どこかで福田が書いてた。(対談かも。)
例えばこの板でも柄谷、浅田は人気者になってる。
「実際に哲学研究してる人はそんなの相手にしない」とか言う人もいるが、
分析系などの人以外は、いわゆるアカデミックな学者でもこっそり読んでるらしい(浅田はわからないけど)。
ごく稀にだが、論文に引用してる場合もある。
これはどいうことなのか。誰か論じてみるがいい。
2 :
考える名無しさん:01/11/10 03:53
権威至上主義
=============終了
3 :
考える名無しさん:01/11/10 04:04
文学が終わったのに文芸批評もないだろうに。
4 :
考える名無しさん:01/11/10 04:48
宮台とか田中康夫、宮崎哲哉もその一種だろうね
4に付け加えて、
市民運動(左翼)により一部のヲタの有名人になる
→変わった生き物としてメディアが取り上げる
→メディア露出の人として個人名がブランド化する(キ印)
→ヲタの神様なのに一般的に優れた人と勘違いした阿呆が続出
→ブランド化された薄っぺらい個人と知り合いになりたがる(=箔付け)
→箔の付いた自分の格が上がったと勘違い
日本なんて可愛い方。影響力という点では。
文芸評論家がいなかったら、フランス革命にせよロシア革命にせよ
どうなっていたか。
歴史的にみて、彼らの影響力というのはスゴイです。
基本的に文芸評論家というのは権力志向がつよいし、
また、ある程度なきゃ困る。
あと、柄谷や浅田の影響力はそれとはちょっと質が違うかも。
7 :
考える名無しさん:01/11/10 05:19
翻訳から近代や国家を生み出したせいか、
ヨーロッパとはちがっていまだに言語を翻訳しきれていない、浸透しきれていないからではないか。
東が指摘していたが、ドイツ語からフランス語に変換するときつながりがあるが、
英語から日本語に変換するときには連続性が無い。
そういう日本語という言語がいまだにつかみきれていないところに文藝批評家の存在意義が見出されているのではないだろうか。
小林秀雄もそれと格闘してあの文体にならざるを得なかったし。
8 :
考える名無しさん:01/11/10 06:06
いまだによくわかんない。なんで文芸評論が偉いの?
知識人で文学嫌いなひともいるだろうに。
胸糞悪いスレだ。
あー分かったよ。文芸評論家はエライ!!超エライ!!
フランス革命もロシア革命もアメリカ独立も全て文芸評論家のおかげ!!
柄谷も浅田もえらい!!超えらい!!
でもってこいつらに関わってるお前等もえらい!!
お前等のいいいたいことはどうせ最後の一行だろ。
氏ね。今すぐ氏ね。失せろ三流知識人によっていくゴキブリ共。
ちなみに小林秀雄は文芸評論家ではない。
端的に文学者である。
ちょっと趣旨を誤解してる人がいるな。。
僕は政治哲学やってるんだけど、
ごく最近だけでも、2つの大学の紀要に柄谷が名前でてくるのね。
哲学系の学術論文に文芸批評家の名前が出てくるなんて外国じゃ考えられないことでしょ。
僕は柄谷は読むけど、なんでここまで権威もつのか不思議なわけ。
それを単純に聞きたかったんだけどね。福田も大体
>>7みたいなこといってたけどね。
>>らげ@遠距離中
と、こんな具合で、文芸批評家が日本で偉いのは事実なわけ。
言っておくけどこれはなにも価値判断含んでないからね。
なぜそうなのか、といってるわけよ。
>>10のほうは、もし論理よりも文章自体先行してるって言いたいんだとしたら
柄谷も同じなんだ、たぶん。あの人のこと文学系の人は「論理的」っていうけど
全然論理的じゃない。
ってなわけなんで、
>>4,5の言ってることとも違う。
このおっさんはNAMとかって始める前から影響力あったし、
もっというと小林秀雄の時からそうなんだから。
>宮台とか田中康夫、宮崎哲哉もその一種だろうね
この人達は影響力持ってるか?
単に売れてるだけじゃない?
13 :
考える名無しさん:01/11/10 08:08
だって、先走って、いろんなこと公言しておくと、特許と同じで
「それは、公知だ。柄谷が○○で述べてた。」となる。
研究者の、研究妨害になる。
>>11 そうね。大学の哲学の論文に柄谷の名前が出てくるのは行き過ぎかもね。
ただ皆さん勘ちがいされているのは、文芸批評家というのは、
実は「文学」とは何も関係ない人種だということでは?
あとコテコテの「文学」をやっている人が哲学に手を出すと
ロクなことはない、ということでしょう。(悲惨・・・)
>>6 私はハイデガーなども論じるジョージ・スタイナーのような人に
興味がありますね。
まあ、デリダも「文芸評論家」のようなものですけどね。
15 :
考える名無しさん:01/11/10 09:09
どうかなあ。まともな哲学の学術論文を書くなり、
研究をしようとするなら、いわゆる柄谷の『探求』とかでやってる
低レベルの議論は使えないよ。
それにいわゆる、研究者の相場ってのがあって、
学部学生ならともかく、院生クラスで
柄谷やら浅田なんて言っている連中は
「哲学」業界では、ただのバカとしか思われないですね。
>>15 >院生クラスで、柄谷やら浅田なんて言っている連中は…
まあ、俺の印象では彼ら(院生クラス)も相当バカだからな。
タコ壺入っちゃってて、誰も知らないマイナーな瑣末事をこねくり回せば、
「それは偉い!」てなことになる。全然頭なんか良くないのにね。
逆に、柄谷・浅田が大雑把な議論をやっているとも思えない。浅田は大学の教官だしね。
まあジャンルごとに棲み分けすればいいんじゃないの。だから大学の
哲学論文の中で彼らの名前は出すべきではない、と言っているんだよ。
あと「業界」とかって、学問の世界でへんな業界意識が出てきたら
もう終わりだろう。土建屋とか、八百屋の業界じゃあるまいし。
「ポルポトはフランス文学者ですよ」(by柄谷)
>>18 実際にそうだったんだろ。ついでにホー・チ・ミンもな。
(あれ?法学だったかな?)
ホー・チ・ミンは弁護士じゃなかったけ?
まあ院に入りたてのころは柄谷なんかみんな避けるね。
アカデミックじゃないからね。引用なんかしようもんなら、ボコボコに潰される。
でもほんとはみんな読んでるけどね。
と、指導教授が言ってた。
彼が言うには、「哲学史」研究からは程遠いけど、
とても普通の人じゃ思い浮かばないような発想が随所にある、ってことらしい。
言語哲学やってる知合いは、結構批判的だった。
「探求」のラッセル批判やクリプキの引用は穴だらけだしね。
いくらなんでも飛躍が多すぎる。
しかし、そこからヘーゲル批判につなげていくとことかは確かに
常人の発想ではない。この人はよくヘーゲル批判するけど、
それをアカデミズムの側から批判しても意味ない気がする。
例えば、加藤さんなんかのヘーゲル研究とは、質が違うっていうか、
比べられないと思うな。
柄谷に関しては、東がこだわっていたように「論文か作品か?」
という問題があるんじゃないか?
これを考えないと
>ちなみに小林秀雄は文芸評論家ではない。端的に文学者である。
などというアヒャヒャな考えに辿り着くんだろう(福田和也はこのラインだが)。
23 :
考える名無しさん:01/11/10 13:02
現在大学院で哲学をやっているものです。
正直に言います。
ぼくは柄谷をほぼすべて読んでいます。浅田も気になります。
彼らの批評はすごくシャープだと思います。
しかし、哲学研究という面から見ると粗い。
だけど、彼らがやっているのはアカデミックなことではなくて
批評=ジャーナリズムなのですから、粗くてもいいんじゃない
でしょうか。緻密で実直な研究だけでなく批評があってこそ哲
学は活性化されると個人的に思います。
ただし、紀要なんかで彼らの名前を出すことはまずできません
ね。はっきりいってバカにされそうで怖い。
でも、紀要なんかをよーく見てると彼らからパクっているよう
なのがけっこうありますよね(w。お偉いセンセーのなんかでも。
24 :
考える名無しさん:01/11/10 13:08
追記:ちなみに彼らの議論の粗さは学部生レベルと院生レベルを
見分けるのに最適かもしれませんね。彼らのテキストを読ませて、
どこがどう粗いかを全て指摘できたら院に入れてあげるといった
入試もおもしろいかもしれませんね。
ところで、彼らの文学的な評価ってどうなんでしょうか?
個人的には柄谷の文芸批評ってこれまた粗いような気がするので
すが(テキストを丹念に読むなんてことしてませんし)
25 :
考える名無しさん:01/11/10 13:41
なんだ、要は浅田・柄谷の議論はただの文芸評論だから
アカデミズム(論文)には適さないって話か。くだらねー。
26 :
考える名無しさん:01/11/10 13:43
↑バカ?
最早パロディの対象にしかなり得ない者共を指してああだこうだ言うのは不毛です。
28 :
金石勝利の憎むもの:01/11/10 13:50
もう 太り過ぎた
ダイエットしないといけない
ピザを毎日食べるの止めよう
外出してジョギングでもしてみよう
風呂も毎日はいるようにしよう
髭も濃いんだけど定期的に剃ろう
誰かと会ってみることが一番難しい
29 :
考える名無しさん:01/11/10 14:29
俺は法学の論文で柄谷をどうどうと引用したものを見たことある。
畑が違えば引用しても叩かれないのか、と思った記憶あり。
30 :
考える名無しさん:01/11/10 14:44
「盗用」なら問題だが、「引用」なら問題あるまい。
著作権法でも認められている。
31 :
考える名無しさん:01/11/10 15:05
学問よりジャーナリズムのほうが影響力があるのは
当たり前のことじゃないか?
哲学なんて学問は、論理だけの地味な仕事なんだろ?
32 :
吾輩は名無しである:01/11/10 15:08
>>31 ハイハイハイハイ
ガキはこの板に二度とくるなよ。
33 :
考える名無しさん:01/11/10 15:10
いまだにジャーナリズムとアカデミズムなんて二項対立に依拠しながら自足してるやつがいるとは驚きだな〜。
35 :
考える名無しさん:01/11/12 01:39
>>32 哲学ってどういう定義で使ってるの?
存在論・認識論のことだよ。
地味だろうが何だろうが、論理的でなければならない。
それ以外のことを求めるんだったらそれは「思想」っていうふうに呼ぶべき。
「思想」は全て含むから。
こういう定義が一般的だと思ってたんですが、どうですか?
>>1 柄谷行人自身が、国民国家や国語の問題に絡めて
論じていなかったけ?文学者の権力。ソヴィエトに
おいて一番の権力者は書記長であった。等々。
37 :
考える名無しさん:01/11/12 02:23
文学というのは定義を必要としない純然たる解釈「=読み」にもとづく
ようなそんな世界だろう。
そんな曖昧で混沌とした世界で有力な読みを提示でき、ある一定の
影響力をもてるような能力があるとしたら、魑魅魍魎の政治の世界でも
のしていけるということだろう。
また、「読む」ということは、一つには「理解する」ということであるけど、
もう一つには、「自分のものにする」ということも含意するだろう。
したがって、読もうという人間は、それだけ欲望も強いということが
いえると思う。
つまり、文藝批評家というのは、テキストに限らず、世界の情況から
人の心理まで、何から何まで読んでしまおうという人種であるということ。
38 :
考える名無しさん:01/11/12 02:34
あと、近代国家におけるネーション(国民)は文学によって
醸成されるということがあるね。
新聞小説なんかを読むことによって、読者は一様な「国民」として
統一的にまとめあげられる。
それは教科書などよりも影響力があったそうだ。大人は教科書を
読まないから。
39 :
考える名無しさん:01/11/12 03:05
政治家は大衆とコミュニケーションを取らなければならない。
民主主義だから、これ当たり前。
たとえば柄谷行人は大衆とコミュニケーションを取るつもりはないらしいから政治家には向いてないね。
40 :
考える名無しさん:01/11/12 03:25
>文学というのは定義を必要としない純然たる
>解釈「=読み」にもとづく
>ようなそんな世界だろう
これは余りに乱暴な文学観ではないのですか
文学部のヒト怒りますよ
41 :
考える名無しさん:01/11/12 04:31
大学で哲学やるなんて結局は少数派。大体の人は・・・
↓
アカデミックな注釈だらけの論文なんて読むの面倒。
↓
でも、哲学に関しては知識は仕入れときたい。
↓
柄谷・浅田
↓
柄谷を通じてマルクスやカントを理解する。
↓
影響力大
↓
哲学科も無視しがたい。
42 :
41の真似して:01/11/12 04:39
大学で哲学やるなんて結局は少数派。
イカサマなインテリぶってる人は・・・
↓
アカデミックな注釈だらけの論文なんて読むの面倒。
↓
でも、哲学に関しては知識は仕入れときたい。
↓
柄谷・浅田あたりを適当に読む
↓
メディアを通じて浅田などに動向があると自分の知識を披露
↓
無知な人(=「哲学なんて」と思うくらい現実に生きている人)
への影響力大
↓
一人悦に入る
43 :
考える名無しさん:01/11/12 04:41
柄谷とかはカントを独語読んでないんでしょ?
自分の思想を練り上げるのは結構だけど、
それでカント本人の言説を捻じ曲げてるように思うんだよね。
正直原典に拠らずに白を黒を断定した議論だって展開出来る。
影響力を持った人がこんなのやって誤解が生まれる事もありうる。
理解云々はともかく、せめて忠実に原典にあたってる人、
こうでない人にあまり活動はしてほしくない。
44 :
考える名無しさん:01/11/12 05:40
>>43 確かに柄谷読んでカントそのものを理解した気になってるやつはいる。
けど、そんなのほっとけばいいじゃん。
哲学史研究と思想ってのは区別すべきだろ?
ちなみに柄谷は一応文学系の人だから英・仏・独は当然できる。
とてもカント研究ってレベルじゃないけどね。羅はできないだろうし。
>>41,42
大多数の人が論文など読まなくて、それらの人達が柄谷読んでるんだとしたら
無視すればいいじゃん。
学術論文にまで引用する必要はない。
>>15
そうですね。あれをべた褒めしてる野家も低レベルですしね。
46 :
考える名無しさん:01/11/12 07:40
ということは柄谷を肯定的に引用した学者も全員低レベルってことになるな。
47 :
考える名無しさん:01/11/12 07:40
現代は(30年くらい前と違って)マルクスとかヘーゲルとかの本が
直接工房とかに影響力を及ぼすような時代じゃないでしょ?
だから分かりやすく哲学っぽいことを論じて売れてる本はガキには入門として貴重ですよ。
(柄谷『探究』とか、浅田『構造と力』とか。)
まあ、やや高等な『ソフィーの世界』みたいなもんだ。
だから、それがまず哲学に興味持つ最初の一撃になる。
そこから遡及的にヘーゲルとか読んで哲科の院生とかになる。
で、恥ずかしいからおおっぴらには言わないけど、
柄谷とかは密かに読み続ける。三つ子の魂百まで。
こういうタイプの人はかなり多いんじゃないだろうか。
48 :
考える名無しさん:01/11/12 07:46
>>47「探求」のどこがわかりやすい?
あれのレトリック構造ほんとに理解して言ってる?
なんか同じような対立ばっかり。
このスレは柄谷がいい、わるいじゃなくて、
文芸批評家がなぜ日本で権威をもつか論じるとこだろう。
引用さてるのは確かに見たことある。
それが外国ではありえなくてなぜ日本だけなのか、ってこと。
>48
そういう話は他スレでお願いします。
因みに探究の間違いかと。
探究が難しいかどうかはともかく、
純理とかよりとっつきやすいことは確か。
この場合、分かった気になるかどうか
(それでそれをきっかけに哲学に興味を持つかどうか)
が重要なので。
51 :
考える名無しさん :01/11/12 08:02
>>47 単なる啓蒙書なら院生になったら読まなくなるはず。
52 :
考える名無しさん:01/11/12 08:14
野家さんを低レベルだと断言する君の能力を知りたい。
もちろん一般書じゃなくて野家さんの論文読んだ上で言ってるんですね?
意見が違う、っていうならわかるけど、低レベルっていうからには厳密さに欠けてるってことでしょう。
それならあなたは当然博士論文ぐらい仕上げてる人間なのでしょうね。
53 :
考える名無しさん:01/11/12 08:15
54 :
考える名無しさん:01/11/12 10:54
>文芸批評家がなぜ日本で権威をもつか
アカデミズムがほとんど輸入しかやって来なかったからじゃないの?
「思想家」の役割を「偶々」批評家が引き受けたってだけで、ほとんどたいして意味はない偶然でしょう。
やってる内容もほとんど貧しいもんだと思うけど・・・それは柄谷氏も認めているわけで・・・
55 :
考える名無しさん:01/11/12 11:41
アカデミズムが国民に影響を与えてる国ってたとえばどこですか?
56 :
考える名無しさん:01/11/12 11:50
ロシア?
57 :
考える名無しさん:01/11/12 19:51
君らがオタッキー過ぎるからでしょ!?
柄谷様は他ジャンルの人にも読まれるんだい!
おうだんてきなんだい!
ぷんぷん!
58 :
考える名無しさん:01/11/12 20:00
中国の文化大革命は文芸評論から始まった・・・らしい・・・。
どんなふうに???
59 :
吾輩は名無しである:01/11/12 20:19
カントが『判断力批判』を書くきっかけは文芸評論だったよね。
60 :
考える名無しさん:01/11/12 20:27
デリダもフウコーもそうでショ!
61 :
考える名無しさん:01/11/12 20:28
日本のアカデミズムが今に至るまでダメダメだから
62 :
考える名無しさん:01/11/12 20:33
ということは哲ヲタがやっぱり駄目なのね
「レベル低い!」とかわけワカンネ。
鎌田との対談で福田が
江藤淳の漱石の読みを大岡が文献学的に批判しまくりだけど
大岡は江藤が読んだトコ全然読めて無いじゃん!
気にすんなよ江藤!てのと一緒だね!
motto kageki ni otaku ni natte
65 :
考える名無しさん:01/11/12 20:44
スレのタイトルを
世界ではなぜ文芸批評家が影響力をもつか
に変更します。
影響力ってどこへの影響力か定まってないようだけど、
国家、国民、哲学のアカデミズムに分けましょう。
66 :
考える名無しさん:01/11/12 23:54
文学=哲学
哲学=哲学学
文学板から来た人、あまり荒すなよ。
68 :
考える名無しさん:01/11/13 00:17
ecritureってことだろ
69 :
考える名無しさん:01/11/13 00:59
テロか?しかし
日本でこういうときになんか言えんのって
文芸評論家。ただし9割8部ぐらいバカ
哲学者は?
どっちがマシ?
70 :
考える名無しさん:01/11/13 01:03
文芸批評家が哲学のアカデミズムに影響をもつ、というのは
哲学側から見た見方で、逆にいえば、哲学はそれに劣らぬほど
文学に影響を与えてる面もあるわけで。
文芸批評家はちょうど両者の間、際(きわ)のところにいる
からどちらにも顔が利かせられるということではないの。
71 :
考える名無しさん:01/11/13 01:29
端的に言うと社会は変革可能でありそこに積極的にコミット
していこうする姿勢が日本の哲学には決定的に欠けている。
その機能を文芸批評が小林秀雄以降(近代の超克以降)
継承してしまったと言うことでしょう?そこに人は如何に生
きるべきかという問題が内包されていて、その影響力が哲学
をはるかに凌駕してしまった原因じゃないかな?
72 :
考える名無しさん:01/11/13 01:39
>>71 それ正しいよ
哲学ヲタって柄谷レベル低いだのなんだの
自分の頭ん中だけでゴニョゴニョ
もちろんそれはそれで良いけど
そうせざるを得ない人が哲学やんだろうけど
他人から見るとオモロナイ
もちろんそんな事知ったこっちゃないですね、御免なさい
でも普通に思ったんですが
73 :
考える名無しさん:01/11/13 01:44
柄谷行人は『トランスクリティーク』では
「思想家」を名乗っているぞ。
疑う者は『トラクリ』の著者紹介欄を見よ。
つーか、転載すると
柄谷行人
1941年生まれ。思想家。
現在、近畿大学教授、コロンビア大学客員教授。
著書に・・・云々
文芸批評家の肩書きはない。
74 :
考える名無しさん:01/11/13 01:45
たしかに小林はマルクスを読んでたのは大きいね。
そしてそれを人間主義的に読むわけだ。
ただ、構造主義以降はいずれも冴えなくなる。
柄谷なんかが哲学に影響を与えるのは、彼はむしろ
哲学的に文学をやってたわけで、文学者が哲学を
やったというのとはわけが違うと思う。
75 :
考える名無しさん:01/11/13 02:13
>>71.72.73
まあ今最も影響力のある存在である柄谷を年頭にこのスレは
立てられたわけだけど、逆にこうした問いが提示されるという
事自体「文芸批評家」がこうした機能を担うと言うことが終わ
りつつあると言うことを示しているのかもしれない。柄谷以降
で影響力のある浅田、東は「文芸批評家」ではないし、スガ秀美
じゃ役不足、山城むつみ、前田秀樹は目を見張る仕事をしつつある
けれど柄谷ほどの広範な影響力は持ち得ないし、本人たちもその事
に自覚的なんじゃないだろうか?
76 :
考える名無しさん:01/11/13 02:15
スガとかは俗っぽいのが柄谷より好きなんだけど
77 :
考える名無しさん:01/11/13 02:54
>>76 好き嫌いがはっきり出る人だね、能力はあるんだろうけど・・・
じゃ、おやすみ。
78 :
考える名無しさん:01/11/13 09:32
アカデミズム=緻密、実直
ジャーナリズム=粗い、飛躍
どっちもタコ壺臭いが、後者のほうがまだマシ。
えっ?
前者の間違いじゃないの?
なんとなく、前者のほうを褒めてますよね
82 :
考える名無しさん:01/11/13 23:42
つーか
「哲学」と「批評」は違うし共通する部分も多少はある
とかそれだけの事じゃないの?
83 :
考える名無しさん:01/11/14 01:22
>つーか
>「哲学」と「批評」は違うし共通する部分も多少はある
>とかそれだけの事じゃないの?
そうだね。
多少雑でも社会一般の問題を批判的に考察できる批評家は必要だし、
蛸壺といわれようが、厳密で禁欲的な哲学、社会科学研究も必要だよ。
両方とも社会における機能が違うんだから
哲学は自己満足だとか、逆に批評なんて低レベルとか、そういう問題じゃないんだけえどね・・
84 :
考える名無しさん:01/11/14 01:51
>>83 激しく同意!
ただ哲学は社会に向けてもう少し何かを発信すべきでもあるな。
文学板でヤレ!!
86 :
考える名無しさん:01/12/10 12:38
池田雄一って群像新人賞取ったやつ以外になんかまとまったもの書いてませんか?
87 :
Aquirax:01/12/12 17:59
僕は文芸批評家ではない。
そもそも文芸批評家がなぜ影響力を持つのかという問いの立て方自体が
間違っているので、響力を持っているのは柄谷個人だけなのであって他
の文芸批評家は全然影響力を持っていない。柄谷が影響力を持っている
のは単純な話で、彼が頭がいいというだけのことでしょう。大学の教授
になるのはそれほど難しくないが、一流の批評家になるのはそれよりず
っと難しいということですよ。
しかし、なぜ哲学研究者は過剰に柄谷に言及するのか。端から見ている
と、柄谷に転移した連中が必死にその影響を否認しようとしているよう
にしか見えない。そもそも柄谷の自己規定は批評家であって哲学研究者
ではなく、また、彼の書くものは批評文であって研究論文ではない。そ
れを訓古学的な不備を指摘して論うのは意味がないでしょう。
山形のもそうだけど、こんだけガセが多いと、もし本人でもどうってことないね。
実際これ書いてることつまんないし。山形はサービス精神あるぞ。
哲学科の連中は哲学の形式に取り込まれていて身動きが取れない。
文芸批評はもっと自由に思考できる。
頭のいい人はそのメリットを生かして学者としてより批評家として活動する
ことを選んできたって事かなあ、と思う。
90 :
考える名無しさん:01/12/13 17:48
本人が書き込むか(笑)
内容がつまんなかったらお前が書き込めや。
やっぱりW
つまらんというのは激シク既出と思ったからよ。
書き込めと言われたことないので、喜んで。
柄谷の場合、転移を拒絶する身ぶりが転移を生むという事態がある。、
しかし身ぶりだけ真似する人たちには誰も転移しない、というか彼らは
大概カルト化している。学者が下手にジャーナリスティックに振る舞う場合が多いからか、
地道な学究を軽視する風潮が蔓延してしまったためか。
すると事態の表面だけみるとその煽りで柄谷もカルトということになる。
柄谷が批評家だというが、普通の文芸批評家は学者を意識しない、
というか、敬意に欠けていると思う。彼の才能の本領はやはり日本近代小説の
体験に基づいたものでしょう。それがリアルだから許される、読めるという部分が大きい。
だから、柄谷の存在をもって、哲学者が批評家の名の元に自由に振る舞うことが
許されることには決してならないのではないか。
悪文で失礼ですが、こんなところです。
学者は世界的な評価を意識している分下手なことはやれないわけですね。
日本で批評家と言われている人たちはどうするんだろうか。
商売にもならなくなければ行くところも帰るところもなくて暴走するのでしょうか?
それでも田代まさしやサッチー程のパフォーマンスも期待できないな。
とうとう思想家を自称した柄谷が「輸出」したいのは(日本文学自体ではなく)、
過去の遺物の日本文学や左翼運動での体験の特殊性を通した普遍的な思想なのでしょうが、
ナムも含めれば、内外ともにまだまだ「暴走」可能なる批評家てところですか。
93 :
考える名無しさん:01/12/13 23:31
蓮実曰く
19歳で「哲学やります」って奴は
蹴り上げて顔面ぶん殴るべきらしい
まあ横断的であれって事らしいけど
更に哲学科はなくすべきらしいのよ
あるから皆行くんだって
スガも哲学科目指す学生は馬鹿ばっかりだと言っとった
これだけでは誤解されまくりだろうし
細かいトコは「週間読書人」を読んでくだされ
94 :
考える名無しさん:01/12/13 23:56
>学者は世界的な評価を意識している分下手なことはやれないわけですね。
そんな人がどこにいる?
そもそも日本の哲学者なんて相手にされてないよ。
分析系で今一番優秀な学者の一人(実際僕自身は尊敬してる)である
慶應教授でさえ世界的には無名に等しい。
そもそも世界的な評価を意識するなら全て英語か、ドイツ哲学ならドイツ語で発表するべきだよ。
柄谷って人はよくわからないけど、
分析主流のアメリカの大学出版でああいう本を出すという心意気は買う。
95 :
考える名無しさん:01/12/14 00:01
>>93 「スガ」ってあの日本有数のラカン読みの(w
政治や社会的なものとからまない話はそもそも一般人じゃなく、専門外の哲学者
にとっても興味薄いよ。
でフランスでは文学者も哲学者もがんがん発言する。
アメリカでは政治が専門で無いと哲学者も文学者もあまり影響ない。あっても、
個人のジャーナリズム。
では日本では何故、文芸批評家が、権威となるか。
マルクス主義=階級闘争をめぐる言説で節目節目で論壇を背負った奴
が日本では批評家に限られたかという特殊事情があるから。
それがフランスとかとの違い。
マルクス主義を人間学化して「様々なる意匠」で論壇を背負った小林。
民俗学や文化論と結びつけ「大衆の原像」で時代のヒーロー、吉本。
ニーチェやポスト・モダンと結びつけ「可能性の中心」を探った柄谷。
日本哲学はポシャった「近代の超克」とか除けば、日本国内の哲学に
とどまった。
時代の求める普遍像を提示するなど考えもつかなかった日本哲学。
だから、逆に、自分の哲学からそういう普遍像を提出する哲学者が
でれば、日本だってフーコーのように社会からも注視される哲学者
が出たっておかしくない。
地味な分析哲学だってパットナムのようにハーバーマスと同じ土俵
で勝負しようとすることはできる。
社会的インパクトという面ではラッセルやクリプキから無理から政
治を論じてみせた、柄谷は世界レベルでもいけてるというのが公平
な評価だろう。
語学はいいわけであって、発想ができるかできないかが求められる
のであって、日本人哲学者もかましていいはずだ。時代を引っ張る
何かを。
100 :
名無しさん@1周年:01/12/15 10:24
>>96 日本の哲学者って音楽のタームで言えば演奏家。
批評家はその言ってる内容はともかく自分というものを
表現してる。だから創作ともとれる。
おれは別に演奏家を見下すようなつもりはないけど、
自分を表現してなおかつその作品に責任を取るような
姿勢は大事なことだと思う。
何かを知っているというのはそれだけでは意味がないことだと思う。
101 :
言葉と悲劇:01/12/15 10:38
例えば、80年代以降のものよりイメージの大衆消費社会の中で、
重厚長大のマルクス主義では無い、ニーチェやフーコー式の多様な
接点としての新たな階級闘争とか知の立場とかを語る必要は社会か
ら求められていた。
そして日本でそれをやったのは浅田、柄谷。
哲学者は怠慢すぎた。
日本では哲学者じゃ
102 :
言葉と悲劇:01/12/15 10:44
>100
演奏家だって、それで金をとるには、創作の域に達しないといけない
が、京都学派の近代の超克の失敗以降、客観的には去勢されアマチュ
アのレベルで終わってる。誰もそんなものお座敷には上げないってこ
とだと思う。
小林なり柄谷なりの発言は後世に読めても、それに対して反応した哲
学者の文章はタコツボの中からで後世から読める作品には仕上がって
いない。資料的価値以外は。
104 :
言葉と悲劇:01/12/15 10:52
>103
彼らは意識してるよね。
ここで書いたのも一般論としてだから。
105 :
言葉と悲劇:01/12/15 10:56
平均が大庭健レベルで社会的にコミットしようと意欲持って哲学作っ
てもいいんだよな。というかそれが普通。現状、地味すぎ。
ただ単純に頭の問題で浅田とかに負けてる研究者も多いよな。
106 :
言葉と悲劇:01/12/15 11:34
結論としては「様々なる意匠」「共同幻想論」「マルクスその可能性
の中心」レベルの本書く哲学研究者募集ということか(w
107 :
考える名無しさん:01/12/15 11:45
浅田・柄谷の話が中心になってるが、
文芸批評家が影響力を持つ理由を一般的に考えてみると、
やはり哲学が一般にどうしても文科系になってしまうからではないか。
だから、数学・論理学などのような重要なものがおろそかにされがちで、
文学作品の方に傾斜してしまう。
その結果理解できるものが文学関係になってしまう。
>107
それ当たり前すぎ。どこの国だってそうだからわざわざ論ずること
では無い。そこまで戻って議論しても意味は無い。
政治や社会にコミットメントしない言説はどこだって重要視されな
い。
歴史的に見ればここで書いた文章で論証されてると思うが、
何故、日本は文芸批評家が力持つか。
110 :
考える名無しさん:01/12/15 12:07
要するに大庭みたいに電波並の怒りを抱えてる奴が必要ってか?
111 :
名無しさん@1周年:01/12/15 12:12
文芸批評家が仮に力をもつとして、
どこに対して力を持つか明確にしないと。
1.哲学史研究者コミュニティー
2.文学
3.関係ない人
とかこんな感じに。
俺としては哲学史研究の影響力なんて意識してないのが
文芸批評家だと思うけど。そんなところで批判されても
別に気にしてないだろうね。
112 :
考える名無しさん:01/12/15 12:19
>>108 どこの国でもそうであるわけではないだろう。
例えば、ラッセルやウィトゲンシュタインの存在は
例外的なのか?
欧米の歴史の中では
論理学・数学により精通している人が
影響力を持っている場合が多いとおもうが。
少なくとも日本に比べてみれば。
アメリカでもサイードとか人気あるジャン。
哲学プロパーはともかく歴史学とかジェンダースタディーズとかやってる人達が関心を持つのは大陸系の哲学が多いように感じるし
114 :
名無しさん@1周年:01/12/15 12:53
>>112 数学や論理学の知識と政治的発言は全然別物だろ。
そんなものを同レベルで比べたってしょうがない。
ちなみに日本の哲学やってるやつには両方ないなw。
それは別に非難されることでもなんでもないけど。。
115 :
考える名無しさん:01/12/15 13:29
102が言ってたように、
要は日本の哲学科では、
京都学派的なものへの過剰防衛が未だに続いているんだと思う。
戦前は哲学者も「思想」として読まれていたのは事実なんだし。
戦後は丸山真男のような「社会思想」が京都学派のような影響を行使して、
吉本隆明が丸山批判で注目され、ていう系譜に柄谷は位置している。
浅田も文芸評論ではなく、
元々はアルチュセール論を『思想』に書いた社会思想史畑の人間といえるかもしれない。
アメリカの分析哲学者は時には政治的コミットも辞さないが、
日本では政治嫌いが分析を好むという傾向もこんな棲み分けを助長か?
>>91 「柄谷が批評家だというが、普通の文芸批評家は学者を意識しない、
というか、敬意に欠けていると思う。」というのは、
哲学者に敬意を表せよということ?
117 :
考える名無しさん:01/12/15 16:32
科学者とかいっても、それはその社会の権力の位置づけの中で、
利用されてる場合だけだろう。複雑系にしろ、ブリコジーヌに
しろ、モノーにしろ。
そうでなければ、ただの偉人伝。アクチュアルに思想や社会に
関わってるなんて世界的にないだろう。
哲学で利用するにしろ、ソーカルのようにたたかれるだけだし。
ラッセルとかは哲学として政治的なものとの関わりで考察して
いたのだから、確かに論理学と社会的影響は結びつくが、それを
日本でやったのは柄谷じゃん(w
120 :
名無しさん@1周年:01/12/15 20:10
118=119か?w まぁどっちでもいいけど。
おれもあんたの考えに基本的には賛成だから。
>>117 別に学者が社会に対して大声出さなくちゃならない
必然的な理由はないと思うよ。それは一個人の問題。
というかアカデミックなものなんて自分の都合のいい
ように利用するってのがここ20年ぐらいの考え方なんじゃ
ないの?。自分の主張の根拠を述べるのに使ったり、
そこに寄生して一生研究者として飯をくっていくためだったりw。
ここでこういったスレが立つのを見ると、哲学に対する過剰な
期待というよりかは、"大学"に対する古臭い考えが
まだあるんだなって思えてしまう。
121 :
考える名無しさん:01/12/15 21:42
>>120 大学についての新しい考えをぜひ聞きたい。
122 :
考える名無しさん:01/12/15 22:05
阿修羅の考えにソクーリ?(・∀・)
123 :
考える名無しさん:01/12/16 01:39
哲学(研究)者は「影響力」欲しいの?
食えなくなったらどうすんのかな?
124 :
考える名無しさん:01/12/17 07:41
このスレなにげにすき
文芸家自身が影響力をもとうとして、そうした言説を練り上げてるからに
ほかならないよ。
影響力をもつということは同時に、その責任を負う倫理的義務も要請される
ということだけど、学者というのは、そうした力や倫理的義務が発生するような
場からは極力離れたポジションに身を置いておきたいわけでしょう。それは
客観的な姿勢を保つという意味も含めて。
結果的に「力」に利用されるのはまだしも、はじめから「力」を志向するのはもはや
学問ではないでしょう。
126 :
考える名無しさん:01/12/17 12:30
>結果的に「力」に利用されるのはまだしも、
>はじめから「力」を志向するのはもはや 学問ではないでしょう。
あ、痒いところを掻いてくれたような。
>>125 もし仮に文芸家の書くものが学問でないとするなら、
なんで学者は無視することが出来ないんですか?
125さんが言うように学者が倫理的義務から距離を置いて
研究を行いたいとうのは、大体あっていると思います。
そしてそれ自体は間違ったことをしている訳でもない。
また学者はそのような責任を背負っていられるほど暇じゃない。
文芸家が学者を馬鹿にする理由は、指導者たる(倫理的)責務を
まっとうしていないとう点に尽きると思う。今になってもね。
これはそもそも時代錯誤だと思う。哲学の学者でさえも
もう、そんな責務など背負うような仕事ではない。
学者自体が責任を放棄しているためそのような謂れのない中傷は
関係ないはずですが、なのになぜ無視することが出来ないのでしょう?
おれなんて学者じゃないから完全に無視してるけど(ワラ
128 :
考える名無しさん:01/12/19 10:22
この板で時折生じる「原書読まずに○○を語るな」みたいな争いを見ていると、大学でやる哲学というのは、「文献」学、「哲学史」学、「哲学者」学であるという側面が強い気がするわけです。
そういう学問が不要だとは思わないけど、世間が求めている哲学って、おそらく違いますよね。
「哲学に力はない」というのは、「哲学史の研究が直接的に社会に関わりはない」という意味では正しいと思うのですが、哲学的研究を元にして「社会と人間の関係をどう把握するか」等の枠組みを社会に提供することは、それなりに意味があるはずだと思うのです。
でも、通常、大学は、そういうことをしようとしない。そしてそういうことをしようとするのは柄谷とか浅田とか、最近であれば宮台(哲学じゃないですが)、東浩紀とかですよね。
「文芸評論家が影響を持つか」どうか自体が、現時点では既に疑問ですが、文芸評論家(らしき人達)の方が、大学で哲学を研究している人達よりも、社会に関わろうとしているのですから、影響力を持つのは当たり前である気がします。
129 :
考える名無しさん :01/12/19 12:40
>>128 うーん、そうかなぁ。俺には「文芸評論家」といわれる人たちのミリュー、
平たく言えば文壇の再生産能力が、大学にしか場をもたない人たちを
凌駕してるだけだと思うぞ。社会的なニーズに答えてるから、という
のはいかにも南無的に消費者サイド(しかしそんなの大学と関係ない
ところにいるのかね)からしかみてない感じがする。言説の生産を
している文壇の閉鎖性をみなければ。。
130 :
考える名無しさん:01/12/19 12:42
思うに、政界とかに籤引き導入しろとか言う前に、
批評空間(萌え)とか文学界とかの執筆陣を
籤引きにすべきだろ。
131 :
考える名無しさん:01/12/19 12:43
それか2ちゃんみたいにするとか。
@哲学(史)で問題とされる文脈から、こういう意味である。
A新しい発想で、哲学から政治を論ずる。
批評家は、Aをずっと独占してきた。
@をいくら論じて、文芸批評家の解釈が間違っているといっても全く、無意味。
文壇が独占的とか、籤引きにしろとかいっても、Aを論じない奴に需要がある
わけない。あれば資本主義の原理で仕事がくるが、需要ないだけの話。
哲学者で政治的意図を持たずに仕事している奴はいない。
アメリカの分析哲学者だった保守、左翼いっぱいいる。
飯田隆も野家啓一もフッサールやクワインやウィトゲンシュタインの啓蒙書書く
ために仕事しているわけじゃない。ゲーデル論じたって社会的コンテクストと繋
がっている。
@哲学(史)で問題とされる文脈から、こういう意味である。
A新しい発想で、哲学から政治を論ずる。
@とAは繋がっている。
哲学上の問題といっても単独では存在せず、文脈には、社会的なものを含む。
流動的で政治とつながり絶えず更新され生成している。
文芸批評家の出すAに置き換わる、哲学者のAを出さないと意味はない。
@をいくらこねくりまわしても。
134 :
言葉と悲劇:01/12/19 22:20
>と、指導教授が言ってた。
>彼が言うには、「哲学史」研究からは程遠いけど、
>とても普通の人じゃ思い浮かばないような発想が随所にある、ってことらしい。
こういう担当教授に、柄谷のクリプキやカント解釈のどこが間違ってるかの@と
同時にその哲学上の正しい解釈から、どういうAを教授自身が持ってるか書いて
くれないかな。
「単に@しか語らない哲学者よりも読者にとっては、Aを語る福田や竹田の方を
思想家と見なすのは仕方ない。」
とでも指導教官に言ってみて反応書いてもらうだけでも楽しい。
>>132 Aは現在不可能だと思う。ロールズみたいな形にすれば、
政治的には政治の行政化だし、哲学的には哲学の非哲学化。
今更革命アジるわけにもいかんでしょ。
ま、市場の論理に合わせるよう、がんばってください。
そんな哲学教授なんて数学をやってるやつに
クソミソに言われたところで反論なんてできないわな
別に文芸批評家を持ち上げるわけじゃないが、
哲学教授、だらしなさすぎ。
138 :
my ネイバー ととろ:01/12/28 22:23
とりあえずage
139 :
マルティン・ハイデガー:01/12/28 23:34
日本に哲学が受容されて何年ですか?
まだ100年程度ですね。
それでだらしがないとは、判断が時期尚早ではないでしょうか?
と私は思います。。
哲学教授って戦前の人から比べるとレベルがどんどん下がってません?
141 :
考える名無しさん:01/12/29 01:42
ここにいる人間は哲学側の立場の人が多いから、いきおい
(批評家>哲学者の影響大)という見方になってしまうだけで、
実際には、その反対の側面の「、哲学者から批評家への影響も、
それ以上にあると言えると思うよ。
小林秀雄はベルクソン、マルクスだし、柄谷はマルクスだから。
それらの読解なしに彼らの地位はないわけだから。
だから、「”日本では”なぜ文藝批評家が影響力をもつか」という問いに
たいしては、読者に直接アピールするか否かの違いだといえると思う。
たんに物理的に衆目につきやすい環境にあることもあるし、また、
人心をつかまえる文章を書くのも、文学者のほうが上手だろうから。
142 :
考える名無しさん:01/12/29 02:04
きみね、そんな長ったらしく書くんだったらもう少し考えろよ、と。
もうね、アホかと。バカかと。
143 :
考える名無しさん:01/12/29 08:38
アメリカみたいに文哲融合の日はこずに両者共倒れ
144 :
考える名無しさん:01/12/29 16:04
145 :
名無しさん@一周年:01/12/29 16:59
>>140 戦前と昨今とでは、大学の数ひいては教員のポスト数が格段に違うから
平均を見れば昨今の教員の質の方が低いのは、哲学に限らず、事実。
147 :
考える名無しさん:01/12/30 22:38
ベンヤミンも文芸批評家
148 :
考える名無しさん:01/12/30 22:46
デリダはあくまでひひょーかぁ
まあ、実際に哲学やってる人なら、ヘーゲルやデイヴィドソンの解釈だけで終わる
わけじゃなくて哲学の形を借りた政治を秘めて考えてると思うから、2ちゃんで、
そういう人の意見肩肘はらずに聞かせてもらえたならと思って、このスレで話題を
振ってみたんだが、食いつきが悪いっすね。
>うーん、そうかなぁ。俺には「文芸評論家」といわれる人たちのミリュー、
>平たく言えば文壇の再生産能力が、大学にしか場をもたない人たちを
>凌駕してるだけだと思うぞ。
>Aは現在不可能だと思う。ロールズみたいな形にすれば、
>政治的には政治の行政化だし、哲学的には哲学の非哲学化。
>日本に哲学が受容されて何年ですか?
>まだ100年程度ですね。
>それでだらしがないとは、判断が時期尚早ではないでしょうか?
>実際には、その反対の側面の「、哲学者から批評家への影響も、
>それ以上にあると言えると思うよ。
こういう人達は良く勉強している哲学愛好者なんだろうな。
それは悪いことではないけど、こういう文章ばかりじゃなくて、若くて実際に
やってる人からダメットの研究から言葉をどう解釈しそれが社会の中での言語
使用の解釈にどう関わらせたいとか(文章下手で悪い)
抱負語ってくれればいいんだけどな。
150 :
言葉と悲劇:
ハイデガースレで私の話は語ったんだけど、文芸批評家、福田和也への哲学の
立場からの批判とフランスの戦後思想や脱構築学派の思想史の総括。
実際に哲学で喰っていこうって人が見てたら、社会や政治へのヴィジョンある
だろうから何か聞かせてもらえればありがたいんでお願いします。