1 :
考える名無しさん:
ってどうよ??
あれ読んでるとデカルトがあほに思えてしょうがない。
3 :
考える名無しさん:02/01/21 03:03
>>2特にどの辺?というかどういう点で?
うそ生理学とか?
4 :
考える名無しさん:02/01/21 04:52
俺割と好きだけどな。
つうか、大坊のときに中公バックス読んでて、世界論からはじめて
情念論まで読んだら、倫理に何らかの基礎付けができる、少なくとも
そういう試みをやったやつがいる、ということに感動したよ。
無知だっただけだが。
5 :
考える名無しさん:02/01/21 05:10
坂本龍一が中3のとき読んで、刺激を受けたという、あれ=情念論、か。
6 :
考える名無しさん:02/01/21 05:31
>>5どこに刺激を受けたんだろ。
人間の幸福が感情に支配されている、というところかな。
7 :
考える名無しさん:02/01/23 08:29
1よ何とか言いやがれ。
なんとまあしょぼいスレだこと。
所詮デカルトってこんなもんか?(pu
9 :
考える名無しさん:02/01/23 08:44
age
>>8 東洋の
島国の
しかも2ちゃんで
そんなこと言われても
もしかすると後で使うので保全カキコ
もうちょっとだけ保全カキコ
こないだ新刊のクズ本を立ち読みしてたら、
ナチスに近いトゥーレー団の連中は、20世紀半ばに、
デカルトの松果腺理論を信奉していたというので驚いた。
別の板に、心脳論があるが、あれも似たようなものか?
どのみち、しょーもないなら、
スピノザの心理幾何学論の方が奇妙でおもしろいが。
ああ純丘さんに見つかってしまった
ひっそりと一人読書会をするつもりだったのに
悲しみのさげ
>>13 「別の板に、心脳論があるが、あれも似たようなものか?」
どういうことをおっしゃりたいのでしょうか。
15 :
考える名無しさん:02/02/12 19:40
>14
> ああ純丘さんに見つかってしまった
> ひっそりと一人読書会をするつもりだったのに
> 悲しみのさげ
純丘メムバーは電波であることが判明しています。
無視しましょう。
16 :
考える名無しさん:02/02/12 19:44
>>14 おお、そりゃ、わるかった。
いや、心脳論はけっこう人気なのに、
ちゃんとデカルトを読む板が寒いので、なんでかな、とおもた。
ひっそり炉部屋に籠もって読むのは、
デカルトにおいて、たいへん正しいと思う。
じゃまをせんから、がむばってくれ。
>>17 いえ、炉部屋に籠もって読むことは、省察では正しいかもしれませんが、
ご存知のとおりエリザベトとの往復書簡から生まれた情念論に関しては、
「ひっそりと一人読書会」は間違っていました。
純丘さんは、情念論のどこをしょうもないとお考えでしょうか。
19 :
考える名無しさん:02/02/12 19:56
140 :考える名無しさん :02/02/11 00:58
げ、純丘メムバー=稲田って、あの稲田静樹?
あの、F訳P以来の稀代の電波訳として分析哲学業界の笑いものになった、
フォン・ウリクト『規範と行動の論理学』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/448601510X/ の訳者の?
訳者紹介の業績欄に「武蔵『五輪書』研究」とか書いてあって、純丘メムバーの
ホームページにも似たようなこと書いてあるし、よく似た電波がいるもんだと
思ってたら、同一人物だったの?
爆笑です。腹の皮が千切れて死にそうです。やはり純丘メムバーは神でした!
>>18 「しょうもない」というのは、よからぬ表現だった。
「しょうもある」かどうか、は読み方次第かも知れぬ。
情動を動物精気の運動そのものと考えるのは、
現在の、情動を神経の電気状態と考える発想の源泉だろう。
そして、仮説として、さまざまの臓器を挙げるのも許容しよう。
この意味で、彼の『情念論』は、
現代に至る生理主義の先駆的典型の一つとして、
その問題点を含めて、読むに値すると言える。
しかし、後の時代と意味が違うにせよ、
精神、というとき、個人の心情を越えて社会に共通するものがあり、
これを考えるには、生理主義の限界があるように思う。
知っての通り、デカルトには、
それゆえ、独我論の問題もつきまとっている。
ユンクの集合無意識、とは言わないが、
幾何学的構造の同一性のような、
個人を越える余地が、実際、情動にはあると思う。
とくに、『情念論』の後半、
このような人倫的問題の解決の可能性を問いかけながら、
これを読んでいくことが大切だと思う。
21 :
考える名無しさん:02/02/12 20:25
>>20 レスありがとうございます。
「この意味で、彼の『情念論』は、
現代に至る生理主義の先駆的典型の一つとして、
その問題点を含めて、読むに値すると言える。」
そのとおりだと思います。しかし、
「情動を動物精気の運動そのものと考えるのは」
ここはちょっと違います。デカルトでは(多くの哲学者と同じく)あくまで情念は
passions de l'a^meで、精神の受動です。
「精神、というとき、個人の心情を越えて社会に共通するものがあり、」
今ひとつよく分かりません。まさにデカルトは人間に普遍的なもの
として理性をあげますが。
>21
古く、古代哲学的な意味での理性、と言っても、
ルッソー風に、精神と区別して、大精神、と言ってもよいのだろうが、
なにゆえ、人間は、同時に共通して妙な発想を持つのか、という問題。
これは、デカルトの理性というような、
数学的かつ合理的で無機的なものではないように思う。
たとえば、大革命、とか、大和魂、とか、バブル、とか。
もちろん、先の時代のデカルトにこれを求めるのは酷だが、
モンテスキュー、ルッソー、そして、ヘーゲルと、
この大精神の問題が、時代の激動とともに、
その後、哲学的に大きく注目されていくことになる。
実際、物心二言論と独我論の問題が、
『情念論』の直後から湧き起こってくるのであり、
それが、この大精神の問題へと連なっていくのだ、と思う。
こうした大きな近代哲学の流れの端緒として、
そして、現在の素朴な科学哲学の源泉として、
『省察』とは別の意味で、もっと注目されるべきだと思う。
23 :
考える名無しさん:02/02/12 21:20
誤謬余地でもなく、
パラダイムの与件
でもなく、伝播でも。
妙とする側と逆側。
24 :
考える名無しさん:02/02/12 21:32
パトスの基本から勉強した方がいいと思われ。
>>24 確かに。それでは、ちと勉強してきます。
>>22 おっしゃることはごもっともなのでしょう。
デカルトはそういう「時代の激動」とは離れた一個の人間を確立したかった、
ともいえるかもしれません。
もったいつけずに教えればいいと思われ。
27 :
考える名無しさん:02/02/12 21:47
24は20へのレスでした。ワリッ
28 :
考える名無しさん:02/02/12 21:47
先験
でも
器質
(皮質)
でもなく。
29 :
考える名無しさん:02/02/13 00:03
純丘へ。
おい、おまえなあ、少しでも羞恥心があるなら
二度と哲学板に純丘コテハンで書き込むなよ。
おまえの正体バレバレだよ。
>デカルトはそういう「時代の激動」とは離れた
>一個の人間を確立したかった、ともいえるかもしれません。
デカルトがかような積極的な独我論?であったとするのは、
一般的ではないかもしれないが、たしかに的を得ている点もあると思う。
古くはプラトンも、
世俗的妄動からの離脱として、数学的理性を立てているが、
デカルトの「情念論」が、そのようなものであるなら、
キルケゴールなどにも先立つ実存性を持っていたことになる。
しかし、どうなのだろう、
デカルトは、情念はかくある、という事実性として書いているのか、
それとも、かくあるべき、という当為性として書いているのか。
序説同様、後者だとする記述が見つかるとすれば、
私の知るかぎり、かなりおもしろい読み方になると思うが。
それとも、そのような先行研究者はいるのだろうか?
知る者があれば、教えてくれ。
まず、宿題のpathosについてですが、一応は
「変化の受動的な側面、その変化において、能動と考えられる原因の結果」
ということでよいようです。ですので、やはりpassion de l'ameは「精神の
受動」という訳で基本的に間違っていないと思われます。
(って私に対するレスじゃなかったみたいですね。)
もう少し具体的なことは、これから外出しなければなりませんので、
帰宅後書きます。
>>30 > デカルトがかような積極的な独我論?であったとするのは
申し訳ありません、よく意味が分かりません。
私の知っているsolipsismeというのは、「私と私の経験のみが実在的であり、
他の何者も私の意識の対象でしかない」(文章はネット上の辞書から)という
ものなのですが、それと私の言ったことと何か関係があるのでしょうか。
おそらく独我論には他の意味もあるのかもしれませんが、もしあるのなら
お教えください。
なお、デカルトが「自分の理性によって判断する個人を確立した」というのは
むしろ一般的な見方ではないかと思うのですが・・・
また、デカルトの実存的解釈については、有名なものでは、Alquieのものが
あります。
>>31 外界の認識が物体の外的属性に限られるなら、
他人に心(精神)があることを認識し理解する方法がない、
という問題が、デカルトの二元論には伴ってしまっている。
つまり、我あり、だが、我以外に心なし、ということだ。
さて、あまり自覚がないようだが、
自分の理性で正しく判断すべき範囲が、外界や概念の認識に限らず、
内面的な情動にも及ぶのであれば、たいへん興味深い、と思う。
それは、暫定的道徳に対する結論になっていると思われるからだ。
この意味で、
貴君のコメントは、大いに啓発されるところがあった。
私も、しょーもない、などと言わず、
近々、あらためてきちんと読み直してみようと思う。
>>32 いつもレスありがとうございます。
世界全体が私の意識の産物だという以外に、他人の心の存在が分からない、
というのも独我論の一種なのですね。
「さて、あまり自覚がないようだが、
自分の理性で正しく判断すべき範囲が、外界や概念の認識に限らず、
内面的な情動にも及ぶのであれば、たいへん興味深い、と思う。
それは、暫定的道徳に対する結論になっていると思われるからだ。」
いや、さすがにそれは知っております。彼の道徳理論が成功しているか
どうかは別として、「情念論」の道徳論が「方法序説」の暫定的道徳に対して
彼の成熟した道徳論である、というのは非常に一般的な見解ですので。
pathosについてですが、
ギリシャでは、人間は神の支配を受けている、そのためにドラマティックな、
あるいはポイエティックな能動を妨げられている、
と考えられていたようです。一般的に、パトスは混沌としたものであり、
本質的なもの、たとえばコスモス的なもの、調和的な運動の邪魔をするもの、
であったようです。
その後、トマスと共に中世から始まり、デカルトに続く古典的な哲学の伝統は、
受動性対能動性の概念的対の助けを借りて彼らの情念に関する学説を分節化
していった、とのことです。
34 :
考える名無しさん:02/02/18 17:00
もう少し一般的な話を続けさせてもらいます。
情念は身体の能動に対する精神の受動と考えられるが、デカルトの哲学に
おいては固有の問題が発生する。
アリストテレスでは、精神は、身体という質料の形相として、それと一体を
なしているので、身体の変容に精神における何らかの変容が伴うことは
まったく自然である。
しかし、デカルトは、周知のとおり精神と身体を厳密に区別したため、
ここには身体の能動に対する「精神の受動」自体、どのようにして
可能なのか、という問題が出てくる。
つまり、デカルトにおいて常に現れる心身関係についての問題が、
ここでも問われることになる。
35 :
考える名無しさん:02/02/25 01:19
デカルトってどんな奴よ?
36 :
考える名無しさん:02/02/25 04:02
>>35 ニーチェ大好き人間に馬鹿にされるような奴
>しかし、デカルトは、周知のとおり精神と身体を厳密に区別したため、
>ここには身体の能動に対する「精神の受動」自体、どのようにして
>可能なのか、という問題が出てくる。
区別したというより、知ってのとおり、
本質(存在性)を二種類立ててしまったために、
アリストテレスからプラトン的二世界説に回帰してしまった。
このため、感覚としての精神の受動のみならず、
意志としての精神の能動、つまり道徳が怪しくなった。
(この問題事情は、
自我が理念になってしまったカントの理性にも通じる。)
この意味で、情念論は、
たんにデカルトの道徳論として云々ではなく、
感覚論中心の生理主義的実験心理学の、
意志や道徳に対する見解の理論的帰結の先駆として
批判的に読むことができる、と思うが、いかがか?
38 :
考える名無しさん:02/02/27 17:33
>>37
まだいたの
39 :
考える名無しさん:02/02/27 17:42
>>38 ほんとうだ。でも、なんで純丘って
一行書くと一段ずつずらしていくのかね?
>>39 ヘルダーリンが
○○○○○○
○○○○○○
○○○○○○
○○○○○○
てゆーふな形をよく使う
私はそのまねじゃないかって思ってるんだけど
岩波文庫の省察ってどうですか?
>>40 どうでもいいがいまだに名前が親切な人なのな(爆笑
43 :
考える名無しさん:02/03/01 20:41
>>42 日本語でお読みになるのなら、中公バックスの世界の名著「デカルト」を
お勧めします。
原文と対照なさるのなら、白水社の全集をどうぞです。
45 :
らげ@援助交際:02/03/03 00:46
46 :
考える名無しさん:02/03/03 00:53
48 :
考える名無しさん:02/03/03 10:28
>>44 世界の名著は井上庄七・森啓、白水社の「著作集」
(全集ではなかった、すまんです)は確か所雄章、です。
ここの人があの時代に生きていても、アリストテレスを絶賛して無駄な事を追求するだけのようなきがせんでもない
デカルトの時代に情念論みたいな本が他にもあったんでしょうか
52 :
考える名無しさん:02/04/18 04:28
age
2回戦突入。
戦意喪失 撤退