1 :
ガリレオガリ勉君 :
02/03/16 06:01 手始めに何を読んで、その後何を読んで、参考に何を読んだらいい? 勉強する上でポイントとか、心構えとかありますか?
「丸山まさお」ってコメディアンかマンガ家のような名前だね!
4 :
ガリレオガリ勉君 :02/03/16 16:16
誰か詳しい人はおられませんかぁ? 法学部、文学部の学生・・等々、誰か丸山に興味のある人わ・・
5 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/16 17:34
全集がでてるから読めば? あと岩波新書の『日本の思想』は読み易いかな。
6 :
考える名無しさん :02/03/16 18:17
古層ってどうなん?
7 :
考える名無しさん :02/03/16 18:24
丸山真男の『日本の思想』(岩波新書)は 彼が 出征する前日に草稿がまとまったと なにかで読んだことがある。 いわば、若くして死ぬ覚悟での「遺書」だったのだろうか。 読む価値は おおいにあると思う。
>>5 同意。
『現代政治の思想と行動』は、英訳のほうがわかりやすいと聞いた。
>>6 おもろいよ。basso ostinatoって奴だ。
全集読め
で、他に情報ないのかにゃ?
11 :
考える名無しさん :02/03/21 05:45
12 :
考える名無しさん :02/03/21 10:29
まさお元気かなぁ?
13 :
考える名無しさん :02/03/21 22:43
丸山眞男と丸山真人ってなんか関係あるの?
14 :
考える名無しさん :02/03/21 22:50
引き続きお願い
より正確には「全集」じゃなくて「著作集」だな。 「座談集」もうちから出しておる。 講義録は東京大学出版会から出ておる。 座談集は現代文庫にちょとずつ入れているところだ。 1週間もあれば読めるであろう。
17 :
吾輩は名無しである :02/03/22 23:49
「日本の思想」や「現代政治の思想と行動」は(今の)研究者レベルでは評価低いがな。 はっきりいって素人向き(丸山言うところの「夜店」)。 で、丸山の決定版といえば、 『日本政治思想史研究』 やっぱりこれに尽きる。 難しいかもしれんが、トライしてみ。
18 :
考える名無しさん :02/03/23 07:22
ちくま学芸文庫の『忠誠と反逆』に「歴史意識の古層」が収録されているので トライしてみては?
『日本政治思想史研究』要約 (1)欧米の政治思想・政治学はすばらしい。 (2)日本の政治は、ヨーロッパの政治学では分析できない。 (3)正しい学問で分析できない政治のほうが間違っている。 (4)日本の政治は前近代的で理不尽なものである。
みなさん、今日本屋で日本の思想を探してきます! 一週間以内に読破する予定ですので、温かく見守ってください。 よろしくお願いします!
21 :
考える名無しさん :02/03/26 11:23
講義録買おっかな・・・
22 :
考える名無しさん :02/03/26 15:55
勉強するならもっと大物を選べ
23 :
アイク・ターナー ◆QmAE5kjc :02/03/28 01:09
私も好きです。丸山。吉本と論争しませんでしたか?
24 :
石川梨華 ◆RIKAwz.6 :02/03/29 00:41
25 :
考える名無しさん :02/04/04 07:35
これいいスレだね
>7 それは『日本政治思想史研究』の第一論文の 荻生徂徠論のことだね。 あとがきに書いてあるんだけど、 草稿を書き終わる直前に家のまえに丸山たちを戦場に送る人たちが 続々と集まってきた、ってやつ。 まあ、丸山は「あとがきの名人」だから、 かなり芝居がかった文章なんだけどね。
27 :
考える名無しさん :02/04/05 07:54
今ちょうど、『日本の思想』をよんでいるが・・、 思想の伝統というものが、日本に存在しただろうか? 蛸壺型とササラ型という類型化に丸山の安直さが みられないわけではないが、思想の歴史的発展というものに あまりに無頓着な日本の知識人に対しては、いまだ 有効な議論にも思える。もちろん、受容される思想の、 現地でのコンテクストの理解には、慎重に気をつかうものは いるだろうが、これまで日本で行われてきた歴史的議論を 体系的な流れにして批判的に発展させたものがいる (あるいはいた)だろうか?
28 :
考える名無しさん :02/04/05 09:39
19 さんに禿同。 丸山真男は、戦前への反動形成でしょう。 時代精神にあったから広く受け入れられた。 これからはお笑いでしかない、と思うけど。 自虐的西洋崇拝者
29 :
考える名無しさん :02/04/05 17:37
丸山を勉強するのなら、下の三冊は丸山批判の代表的なものなので読んで おいて損はないと思う。 滝村隆一『ヴェーバーと丸山政治学』ケイ草書房。 同『ラスウェルと丸山政治学』同。 子安宣邦『事件としての徂徠学』ちくま学芸文庫。 後、鎌田哲哉が「群像」新人賞を獲った「丸山真男論」も探すのが面倒で なければ読んでおいた方がいい。 丸山は「夜店」ものよりも「日本政治思想史」もののほうが断然面白い。
30 :
考える名無しさん :02/04/05 22:00
>>28 キミ、丸山の著作なんてほんとは読んでないでしょ。
『日本政治思想史研究』は「西洋近代の超克」の時代思潮を背景に
戦前から戦中にかけて書かれたものなんだよ。
まあ、戦後刊行される時に丸山が多少手直しはしてるけど、
到底「西洋崇拝」なんていえる代物ではない。
だいいち、「自虐」なんて言葉使うと背景がバレバレで、
厨房扱いされちゃうよ(藁。
31 :
考える名無しさん :02/04/05 22:46
>>30 漏れも28は実は丸山読んでないアフォだと思った。
まるやまは、「伝統」の大切さも力説しているし、どこが自虐的西洋崇拝者なのかねえ。
32 :
考える名無しさん :02/04/05 22:58
丸山はむしろ「日本文化本質論者」だったってのが最近の批判論点だね。 若手の葛西弘隆なんかはどう評価されてるの?
コヴァ厨は基本的にマンガしか読みません。
34 :
考える名無しさん :02/04/05 23:30
>>30 おー!ホントも何も昔、斜め読みしただけだよ。そこは鋭いね。
>戦前から戦中にかけて書かれたものなんだよ。
これは記憶にある。
だか「西洋近代の超克」なんて印象はないぞ。
たしか、日本には超克すべき近代が根付いてないとか書いてあったと記憶するが。
一番興味あるのは、貴方のこの発言、どんな背景を想像するのですか?
ここだけでも教えていただきたい。
>だいいち、「自虐」なんて言葉使うと背景がバレバレで、
>厨房扱いされちゃうよ(藁。
「自虐」といったのは何処で読んだか聞いたかうろ覚えだけど、
たしかゲッペルスは笑い、某は泣いたという例証ね。
この実例は酷いでしょ。かたやA級戦犯、かたやC級戦犯だもん。
つまり、単に日本がだめだと言いたかっただけで、実例になってない。
正に「自虐」的! 要するに戦前に書かれても戦前の反動形成だと思うけど。
違うなら教えて下さい。あまり知らないもんで。
「自虐」なんて、コバ藤岡信者の十八番に決まってるでしょ。 でもなんでコバ藤岡信者が哲学板にいるんでしょ?お呼びじゃないよ。
36 :
考える名無しさん :02/04/06 01:00
コバ藤岡ってどんな人、知らないぞ。
37 :
カンりか ◆RIKAwz.6 :02/04/06 01:47
思えらく、小林よしのり・藤岡信勝でしょう。
38 :
考える名無しさん :02/04/06 07:07
なるほど、その二人ですか。 藤岡信勝って知らないし、小林よしのりは大嫌いなので、まったく違います。 なるほど、自虐というのはそうゆう路線なのか。よく分かりました。 ありがとうございます。
39 :
考える名無しさん :02/04/11 01:45
まあ、丸山がつまらんのは確かだな。 どうしてこんなもんがはやったのか?
>>39 アホだなこいつは。
吉本でもマンセーしてなさい。
つまんねえもんはつまんねえんだよ。 本屋でも売れているとは思えないね。
>>41 じゃあどこがつまんねえかいってみな?
政治学、近世思想史上において、
時に悪という接頭辞がつくほどの影響力が、
いまだにあるのをしってんのか?
43 :
考える名無しさん :02/04/11 09:40
>>39 丸山は内容はともかく、あの時代の著書にコミュニズムを潜ませた書き方を
したそうですが、それは面白いというか、やっぱ並じゃないですね。
それを明かしたものってあるんですか?
44 :
考える名無しさん :02/04/11 13:03
影響力のあるなしと,つまらぬかどうかを混同するのは いかがなものか。
45 :
考える名無しさん :02/04/12 01:49
思想家が日本で売れるためには、文芸批評系じゃないとダメだね。 小林秀雄や保田與重郎なら、仕事じゃなくてても読みたいが、丸山を 休日に読みたいとは思えないもんね。
丸山マンセーVSカルスタマンセー どっちのほうがよりバカか?
47 :
考える名無しさん :02/04/13 14:07
48 :
考える名無しさん :02/04/15 11:35
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/book/1009099634/221 といわれたので、記憶違いかとも思い読み返してみました。
実証が面倒なので1983年版『日本政治思想史研究』に限定させてもらいますが、
次の私の主張は全く正しかった。我ながらホント、どうでもいいことはよく憶えている。
1.丸山真男は、戦前への反動形成でしょう。
2.丸山真男は、自虐的西洋崇拝者
3.丸山真男は、時代精神にあったから広く受け入れられた。
4.これからはお笑いでしかない、と思うけど。
以上の四点を順番に実証してみましょう。まあ、原典批判とかしてませんので、適当ですけど。
以下、頁数のみの引用は上記1983年東京大学出版会版『日政思研』です。
引用にあたって、*付きは代字。ウムラウトや傍点、ルビ、生没年などは転写していません。
誤字脱字は許してね。
(しかし、こんな本がインドネシア語にまで訳されるとはね。
やっぱウエスターンには分かりやすいんでしょうが、明らかに誤解されちゃうよ〜)
50 :
主張1.丸山真男は、戦前への反動形成でしょう。 :02/04/20 16:11
この主張は全く正しい、端的に丸山自身が次のように述べています。 (逆にここまで明記されているのに、みなさんが何故、読みとれないのかが謎です) >「近代の超克」論と、それを背後から支えている全体主義的な思潮とに >対して強い抵抗感を持った知識人や研究者は、それぞれの分野で、まさ >に贖罪羊にされている「近代」を擁護するのを自分たちの義務と感じた >のである。時代の潮流に逆らったリベラルと、マルクス主義者とが、こ >の知的戦線において「近代」の擁護の側に立った。 [396-7頁、また372、391、398頁も同様] 要するに戦前の全体主義への反動としての近代擁護が、著作の動機なのです。 しかも、戦中に書かれたため、マルクス主義を韜晦して、 江戸思想史の中に投影した。実に政治的で、非学問的な著作なのです。 それゆえマルクス主義者、近代主義者には受けた。 この『日政思研』は、その思想基盤の一つとなるヘーゲルがいう、 次のような著作ではないでしょうか? >その思いつきたるや、それが大胆であればあるほど、 >つまり、根拠が薄弱であればあるほど、 >そして、歴史上の明確な事実に矛盾すればするほど、 >かえってすぐれたものと見なされるような代物です。 [長谷川宏訳『歴史哲学講義』岩波文庫、1994、上21頁(名訳だ)] (これはヘーゲルにも当てはまります、シナ、インド、チベットについては誤解だらけ 西洋史には無知だが少なくとも哲学史はギリシャから始めるなら、 アラビアを無視するのは不当で、キリスト教を語るなら中東から記述を始めないのはおかしい。 というか『歴史哲学講義』はファナティックな愛国歴史物語にしか読めないです)
51 :
主張2.丸山真男は、自虐的西洋崇拝者 :02/04/20 16:13
これは彼の近代擁護に端的に表れています。 では、彼の言う近代とは何か? それはこのようなことです。 >それに続くウイリアム・オッカムらの唯名論者は、盛期スコラ哲学の >「主知主義」との闘争において、人間の認識能力に広汎な制限を附与 >し、従来理性的認識の対象たりし多くの事項を信仰の領域に割譲する >ことによつて、一方に於て宗教改革を準備すると共に、他方に於て自 >然科学の勃興への路を開いた。徂徠学や宣長学に於ける「非合理主 >義」もまさにかうした段階に立つものにほかならぬ。むろん古学派や >国学が唯名論と同じからぬごとく、朱子学「合理主義」とスコラ的 >「合理主義」との間には決定的な相違が存する。しかし、後期スコラ >哲学がトマス主義に対して持つた思想史的意味と、儒教古学派乃至国 >学が朱子学に対して持つたそれとは看過すべからざる共通性を担つて >ゐる。 [185-6頁、この主張には註2が付され言い訳が書かれているが重要ではない] つまり、近代とは西洋近代であり、単純にいえば宗教から科学へ、 「名より実へ[96頁]」つまり、観念論より唯物論へ、 言い換えればイデオロギーから歴史へ、「農奴から市民へ[189頁]」 というマルクス主義的唯物史観を、江戸の思想史に読み込んだのです。 彼の言葉で言えば「自然」より「作為」へ、要するに、次のことを主張したかったのです。 >維新以前の時代においても伝統主義者が美化しているほどには、「近 >代」と無縁な「東洋精神」が歴史的変化から免れて持続していたわけ >ではない。徳川時代の思想も、「底流」に着目すれば、近代への引続 >いた発展の相において(sub specie)とらえるのは可能である。[398頁]
彼はこのように言う、 >近世日本の思想界はシナ帝国と同じく真の思想対立を知らず、正しい >意味における思想的発展をもたないことになる。[13頁また48頁も同様] この「正しい」に彼の否定すべからざる西洋崇拝が表れています。 それは「シナ歴史の停滞性[4頁]」に対立する正しい歴史、 と彼が信仰しているからです。その正しい歴史とは例えば、このようなものです。 >歴史がなんらかの道学的規準の奴婢となつてゐる間は、如何なる意味 >においても本来の歴史を語ることは出来ない。ヘーゲルのいはゆる実 >用的歴史叙述(pragmatische Geschichtsschreibung)の徹底的な >超克の後に、真の歴史叙述は始まる。 [189頁また26頁、100頁も同様] 実用的歴史叙述とは、要するに丸山が否定した朱子の歴史書・通鑑綱目のようなものです。 [26頁、100頁][長谷川宏訳『歴史哲学講義』岩波文庫、1994、上18頁以下] 要するに通鑑綱目や、シナの正史のような鏡としての歴史は、 正しい歴史ではないというのです。
53 :
また、つづき :02/04/20 16:16
ではヘーゲルの正しい歴史とは、何でしょう。 >歴史に登場する民族がつぎつぎと交替するなかで、 >世界史がそうした発展過程をたどり、 >そこで精神が現実に生成されていくこと―― >それこそが正真正銘の弁神論であり、 >歴史のなかに神の存在することを証明する事実です。 >理性的な洞察力だけが、聖霊と世界史の現実とを和解させうるし、 >日々の歴史的事実が神なしにはおこりえないということ、のみならず、 >歴史的事実がその本質からして神みずからの作品であることを認識するのです。 [『歴史哲学講義』下374頁また上22、30、34、101頁も同様] つまり単純にいえば、歴史とは絶対精神・神の顕現だということです。 これは、レーヴィットがアウグスティヌスの『神の国』との対比で明かして以来、 周知のように、キリスト教圏、というかユダヤ、イスラムを含むセマンティック文化圏では 別になんら驚くべきことでもなんでもなく、実に普通の考えなのです。 それを支持するように『歴史哲学講義』ではユダヤやイスラムに高い評価を与えています。 [『歴史哲学講義』上202、318、下21、223-4頁] セマンティックな歴史観が、誤った「シナ歴史の停滞性[4頁]」に対立する 正しい直線的進歩・発展史観にほかならないのです。 つまり、唯一絶対の神が終末に向かって世界を創造し発展させる、それが歴史だと。
54 :
またまた、つづき :02/04/20 16:17
さて、ここまでくれば、丸山の次の言葉の意図がよく分かるでしょう。 >私の脳裏にはあきらかに、徂徠学と宣長学との思想構造の連関を、 >ヘーゲルとマルクスのそれにたとえる意図があった。したがって、初 >稿には、「宣長学にとって、徂徠学的思惟方法は"逆立ちした真理"で >あった。宣長はこの逆立ちした真理を再転倒させることによって、徂 >徠学を継受した」というふうに表現されていた。[380-1頁] (連関は、マンハイムの言葉、確かに『日政思研』は多くの術語を 『世界の名著』56参照から使用しているようですが重要とは思えません) "逆立ちした真理"とは、『資本論』第二版へのあとがきに、このように述べられることです。 >私の弁証法的方法は、根本的に、ヘーゲルのそれと異なっているばかりでなく、 >それとは正反対のものである。ヘーゲルにとっては、彼が理念という名のもとに >独立の主体に転化さえしている思惟過程こそが、現実的なものの造物者なのであって、 >現実的なものは、この造物者の外面的な現象をなすにすぎない。私のばあいは逆に、 >理念的なものは、人間の頭のなかで置き換えられ翻訳された物質的なものにほかならない。 [『世界の名著』43、94-5頁。本来『資本論』第二版序文よりの引用なのですが、 『世界の名著』では省略されていて、未確認。ですが同じことでしょう。 高島善哉訳『マルクス 経済学・哲学論集』河出書房新社、1969、265頁も同様] つまり、ヘーゲルは神を信仰したが、マルクス・エンゲルスは神を否定し、 世界は物質から造られ発展するそれが歴史だとした。単純にいえばこれが史的唯物論です。 同様に、徂徠は天を信仰したが、宣長は否定した、それこそ日本の近代だと丸山は主張するのです。 [188、250頁] これを西洋崇拝と言わずしてなんというのでしょうか? まあ、この江戸思想史の分析が妥当なものなら、それでもいいかもしれないが、 それは全く不当な解釈なのです。それについては、また今度ね。
まあ、確かに丸山は、今となってはお笑いですね。 こんなものですらもてはやされた時代の勢いというのは 恐ろしいものですね。
解説ありがと。 前からツマラン思想家だと思ってましたが、 丸山がドキュソなことがよく分かりました。
57 :
考える名無しさん :02/04/20 23:05
いやちょっと待てそんなんでドキュソってわかったの?w
58 :
考える名無しさん :02/04/21 00:50
rtqwre
59 :
考える名無しさん :02/04/21 01:45
ここは、福田でぶ和也に登場してもらってですね。
61 :
考える名無しさん :02/04/21 09:01
丸山って実際は、共産主義者だったという人がいるが本当か
62 :
考える名無しさん :02/04/21 09:18
>>49-54 面白い。柄谷とかが江戸思想を取り上げる動機がわからなかったけれど、
なんとなくわかったような気がしました。
63 :
考える名無しさん :02/04/21 23:40
丸山って哲学じゃねえだろ。政治思想板でやれ
↑バカ?
55さん、そうですね。ですが、それは主張4.で詳しくやります。 56さん、62さん、お役にたてて嬉しいです。 63さん、マルクス、ヘーゲルも出てきてますよ。だめですか? 主張4.ではもっと哲学的で面白くなるつもりですが。 哲学も歴史も、朱子学も厨房なのでご愛敬です。政治に至っては無知に等しいですし。
66 :
考える名無しさん :02/04/22 22:15
>>49-54 のような批判が丸山の福澤諭吉論を読んだ
後で可能かどうか。
>>28 やそれに簡単に説得されてしまう連中は丸山
を実際に読み込んだこともなく、流通している安
易なイメージに基づいて批判する2ちゃんねらー
の典型。
丸山を批判するのであれば、鎌田哲哉の「丸山真男
論」は最低読んでおけ。
>>66 同感。
ようやく反論がでたな。
専門じゃないから、引用しながら反論ができないだけに、
>>49-
>>54 の論調が安易に同意されるのを苦々しく思った。
反動形成に関しては、丸山が天皇という存在を
どう見ていたかをもっとよく考えて欲しい。
しかし強く否定はしない。
>自虐的西洋崇拝者
これは、もうまったくの不当な評価だ。
とらえずらい日本の文化をいかにして
捉えるべきかということにおいて、例えば
批判がおおいにせよ、『古層』における
研究に、自虐的などという形容詞は、的外れだ。
>時代精神にあった
おそらくそれはあっただろう。
しかし、丸山が左翼であったわけではない。
>おわらいでしかない。
まあ、一部の人間にとってはそうだろうな。
丸山が近代合理主義者であり、それゆえ批判されるべきというのは、
単純な思考ではないか。吉本の丸山批判の枠をでていない。
68 :
考える名無しさん :02/04/23 01:49
丸山の福沢解釈ってのも酷い。 テキストつまみ食いの典型例だね。
70 :
考える名無しさん :02/04/23 02:17
近代合理主義なんてのは、19世紀への反動にすぎんだろ。 西田幾多郎の偉大な「近代の超克」の後に敗戦の混乱時とはいえ、 こんな反動的な思想が出てきたのはやりきれんな。 我々若者は、徹底的に丸山を無視すべきでしょう。
>>70 近代合理主義を通らずに、安直に批判に飛びつくのは、
まさに丸山の批判した構図じゃないか。
72 :
考える名無しさん :02/04/23 05:57
>>71 >近代合理主義を通らずに、安直に批判に飛びつくのは、
>まさに丸山の批判した構図じゃないか。
まず、近代の理の中身が問題なのです。
合理というが、思想体系は大系内では必然的に合理でしょう。
問題は体系外からみても、その理が妥当かということにあるとは思いませんか?
その理がイデオロギーとか呼ばれるわけ。
その理の検討が形而上学とか、認識論とか論理学とか呼ばれるんでしょう?
何故、近代合理主義を通る必然性があるのか?
それこそ信仰ではないのか?
>>66-67 反論するなら根拠をしめして実証してください。
主張だけでは全く意味がないでしょう。
そりゃ、あなたがたの方が長くご研究されているんでしょうから、
多分、色々と御存知かと思います。諸批評についてはご教授ください。
特に何処が誤読かを教えていただきたい。あるいは解釈が異なるかを。
ですが、一言いわせていただければ、私は原典にたって実証しています。
多くの批評家の論などいちいちあたるより、
丸山が問題にしたテクストを読む方がより正確で、根本的だとは思いませんか?
74 :
考える名無しさん :02/04/23 10:34
>>71 >近代合理主義を通らずに、安直に批判に飛びつくのは、
>まさに丸山の批判した構図じゃないか。
こうゆう丸山の言説が、近代主義擁護の詭弁以外の何なの?
「ミイラ取りがミイラになった」 ということばがあります。 安直に「批判」に飛びつくのは危険。 素通りするのが安全。
76 :
考える名無しさん :02/04/23 15:27
というか、マルクス主義、唯物論、近代主義に飛びつく、しがみつくのは危険! だと歴史的(ワラ)に証明されているので、 素通りする、手放すのが安全!
77 :
考える名無しさん :02/04/23 16:02
日本では「近代化」が十分に達成されないうちから「近代の超克」が 唱えられ、観念的に勝手に乗り越えられてしまうということに丸山は 苛立っていたのであって、それは『日本の思想』で日本ではあらゆる 思想が受容されるが、思想間に葛藤が生じないがゆえに根付くことが ないと批判していたのと同じことだ。 周りの連中が「近代の超克」を声高に叫んでいるときに自分はあえて 愚劣に近代化を求めるのだという丸山の決断は、そのような「日本的 自然」への抵抗ではなかったか。 丸山が近代合理主義を主張したのはあくまでそのような文脈において であって、そのことは丸山が近代合理主義を絶対的なものと考えてい たことを全く意味しない。 丸山を「西洋近代崇拝者」という紋切り型によって裁断する連中は、 丸山が福沢の「議論の本位を定めること」という言葉に込めていた批 評的意味を全く掴めていない。 「西洋近代崇拝者」レベルの自分の無知を露呈させるだけの批判しか できず、また、批判の対象から何も学ぶつもりがないのであれば、いっ そのこと初めから何も語るべきではないし、その資格さえない。 素通りするのは勝手だが、自分が回避しえたと思っていた穴に、気が つけば落ち込んでいたということが決してありえないと断言できるか?
78 :
考える名無しさん :02/04/24 00:27
断言できます。少なくとも西洋は崇拝していないです。 西洋近代の自由、平等、博愛、お笑い! 分析知、これとあれを区別する意識がある内は、それは無理。 これとあれは平等ではありえない! これとあれを認識していては博愛はありえない! これとあれを認識していては自由ではありえない! 意味分んなかったりして?
79 :
考える名無しさん :02/04/24 10:55
誰かを批判するのであれば先行する研究に一通り
目を通しておくのは最低条件。
最低の水準で相手をけなして得意がっているうち
は真性厨房だぞ。
丸山を批判するのであれば鎌田の丸山論の水準は
満たさないとね。
>>78 訳ワカンネーヨ
80 :
考える名無しさん :02/04/24 11:08
81 :
考える名無しさん :02/04/24 11:39
分析知、これとあれを区別する意識とは、意味分節といえば分かるかな? ある社会的習慣、言語習慣(ラング、ヴィヤヴァハーラ)によって分節され、 制度化され、構造化された世界に平等などありえないということ。 これでもわかんない?
中野敏男『大塚久夫と丸山真男 ― 動員、主体、戦争責任』(青土社)はどうすかね? 僕は丸山論に関して言えば素晴らしい仕事だと思ったんだけど。
83 :
考える名無しさん :02/04/24 14:27
>>81 は自分の専攻崇拝者に一票!
それが丸山批判に何の関係があんの?全然関係ネージャン
話しをずらしちゃ駄目だYO!
>>82 つい最近出た奴だよね。内容プリーズ!
>>78 が
>>77 の「穴」の意味を理解できていないようなので
簡単に解説しておくと(マチガッテタラゴメンネ)、ここで意味され
ている「穴」とは「近代主義」を意味しているのではなく、
丸山が福澤から引用する「惑溺」を意味していると思われ
ます。
「惑溺」とは(ウロオボエデスガ)「物の働きを尊ぶのではなく
物そのものを尊ぶこと」つまり、何らかの主義が現実に齎
す作用を尊ぶのではなく、その主義そのものを絶対化して
しまうことを意味します(タシカ)。
この一事によっても丸山を「西洋近代崇拝者」だとする批
判が的外れなことは明白なように思われるのですが……
(物の働きではなく物そのものを尊ぶことを「惑溺」と批
判している当の本人が近代主義を絶対化するとは考えられ
ないでしょう)
詳しい説明は誰かきちんと読んでる人お願い。
>>83 「論座」にさいきん書評が載りました。僕が下手に紹介するよりもそちらを読まれたほうがいいかも。
86 :
考える名無しさん :02/04/24 22:59
>(物の働きではなく物そのものを尊ぶことを「惑溺」と批 >判している当の本人が近代主義を絶対化するとは考えられ >ないでしょう) 良心的な人でもなかなか、言行一致は難しいです。 ましてや丸山さんでしょ。いうこととやることが一致していない。 それは、『日政思研』で江戸思想を分析するといって近代主義を 宣揚することに端的に表れている。詐偽といってもいいと思う。 そういう行為は学問ではなく、悪い意味で政治以外のなにものでもない。 そういう人の書いたものを信じられるのが信じられない。 逆になんで信じられるか聞きたいよ。 加地伸行『教養は死んだか』PHP新書、64-69頁もどうぞ。 あなたは丸山を信仰しているから、西洋近代崇拝者と思いたくないだけ。
>>77 では、これは少なくとも認めているのですね。
主張1.丸山真男は、戦前への反動形成でしょう。
自分で1974年に書いた英語版への序文[406頁]で、
彼は反省してこのように言っていますよ。
>「自然から作為へ」といった進化論的図式が、どこまで歴史的実証に
>堪えるか、については少なからず疑問の余地がある。ただ、かりにそ
>の図式を全部破棄したとしても、本書における個々の分析――たとえ
>ば徂徠学の内部構造とか、そのなかでの公的領域と私的領域との分岐
>の意味とか、徂徠学と国学との思想的関連について、前者における私
>的領域の解放が後者によって継承されたところに生じた、とかいっ
>た――分析の成果は、今後の研究の発展にも活かす余地があるのでは
>ないか、と現在の著者は不遜にも考えている。[402頁]
これは近代主義的進化論的認識、――宗教から科学へ、「名より実へ」
観念論より唯物論へ、イデオロギーから歴史へ、「農奴から市民へ」――
が間違っていたという反省に等しい。自らその構図を進化論的認識と、
いっている。これが近代主義擁護のために持ち出した詐偽の部分なんです。
しかもその詐偽に騙されたヤツらの多いこと、というか騙されたやつらも
知って騙されたんでしょうか?
問題は、徂徠学と国学との思想的関連、つまり、
「私的領域の解放」の継承があったかどうかだが、これはまたのお楽しみ。
>>66 >>79 どちらが安易かちょっと考えてみて。
『日本政治思想史研究』を読み、その原資料を読んで実証する。
鎌田の丸山論を読めとだけ言い、何も根拠を挙げない。
安易とか、最低水準とか、あなたのカキコには論争に勝つための
レトリックがあるだけで、なんら意味を感じないんだけど。
反証できないから詭弁で逃げてると思われてもしかたないぞ。
それとも単なる傲慢か?
先行研究ねぇ。江戸思想を分析した『日政思研』を批判するのに、
なぜ一次資料である江戸思想を記したテキストや、方法論的お手本のヘーゲルやマルクス、マンハイムを読むのではなく、
二次資料である丸山を表した、特定の評論が重要なのか、私には分かりかねますが?
しかも批評とか読んでもね。どうせ政治的な評論でしょ? 私には問題外のことですよ。
もちろん鎌田の丸山論を読むのは簡単だけど、一度そうすると、
では、これも読まねばならない、とかいって次から次へと二次資料を出されるからね。
挙げ句の果ては丸山全集から始まって、全評論とか言いかねない。
一次資料にあたれば問題ないと思うけど。図書館にあったら読むよ。なければ読まない。
鎌田の丸山論がそんなにいいなら引用して実証してみてよ。
丸山ワンフーって語る(観念的だ)が、引か(実証し)ないな。
もしかして実証より発想が重要と考えてるんですか?
>>67 >>77 あなた方と私とは多分問題にしているところが違う。
あなた方が問題にしているのは政治的有効性、正当性、妥当性のようなものではないでしょうか?
私が問題にしているのは、丸山の読みの問題、学問のあり方、
つまり、丸山のような江戸思想の読みは可能かどうかです。
だから、このようなことを言われてもねぇ。
>反動形成に関しては、丸山が天皇という存在を
>どう見ていたかをもっとよく考えて欲しい。
私が丸山が不当だとしているのは江戸思想の読みに、そのように政治的意図を持ち込むことです。
それこそが不当なのであり、丸山に同情するより、徂徠や仁斎などに同情してほしいのです。
>また、批判の対象から何も学ぶつもりがないのであれば、いっ
>そのこと初めから何も語るべきではないし、その資格さえない。
だから、この言葉、丸山に言ってあげてください。徂徠や仁斎を批判して近代主義擁護した人に。
私は間違いは正すべきだと考えます。丸山が如何に宋学を誤読しているかを、今、分析中です。
>>89 俺は原典が手元に無いんで、引用できんが、
『忠誠と反逆』、『現代政治の思想と行動』を呼んでも
丸山が西洋崇拝者だと思うのか?
むしろ君が言いたいのは、日本の思想史に
西洋近代的視点を持ち込むのは、馬鹿だってだけじゃないのか?
西洋崇拝者であるはずの丸山がなぜあそこまで”日本の思想”やその”文化”
に拘っていたのか不思議に思わないのか?
丸山の山崎闇斎学派論についてはどう?
92 :
考える名無しさん :02/04/25 09:53
>>28 よ、とりあえず一次資料の丸山の福沢論だけでも
読むべきだぞ。
岩波文庫に『福沢諭吉の哲学』として刊行されている
から入手は容易だろ。
批判すべき対象の著作にろくに目も通さずに批判する
のはいかがなものか?(ムネオ風)
丸山が徂徠や仁斎を不当に扱ったと批判するが、それ
ならば丸山に対する君の批判も不当なものだと思わな
いか?
93 :
考える名無しさん :02/04/25 10:13
何だか議論がすれ違ってばかりで不毛な袋小路に 陥っちゃてるね…… 絶対漏れの責任だ。鬱だ詩嚢……
94 :
考える名無しさん :02/04/25 10:16
>>93 の自殺は「無責任の体系」に対するパフォーマティヴ
な批判です。
皆さん、共に
>>93 に黙祷を捧げましょう。アーメン。
95 :
考える名無しさん :02/04/25 13:44
>>86 よ、前のレスを理解した上でレスしなさい。
加地ような昔から繰り返されてきた何の新しみも
ない凡庸な批判を今更持ち出されても馬鹿馬鹿し
くて何も言う気がおこらんよ。
君は知らないのかもしれないが、その手の批判な
ら夙に加藤ショウブが明晰にやっている。
また、勘違いしているようだから言っておくが、単
純な「西洋近代崇拝者」的な丸山批判者が上のレス
で批判されているのは、その手の批判はとうの昔に
乗り越えられているにもかかわらず、今だに馬鹿の
一つ憶えのように繰り返されているからだ。
護教的に丸山を批判するななどと言うつもりは更々
ないが、批判するのであれば、鎌田が先行する批判
をその不徹底ゆえに切り捨てた後で尚且つ批判を試
みているのを少しは見習えと言ってるんだ。
丸山を「西洋近代崇拝者」と批判している連中は、
自分達の批判の水準に向けられた批判を、丸山擁護
とイコールに結び付ける誤りを犯していないか?
ここまで言って理解できなければ、2ちゃん的には
「逝ってよし!」だ。
>>94 アーメン。
96 :
考える名無しさん :02/04/25 13:55
68 :参加するカモさん :01/12/11 17:29 ひろゆきってたまーに驚く程幼稚なセリフ真顔で吐くんだけど、いったいどういう 青春を送ってきたのだろう? 普通に成長を遂げた人間であれば赤面してしまうような恥ずかしいセリフ 82 :参加するカモさん :01/12/13 15:02 なんとなく言ってることわかる。 俺もひろゆきと何回か話したことあるけど、大昔のドラマでも見てるような気になった 95 :参加するカモさん :01/12/22 16:35 飲み会になると、必ず「遅刻」の話を得意気に語りだすけど、ひろゆきって遅刻することかっこいいと 思っているのかな? 回りの人間は苦笑するしかないけど、この人やっぱり幼稚だと思う
>>90 >むしろ君が言いたいのは、日本の思想史に
>西洋近代的視点を持ち込むのは、馬鹿だってだけじゃないのか?
違います。西洋近代的視点によって日本の思想史の分析を行うのは、
許されるでしょう。私はあまり好きじゃないですが。
問題なのは、西洋近代擁護のための、日本の思想史改竄です。
つまり、よくある自分の立場に合わせてテキストを読み変えていると、
しかも、それが悪い意味で政治的に、近代宣揚、マルクス主義宣揚のために
なされていることが詐偽だと言っているんです。目的のためには手段を選ばず。
学問におけるテロですね。 テロルとしての学問のがいいですか?
>西洋崇拝者であるはずの丸山がなぜあそこまで”日本の思想”やその”文化”
>に拘っていたのか不思議に思わないのか?
それは彼自身が1974年(1983年といってもいい)にこう言っているではないですか。
>維新以前の時代においても伝統主義者が美化しているほどには、「近
>代」と無縁な「東洋精神」が歴史的変化から免れて持続していたわけ
>ではない。徳川時代の思想も、「底流」に着目すれば、近代への引続
>いた発展の相において(sub specie)とらえるのは可能である。[398頁]
つまり、伝統主義者への反動から、彼らの基盤を崩したかったのでしょう。
江戸にも近代があるではないか!と、
しかし、それは政治的学問テロにほかならないと明らかになったでしょう?
>>92 >丸山の福沢論だけでも読むべきだぞ。
あのね、それが何を意味するか分かってんですか。
丸山の福沢論を読むのは簡単だよ、4時間もあれば読めるでしょう。
だけど、それを分析するためには、丸山がそこで使用した原資料を
全て読まなきゃならないってことなんですよ。
要するに福沢諭吉から始まって、蘭学系と諭吉が影響受けた西洋ものでしょ。
そうゆうの読まないと何もいえないよ。一応、実証的にやってんだから。
>丸山が徂徠や仁斎を不当に扱ったと批判するが、それ
>ならば丸山に対する君の批判も不当なものだと思わな
>いか?
確かに丸山真男全体を論ずるには不当でしょう。
だが、テキストは一つの完結したものと見なすことができるでしょう。
つまり、私がやっていることは『日本政治思想史研究』における丸山なので、
他のことには言及していません。それは充分方法として妥当だと思うけど。
つまり、私がやってるのは代表作『日本政治思想史研究』の分析解明なのです。
それ以上手を広げる気もないし、また時間的に広げられないですよ。
100 :
主張3.丸山真男は、時代精神にあったから広く受け入れられた。 :02/04/26 06:06
これを直接実証する手法を私は思いつきません。ですから間接的に証拠をあげましょう。 これらは自明といえば自明であり、陳腐なことばかりです。自明でも敢えて確認してみます。 まず、丸山自身が、このように語っています。 >一九二○年代の後半から日本のアカデミックな世界をまきこんで、 >知識人を台風のように襲ったのは、マルクス主義であった。[387頁] 1950年にはGHQの赤狩りがあった。コミュニストは結構いたのです。 1960年代は安保闘争、学生運動が盛んだった。 つまり、当時もマルクス主義は流行していたのです。しかも戦時中の抑圧がなくなったから、 潜伏していたコミュニュストが、大いにここぞとばかり、日本を変えるという意識で 立ち上がったに違い有りません。その直中の 1954年に、丸山真男の公的なデビュー作『日本政治思想史研究』を出版、 丸山もペンで日本を変えようと思ったのでしょう。 しかも、その中で戦前からマルクス主義的唯物論を貫いたという勲章を持ったこの著者が、 不屈の男、真実の人とか思われ、称賛をもって迎え入れられたことは簡単に想像できるでしょう。 たとえてみれば隠れキリシタンが、観音像にマリアを刻んだように 隠れマルキストの丸山が、『日政思研』にマルキシズムを潜ました。 その行為はほとんど半殉教者扱いされ、その筋の人に英雄視された。
史学界でもマルクス主義は流行していたようです。 辻善之助『日本文化史』の序文で高柳光寿は、次のように述べています。 >終戦後は唯物史観が史学界を風靡した。出版される歴史書という歴史書の殆ど全部が >いわゆる進歩派の人々の著述であった。(第一巻1959年版2頁) 同様に宮崎市定は、唯物史観を批判しならがこのように述べます。 >一時期学会を風靡したのは、唯物史観派による三時代区分法であった。歴史学研究会を始め、 >進歩派の史学と称する人達は争ってこれを奉じて金科玉条とした。ところが私は、 >この時代区分三分法がヘーゲルの歴史哲学に基づいていると聞いた途端にがっかりした。 >周知の如く、ヘーゲルの三時代のうち古代史とは、君主一人だけが自由人で他の人民は >全部が奴隷である社会と規定する。だが併し、こんな社会体制が実際あり得たであろうか。 >もしそんな体制が成立つならば、どのような過程を経て、どのようにして出現し得た。 >またそれが如何なる理由によって、如何ように次の中世に移行し得たであろうか。 >こんな社会は全く哲学者の空想の産物ではあるまいか。またそんな仮設から導かれたのならは、 >唯物史観の三時代説も怪しくなって来はしないか。[『自跋集』岩波書店、1996、302頁] まさに宮崎の言うとおり空想の産物で流行っていた唯物史観による日本史やシナ史などは、 今は滅多に見ることはできない。
非難覚悟で、もう一歩踏み込んでみましょう。『日本政治思想史研究』384-7頁にかけて、 国民道徳論としての思想史への反動者として二人の学者が挙げられています。 和辻哲郎と津田左右吉です。そして丸山真男、この三人に共通の思想があるように思えます。 まず丸山と和辻は口を揃えて以下のようにいいます。 >孔子や荀子は実践的倫理に終始して形而上的な思索をむしろ排してゐた[201頁] >孔子が死や魂の問題を取り上げなかったばかりではない、孔子の学徒においてはかかる問題を >取り上げることが恥ずべきことであったのである。こういう気分から見れば、孔子が死の覚悟 >の問題や、生死を超越する問題や、死人の蘇りの問題や、魂の不死の問題などをすべて取り上 >げなかったということは、むしろ彼の特徴をなすものと見られねばならぬ。 [和辻哲郎『孔子』岩波文庫1988、126頁。同じく以下に引用されます 子安宣邦『「事件」としての徂徠学』ちくま学芸文庫、2000、100頁] 子安宣邦は、名著『「事件」としての徂徠学』の中で以上の二人の立場が伊藤仁斎を源流とする 一つの解釈であることを明かしています。それは例えば、 >仁斎は、孔子は鬼神について明弁せずというけれども、しかし鬼神に事えるあり方として >語っているではないかと、徂徠は『論語』為政篇の孔子の言を徴としてあげていうのである。 [『「事件」としての徂徠学』114頁] なぜ、丸山と和辻は形而上的な思索を排したと解釈したのでしょう。 それは孔子は合理的であると言いたいからです。孔子に鬼神を論じられては困るからでしょう。
その近代主義解釈によって和辻は、仏教についても合理的だと言いたいしたいため、 次のように輪廻を排除したり、有名な陳腐な無明解釈をしたりしました。 >我々は経典自身の証拠からも、また経典以外の証拠からも、業による輪廻の思想が >四諦の体系と立場を異にするものであることを明かにした。しかしこれによつて >我々は業による輪廻の思想が「仏教」に属するものでないと云うのではない。 >それは阿含の経典が示す如く明らかに原始仏教の中に取り入れられている。 >我々の主張するのはこの思想が原始仏教に特有のものでないこと、 >及びそれが原始仏教特有の実践哲学に属せざることである。 [和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』岩波書店1927、461頁。以上の引用は結語です、257頁も同様 無明解釈については366頁以下、津田真一『反密教学』リブロポート、1987、24-6、32-3頁参照] 津田左右吉も、次のようにシナ人、日本人は非論理的で、あたかも論理とは西洋だけのもの、 正しい文化は西洋のものと考えていたようです。 >知り得たシナ思想に論理的な思索の迹が無く、學ばうとしたシナ人の思惟の方式が論理的實證的でないのと、 >これらの事情のために、現實の日本人の生活とシナ思想とを對照して、その間の齟齬や矛盾を發見する力が >養われず、その意味で知性が發達しなかったからであり、 [『国民思想の研究』第一巻、岩波書店、1951、180頁。同じく17、61頁]
丸山は、このように、 >学は真理に対する学であつて「教え」に対する「学び」ではない。 >主体と客体との関係は師弟の間から、学とその対象の間のそれに移される。[166頁] これらの根底には科学信仰があるのではないでしょうか。 つまり、彼らの信じる科学に合わない思想が記述されていると、 それを無知蒙昧な前近代的思惟と捉え、なんとかそれを排除あるいは否定しようとする。 あるいはもっと限定して学問、ヴィッセンシャフト信仰というべきかもしれません。 もちろん、科学や学問に一定の有効性があることは私も認めざるえないが、 彼らはそれを絶対視していたように思えます。 そしてこのような信仰は、明治に起源を発し、今に至るまで続いている。 テキストに書いてことは、テキストどおり読み。その中で批判するのが学ではないでしょうか? 丸山はその信仰が強かったので、江戸思想を敢えて誤読して近代擁護に用いることに、 罪悪感を抱くどころか、自信をもってペンを揮ったに違いないだろう。 近代知の問題性については、また今度ね。 次は、何故、丸山は笑われるかです。
丸山はナショナリストです。
106 :
考える名無しさん :02/04/27 01:50
age
ごめん、誤字脱字ばっかでした。適当に読んどいてください。 宋学は難しいよ。資料も入手困難だし、困ってます。
108 :
考える名無しさん :02/04/27 19:12
dd
109 :
考えない名無しさん :02/04/28 13:37
素人的には、日本政治思想史に関するものはとても面白いです。 佐伯啓思先生も「幕末とか扱ってるのは面白い」って言ってました。 (出所:『市民とは誰か』かな) なので、丸山をアカだと思ってる人も安心して読んでください。 『忠誠と反逆』とかはちくま学芸文庫に入ってるし読みやすいのでは。
110 :
考える名無しさん :02/04/28 20:56
なるほど、分かりやすい解説ですね
丸山の山崎闇斎学派研究は小室直樹が継承したのか?
内村鑑三、南原繁、丸山真男に共通するのはキリスト教と山折が言っていたような。
>>66 >>95 鎌田哲哉の「丸山真男論」を読みました。とても読みにくかった。気持ち悪いし、疲れたよ。例えば、
>他方、丸山から「過程」の概念しか学びえなかった凡庸な政治学者たちに向かっていえば、
>彼が福沢論、さらには「忠誠と反逆」「開国」他の諸考察を「政治の世界」と同時並行的に展開し続け、
>しかも前者が全て明治二十年代以前の維新国家が流動的な可能性をはらむ時期にかかわっていること自体、
>丸山の主題が彼らが考える意志も能力ももたなかった「原罪」に迫ることであるのを端的に示している。
[『群像』1998.6、102頁上]
誤植もあるのかもしれないが、それを考慮しても読みにくい! 修飾過多で文節が長く、代名詞が捉えにくいぃ!
(例えば上引四行目冒頭の「丸山の主題が」は「丸山の主題を」かも?)
上記引用は、
<政治学者達は、丸山を理解してない。なぜなら福沢論等と「政治の世界」が平行していた意味を理解せず、
「政治の世界」の「過程」概念しか学ばなかったから>ということなのでしょうか?
>>88 で予想したように、やっぱり、政治的で概念「加上」型の評論だった。(脱構築でもいいよ)
<「惑溺」批判の惑溺>[『群像』111頁上]なんか当に単純な「加上」の典型。(メタメタでもいいよ)
子供がバカとか言われてバカバカとか、バカを加上していくヤツ。新しいとか、卓見だと思ってるでしょうけど。
(以下にみるように鎌田の言説こそ
>>77 「観念的に勝手に乗り越え」ることじゃないの?)
鎌田と私は、問題にしている所が全く違う。丸山の朱子学や江戸思想の読みを全く問題にしていないだもん。
彼のように政治とか文学の話しをする前に丸山の研究対象、研究自体について「問わ」ないんですかね。
要するに、同感できればなんでもありなのか?(これは最後に明らかになります)
政治は分からないのですが、文学的政治好きの人は、制度が良ければすべて巧くいくって考えてるようですね。
すくなくとも『日政思研』を読む限り公私を分ける丸山政治学はそう。
公的制度がいくらよくても、私的動機が悪ければ政治なんかよく機能するわけないと思うだけどなぁ。
それこそ修身斉家治国の儒教に学ぶべきことがあると思うが。単なる感想に過ぎないけど。
ともかくこれを読んで、丸山真男がどうゆう人に興味をもたれるか、分かりましたよー。 鎌田のようないわゆる文学青年ですね。語り好き。西洋好き。政治好き。「柄谷はね」とかいってる人。 丸山が江戸思想史に仮託してヘーゲル・マルクス物語を語ったように、 鎌田は、丸山に仮託してジョイスを語る! いや、自分自身か? その仮託を丸山は、また今度指摘するように「理念型的」と言ったり、 >彼の表面に現れた言説そのものよりも、そうした言説の行間にひそむ論理をヨリ重視することになる。 [『群像』93頁上所引の丸山真男『福沢諭吉の哲学』] と言って韜晦していますが、要するに他人のテクストに仮託して自分の思いを投影するための言い訳でしょ。 あるいは、加上の論理、とか脱構築の論理とでも呼ぶべきか? いや、語りの論理がいいな。 その物語、語り口がいわゆる文学好きにはたまらないのでしょうが、 私もたまらないよ。なぜなら、私はそうゆう文が嫌いだからです。 その語り口とは、実証的に書かずに直感的に書き、論理的に書かずに詩的に書く。 譬喩の喩例が文学オタにしか通じない符牒、トオシを使うなど。 (喩例は誰にでも分かる身近なものにしてよ! そのために喩えるんでしょ) 直感的、詩的ってのは例えばこんな断定が無根拠にされることね。 >丸山における「政治」の概念を可能にさせたのは「開国」(敗戦)による「世界」観念の転回である。 [『群像』109頁上 「開国」(敗戦)にはワラタ] >この滑稽さは福沢が日露戦争以後も生きて自己の主張を繰り返せば疑いなく陥った性質のものだ。 [『群像』115頁上] 無根拠に断言できるのは主観の投影だから。自分の思いだからでしょう。 この1963年生まれの予備校教師鎌田さんは、傭兵経験でもあるらしい。ならそう書いてよ。 もし、戦争経験のなしに、上のような断言を無根拠に吐くなら、なんと空々しい自己か? 西洋好きは自明でしょう。ジョイス、ドストエフスキー、キルケゴール、アーレント、ニーチェなど 丸山と直接関係ない人たちの言葉の洪水なのに、朱子や徂徠などの丸山の研究対象については、 名前があげられるだけで、一句の引用もないのですから。 (唯一の例外は福沢諭吉。もちろん文学的アイテムの魯迅、柄谷行人等も挙げられるが名誉白人ね)
では、丸山論の内容はいいのでしょうか? 私はいいとは思えない。誤読すら散見するように思えます。 否定しようもないのは、『日政思研』227頁を引用して「ホッブスについて」と言っています。 ですがそこで論じられているのは、テンニースの誤りです。[『群像』94頁上] これはケアレスでしょうね。ですが本質的なところで、例えば、これ。 >政治学は世界を批判するが、それは「世界」の全体ではない。 >むしろ「世界」の感受によって「政治」学は初めて何ごとかを批判しうるのだ、と。 >文学だろうと政治だろうと、丸山真男はあらゆるくだらない二分法を消去しただけである。 [『群像』110頁下] この主張の根拠は、丸山の次。 >「世界」という普遍概念は場所ではないのです。 (中略、世界対日本、内発的対外発的、伝統対外来という二分法) >そういう二分法の中にひそむ物の考え方を摘発してゆかねばならない。 [『群像』106頁上所引の丸山真男『普遍の意識欠く日本の思想』] 引用からよめるのは、(丸山の論文読んでないので私の誤読かもしれないが) グローバル・スタンダードの中で、ローカル・ルールなど対立概念とはならない、ということではないか? (例の公私や近代/前近代なんて二分法はくだらなくないのか? と言いたいです、ハイ) とにかく「文学だろうと政治だろうと、丸山真男はあらゆるくだらない二分法を消去した」というのは、 明らかに拡大解釈だと思います。解釈の飛躍はさらにこのように、 >彼は、吉本隆明がいうような近代西欧をモデルとする「仮構の立場」によって日本を裁いているどころか、 >何かで何かを裁きうる超越性がどこにもないのを示しているだけである。 [『群像』107頁上] などと断言するのですが、私にはやっぱり<西洋近代が標準で正しく、 他の伝統習慣など過去の遺物>と丸山が言ってるとしか思えないが? それをメタ・レヴェルの普遍概念を持ち出して韜晦しているようにしか思えないよ。 だって、その普遍・世界の中で標準とされるのは、セム系の直線的歴史観であり、 西洋近代の政治概念だもんな。そうゆう局所的ローカルなものを普遍と捉えるのは臆見じゃない? そういった西洋近代を普遍とする根拠ないでしょ。レトリックだけで、やっぱり、西洋信仰としか思えないぞ。 そう、ここの反論特に聞きたいよ。なんか根拠あるの? 教えて下さい。
鎌田の主張は、おそらくジョイスのこの言葉に集約されるのでしょう。 a > 政治が何を意味するのかよくわからないこと、 > そして宇宙がどこで終わるのかわからないことが彼を苦しめた。 b > 彼は小ささと弱さを感じた。 [『群像』ab 共に92上、113上頁;aのみ107下頁] 彼はこれを上記のように三度も引用しています。特に「小ささと弱さ」はさらに三度、 くわえて、He felt small and weak. と原文まで二度引用しいます。 では、「小ささと弱さ」とは何か? それは、 >自らの力では何ひとつやりとげたことがないという「小ささと弱さ」 [『群像』115頁上] なのだそうです。(例によって無根拠)これが鎌田の生活実感なのでしょう。彼にとっての実感が 自らの力では何ひとつやりとげたことがないという「小ささと弱さ」だから、彼はこのように言う。 >「小ささと弱さ」は、あらゆる「にせの問い」を破砕する「宇宙」の観念自体の「にせの問い」への転化を、 >「惑溺」からの解放を目指す福沢-丸山の思考そのものが今陥りつつある絶対的な惑溺を告発する >微光としての問いなのである。 [『群像』118頁下] つまり、彼の実感からすれば宇宙とかの観念は嘘くさく、実感が持てないってことなんでしょうが、 なんだよ、自己嫌悪の投影かよ、って感じですよ。要するにジョイスや丸山に自分の「小ささと弱さ」を 感じるから、言葉を掴み取り、自分に引き付けて「うんうん」って言ってる独り言なんじゃないですか。 だから、共感できればなんでもいいのか! というのです。 ほんとに「小ささと弱さ」実感してんなら、こんな文学的おしゃべり(ポイエーシス)なんかしてないで、 公衆便所の掃除したり、鳩にエサ(プラクシス)でもやっくださいよ、と思うけど。 要するに文学評論って共感のポイエーシスにどれだけテクネーを発揮するかってことなのか? 文学評論についても全く知らないので、すいません。とほほ〜
118 :
考える名無しさん :02/05/12 01:16
age
119 :
主張4.これからはお笑いでしかない、と思うけど。 :02/05/12 12:51
>>87 で指摘したように、丸山も自ら『日政思研』の「自然から作為へ」といった
進化論的図式が批判に耐えないことをほのめかしつつも、依然、以下は自分の成果だと言っています。
1.徂徠学の内部構造
2.公的領域と私的領域との分岐の意味
3.徂徠学と国学との思想的関連について、
4.前者における私的領域の解放が後者によって継承されたところに生じた
彼は四つに分けていますが、本質的には2.だけが問題となります。
なぜなら、1.で彼が強調したのは2.であり、
3.は、2.という前提によって分析されたものであり、
4.は3.とほぼ同じだからです。
つまり、2.が崩壊すれば、その成果すべては消え去るのです。
また、この丸山説の公私の意味は影響が大きく、
例の進化論的図式とともに高校歴史の参考書にも載っているぐらいです。
[黒羽清隆, 家永三郎著『新講日本史』増補版、三省堂、1975、332頁、特に脚注*1]
というわけで、「自然から作為へ」は彼自身も放棄したと考え、
彼が抽出し、成果ともいう徂徠学の公私の意味を検討してみましょう。
徂徠学公私の意味は『日政思研』106-115頁に集約的に論じられます。 そこで、まず、「理念型的」にという限定が加えられます。 >理念型的に言へば一般に非近代的な、ヨリ正確には前近代的な思惟は >かかる意味における公私の対立を知らないのである。[107頁] なぜなら、 >これと異つた意味での公私の対立は前近代的な思惟にも無縁ではない。 >例へば公私の区別を領域に求めずして専ら倫理的価値に求めるごとき是である。 >そこでは「公」とは善を意味し、「私」は悪と同義である。[107頁] 前近代的な思惟にも公私の区別があるが、領域に求めず、 つまり、政治的な領域と内面的生活領域の区別ではないから、[110頁] 「理念型的」には公私の区別がない、ということです。 では、この「理念型」とは、何を意味するのでしょうか?
これはマックス・ウェーバーの idealtypus の訳語だと思われます。
ウェーバーの「理念型」は、
無限に多様な実在から、特定の諸要素を抽出し、思考の上で高めた上で、
それ自体として矛盾のない関連にまとめあげ、総合した思想像 [挿入句を省いた]
[折原浩 補訳 『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』
岩波文庫、1998、269頁、また111-150、270-302、9頁を参照。
この訳は労作です。25-161頁が訳。189-331頁が解説です。
この解説は古典的言葉でいえば評釈・義疏ですね。画期的な試みかと]
を意味するようです。ですが、丸山の使用法はとてもその意味の「理念型」とは思えず、
逆に彼の「理念型的」公私はウェーバーが注意する「プロクルーステースの寝床」としか思えません。
[折原浩 補訳 122、278-9頁]
なぜなら、江戸思想における公私の理念型は、本来江戸の諸資料から抽出総合されるべきもののばずです。
ですが、丸山は多分ヘーゲル、マルクス、ボルケナウ、シュミットあたりから借りてきた。(明記されていない)
だから彼も自信なさげに理念型「的」と呼んでごまかしているのだと思われます。(
>>101 の宮崎の嘆息に同情)
単純にいって「理念型的に言へば」という言葉の意味は<西洋でいう近代の公私では>ということです。
(素直にそう表現すると誰も騙せないので「理念型的」といって韜晦したのでしょう)
つまり、シナ、日本の伝統的意味を、西洋近代に合わせて切り刻んだのです。
まさに人を鉄の寝床に合わせて切り、伸ばすプロクルーステースを髣髴とさせないでしょうか?
では、前近代的な思惟にも公私の区別があるが、西洋近代的には公私の区別がない、 という意味で丸山はどのように公私を分析したのでしょうか? 徂徠学公私の意味は<赤穂義士事件における徂徠擬律書>と <『政談』での丸橋忠彌の起訴者の事例>を根拠として[107頁] 公私は次のように弁別されます。 近代:公私の区別を領域に求める 公 / 私 政治的な支配関係 / 私的な経済関係 統治者の財政的支出 / 個人的な消費 行政事務の遂行 / 主従義務の履行 公法 / 私法 公的な領域の独立 / 私的な領域の解放 徂徠:公私の区別を領域に求める萌芽がある。 公 > 私 政治性の優位 > ? 公的な法 > 私的な義理 根拠:赤穂義士事件における徂徠擬律書 公的な法 > 私的な義理 根拠:『政談』での丸橋忠彌の起訴者の事例 前近代:公私の区別を領域に求めず、倫理的価値に求める。 公 / 私 善 / 悪 つまり、前近代では、西洋近代的な公私の区別がなく、徂徠では萌芽があったというのです。
さらに、丸山は徂徠の『弁名』を根拠に自説をこのように補強します。 a >領域の接触であつて一方の否定ではない。 >このことをさらに的確に示すのは「弁名」における公私の定義である。いはく、 b > 「公は私の反なり。衆の同共する所、之を公と謂ふ。 > 己の独り専らにする所、之を私と謂ふ。 > 君子の道は衆と共にするものあり、独り専らにするものあり。 c > ……公私各々その所あり。君子と雖も豈私無からんや。 > ただ天下国家を治め公を貴ぶは人の上たるの道なり」(弁名上)。 d >さうして「公」の例としては書経の「王道」大学の「平天下」等が挙げられ、 >「私」の例としては論語の「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す」とか >孟子の「吾之を聞く、君子は天下を以てその親に倹せずと」(これは色々に解釈されてゐるが、 >君子は社会の物資を費やさぬために親の葬式道具を簡単にする様な事はしないといふほどの意味に解しておく) >とかが挙げられてゐる。その用法が上の二つの場合と全く一致することは言ふ迄もない。[108頁] 子安宣邦は、まったく同じ箇所を丸山誤読の証拠として挙げています。 a >『弁名』で徂徠は公・私の概念規定をして、 b > 「公なる者は私の反なり。衆の同じく共にする所、これを公と謂ふ。 > 己の独り専らにする所、之を私と謂ふ」 d >という。事柄の公共性に対する私的性格をもって私というのであって、 >個人道徳や個人の内面生活を指して私というわけではない。 >だから『論語』の「父は子のために隠し、子は父のために隠す」、 >『孟子』の「吾これを聞くなり、君子は天下を以てその親に倹せず」をあげ、 >これらは「みな私なり」といい、そして「これ公・私はおのおのその所あり。 >君子といえどもあに私なからんや」(『弁名』下)と徂徠はいうのである。 [子安宣邦『「事件」としての徂徠学』ちくま学芸文庫、2000、30-31頁] このうち、bd での引用に多少の読みの違いがありますが、それは単なる訓読の違いでテキストは全く同一です。 子安訓読は、岩波の日本思想体系36、105頁と同じ。丸山訓読の典拠は見つけられませんでした。 子安の(『弁名』下)は誤りで、丸山の(弁名上)が正しい。
では、どちらの解釈が正しいのか? それには『弁名』というテキストの性格を知るべきでしょう。 『弁名』にはプリテキストがあるのです。それは『北渓字義』と『語孟字義』です。 『北渓字義』は、朱子の弟子、陳淳の著で、朱子学術語字典のようなものです。 [佐藤仁 訳『朱子学の基本用語』研文出版、1996は、明解な現代語訳です] 『語孟字義』は、伊藤仁斎の著で、朱子学によって歪められた『論語』『孟子』の術語を正だそう、 という意図に基づいて書かれたものです。 [岩波の日本思想体系33] 『弁名』は、その二つの誤りを正そうという意図によって徂徠によって書かれたもので、 名義を弁別し明らかにする意味で、儒教の正名論に基づくものか。 [以上は『「事件」としての徂徠学』230-68頁で、よりスリリングに論じられています] 『弁名』の問題の箇所は、公正直の三つの名義を解説で、しかも公の解説です。 その文脈をみると、大きく以下の四つに構造化できると思います。 1.上引b で名義の定義 2.上引d で1.典拠をあげます 3.上引c で結論 4.が以下で、公の解説は完結します。 A >宋儒の「天理の公、人欲の私」を以て説を立つるに及んで、 B >すなわちこれを求むること太だ深く、恩なきに幾し。仁斎先生これを譏る者は是なり。 >然れどもつひに論語の公の字を併せてこれを刪らんと欲するに至りては、 >すなはちまた羹に懲りて膾*を吹くの類のみ。学者これを察せよ。 [岩波の日本思想体系36、105頁、膾*は代字]
Aは『北渓字義』の次の記述に代表される朱子学説 >義は天理の宣しきを得たものであり、利は人情の欲するものである。 >欲は、自分のものにしようと欲することである。 [『朱子学の基本用語』191頁、また113、114註12、175、195註1、196-8頁参照] Bは『語孟字義』でぴったりの所が見あたらないが、このようなことか、 >初めより欲を滅してもって性に復るの説無し。 [岩波の日本思想体系33、53頁] 朱子学では、人欲である私をなくして、天理である本性に戻ることが公だと考えた。 仁斎は、『論語』『孟子』の古代の正しい儒学に、人欲なくして本性に戻る説はないと考えた。 徂徠は、ABで両者とも違うと言って、丸山・子安が引いたb の定義を出した。 だから、丸山が言うように「天理の公、人欲の私」を批判したのは事実である。 しかし、子安d が言うようにそこには「個人の内面生活」という意味はない。子安が全く正しい。 儒学的転換はあることは確かなのだが、丸山の言う近代意識の萌芽ではない。 子安の本を読み返しても、間違ってはいないのだが、何かすっきりしない。一週間考えたです。
なぜか、b には二つの思想が融合されているからである。それは、シナの公と日本の私である。 まず、bの公の概念は、後漢時代の儒者許慎が記したシナの字書『説文解字』のこの記述に一致する。 >公は平分なり、八に従い厶に従う。八は猶背くなり。韓非曰く「厶に背くを公と為す」 [『説文解字』中華書局出版、1963、28頁下、訓読は28がした] 厶は私と同義です。だからb の「公なる者は私の反なり」と同じ意味なのです。 韓非とは、言うまでもなく『韓非子』のことです。 しかし、「私」の意味は実に日本的な意味のようです。例えば『平家物語』で、清盛討伐計画を知り、 今にもクーデターを起こさんばかりの清盛とその兵士たちを諌める有名な平重盛の次の言葉、 >「大事とは天下の大事をこそ云へ。かやうの私事を大事と云ふ樣やある」 > と宣へば、兵杖を帶したる兵ども、皆そぞろいてぞ見えたりける。 [佐藤謙三 校注『平家物語』角川文庫、1959、84頁] 今回の事件は、公のものではなく、個人的なものだ、と言われて浮き足立って我に返る兵士たち。 このような「おおやけ/わたくし」の用例は、『源氏物語』にも見られるから、丸山説によれば、 日本近代意識の萌芽は、平安時代からあったことになってしまうのですが、いくらなんでもそれはないでしょう。 つまり、徂徠の公私解釈は、シナの公に日本のワタクシを読み込んだ概念なのです。 徂徠の私解釈典拠d を読み返して頂きたい。それらは「私」という字義の用例ではなく、 日本のワタクシ概念を示す、儒教経典の用例なのである。 (あーすっきりした。解決に大きな示唆を与えてくれたのが、溝口雄三『 公私 一語の辞典』三省堂、1996 今回の論証、我ながら厨房なので飛躍があります。それを埋める溝口雄三を読んでみて下さい。好著です) それを近代の萌芽と捉える丸山説は、完全にお笑いではないでしょうか?
127 :
丸山読むの止めろよ! :02/05/12 13:04
とここまで来て、四書、近思録、小学、北渓字義、仁斎集、徂徠集を読んだのですが、 朱子学の理解にはどうしても伊川易伝の理解が必要と分かりました。 それには最低一年ぐらいかかりそうなので、やめることにしました。 朱子学は丸山が言うような単なるリゴリズムではないという所見があります。 単なる印象批評ですが、ヘーゲルのセム的前提、朱子の洙泗的前提を抜きにして 考えてみることができるなら、断然朱子の方が優れていると感じます。 一番の根拠は宋儒たちに内的体験が有るとを感じること。 ひけらかしなんですが、その過程の準備作業中に気が付いた武内義雄の名著 『中国思想史』岩波全書、1957の疑問点を二つあげときます。 63頁の「求放心」は、心から放ってしまった仁と義を求めることではないか、ということ。 186頁の「双非」は、「否定の否定」ではなく非有非無の二つの非、 つまり有でもなく、無でもないということではないか、ということ。 いずれにしろ丸山ワンフーにはどうでもいいことでしょうが。 丸山は、これまで読み続けられて来たことが奇跡としか思えない。 これは、ほんとにそう思うよ。時代といえばそれまでですが、もう廃棄していいでしょう! この後、進歩史観、近代主義等、丸山の依存する諸思想を否定しようと思ってましたが、 もう、独り言になっているし、時間もないのでやめときます。 そうゆことでおわりね。ああ、無駄な時間過ごした。 丸山読むの止めろよ!(心からのアドヴァイス)
128 :
考える名無しさん :02/05/12 14:13
>>28 皆引いちゃったじゃないか(w
もっとも一行レスしかできない典型的な2ちゃんねらーたち
ばかりだが。
素朴な疑問だが、何で一次文献の丸山の福沢論ではなく、二
次文献の鎌田の丸山論の方を読んだ? 君が鎌田の自己投影
だと批判している下の部分、
>彼は、吉本隆明がいうような近代西欧をモデルとする「仮構の立場」によって日本を裁いているどころか、
>何かで何かを裁きうる超越性がどこにもないのを示しているだけである。
[『群像』107頁上]
などと断言するのですが、私にはやっぱり<西洋近代が標準で正しく、
他の伝統習慣など過去の遺物>と丸山が言ってるとしか思えないが?
ここ何かは福沢論を読めば、君の丸山に対する先入観の投影
にすぎないことがはっきりしたはずだが。
上でも言っているが、何で君は自分の批判の水準に向けられ
た批判を丸山擁護(「丸山ワンフー」)と単純に結び付けて
しまうのか(苦笑
私は丸山を批判するなとは一言も言ってはいないし、ただ、
君の局所的な批判によって丸山の仕事全体に対する批判とす
ることは不当だと言っているにすぎない。
また、目眩まし的な朱子学知識のひけらかしは君の丸山批判
の水準に向けられた批判に何ら答えていないし、議論を自分
に有利な方にずらしているにすぎない。
結局、君がやっていることは「丸山の『日本政治思想史研究』
という限定された範囲においてその誤りを訂正する」という
ことにすぎないし、それは丸山批判として決定的に不十分だ。
そんな君が「丸山を読むのは止めろ」などと無責任に放言す
ることは余りにも学問に対して不誠実ではないか?
この不誠実さは丸山の徂徠の意図的な誤読などより余程悪質
ではないのか?
>>128 ごめんです。うまいやり方ができないのです。
>ここ何かは福沢論を読めば、君の丸山に対する先入観の投影
>にすぎないことがはっきりしたはずだが。
それは教えて頂きたい所です。私には鎌田を読むかぎり丸山の「世界」とは、
西洋近代にしか思えないのですが。普遍といってもそれはメタ・レヴェルを
持ち出してごまかしてるとしか思えないです。
なるほど、「丸山ワンフー」は反省いたします。以後、気を付けます。
では全集を読めというのですか? 対談集とか諸研究も。
私は決して、朱子学に通じているわけではありません。概説書ぐらいの知識しかありませんでした。
今回初めて、原典を読みました。それも大して読んでません。これに一番苦労しました。
「『日本政治思想史研究』という限定された範囲においてその誤りを訂正する」は初めから言ってます。
>>49 確かに「丸山を読むのは止めろ」は言い過ぎかもしれないが、丸山批判としては充分だと思います。
その理由は「丸山の徂徠の意図的な」かたりは、あの時代だったから仕方がなかったとしても、
>>87 >>99 で引用したように1974年(1983年といってもいい)の時点でも、
丸山はなんら反省していない。このことは、彼に学的誠実さが全くないことを示します。
つまり、彼は信じるもののためには、平気で嘘を書ける人だということです。
それだけで、彼の学問全体が信じられないというのは充分根拠を持つと思います。
>>128 福沢論、読んでないです。はい。
もう、丸山とかそれらの批評は読みたくないです。
だって悪いけど、読んでて不愉快なんだもん。鎌田のは酷かった。
丸山の文章が立派に思えたです。
131 :
考える名無しさん :02/05/12 22:03
>28 なるほど、丸山のアフォさがわかりました。 サンクス
喜んでいただけて嬉しいです。 そのアフォさの意味を確定してくれると猶、嬉しいです。
133 :
考える名無しさん :02/05/13 11:28
>>28 何て素直な奴なんだ(笑
君は大学院生? 何を専攻してるの?
しかし、2ちゃんに書き込むために言いっぱなしでなく、
専門外の朱子学の原典まで読むとは素直に偉いと思うよ。
しかし、やっぱり、
> つまり、彼は信じるもののためには、平気で嘘を書ける人だということです。
> それだけで、彼の学問全体が信じられないというのは充分根拠を持つと思います。
ここのところは結局最後まで意見が分かれるところだね。
まあ、どう感じるかは主観の問題だといってしまえばそれ
までだけど。
>>131 怠けて他人のレスだけ読んで分かった気にならない!
134 :
考える名無しさん :02/05/14 05:13
>>133 素直って言われるのは、嬉しいな。
ずっとひねくれ者で通ってきたので。
単なる行者です。しかもヘナチョコ。
逆に、丸山を読む意味を教えて頂きたいのですが。
これ、かなり真剣な問いです。
>>133 こんなスレがたつほど影響力がまだあるってことじゃない?
136 :
考える名無しさん :02/05/14 12:54
行者ってまさか御坊さんとか? あるいは「南無」=「NAM」会員とか? 丸山を読む価値か…… ゴメン、正直自分も解らない。 ここでは一行レス付けてる奴らにムカついて行掛かり上、 上のような役回りを演じてしまったけれど、実際は丸山か ら何らかの影響を受けたというようなことは殆どないし。 真剣に問われると答えに窮するな(苦笑
137 :
弁証法的理性批判放棄&rlo; ◆k7C9xZJk :02/05/14 13:14
戦中と戦後の間が家にあるんだがおもしろいの?
138 :
考える名無しさん :02/05/14 14:22
>>134 御説、興味深く読みました。すぐれた批判と思います。
丸山批判をするなら、まず丸山を読めです。
ところで、批判は正しいとして、それは丸山氏が構築した江戸思想史を
倒壊させたにずぎず、次に求められるのは、あなた自身の仁斎・徂徠・宣長像の提示ではないでしょうか。
真の批判は、批判対象を乗り越える学説を提示してはじめて完結するの
ではないかと思いますが。
なお、戦前への反動という評価への疑問。
当時の論壇では、世界史の哲学(近代の超克論)・和辻の思想史・皇国史観などが圧倒的な優勢を占めたという状況を踏まえれば、単にそれら
への反動というのは酷な評価ではないでしょうか(私はその姿勢を抵抗
として比較的高く評価します)。
所詮、人は、あなたも私も含めて、その生きている時代の価値観から
決して自由にはなりえません。とすれば、丸山に対してもその時代的
制約を考慮しつつも、ある程度の共感をもって対峙することが必要
ではないでしょうか。
>>138 素晴らしいコメント、ありがとうございます。嬉しいです。拙論は、我ながらツメアマのものです。
何故かというと、朱子学の理解が不充分なことと、シナにおける私の概念を示していないことが、
大きな欠点です。ですが、これは
>>127 に書いたように、時間的能力的に無理です。
ですから、138さんの仰ることはもっともなことですが、仁斎・徂徠・宣長像の提示は、
なおさら無理です。仁斎・徂徠に関しては資料を入手することさえ難しいんですから。
時代的制約についてももっともな見解だと思います。ですが、何回もいうように
>>87 >>99 >>129 1974年(1983年といってもいい)の時点でも、丸山は自説を否定していない。
むしろ、138さんがおっしゃるような論旨で、時代だからしょうがなかったと弁解しています。
それでも、擁護されますか?
ところで、丸山の近代って、こんな感じではないかと、推測してますがどうですか? 出典はふせときます。
>わたくしたちひとりひとりが、この意味において<自己責任的>で<責任倫理的>な
><人格>に自己形成を遂げ、個人としての持続的な実践を尊重し合いながら、
>相互の自由な論証的討論と合意にもとづいて、限定的に自発的目的集団を
>結成-再結成し、深く豊かな文化を創造し、社会を改革していくことが、
>第二次世界大戦敗戦後の「近代化」「民主化」の理想であった。
「この意味」は「主体的に生の意味を選択し、目的達成の生に努め、結果責任もとる」ということです。
>>136 ぼうさんですよん。
解らないといわれると困りますよー。
丸山が読まれる理由は、鎌田のを読む限り、政治的な理由だと思うんですが
なにせ、私は政治オンチでして。そこがちょこっと知りたい。
穏健で誠実な学者の昭和政治思想史をご紹介いただければ、嬉しいです。
で、単に憶測ですが、鎌田より上の世代の人っていわゆる文学に政治の要素が大きかったから、
丸山が論じられるのではないかと。鎌田のような1963年生まれの人が論じるのは謎ですが。
例えば、
>>139 で引用した近代が、そうゆう文学好きの理想なのではと直観するのですけど。
あと、今流行りの「自分に正直に」って考え方がありますよね。
インテリ層では、その思想的源流が丸山で、それで擁護したいのではないかとも思います。
非インテリ層では、司馬リョウ太郎ではないかと勘ぐってます。
いずれにしろもう時間もないので、無責任に言いっぱなしですけど。
141 :
考える名無しさん :02/05/15 12:05
御坊さんか、すごいな。 > 丸山が読まれる理由は、鎌田のを読む限り、政治的な理由だと思うんですが 日本文学研究で夏目漱石がとっておかれるのと似たような理由 なんですかね。戦中にも丸山のような良心的な政治学者がいた、 我々はその丸山を引継いでいるのだ、と。 > 穏健で誠実な学者の昭和政治思想史をご紹介いただければ、嬉しいです。 自分は政治学は(も)詳しくないし、今年ようやく学部を卒業 したばかりの浅学非才の若造なので、人様に何かを奨められる ようなの知識は恥かしながら持ち合わせていないです。 ごめんなさい。 それでは修行頑張ってください。自分はそろそろ消えます。
どうも。もっと行に励まなければいけませんね。 私も消えます。
>わたくしたちひとりひとりが、この意味において<自己責任的>で<責任倫 >理的>な<人格>に自己形成を遂げ、個人としての持続的な実践を尊重し合 >いながら、相互の自由な論証的討論と合意にもとづいて、限定的に自発的 >目的集団を結成-再結成し、深く豊かな文化を創造し、社会を改革してい >くことが、第二次世界大戦敗戦後の「近代化」「民主化」の理想であった。 >「この意味」は「主体的に生の意味を選択し、目的達成の生に努め、結果 >責任もとる」ということです。 上記の記述にあるように、 【主体的な人格の形成、これら対等な人格間での理性的なコミュニケーション と目的に応じた結合(集団)を通じて、社会の改革に参加すること=戦後の近 代化・民主化の理想】 という点は、丸山のみならず戦後多くの知識人にも共有された点と思われます (所謂「悔恨共同体」)。 他方で丸山は、こうした理想とは対極にある社会の現実(例:人格における 責任倫理の欠如、自由な討論を疎外するドグマや多数決主義、自発的目的集 団の硬直化と組織による個人の抑圧)を常に問題として批判しました。 >時代だからしょうがなかったと弁解しています。それでも、擁護されますか? あなたの丸山批判を通読すると、批判の根拠の大半が丸山の著作の「あとが き」部分であることに疑問を感じます。「丸山が自己の研究論文について○ ○と述べていたから丸山は○○だ。」という論旨の運び。公私論批判につい てあなたが行われたように、他の論点についても丸山の論文の内容に即して 行われるべきと思います。 >朱子学の理解が不充分なことと、シナにおける私の概念を示していないこと が、大きな欠点です。 丸山の朱子学理解については、すでにかなり批判が出されています。朱子学 についての概説書としては、島田虔次『朱子学と陽明学』(岩波新書)が定 評があり、公私論でも言及された溝口雄三氏の「中国近世の思想世界」(同 編『中国という視座』平凡社、所収)も丸山学説批判を行っています。また 日本思想史の側でも子安氏は勿論ですが、日本儒学(朱子学)自体がそもそ も中国のそれとは異質な形態に変容していたという理解が一般的です(この 点は丸山も『日本政治思想史研究』の英語版あとがきで認めています)。
続き: >140:今流行りの「自分に正直に」って考え方がありますよね。インテリ層 では、その思想的源流が丸山で、それで擁護したいのではないかとも思います。 「今流行りの「自分に正直に」って考え方」は丸山の思想とは凡そ対極的。 丸山はこうした個人の「私化」(ミーイズム)を生活的な保守主義(公共性 の希薄化)として、個人の「原子化」(理性の欠落した情動的傾向・フアシ ズムの基盤)とともに近代社会の社会現象の一形態として位置づけ、厳しく 批判しました。 また現代の丸山批判には、政治的に見て、「右」からの批判(自虐的西欧崇 拝主義者もその一つで、これは60年代からあります)とともに、最近では 「左」からの批判(国民主義的ナショナリストといったレッテル)が加わり 錯綜・矛盾した関係となっています。 前のところでも誰かが言及していましたが、「忠誠と反逆」や「歴史意識の 古層」(共に『忠誠と反逆』筑摩書房学芸文庫に収録)は、『日本政治思想 研究』以降の丸山の伝統社会への研究の新たな展開であり、また『丸山真男 講義録』第四巻〜第七巻(東京大学出版会)も、日本古代・中世・近世の主 要思想を通史的に分析したものです(こちらは講義用のノートですので、論 文のやや難解な文章に比べて平易で、例証も豊富です)。 あなたの丸山=自虐的西欧崇拝主義者という評価も、朱子学の検討も含めて、 上記の諸論文を読むまでは、一応保留しておいてもよいのではないかと考えますが。
なお、143で書き落としましたが、日本儒学の特質を中国との比較を踏まえた 最近の好著として渡辺浩『近世日本社会と宋学』(東京大学出版会)が参考 となるかもしれません。 渡辺氏は丸山門下ですが、丸山説を批判的に継承したものと云えると思います。 また28さんが139で引用された文章の感想は、141で一応述べました。 ただこの文章の近代化・民主化に付されているカッコが若干気になります。 カッコが「いわゆる」という概括的な程度の意味での使用か、 それとも似非という否定的ニュアンスでの使用かという点です。 後者であれば、こうした近代化・民主化を批判する議論の中での一節かとも思 われます。 しかし、いずれにせよ先に述べましたように、この文章の内容が、丸山や様々 な自由主義者や戦前・戦中の国策に携わった知識人も含めて、幅広く共有され た内容だったという点は確かと思います。 丸山は、これを専門はもとより価値観・政治観を異にする知識人の共同体、 即ち戦争への反省を共有する「悔恨共同体」と名付けたのです。 尤もこれらの人々も、その後の占領政策の変更(レッド・パージ)・朝鮮戦争 ・安保問題などで分裂・対立していくわけですが。 以上のことを若干の補足として付け加えておきます。
146 :
考える名無しさん :02/05/17 03:14
>>143-145 >>139 に引用した理想像と、138さんが
>>143 で述べたその丸山の批判。
私にはこうゆう各個人が我欲を欠いていることを前提とした議論を、
あれほど虚偽に満ちた著作を書いた丸山本人が述べること自体が、滑稽にしか思えません。
「自由な討論」「論証的討論」といいますが、だいたい話し合いにあたって
虚心に望む者はまれです。たいてい、論点先取の勝ち取らねばならない
結論を持って討論につくのが普通じゃないでしょうか。
そうゆう意味で私は全く丸山たちの理想像が、幼稚に見えて信じられない。
つぎつぎに現実の個人的欲望に敗北していった各国のコミュニズムが実例ではないですか。
138さん鋭い読みですね。「あとがき」中心、そのとうりです。
理由は二つあります。
第一は、本人が後から書いたものだからです。
なぜなら、「あとがき」で否定されているようなことを本文上で論証しても、
それは本人が後に否定しているのだから意味がないでしょう。
第二は、「あとがき」が明解でまとまっていることです。
以上の理由により、方法としてまず、通読しトピックを拾いました。
その過程で「あとがき」の重要性に気付き、「あとがき」を主に分析し、
その分析結果から丸山がまだ支持している論点を分析しました。
>「今流行りの「自分に正直に」って考え方」は丸山の思想とは凡そ対極的。 >丸山はこうした個人の「私化」(ミーイズム)を生活的な保守主義(公共性 >の希薄化)として、個人の「原子化」(理性の欠落した情動的傾向・フアシ >ズムの基盤)とともに近代社会の社会現象の一形態として位置づけ、厳しく >批判しました。 こうゆう主張は、先ほどの理想像と同じで全く信じられないです。空論というか、 幼稚なものを感じます。『日本政治思想研究』で主張した、 >私的=内面的生活の一切のリゴリズムよりの解放となつて現れたのである。 [第一章110頁] 「自分に正直に」の源流となることは否定できないと思いますが。 内面的生活を解放したら「自分に正直に」なった。 丸山は「公共性の希薄化」というが、それを主張したのはあんたでしょ、といいたい。 要するに丸山や近代主義には、制度がよければ全て巧く行くと、思っているようにしか 思えないのです。制度も重要だか、それを運営する人の動機、意識が問題だと思います。 精神的観点を欠いた近代主義の欠点がここにあるように思います。 >あなたの丸山=自虐的西欧崇拝主義者という評価も、朱子学の検討も含めて、 >上記の諸論文を読むまでは、一応保留しておいてもよいのではないかと考えますが。 仰るとおりですが、私には読めば読むほど、聞けば聞くほどやっぱりうんざりします。 もう読むに価しないといってもいいでしょう。もう時間を割きたくありません。 そいうわけでせっかく素晴らしいコメントをくださった138さんには申し訳ないのですが、 もう、終わりにしたいと思います。勝手ながら2週間前に現れてくれればと。
>>146 ご紹介ありがとうございます。堀先生、記憶に留めておきます。
図書館やアマゾンには思想史はありませんでした。
150 :
考える名無しさん :02/05/27 10:37
良スレ
151 :
考える名無しさん :02/05/27 16:32
最後の方の28と138のやりとりはオモシロカッタんだが。 誰か、また新しい問題提起や展開してくれないかなあ。 期待あげ。
「日本の思想」精読の話はもうでましたか?
153 :
考える名無しさん :02/05/27 18:22
>>152 いや、まだ出ていないと思われ。28氏の議論は『日本政治思想史研究』
のみを対象に展開している。
154 :
考える名無しさん :02/05/28 14:17
>>152 宮村治雄「丸山真男『日本の思想』精読」(現代岩波文庫)
について議論しますか?
155 :
考える名無しさん :02/06/07 05:33
age
156 :
考える名無しさん :02/06/29 05:50
.
157 :
考える名無しさん :02/08/01 14:54
あげ
158 :
考える名無しさん :02/08/19 19:29
『丸山眞男 音楽の対話』文春新書がよいと思う。
159 :
考える名無しさん :02/08/24 00:56
面白い、このスレ
160 :
考える名無しさん :02/09/01 11:34
え
161 :
考える名無しさん :02/09/23 01:21
162 :
考える名無しさん :02/10/10 10:35
s
163 :
考える名無しさん :02/11/03 21:47
あげ
保守
165 :
考える名無しさん :02/12/07 03:28
この人ってクラシック好きだね
166 :
インテリってなんだ?より。 :02/12/07 10:46
丸山真男は、「現代政治の思想と行動」で、インテリには戦争責任無いと説いたが、 当たり前だろう。何時インテリが政治や戦争に参加した時期が有るんだ? 今だって、所謂インテリで実際に政治に参加してるのは、田中康夫ぐらいだろう。 あとの自称インテリは批判ばかりで、自ら行動する事なんて無いんだから。 第二の敗戦バブル崩壊も、インテリは関係無い。 インテリが経済活動した事なんか無いモン。 日本の経済学者はノーベル賞一回も取った事無いくせに、教授でござい。バブルの責任は御座いません。 だものな〜。 そんなマル経、近経、インテリ万歳だ。この野郎。
167 :
考える名無しさん :02/12/13 02:13
age
168 :
考える名無しさん :03/01/02 09:07
期待あげ
169 :
考える名無しさん :03/01/02 18:16
とりあえず、「であること」と「すること」の違いがはっきりわかれば、 丸山はクリアということで
170 :
考える名無しさん :03/01/03 04:27
『日本の思想』の第一部・第二部はいまだに読むに耐えると思うよ。 1960年頃の論考だから古いのは確かだし、 当時の政治的状況に左右されているところがあるのは否めないけどね。 でも、日本の社会がポスト近代(近代以後)とプレ近代(近代以前)の奇妙に混合した社会であるとか、 明治維新以来の思想状況がどのような社会を形成していったかとかが 手際よくまとめられているから、批判するべき点が多々あるのを忘れなければ 日本の思想を考えるのに重要な基礎文献になると思う。 新書で読めるこういう本はあまりないから、絶版になってほしくないしね。
田中康夫はインテリ!!!!!!!( ゚∀゚)ノ ☆(゚∀゚ )
172 :
考える名無しさん :03/01/03 08:02
>172 いちおう何も見ずにその場で書いたんだけどな。 じゃあもう少し詳しく魅力だと思ったところを書くと、 マルクス主義が日本の思想にもたらした影響を詳説していて、 それに対して小林秀雄がどのように批判したか、 それを現在(1960年当時)の我々はどのように受けとめればいいかを考え、 実践の方向を示唆している。 戦中の思想状況にページを割いているのはいま読むと古くて読めないけど、 日本の知識人の悪弊を分析して考えようとしているところは いまでも参考になると思っている。 高校の時に軽く読み流した時はつまらない本だと思ったけど、 気がつくとこの10年間に何度となく立ち返っている。 だから良書だと思って推薦しただけ。 批判があるんならまともな批判をお願いします。
(^^)
なんなの、この山崎渉ってやつ? 哲学板のそこかしこにsageで書いてる。 うざいったらありゃしない チッ(・д・)
(^^)
177 :
考える名無しさん :03/01/19 00:42
28ってヤツは、単に「近代思想」が嫌いなんじゃないかと、 このスレ読んで思った。 坊主だしな。変な宗教をマジ唱えているだろうし。
178 :
考える名無しさん :03/01/19 00:45
>>175 哲板だけじゃないよ〜ありとあらゆる板に出没してる。
179 :
考える名無しさん :03/01/27 22:55
age
>>154 さん
たとえば、どういう論点がありえますか?
もしよかったら教えてください。
181 :
考える名無しさん :
03/02/09 04:07 マンセーもしないが、これ以上の政治思想史家って何人ぐらい いるの?(日本に)