ある抽象的問題の是非を議論する場合は、
一つの対象として扱えない事実を、言葉の上で一つとして扱えってしまうことで、
事実を構成する要素とあてられる言葉との対応関係が意識されずに、空論に終わって
しまうことが多いので、気をつけると良いと思います。
▼殺人について考えるとき、以下の人間を、抽象的に想定することは、大丈夫だと思います。
・0が殺される・殺されそう 注:0が自殺
・1が0を殺す・殺しそう
・2、3… …1億…50億…(部外者)
これらの人間それぞれの立場から、殺人という抽象的事実がどう理解されるかを明かせばよいはずです。
■0の立場からみれば、殺人は常に悪いです。なぜなら、0は殺されることで、
@ 行動できる可能性が無くなる(感じることも、得ることも、人付き合いも、議論もできなくなる)し、
A ものすごく痛い思いをする(ところで、普通「殴ることは悪いことでない」とは言いません)
からです。
@・Aは、0にとって、大きなデメリットです。ですから、0の立場からみる限り、殺人は悪いことです。
注:自殺…「自殺を遂げるまでに、生きていて受けるデメリット」の方が、
「自殺しないで、生きた場合に受けるデメリット」より、
ある時点において、小さいと判断された結果です。
0による0の殺人に、0にとってのデメリットがなかったわけではありません。
■1、2、3、…(以下、Xと略します)の立場からみる場合は、視点により結論が変化します。
☆Xの立場から「0が受けるデメリットは、0の主観によって決まる(面が大きい)」と考えることは、
一般的に正しいとされます。
Xが、これを認めるなら、0の立場からみる議論をたどり「0が殺されることは悪い」と認めることになります。
それを一般的に表現するなら、「殺人は悪い」とするのが、論理的です。
☆「0が受けるデメリットを考慮しない」なら、単に事実認識が誤っているだけです。なぜなら、
Xは、1が殺そうとしたときに、0が感じているだろうことを、無視しているからです。
Xは、事実を構成する重要な部分を無視して、結論を出したにすぎません。
☆「0が受けるデメリットを考慮するが、XのメリットやXのデメリットの欠如を問題とする」のは、
考慮していないのと同じです。
なぜなら、0のデメリットとは無関係なXの事情を考えつつ、0でない立場で0の事情を考えた上で、
Xにとってのメリットを採りうる、と認めたに過ぎないからです。
言い換えますと、Xは、殺人に「付随した(関係はない)」、
@Xにとって、殺人によって得られるメリットがあるか、
AXにとって、殺人に伴ってデメリットが感じられない事実がありうるか、
という事実問題を、「殺人(は許されるか)」という言葉のもとに、考えているのです。
これらについて考えると、
@0が殺されることでXがメリットを得ることはありえるので、その点を重く見れば、殺人した事実と
殺人以外の事実との総合判断で、殺人を許容する・黙認するXは、存在します(0にとっては関係が無い)。
AXにとって、0のデメリットは、Xのデメリットではないですから、事実上、殺人と無関係な時が過ぎていきます。
Xが支障なく生活ができるなら「(Xにとって)悪くない」と論理的にいえます
(他人の痛みは、いくらでも我慢できる)。
@・Aは、評価の問題として言説上扱いうる問題であると同時に、評価と無関係に可能である、事実問題です。
ですから、殺人が、Xが所属する社会にとって、個人レベルでみた頻度でまれであっても、
「論理的に可能であり、殺人を規制する制度が社会にある事実があるにすぎない」と考えるなら、
当然「殺人はなしえる」「悪いと(X(の一部)にとって)評価されない場合はある」ことになります。
ですが、そんなことは、実際に殺された人や、殺される人の立場を論理的に考察の対象に含める人にとっては、
どうでもいいことです。
▼
「殺人は悪いことではない(場合がある)」と言っている人は、
殺される人間0以外の人間、1、2、3、…が殺されなければ、1、2、3、…は、
デメリットがないか、メリットがあるかだから、0が殺されることは、1、2、3、…にとって
悪いと(事実上)判断されない(場合がある)、と言っているのです。
これは、論理的には全く正当です。しかし、この意見に実践的な意義がないことは明らかです。
最近哲学板は見てなかったですが、本当に定期的に同じようなテーマで
話し合ってますね。
同じ人たちがスレッドを立てている(戦争とか好きな方あたりが)ような気が
しなくもないですね。
いずれにせよ、具体的な想定を意識した意見が少ないのが残念だと思います。
哲学(と呼ぶかどうかは、どうでもいいですが)は、よく抽象的だと
いわれますが、これは誤解に基づくものです。
厳密に具体性を追求した結果、抽象的な想定を得て、無難に思考ができる
ようになる、というのが正しいあり方だと思います。
事実の抽象化・一般的な展開には、もう少し慎重であるべきです。