101 :
言葉と悲劇:01/12/15 10:38
例えば、80年代以降のものよりイメージの大衆消費社会の中で、
重厚長大のマルクス主義では無い、ニーチェやフーコー式の多様な
接点としての新たな階級闘争とか知の立場とかを語る必要は社会か
ら求められていた。
そして日本でそれをやったのは浅田、柄谷。
哲学者は怠慢すぎた。
日本では哲学者じゃ
102 :
言葉と悲劇:01/12/15 10:44
>100
演奏家だって、それで金をとるには、創作の域に達しないといけない
が、京都学派の近代の超克の失敗以降、客観的には去勢されアマチュ
アのレベルで終わってる。誰もそんなものお座敷には上げないってこ
とだと思う。
小林なり柄谷なりの発言は後世に読めても、それに対して反応した哲
学者の文章はタコツボの中からで後世から読める作品には仕上がって
いない。資料的価値以外は。
104 :
言葉と悲劇:01/12/15 10:52
>103
彼らは意識してるよね。
ここで書いたのも一般論としてだから。
105 :
言葉と悲劇:01/12/15 10:56
平均が大庭健レベルで社会的にコミットしようと意欲持って哲学作っ
てもいいんだよな。というかそれが普通。現状、地味すぎ。
ただ単純に頭の問題で浅田とかに負けてる研究者も多いよな。
106 :
言葉と悲劇:01/12/15 11:34
結論としては「様々なる意匠」「共同幻想論」「マルクスその可能性
の中心」レベルの本書く哲学研究者募集ということか(w
107 :
考える名無しさん:01/12/15 11:45
浅田・柄谷の話が中心になってるが、
文芸批評家が影響力を持つ理由を一般的に考えてみると、
やはり哲学が一般にどうしても文科系になってしまうからではないか。
だから、数学・論理学などのような重要なものがおろそかにされがちで、
文学作品の方に傾斜してしまう。
その結果理解できるものが文学関係になってしまう。
>107
それ当たり前すぎ。どこの国だってそうだからわざわざ論ずること
では無い。そこまで戻って議論しても意味は無い。
政治や社会にコミットメントしない言説はどこだって重要視されな
い。
歴史的に見ればここで書いた文章で論証されてると思うが、
何故、日本は文芸批評家が力持つか。
110 :
考える名無しさん:01/12/15 12:07
要するに大庭みたいに電波並の怒りを抱えてる奴が必要ってか?
111 :
名無しさん@1周年:01/12/15 12:12
文芸批評家が仮に力をもつとして、
どこに対して力を持つか明確にしないと。
1.哲学史研究者コミュニティー
2.文学
3.関係ない人
とかこんな感じに。
俺としては哲学史研究の影響力なんて意識してないのが
文芸批評家だと思うけど。そんなところで批判されても
別に気にしてないだろうね。
112 :
考える名無しさん:01/12/15 12:19
>>108 どこの国でもそうであるわけではないだろう。
例えば、ラッセルやウィトゲンシュタインの存在は
例外的なのか?
欧米の歴史の中では
論理学・数学により精通している人が
影響力を持っている場合が多いとおもうが。
少なくとも日本に比べてみれば。
アメリカでもサイードとか人気あるジャン。
哲学プロパーはともかく歴史学とかジェンダースタディーズとかやってる人達が関心を持つのは大陸系の哲学が多いように感じるし
114 :
名無しさん@1周年:01/12/15 12:53
>>112 数学や論理学の知識と政治的発言は全然別物だろ。
そんなものを同レベルで比べたってしょうがない。
ちなみに日本の哲学やってるやつには両方ないなw。
それは別に非難されることでもなんでもないけど。。
115 :
考える名無しさん:01/12/15 13:29
102が言ってたように、
要は日本の哲学科では、
京都学派的なものへの過剰防衛が未だに続いているんだと思う。
戦前は哲学者も「思想」として読まれていたのは事実なんだし。
戦後は丸山真男のような「社会思想」が京都学派のような影響を行使して、
吉本隆明が丸山批判で注目され、ていう系譜に柄谷は位置している。
浅田も文芸評論ではなく、
元々はアルチュセール論を『思想』に書いた社会思想史畑の人間といえるかもしれない。
アメリカの分析哲学者は時には政治的コミットも辞さないが、
日本では政治嫌いが分析を好むという傾向もこんな棲み分けを助長か?
>>91 「柄谷が批評家だというが、普通の文芸批評家は学者を意識しない、
というか、敬意に欠けていると思う。」というのは、
哲学者に敬意を表せよということ?
117 :
考える名無しさん:01/12/15 16:32
科学者とかいっても、それはその社会の権力の位置づけの中で、
利用されてる場合だけだろう。複雑系にしろ、ブリコジーヌに
しろ、モノーにしろ。
そうでなければ、ただの偉人伝。アクチュアルに思想や社会に
関わってるなんて世界的にないだろう。
哲学で利用するにしろ、ソーカルのようにたたかれるだけだし。
ラッセルとかは哲学として政治的なものとの関わりで考察して
いたのだから、確かに論理学と社会的影響は結びつくが、それを
日本でやったのは柄谷じゃん(w
120 :
名無しさん@1周年:01/12/15 20:10
118=119か?w まぁどっちでもいいけど。
おれもあんたの考えに基本的には賛成だから。
>>117 別に学者が社会に対して大声出さなくちゃならない
必然的な理由はないと思うよ。それは一個人の問題。
というかアカデミックなものなんて自分の都合のいい
ように利用するってのがここ20年ぐらいの考え方なんじゃ
ないの?。自分の主張の根拠を述べるのに使ったり、
そこに寄生して一生研究者として飯をくっていくためだったりw。
ここでこういったスレが立つのを見ると、哲学に対する過剰な
期待というよりかは、"大学"に対する古臭い考えが
まだあるんだなって思えてしまう。
121 :
考える名無しさん:01/12/15 21:42
>>120 大学についての新しい考えをぜひ聞きたい。
122 :
考える名無しさん:01/12/15 22:05
阿修羅の考えにソクーリ?(・∀・)
123 :
考える名無しさん:01/12/16 01:39
哲学(研究)者は「影響力」欲しいの?
食えなくなったらどうすんのかな?
124 :
考える名無しさん:01/12/17 07:41
このスレなにげにすき
文芸家自身が影響力をもとうとして、そうした言説を練り上げてるからに
ほかならないよ。
影響力をもつということは同時に、その責任を負う倫理的義務も要請される
ということだけど、学者というのは、そうした力や倫理的義務が発生するような
場からは極力離れたポジションに身を置いておきたいわけでしょう。それは
客観的な姿勢を保つという意味も含めて。
結果的に「力」に利用されるのはまだしも、はじめから「力」を志向するのはもはや
学問ではないでしょう。
126 :
考える名無しさん:01/12/17 12:30
>結果的に「力」に利用されるのはまだしも、
>はじめから「力」を志向するのはもはや 学問ではないでしょう。
あ、痒いところを掻いてくれたような。
>>125 もし仮に文芸家の書くものが学問でないとするなら、
なんで学者は無視することが出来ないんですか?
125さんが言うように学者が倫理的義務から距離を置いて
研究を行いたいとうのは、大体あっていると思います。
そしてそれ自体は間違ったことをしている訳でもない。
また学者はそのような責任を背負っていられるほど暇じゃない。
文芸家が学者を馬鹿にする理由は、指導者たる(倫理的)責務を
まっとうしていないとう点に尽きると思う。今になってもね。
これはそもそも時代錯誤だと思う。哲学の学者でさえも
もう、そんな責務など背負うような仕事ではない。
学者自体が責任を放棄しているためそのような謂れのない中傷は
関係ないはずですが、なのになぜ無視することが出来ないのでしょう?
おれなんて学者じゃないから完全に無視してるけど(ワラ
128 :
考える名無しさん:01/12/19 10:22
この板で時折生じる「原書読まずに○○を語るな」みたいな争いを見ていると、大学でやる哲学というのは、「文献」学、「哲学史」学、「哲学者」学であるという側面が強い気がするわけです。
そういう学問が不要だとは思わないけど、世間が求めている哲学って、おそらく違いますよね。
「哲学に力はない」というのは、「哲学史の研究が直接的に社会に関わりはない」という意味では正しいと思うのですが、哲学的研究を元にして「社会と人間の関係をどう把握するか」等の枠組みを社会に提供することは、それなりに意味があるはずだと思うのです。
でも、通常、大学は、そういうことをしようとしない。そしてそういうことをしようとするのは柄谷とか浅田とか、最近であれば宮台(哲学じゃないですが)、東浩紀とかですよね。
「文芸評論家が影響を持つか」どうか自体が、現時点では既に疑問ですが、文芸評論家(らしき人達)の方が、大学で哲学を研究している人達よりも、社会に関わろうとしているのですから、影響力を持つのは当たり前である気がします。
129 :
考える名無しさん :01/12/19 12:40
>>128 うーん、そうかなぁ。俺には「文芸評論家」といわれる人たちのミリュー、
平たく言えば文壇の再生産能力が、大学にしか場をもたない人たちを
凌駕してるだけだと思うぞ。社会的なニーズに答えてるから、という
のはいかにも南無的に消費者サイド(しかしそんなの大学と関係ない
ところにいるのかね)からしかみてない感じがする。言説の生産を
している文壇の閉鎖性をみなければ。。
130 :
考える名無しさん:01/12/19 12:42
思うに、政界とかに籤引き導入しろとか言う前に、
批評空間(萌え)とか文学界とかの執筆陣を
籤引きにすべきだろ。
131 :
考える名無しさん:01/12/19 12:43
それか2ちゃんみたいにするとか。
@哲学(史)で問題とされる文脈から、こういう意味である。
A新しい発想で、哲学から政治を論ずる。
批評家は、Aをずっと独占してきた。
@をいくら論じて、文芸批評家の解釈が間違っているといっても全く、無意味。
文壇が独占的とか、籤引きにしろとかいっても、Aを論じない奴に需要がある
わけない。あれば資本主義の原理で仕事がくるが、需要ないだけの話。
哲学者で政治的意図を持たずに仕事している奴はいない。
アメリカの分析哲学者だった保守、左翼いっぱいいる。
飯田隆も野家啓一もフッサールやクワインやウィトゲンシュタインの啓蒙書書く
ために仕事しているわけじゃない。ゲーデル論じたって社会的コンテクストと繋
がっている。
@哲学(史)で問題とされる文脈から、こういう意味である。
A新しい発想で、哲学から政治を論ずる。
@とAは繋がっている。
哲学上の問題といっても単独では存在せず、文脈には、社会的なものを含む。
流動的で政治とつながり絶えず更新され生成している。
文芸批評家の出すAに置き換わる、哲学者のAを出さないと意味はない。
@をいくらこねくりまわしても。
134 :
言葉と悲劇:01/12/19 22:20
>と、指導教授が言ってた。
>彼が言うには、「哲学史」研究からは程遠いけど、
>とても普通の人じゃ思い浮かばないような発想が随所にある、ってことらしい。
こういう担当教授に、柄谷のクリプキやカント解釈のどこが間違ってるかの@と
同時にその哲学上の正しい解釈から、どういうAを教授自身が持ってるか書いて
くれないかな。
「単に@しか語らない哲学者よりも読者にとっては、Aを語る福田や竹田の方を
思想家と見なすのは仕方ない。」
とでも指導教官に言ってみて反応書いてもらうだけでも楽しい。
>>132 Aは現在不可能だと思う。ロールズみたいな形にすれば、
政治的には政治の行政化だし、哲学的には哲学の非哲学化。
今更革命アジるわけにもいかんでしょ。
ま、市場の論理に合わせるよう、がんばってください。
そんな哲学教授なんて数学をやってるやつに
クソミソに言われたところで反論なんてできないわな
別に文芸批評家を持ち上げるわけじゃないが、
哲学教授、だらしなさすぎ。
138 :
my ネイバー ととろ:01/12/28 22:23
とりあえずage
139 :
マルティン・ハイデガー:01/12/28 23:34
日本に哲学が受容されて何年ですか?
まだ100年程度ですね。
それでだらしがないとは、判断が時期尚早ではないでしょうか?
と私は思います。。
哲学教授って戦前の人から比べるとレベルがどんどん下がってません?
141 :
考える名無しさん:01/12/29 01:42
ここにいる人間は哲学側の立場の人が多いから、いきおい
(批評家>哲学者の影響大)という見方になってしまうだけで、
実際には、その反対の側面の「、哲学者から批評家への影響も、
それ以上にあると言えると思うよ。
小林秀雄はベルクソン、マルクスだし、柄谷はマルクスだから。
それらの読解なしに彼らの地位はないわけだから。
だから、「”日本では”なぜ文藝批評家が影響力をもつか」という問いに
たいしては、読者に直接アピールするか否かの違いだといえると思う。
たんに物理的に衆目につきやすい環境にあることもあるし、また、
人心をつかまえる文章を書くのも、文学者のほうが上手だろうから。
142 :
考える名無しさん:01/12/29 02:04
きみね、そんな長ったらしく書くんだったらもう少し考えろよ、と。
もうね、アホかと。バカかと。
143 :
考える名無しさん:01/12/29 08:38
アメリカみたいに文哲融合の日はこずに両者共倒れ
144 :
考える名無しさん:01/12/29 16:04
145 :
名無しさん@一周年:01/12/29 16:59
>>140 戦前と昨今とでは、大学の数ひいては教員のポスト数が格段に違うから
平均を見れば昨今の教員の質の方が低いのは、哲学に限らず、事実。
147 :
考える名無しさん:01/12/30 22:38
ベンヤミンも文芸批評家
148 :
考える名無しさん:01/12/30 22:46
デリダはあくまでひひょーかぁ
まあ、実際に哲学やってる人なら、ヘーゲルやデイヴィドソンの解釈だけで終わる
わけじゃなくて哲学の形を借りた政治を秘めて考えてると思うから、2ちゃんで、
そういう人の意見肩肘はらずに聞かせてもらえたならと思って、このスレで話題を
振ってみたんだが、食いつきが悪いっすね。
>うーん、そうかなぁ。俺には「文芸評論家」といわれる人たちのミリュー、
>平たく言えば文壇の再生産能力が、大学にしか場をもたない人たちを
>凌駕してるだけだと思うぞ。
>Aは現在不可能だと思う。ロールズみたいな形にすれば、
>政治的には政治の行政化だし、哲学的には哲学の非哲学化。
>日本に哲学が受容されて何年ですか?
>まだ100年程度ですね。
>それでだらしがないとは、判断が時期尚早ではないでしょうか?
>実際には、その反対の側面の「、哲学者から批評家への影響も、
>それ以上にあると言えると思うよ。
こういう人達は良く勉強している哲学愛好者なんだろうな。
それは悪いことではないけど、こういう文章ばかりじゃなくて、若くて実際に
やってる人からダメットの研究から言葉をどう解釈しそれが社会の中での言語
使用の解釈にどう関わらせたいとか(文章下手で悪い)
抱負語ってくれればいいんだけどな。
150 :
言葉と悲劇:
ハイデガースレで私の話は語ったんだけど、文芸批評家、福田和也への哲学の
立場からの批判とフランスの戦後思想や脱構築学派の思想史の総括。
実際に哲学で喰っていこうって人が見てたら、社会や政治へのヴィジョンある
だろうから何か聞かせてもらえればありがたいんでお願いします。