1 :
考える名無しさん:
ベンヤミンの主として言語に関する著作を取り上げ、読書会形式で読んでいきます。
最初に取り上げるのは1916年成立の論文「言語一般および人間の言語について」。
テキストにはちくま学芸文庫・浅井健二郎、久保哲司訳「ベンヤミンコレクション1」(\1500)
収録の日本語訳を使用。残念ながら原書が参照できる環境にないので
とりあえずは翻訳だけを頼りに進めていきます。
もちろん参加してくださる方には厳密に読書会の形式にこだわってもらう必要はなく
この論文についての、あるいはベンヤミンの言語論全般に関する自由な議論も歓迎です。
ただ僕はベンヤミンについては完全に素人な上、一読のもとにこの難解な論文を読んで理解する
だけの力はありませんので、まずは1パラグラフずつ読み進んでいく形を取ることで
自分へのディシプリンとすると共に、当面のスレッド進行を行いたいと思います。
第一パラグラフ。
言語一般と人間の言語の、言語Spracheと言葉Wortの峻別。
言語(Sprache)は精神内容の伝達、またその原理である。
すべての事物にとって精神的内容の伝達は不可欠である。
「人間の精神生活のどのような表出も、一種の言語(Sprache)として捉えることができる。」
これだけ読むとなんとなくロランバルトを思わせますね。
ただ判決文の言語と関わりのない司法の言語、が考えられるとすると
バルトの記号論よりはもっと観念的なものなのでしょうか。ここに限らず、言語というものを
一種の抽象的、理想的な理念として捉えようとする傾向が伺えます。
「言語の存在は(中略)人間の精神表出のすべての領域に及ぶのみならず、文字通り一切のものに及んでいる。
生ある自然のうちにも、生なき自然のなかにも、ある一定の仕方で言語に関与していない出来事や事物は存在しない。
自らの精神的本質を伝達することは、すべてのものにとって不可欠だからである。」
過激な主張だし、まだ良く分からないがヴィトゲン風に言葉が我々の限界であるって意味としてならすんなり取れなくもない。
次のような表現を見ればなおさら。「われわれはどのような対象にも言語のまったき不在を表象し得ない」
でもそんな微温的な解釈は受け入れてもらえなさそうです。
「このように用いられた<言語>という言葉は決してメタファーなのではない。」
関係ないけどソーカル先生に叩かれてた人もこういう表現してましたよね。。。
とりあえず言語というものを言葉(Wort)と峻別して、言語一般というものを考える。理念としての言語?
最後にいきなり神なんて言葉も出てきますが、このさりげなさが思わせぶり。。
とりあえず詰まるところはないんですがいわんとしていることがはっきりとイメージできないことも確か。
言語というものを理念として、また客観的なものとして扱いたいという要求があるのかな。
3 :
考える名無しさん:02/02/03 02:01
原書(原文)は、ネットで検索してもないの??
>>3 ちょっと探してみたんだけど、「複製芸術時代の〜」の英訳しか見あたらなかった。。
もし知ってる人いたら教えてください。
グーテンベルクも哲学、批評をもう少し入れて欲しいところ。
20世紀の著作にも著作権切れで結構おいしいのが出てきてそうなのに。
5 :
考える名無しさん:02/02/03 09:52
>4
前に探したけど、やっぱりなかった。
6 :
考える名無しさん:02/02/03 11:35
へへ前、浅井先生の講義でこれ読んだんだ。全然理解できなかったけど。でもキーワードの解説ぐらいは覚えてる。
ベンヤミンにしてみると、バベル以後、我々人間が使う<市民的言語>は救いなく混乱してしまった道具的言語、ということになる。
もう取り戻せないが、アダムとイヴが使っていた言語が理想的言語。
どこかに理想的言語があるはずだ、という信念は、どうも20世紀初頭に広く見られる言語観だな。ラッセルや初期のウィトゲンもそう考えてた。
7 :
考える名無しさん:02/02/05 11:42
>1のために age.
スレ立て直後に3日もあけてしまって申し訳ない。
でもこれからも進みは非常にゆっくりしたものになると思うんでよろしく。。。
>>3「複製技術」ですね。一応訂正。
>>6うらやましい。何気に哲板には東大生多いのかな。いつ来ても周りのレベルの高さに凹む。。。
うちのドキュソ大ではまともに読んだのゲーテぐらいだたなぁ。とそれは良いとして。
>我々人間が使う<市民的言語>は救いなく混乱してしまった道具的言語
僕などは安直に理想的言語、市民的言語とホルクハイマーとかの客観的理性、
道具的理性との対応関係を考えてしまうんだけどその辺どうなんでしょう。
どちらにせよこの辺の人達考えるときには<客観>つうのがキモになりそうです。
理念と客観、プラトニズムの焼き直しかよおい、という所であのKonstellationがでてくるのかな。
現象の向こう側にあるものでもなくて、個々の現象の中にある隠れたる神、でもなくて
個々の(独立した)現象の関係性によって浮かび上がる、客観的なるもの、理念。つう理解でよろしいんでしょうか。
ただこれだと概念との差異が曖昧か。全然外してるような気も。実在という側面も弱いし。。。
>理想的言語があるはずだ、という信念は、どうも20世紀初頭に広く見られる言語観
ちょっと性質が違うけどチャンドス卿(この名前出すのは気恥ずかしいかも)
なんかにもそれを読みこむことができそうですね。
でもベンヤミンはチトそれとは違うんじゃないかなぁとか思ったり。
なんか思いついたことをつらつらとまとまりなく書いてしまいましたが。
読解の続きは後ほど。
第2、第3パラグラフ(p10-12)
言語的本質と精神的本質の同一性と非同一性(こう書くと途端に安っぽくなるな。。。)
言語理論の使命
「精神的本質は自己を言語において(in)伝達するのであって、言語によって(durch)ではない。」
「精神的本質はドイツ語は(中略)ドイツ語において(in)自己を伝達するものの
直接的表現なのである。ここにいうこの<自己>こそが精神的本質に他ならない」
道具として、手段として何かを伝達するものではなく、そこにおいて”直接的”表現がなされる言語。
ベンヤミンの言語への信頼、愛情が感じられますねぇ。。
なんかこういうところニーチェとの対決を見てしまう、というのは思いいれすぎか。
また次パラグラフとも関わってきますが言語的本質と精神的本質、そして言語の区別。
言語と言語的本質も使い分けてると解釈したけどこれでよいのだろうか。
伝達=言語。伝達可能なもの=言語的本質と考えてみる。
「精神的本質はそれが伝達可能な限りにおいてのみ、言語的本質と同一なのである」
精神的本質のうち伝達可能な部分が言語的本質って安直な理解はダメでしょうねぇ。
「言語において自己を伝達する精神的本質は言語そのものではなく、言語とは区別されるべき何かである、」
「ある事物の精神的本質はまさにその事物の言語のうち存しているという見解(中略)
この深淵の上にこそ漂いつつ自己を保ち続けること、それが言語理論の使命なのだ。」
かっこいい文章だ。。。ともかく、この両者は区別される。だが両者の一致を単に当為として
みるだけで良いのか、それとももっと別の意味があるのか、ここからだけではちょっとわからないです。
「この背理は解き明かしの答えとして、言語理論の中心にその位置を占めておりしかし背理であることをやめず、
それが論の冒頭におかれた場合には解き明かし得ぬものであり続ける」
いよいよもってわからん!あーでもこれ重要っぽいですね。
作業仮説として両者の一致=あるべき姿、だが現実には違う。
一致を見つつ、現実にとどまることこそが使命とでもしておきましょうか。。。
見づらい書き方ですね。。もうちょっと工夫してみます。
あと引用多すぎるかな?
引用多い割にはテキスト持ってないとわからん書き方だし。
11 :
考える名無しさん:02/02/06 02:42
がんばれ。
12 :
考える名無しさん:02/02/08 00:52
>1のために age
>>11-12 一緒に読みませんか?
読解の続きは後ほど。
つーか読解(はまだ全然進んでないので)とはちょっと別にネタ振りしないとだめっぽいですね。
こう圧縮された著作で、一文一文が抜き出してそのままテーゼにできそう、
なおかついわゆる論理的な説明とかで進んでいく論文では全然ないので
このやり方自体無理があったか。。。まあひとまず先に進みましょう。
第4パラグラフ(p12-13)
@言語は媒質<Medium>である。
A言語の無限性
@「ある精神的本質にあって伝達可能なものが、最も明晰にこの精神的本質の言語うちに現れるのではなく、
その伝達可能なものがそのまま直接に言語そのものなのである。」のであるから、
「どの言語も自己自身において自己自身を伝達する」(第2パラグラフの自己(精神的本質)とのつながりに注意しつつ)
(ランプの言語はランプ、あるいはその精神的本質を伝達するのではない)
これをもって能動にして受動であるもの”媒質<Medium>”と呼ぶ。
全然関係ないけれどもブロッホのユートピアを思い出してしまいます。動きのない世界。
この伝達の直接性・無媒介性という一種の魔術性から次の無限性が指し示される。
A「言語において自己を伝達するものは、外側から限定されたり量り比べられたりすることはできず、
それゆえどの言語にも、同一尺度でははかれない唯一無比の無限性が内在している」
この無限性は言語一般というものを考えた時点で確かに納得できるものだと思います。
次パラグラフからの人間の言語についての記述にもこの無限性という奴が伏流している。と僕は考えています。
>>9 ミスがありました。一応訂正を
5行目
>「精神的本質はドイツ語は(中略)
↓
>「ドイツ語は(中略)
です。
第5第6パラグラフ(p13-14)
@人間の言語は命名する言語である
A事物の言語は人間に伝達する
@「人間は他のあらゆる事物を名づけることによって、自身の精神的本質を(それが可能である限り)伝達するのである。」
「人間の言語的本質とは、人間が事物を名付けることを謂う。」
これです。単語中心的だとか批判を受けますが。
ベンヤミンが人間の言語を語るときには、恣意性だの差異性(この二つは微妙か)だの
実際の発話行為とか深層構造がどうのなんてのは殆ど陰を見せず
”名”これにつきます。
#命名する言語は人間の言語だけではななんて事言って伏線も張っています。
#第一パラグラフでの神といい、計算されてますね〜。
A「もしランプ、山々、狐が人間に自己を伝達しないのだとすればどのようにして人間はそれらのものを名付けられよう?」
このへん、前述の無限性と関わってきそうですね。無限性に関しては恣意性、差異性を逆転した形で
非常に肯定的に捉えていると無理矢理考えてみましたが。これは間違ってる可能性大きいな。。。
そして
「それらのものを命名することによって人間は自己を伝達するのである。では、人間は誰に自己を伝達するのか?」
いよいよです。
誤字ばっかりだ。
>#命名する言語は人間の言語だけではななんて事言って伏線も張っています
↓
>#命名する言語は人間の言語だけではない、なんて事言って伏線も張っています。
なんとか解るだろう、というのは訂正しません。余計読みにくくなると思うので。
なんかちょっとここ
>>17まで言うと言い過ぎっぽいので引用を。
「われわれはただ、命名する言語を人間の言語以外に知らないだけなのだ。」
19 :
考える名無しさん:02/02/10 03:17
あげえ
20 :
考える名無しさん:02/02/16 03:43
読んだことないんだよな、ベンヤミン。
続きキボン。
21 :
考える名無しさん:02/02/24 01:03
レポ書くからage!
今日複製技術時代の芸術買って来ました
他の著作ないよ!紀伊国屋に!
>>1 ベンヤミンに関心があって丁度ここで扱われる
本を買う予定でした。独学は苦しい。
貴方ほど学がないため積極的に発言できるかはわかりませんが
このスレッドに期待する者がいると言うことだけ。
23 :
考える名無しさん:02/02/26 21:37
AGE
この本持ってる。
おれも参加します。
ていうか、これむちゃくちゃむずかしいなぁ
長い間をあけてしまい申し訳ありません。再び先に進んでみようと思います。
>>21 このスレはたぶんレポートの参考にはちょっと難しいかも。
勝手な妄想繰り広げてる部分大きいので。。
>>22-24 これから再開したいと思いますのでよろしく。
>>25 ベンヤミンの難しさって言うのは、論理の複雑さとかじゃなくて
彼の独特な語の用い方にあるんじゃないかと僕は思っています。
彼自身「哲学の用語は特殊な共同体をなしている」(うろ覚え)
といったようなことを行っていたと思います。
アドルノじゃないですが彼の著作においては個々の語、文にかんしても
全体を媒介して考えないとうまく理解できないのかも、って良くわからんことを考えてみた。
とにかく一文一文着実に理解して読み進めていくのではなく
何度も読み返して何となくの理解から研ぎ澄ませていくしかないのかな、とか。
第7パラグラフ(p14〜15)
2つの言語観について
一般に理解されている(人間同士の)伝達の手段としての言語、というものが市民的言語観が市民的言語観としてしめされ
その誤謬と空虚さを証す、またそのことによって彼の言語観を述べる、という方向性がしめされます。
「市民的言語観の言わんとするところは、伝達の手段が言葉であり、
伝達の対象は事柄であり、伝達の受け手は人間であるということである。」
これは18世紀啓蒙以来、あるいはもっと広くルネサンス以降の人文主義的な主体概念によるものなのかな等と
電波な考えを抱いてしまいました。個人的にベンヤミンにはあるいみで中世指向的なものがあると考えていますので。
(これは20世紀の様々な思潮に現れる特質だと勝手に考えているのですが。)
例えばニーチェその他のいわゆる実存主義者たちが示した言語への不信感は、
このブルジョワ的言語観によるものだ、と言えるかも知れません。
それに対して彼の”名”言語観とでもいうべきものが示されます。
ここは非常に重要で印象深い部分ですがその内容についてはこれからの読解にまわすとして引用だけしておきます。
「これに対して、もう一方の言語観はいかなる伝達手段も、そして伝達の受け手となるいかなる人間も知らない。
この言語観の言わんとするところはこうだ 名において人間の精神的本質は自己を神に伝達する。 」
28 :
考える名無しさん:02/03/01 23:25
>ベンヤミンの難しさって言うのは、論理の複雑さとかじゃなくて
彼の独特な語の用い方にあるんじゃないかと僕は思っています。
全く同感っす(原書で読んでないのではっきりとは言えんが…)。
>>10 引用が多いとは全然思わないので、この調子でがんばってください。
>>26訂正です。
3行目は
このスレはレポートの参考にするのは難しい。の間違いです。
決してこのスレのレベルが高いという意味ではあり線ので念のため。。。
>>28 レスどうも。書き方には不安あったんでちと安心(笑
ひとまず自分の理解を確かにするため、ってな自分本位な意図で
読解の方は進めてる部分もあるんで見苦しい部分はご容赦を。
とりあえずこの形式でもうチョイスピードアップして進めていきたいです。
ちょっとのろすぎた部分あるんで。
原書は僕も読んだことないです。一度は読んでみるべきかな。。
第8パラグラフ(p15-16)
いよいよ面白くなってきます。
@名とはなにか
A人間と言語、人間と自然との関係、その役割
@そこにおいて神への伝達がなされる唯一のものとしての名、の特質について述べられます。
「名こそ言語そのものの最も内的な特質である。」これは言語一般についていっているのだと理解しました。
ただもちろん名を持つのは人間言語のみであり、これが重要なポイントになってきます。
「精神的本質が自己を伝達する際に、絶対的な完全性をもった言語そのものとなっている
ところにのみ、名は存在し、しかもそこには名しか存在しない。」
「(名における)この言語そのものこそ人間の精神的本質である」
第三パラグラフで提示された根本問題、精神的本質と言語との同一性という問題が再び現れます。
この背理は名において解き明かしの答えとなっている、のでしょうか?もう少し進んでみましょう。
”名”の言語を持つ存在としての人間の特質から、彼の、世界における特殊な役割が現れてきます。
A「相続遺産」としての名を持つそんざいとして、
「人間の精神的本質のみが、余すところなく伝達可能なのである。」
事物言語との違いが最もはっきり現れるところとして確認されます。
つまり事物言語はそれだけでは不完全なものであり、
「すべての自然は自己を伝達する限り、言語において、とはつまり結局は人間において、自己を伝達する。」
のであります。「それ故人間は自然の主人なのであり、事物を名づけることができるのである。」
これを違った角度から見ると、サルトルの脅かすものとしての他者という概念にもつながるかな?
なおかつ人間の命名は、彼の世界における役割なのだという主張がなされます。ぶっとんでますな
「神の創造が成就されるのは、事物が自身の名を人間から得ることによってである。」
汎神論って奴の名残なんでしょうか。世界の完成者としての人間。神の救済モチーフってのもあるかも.
創世記からの引用もなされます。人間とは「名を与えるもの」であると。
このあたりは後に出てくる神の言語、裁きの言語との対比としても重要なものになってくると思います。
また、この名概念は後の芸術作品や象徴をめぐる諸々の考察において流れているものでもあるのでしょう。
しかし読めば読むほど面白いですな。
月並みですが彼の後の著作でしめされる考え全ての萌芽がここにあるって感じで。
アレゴリー論にせよ、「神的対神話的」の対立概念にせよ、芸術論にせよ
言語を直接語ってなくても、その底流には言語に対する考えや
ここで示されているような世界観が底流としてあるんだなぁと。
もちろん特にバロック悲劇論後、比重は変わって行くにせよ
世界観自体は変わらなかったと言えるんではないでしょうか。
32 :
考える名無しさん:02/03/10 20:20
関係ないですが、パウル・クレーの展覧会が神奈川県立近代美術館で
開催されてるそうです。ソースはNHKの日曜美術館。
天使の絵は来ているか不明。
第9,10パラグラフ(p17-18)
「名において自己を語り出すことと他の全ての物に呼びかけることとは同じ一つのことである」
名において言語的本質と精神的本質とは同一であり、言語の内容、という物は存在しない
名において事物に呼びかけ、神の創造を成就させることと自分を語り出すこととは同じことであり
またそれは神への伝達である。このパラグラフに直接書かれているわけではないにせよ
前後をみてみるとこう考えて間違いないのではないでしょうか。
これとパラレルで思い出されるのが「いかなる交響曲もいかなる詩も、
それが聴衆や読者の為に書かれたと考えるほどの間違いはない」という有名なフレーズ。
では何に向けて書かれているのか、それは神であるということなのか。
つまり芸術家が無心に創造行為を行うならばそれは必然的に自己表現でもあり、それは神への伝達である。
いや逆でも良いのでしょうが、聴衆無視の音楽だとか、自己表現なんてロマン主義の遺物だとか、
事物に即して創造するなんてのは詭弁だ、といったさまざまな声を一発で黙らせるだけの力を持った魅力的な考え方だ。。。
と思いつつも、後で全ての芸術の言語は事物言語であるといっているしこれをパラレルで考えるのは間違っているのか?
もちろんだから(救済)批評が必要になるということなのでしょうが、裁きの言語と批評との関係は、等々疑問が湧いてきます。
「ひとり人間だけが、普遍性と内的集中性の双方からして完全な言語を持っている。」
つまり名言語を持つ人間だけが、精神的本質を余すところなく伝達可能なのであり、
言語的本質と精神的本質同一性という背理を解き明かしの答えとして持つ、のである。
関係ないですがこういう方式のやり方ベンヤミン好きですね。
形式と内容が同一である、という良く聞く考え方ながらももっともな考え方を持っていることを確認しつつも
事象内実と真理内実という二分法で考えたり、逆に別でありながら同一、とか、弁証法って奴なんでしょうか。
もちろんこれだけじゃあ浅薄な理解ではあるんだろうけど。
また諸々の言語は伝達するもの、伝達可能なものの密度に従って段階的に区別されるものであると述べられます。
なんかネオプラトニズムチック。。。
また(名において同一である)精神的本質と言語的本質は純粋に分離されていながら、
他の領域においても符合し合っていると述べられます。
36 :
考える名無しさん:02/03/13 00:58
あげ
37 :
考える名無しさん:02/03/17 23:47
そのうち本買って参加するつもりage
38 :
考える名無しさん:02/04/01 00:01
あげてみる
良スレの予感だべ。
フリードリヒ・メニングハウス著、伊藤秀一訳『敷居学』、同『無限の二重化』をオススメするべ。
メニングハウスはベンヤミンを研究してる人だよ。敷居学ではベンヤミンの「神話」概念を分析してるよ。
マターリsage進行がいいのでは?>>all
40 :
考える名無しさん:02/04/06 00:05
一ヶ月ぶりに続けてみようかと思います。もう誰も見てないかも知れないですが。
またしばらくしたら一ヶ月ぐらい来れなくなるんでなんとかそれまでに頑張って進めてみるかな。と。
精読がおっつかなくなったら全体のレジュメみたいなのを上げて終わるかも知れません。
>>39 ベンヤミン関連の著作は概説書を2、3冊ぐらいしか読んだことないんで参考になります。どうも。
またおかしなところあったらつっこみお願いします。
電波とばしすぎてて呆れてつっこめないってのもあるかも知れませんが。
41 :
考える名無しさん:02/04/06 00:09
電波がどうってほど大げさなこっちゃないけども嫌やと感じることなんか、幾らでもあるやん。
逆にあんた、嫌な呼ばれ方したらいちいち名誉毀損って騷ぐんかいな。それこそガキの論理になるで。
42 :
考える名無しさん:02/04/06 00:28
第11パラグラフ(P19-20)
精神的本質と言語的本質の同一視はある形而上学的・宗教的概念、すなわち啓示の概念に至らしめる。
「言語、それは理性の母にして啓示なり、此れらのアルファにしてオメガなり」ハーマン
あらゆる言語表現の実際においては「語られてあるもの」と「語られぬままのもの」との相剋がある。
前パラグラフまでの叙述にもかかわらず事実態としての相剋はやはり認めるわけですね。
第2パラグラフで述べられた通り深淵の上に漂い続けるわけでしょう。
そしてそれでもなお言語的本質と精神的本質の同一視という立場に立つならば
「最もはっきり語られてあるものこそが、同時に、純粋に精神的なものなのである。」
ということになるわけです。まさにこれこそが啓示の概念そのものだというわけでしょう。
教科書的に言えばトーラーといわれる教典を神聖視するカバラからの影響が著しく表れている、というところでしょうか。
「宗教という最高の精神領域は同時に、語り得ぬものを知らない唯一の領域である。」
まさにヴィトゲンシュタインとは正反対のことを言っているかのようですね。
これが名の言語における領域であって、この領域においてこそ精神的本質と言語的本質は同一なのである。
というのはここまでだけでもわかることですが、ここでもベンヤミンは独特な述べ方をしています。
「宗教において立ち現れるような最高の精神的本質だけが、純粋に人間のうちにある言語に基づいている」
すなわち名の言語において完全な伝達がおこなわれるのが啓示、
というのではなくて最高の精神的本質によっているものが名の言語の領域である。と。
両者を同一視するわけですから形式的にはトートロジーでどちらも同じになるわけでしょうが
こういう述べ方をしているのはやはりそれだけ宗教的なものを重視している証左だと思います。
それと対比して芸術の言語はどれほど完璧な美のすがたをとろうとも事物の言語的本質に基づいている
といわれ、一見宗教との対比で低く見積もられているように見えますが
こういった部分にこそポテンシャルを見るのがベンヤミンの真骨頂であることは言うまでもないことでしょう。
とくにアレゴリー論に直接つながる事かと思います。
43 :
考える名無しさん:02/04/06 01:04
第12パラグラフ(p20-21)
前半部の最終パラグラフですね。
前パラグラフで芸術の言語は事物の言語である。と述べられたのを受けて
事物の言語、人間の言語の特色が述べられます。これまでの事を確認した上で
事物の言語の共同性は物質的、魔術的で無限なものであるのに対し、人間の言語は非物質的で純粋に精神的なものであり、
またその精神性の象徴が音声なのである、と聖書に即して述べらます。
「神は人間に息を吹き入れた」
「この息とはすなわち、生命であり、同時に、精神にして言語なのである。」
#使い古された古典的・ロマン的の対比図にもピッタリはまりますよね・・・
#あら探ししても仕方がないと思いながらも目に付く。文章の魅力のおかげでこれまであまり気になりませんでしたが
#それだけでとりだしてしまうとこの対比はちょっと陳腐な気もします。
生ある自然のうちにも、生なき自然のなかにも、ある一定の仕方で言語に関与していない出来事や事物は存在しない。
「言語の存在は(中略)人間の精神表出のすべての領域に及ぶのみならず、文字通り一切のものに及んでいる。
生ある自然のうちにも、生なき自然のなかにも、ある一定の仕方で言語に関与していない出来事や事物は存在しない。
自らの精神的本質を伝達することは、すべてのものにとって不可欠だからである。」
とりあえず言語というものを言葉(Wort)と峻別して、言語一般というものを考える。理念としての言語?
最後にいきなり神なんて言葉も出てきますが、このさりげなさが思わせぶり。。
ベンヤミンにしてみると、バベル以後、我々人間が使う<市民的言語>は救いなく混乱してしまった道具的言語、ということになる。
理念と客観、プラトニズムの焼き直しかよおい、という所であのKonstellationがでてくるのかな。
現象の向こう側にあるものでもなくて、個々の現象の中にある隠れたる神、でもなくて
個々の(独立した)現象の関係性によって浮かび上がる、客観的なるもの、理念。つう理解でよろしいんでしょうか。
道具として、手段として何かを伝達するものではなく、そこにおいて”直接的”表現がなされる言語。
ベンヤミンの言語への信頼、愛情が感じられますねぇ。。
こう圧縮された著作で、一文一文が抜き出してそのままテーゼにできそう、
なおかついわゆる論理的な説明とかで進んでいく論文では全然ないので
このやり方自体無理があったか。。。まあひとまず先に進みましょう。
これをもって能動にして受動であるもの”媒質<Medium>”と呼ぶ。
全然関係ないけれどもブロッホのユートピアを思い出してしまいます。動きのない世界。
この伝達の直接性・無媒介性という一種の魔術性から次の無限性が指し示される。
そして
「それらのものを命名することによって人間は自己を伝達するのである。では、人間は誰に自己を伝達するのか?」
いよいよです。
45 :
考える名無しさん:02/04/24 02:01
ag
あほスレ
47 :
考える名無しさん:02/05/10 00:29
弁や明って読むべきなのか?
48 :
考える名無しさん:
1ガンバレ!