丸山まさお勉強したいんだけど

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非難覚悟で、もう一歩踏み込んでみましょう。『日本政治思想史研究』384-7頁にかけて、
国民道徳論としての思想史への反動者として二人の学者が挙げられています。
和辻哲郎と津田左右吉です。そして丸山真男、この三人に共通の思想があるように思えます。

まず丸山と和辻は口を揃えて以下のようにいいます。

>孔子や荀子は実践的倫理に終始して形而上的な思索をむしろ排してゐた[201頁]

>孔子が死や魂の問題を取り上げなかったばかりではない、孔子の学徒においてはかかる問題を
>取り上げることが恥ずべきことであったのである。こういう気分から見れば、孔子が死の覚悟
>の問題や、生死を超越する問題や、死人の蘇りの問題や、魂の不死の問題などをすべて取り上
>げなかったということは、むしろ彼の特徴をなすものと見られねばならぬ。
          [和辻哲郎『孔子』岩波文庫1988、126頁。同じく以下に引用されます
           子安宣邦『「事件」としての徂徠学』ちくま学芸文庫、2000、100頁]

子安宣邦は、名著『「事件」としての徂徠学』の中で以上の二人の立場が伊藤仁斎を源流とする
一つの解釈であることを明かしています。それは例えば、

>仁斎は、孔子は鬼神について明弁せずというけれども、しかし鬼神に事えるあり方として
>語っているではないかと、徂徠は『論語』為政篇の孔子の言を徴としてあげていうのである。
                         [『「事件」としての徂徠学』114頁]

なぜ、丸山と和辻は形而上的な思索を排したと解釈したのでしょう。
それは孔子は合理的であると言いたいからです。孔子に鬼神を論じられては困るからでしょう。
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その近代主義解釈によって和辻は、仏教についても合理的だと言いたいしたいため、
次のように輪廻を排除したり、有名な陳腐な無明解釈をしたりしました。

>我々は経典自身の証拠からも、また経典以外の証拠からも、業による輪廻の思想が
>四諦の体系と立場を異にするものであることを明かにした。しかしこれによつて
>我々は業による輪廻の思想が「仏教」に属するものでないと云うのではない。
>それは阿含の経典が示す如く明らかに原始仏教の中に取り入れられている。
>我々の主張するのはこの思想が原始仏教に特有のものでないこと、
>及びそれが原始仏教特有の実践哲学に属せざることである。
     [和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』岩波書店1927、461頁。以上の引用は結語です、257頁も同様
      無明解釈については366頁以下、津田真一『反密教学』リブロポート、1987、24-6、32-3頁参照]

津田左右吉も、次のようにシナ人、日本人は非論理的で、あたかも論理とは西洋だけのもの、
正しい文化は西洋のものと考えていたようです。

>知り得たシナ思想に論理的な思索の迹が無く、學ばうとしたシナ人の思惟の方式が論理的實證的でないのと、
>これらの事情のために、現實の日本人の生活とシナ思想とを對照して、その間の齟齬や矛盾を發見する力が
>養われず、その意味で知性が發達しなかったからであり、
        [『国民思想の研究』第一巻、岩波書店、1951、180頁。同じく17、61頁]
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丸山は、このように、

>学は真理に対する学であつて「教え」に対する「学び」ではない。
>主体と客体との関係は師弟の間から、学とその対象の間のそれに移される。[166頁]

これらの根底には科学信仰があるのではないでしょうか。
つまり、彼らの信じる科学に合わない思想が記述されていると、
それを無知蒙昧な前近代的思惟と捉え、なんとかそれを排除あるいは否定しようとする。
あるいはもっと限定して学問、ヴィッセンシャフト信仰というべきかもしれません。
もちろん、科学や学問に一定の有効性があることは私も認めざるえないが、
彼らはそれを絶対視していたように思えます。
そしてこのような信仰は、明治に起源を発し、今に至るまで続いている。
テキストに書いてことは、テキストどおり読み。その中で批判するのが学ではないでしょうか?

丸山はその信仰が強かったので、江戸思想を敢えて誤読して近代擁護に用いることに、
罪悪感を抱くどころか、自信をもってペンを揮ったに違いないだろう。

近代知の問題性については、また今度ね。
次は、何故、丸山は笑われるかです。