自身もトートロジーの集合とみなされる。恒真式。恒真命題。
gooで検索しました。
>>164 書き方が悪かったかな。「人間」の確実な具体例としてまず「自分」
というものがあるのではないか、という意味です。
167 :
考える名無しさん:02/03/17 23:12
論理学なら数学科いってやれ。
哲学科よりはためになるぞ。
>>166 それも無効。
自分とは何か、他者は人間なのかどうかが分からない。
>>168 ふむ、ではあなた言うところの「哲学的」とはどういうことですかな?
>>169 >>169 人間について?さあ、わかんないね。
とりあえず「人間」という概念が成立している以上、まず日常的に(現象学的に)
探っていくことはできると思うけど。それから、他者に認められていなければ人間にはなり得ない。
ちなみにハイデガーの言葉。
「人間の本質とは答えではなく、本質的に問いである。」
171 :
考える名無しさん:02/03/17 23:29
難しいこと言っている振りして中身は何もないか
昔意味があるとされたことがある歴史を繰り返すだけの自己満足。
>>170 では、
「人間を規定する絶対的な根拠がない」というのは一般的に真な命題ですか?
それとも1氏の言葉が通じないということをもとに成立した特殊な命題ですか?
ハイデガー経由は意味は無いに等しいだろうねー
もっとも本人にとっては知りませんけどねー
ドッかにも書いたが、知識のすりあわせからしなければならないと言う
めんどくさい事実。
がんばれ。
177 :
考える名無しさん:02/03/17 23:45
>>171 そうですね。
最終的には株主を満足させなくては存続できない企業。
その中で奮闘する労働者は偉いのです。
178 :
考える名無しさん:02/03/17 23:46
哲学についてまともに取り組んだ人間なら
1がいう哲学の問いもつ自己循環性に一度は
向き合うことになるはず。そういう意味では
1の疑問はある意味わからない態度ではない。
自己循環的、つまり、問いの権利を最初から
保証されてない状態で、潜在性を顕在化していく
作業なのだけど、その潜在性を最初から前提に
することはできない。にもかかわらず、潜在性を
否定するなら、哲学自身の存在意義はない。
スタティックな学問的領域としての「哲学研究者」と
たえざる顕在化を求める運動体としての「哲学者」は
まったく別物でしょうね。むしろ哲学探究者が同時に哲学者で
ある場合より、例えば、科学者で科学を突き詰めていくなかで
結果的に哲学者としていきてた、なんてほうがおおいのでは
ないかと想像する。
>>176 信頼と敬意の無いところに良好なコミュニケーションは成立しないね。
>>173 命題ではないよ。真理に還元する必要もない。
哲学的探求の結果、人間の絶対的根拠などないことが明らかになっただけだ。
ただし1と違うのは、哲学は全てであるとか相対化させるものだとかいって
全てをうやむやにするようなことはしないし、
人間が自己の根拠を持たず問い続ける存在であることが肯定されている。
1 が自己循環性を指摘しているとは思えないが。
少なくとも、分かるように説明する努力をしているとは思えない。
>180
禿同
>179
ハーバーマスのコミュニケーション行為論では
真実性、誠実性、妥当性、明快性 だったとおもふ
2ちゃんにはかけらもないね
>181
かなり私なりに好意的に解釈したうえです(W
>>184 そうやって甘やかすから・・・(w
というか、
「食いつきのよさそうなネタをほのめかしつつ、
自分では論証どころか明確な指摘もしない。」
というのがこの人の手なのではと思うのだが。
178さんは私を正確に理解してくれています。
>>181 最初から指摘しています。
何度も。
「絶え間ない自己批判のトートロジー」
l氏を正確に理解している178氏の文章
>>178
きょえい-しん 【虚栄心】
みえを張りたがる気持ち。「―を満足させる」
>>187 だから、哲学のどういった点を指してそれを言っているの?
あなたの発言には、(あなたなりの)結論があるだけで、論証が一切無い。
さらに言えば、それぞれの結論が、この場合の対象である「哲学」の
どういった点を指しているのかまったく説明していない。
192 :
考える名無しさん:02/03/18 00:12
扱っているのが意味のある問題になってしまうと
今の哲学という学問から外に出てしまうのが哲学の問題点。
常に学問のアウトロー。
哲学史のおさらいになっちゃうけど、
アリストテレスはこのあたり明確に意識して
哲学の位置付けをかたってますよね。
つまり、「メタフィジック」=形而上学と
哲学的思考の位相を明確に定義してる。
形而上学っていうのは、自分自身を含む世界を
基礎付けようと、世界観の枠組みを提出する
好意とされている。つまり、定義からして
形而上学=哲学ってのは自己循環的な問いであり、
具体的に世界を分析する思考=「物理学」=フィジックス
が結果的に「学問」に収束するようには、その思考の位相が
前提されてないわけですよ。つまり、科学的に実証もできなければ
数学のように演繹的思考で導かれる体系でもない。
にもかかわらず、そういう特異な問い=世界のあり方への問い
を発せざるをえないものとして、人間の思考の営みが考えられてる
わけですよね。アリストテレスの問いを復活させたハイデガーの
「存在者の存在性」っていう発想もそうだし。
そうたい-てき さう― 【相対的】
(形動)他との関係・比較の上で成り立っているさま。⇔絶対的「―な見方」「物価上昇は―に収入減をもたらす」
ぜったい-てき 【絶対的】
(形動)物事が絶対であるさま。何物にも制限されないさま。⇔相対的「―な権力」「―な優位に立つ」
195 :
考える名無しさん:02/03/18 22:14
よくわからんけどハイデガーとかが言ってる「存在そのものに対する驚き」とかって
俺たちが「自分が何かを考えてる」ことに対する驚きってことなん?
>1 が自己循環性を指摘しているとは思えないが。
指摘しているというより、他人にしているはずの発言が
実は誰よりも1氏自身にあてはまるという点で、
1氏は自己循環そのものの発言を繰り返している。
そして結局みんなその循環に巻き込まれてきた。
・・・・・・。
哲学は新たな自明性(暗黙の世界観・形而上学から帰結する
世界へのパースペクティブ)を引き出すように議論がなされる
べきだ。ホワイトヘッドはこのような趣旨のことをいっています。
彼にとっても「哲学」とは、形而上学そのものにほかなりませんでした。
詩人とおなじ地平で世界についてかたらねばならないともいっています。
但し、ロジカルに。それを彼は「観念の冒険」と呼ぶわけです。
結局人間って相対的にしか物事を見れないんだから、
もっと相対化しようぜ。
199 :
考える名無しさん:02/03/18 22:36
絶対的
相対論
絶対的相対的論
>198
まだおわかりでないようですが、
相対性におちてゆかざるをえない機制をはらみながら
にもかかわらず、絶対性を希求しつづけていくなかでしか
問いの権利を確保できない思考=哲学。
はじめから潜在性や絶対性を否定するなら、その時点で
哲学は不要ということです。
202 :
考える名無しさん:02/03/18 22:46
>>193 >科学的に実証もできなければ数学のように演繹的思考で導かれる体系でもない。
つまりぱーふぇくとなわけですね。論理性が潜り込む余地が無いという意味で。
それはそれで1つの美ですね。
203 :
考える名無しさん:02/03/18 22:48
>論理性が潜り込む余地が無い
そうなんですか? 論理で切り分けられる保証がないものと
解釈していたんだけれど。
哲学では主観と客観、相対と絶対という区別はあんまり意味ないと思うんだよね。
おそらく概念を固定化して道具のように対象として扱うことによって可能になるんだと思う。
>>203 あなたの思考のベクトルが空しさの方角を向いているだけかと。
>>201 そうか。難しいね。僕わ学が無いからわからんですな。
がんばります。
>202
あるいみそうでしょうね。但し、体系自身の整合性自体には
当然論理性や合理性は要求されるわけですけどね。
でも本質的には詩人と同じコトバといっていいとおもいます。
じゃあ何が数学等の演繹的思考と違うかっていうと(以下私見ですが)
形而上学といえども、それを語るにはロジカルに、つまり論理学
を援用する部分もあるわけです。
数学や論理学と同様に前提(公理)から個々のテーゼが
導出されるように形而上学体系が語られる場合場合も当然あるの
でしょうが、ただ、一点他の学問とちがうのは諸学が暗黙に前提に
する形而上学を明示的に語り、新たな前提を意識的にかつ自明性を
引き出しつつもうける試み、ていう点でしょう。
端的に例をだすと、主客二元論もひとつの形而上学で、それに
かわりうる世界のありかたを提示するってのが、20世紀初頭から
のモチーフになってますよね。そうした枠組みは演繹的に導出される
わけでもないですよね。新しい枠組みをガバッと語るってかたちに
なる。体系内のディティールに関しては、その枠組みが前提にする
基本的前提(公理)からの導出になり、体系内の整合性・合理性の
確保は論理学にのっとりおこなわれるってかんじでしょうか。
でも、基本的前提の提出は、まさに詩的なわけです。
>>208 難しいですね。でも個性的なモデルを提唱する自由度は大きそうでそうした中で1さんのいう「堕落」を待ち受ける罠があるのかな。
178さんはいいところまで考えています。
でも、肝心な点を忘れています。
それは、あなたが言っていることをあなた自身に適用すること。
つまりあなたはまだ、自分だけが高見から見下ろす地点、
相対化の地点に立っています。
あくまで、その地点に立ち続けるというのなら、
それは体系を主張する必要があると思うし、
「血」も必要だと思う。
「血」があるかないな、それがファシストになるか、人の心をうつかの
違いだと思うけれど。
私が勝手に178さんを相対化したことで、
怒り出すのなら、178さんは自分の言っていることを
信じていないわけです。
その矛盾。
私はそこからスタートしたのだけど、いきなり高見から始め
すぎたようですね。
私は論理の破綻していない、哲学者はあまり信用ができないのです。
「真理であることがなぜ真理なのか?」
この問いには大きな意味があると思います。
これはニヒリズムでしょうか。
しかし、肝心な点、ニヒリズムも実は、選択であるということ。
破綻した主張。すべての主張が必ず破綻する運命だとして。
人間は相対化しないと自分を認識できないらしい
結局、みんな好き勝手に考えているだけ。
そしてこれは、まさに現実そのもの。
私は常識を知るために遠回りしたけど、
「思想に優劣などない。」という事実を今は体感しています。
つまり、もし哲学をやって、
「何かを主張する」などという人がいたら、それだけで
「虚栄心」と断罪しても構わないわけです。
なぜなら、「内容」になどなんの意味がないから。
私の言う「虚栄心」とはこういう意味なのです。
つまり、思想には何の優劣もないというのに、
「難しく考える」ということをする人たち。
なぜ「難しいことが真理なのですか?」と聞きたいのです。
つまり、なぜそういう一定の方向(偏向)に向かって、進むのですか?
それにはそれなりの理由があると思います。
つまり、それが「虚栄心」。
哲学においては、人間においては、
どこかに向かおうとするだけで、それはもう
人間的なことなのです。
人間であることを超越しようとする哲学のもとめる真理においては、
それはくだらないこと。
ですから、
もし哲学が学問だというのなら、
その指針(公理)は何なのですか?
そしてまたもしそんな前提が最初からあるのなら、
それが「真理」ではないのですか?
哲学は何者でもないことを目指しているのに、そしてそれが
自己矛盾なのに、
勝手に「学問」などと名を付けている人は、
哲学とは何の関係もない人間だということはあまりに明白。
自己矛盾はそれで一つの体系。
>>216 何者でもないことを目指しているのは「何者でもないことを目指している哲学」じゃないですか?
この断定が確かに自己矛盾ですね。
哲学が自己矛盾なら、学問ではあり得ないという断定自体があり得ない。
哲学を他のと一緒にしたくないんだよ。1は。僕もそう。
他の学問とちがって「方法論自体を問題にしている」んだから差別して欲しいんだよ。
わかってくれよ。
哲学=虚栄心の水の上に咲く花、 違いますか?
222 :
考える名無しさん:02/03/19 00:41
つうか、哲学がどうだこうだいうなら、具体的な例を示しなさい。
憶測だけの「あなたが勝手に想像した哲学」についていくら批判を述べられても、
読んでるほうはつまらん。
>>218 はい、そうです。
>>219 ですから、思考の優劣はないと言っているように、
トートロジーの中から何かを選択するのは、自由でしょう。
>>220 むしろなぜ哲学をそんな枠にいれたがるのか、不思議ですね。
1さんのいわんとするところはわかるきがします。
別に私は自分の言葉を「高み」から流してるつもりは
ないいのだけど・・・
弁明するとすれば、相対化の海原のなかでどういうかたちであれ
絶対化を試みるっていう信仰にもにた決断をせざるをえない
悲哀はあるとおもうんです。そして、それがまたひとつの決断でしか
ないという相対化におちてゆく過程をながめつつ、またひとつの
立場を決断によって選び取ってゆく・・・
まさにシーシュポスにもにた刑罰に身をゆだね、そのしんどさに
たえ、かつ、楽しむところにしか、哲学する快楽はないのかなーっと。
自己分裂てきですよね、基本的に哲学っていう精神の運動性は。
真剣につきつめると反社会的にすらなりうる危険性をはらんで
いるとおもいますよ。本質的に。
学問ってのはどういう意味ですか
lさん。
教えて欲しいです。
がくもん 【学問】
(名)スル
(1)一定の原理によって説明し体系化した知識と、理論的に構成された研究方法などの全体をいう語。「―に志す」
(2)勉強をすること。知識を得るために学ぶこと。また、それによって得た知識。「―のある人」〔中世・近世には「学文」とも書かれた〕
この意味でいいですか?gooで調べたのですが。
226 :
統合幕僚会議議長:02/03/19 00:49
ジエイカンエライジエイカンエライジエイカンエライジエイカンエライ・・・。
選択が自由なら学問であるというのも真だろ?
枠ですか。
分かっていただけなかったようで残念です。
229 :
考える名無しさん:02/03/19 01:14
>>226 根の暗い事は止めた方がよろしいかと・・。そんな事ばかりやってるから「議長」になれないのでは。
このスレ終わっちゃったのかな?
むしろ、体系化された学問の方が学問じゃないって気がするんだよね。
例えば、高校で学ぶ数学や物理、これは学問じゃなくて科目。
その意味で哲学ほど、学問らしい学問もないんじゃないの。
231 :
考える名無しさん:02/04/11 22:12
終わりません。
ただ誰も私の話についてこれないだけ。
「学ぶ」って「まねる」が語源なんだよね?
いろんな人に触れて自分を創っていくことにつながるから、
ほんとの学問だよね、きっと。
>むしろ、体系化された学問の方が学問じゃないって気がするんだよね。
>例えば、高校で学ぶ数学や物理、これは学問じゃなくて科目
その意味で大学で学ぶ数学や物理ほど、学問らしい学問も(略)
哲学は学問、昔は学問は哲学のみ、早い時期に医学科学が離れていったけど最近まで心理学などは哲学だった。
そういう意味で哲学は離れて独り立っていないの学問の総体。
235 :
考える名無しさん:
age