>>524 西洋における「合理性」の観念の歴史的背景について考えて
見ると、まずアリストテレスの著作を基盤にしたスコラ神学
と、そこから神学だけを除去した、スネッサンスに端を発す
る「ホモ・サピエンス」的人間観、という問題がまず最初に
アタマに上るわけだが。
中世カトリシズム・スコラ神学の弱体化後も、大陸における
スコラ主義の影響は止むことはなかった。ドイツ観念論は、
スコラ主義的な理性崇拝のゲルマン版だ。
理性崇拝がなぜ、観念論になるのか? それは、普遍論争に
おける唯名論を考えて見れば分かることだが、唯名論におい
ては対象化(客体化)領域に普遍のあるものを認められない。
というのは、普遍的なものは実は主体の側にあるからだが、
対象化領域に普遍を求めると、実体を欠いた抽象観念が観念
実在論的に一人歩きを始める。それで、ヘーゲル哲学のよう
な巨大な観念論体系が構築されたりする。
「反合理主義」というものを、どのような射程で理解するか、
という問題だな。ニーチェのやったような情念的な反発は、
意外に素朴なニーチェ自身の無意識な理性信仰の裏返しであっ
たり。
531 :
よんさま〜&hearts:04/12/03 13:46:14
>>530 おおかた、同意できるけど、
>>「反合理主義」というものを、どのような射程で理解するか
どう理解するわけ?
>普遍のあるものを認められない。
曖昧なので、「普遍的なものの存在を認められない」に訂正しよう。
「普遍的なもの」とは実は「超越的なもの」のことであり、これこ
そ「主体的なもの」の本質であり、つまり「対象化(客体化)領域
に主体的なものの存在を認められない」という同語反復になる、と
いうわけ。