人にはそれぞれ理解の限界が存在するのだろうか。
存在するともしないともいえる。
常に人の理解は矮小だが、その理解を更新することはできる。
それが進歩だとは限らない。しかし、それが人それぞれの歩みを決定する。
効率的な方法として、意見交換をすることでこうした理解の更新が
硬直するのを防ぐ事ができる。複数の人間の理解領域の接触更新の場。
そのようなものとして哲学と藝術は似る。
科学は理解を与えるのではなくただ事実を与える。これは観測の機械的処理
による帰結である。
哲学は科学よりも個別的事象をも考慮に入れて一般論を展開する。
藝術は個別的事象を個別なままに写し取ろうとするが、
その為の技術によって演繹的な性格の作業に陥りやすい。
2 :
阿修羅無限大落とし:01/12/20 22:48
そんなことより、片岡阪神入りだよ。
藝術ってどう読むんだ?
猥褻とにてるぴかぁ〜
なんで旧字なんだ。
なら、「学」も旧字で。
1の個別的事象というのは個々の人間のなかにあるさらに
個別的な理解に依存しているのだから、そうした個別的理解について
深く考えることが哲学と藝術で重要となる。
現在の理解について考える事で新しい理解が得られる。
確かにそうだが、自分だけでは自分の位置を見失ってしまう。自分は
環境の中に場所を与えられている身なのだと認識するならば、
理解を他者との間で接触更新することが重要となる。
このような哲学と藝術に共通する目的、すなわちさまざまな
理解の更新可能性へと自分の理解がアクセスするという目的のために
今の哲学と藝術のありかたはこれで良いのかと考えてみよう。
6 :
阿修羅無限大落とし:01/12/20 23:03
藝術って、文脈から察するに、芸術のことかな。
今の哲学・・・記号論理学以外カス。
今の芸術・・・人間関係にすべて依存。
今の哲学・・・記号論理学もすでにカス。
今の芸術・・・オタク文化にすべて依存。
8 :
阿修羅無限大落とし:01/12/20 23:23
9 :
考える名無しさん:01/12/20 23:23
1はジジイ。藝術とか臆面もなく書くなよ恥ずかしい。
藝術=芸術がわからないのもどうかと思うが・・・
10 :
考える名無しさん:01/12/20 23:29
今の哲学って言い方卑怯だと思う
>>8 そんなこといわないでもっと遊ぼ〜。ふかぁ〜。
12 :
考える名無しさん:01/12/20 23:32
ふかぁ〜りょう〜
13 :
考える名無しさん:01/12/20 23:36
ちげんだよ。
今の芸術、今の哲学などという言い方はな、しょせんゴミのような
似非インテリ@俗物が金を落としているから成立してるようなもんでな。
世に認められない芸術・哲学はごまんとあるのさ。
で、バカな俗物に金を落とさせる芸術家というのはだな、自分の芸術
を売り込むためのハッタリ、レトリックに長けてるやつなわけだ。
ふかぁ〜きょ〜ん
15 :
考える名無しさん:01/12/20 23:42
このスレ読んで再確認。
阿修羅って、救いのないバカだ・・・
16 :
考える名無しさん:01/12/20 23:43
阿修羅<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<
<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<ぴかぁ〜
>>13 そういったことも含めて、今の「芸術のあり方」、今の「哲学のあり方」
を問いたい。たとえば今の哲学のありかたという場合、今においてプラトン主義はどうかということも問題になるわけで、
何も21世紀に生きる思想家に限定するつもりはないんだけど。
18 :
阿修羅無限大落とし:01/12/20 23:45
つまり、哲学、芸術それぞれの全体をとりあげてきて、
それらが今どう作用しているか、これを
>>1-2に関連付けて考えている。
20 :
考える名無しさん:01/12/20 23:51
私自身は今の思想家であるが、
ニーチェとドストエフスキーと道元が好きである。
彼等の類似点は、人間中心的な見方を
脱却しようとしているところだと思う。
ニーチェの「運命愛」、ドストエフスキーの「大地主義」、
道元の「身心脱落」などにそれが現れていると思う。
優れた哲学と藝術は、宗教的な領域に
踏み込まざるを得ないのではないかと私は思う。
道元は心身脱落だったけ?ぴかぁ〜
22 :
考える名無しさん:01/12/20 23:58
スレタイトルの自己陶酔ぶりに萎え萎え
23 :
考える名無しさん:01/12/20 23:59
「心身脱落」「只管打坐」だよ、ぴかぁ〜。
でも人間中心を脱却しようとしているのかなぁ?
「私」から身体も心も取り除いてみよう、という感じじゃなかったっけ?
「私」は「身体」と「心」の複合体ではないんだね。
24 :
阿修羅無限大落とし:01/12/21 00:04
デカルトがとっくの昔に物心二元論を打ち出してるけど・・・
芸術に準えると遠近法及び、遠近法からの脱却
即ち、印象派になるのかな。
く、くだらねー、止め。
25 :
考える名無しさん:01/12/21 00:08
ああくだらねえな
26 :
びたみん ◆BWLMxAG. :01/12/21 00:46
1はよく理解できないんだけど。
両者の類似点って…どっちもある種の真実を映し出すことかな?
違いは…表現か、探求かってことかね?
27 :
考える名無しさん:01/12/21 01:08
藝の字にこだわる奴は灯台美学芸術学教授の洗脳済み
これ定説
>>24 ありがとうぴかぁ〜。
当体脱落っておもってたYO!当体全是とかんちがいだたーよぴか〜
おいらは藝っていう字がすき。
工芸っていうと一村一品運動みたいだけど
柳宗悦なんかだと工藝がにあう。
旧字は書きにくいけど簡略字はスカスカしてる。
中国なんてみてらんない。
柳宗悦が焼物について書くものは良いですね。
陶芸やる人は必読だと思います。
人違いだったかしら。
32 :
考える名無しさん:01/12/21 10:55
阿修羅って、漫画スレで他の論を糞味噌に貶してたけど、
ここ見ると一番アホなこと言ってるのこいつじゃん。
芸術を語るのは、ちと荷が重いんじゃないの。白痴にはさ。
>>24のレスを見ろよ。これ、本気で書いてんの?
くだらねー、の逃げ口上も悲惨だし、こいつ、リアル厨房?
おれ、頭の良いやつに論破されようと思ってこの板に来たのに、
こんなアホのレスを見ると萎える。
あ〜あ、同世代のやつって、皆この程度なのかなぁ。違うよなぁ・・・・
33 :
考える名無しさん:01/12/21 13:55
6の人間関係に依存というのは、どういう意味なんですか。
人間の諸活動は関係に中にあるから、依存じゃなくて、関係と自己の相関
が大事なのではないんでしょうか。
だから、オタクって興味深くて、メディアを通じてコミィニケートする事の
側面の一部を明らかにしてると思う。
人と共に生きているという事がどういう事象となって現代に現れてくるかという
事は哲学、芸術に限らず、考えてみる余地がありそうです。
>>33 いってることは正しい。
だけど、オタクは関係性を自分に引き寄せすぎてて
相関関係を一方通行にしか展開できてないから問題ありなワケだ。
コミュニケーションというよりマスターベーションだNE!
「哲学とは至高の芸術である」
って言ったの誰だったっけ?
かいばらゆうざん
テレビ番組でこんなのがあった。
自分の息子、娘を非常に残忍な方法で殺された経験を持つ親達が犯人に
対面する迄の経緯を現したものだ。結局その原因に立ち向かわないと
自分達の負った傷は癒えないということだろう。本当にそれは大変
なことだろう。
しかし今のアメリカの方法は後に禍根を残すだけかもしれない。
スレを間違えました。失礼。
39 :
考える名無しさん:01/12/21 14:40
そうすると、関係性を一方にしか展開しない事の問題を論理的に
考えた方が良さそうですね。
その事で、対話が拒まれる、あるいは過剰に自己のイメージを守る
のは何故なのか。持論や自らの発言に対する奇妙なまでの執着心
、これらが本質的には、コミュニケーションへの渇望に基づいて
発生していると考えてみることもできます。
つまり、自分を認めてくれる社会を自分が知っているもので埋め尽く
された形で作り上げて、誰からも認められたいという感情です。
そうした感情は、本当に生産的な対話に至る柔軟さ、いいかげんさを
実現しえないものではあるかも知れません。
だから、アホである事も時には大事だと思いますけど。
40 :
考える名無しさん:01/12/21 17:45
阿修羅ってバカなの?
>>39 >アホである事も時には大事だと思いますけど。
賛成。
でも、アホである事は難しい事だと思う。
(都合の良い時だけアホになるのは簡単だが。)
まして、今の世界情勢を見ていると、
国家としてアホになりきり、生産的な対話をするのは、
さらに難しい事だ。
ブッシュは比喩抜きの意味でアホだと思うが。
>ブッシュは比喩抜きの意味でアホだと思うが
どこが どのように?
43 :
考える名無しさん:01/12/21 21:48
我が国のスノッブ特有のいやらしさがよく出てるな、42は。
44 :
考える名無しさん:01/12/22 00:41
____________ ククク・・・ いいのさ 見てるだけで
ヾミ || || || || || || || ,l,,l,,l 川〃彡| あちらの方々は煽りなんて もう
V~~''-山┴''''""~ ヾニニ彡| とっくに卒業していらっしゃる
/ 二ー―''二 ヾニニ┤ あんなものは 厨房のすること・・・・・・!
<'-.,  ̄ ̄ _,,,..-‐、 〉ニニ|
/"''-ニ,‐l l`__ニ-‐'''""` /ニ二| わしは何度か芸術系スレを見ているから
| ===、! `=====、 l =lべ=| あちらの方々の気持ちがわかる
. | `ー゚‐'/ `ー‐゚―' l.=lへ|~| ・・・・・・煽らずともいいんだ
|`ー‐/ `ー―― H<,〉|=| 煽らずとも・・・ 充分楽しめる・・・・・・!
| / 、 l|__ノー|
. | /`ー ~ ′ \ .|ヾ.ニ|ヽ 阿修羅が・・・ 放置されながら煽っている・・・
|l 下王l王l王l王lヲ| | ヾ_,| \ 白痴レスを振りまいているんだ
. | ≡ | `l \__ その様を見ていると もう
!、 _,,..-'′ /l | ~''' それだけで・・・・・・・・・
‐''" ̄| `iー-..,,,_,,,,,....-‐'''" / | | しみじみ幸せを感じられる・・・・・・
-―| |\ / | |
| | \ / | |
利根川
45 :
阿修羅無限大落とし:01/12/22 01:17
46 :
考える名無しさん:01/12/22 01:26
,.. -───‐- 、.
, ‐"´ `''‐、 阿修羅はここんとこ続けていた
/ ,.-‐- 、. ,. -‐-.、ヽ 漫画・自治スレのストレスで
i / 、 ` ‐----‐'´ ,. ヽ.i ホルモンの分泌が滞って
.i i ` ー----‐ '´ ゙i.i 精神のバランスが
i i ─- 、 ,. -─ |.! 崩れておるのだ・・・・・・・・・・・・!
l ヽ `ヽ r'´ /.l
i´゙i│ ─- -─ │!`i でなければあんな荒らしを
|.f、|.! / ヽ .|.!~i.! する道理がない・・・・!
l l_.||. ノ i i ! ||.) ! 彼は今自分で自分が何をしているか
_,. -‐i`‐'|! -‐' ヽ.__,ノ .`‐- |!‐'i‐ 、._ よくわかっていないのだ・・・・!
‐''"´ l ! r' ニニニニニニニニニニニヽ .! .! ` ‐
_,,. -‐l ! ヽ、ー---------‐_'ノ i. l- 、._ その行為が・・・・・・・・・・
‐''´ l. ヽ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ノ .l ` 板の住民にどういう感情を
. | `iー--,.-‐''!!'‐<!`'‐、-‐i´ .! 生むか・・・・・・・・
. | i ./、-‐''!!`<!!~`‐、i | ! そんなこともわかってない・・・・・・・・!
| l /ヲ、,.-‐-=ニ!!_‐- 、"ゝ、 l 明らかに精神失調状態だ・・・・!
!_,. -‐'"´ヽ(_,.ゝ,. -‐ii─-,,、ヽ"`ヘ'~` ‐- 、.!
i´i´,.ノ゙ ゙̄` ‐-、 ゝゞi‐'! だから・・・・・・
! | :! (_゙ノ~ヽ、 '' ヽ-' ! | 許してやろうじゃないか・・・・・・・・!
i | :! `i::::::::゙i :! ! ! 寛容な精神で・・・・・・!
.! | :. }:::::::::{ :! !.!
47 :
阿修羅無限大落とし:01/12/22 01:31
>>46 俺は荒らしなんてしたことないよ。
でも、許しちゃだめ。
つけ上がるからね。
48 :
考える名無しさん:01/12/22 01:35
>>47 君は、マジレスの方が荒らしだからなぁ。
素直に弱脳煽りを繰り返す方が、人畜無害でよろしいのですがね。
49 :
阿修羅無限大落とし:01/12/22 01:39
>>48 ハァ? オマエに俺のマジレスを見抜ける眼力があるとは
思えないけど。
大体、何でマジレスが荒らしなのさ。
俺のマジレスを指摘してみ。
50 :
考える名無しさん:01/12/22 02:03
ムキになるな阿修羅(w
51 :
阿修羅無限大落とし:01/12/22 02:06
>>50 20分以上待って、そんなクソレスが付くとは・・・
許せん!
返せ! 時間を返せ! 馬鹿野郎!
ホームラン松井の時のレスは、けっこうやばかったな。
ネタレスにしても。
53 :
考える名無しさん:01/12/22 02:14
>>51 20分間PCの前でリロード繰り返してたかと思うと、可愛い
54 :
阿修羅無限大落とし:01/12/22 02:15
ヤバさ具合の酷さ
52>>>>>はじめの一歩のアニメ>俺
>>54 ん?なんだね?
その低脳なあおりは?(w
君は真性厨房かね?
言っとくけど俺は、話しの流れでレスしただで、
>>48じゃないぞ。
56 :
考える名無しさん:01/12/22 02:22
あと、漫画絵をパラパラさせると商品価値を持つ、ってのもやばかった(w
57 :
阿修羅無限大落とし:01/12/22 02:34
いいことを教えてあげよう。
見下したり、或いは、見上げたりする行為に及ぶ主体は
(見下したり、見上げたりする)対象と隣接する階級にあるという
世界観を有している。
余りにも劣る対象、優れた対象については
そんなに関心をもたないんだ。
君らは、僕の設定したキャラクターに対して見下すという
行為に及んでいるのだけど、それは即ち
君ら自身がその程度であると自らを位置づけているんだよ。
理解できたかな?
君たちがどの様に僕に見られているのか。
58 :
考える名無しさん:01/12/22 02:40
なるほど。てことはマルクスはアジアと隣接する階級にあるという
世界観を有していたのか(?)
>>57 (まあ君のお遊びにちょっとだけつきあおう。)
しかし、どのようなキャラにしろ
書き込み主体の思考がそのレス内容には反映されるのは事実である。
君の陳腐な優越思想などはなから他の人は気にてしないだろう。
キャラを演じてる上で、特に注意が必要なのは長文レスだ。
キャラを演じていても、思考過程があらわになる可能性が高い。
そしてもうひとついっておこう。
君の立場から劣る存在の言動を無視できないのは、
君が「その程度」の人間だからである。
多くのものは、(2chでは当然だが)、
君が自分に対する批判にいちいち反論してしまうことが、
逆に君の愚かしさを露呈してしまう状況になりやすいので
たのしんでいるのだ。
また、このような反論を予想してあえて
>>57のようなレスを
かくという高度な技(釣り)がある。しかし阿修羅君は、意志薄弱の
スレでそれもできないことが判明した。したがって阿修羅君は
悲しいかなピエロ・・。
60 :
阿修羅無限大落とし:01/12/22 03:03
>>59 (一段落目の文章について)
沸いてる模様で、微妙に異なる見解を同時に打ち出しています。
(二段落目の文章について)
脳内マジョリティーに基づいて推論するのは説得力を欠きます。
(三段目の文章について)
判別のつかないことについて、自分にとって都合の良い方を
取るのは余り賢く見えません。
結論:馬鹿が一人釣れました。
61 :
考える名無しさん:01/12/22 03:18
>>60 君は、俺の1段落目の最初の文
「(まあ君のお遊びにちょっとだけつきあおう。) 」のサイン、
2段落目の「いちいち反論してしまう」の部分
3段落目の「釣り」ということから
俺の文が
「ストレートに反論すると、馬鹿丸出しが明らかになる釣り」
であるという意図がわからなかったのか・・・。
すぐ察しがつくとおもったが。
見事にひっかかってる。(汗
政治思想板のヤマトに訓練してもらえ。(w
まあ、ピエロはどこまでもピエロだからしょうがないか。
62 :
阿修羅無限大落とし:01/12/22 03:28
>>61 ・・・アフォか。
>書き込み主体の思考がそのレス内容には反映されるのは事実である。
という君の主張に即した形でレスしたのが解ってないのね。
>>59-60を合わせ読むことで、君がどういう思考の持ち主かが
明らかになることを狙ってレスを付けたんだよ。
少しは恥ずかしがってくれよん。
見事にひっかかってるとか書いてるし
大丈夫か。
63 :
阿修羅無限大落とし:01/12/22 03:35
そうか、解った!
>書き込み主体の思考がそのレス内容には反映されるのは事実である。
> キャラを演じていても、思考過程があらわになる可能性が高い。
ていう風に同じ様なことをわざわざ二回書いているから
これはキミ自身の本当の主張の現れだと読みとっていたけど
こういう論理的な文章を書けない厨房が犯しがちなミスを
敢えて組み込むことにより、俺を騙そうとした訳か・・・
いやあ、君って凄いね。
マイッタよ。プッ
64 :
考える名無しさん:01/12/22 03:47
>>63 >明らかになることを狙ってレスを付けたんだよ。
やるじゃないか、阿修羅。
それにもかかわらず
「ストレートに反論したら、おまえが
たいしたことないってトラップ」には、
あえてひっかった、てか?
テクニシャンだね、その自己犠牲精神は。(w
まあ、ちょっとはみなおしたよ。(w
>書き込み主体の思考がそのレス内容には反映されるのは事実である。
> キャラを演じていても、思考過程があらわになる可能性が高い。
それと、マジレスで言っておくがこれはおなじないようじゃないぞ。
書き込み主体の思考がレス内容に反映されるのは一般的事実な。
だが例えば、上手にキャラをつかいわけるもの、
思考過程まであらわにはしない場合もある。
おっとマジレスしちまったよ。(w
もはやトラップは芸術ではないしな。
66 :
阿修羅無限大落とし:01/12/22 03:55
>>64 なんだ、もう遊んでくれないのか。
63に賛同して「その通りだ見抜くのが遅いな(w 」
とか書いてくれたら、コテンパンに出来たんだけどね。
まあ、煽っても沸くタイプじゃないみたいなんで
止めますよ。
67 :
考える名無しさん:01/12/22 04:05
>>66 まあ、阿修羅君もがんばりたまえ。
くれぐれも今回みたいに足をすくわれんようにな。(w
68 :
阿修羅無限大落とし:01/12/22 04:16
哲板に蔓延る厨房の皆様へ
哲学的知識0の論戦やらかしても僕ぁ良いと思ってます。
でも、やるときは僕らが今やらかした様に
ドンドン話を進めましょう。
同じ論点に刷り合う可能性は無いのに拘るのは無駄です。
死刑制度スレみたいなのは、ダメです。俺的に。
痛すぎます、救いようが有りません。
このスレ読んで勉強して下さい。
69 :
阿修羅無限大落とし:01/12/22 04:19
/ ) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
./ / | ウッソで〜す!
/ / \ / ̄ ̄ ̄
/ /  ̄|/ ̄ ̄ ̄ ̄| スレ潰し成功だ!
./ ( ))) , -つ \
/ / ´Д`) ./__ノ  ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄
/ \ / / ⊂_ヽ、
.| へ/ / .\\ Λ_Λ
| レ' /、二つ \ ( ´Д`)
| /. . > ⌒ヽ
/ / / へ \
/ / / / \\
/ / レ ノ ヽ_つ
/ ノ / /
_/ / / /|
ノ / ( ( 、
⊂ -' | |、 \
. | / \ ⌒l
| | ) /
ノ ) し'
(_/
阿修羅の「勘ぐり」ってなんとなくアノ人っぽい…(w
71 :
考える名無しさん:01/12/22 12:33
漫画絵をパラパラさせて、みんなで商品価値を創り出そう!!
阿修羅くん、総体的かつ相対的につまらん。
ネタばらしが早すぎる。
らげは面白かったぞ。
73 :
考える名無しさん:01/12/24 02:15
晒しあげ
74 :
stoner ◆r4fKZlYs :01/12/24 03:12
芸術も哲学もやってる本人にはそのつもりはないってところが似てる。
前に、画家(絵だけで生計を立ててる人)に向かって「画家」って言ったら注意された。
「俺は芸術なんてやってるつもりはない」だってさ。
哲学だって
「おっ今俺は哲学してるな」なんて思わんでしょ?
哲学者も芸術家のような感性をもっていればいいのに。
思考は感性をさまたげ、慣習も感性をさまたげる。
一般人でも哲学者でもないところに芸術家がいる。
芸術家になるには何もしなければいい。
何もしなければ考えてしまう哲学者はだめだけど、
行為も思考もない状態、感覚だけが人間的意味をもたず
浮遊しているぼーっとした時間が芸術家には不可欠だと思う。
感性を育てるこうしたトレーニングは禅の効用とは少しずれるんだけど。
76 :
考える名無しさん:02/01/13 03:40
ぼーっとしてると感性が育つのですか?
>1
ひとことで言えばな、
ベースに哲学の存在しないよなものは「芸術」とは呼ばない、
ただの「ワザ」でしかない。
>>76 なぜぼーっとしてると感性が育つか。
人間の体験は感覚、思考、理解からなります。
感性を育てるには感覚と向き合うことが大切です。
というのも、思考や理解への努力とによって純粋に感覚を受容できなく
なるからです。ところで、慣習の中にいるときは人は思考から逃れられません。
そこで、動かないでぼーっとするんです。これが感性を育てる第一歩だと
思います。
>>77 それはそうかも知れないけど、哲学を意図した芸術が全てじゃないよね。
>>75 ×思考は感性をさまたげる
○慣習は感性をさまたげる
だと思われ。
芸術家だってただぼーっとしとるわけじゃなかろう。
概念芸術を知らんのか?
>>79うーん、じつはそこを突かれると痛い。一応、私なりに弁解します。
概念芸術とか思考の要る作品を作っている人はたしかにいます。
ただ、そういう芸術にも感性が肝要なのは当然のこと。
そして、感性を身につける効率的な方法として思考しないで
感じるという事を重要視したいのです。
思考によって感性が上昇しないかというとちょっと微妙ではありますし、
むしろ思考による感性が独自の新しさを生むという考えが可能です。
そうはいっても、思考ばかりでは、対象を感覚すること、つまり受動性を
忘れがちになると思うのです。思考の悪いところは、感覚の受動性を
忘れる事だと思います。思考というのは自律的に感覚を変容させ
ときには構造をねじまげます。絵の解釈学が絵のよさをころすといった
議論もこれに含まれます。要するに、思考は感性をさまたげるというのは、
考えていると眼前への注意力が失われる、ということです。
>>80 >思考の悪いところは、感覚の受動性を忘れる事だと思います。
意味不明。
ここでいう「感覚」とは例えば何を受容するものなの?
>>81 感覚は五感のことです。
悩み事でいろいろ考えている時に親友の声に気付かないという事例は、
思考で感覚が妨げられている例です。
感覚が受動的というとき、思考の能動性を前提にしています。
邪推は能動的に感覚を捻じ曲げてしまう思考の一つのあり方です。
思考しすぎるということは能動的に感覚を変容させ、
色眼鏡で外界を見ることになると思います。
こうした状態では何も新しいものを感受する事ができません。
そこで思考を停止することが重要だと思うのです。
83 :
考える名無しさん:02/01/13 09:52
感覚の受動性なんていうカント哲学の古い枠組みでものを考える
時代錯誤が、哲学をだめにした、なんていってみたくもなるけどね。
84 :
考える名無しさん:02/01/13 09:53
少しは最近の認知科学関係のことでも学んでね。
85 :
考える名無しさん:02/01/13 10:33
>>82 悩み事の例は、意識が内面に捕らわれている時の思考の例。
感覚の受動性を言いたいにしろそれは、自意識を保留して外部に思考させるという点で「思考」なのだ。
そこには、意識の志向性の制御が働いており、「思考停止」によって新しいものを感受する、というのは
あまりにロマンティックな物言いと思われる。
>>78 >哲学を意図した芸術が全てでない
意図しない芸術は、芸術が制度であることを忘れた凡庸な制度に陥る。
>>84 感覚は外界へ意識を走らせる(サーチする)ことで成り立つ
という意味で能動的だとは思いますが。
認知科学には興味あります。まだまだ勉強不足でしょうね。
>>85 >感覚の受動性を言いたいにしろそれは、自意識を保留して外部に
>思考させるという点で「思考」なのだ。
なるほど、そういう捉え方ができますね。これと私の考える事とのつながりは
私には不明ですし、私の意見をさらに弁明して返答にします。
思考は必ずしも感覚に対する思考ではありません。例えば、
周囲の環境と独立してさまざまな対象を自在に想起できます。
こうした自律的思考は内的な思考とされますが、この内的思考
というのは感覚との独立性によってしか実在が確信されえない幻
だと思います。そういうわけで私は内的思考/外的思考というのは
思考の分類として不適切だと思います。少し乱暴に言えば、
感覚と思考のつながりは解釈次第のもろいものという事です。
そしてさらに、思考と感覚との接合領域では思考と感覚とが
ほぼ同一のものとなっています。ですから83さんのおっしゃる
ことはもっともです。感覚は受動的だとしても、思考との接合
によりつねに能動的なものとなります。そしてこの能動性を
思考する本人は受動性と区別して判定する手段を持たないので
結局外界に対しては受動と能動があやふやになります。
(内的体験における受動とは気分・感情といったもののことです。)
続きですが、思考と感覚、能動と受動はあやふやですが、
ある程度区別する事に一つの重要性があると思います。
例えば、勉強中に他の事を考えると集中できない事があります。
これは思考のせいというより「無関係な」思考のせいです。
では、映画を見る時に深読みしすぎて逆に深い理解が得られない例、
ある具象絵画作品の内容をそこに描かれているものの単なる配置として
しか理解せずに「どう描かれているか」に目を向けようとしない
絵の素人などはどうでしょうか。
どちらも思考は対象と関係しています。ただ対象に「期待されている」
思考からは外れています。前者は考えすぎの例です。
では後者は考え不足の例でしょうか?必ずしもそうではありません。
考えない事で初めて絵画作品を色面として捉える事が出来たかもしれません。
勝手な解釈が意識の大部を占めるよりは素直さが一番、ということです。
>>82 >感覚は五感のことです。
具体的に「五感」で何を受容するの?
>色眼鏡で外界を見ることになると思います。
何の思想にも染まっていない自然で純粋な状態とはなにを指してるの?
89 :
考える名無しさん:02/01/14 00:40
1のような「藝術」観は日本ではむしろ主流に近いんじゃないか。
だから日本人の造形芸術作家には、良い意味での「思考」すら育たない。
感性と知性の関係の誤認については、哲学者にも責任あると思うけどさ。
>>88 五感によって外界の情報を知りますし、外界の情報を知る全ての入り口が感覚です。
注意深い観察や行動によってさらにその詳細を知る事ができます。
注意は意識を動かす事によるサーチ、行動は身体を動かす事によるサーチです。
注意と行動は能動的に感覚を変容させます。その結果、最初は漠然としていた対象が
明瞭に理解されたり新しい対象が発見されたりするようになります。
思考(や理解への努力)によっては情報を解釈することができます。
思考は、対象に直接働きかけるのではなく、対象を概念化し、
記憶(や感覚)の参照を行いながら、概念操作で情報を発見します。
ここには情報を思考により生成する為の思考原理が作用しています。
ところで二つの互いに矛盾した思考原理をもつ一人の人間が可能です。
思想的矛盾には一つの要因として思考原理の矛盾が働いていると考えます。
いかなる思考も、互いに矛盾した二思想の可能性に晒されているので、
またこの傾向が強いと考えますので、これを思考の悪い面としたのです。
私の考えは、「何の思想にも染まっていない自然で純粋な状態」を
想定しなくても可能です。思考レベルが上がっていると思考の恣意性という
フィルターに通して情報摂取してしまうということなので、
何も思考レベルをゼロにしなくてもいい訳です。
>>88 具体的に感覚が何を受容するかというのは曖昧です。
視覚でいえば光の2次元パターンのようなものでしょうが、
もう少し的確な表現をするならば、
認知過程の初期プロセスの一つが感覚です。
そこで初期性とは何かという事ですが、対象について
深く知らない時の事だと考えます。
対象について知るきっかけとして感覚器官の空間的位置に
対応付けられた情報が存在するので、感覚器官との
対応性を理由に初期認知過程を感覚と呼ぶ事が出来ます。
大真面目だけどなんか馬鹿っぽいね。
<訂正>
対応性を理由に初期認知過程を感覚と呼ぶ事が出来ます。
→対応性を理由にある種の作用を統一的に総称して感覚と呼ぶ事が出来ます。
94 :
考える名無しさん:02/01/14 14:48
>対象について知るきっかけとして感覚器官の空間的位置に
>対応付けられた情報が存在するので、
>感覚器官との対応性を理由にある種の作用を統一的に総称して感覚と呼ぶ事が出来ます。
これは遠近法的布置に捕らわれた「感覚」じゃないの。
「対象について知る」前に、出来事は起こってしまう。
他と共に生成する主体がまた他者として見出され、事後的に対象がまた発見されるのでは。
「感性が育つ」というのは、「対象」と「主体」の区別が外れた状態で感受できるように
主体を「初期設定」される状態へ仕掛けやすくすることが必要になるよね。
少なくともその「育った感性」が表出されるのは複数の思考に晒される場なのだから。
それともその「感性」の主体と「表出」する主体を分けて考えてるのかな。
「天衣無縫」な芸術家を育てるプロモーターをイメージして。
>「感性が育つ」というのは、「対象」と「主体」の区別が外れた状態で
>感受できるように 主体を「初期設定」される状態へ仕掛けやすくする
>ことが必要になるよね。
この部分がまず分かりません。詳説下さい。
>これは遠近法的布置に捕らわれた「感覚」じゃないの。
たしかに「対象について知る前に出来事は起こってしま」います。
しかしそれでも私の考えを主張できると考えます。
「対象について知る前に起こる出来事」というのは理解・思考以前の
体験という事です。体験は思考、理解、感覚に分けられると考えます。
しかし感覚と思考と理解はそれぞれ体験の関数として別個に曖昧に
認識されるものなので、それら相互の区別・関係はじつに曖昧です。
しかし体験から感覚を写像する関数の性質をある程度一般化できる
と考えます。まず外在性と内在性を分ける写像について説明します。
体験のある規則として体験の時間的接続の一定した対象が存在する
ことが挙げられます。こうした対象のうちもっとも他の対象を
含んでいるものが外界として認識されると考えます。そして、同時に
内在性(視点)も規定されます。体験の一定した連なりのなかのどこを
さまよっているかが時間の関数ですが、そのどこをさまよっているか
のクラスが自己の感覚器官の位置のクラスと同一と考えます。
これは必ずしも身体的位置ではないのですが、ともかく自己の認識
がこうして説明される訳です。要するに、感覚は、体験の関数である
「外界」とさらに体験と「外界」の関数である「位置」との関数
である値のことと考えます。これで考えた時、例えば視覚の場合ですと、
この値が「景観」を表すか「対象のこちら側から見える面の集まりの
一種」であるかは「感覚」の定義上問題になりません。
他との軋轢や狭窄に対するアンチテーゼやなんかを自分の中に見つけて
こそ、それが感性というものだと思うんだが。
そこで付和雷同しないことが肝要で。
1は思考=言語による思考を色眼鏡で見る世界と言って断罪しているが、
思考は必ずしも視野狭窄をもたらすものではないでしょう。
視野や感性を開放する考え方もまた思考によるものであったりするんだよね、これが。
>>96 たしかに思考を軽減する努力によっては根底の思考の呪縛から
逃れられず、その場合思考により感性が開放されることがあるでしょう。
私は、思考しすぎることが悪いという事とぼーっとする事は良い
ということを最初にただ述べただけです。
98 :
考える名無しさん:02/01/14 18:12
>>「感性が育つ」というのは、「対象」と「主体」の区別が外れた状態で感受できるように
>>主体を「初期設定」される状態へ仕掛けやすくすることが必要になるよね。
>この部分がまず分かりません。ご詳説下さい。
「感性が育つ」というとき、「感性」が主語になるが、その前に
「感性を育てる」ときの主体、つまり能動的な主体の操作が必要になるのではないか。
意識が向かうところの対象が主体の身体的な特徴により限定されること(猫背で視線が下に向きがちである、など)、
意識が形式よりも意味内容を読み取る志向性があること
(ボーっとしているつもりでも街に氾濫する情報から意味を読み取ってしまう、
それによって「無関係な思考」を始めてしまいがちである、など)。
これらは「区別」という力点から外れますが、「区別」ということでいうと、
「主体」が無限遠点との鏡像関係という一つの関係において安定してしまう、
「客観的世界」の超越的視点として安定してしまうとき、「対象」との関係によって
事後的に規定される「主体」はそ生成し難い。こういう「区別」。
これらはいずれも「自然状態」である。
そういった「自然状態」の感性の癖、偏向を検証し、より他なるものに開かれた状態へ導き、安定させる(設定する)。
また、「ボーっと」しようとした時には、その「設定作業」に費やす意識的な操作がより少なくなるようにする。
・・これらの作業が、「感性」を手放しにする初期の段階で必要になるのでは、ということ。