主体/客体、内部/外部などを問題として扱う「扱い方」についてちょっと一言。
やや、煽りを織り交ぜるので、斜めに構えてネタとしてかわして貰っても結構です。
何らかの「問い」が何らかの「結論」へ至るには、問いの対象である「主語」が「言及システム」を介し、
「主語」から「目的語」へと移行する事に他ならないと思う。何も今更、オレが言う事ではないと思うが。
別の言い方をすれば、「主語」がクラインの壷へと投下され、言及システムを経由して
オブジェクト・レベルへと放り出され、そして、オブジェクト・レベルへ放出された要素が再度、
メタ・レベルへと投下されるという事。この繰り返しが議論においても実践される必要があると言う事は
オレが言わずとも皆、気付いているハズ。しかし、実際は何一つ実践されていない。
あまりにも主語(言葉尻)ソノモノに束縛され過ぎている。そして言及システムが機能してない。
むしろ欠如している。その結果何が起こるか? 問いに対して、言及プロセスを経由しない「解答ならぬ
シロモノ」がまったく別の次元から性急にやってくる。
皆(と言えば語弊になるが)がやっている事は、問いの対象である主語を「タコ壷」に入れるだけ入れて
さも嬉しそうにタコ壷を振りまわしているだけだ。タコ壷に放り込まれた言葉は主語にも目的語にもなれず
そのまま腐っていくだろう。オレは言いたい。「問い」の種をばら撒いたなら水を撒け。
種を撒くだけ撒いて、それを育てようともせず、挙句の果てに口を衝く言葉が「ネタ切れ」とはあまりにも
悲しいじゃないか?
なぜ、皆が「主体主体」と叫ぶのか教えてやろう。
それは、問いの「主語(主体)」が、言及プロセスを介せず(従ってオブジェクト化されない)、
同一平面状にばら撒けられ、足の踏み場を失い、新たな主語を発するスペースが無くなってしまったからだ。
「主体」が無いように見えるのは、あまりにも「過剰」に主体が発せられたからだ。
無いのは「主体」ではない、そうではなくて、「言及システム」が無いのだ。
改稿しろハゲ!
読む気が失せる
1の改行がおかしかったらスマンです。
それと、上で述べた事は、当然自分自身の問題として反射してくる。
オレはまだ未熟で、言及システム内部での技巧的な動き方を知らない。
だからこそ、あえて書いてみました。
>>2 どうやって改稿すんのか教えてくれ
ちうか、オレはちゃんとキレイに見えてるけどなあ。
>>4 一度テキストエディタなんかで1行30〜35字ぐらいで推敲しれ。
WINだったらメモ帳でいいよ。
それをカット&ペーストで貼り付けれ。
あ、40字ぐらいでもいいかも。
視点移動を少なくしてあげるのが親切というもの。
>>5-6 メモ張を使って40字あたりで改行したんだけどなぁ…
おっかしいなぁ。
ていうか、今から1の文章を直せない?
>>7 1の文章は、言葉づかいが分かりにくいので、
もう少し自分の言葉で説明してもらえるとありがたいです。
凄まじい勢いでdat逝きしそうな予感。
なぜなら、重複してるから
>>10 マジスカ??!!
端的に「○○とは何か?」という問題系のド真中を見つめるのではなく、
「見る方法」についての?
まあ、見方についてのレスは方々で見うけられるが…
それにしては、あまり進歩してないな。
>>12 いや。ていうか、そもそも主観/客観とかいう二項対立が、クラインの壷に投下されることで、
その境界がなし崩しにされているんではないの? と、言いたかったワケです。
だから、主観と客観の境界は厳密に線引きできないと思ってる。
まあ、ヘンな例えで言うと、理性-狂気って対立図式があるじゃん。
かつての西欧理性中心主義は理性を有する者が『人間』だとし、西欧外部の非理性
人間を「狂気」として扱ってきた。
今でも、理性的人間が優位にあるのは間違いない。
この、二項対立にがんじがらめになって、人は世間様の言う「立派な人間」
立派な大人になろうとする。これがうまく行かないで真面目少年が突然プッツン
するわけでそ。要するに欲動を抑圧し続けて、いい子ぶってたのがルサンチマンを
歪に爆発させたって事? フロイトもそのことを指摘してたと思う。
主観とか内部を充実させる発想って、そもそも西欧のものであって、なんでオレらが
西欧の人間観を忠実に再現せにゃならんのって思う。
そのことが、現代フランス系によってなんとなくアヤシイものとして浮き彫りにされた
ワケだし。よく最近日本で「父親がいなくなった」と言われるけど、そもそも大人(理性)
そのものが幻想だったんじゃないの。
>>14 僕は今の日本が、理性中心主義だとは思わない。
その反省から、「心の時代」とか「ゆとり教育」とかが
はやってるのではないかしら?
>僕は今の日本が、理性中心主義だとは思わない。
>その反省から、「心の時代」とか「ゆとり教育」とかが
あ。「今」って言うのは、何もたった今の事ではないです。
君の言葉を借りて悪いけど、当の「ゆとり教育」の切っ掛けになった「理性」の事(w;
いつ頃から「制度によるツメコミ」が批判されだしたかは具体的に分からんけど。
ちと話しが変わるけど、何年か前に京都だったかどこだったか忘れたけど、子供の
頭をちょん切って学校の校門に置いたっていう事件あったでしょ?
サカキバラセイトだったかな? アイツ、自分の事を「透明な存在」って表現したじゃん。
それってさ、主体/客体なる二項対立という「枠組み」そのものに挟まれて、最終的に
コギトってものを確立できなかった事を意味しているんだと思うんだな。
だから、性急にコギトを確立しようとして「バモイドオキ神」みたいな形而上学を
作らざる得なかった。でもさ、オレは別に「透明な存在」でもいいじゃんって思うワケよ。
よその国で物語れたコギト物語、理性人間が弁証法的に歴史を進化させていくっつー
物語が、逆に自己を崩壊させるようであるならば、そんなもん糞食らえと思うな。
二項対立の枠組みは西洋から輸入されて出来たものではなく、
もともと人間の言葉の中にあるものだと思う。
無といえば、それだけで有に対立した無としてしか
考えられないのが私たちの言葉です。
だから禅などでは、昔から不立文字によって
その矛盾から脱却しようとしたのでは?
18 :
考える名無しさん:02/01/08 08:36
>そもそも主観/客観とかいう二項対立が、
>クラインの壷に投下されることで、
>その境界がなし崩しにされているんではないの?
単に境界でないループの存在を主張するだけなら、
クラインボトルじゃなくてもトーラスでもよさそうだ。
それとも、クラインボトル自体が、三次元空間内で、
領域の境界として埋め込まれないということが
いいたいのなら、射影平面とかでもいいだろう。
いずれにしても
>>1は衒学的な修辞であって、
主客問題の解決には直接結びつかない
と思うが如何?
>二項対立の枠組みは西洋から輸入されて出来たものではなく、
>もともと人間の言葉の中にあるものだと思う。
え――? マジスカ??
最初から二項対立が「構造」として言語内に組み込まれていたってーこと?
もしそうだとしたら、オレは筆舌に尽しがたい勘トィガイをご披露なさってしまった
って事かい(w
先に「代一項目(二項対立になる前の要素)」が存在し、それが価値を与えられ、
それを唯一の価値基準(主人)として、そこから漏れてくるあらゆる要素(前価値)が、
いわば「代二項目」として位置付けされたんだとばっかり思ってた。
二項対立って、主-奴というタテの繋がりじゃないの?
言語を保有してこそ、始めてモノに価値が割り当てられるワケであって
その逆、つまり最初から二項価値対立の図式があって、後から価値体系内に言語が
ハメ込まれるのであれば、その先天的構造ってのはどっから出てくるんだろ?
あ。もしかして構造主義のこと? うーん… ダメだオムツが回らん。
ここらへんで落ちますワ。
>>17の言ってること考えときます。
20 :
考える名無しさん:02/01/08 08:46
>>二項対立の枠組みはもともと人間の言葉の中にあるものだと思う。
>最初から二項対立が「構造」として言語内に組み込まれていたってーこと?
端的には、言葉は事物を主体と客体に分かつものだと言える。
だからといって言葉を使わなければ主体と客体の分離を回避できると
考えるのは安易にすぎる。もはや分離されたものとして存在せざる
を得ない我々にとって言葉を用いることは不可避である。
>>18 えと。クラインの壷ではなくメビウスの輪でもいいかも。
メビウスの輪ってさ、「表」をなぞっているつもりでいても、
いつの間にか「裏」をなぞるハメになるじゃん。
この思考モデルを利用して、今まで悩まされ続けてきた主客、内外の
あらゆる二項対立問題を無効にしてしまおうって考え方です。
まぁ、実践レベルで可能かどうかは別として、あくまで「思考モデル」
です(w;
つーか、マヂで落ちます。
22 :
考える名無しさん:02/01/08 09:07
>>21 いまどきラカンのマネをしても本は売れないと思うよ(笑)
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>>23 つーか、オレはその基地外なるモノを肯定しているんだよ。
あ! そうか。
ひっとしてそれはオレの意図を理解した上でのユーモアか。
ひゃっほううううううう。
別にラカンの正当性を主張しているわけじゃないでしょ。哲板で暫し扱われる
神、真理、人間性などに代表される、ある種の絶対性を求める議論に対して言及
しただけ。ラカンの精神分析は人間を、過剰を孕む欲動を持つものという立場か
ら出発し、無数のイマージュに捕われ直接的相互関係に不調和をもたらす想像界
から象徴界へと移行させるよね。そのためには、メタ・レベルに君臨する父がエディ
プス期に禁止の命をもって介入しなくてはならない。つまり、想像界から父を経由し
て始めて言語を介した秩序を獲得するってこと?
このような絶対他者が介したシステムは、ドゥルーズ=ガタリにならっていうと、
超コード化された専制国家(A)のモデルに属すると思う。平面世界での恣意的な
コード化が絶対他者によって切断され、その過剰を一挙に担いシステムを統御する。
他方で、《コード化―原始共同体》(@)、《脱コード化―近代資本制》(B)というモ
デルがあるけど、取り分け注意しなくてはならないのはAとBでの神、王、父という
絶対他者がまったく性質を異なるものにすると言うこと。
Aについては最初に、象徴的父を例に示した通り、絶対他者が極めてスタティック
な第三者として君臨している。
Bについても、クラインの壷を例に1で示したように、不動の第三者であったハズの
絶対者が、メタ・レベルとオブジェクト・レベルを反復し、例えば近代資本制の貨幣
に見られるように貨幣が再投下され、商品世界との間を反復するダイナミズムを展開
している。かつて、金は退蔵貨幣つまり、それ自体が絶対的価値を有していたため
象徴的財として、あるいは死んだ資本として静止していた。
貨幣の問題だけではなく、ラカンの閉ざされたエデイプスに対するドゥルーズ=ガタリ
の批判は、例えば、母子の二項関係が唯一父によって切断され閉ざされるのでは
なく、むしろ、父による切断とイマジネールな接合を何度も繰り返すひとつの機械と
してさえ機能する。
オレが言いたいのは、このように《絶対性》を巡るパラダイムモデルが複数存在し、
そのタイプによって絶対者の振舞いがまったく異なること。
そして、このようなダイヤグラムが明示された今、オレ達が神、王、父あるいは二元論
を論じるとき、自分の立場や言及スタイルをハッキリ示す必要があるということ。
あるいは浅田が分類したプレモダンとモダンの性質を認識するとか。
例えば、貨幣を問題にするときに、超コード化された退蔵貨幣なのか、脱コード化
された近代貨幣なのかをハッキリさせないとまったく話しにならんでしょ。
それをヌキにして、神、王、父、二元論を論じるのはちっとばかし危険でない?
オレが1で言いたかったのはそういうことだよ。
ズレてたら鬱