丸山まさお勉強したいんだけど

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>>66 >>95
鎌田哲哉の「丸山真男論」を読みました。とても読みにくかった。気持ち悪いし、疲れたよ。例えば、

>他方、丸山から「過程」の概念しか学びえなかった凡庸な政治学者たちに向かっていえば、
>彼が福沢論、さらには「忠誠と反逆」「開国」他の諸考察を「政治の世界」と同時並行的に展開し続け、
>しかも前者が全て明治二十年代以前の維新国家が流動的な可能性をはらむ時期にかかわっていること自体、
>丸山の主題が彼らが考える意志も能力ももたなかった「原罪」に迫ることであるのを端的に示している。
                        [『群像』1998.6、102頁上]
誤植もあるのかもしれないが、それを考慮しても読みにくい! 修飾過多で文節が長く、代名詞が捉えにくいぃ!
     (例えば上引四行目冒頭の「丸山の主題が」は「丸山の主題を」かも?)
上記引用は、
<政治学者達は、丸山を理解してない。なぜなら福沢論等と「政治の世界」が平行していた意味を理解せず、
「政治の世界」の「過程」概念しか学ばなかったから>ということなのでしょうか? 

>>88で予想したように、やっぱり、政治的で概念「加上」型の評論だった。(脱構築でもいいよ)
<「惑溺」批判の惑溺>[『群像』111頁上]なんか当に単純な「加上」の典型。(メタメタでもいいよ)
子供がバカとか言われてバカバカとか、バカを加上していくヤツ。新しいとか、卓見だと思ってるでしょうけど。
     (以下にみるように鎌田の言説こそ>>77「観念的に勝手に乗り越え」ることじゃないの?)
鎌田と私は、問題にしている所が全く違う。丸山の朱子学や江戸思想の読みを全く問題にしていないだもん。
彼のように政治とか文学の話しをする前に丸山の研究対象、研究自体について「問わ」ないんですかね。
要するに、同感できればなんでもありなのか?(これは最後に明らかになります)

政治は分からないのですが、文学的政治好きの人は、制度が良ければすべて巧くいくって考えてるようですね。
すくなくとも『日政思研』を読む限り公私を分ける丸山政治学はそう。
公的制度がいくらよくても、私的動機が悪ければ政治なんかよく機能するわけないと思うだけどなぁ。
それこそ修身斉家治国の儒教に学ぶべきことがあると思うが。単なる感想に過ぎないけど。
11528:02/05/09 17:49
ともかくこれを読んで、丸山真男がどうゆう人に興味をもたれるか、分かりましたよー。
鎌田のようないわゆる文学青年ですね。語り好き。西洋好き。政治好き。「柄谷はね」とかいってる人。
丸山が江戸思想史に仮託してヘーゲル・マルクス物語を語ったように、
鎌田は、丸山に仮託してジョイスを語る! いや、自分自身か?

その仮託を丸山は、また今度指摘するように「理念型的」と言ったり、

>彼の表面に現れた言説そのものよりも、そうした言説の行間にひそむ論理をヨリ重視することになる。
           [『群像』93頁上所引の丸山真男『福沢諭吉の哲学』]
と言って韜晦していますが、要するに他人のテクストに仮託して自分の思いを投影するための言い訳でしょ。
あるいは、加上の論理、とか脱構築の論理とでも呼ぶべきか? いや、語りの論理がいいな。           
その物語、語り口がいわゆる文学好きにはたまらないのでしょうが、
私もたまらないよ。なぜなら、私はそうゆう文が嫌いだからです。
その語り口とは、実証的に書かずに直感的に書き、論理的に書かずに詩的に書く。
譬喩の喩例が文学オタにしか通じない符牒、トオシを使うなど。
   (喩例は誰にでも分かる身近なものにしてよ! そのために喩えるんでしょ)
直感的、詩的ってのは例えばこんな断定が無根拠にされることね。

>丸山における「政治」の概念を可能にさせたのは「開国」(敗戦)による「世界」観念の転回である。
           [『群像』109頁上 「開国」(敗戦)にはワラタ]
>この滑稽さは福沢が日露戦争以後も生きて自己の主張を繰り返せば疑いなく陥った性質のものだ。
           [『群像』115頁上]
無根拠に断言できるのは主観の投影だから。自分の思いだからでしょう。
この1963年生まれの予備校教師鎌田さんは、傭兵経験でもあるらしい。ならそう書いてよ。
もし、戦争経験のなしに、上のような断言を無根拠に吐くなら、なんと空々しい自己か? 

西洋好きは自明でしょう。ジョイス、ドストエフスキー、キルケゴール、アーレント、ニーチェなど
丸山と直接関係ない人たちの言葉の洪水なのに、朱子や徂徠などの丸山の研究対象については、
名前があげられるだけで、一句の引用もないのですから。
  (唯一の例外は福沢諭吉。もちろん文学的アイテムの魯迅、柄谷行人等も挙げられるが名誉白人ね)
11628:02/05/09 17:50
では、丸山論の内容はいいのでしょうか? 私はいいとは思えない。誤読すら散見するように思えます。
否定しようもないのは、『日政思研』227頁を引用して「ホッブスについて」と言っています。
ですがそこで論じられているのは、テンニースの誤りです。[『群像』94頁上]
これはケアレスでしょうね。ですが本質的なところで、例えば、これ。

>政治学は世界を批判するが、それは「世界」の全体ではない。
>むしろ「世界」の感受によって「政治」学は初めて何ごとかを批判しうるのだ、と。
>文学だろうと政治だろうと、丸山真男はあらゆるくだらない二分法を消去しただけである。
           [『群像』110頁下]
この主張の根拠は、丸山の次。

>「世界」という普遍概念は場所ではないのです。
(中略、世界対日本、内発的対外発的、伝統対外来という二分法)
>そういう二分法の中にひそむ物の考え方を摘発してゆかねばならない。
        [『群像』106頁上所引の丸山真男『普遍の意識欠く日本の思想』]
引用からよめるのは、(丸山の論文読んでないので私の誤読かもしれないが)
グローバル・スタンダードの中で、ローカル・ルールなど対立概念とはならない、ということではないか?
  (例の公私や近代/前近代なんて二分法はくだらなくないのか? と言いたいです、ハイ)
とにかく「文学だろうと政治だろうと、丸山真男はあらゆるくだらない二分法を消去した」というのは、
明らかに拡大解釈だと思います。解釈の飛躍はさらにこのように、

>彼は、吉本隆明がいうような近代西欧をモデルとする「仮構の立場」によって日本を裁いているどころか、
>何かで何かを裁きうる超越性がどこにもないのを示しているだけである。
           [『群像』107頁上]
などと断言するのですが、私にはやっぱり<西洋近代が標準で正しく、
他の伝統習慣など過去の遺物>と丸山が言ってるとしか思えないが?
それをメタ・レヴェルの普遍概念を持ち出して韜晦しているようにしか思えないよ。
だって、その普遍・世界の中で標準とされるのは、セム系の直線的歴史観であり、
西洋近代の政治概念だもんな。そうゆう局所的ローカルなものを普遍と捉えるのは臆見じゃない?
そういった西洋近代を普遍とする根拠ないでしょ。レトリックだけで、やっぱり、西洋信仰としか思えないぞ。

そう、ここの反論特に聞きたいよ。なんか根拠あるの? 教えて下さい。
11728:02/05/09 17:51
鎌田の主張は、おそらくジョイスのこの言葉に集約されるのでしょう。

a >   政治が何を意味するのかよくわからないこと、
  > そして宇宙がどこで終わるのかわからないことが彼を苦しめた。
b >   彼は小ささと弱さを感じた。
           [『群像』ab 共に92上、113上頁;aのみ107下頁]
彼はこれを上記のように三度も引用しています。特に「小ささと弱さ」はさらに三度、
くわえて、He felt small and weak. と原文まで二度引用しいます。

では、「小ささと弱さ」とは何か? それは、

>自らの力では何ひとつやりとげたことがないという「小ささと弱さ」
           [『群像』115頁上]
なのだそうです。(例によって無根拠)これが鎌田の生活実感なのでしょう。彼にとっての実感が
自らの力では何ひとつやりとげたことがないという「小ささと弱さ」だから、彼はこのように言う。

>「小ささと弱さ」は、あらゆる「にせの問い」を破砕する「宇宙」の観念自体の「にせの問い」への転化を、
>「惑溺」からの解放を目指す福沢-丸山の思考そのものが今陥りつつある絶対的な惑溺を告発する
>微光としての問いなのである。
           [『群像』118頁下]
つまり、彼の実感からすれば宇宙とかの観念は嘘くさく、実感が持てないってことなんでしょうが、
なんだよ、自己嫌悪の投影かよ、って感じですよ。要するにジョイスや丸山に自分の「小ささと弱さ」を
感じるから、言葉を掴み取り、自分に引き付けて「うんうん」って言ってる独り言なんじゃないですか。
だから、共感できればなんでもいいのか! というのです。

ほんとに「小ささと弱さ」実感してんなら、こんな文学的おしゃべり(ポイエーシス)なんかしてないで、
公衆便所の掃除したり、鳩にエサ(プラクシス)でもやっくださいよ、と思うけど。

要するに文学評論って共感のポイエーシスにどれだけテクネーを発揮するかってことなのか?
文学評論についても全く知らないので、すいません。とほほ〜