1 :
考える名無しさん:
考えてたらわからなくなってきました。
わかりやすく教えてください。
2 :
666 ◆xenNZQbg :01/11/24 09:57
あるものを
自己から観察するか(主観)
他の見地から観察するか(客観)
ではないのか?
3 :
考える名無しさん:01/11/24 10:10
>他の見地から観察する
それは主観では?
4 :
666 ◆xenNZQbg :01/11/24 10:33
なるほどそういうことか・・・
そうなると全てが主観になってしまって
客観も何もありゃしない
「己が理解する自己でない他の自己の見地」これこそ客観であるだとどうかな
客観というのは自分が捉えた対象同士の関係についての記述。
主観というのは自分が対象をどう捉えるかについての記述。
客観というのは取材(対象化)して得た資料をどう構成するかで、
主観というのはどう取材(対象化)するのか、ではないでしょうか?
自分および他人が見たこと聞いたことが客観。
自分および他人が思ったこと感じたことが主観。
どもです。大分寒くなってきましたね。
>>1 主観ー客観の区別あるいは対立は哲学(認識論)の中でも基本的なものですか
ら、混み入った議論も出てきますが、さしあたり用語上は
主観=知る働き
客観=知られた対象
ということで宜しかろうと。
昨今は主観主義(すべては主観的であるという矛盾した主張)が大はやりで
「客観は主観に依らず、それ自体で存在する」
などと言うと、皆びっくりするようですが、少なくとも科学の世界では研究対
象が客観的な存在であることは当然の前提(かつ要請)とされており、これを
<客観性の公準>と言います。
8 :
考える名無しさん:01/11/24 20:00
9 :
初心者な通りすがり:01/11/24 20:06
11 :
現存在009:01/11/24 23:09
主観:ある対象について自分自身を基準として認識する働き。もしくは、その働きをする人。
客観:主観から独立してある、普遍的なもの。主観による認識の対象を客観と呼ぶことも勿論ある。
主観的:自分自身の基準で、対象に向かうさま。
客観的:共通認識を意識しながら、対象に向かうさま。
哲学の文脈では、「客観」は、自体存在、客体的存在、即自存在等、つまり
主観もしくは意識等から切り離されたものとしての意味で用いられることが
多い。主観ー客観二元論の問題は、多くの哲学者が取り上げ、悩み、逝っている。
12 :
考える名無しさん:01/11/24 23:11
自分の頭で考えているもの=主観
自分以外の頭で考えているモノ=客観
主観=客観になる時もあってもいいんじゃないっすか。
13 :
びたみん ◆BWLMxAG. :01/11/24 23:17
主観 観るものに依存する、フィルターとして色眼鏡を通っている。
客観 主観に依存せずそれ自体である。
14 :
考える名無しさん:01/11/24 23:22
>>13 一つの頭で主観も客観もあるってことでいいのかな?
(煽りではなく、純粋に疑問。)
15 :
現存在009:01/11/24 23:23
主観=客観はない。
自分以外の頭で考えているものは、他の主観であって、客観では決してない。
対象物(客観)として、ある人の意識(主観)が観察されることはある。
しかし、これは決して主観=客観を意味しているのではない。
また、主観的に考えた結果と、客観的に考えた結果が重なることもある。
しかし、これもまた主観=客観ということにはならない。何故なら、その
結果に至る働きかけが全く異質なものであるからである。
16 :
びたみん ◆BWLMxAG. :01/11/24 23:25
>>14 ん?ごめん。質問の意味が良く分からない。
どういうことかな?
17 :
現存在009:01/11/24 23:26
>>13 その「主観」の説明は、人が客体的存在(客観)を認識していると
思っている時に、その対象そのものと、自分の認識したものが、
全く同じ物ではない、同じものであるとは言えない、ということを
カント的に説明するものでしかない。主観の説明ではない。
18 :
考える名無しさん:01/11/24 23:29
人が考えたことが主観であるとすれば、
ナニが客観を作り出すのだ?
よくわから〜ん
19 :
びたみん ◆BWLMxAG. :01/11/24 23:34
>>17 む。なるほど、失礼しました。
>>18 その文脈で言うならば客観は主観の絶対的な届かなさとして
仮想されるんじゃない?
主観=認識論
客観=存在論
21 :
考える名無しさん:01/11/24 23:42
客観はそれなら存在しないのか?
仮に想定されるだけなのか?
わから〜ん
22 :
考える名無しさん:01/11/24 23:44
客観と、主観は、観は同じでも
関係のないモノ同士なのかい?
さらにわから〜ん
客観は、自分が社会的に一般的であると考える基準をもとにする...
ってことじゃない...
厳密に社会的に一般的な基準は、あくまで個人的に作り上げたものだけど...
既出か...
24 :
考える名無しさん:01/11/24 23:49
寝るぞ。わからん。
25 :
考える名無しさん:01/11/24 23:53
一般的には客観は主観の否定として、つまり自己中でない
ものの考え方を指す・・・と思う。
26 :
正助 jtws003.zaq.ne.jp:01/11/25 00:06
>>22 客観は、
中世スコラ哲学、ロック以前の中世哲学では、「投げられたもの」としてあったんじゃいかな。
志向的な対象を指す、という意味で、主観と多いに関係していた。
デカルトも客観を「観念にある表層的存在」としてたみたいだし。
ロックはこれを、初めて、観念と一線を画する物体的な実体としたのではないでしょうか。
(しかし、ロックは主観の概念を確立出来ていなかったようですが・・・)
それで、主観と客観を完全に対立概念としちゃったのがカントではないか、と思うのですが。
客観的な実体の法則が、悟性のカテゴリーで決定される(らしいね)
で、フィヒテはカントの不可知の物自体の概念を除去し、自我による客観のテーゼを主張した。
シェリングとかヘーゲルの考えは難しいのでよう分からんけど、とにかく
哲学史の中でも定義がえらく変わってるようですね。今更言われるまでもないと思いますけど。
で、今は
>>11の現存在さんの言うように、
客観は「主観の認識、またはその対象」「主観とは独立に存在すると考えられるモン」
という辞書通りの考えでイイと思います。
27 :
正助 jtws003.zaq.ne.jp:01/11/25 00:08
あったんじゃいかな→あったんじゃないかな
でした。
28 :
現存在009:01/11/25 00:10
>>21 客体的存在という意味での「客観」は、現象学的には、
「ある」とも「ない」とも言えない。
>>25 「客観的」な考え方の説明は確かにそう。先に述べた通り
>>11。
しかし、哲学の文脈で重要なのは、そんな一般的な意味での「客観的」な
考え方、ではなく、自体存在・客体的存在という意味での、「主観から
独立した存在」のことを指す。この世は意識が作り出したものなのか、それとも
(自我も含めて)全て客体的存在からなるのか、それともデカルトの言うように
二元的に構成されているのか。むうう、哲学って、本当に難しいですね。
29 :
mimesis:01/11/25 00:13
>>20 [主観/客観]=認識論
[物自体]=存在論 ではないかと思うのですが?
「 客観(認識の対象)」にならないのが「物自体」。
「主観/客観」は、Subjekt/Objekt(独語)に対して
西周が作った訳語ですね。
30 :
現存在009:01/11/25 00:13
>>26 ロックは、「志向的」という考え方はしていないですよね。
客観的な、自体的存在はあるものとして、それが「所与」される、
とこう言っているわけです。
デカルトは、主観に関して、「心」=「意識(志向作用)」と捉えて
しまっていた。
31 :
現存在009:01/11/25 00:16
>>29 そう、
主観=認識論
主体=存在論
ですね。
32 :
考える名無しさん:01/11/25 00:20
>>26 よく分かったんだけど、じゃあヘーゲル以降ではどうなのよ?
それと皆もこのくらいの平明な文章で説明してよ(^^)
33 :
びたみん ◆BWLMxAG. :01/11/25 00:22
主観と主体の違いはなんとなく分かるんだけど、
客観と客体の違いが良くわかんないや?
34 :
考える名無しさん:01/11/25 00:31
>>32 認識と客観の一致に固執する時代はヘーゲルで終わった(?みたいだし、
ヘーゲル以降はそう考慮に入れんでもいいんじゃないかな。
詳しい人が解説してくれるでしょ
35 :
考える名無しさん:01/11/25 00:35
主観は主観
客観は客観的でしかない
36 :
正助 jtws003.zaq.ne.jp:01/11/25 00:35
客体は客観の後者の意味を示すものではないでしょうか。
「主観の認識の対象」ではなく、
「主観の作用とは無関係に、独立して存在すると考えられるモノ」の方。
敢えてその二つを比較するとすれば、
主観の対象と、主観を離れた独立存在、ってことで。
37 :
正助 jtws003.zaq.ne.jp:01/11/25 00:36
38 :
びたみん ◆BWLMxAG. :01/11/25 00:40
>>36 なあるほど。そっかそっか。あんがと。
正助さんのレス、とても勉強になるよん。
じゃ次のネタフリだ
主観=ノミナリズム
客観=マテリアリズム
40 :
考える名無しさん:01/11/25 00:55
おはようございます。
ノミナリズムー唯名論。中世哲学で普遍を実在とみなした実念論に対して、
普遍は固体から抽象した名にすぎないとする理論。
マテリアリズムー唯物論。実利主義。物質(偏重)主義。だそうですね!
42 :
考える名無しさん:01/11/25 09:08
主観も客観もねーよ
ただ我と世界があるだけ
43 :
考える名無しさん:01/11/25 16:27
我と世界に分けたとき、「我」が主観的な存在で、「世界」が客観的存在。
フッサール的に言えば、意識する「私」と意識された「世界」です。
こういう関係性が哲学史上の問題。
ただ、世界はみんなが見ている中で築かれているというのが、間主観性の考え方(相当省略した言い方ですが)。
関係性っていうなら他に問いかけが(主観と客観)以外にあるんですね!
>>33(びたみんさん)
>客観と客体の違いが良くわかんないや?
そうですね。そこがポイントであり、
客観=知られた対象
が
客体=対象自体
とどう違うのか?これが<認識>と呼ばれる営為の始まりです。
そして、両者の一致を<真理>と呼ぶのです。
カントは「我々が知り得るのは現象(対象の表象)であって対象自体(正確
には物自体)は知り得ない」と言って、不可知論を採用した。
にも拘らず、ニュートン物理学のような認識を「客観的」と呼ぶから、客観
と言っても、万人が認めるという点はあっても、結局は主観的でしかない。
けだし、主観的観念論の卓見と迷妄は共にカントから始まったと言われる所
以です。
(再度)主観主義・現象主義は現在も大はやりで、
「真理?正義?そんなものは時の勢い。テロリストを撲滅せよ!」
おおいにOFWに反論する。
主観と客観は一致しない!絶対にしない!
もしそれが「一致」するにせよ、それは言わばただの投影なのだ。
客観に主観を投影するのが観念論であり
主観に客観を投影するのが唯物論である。
そしてこれらは、いずれもが投影による共同幻想である限り、ニーチェ的な意味で「虚偽」である。
どちらも拒むとすれば、それは、投影の効果や影響を最小限に見積もる操作を
我々自身がしなければならない。
だがそれは不可能だ。科学なき主観は原始人だし
主観なき科学は野蛮人である。
したがってのこるは「バランス的操作」これにつきる。
投影はいわば醤油だ。時々ふりかけろ。だが毎日呑むやつはしんじまえ。
>>46 お前な、そんな凡庸なことしかいえねのかよ?
何がバランス的操作だよ、ヴォケ。
お前のは、言ってるのは、誤謬可能性を常に持つ
ニーチェ的な意味での
解釈の妥当性を問いつづけるってだけの話じゃねえか。
主体と客体の関係性を問うのは誰なんだよ?
主観と客観の関係から世界を構成すんのは、
誰なんだよ?
主観も客観もない、ただ世界があるだけである。
>>47 お、なかなかイイつっこみ!
46の答えが楽しみ!!
50 :
考える名無しさん:01/11/26 21:03
51 :
考える名無しさん:01/11/26 21:15
主観も客観も自分が認識してるんだろ。
52 :
666 ◆xenNZQbg :01/11/26 21:24
客観は主観には無い所もある
客観は本質的に主観であり
主観は客観の位置をつけるもの
イコールでありイコールでない
と思います
>>52 よくできたね、坊や。
でも、君の頭では、
ついていけない議論だから
黙っとこうね。
54 :
666 ◆xenNZQbg :01/11/26 21:31
主観をAとして
客観をAであるがA以外のもの
とすると
双方に主観と客観が存在するね
解りにくい・・・
科学なき主観は原始人だし
主観なき科学は野蛮人である
↑
これがよくわかんない藁
56 :
考える名無しさん:01/11/26 23:05
結論から言うと客観が完全に観測されることはない
量子力学における不確定性原理より
ある粒子の位置を一つに決めようとするとその運動が無限大になり、
今度はある運動を一つに決めようとすると位置が無限に広がってしまう
つまり一つの位置では無限のスピードを持って運動しているため、
光速のシャッタースピードで写真を撮っても無限の残像しか残らない
ようするにその粒子が実際にどうなっているかは絶対にわからないと言うこと
マクロ的にはこのような効果は0に限りなく近いが全くないわけではない
まとめると近似的には客観は存在するが絶対的に存在するとはいえない
57 :
考える名無しさん:01/11/27 00:29
>>56 このスレッドでは、観測問題も俎上にのせるの?
>>58 回避できるのならしたいところであるが、
現象を追っていくと必然的に観測問題に行き着かないか?
まぁ現象を離れた「客観」なるものを論じてもいいが、
そうなると形而下の範疇を越えてしまい、あとはいかに相手を
説得するかという問題になる気がする。他に良い智恵はないだろうか?
そんなことはない、という反論を期待。
59 :
考える名無しさん:01/11/27 00:54
ていうか、1は主観/客観問題の何が理解できないのか
問い詰めたい。
60 :
考える名無しさん:01/11/27 01:34
>>58 いや、そこまで物理学的なハナシにしなくても、認識論の段階でじゅーぶんだと思うの。
ってか、物理学とか自然科学って、方法論的に、打ち立てた法則が絶対に普遍的であると示すことは不可能じゃん。
日常生活とかで「客観的」ならそれでイイんだろうけど、哲学でそれを「客観的」と断ずることはできないんじゃないの?
だから、物理学的な意味での観測問題を持ち出しても仕方ないと思う。
ドキュンでスマソ。
>>59 どーい。
61 :
考える名無しさん:01/11/27 01:43
>>56 >客観が完全に観測される〜
この言い方よー解らん。
観測されるのは事象であり、そこに客観を見出すのは厭くまで主体。
原理的に言えば主観から客観を構成しなけりゃなんない。
言う通り、そこに相互主観や間主観性が近似としてあっても、主体(観測者)
と客体(対象)の関係が問題になる。
でも「客観」が前提としてあると考えるつーのは唯物論の枠中だぎゃ。
うちは、そこを保留にしときたいなぁー。
フッサール研究者に一席ぶってほすぃー。
>>60 現に量子力学で観測者が観測系と不可分だって問題になってる。
この領域って哲学にとっても近いよ。
てか、現象学がとても意味をもってる。
62 :
考える名無しさん:01/11/27 01:48
>>61 ありがとうございます。60です。
どのような意味で哲学、現象学と密接に関連するのか、教えて下さいー。
こういう話って自然科学からの見地でみたらどうなんだろう。
やっぱ呆気無いんだろうな。
論点ズレ、スマン。
64 :
666 ◆xenNZQbg :01/11/27 02:03
59
主観・客観の違い
主観は客観は何処にあるかまたはそれは理解できるのかじゃないのか?
>>64 >主観は客観は何処にあるかまたはそれは理解できるのかじゃないのか?
何がいいたいのかサパーリわからん。
厨房はすっこんでな。
>Rage@氏
OFW氏(
>>45)は真理が認識できるなんて言ってないよ。
>〜不可知論を採用した。
>にも拘らず〜
って言ってるだけ。
>>62 要は主体と客体の関係と認識を考える事。
>>47氏が既にネタ振りしてる。
科学で言えば観測問題がまさに同様の構成をもってる。
この板には詳しい人が居るので、あまり稚拙な知識披露したくないですぅぅ・・・
>>64 貴方、言葉の意味解っていってます?
67 :
666 ◆xenNZQbg :01/11/27 02:08
うむ
理解してるよ
61の測されるのは事象であり、そこに客観を見出すのは厭くまで主体。
原理的に言えば主観から客観を構成しなけりゃなんない。
言う通り、そこに相互主観や間主観性が近似としてあっても、主体(観測者)
と客体(対象)の関係が問題になる。
でも「客観」が前提としてあると考えるつーのは唯物論の枠中だぎゃ。
ここに答えがあるよ
68 :
考える名無しさん:01/11/27 02:11
>>67 >ここに答えがあるよ
何が言いたいのかよく解らないです・・・スイマソ
70 :
186改め666 ◆xenNZQbg :01/11/27 02:14
引用も何もなく考えてますよ
其の文のの中に答えがあるんだけど今穿り出してます
71 :
666 ◆xenNZQbg :01/11/27 02:18
物体が2つ以上無ければ主観 客観の関係は成り立たない
あくまで其の物体は思考できる事を前提とする
72 :
考える名無しさん:01/11/27 02:22
>>66 思弁的な領域で主客対立の問題に近付いたのが、現象学。
唯物的な物理科学の領域で主客対立の問題に近付いたのが、量子力学。
……と言うことでしょうか?
前者は主題的に、後者は結果的に(=観測という方法上やむなく)という違いがあると言っていいのでしょうか。
73 :
考える名無しさん:01/11/27 02:23
>>72 ちょっと、難ありだけど良いと思いますよ。
実際に現象学の入門書でも読んでみる事を勧めます。
量子力学の観測問題は測らずも現れた問題です。
其れまで観測系と観測者は独立していて相互に影響し合うとは
考えられていなかった。
が、思考実験ではなく実際に観測されてしまった。
観測者は対象を知るために対象に干渉しなければならず、
ミクロな領域では対象に影響を与えてしまう。
果して観測された対象は、「本来の対象」なのか?
今、科学はこの部分に答えを出そうとしてます。
これは科学と未分化の頃の哲学的問題ではないでしょうか?
例えば歴史認識に置換えましょう。
私が認識する歴史は私と言う視点によって立ち現れる。
が、厭くまで私の視点によって現れる歴史。
果して歴史には本来の姿と呼ばれるモノがあり得るんでしょうか?
>>72 最後に。
現象学が影響を与えた領域は相当広いです。
どなたか詳しい人に聞くか、文献を紐解いて下され。
>>74 どうもでした。
>例えば歴史認識に置換えましょう。
>私が認識する歴史は私と言う視点によって立ち現れる。
>が、厭くまで私の視点によって現れる歴史。
>果して歴史には本来の姿と呼ばれるモノがあり得るんでしょうか?
ずれるかもしれませんが、ディルタイ⇒ガダマーの流れでそんなのもありましたね。
ここでの歴史相対主義の克服は、歴史性を逆手に取ったような解決法(←こんな単純な言い方しちゃいかんが)だったような気がするので(ウロ覚え)、
そのまま量子力学に応用できないでしょうが。
ガダマーまだ生きてるの?
生きてたら101歳だよ。。。
>>61 御説ごもっともです。ハイ。客観→客体です。
観測問題から現象学(フッサール)への展開は私からもオネガヒ。
そう言えば、知り合いの物理屋さんの専門が量子論だったような気がするので、訊いてみよっと。
すいません、ちょっと教えて下さい。
俺は哲学知らないので、学問的基礎を前提とした
理解は多分できませんが、よろしくお願いします。
Q1:
我々が日常的に使う言葉としては、
主観=俺が知る(観る、思う)。
主体=俺。
客観=俺の主観の外にある”知る”。
客体=主観や客観に知られる対象。
主観的=主観が表われている。
客観的=俺の主観の外にある”知る”が表れている。
で、良いですか?
a「このラーメンは日本一美味い」
b「それはお前の主観的な意見だね」
A「どーよ、この俺の髪型、カッコ良くない?」
B「客観的に見て、すげー変だよ」
(ここでBはAからみて客「ビジター」である)
(ここでAから見て(主観)、Bの”知る”は客観)
で、良いですか?
Q2:
皆さんが、問題にしてるのは、
「客観」っていうけど、それは「俺」が頭の中で作ってるだけなんじゃないの?
であって、これは学問的にも決着がついていない。
だとしたら、日常的な言葉としては、あまり使わない方が良いでしょうか?
(以下は、あくまでも興味本位ですから、答えてもらっても
分からないかも知れないので、基本的に気にして頂かなくても結構です)
Q3:
主観的な存在の「俺」に意識される「世界」は、客観的な存在であるが、
「世界」は「俺だけ」が意識してる訳じゃないから、
「世界」は間主観性の見方から、<世界>となる。
「世界」が<世界>になってしまうことで、1行目の”客観的な存在”に
どんな影響があるの?またその時の「俺」への影響は?
そもそも「間主観性の見方」とは何ですか?
Q4:
「不可知論」とは、「ある客観」が、「ある客体」を”知った”としても、
その客体は、”半径1mだ”とか”100kgだ”とかの、”知れる範囲で知った”
だけで、<何ツーカ、もっとこう、それ自体の何ツーカ>までは<知り>得ない。
つまり、”知ってるつもり”であって<知っている>ではない、ですか?
Q5:
「量子力学」の問題は、観察対象があまりにチッコイもんで、
観察者が鼻息かけただけで、物理法則が変わってしまうかも知れないから、
ニュートン力学が客観的と言える程度に、客観的だと言えないということですよね?
科学者は、「見た訳じゃないけど、まあ、大体こんな感じの筈だ」みたいなこと
言ってると思うんですが、認識論ではそういう考え方はしないのですか?
80 :
考える名無しさん:01/11/28 23:10
我々のいわゆる客観的世界と名づけている者も、
我々の主観を離れて成立するものではなく、
客観的世界の統一力と主観的意識の統一力とは同一である、
即ちいわゆる客観的世界も意識も同一の理に由って成立するものである。
この故に人は自己の中にある理に由って宇宙成立の原理を理会することができるのである。
もし我々の意識の統一と異なった世界があるとするも、
此の如き世界は我々と全然没交渉の世界である。いやしくも我々の知り得る、
理会し得る世界は我々の意識と同一の統一力の下に立たねばならぬ。
>>79 >客観=俺の主観の外にある”知る”。
日常的にもそうではないでしょう。
「誰が何と言おうとそうなっている」というのが客観的ということです。
>A「どーよ、この俺の髪型、カッコ良くない?」
「カッコ良いかどうか」は事柄自体が主観的なのであり、哲学者カントが
「趣味の判断」(エステティック、感性)に属すると言ったように、それ
自体に客観的基準が存在しない種類の事柄です。
確かに、カントは「客観的」という言葉を「普遍妥当的」という言葉に置き
換えたために、正義をも趣味の問題にしてしまったようだ。たとえば、
「俺はビンラディン氏は”カッコ良い”と思うから、客観的に善だ。」
「いや、”誰もが認める善良な”市民を殺したから、客観的に悪である。」
「ビンラディン氏が”テロの真犯人”だという客観的証拠はない。」
「いや、”国民の代表”である大統領、首相やマスコミが認めたのだから、
客観的に犯人だ。」
>「間主観性の見方」とは何ですか?
万人が正しいと認めるという意味の「普遍妥当的」とほぼ同じ内容でしょう
が、より主観の複数性を意識していますね。
「この」世界はいくつあると思いますか?
また、誰もが同じ世界に住んでいるというのは、どうして分かるのかな?
>”知ってるつもり”であって<知っている>ではない、ですか?
ほぼ近いですが、「本当に」知っていると言えるためには何が必要かな?
知っているつもり=主観的思い込み と
本当に知っている=客観的理性(理解)
の区別こそが、古来からの哲学全体を貫くテーマ<無知の知>ですね。
「それ自体の何か」は直接的に掴めるものではなく、対象の在り方、関係、
本質を探究することで、客観的に確かなものとして理解されるのです。
>>80 西田哲学ですね。
>客観的世界の統一力と主観的意識の統一力とは同一である、
前の文からいきなり飛躍するのが、西田流直観(悟り)の立場かな。
82 :
OFW@区別モード:01/12/01 19:01
私は左翼でマルクス主義者で赤で革命家で
レーニン大好きで『国家と革命』を毎晩愛読
していて資本家を全員殺したいと思っていて
プロレタリア独裁を肯定していて建築現場の
労働者を師匠と思っていて吉野屋の店員は
激しく搾取されていると思っていって雅子さ
まの子供をいずれレイプしてから惨殺しよう
と思っているのです。
>>81 レスありがとうございます。
>「誰が何と言おうとそうなっている」というのが客観的ということです。
大体分かります。
例えば重力理論では、
「俺」は疲れてる時など、身体が重く感じる時があるけど、
そういう主観ではなく、計算と実験から重力の働きが分かると。
初めはニュートンに発見され、その後、多くの「俺」に認識されることとなり、
現在では教育を受けた人の殆どが客観的な事柄と認識してる訳ですね。
>「カッコ良いかどうか」は事柄自体が主観的なのであり・・・・
すいません、ちょっと例えが良くなかったです。
”客観的に”は”見て”にかかっていて、”変だよ(と思う)”には関係ないです。
要するに、”傍から見て”と同じ意味で使われることが多いと思うんですが、
確かに誤解を招く表現なのかも知れません。
善悪は主観がある程度の規模で共有された時、便宜的かつ暫定的に、
客観的な基準として採用されている気がします。
>また、誰もが同じ世界に住んでいるというのは、どうして分かるのかな?
個々人が認識する「世界」が、仮に256×256ドット256色のモザイク画だとして、
それらは大同小異だとしたら、その平均値らしきものが「普遍妥当的」、
それが多数の主観によって生成されることを強く意識されると
「間主観性の見方」によって説明される<世界>となる訳ですか。
>知っているつもり=主観的思い込みと本当に知っている=客観的理性(理解)
>「それ自体の何か」は直接的に掴めるものではなく、対象の在り方、関係、
>本質を探究することで、客観的に確かなものとして理解されるのです。
すいません、ちょっと良く分からんです。
例えば、重力の法則が分かっても、重力が働くメカニズムまでは分からないですよね。
1億回実験して同じ結果でも1億1回目で違うかも知れない。
宇宙物理学が究極まで進んでも、理解の仕方がそれだけでないかも知れない。
「我々が知り得るのは現象(対象の表象)であって対象自体(正確には物自体)は知り得ない」
から、いったんは理解したつもりでも、どこまでいっても客体そのものは理解できない、
という意味に解釈してしまったのですけど、もう少し教えて下さい。