1 :
考える名無しさん:
理解できなかったので、教えてください
結局、我想ってるけど我存在しなかも、って事でOKですか?
自分のことはわかるけど
>>1が想うと
>>1の我が有るのかないのかはわからん。
リュシスたん萌え荒しか。。。
懐かしいな。
この頃の哲学板は荒れまくってた。
でかんしょ〜。デカンショ〜
>>3 結局この世で貫き通せないものはない矛でこの世で防げないものはない
盾とがぶつけられるかも、って事でOKですか?
OKですか?
OKですか?
OKですか?
9 :
考える名無しさん:01/11/04 11:16
そこらにある色んなモノとかは、ホントにそこらに「ある」のかどうか、
証拠がないし、確かめようもない。
もしかしたら、ヴァーチャル映像かも知れない。
ホントはいま、脳にコード刺さってて、色んな刺激がインプットされる実験が行われてるのかも知れん。
シュワ映画の「トータルリコール」みたいにな。
だからすべてのものはそれが「ある」かどうか疑わしい。または、疑うことができる。
しかし、その疑ってる自分が「いる」ってことだけは絶対に疑えない。
自分がいなきゃヴァーチャル映像も見えないからな。
自分が疑っている=考えている、ゆえに、とりあえず少なくとも自分だけは「ある」。
そういうことだ。
10 :
ビンラディン:01/11/04 11:31
荘子よみなさい。
11 :
考える名無しさん:01/11/04 11:33
それにつけても、このデカルトの言葉にピンとくる人間は
全体の何パーセントくらいいるのだろう?
12 :
考える名無しさん:01/11/04 11:37
この言葉を思春期における単なる自我の目覚めと捉える人もいるね。
13 :
666 ◆xenNZQbg :01/11/04 13:09
思う事に(自分の考えを確立するのに)意味がある(我が存在してる理由)と解釈してますが
14 :
考える名無しさん:01/11/04 14:43
やっぱり理解できませんでした
>>9 周りを疑えば全て疑えるけど、疑ってる自分があるのは確か。
この部分が納得できません。
論理的に考えれば、「今自分が思考している→思考してる自分がいるのは確か」
って事になるんでしょうけど、ピンときません。
なぜ思考してれば存在する事になるのでしょうか。
それ自体が既に既成概念に囚われた考え方なのではないでしょうか。
理解できないので、誰か教えてください。
あれこれ回りにある物は夢かもしれないが、
それが夢だとしても、そう考えている思考自体は存在する。
その思考の流れを「わたし」と仮称することにしよう。
16 :
考える名無しさん:01/11/04 14:51
疑っている自分を認識しているのは誰?その疑っている自分を認識している自分を
認識しているのはだれ?我を意識だとすると、その我の存在を客観視できないので
結局我ありとは言えんのでは??これに誰かすっきり答えて下さい。
17 :
考える名無しさん:01/11/04 14:56
18 :
考える名無しさん:01/11/04 15:22
>なぜ思考してれば存在する事になるのでしょうか。
なら存在しないものがどうやって思考できるのか教えてくれ。
話はそれからだろ。
1の疑問に納得していないと言う事は
存在しないものがどうやって思考できるかを
納得しているという事だからな。
19 :
考える名無しさん:01/11/04 15:39
思考と認識は違うと思われ
20 :
考える名無しさん:01/11/04 15:47
思われはうざいと思われ
21 :
考える名無しさん:01/11/04 15:52
まずデカルトはあらゆるものを疑うところから出発する。
そのうえで、それらを疑う主体自体は否定できない、という
結論にいたるんだけど、この主体は1のいうような実際に
どこか存在するものとしての主体ではないんだよね。
それとは逆に、疑うことによって始めて生起するような主体(性)、
これをデカルトは「コギト」といってるんだな。
22 :
考える名無しさん:01/11/04 15:54
1さんは「出発点」で「到達点」レベルの納得感を欲してるのでは。
電脳空間の中にバグみたいな形で〈意識〉が生まれてしまい、
その〈意識〉がコギトを再発見するというシーンは、
SFによく出て来るね。
デカルト自身の記述よりもそういう情景を思い浮かべた方が、
コギトの論理構造を理解しやすいと思う。
∧ ∧
/ ヽ ./ .∧
/ `、 / ∧
/  ̄ ̄ ̄ ヽ
l::::::::: .l
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ヽ::::::::::::::::::: \/ ノ ほんとかニャ〜〜〜?
25 :
考える名無しさん:01/11/04 16:10
>>18 じゃあ、存在と非存在とはどう違うのですか。存在しなくても
疑える蓋然性はあり得るのでは?
>>25 話にならないと思わないか?
存在する、しないは 0/1、あるかないか「どちらか」ではないのか。
>存在しなくても 疑える蓋然性はあり得るのでは?
この文によると
存在というものは
「ちょっと存在する」とか「あまり存在しない」
という状態があるようだが、これはどういう事かね?
27 :
考える名無しさん:01/11/04 16:52
>なぜ思考してれば存在する事になるのでしょうか。
レバ・タラの推論によるのではなくって、「考えているたび毎に」ルネちゃんには
明晰判明に不可疑に「私はある。私は存在する」という直観が現前しちゃったんだよ。
だから、現前しない人には説得力なんてまったくないさ。
存在するという事は何かができる(疑える)という意味であり、
存在しないという事は何かができないという意味ではないのか?
だとすれば存在しないという事が「既に」何かができないという事を
指しているのだから何かができるとはいえない、
何かができる(疑える)のならそれは存在しないという事ではない。
違うか?
君のいっている事を書き出してみると
存在しない=何かができる(疑える)
何かができる=存在している
存在している=存在していない
存在しているが存在していないと言っているわけだ。
存在しているが存在していないとはどういう事だ?
29 :
考える名無しさん:01/11/04 17:19
仏教的に言えば、我あり、ゆえに我思う、ということになるかな。
心があるからいろいろ余計なことを思い考えてしまう。
我思う、なんとなれば、我あるから、と理解しているけどね。
「我思う」は「我あり」の状況証拠。
30 :
考える名無しさん:01/11/04 18:10
こだわるような言葉かね、これが
自分がこの言葉にこだわっているだけじゃないの
自己陶酔
31 :
考える名無しさん:01/11/04 19:24
>疑っている自分を認識しているのは誰?その疑っている自分を認識している自分を
>認識しているのはだれ?我を意識だとすると、その我の存在を客観視できないので
>結局我ありとは言えんのでは??これに誰かすっきり答えて下さい。
これは蟻地獄ってやつで、結局、出口なんてないんじゃないか。
なぜこの蟻地獄にはまってしまうのか?(そこが重要)
早い話し、「話し言葉」(心の声)を中心に「思考」するから。
ここには暗黙に、経験的な意識とか感覚というものを言い表せる
っていう図式が隠されてるんだなあ。
なんてったって、<言葉で考える>、のだから。ズレるにきまってる。
その図式(OSだよな)で「思考」する限り、蟻地獄でしょ。
この「意識」ってやつを中心にぐるぐると。同じOSの中で。
ノートン・ユーティリティー(修復ソフト)でもこれを動かすOSが壊れていたら、
コンピュータは直りません。それと同じ(?)
ただ、西欧近代は歴史的に内発的にこういう近代的なOSが生まれてきたから、
「我思う故に我あり」で、ずっと来れたわけ。疑いが徹底して壊れる手前で、
ストップできちゃうわけ。
でも、日本は、輸入品でしょ。だから、まともにぶちあったら徹底も徹底
なわけ。だけど、西欧人きどった日本人「哲学者」や「文学者」「小説家」
なんかが、うすっぺらなモノマネでやってきたんだよ。ポエティックにさ。
もともと日本にこういうOSが本格的に輸入されたのは、日本政府が「言文一致」
というものを押し進めてからなんだ。だから、もし1のような悩みや疑問があった
としても不思議ではないんだけど(ある意味まとも)、それはどこか「フェイク」
に思えて(見えて)しまうという土壌なんだな、この日本では。
論理を舐めるな。
33 :
考える名無し:01/11/04 19:40
>>1 ニーチェの批判のように解釈すれば理解しやすいよ。
「疑う」からには主体が存在しなければならない、
つまり→「疑う」ということは、「○○が疑う」の「○○」が存在しなければならない。
という文法構造に規定されてる、っていう考え。
本格的なデカルト論になると、別の解釈の仕方も色々あるけどね。
34 :
考える名無しさん:01/11/04 19:43
>>31 ノートン入れたら、逆に挙動不審になることが多いんで注意。
>>33 いや、言ってることはわかるんですけど、納得できないんですよ。
疑っている→ならば、疑っている自分は存在する
って事ですよね。
でも、それが理論上は正しいとわかってても納得できないんです。
例えば、1+1は2になるって事を納得してない人に、2を半分に分けると1が二つできる。
だから1+1は2なんだ。って説明されても納得しないだろうってのと一緒で。
全てが現実ではないとしても、今こうやって思考している「何か」は存在するはずだ。って考えが、既に「何かが存在しないと思考できない」という決まりごとの上で成り立っているわけですし。
そもそも思考だの疑うだのの行為の在り方もわからないのに、その行為をしているから存在するんだ、と言われても……
36 :
考える名無しさん:01/11/04 20:54
>そもそも思考だの疑うだのの行為の在り方もわからないのに
そもそも、疑うや考えるが行為かどうかすらあやしい
37 :
考える名無しさん:01/11/04 20:55
何かが存在しないと思考できないという事を
「ただの決まりごと」だとなぜ思うのか。
38 :
考える名無しさん:01/11/04 21:00
ここは哲学板なのだから
1はただ人に聞くだけでなく
どこがどう納得できないのかを説明するべきだと思う。
39 :
考える名無しさん:01/11/04 21:03
>>33 そうだね、ニーチェは「雷が鳴る」という文があると、
「雷」というものがもともとあって、それが鳴ったり
鳴らなかったりすると考えるてしまうが、それは
構文に引きずられた不当な実体化だみたいにいってる。
It rains.という文の主語のitについて考えてみるべき。
構文が主語を要請している。
40 :
考える名無しさん:01/11/04 21:41
>>36 疑うや考えるが行為でないのなら何ですか?
41 :
Iridium:01/11/04 22:34
あんま自信ないですが、一応。
別に「自分」というほどのものが存在しなくてもいい。
例えば、今感じているものや
見えているものが全部シミュレーションで、
架空の存在だとしましょう。
存在する可能性がちょっとでもないものを
全部削ってしまう。
限りなく後退して、もっとも謙虚な位置まで行く。
そのときに存在するものは何か?
とりあえず、『「そこに何かがあるかどうか」
もしくは「後退すること」を考えている何か』は
間違いなく「ある」と言っていい。
>「何かが存在しないと思考できない」
> という決まりごとの上で成り立っているわけですし。
「何かが(物質が)存在することによって思考する」
ではなく、ここで言われているのは
『「思考する(認知する)」ことがすなわち「(対象が)存在する」こと』
です。
「我々がやろうとしているのは
現象についての議論ではなく認識についての議論です」
ってことです。たぶん。
信じている自分の「信じている事」や「信じている対象」を疑うことは出来ないが、今、自分がそうして疑っていること、そのものを疑うことはできない。
ゆえに、われあり。
43 :
考える名無しさん:01/11/04 22:57
>>1はなかなかセンスのいい食い下がり方を見せている気もするのだが…
>>9で説明したように、「そこらにあるモノ」の存在についてはいくらでも疑える。
しかしそれを疑っている=考えている自分の存在は否定しようがない。
しかし「モノ」についていわれる存在と、この自分の存在とは、確かに種類が違うようにも思えるわけだ。
それは、まず「存在」という言葉で、そこらに「モノ」があるような仕方で「ある」あり様を思い描いて
しまうからではないか。つまり「存在」を対象として考えてしまう習慣が、先にないか。
しかしところが、疑っている=考えている自分の「存在」は、ただ論理を突き詰めていった結果導き出さ
れた答えでしかなく、まさに対象としての「存在」イメージが得られるわけではない。だからそれは「存
在」ではないんじゃないか?という気がしてくる。こういうことなんではないか?
この二者の違いはかなり重要だ。存在の審級が全く違う。ハイデガーが「現存在」分析から出発しては先
に進んで「存在」一般を問えなかったのと通じるところがある。おれはこれ以上答えられない。誰かやっ
てくれ。
「思考するということ」は存在していませんか?
考えている ということが存在していなければ、あなたは何をしているんでしょう。
わたしたちは思考していないんだろうか?してると思わないんですか?
思考する、ということが存在するのならば(その存在は=考えることになるけど)
その思考というもの自体に「我」というものの存在を認めることが出来るのではなかろうか。
45 :
考える名無しさん:01/11/04 23:21
>>41 とか
我は我を疑う資格を持ち得ず、
我とはその程度のものということかしら?
46 :
musuko:01/11/04 23:26
「我オモウ故に我アリ」
この言葉は
静的で記号的で、つまり、「我〜リ」の九文字に過ぎないハズなのに
それ自体が永遠性や連続性を持ってるってところがスゴイ。
「我」でも「オモウ」でもなく「故に」の部分が、です
これは「故に」の使い方を教える前例に、あるいは
人によってはBasicなTextになってるのだと我オモウ
この言葉のおかげで有限な我々は目の前に時折現れる
図りかねるもの、又は永遠を予見させるもの、を
言葉の枠の中に収納することができるようになった
もう怖くないぞ!・・・というところがエライ。
と、やはり我オモウ
>>44 何度も言いますが、
周りの全てを疑っても、疑ってる(思考している)以上、自分は存在するのだ。
という考えが何故か納得できません。
思考するからには、思考している何かが必要
何かが思考している。それが我
後者はわかります。
ただ、何故思考するのに思考する何かが必要なのかが理解できないわけで。
そもそも、「思考」という事自体、するという行為なのか?
てか、思考って何よ?
と思ってしまうわけでして。
48 :
Iridium:01/11/04 23:31
思考=我
49 :
メガネ(ロン!):01/11/04 23:32
>何故思考するのに思考する何かが必要なのかが理解できないわけで。
味も素っ気もない答え方をすると文法上必要だから。
「考える主体」を1はハードウェアと決めてかかってるんじゃないか?
だとしたら、1が納得できないでいるのも判るんだが。
この場合の「考える主体」って、ハードウェアじゃなく、
ソフトウェア(の処理プロセス)自体を指しているんだよ。
51 :
考える名無しさん:01/11/04 23:34
>>47 うん。それが我ありという状態だと思うよ。
>>47 思考する=考える・・・貴方が今していることでは。
>47
デカルトはその思考すら疑っていたのでは?
だから思考している自分を疑って見たのでは。それも思考だが、始めて自らの思考の永続性に根拠を得たと悟ったと俺は考えている。
最初にあるのは現象で、それを物と述語に分割するのは、
単に言語がそうなっているというだけのことで、
論理ではなく文法上の決まりごとにすぎない。
日本語でも「落雷する」とか「積雪する」という動詞は
主語述語に分節しないまま現象を表現してるよね。
そういう感覚で例えば「考我する」という動詞を仮定してみよう。
その仮定上の動詞の名詞形「考我」がデカルトのコギトなんだよ。
×得たと悟ったと
○得たと
>>47 >何故思考するのに思考する何かが必要なのかが理解できないわけで。
おおおお!
これ分かるよ!言えてる!不思議だよね!
思考と存在はすんなり結びつかない感じがする。
隠れた飛躍があってもおかしくないんじゃないかなあ。。。
>>49-50 そう考えると、理論上は理解できます
思考という行為をしている以上、その行為を行っているプロセスが存在するわけで、
それ故に我ありという事になるのでしょうか。
その「思考という行為を行っている以上、その行為を行っているプロセスが存在する」
という考え方が、何故か直感的に納得できないのです。
論理として正しいのはわかっているのですが。
>>52 今私は思考していますが、存在している実感はありません。
58 :
考える名無しさん:01/11/04 23:44
何もなかったら思考も何も無いのでは・・・
「何も無い」ものは考えるんでしょうか。
いや、なんつーか、その
「何も無かったら思考はありえない」
「思考しているから、何かがあるはずだ」
ってのが何故か納得できません。
哲学板のみなさん、上手く説明してほしいっす(マジで
60 :
考える名無しさん:01/11/04 23:46
人間の論理形式だと解決できないんじゃないの?
>>60 僕も薄々そうだと思ってます。言語を利用している以上。
>>33にも少し書いてあるけど、「存在」に限らずあらゆる概念は、まず誰かがソレに
ついて意識することで、初めて成立するわけ。「何かが自体において勝手に存在して
いる」ということはなく、存在というのは(暗黙のうちに)常にある主体に「認識」
されていることを前提としている。誰かが「そこに…がある」と認識する形で初めて
成立する。じゃあ「この世の人間が全滅したら太陽や北極星も存在しなくなるのか」
的な突っ込みがはいるけど、そういう問い自体がまず、ある特定の主体から発せられ
ているわけで、そこから抽象的な、認識主観を伴わない「存在」というものを想定し
ているにすぎないわけよ。
だから「そもそも『存在する』って、いったいどういうこと?」という存在論の問い
は、ハイデガーみたくより具体的な「主体の問題」に繋がっていくわけね。近代に端
を発する「認識論」というパラダイムは、主客を二分する前提からして間違っている
から、形而上学のいったちごっこに陥ってしまった、と。
63 :
考える名無しさん:01/11/04 23:50
確かに言語では難しいかも・・・
思考は「存在する」ものだということではないでしょうか。
64 :
考える名無しさん:01/11/04 23:50
要するに、思考していれば何かがあるっていうことは、何かがあるから
こそ思考できるっていう前提が必要だってことでしょ。んで、思考して
いるからそれが「我」だって論理的に結びつかないってことかな。つま
り、誰かさんの思考と自分の思考が絶対同じじゃないって証明できない
ように、思考しているものが自分だとは実感できないってことか??
65 :
考える名無しさん:01/11/04 23:51
>>1 我が有ることの絶対性の保証にはならない。
私が疑えないのは、疑うことができる、
自己反省能力だけで、私の存在の絶対性を保証するわけではない。
参考:『哲学の歴史』
66 :
考える名無しさん:01/11/04 23:54
誰の本?
67 :
考える名無しさん:01/11/04 23:55
新田義弘
68 :
考える名無しさん:01/11/04 23:56
>>1 何かがあるはずだってのは確かに間違いだね。
デカルトもあなたとまったく同じで
「ほかの事はわかるが思考はなんだかワカラン」
と言ったと考えちゃってよいです。
69 :
考える名無しさん:01/11/04 23:59
>1
「思考」というのを自動詞と、とらえるからいけない。
思考することは実際は、対象との関係からくる反作用であり、
その際に生じた、反作用をまとめあげるものとしての仮象が
「主体」とよばれることになる。
70 :
考える名無しさん:01/11/05 00:00
それってサルトル?
あー!このスレ面白い!
みんな、すげーじゃん。。。
むふむふ。
72 :
考える名無しさん:01/11/05 00:05
>>70 いや、デカルト。
冗談じゃなくておれは本当にそう思ってる。
ラジオで例えるとして……
ラジオ放送が鳴っている。故に受信機が存在するはずだ。
ってのが納得いかないわけです。
今こうやって思考している。故に思考している何かが存在するはずだ。
ってのが、ホント納得できません。
受信機も発信機も無くても、音だけなるかもしれない。
それと同じで、我が無くても他者が無くても「思考(その場合は最早今思考と呼んでいる物ではないが)」
だけが存在しても良いのじゃないかと。
この場合、思考という言葉を認識に置き換えても同じです。
存在するのは我ではなく、認識という概念だけではないのか。
なんか言いたいこと纏ってなくてすみません。
74 :
考える名無しさん:01/11/05 00:09
このスレ割と面白い。
1の表現力と問題意識が絶妙。
今後の伸びに期待。
「われ思う〜」は、土台となる「何か」を相対的に認めない限り
発生しないよね。
その時点で「何か」の存在を「我」の前に認めていないかな。
主体となる私の前に。
「疑っている」という現象がいまあることが、仮に確かだとしても
いったい「私」はどこから来たのだろう。「私」という言葉を知ら
なければ、「我あり」とさえ言えない。
>ラジオ放送が鳴っている。故に受信機が存在するはずだ。
ってのが納得いかないわけです。
ラジオの音はなんでもありません。あなたがそれをラジオの音だと感じた瞬間
からラジオの音になります。つまりあなたが何かに思考するまではこの世の中にはなんにもないのかもしれない。
それがあなたが思考した瞬間対象が生まれるのでは?そうして思考した瞬間にそれを感じているあなたが発生するのではないでしょうか?
自己の認識が省察という形をとる以上、意識の対象にできるのは常に過去の自己でしか
ないので、認識する自分自身を同時に認識することはできません。1秒前の自己を意識
することはできても、今現在の認識している自分は永遠に認識できないのです。自分を
認識するには、まず他の物体と同じように自分を意識の対象にしなければなりません。
その際にラグが生じるわけです。
さきほども述べられていましたが、これは物事の一つの捉えかたなので
色々他の考えはあると思いますが。
79 :
考える名無しさん:01/11/05 00:17
因果を求める認識の・・・???
81 :
考える名無しさん:01/11/05 00:17
1>「我は無くても思考はあるかも知れないじゃないか」と言いたいんでしょうか?
そうだとしたら、その思考が自分だと思えばいいのでは。
82 :
考える名無しさん:01/11/05 00:18
>>73 だからあなた、主体性(思考している何か)を実体的に
とらえてる限り、いつまでたってもいまの回路から抜け出せないよ。
「我」というのは日本語訳したときの便宜的なもので、
デカルトがいったコギトはむしろ、あなたが
>存在するのは我ではなく、認識という概念だけではないのか
というときの「認識」に近いよ。
>76
対象を意識して自我や意思の方向性が決まるということですか?
対象を思考した瞬間自分ができるのかもってことです。卵が先か鶏がさきか。
85 :
考える名無しさん:01/11/05 00:22
>>82 その認識はどうやって客観存在たりえるのですか?
・目に映る全てが偽りだったとしても、それを認識している自分という物は存在するはずである
・周りが全て虚構でも、「虚構ではないか?」と思考している自分という物は存在するはずである
というのが「我思う故に我あり」ですよね?
認識(思考)しているんだから、それをしている何かはあるはずだ。ってのを疑問視しています。
さっきのラジオの例えで言うと、音が鳴っているんだから、それを鳴らしている何かがあるはずだ。ってのが納得できないって事です。(あくまで音は例です)
87 :
考える名無しさん:01/11/05 00:27
>>85 たりえないって言ってるんでしょ。よく読んだら?
>>85 実際上は記述することによってそれはなされると言ってもいいけど、
それは本質的にはたんに共有されるだけであって、客観存在となるわけ
ではない。というか、客観存在でなければならない、という命題自体が
必要なわけではない。
『哲学の歴史』新田義弘 講談社現代新書 p69〜71 「自己意識の構造と役割」
近代の意識哲学では、「すべてが意識の対象である」ということと、「意識が自己を意識するということ」とがたがいに切りはなしがたくむすびついている。というのは、意識それ自身がみずからを意識に与えるという構造に見られる、
意識の根源的な自己所与性のもつ根源的な明証性が意識によって対象化されたものすべてを究極的に正当化する根拠としてはたらくからである。
デカルトの発見的手続きによって取り出された自己意識は、まさにこの近代哲学の意識哲学としての原理にあたるものだった。それゆえ自己意識の確実性は近代の学問的知識の確実性を最終的に保証する原理とされた。
一般に自我の原理といわれるのは、このように近代の理性が自己自身をつねに意識する理性であることを言い表している。
デカルトは、この自己意識の発見から、思惟を属性とする「精神」という実体を導出していったが(次章でもふれるが)、これはかなり強引な論理的飛躍であったといわれている。
デカルトでは自己意識の方法論的発見はきわめてユニークな手続きを踏んで行なわれたが、発見された自己意識をどのように哲学の論理のなかに位置づけていくかという手続きにかんするかぎり、きわめて不十分だったのである。
このことは、自己意識の構造に関する近代の議論がきわめて困難な点を含んでいることと無関係ではない。
というのは、このように意識が自己を意識するのは、意識が意識以外の何かを意識しているかぎりにおいてである、ということが見失われてはならないからである。
ということは、意識が機能するかぎりにおいてのみ、自己意識もまた機能しているということであり、したがって意識は意識そのものにつねに非対象的な仕方でのみ、つまり暗黙的にのみ与えられるということである。
そのことはすでに当時、マールブランシュがデカルトを批判して、自己意識とは一種の感情だ、といっていることにもうかがわれることである。
またのちにカントは、「われ思惟す」という純粋な思惟の形式にすぎないものを実体化して、「こころ」とか精神とみなして、そこから「不死性」とか「非物質性」という性質を導出する思惟を、誤った形而上学的独断(誤謬推理)として徹底的に批判した。
自己意識はそのまま意識の自己措定的な自己関係(主題的自己反省)と同一視されるべきではない。
したがって自己意識の機能を単純に、意識の自己絶対化(または実体化)の原理だとみなす(デカルトが思惟する精神を実体とみなしたのもその一例である)はできない。
意識が自己意識の機能をもつことと、意識の自己反省を絶対化することとはまったく別のことであるのに、近代の意識哲学の展開およびその批判のなかで、両者がしばしば混同されている場合がある。
ここから、自己意識の理論を近代主観主義哲学の悪しき元凶とみなす極論がでてきたり、逆に自己意識論を近代の大いなる遺産として守ろうとする反論がでてきたりする。自己意識と哲学的な反省の問題については、第5章のフィヒテの箇所でまた言及するであろう。
90 :
考える名無しさん:01/11/05 00:29
>>86 ていうか、お前にとってお前は「ある」のか?「ない」のか?
この問題はそれが全てなのだが。答えてくれ。
>>86 音が鳴っているなら、それを聞いている何かがあるはず、
それが我と思えばいいんじゃない?
>86
え!そうなの?
偽りっていうのは関係性から生まれるものじゃない?つまり偽りでも正しくてもいいから
そういう状態になったときあなたが生まれているのでは?その前にはなにがあるかは
わかりません。
>>86 >>82で言ったように、またその前のいくつかのレスでも指摘されてる
ように前半は間違い。
>>90 わかりません。
あるようなないような……
>ALL
元々、我思う故に我ありを幾ら説明してもらってもわからなかったので、スレを立てました
僕自信にはそんな深い思想とか考えがあってのことじゃないので、期待しないでくださいw
思考している→自分がある
この「→」が理解できないんでしょーか?
じゃあ思考=自分 ってしたら?
自分の存在意義は他の何でもない、この「考えていること」にあるのだと。
それは既に何故と問うものではなく、「そういうことにするんだ」という前提になるような気もするのですが。
(でも前提って反則だよね・・・)
思考に我という名前をつけて呼んだ、それじゃ駄目なんですか?
1の疑問自体は筋の良い疑問だと言える。
バートランド ラッセルも『西洋哲学史』で書いているくらいだ。
――デカルトの疑い得ない事実は、彼自身の思考
(思考という語を最も広い意味に用いて)であった。
「わたしは考える」が彼の究極的な前提なのだ。
しかしここで「わたし」という語はまさに不当である。
デカルトは彼の究極的な前提を
「考えがある」という形態で述べるべきであった――
しかし「わたし」という語を持ち出すのが論理的に不正確でも、
日常的な言語を使う限り、コギトの内容を
「わたし」という語を使わずに語ることは難しい。
論理的に正確な表現を無理に通そうとしたら、一種の人工語、
嫌なタイプの「テツガクテキゲンセツ」になってしまう。
「テツガクテキゲンセツ」になっていたスコラ神学
への反発から日常語で書いたデカルトの意思をくんで、
上のラッセルの言い換えみたいな形に好意的に読み替えるのが、
生産的な理解のしかただと思うよ。
別に「生産的理解」をしないといけないわけじゃないんだけどね。
>1
哲学用語で武装してるよりはよっぽどましです。
どんどん話しましょう。
>>94 つまり、我思う故に我ありってのは
「音が鳴っている(思っている)から鳴らしている何か(思っている自分)が存在するはず」
ではなく
「音が鳴っているから(思っているから)、音は(思い)存在するはず」
(認識しているから、認識は存在するはず《最早自分で何を言ってるのかわかりませんがw》)
ってことですか?
「意識の対象」とされた時点で、「ラジオの音」も「自分」も何ら変わりありません。
意識されることだけで存在するのに十分なら、「ラジオの音」も「自分」も同じく存
在しなければなりません。
>99
ああ、それでさらにその認識すら疑ったのか、デカルトは。
凄いなあ。
>>99 音を我と呼んだってことじゃないの?ねぇねぇ。
だからやっぱり原因を求めてしまう認識の
必然性ってことじゃないのかなあ?
>>99 簡単にいえば、全てを疑い尽くしたとしても、
その疑っている自分を疑えない。だから自分の精神は絶対だ。ということ
しかしこれで疑えないのは、疑うことのできる能力・機能。
それを自己の存在の根拠にまで適用範囲を拡張するから論理的な飛躍になる。
>>102 いや、
我思う故に我ありと
我認識する故に認識あり
では随分言葉の意味が違う気がします。
現に僕も、「我」という言葉に惑わされましたし
>>104 そして僕はその飛躍の部分が納得できませんでした。
疑うことのできる能力・機能は疑えないというのはなんとなく理解できました。
ありがとうございます。
107 :
考える名無しさん:01/11/05 00:56
なぜ1が納得いかないかの糸口が見えてきた。
ふつうデカルトのコギトの明証性については、
「われ思う故にわれあり」と訳されるが、
そこで動詞として示されている行為は、本来、
自動詞としての「思う」でもなければ、「考える」でもない。
それはすなわち、対象によって「考えさせられる」
「思わされる」ということであり、またそのとき主体とは、
対象によって「考えさせられる」「思わされる」うえでの
受動装置である。
>107
ええ、そうだったのか!
俺も微妙に間違えてるじゃん!
109 :
考える名無しさん:01/11/05 01:02
110 :
考える名無しさん:01/11/05 01:29
>>107みたいな間違いは間違いってどんどん言って積極的に消してこう。じゃないとマズイ
>>1はとりあえず、
(1)一般に「ある」とか「存在」ってのはどういうことを意味するのか?
(2)「疑う=考える自分」の「存在」ってどういうことを意味するのか?
(3)1と2に違いがあるとすればどこか?
を考えてみてくれ
思うに
>>1は、実は(1)についてかなり素朴な考えを持っていてそれが(2)には
適用できないがゆえに悩んでいる。最低限(1)と(2)の違いを意識できなければ
考えが先に進まない。これ宿題。
111 :
考える名無しさん:01/11/05 01:31
いわゆる単なる志向性。
あぶねぇ、納得するところだった。
直感だけで理解してたから、いまいち自分に自身が無かったから。
113 :
考える名無しさん:01/11/05 01:36
「われ思うとわれ思うがゆえにわれありとわれ思う。」
こうすれば、確実性への接近ということでは、従来のいかなる哲学者
にも遅れをとることはあるまい。
―――A.ビアス―――
×自身
○自信
訂正多いな、俺。
117 :
考える名無しさん:01/11/05 01:49
×〜ケリをつけたのだが。
○〜ケリをつけたつもりだったのだが。
我思う故に我あり
↓
「いま私は考えている」故に「いま私が考えているということ」は存在する
119 :
考える名無しさん:01/11/05 04:09
どっちにしても、認識の主体はあるでしょ。認識の存在を認めるんだったら、
認識の主体も認めてよ。もちろん客観的な実在と言う意味ではないよ。自分
(主体)にとっての存在でしかない。
121 :
考える名無し:01/11/05 15:08
ここはデカルト解釈に沿って話を進めてるんじゃないの?
俺は別に
>>107は間違いとは思えないんだけど。なぜ間違い?
神の証明に移行する部分のことを言ってるんじゃないの?
122 :
考える名無しさん:01/11/05 15:47
このスレッドはちゃんとした方向に向かっていると思うので、
凄いとか深いとか考えさせられるとかそういうのは邪魔なんですけど。
>>113 私も「悪魔の辞典」もってます
思うの連続性を言い得てると思う
>>96 え、デカルトもそう言ってなかったっけ?
読んだのだいぶ前だしな…。解説書とごっちゃになってるかも
126 :
考える名無しさん:01/11/06 09:35
>>121 とりあえずデカルトの間違いについての
>>65解釈に沿っている。
1はデカルトが何を言ったかには興味無いようなので。
127 :
666 ◆xenNZQbg :01/11/06 09:41
皆色々考えてるね
それが実は我あり=自分の意見がある
ってことなんじゃない?
128 :
Ray.na ◆8bwLPiQ6 :01/11/06 09:47
ゆえに、というのはそんなに決定付けるような「だから」とはちがって、
逆に消極的なものなんじゃないの?
「私が存在するといえるのは、私が考えているというこの事実によるんだ」ということ。
「私は考えているのだから、つまり私は存在するんだよ」というような強い「だから」
ではなく、自分の存在のよりどころはね、という繊細で謙虚な「故」だと思うんだ。
129 :
Ray.na ◆8bwLPiQ6 :01/11/06 10:00
>>128に関しては
デカルトの言葉はそれしか知らないので、私が勝手に納得しようと
思うなら、っていう解釈です。それならありえるでしょう?
「だから存在する」という根拠付けはできないけど、「存在を確認
するよりどころがそれ以外にない」というのはわかるから。
130 :
考える名無しさん:01/11/06 23:54
デカルトはすべてを(夢ではないかと)疑うところから出発した。
しかし、それを疑っている主体は否定できないという結論にいたる。
これが基本線。
それをふまえた上で、
「われ思う故にわれ在り」という訳語には問題がある。
まず「思う(または考える)」というのが誤解を生みやすい。
しかし、それ以上に問題なのは、最初の「われ」といわれているものと、
その次に「われ」とよばれているものとは異なる性質のものであるという
ことである。
最初の「われ」が経験的な自己だとしたら、その次の「われ」はその
メタレベル(超越論的)としてある自己である。
だがここで、そのメタレベルの自己をさらに疑う自己が生じ、
無限後退の陥穽におちいるではないかという疑問がわくと思う。
しかし、ラカンが(別の文脈ではあるが)いってるように、
メタレベルのメタはないのである。
ためしに、自分の存在というものを疑ってみる。
そこからさらに、その疑っている自己の存在について疑ってみるとする。
実際にやってみればわかるが、そのときのメタレベルを疑っている自己
は対象にたいするメタではなく、経験的自己にもどっているのである。
よって、デカルトのコギトは、メタレベルにおける自己(経験的自己に
ついての自己あるいは自己の経験についての自己)といっていいと思う。
131 :
考える名無しさん:01/11/06 23:56
ガッコでは、「考える我」がそのまま「在る我」と同一の我であることを保証するには
それより上位の我がなきゃぁならない。
そうすると無限後退するから、だからコギトエルゴスムはおかしい
って言ってたような、言ってないような…
132 :
考える名無しさん:01/11/07 00:03
ガッコの先生が正しいとは限らないからね。
>>130 経験的自己について、もうちょっと
詳しく定義してくれない?
134 :
Ray.na ◆8bwLPiQ6 :01/11/07 02:17
んで?私がさっき書いたあれはあれでいいの?ダメなの?
そのへん詳しく教えてくれたらありがたいなあ。。
136 :
Ray.na ◆8bwLPiQ6 :01/11/07 02:27
>>1に対するレスですが、
ゆえに我あり、というのは「・・・だから自分が確かに存在してると
いえるんだ」、「・・・だからつまり、自分はいるんだよ」
というのではなく、単に「自分の存在は・・・によってやっと感じ取れ
るものなんだ」というものじゃないかな、って。
つまり、故に、の解釈しだいでその言葉は>>1さんがいうように不思
議に思わなくてもよくなると。
ま、人に聞かずに自分で読んでみるほうがいいかな。高校の倫理の参
考書には載っていそうだね。
137 :
考える名無しさん:01/11/07 02:58
1が疑問に思ってるのは
「疑う」という行為を我々は後天的に習得した
言語を用いて行っているわけだが、では言語を
用いなければ「疑う」ことはできないのか。
ならば言語がなければ我々は存在しないのか?
ということでは。
138 :
考える名無しさん:01/11/07 03:19
我思う故に我あり。
A「故に」B。
この場合のAはBの原因(
>>128強い「だから」)ではない。
Ray.na のいう1さんの疑問の解消法の糸口として
この主張は正しいと思う。
Ray.na の感想の「自分の存在は・・・によってやっと感じ取れ
るものなんだ」という気持ちもよくわかる。けれども
デカルトは自分という「実存」の確証を得ようとして
懐疑しているわけではない。それは学の体系の基礎を
得るための懐疑。彼の著作を読むと実存的不安の様な
ものを感じるのだけれども、それはあくまで学問の為の
方法的懐疑から派生したものだと思う。文学的読解を
排斥する必要はないけれども、それは本線ではないと
思う。
139 :
考える名無しさん:01/11/07 03:28
>>133 ふんだの日常生活レベルで自然に考えたり、何かを思ったり
している自己。反省されていない自己。
>>131 おれは、上位概念を基礎付けとして求めること自体が、
神学的思考の枠組みによるものだと思う。あるいは、
メタレベルを上位概念と規定することも。
おれは、メタレベルは裏かオモテかの問題だと思っている。
つまり、裏のウラはオモテであり、メタレベルのメタはない。
140 :
mimesis:01/11/07 03:40
>>139 >メタレベルは裏かオモテかの問題
イメージとしては
球面上でのゲシュタルトの反転を考えればよいのかな?
141 :
Ray.na ◆8bwLPiQ6 :01/11/07 03:41
>デカルトは自分という「実存」の確証を得ようとして
>懐疑しているわけではない。それは学の体系の基礎を
>得るための懐疑。彼の著作を読むと実存的不安の様な
>ものを感じるのだけれども、それはあくまで学問の為の
>方法的懐疑から派生したものだと思う。
なるほど。あくまでも学問的で、哲学的なものなのね。
って、そりゃあそうですよね、だって哲学者なんだもん。
ということで、デカルトのことなんかいおうと思ったらとりあえず
倫理の受験用参考書くらいは読んどくべきだということかな。
で、できたら著作も目を通しとくと。
レスしてくれてほんとにありがとね。哲学者と話す機会もそうはないし。
まして哲学者に簡単な言葉で説明してもらうこともそうそうないので、
今回はラッキーだった。
でも、こんなに親切にレスしてくれるとは、もしかして、私のメル友の
哲学者の卵さんだったりする? 違うかな
142 :
666 ◆xenNZQbg :01/11/07 04:01
一所懸命考えた己の思いは己以外の何者でもない
じゃないか?
>>141 メル友さんじゃないですよ。私(mimesis)。
名前の部分コピペで書いてたら呼び捨てになって
ましたね。失礼しました。
『方法序説』は後半は科学っぽいはなしになって
つまんないかもしれない。 けれども前半は面白い。
もともと『叙説』は3つの論文のための序論。
『序説』は論文じゃなくて
いわばエッセイだから読んでみてください。
144 :
Ray.na ◆8bwLPiQ6 :01/11/07 04:53
情報ありがとう。
なんか照れてしまうくらいやさしいね。
いつも意地悪な人が多い2ちゃんねるで、親切だったり丁寧な態度
をされると照れくさくなってしまう。
序説、読んでみますね。たしか昔デカルトの本を持ってないかって親
に聞いたら、「デカルトはもうだめだ」ってはき捨てるようにいって、
挙句はくだらないことに興味を持つなと罵られ、ウィトゲンシュタイン
くらいはやらんと意味がないとかいって分厚い全集を勧められ、大喧嘩
になった覚えがあります。
まず最初に歴史を知りたい、順序良くやりたい、といったときも、
「マニュアル的なやり方しかできないやつはバカだ」と罵られてまた
けんかになったし。
大学なんか死んでも行かない!って決意したのは、一連の親とのケン
カが原因だったかも。
と、またスレ違いにも自分語りをしちゃったけど怒らないでくれるかな。
145 :
考える名無しさん:01/11/07 04:55
いいとこのお嬢さんだったんだ
146 :
rage@ぶっとい漢:01/11/07 05:04
いいとこのお嬢さんと一発やりてーよ。
ハァ〜
>>144>「デカルトはもうだめだ」
もしそれが真実だとしても、あなたにとってはそれは親の意見
でしかないでしょう。それをあなた自身が確かめたときに始めて、
それが納得できるはずです。
子供には間違ったものには触れさせたくないという気持ちは親の
気持ちとしては自然なものだと思います。
しかし、親がNOといったものをそのまま鵜呑みにしていたら、自立と
いうことはありえません。
デカルトを読むことによって得られる最良のもののひとつは、
過去の束縛からの自由ということだと思います。
あなたが自分でデカルトを読みことの意義も一端はそこにあると
私は思います。親の助言はとても大切ですが、勝手に読んでしまうこと。
これも大切だと思います。
148 :
Ray.na ◆8bwLPiQ6 :01/11/07 05:26
そうですね。
たしかに私は親が勧めたものは一冊も読んでない。本はいつも
隠れて読んでました。父親の価値観とか古臭い教養主義が、どうにも
こうにも尊敬できないのです。
たとえば親は私には英文学科に言ってアメリカ留学することをずっと
勧めていたけど、そんなことは私は一度も賛成したことがなかったし。
だからあなたがおっしゃるように、もちろん、自分で判断し、自分で
読みます。他の誰の言うことより、父親の言葉なんて信じないと思うし。
149 :
考える名無しさん:01/11/07 05:28
おもしろいね ここ
哲学を文学とをいっしょにして
言葉に酔ってる宙が一発でわかる
1は確信犯だな
わかりやすい話題をひっぱりすぎ
150 :
Ray.na ◆8bwLPiQ6 :01/11/07 05:43
>>149 それって私だけでしょ?
他の人もそういうレスつけてる?
151 :
考える名無しさん:01/11/07 06:28
>149
おまえがいちばんキショイ
152 :
149じゃないが:01/11/07 09:22
>>150 このスレ上のほうからずーっと読むと
ワケ解るやつとワカランやつがすごくはっきりしてておもしろいのです。
自分語りは少なくともワケわかるのでよろしいです。
153 :
考える名無しさん:01/11/07 19:27
>>120 カルテジアン・アーギュメントの妥当性を問うならそれが問題なんだよ
認識は存在しても認識主体や認識客体は存在しない、という立場がありえるから
そのコギト版がcogito, ergo sumを否定しcogitans estとする立場
>>139 微妙ないいまわしだね。
注意してほしいのは、
思惟主体を対象化しないでほしいということ。
前にもデカルト関係のスレでいたけど、
循環論法って言い出す人は、大概誤読が
原因。まあ、方法序説だけ読んだらそう思うのは
無理ないんだけど。
>>153 作用→作用主体を導き出す論拠
はたしかに、あやうい。
しかし、作用(思考)してない時の
存在は、保証してないんだけどね。
cogitans est?
だったら、
res cogitans est
も成り立ちうると思うんだが、
反論キボーン。
155 :
考える名無しさん:01/11/10 22:17
AGE
156 :
考える名無しさん:01/11/11 01:45
>>154 誤解を与えやすい言い方だったかもね。
もう一度わかりやすく喩えていうと、何か行為をしているときの自分(=経験的自己)
を客観的にもう一人の自己(=メタレベルの自己)が見てるというような感覚を経験が
あるという人は割合(哲学板だと特に)多いのではないだろうか。
循環論法というのは何を指しているかわからないけど、おれの考えは基本的に
一元論的な世界だからね。したがって上位概念は使えない。
メタレベルがウラかオモテかの問題になるというのは、だから一種の比喩であり、
メビウスの輪のようなものだね。
157 :
考える名無しさん:01/11/11 14:53
我は存在しない→我は思うことも出来ない。
ゆえに我思う=我あり。
以上
「思う事」じたい、自分がなければ存在しない事だから
「思う事」が出来るということは自分が存在するという
証だと言う事なんでしょう?
159 :
考える名無しさん:01/11/11 15:13
そうです。
キミは天才。
よくがんばりました
160 :
考える名無しさん:01/11/11 19:23
>>157-158は同じ答えとみていいのかな。
まさかみんなこれが答えだと思っているのかな。
これだと「思う」がこなければいけない必然性がないぞ。
つまり、「われ走る」でも「われ泣く」でも、
あるいは「われ思わない」でもいい。
それは、われが何かすれば、それはわれにしかできない
行為であるがゆえに、われが在ることになるという論理だろう。
これは証明ではない。
だいたい、その最初の「われ」を証明できないのでは、というのが
1の疑問なのだから。
161 :
mimesis:01/11/11 20:24
>>157は単なる対偶。
A → B の対偶。
Not B → Not A.
たいぐう 【対偶】 〔数・論〕〔contraposition〕一つの命題
「 p ならば q である」に対して、その後件の否定を前件とし、
前件の否定を後件とする命題「 q でなければ p でない」をいう。
ある命題が真ならば、その対偶も必ず真である。
162 :
考える名無しさん:01/11/11 23:34
ここでの1はその
我は存在しない→我は思うことも出来ない。
ゆえに我思う=我あり。
っての自体を疑問視してるんだろ。
なんで存在しないと思えないということになっているのか。
なんで思えば存在すると言い切れるのか。
理論上ではなにかが存在しなければ思うことなどできないとわかるけど、直感で納得できないんだろ。
それを「思うのは何かが存在しないとできないという既存の思考に囚われている」と言い表してるしな。
>>154 cogitans est
だったら、
res cogitans est
も成り立ちうると思うんだが、
res cogitansといった場合,認識作用そのものではなく作用の能所が
分離され,その能取といった意味合いが強くなるでしょう。
もし,純粋に「立ち現れ」そのものとしてのresだというなら,その存在
をカルテジアンの枠内では一応承認してもよいが,その場合のresは不変
の実体などではなくなり,マッハ主義的になってしまうと考えますが。
反論キボーン。
164 :
考える名無しさん:01/11/11 23:55
age
?走るでも、食べるでも良かったんだろうけど
本人が哲学者で、考えたり思ったりする事が
一番本人の存在証明に密着したことだったから
「思う」に表現したんじゃないの?
これがランナーなら「私は走る故に我あり」と
その存在証明をしたんじゃないの?
166 :
考える名無しさん:01/11/12 01:07
>>165 だからそれは現実の蓋然性に依存してるからそうなるのであって
証明としては成り立ってないんだよ。
つまり、あなたが自明視してることがあまりに根深いものであるため、
それを疑うことすら難しいということ。
走るのは我だけとは限らない。他人だって走るし、犬やロボット
だって走る。
あなたの論理にしたがうなら、それらもみんな我と同じものとして
みなすことになってしまうんだよ。「走ってるのは我である」と。
167 :
考える名無しさん:01/11/12 01:54
考えすぎて自他の境界があやふやになってきたんだけども考えているやはり間違いなく自分である、という己の知性への執着みたいなものが言葉になって現れたのではないかなぁ。
>もし,純粋に「立ち現れ」そのものとしてのresだというなら,その存在
>をカルテジアンの枠内では一応承認してもよいが,その場合のresは不変
>の実体などではなくなり,マッハ主義的になってしまうと考えますが。
>反論キボーン。
「作用があるゆえに作用主体がある」の論理の否定から、
作用そのものの不変性を確かにするのは、作用と作用主体の分離によって
じはじめて成り立つものでしょう。マッハ主義という批判は、
正直もうすこし説明を希望したいとことです。
170 :
考える名無しさん:01/11/13 03:22
1風に例えると
「始りがあるから終わりがある」とは言いきれないだろ
だから
「思うということは何かが存在しないとできない」という事にはならないのでは?
って事なんだろうな。
んで「我思う故に我あり」を1用に言いなおすと
「思っている故に思うという機能は存在する」ってとこか。
結局誤訳って事でよろしいか?