コペルニクス的転回の反転

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1TIII
いや僕はカント好きだし、主観もあってほしいと思うし、科学主義や唯物論なんて大嫌いなん
だけどね。以下のことをはっきりさせないとカントの啓蒙精神が捻じ曲げられちゃう気がするだよ。
 というわけで、無謀にもカントの本なしでカントやるよ。

 カントは次のように述べた(コペルニクス的転回)。
 「経験と経験の対象に関する概念との必然的一致が考えられる仕方は二つしかない。
すなわち、経験がこの概念を可能にするのか、それともこの概念が経験を可能にするのか、
のいずれかである」 (注1)
 「直観が対象(客体)の性質に従うのではなく、 対象が(感官の客体として)我々の直観
能力の性質に従うとするなら、我々がアプリオリに対象の性質について何ごとかを知ること
ができると考えることができる。」

ここから、次のように主張する人がいる。

 「こうした必然的認識、科学的法則が可能な世界は、現象としての自然の世界に限られる。
つまり自然科学の対象である自然が決して物自体(客体)の世界であるのではなく、認識の
対象になりうる現象であることを忘れてはならない。」(とあるHPより)

 ところで、これを「我々が認識可能な世界は認識の対象になりうる現象である」と考えたら、
単なるトートロジーである(注2)。そこで次のように解釈する。つまり、我々にアプリオリに(
先天的に)備わった直観能力の性質なり主観的認識装置は「絶対的な強制力を持つもの」
であり、認識可能な世界は それらによって必然的に制限されているのだ、と。そしてさらに
付け加えて、こう言うかもしれない。「だから、如何なる客観的言明(例えば科学理論)も主
観的であることを逃れられない。」
 しかし、カントの時代、物理学においてはニュートン全盛であり、ダーウィンの進化論もなか
ったのである。だから、カントは同時代人の多くと同様にニュートン力学を真と考えており、
上にある必然的一致というのもニュートン力学の必然的一致(つまり真)を念頭においていた
ものであった。このような時代背景を踏まえて解釈すると、主観的認識装置のもつ必然性と
いうものが怪しくなるであろう(注3)。さらに、現在において我々が持つ素朴な世界像が如何
なる状況に晒されているかを鑑みれば、主観的認識装置によって作られた経験世界における
必然性なるものの性格がみえてくる。空間や時間、さらに実体や因果性といった直観形式
(あるいは主観的認識装置)によって把握された素朴な世界像(経験世界)が相対性理論や
量子論によって危機に陥っているとみていい。つまり、必然的なはずの「認識」が経験によって
反駁されかけているのである。
 ならば我々は認識装置や認識可能なものについては何も知ることができないのか。といえ
ばそうではない。再び主客の転回を行えばいいのだ。つまり、認識装置や直観能力は物自体
(客体)によって作成されたと考えるのである(注4)。このように考えるのを進化論的認識論と
言うわけだが、進化という言葉が示すとおり、何か意図して作られたというわけではない。認識
装置や直観能力が自然(物自体)に適応していたから、淘汰の過程を生き残り、このように現存
していると考えるのだ(生き物とっての仮説と言える、注5)。そして、このような進化論的、客観
的な分析によって、認識装置の性格が客観的に解明可能になり、我々はいつの日か四次元空
間さえ認識できる装置を身に付けることができるかもしれないのだ。アインシュタインがあの奇妙
な理論を生み出したことからも推測されるように、我々に備わった理論作成能力には限りない可
能性が秘められているのだから。
2考える名無しさん:02/01/21 03:50
>>1
かなりおもしろそうなテーマだが、1つだけ言っておく。
長すぎ!
3考える名無しさん:02/01/21 03:52
1,一つ言っておく。
それは30年前に飽きられたテーマだ。
4考える名無しさん:02/01/21 03:52
コピペかも知れんが、注)もちゃんとフォローしてくれよ。
5TIII:02/01/21 03:53
ワリィ。長文になったな。

 上のような考えは、進化論的認識論(キャンベル、ポパー、ローレンツ、フォルマーなど)にお
いて標準的なものであると思う。また、言語論的転回とは関係ない。

 注1、フォルマーはこれに関連してカントの以下の文を引用している。
 「もし誰かが、上にあげた二つしかない道の間に中間の道を提案するとしたら、すなわち、
カテゴリーは自分で考え出された我々の認識のアプリオリな第一原理でもなく、また経験
から得られたものではなくて我々の存在と同時に植え付けられた思惟する主観的性質で
あり、この素質は我々の創造者によって見事に備え付けられたので、その使用は経験の
進行の基礎をなす自然法則と正確に一致すると提案するとしたら、・・・・カテゴリーは悟性
概念に本質的に属する必然性を欠くであろう・・・。」
「空間と時間が決して物自体ではなく、感性との関連にのみ付着した規定であることが疑
われるとしたら、物の直観がいかなる性状のものでなければならないかをアプリオリに、
・・・知ることはいかにして可能とされうるのか、私はぜひとも尋ねたいものである。」

 ここでは第一の引用にある「自分で考え出された」というところに注目すべきである。カント
にとって、直観形式は人間的なものであった。この洞察は正しい。しかし、ダーウィンを知ら
ないカントにとって人間的でないのの反対概念を考えるのが困難であったのであろう。カント
は「創造者」という概念を想定せざるをえなかったのである。人間的たろうとしたカントが
これを嫌ったことは容易に想像できる。しかし、我々はいまや、我々の存在と同時にアプリオリに
(先天的に)備え付けられた認識装置がどういうものか良く知っているのである。ここで、第二の
引用におけるカントに答えることができるであろう。すなわち、仰るとおり、個体としての我々
には感性に関連したアプリオリなものを必要としている、が、我々は長い進化の過程にお
いて、物自体の荒波にさらされて形成されたのだと信じる十分な理由があり、アプリオリな
ものの適合的性格もそれによって説明できるのだ、と。我々人間には系統発生という経験
的な歴史があったのである。
6考える名無しさん:02/01/21 03:54
カントスレで似たようなことやってただろ。
駄スレ立てんな
7TIII:02/01/21 03:57
注2、哲学的な議論においてしばしば次のような言い方が見受けられる。
 「それら全てのものは物質であって、あなたは幻を信じているにすぎないのだ。」
 「それら全てのものは観念であって、あなたは幻を信じているにすぎないのだ。」
などなど。こういう断定で満足することは「自分は何も言っていない」というだけでなく、
「自分は思考停止に陥っているのだ」と告白するに等しいと思う。だから、ここでは、
そういったトートロジーではないと仮定する。

 注3、ショルツによると、カントにおける必然性は不明瞭すぎて「それについては決して争っ
てはならない」ものらしい。が、パンドラの箱かもしれない。なかなか面白そうなのである。

 注4、当然、「そのような認識も、主観的認識装置によって作られたものだ」という反論
があろう。が、これこそがここでの論点なのだ。で、予想されることとして、超越論的という
言葉の解釈、特にそれが一切の経験的論証によらず存在すると仮定される認識の前提
条件といった解釈が問題になるであろう。

 注5、進化論的認識論における重要な帰結は「全ては仮説的である」というものだ。
なお、このような探求によってコペルニクス的転回の反転はさらに反転しなければなら
ないことがわかるであろう。しかし、この反転は次のレベルのものであり、また、主客の
反転と単純に言えるものではない。
8考える名無しさん:02/01/21 03:58
人間が進化すれば五感を超えた感覚器官を手に入れることができるってこと?
9びたみん ◆BWLMxAG. :02/01/21 04:00
お!スレ立てられたんね。。。
勉強します。
10TIII:02/01/21 04:06
>>6
 カント自体を議論するのではなく、カントに影響された哲学的な議論にみられる
必然的な認識の限界についての「思い込み」を議論しようというのですよ。だから、
問題になっているのはカント自身ではなく、我々の考え方なのだ。
11考える名無しさん:02/01/21 04:07
人間は進化すれば原子を肉眼で見ることもできるようになるし、
4次元空間も「見える」ようになるし、テレパシーも使えるし、
サイコキネシスも使えるようになる。
12TIII:02/01/21 04:10
>>8
 うん、そういうことも考えてるけど、それだけでは僕の仮想論敵は満足しない
と思われるので・・・。

>>9
 びたみんも僕の仮想論敵に入ってるから、よろしく。
13TIII:02/01/21 04:13
今日はもう寝るけど、昨日カント本をゲットしたから、「ここ読め」っていうのにも
対応するよ。
14考える名無しさん:02/01/21 04:37
>>TIII
TIIIがスレをたてるというので、来て見れば、
またあの議論の蒸し返しか・・・。
あれだけいって理解できないなら、
俺はもう反論する気にはなれん。
コペルニクス的転回の反転って・・。
ただの実在論だろ?+進化論ってか?
カントにおける主観を、「思い込み」
と考えるなら、それもいいだろう。
どうせやるなら、アンチノミーから
考えれば?
15考える名無しさん:02/01/21 17:40
正直、TIIIは純粋理性さえ読めてないんじゃないのか、と思う
16TIII:02/01/21 21:23
>>14 :考える名無しさん
>またあの議論の蒸し返しか・・・。
>あれだけいって理解できないなら、
>俺はもう反論する気にはなれん。

七氏さんに「あれだけいって・・」とか言われてもなー。
 まともっぽい反論は最初の「主観がなければ思考は・・」というやつと、
「存在論と認識論を同時に語ることは・・」ってやつだけだぞ。前者の方は
「点は何もしない」という反反論に対する明確な回答がないし、後者につい
ては神の視点が不当であるための根拠、つまり、認識の限界に関する議論
が欠如しているだろう。で、何も言ってくれないから、こちらの方で論点を設定
したわけだ。議論する価値はあると思うからね。そこで出てきたのが、「必然的」
という概念だ。これが妥当なら、認識に絶対的な限界を設けることも可能だし、
さらに、こういった必然的な能力が主観や意識の内に備わっているのなら、主観を
探求する正当性も主張できると言えるでしょ。どう? はずしてるかね?

>カントにおける主観を、「思い込み」と考えるなら、それもいいだろう。

 などと言ってないで反論してくれよ。別に、これとは違う切り口でやってもかまわ
ないからさぁ。マジで期待してんだから。

>>15
とりあえず当該箇所は読んだよ。で?

 カントを歴史的背景を踏まえて解釈することが気に入らないの? それとも僕の
解釈とは別の何かを言ってると思うの? 僕としては現象学や反証主義あるいは
分析哲学においてカントが違ったように捉えられていることは理解できた。ここで
カント解釈の正統性を争っても面白くないと思う。カントと同じだから何かが正しく
なるとは思えないしね。というより、そういうコストパフォーマンスの悪いことはしたく
ないのだ。別にカント研究者じゃないんだから。

 というわけで反論よろしく。
17某スレ551:02/01/22 14:05
TV、お前はカントの何が気にいらないんーだ?
「反転」しようもなにもお前は一度もカント主義者ではなかった
のではないーか?そしたら反転しようもできないと思うのだーが。

俺も基本的に>14に賛成なのだがーな。
なんでお前がカントに拘泥するのかがよくわからないーな。
カントなんてカンティーナと超越論者と認識論を研究している人ぐらい
しか読んでいないーぜ。お前がカントをわざわざ論駁しなくても大丈夫
な状況に現代はなってきていると思うーぞ。
お前の科学的知識を見せびらかせばうじゃうじゃいる科学信奉者が
お前を持ち上げてくれると思うのだーが。

「カントが好き」って、お前の初発の発想自体がすでにカントを
裏切っているから、どこが好きなのかも読み取れなーい。
お前が物自体に積極的に言及している時点で、カントではなーい。
「物自体の荒波にさらされて」って。
ようは物自体が我々の観念の変動を引き起こすと言いたいのだろーう。
しかしな、お前の物自体の用法を見ていると機械仕掛けの神(デウスエクスマキナ)
を思い出すーな。ようは人間にとって都合よく考えられる神ーな。
カントはこうゆうふうに神がとりあつかわれないために、認識の限界ずけ
を行って、神の認識を物自体の領域においやったのだけどーな。
お前の言い回しは物自体の世界が認識できているような言い回しだーな。
物自体の機能云々言っているかーら。
18某スレ551:02/01/22 14:22
お前は哲学史の基礎知識ってあるのーか?
教科書的に言うーと、カントはヒュームの懐疑論とヴォルフの独断的
形而上学に抗して、科学的世界を守るためーに新たな形而上学を打ち立て
ようとしたのだーぞ。で、その後ヘーゲルが弁証法という強力な武器を
使ってカントが踏みとどまった地点を突破してしまったがーな。
(観念論的弁証法から、そして唯物論的弁証法へ)
このぐらいはわかっているよーな?
あとカントを知るにはライプニッツがわかっていないとだめだーぞ。
カントはライプニッツ=ヴォルフの独断的形而上学を破壊しようとして
自分の哲学を打ち立てたのだからーな。
「理性批判」には、ライプニッツが積極的に用いた神の理性の禁止が
念頭に置かれているだーぞ。

まずは坂部恵「カント」でも読んだーら。(講談社学術文庫)
カントの時代の状況を知るには良い本だーぞ。
19某スレ551:02/01/22 14:40
「神の理性を禁止にしようとした」としてくーれ。
ライプニッツが神の理性を積極的に用いて、カントが「理性批判」
を行って、それを禁止しようとしただーな。
(なんか文章がおかしかった、ワリィー)

カントをその可能性の中心において読めーよ。
カントにつきまっている時代的制約云々していたってしょうがねーての。
前のスレに書いたようーに、ニュートン力学云々、進化論云々して
いまさらカント論じたってしょうがねえだーろ。

カントの可能性の中心はやっぱり、認識の限界づけという思考法と超越論的発想法
これしかないだろ。
「何が」限界づけるのか、という議論は置いといて(もっとも現代では「言語」
が認識を限界づける、というのが優勢だろーう)、認識の限界づけという
思考法と超越論的発想法を論じること、これがすなわちカントを論じること
じゃないーか?
カントのアプリオリな概念は間違っていーる、とかこうゆう発想自体が自然の
進化の一過程、という議論になるなら、それはそれでもいいがそれはもうカン
トを論じていることにはならないーぞ。

何度も言うようになんでお前がカントに拘泥するのかがわからんーな。
20ぷりんちゃん:02/01/22 14:47
>>14 >どうせやるなら、アンチノミーから考えれば?
確かにそうなんですが、以下の部分がそれにあたるのでは?

>ならば我々は認識装置や認識可能なものについては何も知ることができないのか。
>といえばそうではない。再び主客の転回を行えばいいのだ。つまり、認識装置や
>直観能力は物自体 (客体)によって作成されたと考えるのである(注4)。

>注4、当然、「そのような認識も、主観的認識装置によって作られたものだ」
>という反論があろう。が、これこそがここでの論点なのだ。で、予想されるこ
>ととして、超越論的という言葉の解釈、特にそれが一切の経験的論証によらず
>存在すると仮定される認識の前提条件といった解釈が問題になるであろう。
21某スレ551:02/01/22 15:03
まず哲学史をデカルトから勉強しーろ。
ただ「純理」を読んでちゃ、なんでカントがあんな本を書こうと
したのかわからんーぞ。

>17
>後者につい ては神の視点が不当であるための根拠、つまり、
>認識の限界に関する議論 が欠如しているだろう。

カントがやっただろ、ライプニッツ反駁のためーに。
お前なんのための「純粋理性批判」かわかってんのか?
ちなみにカンティーナ、認識論者は存在論を語ることを忌避しますーね。
存在をどうやって認識するのか、というところでつまずいちゃって
いつまでも存在にたどりつかないだーな。
逆に存在論者は、その認識論者の煮えきらない態度が気にいらないだーな。

認識論と存在論を同時に語ることは無理だーな。
じゃないとなんのために認識論をしているのーかわからんだーろ(笑)

お前はやはり生粋の存在論者だーよ。
お前の心には、科学が実在を解明できる、っていう硬い硬ーい信念が
あるからーな。その信念を取っ払えば、やっとお前も本気で認識論を
考えることができるかもしれんがーな。

お前みたいな存在論者が、カントを読んでも意味がないような気がする
のだーが....

存在論と認識論は非常に相性が悪いーの。覚えとき!
22某スレ551:02/01/22 15:11
>注4、当然、「そのような認識も、主観的認識装置によって作られたものだ」
>という反論があろう。が、これこそがここでの論点なのだ。で、予想されるこ
>ととして、超越論的という言葉の解釈、特にそれが一切の経験的論証によらず
>存在すると仮定される認識の前提条件といった解釈が問題になるであろう。

俺もここらへんが大事だと思うーな。
超越論的という言葉の解釈だーな。

>21
お前が存在論者の一番の理由は、客観的自然がどかっと存在している、
ていう信念があるからだーな。これを取っ払えばお前は認識論を本気
で考えることができるかもしれん。(もちろんその科学信奉も一回かっこ
にいれて。)(同じようなことの繰り返しでスマン)
23TIII:02/01/23 06:52
>>某スレ551

 言っとくけど、僕はカントより君らの方に興味があるだぞ。ただカントに興味あるってんなら
2CHになんか来てないよ。それこそカントの解説書を読んだほうがいいだろう。
 それに、ポパーは科学と形而上学の境界に関する問題をカントの問題と言ってるのだから
カントの意図したことはポパーを通してでも読み取れるよ。でだ、

>カントがやっただろ、ライプニッツ反駁のためーに。

 とかって、何で僕に言うのかなぁ。まがいなりのも「カントは間違ってるー!」って言ってる
キャラなんだよ。ここでは。あと、態度云々っていう現象学みたいな当て付けも効果ないよ。
「お前は態度が悪いから0点だ」みたいにしか聞こえないから。というより、哲学者だけが
独我論的に悩んでいると考えるのはどうかと思うぞ。また繰り返しだが、認知科学なんかも
かなりのそうした発想法を持っている。それはまさに、カントがヒュームについて悩んだの
と似たようなものだろう。

 まぁ、前置きはここまでにしておいて、問題は「必然的」だよ。
とりあえず、上の論点をもっと明確にしておこう。
「そのような認識も、主観的認識装置によって作られたものだ」
というとき、主観的認識装置の定義を「全ての認識を作り出すもの」としてしまえば
上の注2のような断定を行ったというだけのことなので、何も言っていないに等しい。
こんなことに、あえて文句を言う人はいないであろう。しかし、
「ニュートン力学は主観的認識装置の必然的帰結なのだ」と言い。さらに、
「相対性理論も同じ主観的認識装置の必然的帰結なのだ」と言うのなら、主観的認識装置に
矛盾が含まれていることになるだろう。相対性理論が真かどうかは分からないが、少なくとも
相対性理論は厳密にはニュートン力学と矛盾しているのだから。
 故に前者を主張するなら、後者は主張できない。ここまではどうか?

 次の論点は正当化にまつわる問題だろう。そもそも何かを主観的認識装置の帰結として
正当化するようなことをしなければ、上のような困難は生じないのだから。おそらく、ここに
超越論的ってヤツがからんでくる。実在論は超越論的観点から正当化されないから不当
である、といった具合に。
24 :02/01/23 13:46
    ____
  Y/ニニ|>o<|\
 / //\___\
 |/ /  === |  ̄
 |  /   ・  ・ |
 \(6   (_λ_)\         / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  /   _ ||||||| _|      <  転回の反転なのだ。
  |(( \□ ̄□/|       |   
  \   ̄ ̄ ̄ ノ        \__________
 / ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|了
/       |:  | ̄ ̄ ̄ ̄
|  |______|
|  | | | | | | |
25ぷりんちゃん:02/01/23 14:52
では、ここで科学哲学とカントとの関係を例によってトラクリを参考にしつつ
まとめてみよう。
まず、ポパーは命題の普遍性は命題が反証可能な形で提起されていて、それに
対する反証がでてこないかぎりにあると考えた。それに対しトーマス・クーン
は反証可能な命題も反証されないことがある、なぜなら証明そのものがパラダ
イムによって規定されているからだと反論した。クーンの主張は後に、科学認
識の真理性は言説のヘゲモニーに依存すると見なされるようになり、ポパー自
身も科学の発展を進化論的に考えるようになった、と。
そうすると『純粋理性批判』を普通に考えれば、上に挙げたようなパラダイム
を発生させる「他(者)の主観」は出てこないので、「たんなる(自己の)主
観つまり内省によって、科学の基礎が問えるのか」とカントは批判されること
になる。
26ぷりんちゃん:02/01/23 14:54
だが、『判断力批判』においてはどうだろうか?
確かにカントは『判断力批判』における「共通感覚」や「天才」を芸術の領域
に限定したのだが、クーンの言うパラダイムは「共通感覚」にほぼ対応するの
ではないか?さらにクーンがパラダイム・シフトをなしとげた者として論じた
のは、コペルニクス、ニュートン、アインシュタインのような「天才」だけで
はないか。
それではカントに『純粋理性批判』から『判断力批判』への移行を見出せば批
判を免れるのか。そうではない。それは事実上ヒュームに回帰することであり
普遍性をたかだか「共通感覚」にすぎないと見なすことである、と。
したがって、カントに可能性を見出す為には、主観的な内省にとどまりつつも
他者の主観を前提にするような客観性を考えなくていけない、と。それは従来
の哲学とは全く異質の主観性、客観性の導入であり、そのポイントはやはり
「物自体」にあるのでは。
27某スレ551:02/01/23 15:09
>TV
なんつーのかな、オラッチはお前と議論していても収穫がないだーな。
お前に基本的な哲学史の知識がインストールされていないかーら。
ライプニッツも知らないようなやつとカントを交えて議論することは
少なくともオラッチにはできなーい。
これじゃ態度以前にダメだーな。
今オラッチがやっているのは議論の前提となるものをTVに身につけて
もらうための教育的配慮なんだーよ。
そのぐらいオラッチの文章から読みとってくれんかのー。

第1点目の問題。すでに述べたように、カントの時代的制約につけこむ
議論に意味はない、と少なくともオラッチは思っていーる。カントが相対性
理論がある時代に生きていたら、それに合わせた枠組を作っただろう。
それだけだーな。

第2の問題点。カントの超越論的発想法というものは知識の正当化のための
ものでは全然ない。およそ人間にとっての知識そのものが可能となるための
可能性の条件が超越論的なものだーな。あえて正当化に合わせて言えば、知
識の正当化という行為そのものが有意味になるような前提が超越論的なもの
だーぞ。

超越論的なものに「正当化」という言葉は使わないでくーれ。
28某スレ551:02/01/23 15:16
な、オラッチにとっての仕事がまずTVをカントの正しい理解に
導くために費やされるだけなんだよ。TV、他人によりかかるの
はやめてくーれ。とりあえず解説書を読んでカントを正しく理解
してから2チャンにこーい。

前スレでも言っただろう、批判する相手を虚心坦懐に理解してから
批判しーろと。

黒崎政男「純粋理性批判入門」も読みやすくていいーぞ。
29某スレ551:02/01/23 15:35
石川文康「カント入門」もいい。

存在論と認識論の関係は大事だからちゃんと考えてくれよな。
30正助 jtws003.zaq.ne.jp:02/01/23 18:24
石川さんのは、アンチノミー論を初っ端に持ってきたのが
分かり易いと評判ですな。
31びたみん ◆BWLMxAG. :02/01/24 01:01
>、我々にアプリオリに(先天的に)備わった直観能力の性質なり
>主観的認識装置は「絶対的な強制力を持つもの」であり、認識可能
>な世界は それらによって必然的に制限されているのだ、と。

ぼくがどこを誤解してるのか、分からないんですけど、ここで「制限」と
いうと、まるで「制限」を解けば、檻から解放されて別の真(?)の認識が可能
になるっていう感じがするんだけど。でもカントのやつは、そもそもの
認識が可能になるための条件を語ったんでしょ。
「制限」なんて言えないんじゃないですか?
なんか、目をくりぬけば、真の世界が見えるって言ってるように聞こえる。
そもそも目がなければ見えないのに。
これはTIIIさんが述べたい事ではないと思うけど、表面的な誤解を取り除いておきたい。


>「だから、如何なる客観的言明(例えば科学理論)も主観的であることを
>逃れられない。」

ここで言われている「主観的」てのは、カント的には「客観」のことじゃないん?



進化論的認識論てのは、正当化され淘汰されていく理論(世界説明)と
「実在/真理(物自体)」の関係てやつですよね?
パトナム風に言うと、原理的には理論は実在を捉えることができるというのが
「内在的実在論」で、どんなに頑張っても実在には近づけないというのが「形而上
学的実在論」なん?


 
32猫電波:02/01/24 01:15
>進化論的認識論てのは、正当化され淘汰されていく理論(世界説明)と
>「実在/真理(物自体)」の関係てやつですよね?
じゃなくて我々の生得的認識装置は自然淘汰による生物学的進化によって
この世界にチューニングされている、と言う立場です。
33猫電波:02/01/24 01:21
>>32
じゃなくて

恐らくここで使われているのは、
34TIII:02/01/24 08:59
>>25 :ぷりんちゃん
>まず、ポパーは命題の普遍性は命題が反証可能な形で提起されていて、それに
>対する反証がでてこないかぎりにあると考えた。

 ここは逆じゃないかと思う。つまり、普遍性は反証可能な理論に対する要求であ
ると。だって、ニュートン力学は反証されちゃったけど、普遍的ではある。
普遍性→みんな信じている→受け入れられている→科学としての受け入れ
ってとこまで変形すればいいと思う。

>それに対しトーマス・クーンは反証可能な命題も反証されないことがある。
>なぜなら証明そのものがパラダイムによって規定されているからだと反論した。

 微妙なところだけど、ここは実際の科学社会はポパーの理想とはかけ離れている
という論難だよね。だけど、ポパーのテーゼそのものの反論にはなっていない。むしろ
反論としてみなされるのは例の共約不可能性云々、つまり、普遍性が成り立たない
のなら反証可能性も見出さないだろう、という話だと思う。

>そうすると『純粋理性批判』を普通に考えれば、上に挙げたようなパラダイム
>を発生させる「他(者)の主観」は出てこないので、「たんなる(自己の)主
>観つまり内省によって、科学の基礎が問えるのか」とカントは批判されること
>になる。

 僕からするとカントとクーンの間に親和性を感じる。つまり、パラダイムと個人は
同様にその内部では相互理解が可能で、その外にある者とはそれが成り立たな
い(共約不可能)。カントがニュートン力学を反証不可能な真理と捉えたのも、カント
個人の内にある枠組みでは、ニュートン力学を否定するような理論、つまり相対性
理論は認識不可能としか思えなかったからではないだろうか。この線でいくとアイン
シュタインのような人物は、新人類、突然変異体ということになるだろう。
 もちろん僕はこのような考えは否定したい。変ないい方だが、突然変異は個人
の内部でも起きるのだと考える。カントは意思の自由に関連して、物自体には因果
法則は通用しないと言っている。これはある意味で正しいと思う。ここでカントは「心」
を物自体とみなしているのだが、まさに「心」が偶然(突然変異)を生むのだと考えれ
ばいいのだろう。
 このようにカントにはクーン的なものとポパー的なものが同居していると思われる。
進化論的に言うと、一方で環境への不適応により生物個体が淘汰される過程と、もう、
一方で環境への不適応を理論を淘汰することによって生物個体を行き残させる「心」
の出現以後の過程だ。そして、後者の過程をカントの中で一貫させるためには、
主観的認識装置から絶対的・必然的な性格を取り除く必要があると僕は見ている。
35TIII:02/01/24 09:08
>>某スレ551
>カントが相対性理論がある時代に生きていたら、それに合わせた枠組を作った
>だろう。それだけだーな。

 もちろん、そうだろう。だけど、それだけだろうか? マジにそれだけだと思う?
序論読んだだけでも、カントはニュートン的なものが絶対的であるとさんざん述べ
ている。この位置を相対性理論が占めると考えのはかなり困難だと思うが。
これはギリシャ時代の科学を「間違ってる!」と叫んでいるのとは全然違うぞ。
まさかそういう眼で僕を見てるんじゃないだろうなぁ。

>第2の問題点。カントの超越論的発想法というものは知識の正当化のための
>ものでは全然ない。

カントは形而上学や科学が正当な地位を持つための土台を作ろうとしたのでは
なかったのか?

>あえて正当化に合わせて言えば、知識の正当化という行為そのものが有意味
>になるような前提が超越論的なものだーぞ。

 上でも、正当化の前提と書いているつもりだが。
 というか、なぜ「行為そのもの」という微妙な線を持ち出してカントを擁護する?

>オラッチにとっての仕事がまずTVをカントの正しい理解に導くために費やされる
>だけなんだよ。

 正しい理解ってなに? 好意的解釈、あるいは某スレ551的解釈じゃないの?
上にも書いたけど、これは、少なくとも部分的にはフォルマーやポパーの解釈でも
あるわけだよ。超越論的についても、某スレ551の解釈はポパーなんかとか違う。
「彼らよりオレの方が正しい」って言う自信はどこからくるの?
 何がいいたいのか知らないけど、上のような言い方は不信感を募らせるだけだ
と思うよ。

 まぁ、おそらく、>>3にあるようなのが哲学プロパーの印象だろう。「そんな批判
はさんざんされてきているのだ」と。しかし、ここが興味深いことろなのだ。さんざん
批判されてきているのもかかわらず、明確な反論を述べることができない。それで
いて自分の考えの正しさに十分な自信を持っている。何かおかしいと思わないか?
36TIII:02/01/24 09:14
>>31 :びたみん
>でもカントのやつは、そもそもの認識が可能になるための条件を語ったんでしょ。

 それはそう。認識には認識装置が必要で、観念や表象といったものは対象によって
作られるというより、心が作り出すものだと。これは正しい。けれども、これは上にある
同語反復に近い弱い方の主張。これがいかに弱いかを考えるには、例えば、「認識が
可能になるには感覚器や脳が必要条件である」という言明を考えてみればわかる。感
覚器を刺激するのは光や分子であって、外の世界で作られた観念がテレパシーのよう
に我々の中に入り込むのは極めて非常識であろう。いや、そんなことがあるのなら、そ
もそも認識というのが何を意味しているのか分からなくなる。
 そこで一つの切り口として科学理論(科学法則)というのを考えてみる。このようなもの
が物自体にあると考えてもいいが、もし、そんなものがあるとしたら、その理論は真理で
あろう。だから、少なくとも科学者が考案した仮説とか考えとかは観念と言わざるを得な
い。このへんまでは常識的なことでしょう。で、問題は、ここに「必然的」という言葉を
組み込んだらどうなるかということ。とりあえず、二つ考えられる。第一に、可能な理論
(仮説)の種類が認識装置の性質によって必然的に決められている。 第二に、観念の真
偽が認識装置によって必然的に決定される。僕はカントはこの両方を言っているように思う
のだが、両方とも間違いだと言いたい。
 第一に関して、仮説は観念であるとか、記号や言語で表現されるいうこと(これらは
仮説という概念に含まれることであろう)こういったこと以外に、何らかの必然的制約を
受けることはない。少なくとも、我々にはそういった制約を知ることはできない。なぜ
なら、そのような制約自身理論であって、それが絶対であること、つまり、仮説じゃなく
て真理であることを確認するのは不可能だから。第二に、>>23にあるように、何らかの
仮説が真であるとするのはあまりにも無謀なことで、既存の科学が真理であると主張する
に等しい。そもそも、こういった演繹をするためには前提が真であるとしなければならない、が、

>なんか、目をくりぬけば、真の世界が見えるって言ってるように聞こえる。

 そういった主張をしているとも思える。びたみんは例えば純理のp36をどう解釈する?
普通の方法じゃ物自体は見えないけど、別の方法だと・・・

>ここで言われている「主観的」てのは、カント的には「客観」のことじゃないん?

 うん、上の事情と関係して、一般的な用語法と逆転してるかも。

>パトナム風に言うと、原理的には理論は実在を捉えることができるというのが

 たぶん違うと思う。
37某スレ551:02/01/24 15:13
>TV
たしかにオラッチはカントを好意的に解釈していーる。
つーかオラッチの信条としてはどの哲学者の考えでも最大限に好意的に
解釈していこう、というスタンスなんでーね。
だからオラッチはカントの中身はともかく超越論的発想法自体にはいた
く感服しているだーな。

TVにはなぜオラッチがカントに感服するのかその理由はわからないだろうーな。
それはお前の哲学的素養が分析哲学、科学哲学で出来上がっているからだーよ。
古代、中世、近代にいたる形而上学の歴史の中で、いかに独断的形而上学を破壊
し、かつ普遍的認識を確立するか、という課題を前にしてカントがとった方法は
超越論的発想法、つまりコペルニクス的転回だっただーな。
お前にはその形而上学の歴史の重圧を肌で感じたことがないから、カントがやっ
た仕事の意義というものがわからないだーよ。

それにくらべたらカントはニュートン力学を信じていたから間違ってーるなんて
批判は瑣末なことだーよ。そんな批判をしているのはカントの仕事の本質をわかって
いない証拠だーよ。

ポパ−がカントをどう解釈しているかは知らなーい。しかしヘーゲルをこきおろすこと
しかできない奴はたぶん大陸哲学の重厚な形而上学的思惟というものがわからない
くだらないやつだーろ、とオラッチは勝手に推測していーる。もちろんポパーの科学
哲学上での仕事の功績を認めるけどーよ。
38某スレ551:02/01/24 15:22
反証主義だろうとなんだろうとポパーやお前には初発の時点ですでに
科学が一応正しいものとしてベースに確固としてあるからーな。
そのドグマティズムを一回括弧に入れない限り、哲学の技のすごさを
本当に味わうことはできないだろーう、とオラッチは思っていーる。
もっとあからさまにいえばTVにはなんで哲学が必要なの?って
問いたいぐらいーだ。
せいぜい科学哲学や分析哲学で充分じゃないーの?
カントなんていうまさに大陸哲学の正統派を読む必要があるーの?

おっと分析哲学と大陸哲学の対立なんていう矮小な対立にしてくれんなーよ。
おらっち分析哲学も好きなもんでーね。
39某スレ551:02/01/24 15:29
オラッチもびたみんのパトナム解釈は違うと思う。
ちゃんと「相対主義の極北」読んだか、びたみん。
入不二の語を使えば、(「相対主義の極北」から)

ソフトな実在論=内在的実在論
ハードな実在論=形而上的実在論
極限的な実在論

TVは多分ソフトな実在論に分類できるだろう。
ちなみオラッチは極限的実在論に興味があるーな。
40某スレ551:02/01/24 15:41
TV、哲学の世界ーではな、そもそも対立が成立するための土俵すら作れない
場合が多々あるーな。
哲学的、形而上学的対立というものはそうゆうものだーな。
オラッチとTVの今の状態がそうかもしれなーい。

カントのやった仕事はいろんな形而上学が乱立する中で、まあこのへんで
手を打ちましょうーや、ってな感じで1人で土俵そのものを構築したことに似
ていーる。だからカントは自分の形而上学を独断的形而上学ではない、つもりで
構築した。で、オラッチはその土俵はまあまあいいんじゃないか、と思っていーる。
だがTVはその土俵を壊して、違う土俵、まあ「自然」や「科学」とかなんだろ
うが、人間の心という現象を非常に重視するオラッチにとって、それは受け入れ
られない相談だーな。

さてどうするーか?
41某スレ551:02/01/24 15:44
だがTVはその土俵を壊して、違う土俵、まあ「自然」や「科学」とかを導入しましょう
ってつもりなんだろうが、人間の心という現象を非常に重視するオラッチにとって、それ
は受け入れ られない相談だーな。

こっちの文章に差し替えてー。
42考える名無しさん:02/01/24 19:34
だからぷりぷり語やめてくれーませんか
43ぷりんちゃん:02/01/24 21:12
>このようにカントにはクーン的なものとポパー的なものが同居していると思わ
>れる。進化論的に言うと、一方で環境への不適応により生物個体が淘汰される
>過程ともう、一方で環境への不適応を理論を淘汰することによって生物個体を
>行き残させる「心」の出現以後の過程だ。

つまりカント的には前者が「悟性」後者が「理性」、あるいは前者が「現象」
後者が「理念」ということなのでは?
しかし、それ以前、あるいはこの過程を元に戻すようなものを考えると、それが
あなたの言う「(偶然(突然変異)を生む)心」なのではないか。そしてカント
がそのような「心」を物自体とみなしているというのは正しいと思う。
ただ、「(偶然(突然変異)を生む)心」などと言うと、もはや普通の主観とは
言えないと思う。ようは一人の人間が別の人間に変わってしまうようなもので
最初から「複数の主観」として考えた方がいいのではないか。
44ぷりんちゃん:02/01/24 21:44
ただ、>>34をよく読むと
偶然(突然変異)を生む「心」と、生物個体を行き残させる「心」というふうに
二つの局面で「心」という言葉を使ってますね。
これは、前者が「物自体」、後者が「理念」(というようりも「超越論的仮象」)
と考えていいと思いますが、この二つの同一化は違うと思うのですね。
これでいくと「物自体」の深淵に「超越論的仮象」を見出すみたいな感じで、確
かにこう考えるとカントはすっきり理解できるんですが、これこそが超越論性の
否定神学への反転だと思うんです。
45びたみん ◆BWLMxAG. :02/01/26 07:38
>>36
>第一に、可能な理論(仮説)の種類が認識装置の性質によって必然的に
>決められている。 第二に、観念の真偽が認識装置によって必然的に決定される。

これはつまり、人間にとって空(etc)は青いけど、コウモリにとってはエコーの渦
として映る、っていうようなことかしら?つまり人間やコウモリの認識装置に
合わせて、それぞれの世界(可能な理論)が形作られ、同時にそれによって制限
されているのだと。人間にとっては、空が青いのが客観的、コウモリにとって
は(別の認識装置)エコーが客観的だと言えるのかな。
例が悪いけど、こんな感じの理解でいいん? もし浅薄だったらごめんなさい。
もしこれでいいなら、これが(某スレ551さんが指摘していたように)神の視点と
人間の視点との混合になるんじゃないかな。人間(の認識?)は神の視点に立って
それぞれの認識装置を云々することはできないから、(根本的に)別種の認識装置
について語ることはできないんじゃないんですか?


>なんか、目をくりぬけば、真の世界が見えるって言ってるように聞こえる。
>そういった主張をしているとも思える。びたみんは例えば純理のp36をどう
>解釈する?普通の方法じゃ物自体は見えないけど、別の方法だと・・・

純理は読んでないので今度読んでみます。岩波でいいんだよね?
で、これは天使にとっての認識とかのこと?
そういえば、天使とかにカテゴリー(とか?)必要なさそうだんね。


パトナムに関しては浅知恵を披露して失礼。。。
あとさ、もしぼくのレスが思いっきりハズしてたら、是非そのこと言って
くれない?議論以前の無理解なレスでスレを汚したくない。
その場合、「これだ!」ってゆう時にカキコします。

46某スレ551:02/01/26 16:44
TV、ぷりんちゃん、びたみん、カントの思惟と認識の区別をできているか?
これが区別できていないと何もカントのことわからんーぞ。

やぱーりぷりんちゃんのいい回しも、物自体が認識できているような
言い回しだーな。
心が物自体、という解釈は微妙なところでな、たぶんカンティーナの間でも
議論されるところだろうーが、カントは「純理」の統覚を扱っているところ
なんかを読むと心を物自体としては明示的には扱っていなーい。
「現れる私」と「そのままの私」を区別して、私たちが認識できるのは「現れる
私」だと言うているーが。では「そのままの私」が物自体というと
そうでもないでねーか?
で、統覚というのは「現れる私」をアプリオリに構成している作用のことーな。

はっきりいっておく。進化論的認識論の中にカントを位置づけるのはいいが、
それはもうカントではなーい、とオラッチは思っていーる。まあTVはそれを
某スレ的カント解釈と言うだろーが。

>45びたみん、「根本的に別種の認識装置について語れない」というものは
オラッチもそのとうりだと思うーな。もっと正確に言えーば、別種の認識装置
についーて思惟することはできるが、それを認識はできなーい、というところ
ーか。 

47某スレ551:02/01/26 17:05
>46「それを認識することはできなーい」だーね。

オラッチのカント解釈を描いてみよーう。
オラッチはカントを人間の心だけで現実を構成できるような理論の発明者
として位置づけてーる。
カント的に言えば、自然があることーも、人間にとっての現象でしかない
だーな。進化論的認識論というのも、人間が自分たちの心の中で勝手
に作りだした物語にすぎなーい。
自然が存在しているということも、人間という種につきまとう思いこみに
すぎないのかもしれなーい。

カントは現象の根底に一応物自体というものを置いーた。
今のオラッチの解釈で言えば、物自体というものはもう人間が完全に
知ることができない自然というものですらなく(このような表象も現象界
の中でのことーだ)、なんつーのかなまさーに人間には全くわからなーい
ものだーな。
これを神の領域となずけてもいいが、そうすると神は人間のまったく手の
届かないところに行ってしまーう。(カントは実践理性で神をこちらがわに
引き戻そうとするーが、オラッチはカントの道徳理論はウソッパッチだと
思っているのでーね)それに我慢ならないヘーゲルは、物自体を消去して
神を世界内に定位させようとしーた、というところーか。
48某スレ551:02/01/26 17:22
まあカントは主観的認識装置と現象の必然的一致に固執するあまり
TVにニュートン力学について突っ込まれたりするーが、それはご愛嬌
として許してやってくーれ。
と言ってもだめかーな。

たしかに「純理」を読んでも、超越論的感性論の演繹はまだしも、
超越論的論理学の演繹論になるーと、ちょっと無理があるんでねーか、
とオラッチも言いたくなーる。
ただ経験が可能になるためにこのアプリオリな概念がどうして必要なん
ーだ、とつっぱねているだけのように見えーる。
カント自身も超越論的感性論よりも超越論的論理学の演繹のほうがはるかに
難しい、と述べている−し。

ちなみにカントのキーワードは、「条件」という言葉と思っていーる。
ドイツ語で「die Bedingung」英語なら「condition」か。
「純理」で何回も何回もでてくーる言葉。
カントは、人間にとっての経験が可能となるための条件として
こんなアプリオリな概念が必要なんでねーか?という発想法で
演繹論を書いていーる、とオラッチは思っていーる。
この「条件」という言葉を押さえておけば大体カントは理解
できると思うのだーが、どうでしょう?
49某スレ551:02/01/26 17:32
あとカントの理論はアンチノミーを解決するためのものでも
あるということも忘れんでくれーよ。
カントは、自分の理論で、カント以前に行なわれていた不毛な
議論を排除したかっただーな。

ちなみに岩波の「純理」は気をつけてくーれ。
ドイツ文学者が訳しているやつだから、おかしいところがたくさん
あるらしい。
でもまあ手軽に読めるやつであることはたしかかーな。

つーかカントは翻訳では絶対理解できなーい、とカンティーナは言っている。
たしかにオラッチもそう思ーう(笑)岩波の「純理」を目の前にしーて。
でも大枠をつかむのなら翻訳でも十分でしょう。
研究者になるわけでもないーし。
50某スレ551:02/01/26 17:39
ついでに老婆心で。
びたみん、>45ははずしてなーい。
というかなかなかいいと思うーぞ。



51びたみん ◆BWLMxAG. :02/01/28 01:16
>必然的なはずの「認識」が経験によって反駁されかけているのである。

もしこれが本当なら(?)別種の認識装置を仮定せざるを得ないってことかな?



>>50
あぅ。良かった…チョト不安だったりして…。



 
52考える名無しさん:02/01/28 01:33
(〜A∨〜B∨〜C∨...)→ 〜P
PであるためにはAでなくてはならない。
53「探求V」ですか?:02/01/28 21:48
54考える名無しさん:02/01/29 00:51
TIIIは逃げました。
55考える名無しさん:02/01/29 00:54
>カントの思惟と認識の区別をできているか?
説明してください。
56TIII:02/01/29 07:03
>>某スレ551
>反証主義だろうとなんだろうとポパーやお前には初発の時点ですでに
>科学が一応正しいものとしてベースに確固としてあるからーな。

 科学が正しいなんていう反証主義者はいないよ。確かに、ポパーは科学的なものに
焦点をおいていたが、それは科学が正しいということではなく、科学が健全であるという
ということだ。このような健全さがなぜ達成されているのかとういうことを範として考える
という姿勢はカントにしても同じであろう。しかし、カントはこれが確実な土台より作られ
たゆえのものと考えたが、ポパーはそのようには考えなかった。彼は、科学は自分自身
には絶対確実な土台はなく、それゆえ反証に対して開かれているとしていたからだと考えたの
だろう。

>カントなんていうまさに大陸哲学の正統派を読む必要があるーの?

 これはポパーが言ったわけではないが、カントは科学者であると位置付けることもでき
る。しかも、かなり偉大な科学者としてね。例えばローレンツは鳥に先天的に備わった
判断(認識)装置があることを発見して、ノーベル賞をもらった。しかし、このようなアプリオリ
な総合判断があること最初に示したのはカントであろう。君らはそれでもこれは科学じゃない
というかも知れないが、ここで僕がやっているように、彼の理論には部分的に間違いがある
ことが経験的に示されるのだ。つまり、少なくとも部分的には反証可能(ポパーが言うところ
の科学)であることが判明する。

>TV、哲学の世界ーではな、そもそも対立が成立するための土俵すら作れない
>場合が多々あるーな。

 うむ。それは認めるが、僕は「相対主義は拒絶すべきだ」というのが身上だったりする
からなぁ。

>「現れる私」と「そのままの私」を区別して、私たちが認識できるのは「現れる私」
>だと言うているーが。

 上の場合、「偶然」というのを物自体である「こころ」に帰しているわけだけど、「偶然」
というのは都合のいい概念で、偶然は「これ」といった具合には認識できない。そもそも
説明できないものを説明しようとする場合に我々は「偶然」という言葉を使うわけだけど、
このようなものはカントの「そのまわりをぐるぐる回るだけだ」という言い回しに近い
であろう。が、ただ近いだけなのだろうか?
57TIII:02/01/29 07:06
>>ぷりんちゃん

 よく分からないけど、

>ただ、「(偶然(突然変異)を生む)心」などと言うと、もはや普通の主観とは
>言えないと思う。ようは一人の人間が別の人間に変わってしまうようなもので

 このへん、おそらく心の必然的な連続性みたいなものに意見の相違があるの
だと思う。僕は単一の連続した<私>じゃなくてもいいと思う。僕は、全く新しい
もの(理論なり概念)が心に生じると考えている。それによって、現象を統合する
装置すらも全く新しいものに変わり、自分のうちに不変なものがなくなったとして
も何も問題ないだろうと思っています。

>偶然(突然変異)を生む「心」と、生物個体を行き残させる「心」というふうに
>二つの局面で「心」という言葉を使ってますね。
>これは、前者が「物自体」、後者が「理念」(というようりも「超越論的仮象」)

 僕は「物自体」という概念は哲学者の専売特許じゃなくて、科学理論やさらに
は常識にさえも隠されたかたちで含まれていると思っている。例えば「科学理論
は仮説である」といった場合に主張されているのは「本当のところ違うかもしれな
い」ということで、これは我々の主観とは独立した不変の実在があることを想定
していると言えるであろう。だから、ある言明が実在するものについてのもので
あったら、それは等しく物自体(この場合物自体としての心)についての仮説で
あって、ここに何ら不正なことはないでしょう。しかし、カントの場合、現象の世界
はニュートン力学が示すとおりに決定論的なものであって、しかも、それは必然
的に真でなければならなかった。ところが、人間における道徳を成り立たせるた
めには心は決定論的であってはならなかった。このジレンマを解決する唯一の
やり方は「理論は現象についてのものであって、物自体についてものではない」、
これであろう。ここに現象と物自体の間に必然的・絶対的な乖離が生じた。>>1
の文はこのように解釈することもできると思う。つまり、認識されたものは物自体
であってはならないのだ、と。
58TIII:02/01/29 07:10
>>びたみん
>つまり人間やコウモリの認識装置に合わせて、それぞれの世界(可能な理論
>)が形作られ、同時にそれによって制限されているのだと。

 そう。だけれども、ここで問題にしているのは「それは絶対的な(必然的な)制限
なのか?」ということ。とりえあず、我々が世界を三次元だとして見るのには先天的に
備わった認識装置が大いにかかわっている。が、だからといって、我々が世界を二次
元的に見ることは絶対にできないか、といえばそうではないでしょう。これは単純に根
性の問題だろう。気合を入れてみれば、あるいは頭がもうろうとしてきた時には二次元的
に見えなくもない。

>人間(の認識?)は神の視点に立ってそれぞれの認識装置を云々することはできないから、

 どうして? あれこれ想像することに何の制限があるの? 想像したものが認識装置に
ついてものだったら、突然、想像したものがなくなったり、不正になったりするの?

 おそらくびたみんが言いたいのは「如何なる観察(経験)にも主観が前提されており、
どんな想像の産物にも必然的に主観が張り付いている」といったことであろう。しかし
こういう言い方をすればカントのアプリオリな認識も不可能ということになる。アプリオリ
な認識があるという発見も一つの経験であり、経験によって得られたものとなんら変わ
りがない、と。
 けれども、カントはこのような困難を理解していたと思われる。そして、その解決に
用いたものこそ他ならぬ「必然的」という概念なのだ。従って、必然的という柱を崩せば
神の視点云々も崩壊すると思われる。

>議論以前の無理解なレスでスレを汚したくない。

 いや、そうは思わないし、そもそも、スレを汚すとか>>1に言われたくないからスレを
立てたわけだから。
59TIII:02/01/29 07:12
 さてどうするか。 カントが具体的に出してきたアプリオリなもの(カテゴリーとか)が
だいぶ怪しい(必ずしも必然的とは言えない)ということは了解されたのだろうか?
そうなら、これらを瑣末なものとするやつーーおそらく「我思う」というやつだろうーー
をやった方がいいのだろう。しかし、僕はカントがこれに関して何を言ったかちっとも
知らないのであった。が、まぁ、ここはたいした事ないと思ってみるか。

>>「探求V」ですか?

 違うっす。
60びたみん ◆BWLMxAG. :02/01/29 21:06
う〜む…なんか不安になってきた…。
もしかしたらTVさんの言う通りなのか…?
>>58
>あれこれ想像することに何の制限があるの? 

てゆうか、人間には根本的に認識することや思考不可能なことが、神の視点
には可能でなければならないじゃない。
…というかここ↓がキモなのかな。。。

>しかしこういう言い方をすればカントのアプリオリな認識も不可能ということ
>になる。アプリオリな認識があるという発見も一つの経験であり、経験によって
>得られたものとなんら変わりがない、と

ここを詳しく教えて欲しいです。
TVさんはスレの上の方で何度も繰り返しここを説明しているようで
メンドウだろうだけどお願いします。
61猫電波:02/01/30 01:45
> そう。だけれども、ここで問題にしているのは「それは絶対的な(必然的な)制限なのか?」ということ。>TV氏
>これはつまり、人間にとって空(etc)は青いけど、コウモリにとってはエコーの渦として映る>びたみん氏
実は空は存在しないってのもありかも。
音波的世界を生きるコウモリに上の天井みたいなものである「空」は存在しないかも知れないし、
彼等が知性を進化させ科学を発達させてもそれを知ることはないかもしれないが
それはコウモリが制限されているのではなく、空が人間の視覚的世界が作り出したオマケである
って事もあるかもしれない。
そして人はその可能性を語り得る、みたいなぁ
62TIII:02/01/31 06:42
>>60 :びたみん ◆BWLMxAG.
>てゆうか、人間には根本的に認識することや思考不可能なことが、神の視点
>には可能でなければならないじゃない。

 ていうか、神の視点というのも人間が想定したことじゃん。本当に人間の想像力を
超えたことなんて想像できちゃだめなはずでしょ。だから人間の能力云々によって
想像を否定できるわけない(否定できなきゃ制限も空虚なものになろう)。ただ、
想像したものを人間が実際にできるかどうかとか、その思考に何らかの間違いがあるか、
とかは判断できてもいい。

>>しかしこういう言い方をすればカントのアプリオリな認識も不可能ということ
>>になる。

 これは>>7にある「そのような認識も、主観的認識装置によって作られたものだ」と
いう反論を逆手にとった言い方。僕は認識結果や理論が主観から独立していると主張
したりするわけだけど、普通、このような主張が正しいことはその論証によって裏付けら
れると期待している。ところが、一歩下がって、このような論証や認識を出来事として見
ることもできるわけ。「それはお前の意識によって作られたものだ」などとね。カントの場
合でも同じことで、「そのような認識も経験だろう」などと言うことができる。だいたい人間
の思考は全て意識的な活動だし、人間の活動は全て経験と言えるでしょ。
 で問題は二つあって、一つはこのように全てを説明するような命題は一体なんなのか、
ということ。これは反証主義の真髄なんだけど、全てを説明するような命題なり理論は
実際のところ何も説明していないのだ。例外がないように言葉の意味を拡張することは
その言葉の内に説明される事柄も含めてしまうことになり、結局、同語反復あるいは
結論の先取りになってしまう。上の文も、「全ての認識は主観的認識装置によって作ら
れたものだ」と「認識」を単に定義しているだけなら、何の効力もないだろう。で、第二の
問題はこのように「それらは」と括りつけて、一歩下がった視点で考察することで、「それ
ら」とは違ったレベルの議論に移行していることだ。このように視点を移行することは必ず
しも悪いことではないが、我々は往々にしてこのことによって混乱に陥ることがある。
経験や主観から独立したものを発見した、ということが経験や主観の作用とみなされた
からといって、その発見(論証)自体が間違いになるわけではない。間違いであるとする
には、「それら」のレベルにおいて何らかの間違いがあることを主張しなければならないだろう。
63TIII:02/01/31 06:49
つづき、レスがなくて暇だからなぁ。

 だけれでも、これらのことは、ここではあまり重要ではない。見て分かるように、これに
よってカントが否定できるわけではない。カントを否定していると言っているのは、「それ
ら」のレベルにおいて間違いがあるからなのだ。上とも関連するので、ちょっと説明しよう。
カントはアプリオリなもの、つまり、経験とは独立した命題があると考えた。例えば、「す
べて父親は男である」という命題、これは実際の経験によって確かめることができるし、
「オレは女だ」と言い張る父親もいるかもしれない。けれども、この命題は分析的命題だ
として主張されている場合は、現実社会がどうであろうと絶対に真でなければならない。
なぜならこのように主張された「父親」という定義には「男である」という概念が含まれて
いるからである(一種の約束事と思っていい)。しかし、このような命題は経験とは係わ
りがないとはいえ、基本的に同語反復だから世界について何も言っていないことになる。
だから、カントはアプリオリでかつ世界について何か言っている命題(総合的命題)を見
つけることにした。例えば「生起するものにはすべて原因がある」というのを総合的命題
(判断)としてカントは挙げている。これがアプリオリな総合判断であることは僕も同意す
る。生起するものという概念は原因という概念とは区別されるであろう。しかし、カントは
これを分析的命題を主張するのと同じやりかたでそのアプリオリ性を主張している。つ
まり、如何なる経験があろうとも「必然的に」正しいからである、と。ここで定義によって
正しいのだ、と主張することができないのは明らかであろう(そういうことを言えば分析的
命題になってしまう)。だから、全ての現象はこれに従い、それに反することがあっては
ならないことになる。ここがカントの誤りだ。実際、この命題は電子が原子から飛び出る
という現象(生起)が何の前触れもなく(原因がなく)生じるという観察(現象)によって
否定されたし、それ以外の例、例えば全ての生物は死すべき運命にあるなどというのも、
ほぼすべて正しくないことが判明してしまった。そもそも、アプリオリであるためには
純粋であればよく、絶対に真である必要はなかったのだ。1+1=2がアプリオリに真
であれば、1+1=3もアプリオリに偽だ。これは経験によらず、また、誰にとっても偽で
あろう。こういった仕方で客観性を見出すべきなのだ。

 さて、カントが「我思う」で何を言ってるか調べるとするか。これは「そのレベル」に
影響すると主張されているようだしな。
64考える名無しさん:02/01/31 06:57
>>63
>レスが少ない
というか、文章構成が悪いんだと思うよ。
冗長だし。もうすこし主張の簡潔さと読みやすさを
心がけたら?哲学板とはいえ悪文は嫌われる。
改行もしてほしい。
俺自身は、スレテーマにめちゃくちゃ興味あるってわけ
じゃないから、あまり読む気にならない。
レスを分割して見やすくすれば、参加者が増えると思う。

65TIII:02/01/31 07:15
>>64

 嫌われるのはかまわないんだけど、

>改行もしてほしい。

 僕の場合、問題ないけど、かちゅうしゃ、とかで見るとおかしくなるのかな。
66考える名無しさん:02/01/31 08:07
カント応援励ましAGE

さてT-3氏はどのような実践倫理に到達するか。
ちなみに洩れの実践的要請は
「ヒトは殺さない」「メイワクはなるべくかけない」
「ころんでも泣かない」だな。
67某スレ551:02/02/01 19:40
>64
オラッチも同意。
単純に長々書けばいいってもんじゃないーぞ。
あまりにも長いーと読む気もレスする気も失せーる。
原稿用紙十枚を一枚にまとめる訓練とかしたーら。

>55
自分で「純理」や解説書を読んーで勉強しーろ。

TVにコペルニクス的転回をしない前と、コペルニクス的転回の反転をした後では
どう違うのか説明してほしいーな。それとも反転は結局できないのーか?

>66
なんで実践倫理なんーだ?まあオラッチもTVの実践的倫理をどんなものかは
知りたいものだーが。
68TIII:02/02/03 02:51
>>某スレ551
>TVにコペルニクス的転回をしない前と、コペルニクス的転回の反転をした後では
>どう違うのか説明してほしいーな。それとも反転は結局できないのーか?

 転回以前は我々の知識はロックが言うように経験が白紙に書き込んだものだった。
しかし、これでは我々はどうして世界を認識できるのか理解できないし、仮に認識で
きたとしても知識は単なる経験的な偶然の産物ということになってしまう。我々誰もが
共通して普遍的な知識をもっていることが理解できない。カントは、ロックが言う白紙
などなく、我々は生まれた時から悟性によって与えられる時空といったスクリーンを持って
いるとした。しかし、それらのカテゴリーも系統発生という経験によって得られたものだと
理解することができる。これが転回の反転だ。従って、ロックは否定されたままと言える
であろう。とはいえ、全てが偶然の産物であるとする転回以前に後退したようにも見える。
しかし、ポパーが述べるようなことは逆なのだ。確かなものを基礎にして知識(学問)を組
み立てるより、全てを仮説として批判に晒す方が健全な知識が得られるである。
69某スレ551:02/02/03 18:58
>>68
>確かなものを基礎にして知識(学問)を組
>み立てるより、全てを仮説として批判に晒す方が健全な知識が得られるである。

「健全な知識」である、という判断はどうやって基礎づけられているのですーか?
それとも基礎づけ的思考はやめて、この判断自体も仮説だーと?

なんかロックと変わらないようーな...
批判という淘汰の過程で生き残ったものが「健全な知識」である、というところ
だけがまあ現代的な付け加えで、あとはロックと変わらないように見えーるので
すが...

ようは暫定的に今ある知識を修正しながらとりあえずやっていきましょう、って
ことですーか?
70某スレ551:02/02/03 19:16
蛇足だけどーさ、カントは実践理性の優位を唱えたのーさ。
人間の理論的認識も、ある実践倫理の関心で導かれているんだとーよ。
カントにとっては純粋理性の行使は究極的には実践理性の行使につながってーる。
カントは美しい道徳の世界を構築したいがために純粋理性の批判を行ったともいえーる。

TVの理論理性もある実践的関心に導かれているのか、いないのか?

ちなみーに前スレ(僕と哲学の話をしようスレ)のことになるのだが
哲学辞典見たーら、「超越論的実在論」というのはアリらしいーな。
ただこれはカントとはやはり違うらしい。
カントのは「経験的実在論」だそうーだ。
カントの枠組みにおいて実在は現象界で構成されるものであーる。
だから物自体が実在ではなーい
しかし「超越論的実在論」では、実在とは物自体のことらしーい。
「超越論的実在論」を唱えた人物としてハルトマンという神学者がいるそうーだ。
まあ、たしかに「超越論的実在論」って神の話になっていくよーな気が.....

カントと以前と以後で、「実在」という問題設定自体が変わったので
ややこっしいーな。
71びたみん ◆BWLMxAG. :02/02/10 00:18
>TIII

うーん、どうもよく理解できない…。
チョト傍観します。
72TIII:02/02/12 03:33
>>某スレ551
>それとも基礎づけ的思考はやめて、この判断自体も仮説だーと?

 そうそう。そもそも、現状を見ても明らかなように、科学云々よりも哲学的な土台
の方がずっと不安定なわけでしょ。この現状に際して、それでも強固な土台を作ろうと
するとか、そのようなものも独断だとして非合理主義者になるといった姿勢はあまり
学問的とは思えないわけ。

>ようは暫定的に今ある知識を修正しながらとりあえずやっていきましょう、って
>ことですーか?

 だいたいそうだけど、どういうやり方がいいのかということさえも仮説だから、
当然、科学や哲学と倫理や社会学では違ってくる。前者は大胆な変更が好まれる
が後者はそれが危険と判断されるでしょう。

>TVの理論理性もある実践的関心に導かれているのか、いないのか?

 そりゃあ、あるけど。それこそ基礎付けするより理不尽な独断論から守る
ということの方が大事でしょ。それに、それを徹底するためには非正当化という
方法しかないと思えるし。
 
 「我思う」との関連については、調査中。ここんとこ忙しいから、来週あたりに
カキコすると思う。


>>びたみん
>うーん、どうもよく理解できない…。

どこが?
まぁ、気が向いたらイチャモンつけてよ。
73考える名無しさん:02/03/09 12:39
ガンバあげ
74SSW:02/03/09 15:49

ニュートン力学が廃れたからといって、カントのコペルニクス的回転の意義は失われません。

カント以前の合理主義は、素朴に世の概念・法則が全て(1)生得観念から演繹されうるとし、経験主義では
(2)これらが後天的な経験から帰納的に形成されるとしていました。カントは、これを統合して、世界に関
する概念・法則は(A)先験的な時空間の感覚と因果関係や量などについての基本的なカテゴリとを(B)外
界から得られる感覚経験に(C)主体が「能動的」に投影することで形成されるとした。カント以前は、生得
観念か後天的経験か、という「知の起源」(認識論)がメインで、主体はそれを受け入れるだけの受動的な存
在でしかありませんでした。それを、能動的に認識するところの主体である人間自体の問題に焦点を移したと
ころにカントの功績があるのです。コペルニクス的回転を逆転したら、生得観念や後天的経験がストレートに
知の起源(=真理)であるとする、カント以前の素朴認識論に戻るだけです。知が主体により如何にして能動
的に形成されていくのか、といった類の問いはコペルニクス的回転を経て始めて可能になったのです。カント
無しにはポパーもクーンもありえません。

カントは、ニュートン力学やユークリッド幾何学が先験的な時空間およびカテゴリから導き出されるとしてい
たわけですが、実際にはそうではなかった、というだけの話です。今日、先験的な時空間の感覚やカテゴリに
相当するようなものを実証的に研究してるのは(X)認知科学や大脳生理学、言語学といった分野でしょう。
いずれにしろ、感覚経験を整理する人間の根本的な思考の枠組みが、先験的に万人に共通する(つまり間主観
的である)ことを否定する人は殆どいないはずです。ただ、そこから、ニュートン力学やユークリッド幾何学
のような本格的な理論が丸々導き出されることはない、というだけのこと。しかし、ユークリッド幾何学でも
量子力学でも何でも、これらの理論を支え、人間に理解可能にしているところの根本的な論理は、先験的に万
人に共有されています。人間(健常者)であれば何人だろうと誰でも学んで理解することができるのがその証
左です。

要は、人間が外界から得る感覚経験に能動的に投影するのは、万人に共通する時空間の感覚や基本的な思考の
枠組み(あるいは言語を使う能力)だけではない、ということです。例えば科学者なら、自分が信じる科学理
論を通して世界を見る(「理論負荷性」;科学に限らないなら「理論」より「概念枠」の方が妥当でしょうか)。
ある社会がどんな「理論」を構築し、採用するかのプロセスは(Y)科学哲学や科学社会学といった学問が研
究しています。「理論」は、カテゴリみたいな万人に共通する論理には還元されえません。かと言って、人間
の生理的(先験的)な制約を無視して、全く自由に「理論」を構築することも不可能です。だから

>我々に備わった理論作成能力には限りない可能性が秘められているのだから。

などということはありません。また、現代の科学理論は精密な実験器具に寄るところが大きいですから、これ
の制約もあります。500年前に相対性理論を考案することが論理的には「可能」であろうと、その可能性に
は大した意味はありません。
75びたみん ◆BWLMxAG. :02/03/26 05:46
age
76考える名無しさん:02/03/28 00:25
あげませう
77通りすがり:02/03/28 00:51
超越論的真理は形而上学においてア・プリオリにプロジェクトされる
公理であり、それが数学と自然科学の公理の潜在力になっている。
ここで形而上学、数学、自然科学の類比的関系が問われているという
ことか。

78考える名無しさん:02/04/24 20:08
age
79考える名無しさん:02/04/24 20:46
>>74
>ニュートン力学が廃れたからといって

廃れてねーよ
80考える名無しさん:02/04/24 20:47
はぁ?
まさか、実用性の問題だけにご関心が?
81考える名無しさん:02/04/25 01:52
>>80
考える状況に応じた使い分けは非常に大切なことだと思うのですが。
それと具体的にニュートン力学的世界観ではまずくなるような事象を
取り扱っている哲学的問題としてはどのようなものがあるか、
教えてくださいませんか。
82考える名無し:02/04/25 02:13
やっぱ観念論は実存論を見つけるための地図じゃないのか?
83考える名無しさん:02/04/25 02:30
TIIIは元気かな?
84TV:02/04/25 03:15
元気だよ
85考える名無しさん:02/04/25 03:16
>>84
本物なら、カントの物自体が何を意味するか
述べてみな?まあ、偽モンだろうけど。
86TV:02/04/25 03:20
カントの物自体は認識を離れた外部世界に存在している実在です。
我々は我々の認識装置を科学的に向上させることで、その実在を
知ることができるでしょう。
87TV:02/04/25 03:22
読んでみたら違うな。
88TV:02/04/25 03:35
某スレ551のレス内容はともかく、その態度は実に非哲学的ですね。
89考える名無しさん:02/05/08 14:35
>>80
まだぁ?
90考える名無しさん
んん