問うということは、求めることである

このエントリーをはてなブックマークに追加
28考える名無しさん:01/11/03 10:00
どんどんどんどん根源へさかのぼれってことじゃないの?
歴史を探究するときも、歴史とはかくあるべしという態度は排除せよ
ということでは?
29syunnsaku:01/11/03 11:35
>>26
ありがとうごぜいます。とても分かりやすいです。

>>28
流れはそうですね。
ちょっと具体的に「本来的な意味で歴史的に存在するもの」と、それの「歴史性」
ってのが、何を意味しているのか知りたかったものですから、質問してみた限りです。
30syunnsaku:01/11/03 11:43
ハイデッガー『存在と時間 (上)』(ちくま学芸文庫)P47〜48

 現存在は、たんにほかの存在者の間にならんで出現するにすぎない
存在者ではない。それはむしろ、おのれの存在においてこの存在そ
のものに関わらされているということによって、存在的に殊別され
ているのである。してみれば、現存在の存在構成には、それがおの
れの存在においてこの存在へ向かって、ある存在関係を持っている
、ということが属しているわけである。そしてこのことはまた、現
存在は己の存在においてなんらかの様式と明確度において、自己を
了解している、ということを意味する。この存在者には、おのれの
存在と共に、かつこの存在を通して、この存在が自己自身に開示さ
れている、ということがそなわっているのである。存在了解は、そ
れ自体、現存在の存在規定なのである。現存在の存在的殊別性は、
それが存在論的に存在するということにある。
 ここで、「存在論的に存在する」と言ったのは、まだ、「存在論
を形成する」という意味ではない。だから、存在論という名称を、
存在者の存在へ向けられたあからさまに理論的な問いを表すための
言葉として保留しておくとすれば、ここで言おうとした現存在の存
在論的存在は、前=存在論的な(vor-ontologisch)存在と呼ぶべ
きものである。けれどもそれは、ただ単純に存在者として存在する
というのと同じことではなく、存在をなんらかの形で了解するとい
う仕方で存在するということを意味しているのである。


↑ここで、現存在は、単に存在者として存在するわけではないが、しかし
「前=存在論的」である、ってのは、「なんらかの形で了解する仕方で
存在する」って箇所がポイントで良いんでしょーか?
31考える名無しさん:01/11/03 13:58
現存在の「存在的優位」と「存在論的優位」の違いって?
32考える名無しさん:01/11/03 15:37
解釈の「実存的見地」と「実存論的見地」の違いって?
3324:01/11/03 17:09
俺は分からん!じゃー帰れって?はい、帰ります。
34mimesis:01/11/03 17:34
私の記憶が確かならば、
筒井康隆は「誰にでもわかるハイデガー」という講演で、
この箇所(>>30)を読み上げて、
「皆さんお分かりになった事と思いますが」といって
笑いをとっていた。
3524:01/11/03 17:52
そりゃぁ笑える。俺みたいな奴ばっかが聞いていたんだな。
36考える名無しさん:01/11/03 22:53
age age age
37考える名無しさん:01/11/03 23:20
おのれの存在においてこの存在そのものに関わらされているということ

この命題は「存在と時間」に何度もでてくる。要するに現存在は
自分のことにいつも関心をもって存在しているといこと。
この漠然とした自己についての存在了解を、存在論的に
発達させる(解釈する)ことが、現存在の準備的基礎分析の目的。
「前=存在論的」っていうのは、漠然と了解してはいるが、
まだ存在論的ではないし、概念的でもないということ。
38syunnsaku:01/11/03 23:25
>>37 ふむふむ。

>>31 >>32 に関してはどーですか。
39考える名無しさん:01/11/04 00:23
>syunnsaku

これからも初学者がつまづきやすい要所要所を引用して解説していってくれ。
頼んだ。
40syunnsaku:01/11/04 01:38
ハイデッガー『存在と時間 (上)』(ちくま学芸文庫)P63〜64

現存在が自己の過去を「存在する」というとき、この「存在」は現存在に固有の
存在様相の意味で言われているのであって、この存在は、おおまかに言えば、そ
のつど現存在の将来の方から「経歴する」のである。現存在は、それのそのつど
の存在様相において、したがってまたそれにそなわる存在了解においても、なん
らかの在来的な現存在解釈の中へ生い立ち、かつそのなかで育ってきた。現存在
は自己をとりあえずこの解釈に基づいて了解し、そしてある範囲内ではいつもこ
の解釈の中にとどまっているのである。このような了解が、現存在の存在のもろ
もろの可能性を開示し、かつ規制している。現存在自身の過去は――ということ
はいつも、それの「世代」の過去ということであるが、その過去は――、現存在
の後についてくるものではなくて、いつもすでに現存在に先廻りしているのであ
る。


↑このなかでいう、「将来の方から経歴する」、だとか、「すでに現存在に先廻りしている」
とかは、一体どういうことなんですか?
31・32に関しても、なにかコメントがあればヨロシクおねがいしまするう。
41考える名無しさん:01/11/04 02:34
「将来の方から経歴する」とは、現存在は常に彼の将来から起こるということ。
経歴は、起こること(Geschehen)と解するとわかりやすい。
現存在は可能性に臨む存在として、将来に向けて存在する
(現在に停滞するわけでもないし過去に逆行するわけでもないから)。
現存在が将来から自分の可能性を了解するとき、その将来は既に
様々な既成解釈に満たされている(人は常識や伝統、既存の知識から
自己の可能性を了解する傾向がある)。
だから現存在は「なんらかの在来的な現存在解釈の中へ生い立ち、
かつそのなかで育ってきた。現存在は自己をとりあえずこの解釈に基づいて了解し、
そしてある範囲内ではいつもこの解釈の中にとどまっているのである。」
過去が「すでに現存在に先廻りしている」とは、過去が将来に先回りして
将来を満たし、それが現存在の了解を規制しているということ。
つまり人は伝統や常識に縛られているのである。
42考える名無しさん:01/11/04 03:33
疑問形に見せかけた、或いは「問い」に見せかけた主張を
「哲学」と言えるかどうか
43syunsaku:01/11/04 11:24
>>41
なるへそ。ここの文章を読むときは「現存在が自己の過去を「存在する」という
とき、この「存在」は現存在に固有の存在様相の意味で言われているのであって」
ってことに留意しながら読まないと訳がわからなくなりますね。

>>42
哲学とは言えないですね。ただ、学問研究分野としての哲学に関係してるのみ。
哲学の領域の根本構成を問わないかぎり、研究の本当の進歩は見られないのだろう…。
でも、やはり、ココでは『存在と時間』の質問中心で。
44考える名無しさん:01/11/04 23:00
age
45考える名無しさん:01/11/05 00:51
age age
46Martinの末裔(shunsaku:01/11/05 22:16
☆現象(Phänomen)には、二つの意味がある

⇒「ありのままにおのれを示すもの」、「あらわなもの」

⇒現象の欠如的変様としての仮象、「(いかにも)……のようにみかけられる」


↑この区別の説明の後、↓

ハイデッガー『存在と時間 (上)』(ちくま学芸文庫)P81〜84

 ところが、このふたつの用語が言い表している事柄は、ふつうに「現象」(Ersheinung)
とか、まして「単なる現象」(blosse Erscheinung)とか呼ばれているものとは、さし
あたりまったく別なことなのである。
 それはたとえば《Krankheitserscheinungen》(症状)といわれるようないい方に見られ
るものである。それが指しているのは、身体上のある所見で、これ自身はおのれを示す現象
であるけれども、この現示において現象するものとして、それは同時に、おのれを示さない
ある事柄の「徴候」となるものである。すなわち、このような症状の出現、それの現示は、
それ自身を現示しないある種の故障の存在にともなっている。してみれば、このように「ある
ものごとの」《現象》(Ersheinung)という意味での《現象》(Ersheinung)は、そのもの
がおのれを示さないこと、かえって、おのれを示すものを介して、おのれを示さないものが通示
される(sich melden)こと、をいうのである。《現象》(Ersheinung)とは、「おのれを示さ
ないこと」である。
(中略)
 《現象》(Ersheinung)という言葉そのものも、これまた二重のことを意味しうる。すなわち
一方では、「おのれを示さずにおのれを通示するという意味での《現象》(Erscheinung)」を意味
し、また他方では「それを通示するもの自身、すなわち、おのれを示しつつ他のおのれを示さぬも
のの通示者となるもの」をも意味しうる。さらにまた《現象》(Ersheinung)という言葉は、
「おのれを示すこと」という現象(Phänomen)の真正な意味を表すためにも用いられることがある。
これらの、それぞれことなる三つの事態を無造作に《現象》(Erscheinung)という名称で表そうと
すれば、混乱はさけられなくなる。
 ところが、《現象》(Erscheinung)はなおもうひとつの別な意義を帯びることがあるので、その
ために混乱がなお著しく高まるわけである。すなわち、おのれを示しつつ、あらわでないなにものか
を告知する通示者を、あらわでないものの表面に流出的に出現するものとして捉え、そのさい、その
あらわでないものは本質上あらわになり得ないものであると考えるならば、――そのときには、
《現象》(Ersheinung)とは、産出ないし所産というような意味になり、しかも産出者自身の本来の
存在を形成しないものと考えられる。《単なる現象》とは、この意味で言われるのである。



↑長くなってしまいましたが、この箇所で、《現象》(Ersheinung)は、本文中で言う
「それぞれことなる三つの事態」プラス「なおもうひとつの別な意義」の、計4つの意義
を持つと考えて良いんでしょうか?そして、《単なる現象》は、この4つのうちの一つ、
という受け取り方で間違いないですか?では、そう考えた場合、本文の順番でいうと二番目
の「それを通示するもの自身、すなわち、おのれを示しつつ他のおのれを示さぬものの通示者
となるもの」と、「単なる現象」の違いは何なんでしょうか?

もし、質問自体が全くの見当違いであるならば、そこも指摘していただきたいのですが…。
47考える名無しさん:01/11/05 22:33
読みずーらいよう
48Martinの末裔:01/11/05 22:36
簡単に言うと、

本文中(P83)で言う、「それを通示するもの自身、すなわち、おのれ
を示しつつ他のおのれを示さぬものの通示者となるもの」と、「単なる現象」
の違いは何なんでしょうか?もしかして、同じですか?違うよね?
49考える名無しさん :01/11/05 23:49
「ありのままにおのれを示すもの」、「あらわなもの」
これが上に挙げた現象の諸様態の基礎となっている。
仮象、「現象」、「単なる現象」は全てこの意味での現象に基づいている。
ちなみに「単なる現象」はカントの時代に形成された認識論的概念。
時間空間は現象として認識できるが、この現象は物自体に基づいている。
しかし物自体そのものは決して認識できない。非常に哲学の手垢の濃い概念。
50Martinの末裔:01/11/06 00:21
ほう、手垢が濃いのですか。じゃあ誰か他に何か「単なる現象」について発言はありませぬか?

あと、まだ理解でけてないんですが、>>48の本文に関する質問についてはどうなんで
しょうか…。
「ありのままにおのれを示すもの」、「あらわなもの」、これが上に挙げた
現象の諸様態の基礎となっている。⇒ここまでは流れとして分かるんですが。
51考える名無しさん:01/11/06 01:17
「単なる現象」に関しては「存在と時間」でカントとの関連で
言及されているのを知っている程度で、後はよく知らない。
ただ、認識できるのは現象だけで、背後にあるその現象の産出者
である実在(物自体)は認識できないという立場は、不可知論と呼ばれる。
「単なる現象」という概念は不可知論において形成された概念だと思う。

他のおのれを示さぬもの(風邪)の通示者となるもの(咳、鼻水)
咳や鼻水の症状が現れて、それらを通じて風邪が通示される。
「単なる現象」では、咳や鼻水は現れるのだが、風邪自体は
それらによっては通示されない。しかし咳や鼻水は風邪に基づいている。
こういう日常的な出来事に当てはめるとわけがわからない認識論的概念だが、
存在も存在者をあらわにしながら、それ自体は自己をあらわにしないという
性格がある。
52Martinの末裔(ろくでなし):01/11/08 00:14
ハイデッガー『存在と時間 (上)』(ちくま学芸文庫)P89〜91


λογοζが「真であること」、すなわち、αληθενεινとは、話題になって
いる存在者を、αποφανσιζとしてのλεγεινにおいて、その隠れから取
りだし、それを隠れもないもの(αληθεζ)として見えるようにするということ
、要するに、発見する(entdecken)ということである。同様に、「偽であること」
(ψευσεσθαι)とは、蔽いかくす(verdecken)という意味であざむくとい
うこと、なにかをあるものの前に(見えるようにするという仕方で)置いて、それを
それでない別のものだと言い立てるということなのである。

(中略)

ところが、このようにひたすら見えるようにするという遂行形式を取らずに、挙示に
際してそのつどあるほかのものを参照し、こうしていつもなにかをあるものとして見
えるようにする場合には、この綜合の構造に伴って隠蔽の可能性を引き受けることに
なる。そして「判断の真理性」とは、この隠蔽に対抗する場合の真理にすぎないので
あり、すなわち真理現象としては、いくえにも基づけられた現象なのである。ギリシ
ア的真理概念をもとにしなくては、「イデア論」というようなものが哲学的認識とし
てそもそもどうして可能であるのかが理解されないのであるが、実在論も観念論も、
このギリシア的真理概念の意味を、同じように徹底的に取り逃がしてしまう。


↑ここで、ロゴスの説明の後(ここでは、かなり端折りましたが)、だから上でいうと
「中略」の後の部分で、
>この綜合の構造にともなって隠蔽の可能性をもひきうけることになる
だとか
>いくえにも基づけられた現象なのである
とかいった部分が、どういうことなのかがピンと来ません。
このロクデナシに救いを…。
53考える名無しさん:01/11/08 14:41
いやん。わかんない。
54考える名無しさん:01/11/09 12:38
ギリシャ語?λογοζ=ロゴス?
55考える名無しさん:01/11/09 13:41
求め過ぎである。
56考える名無しさん:01/11/10 22:51
『ある時代に歴史認識が存しないということは、現存在の歴史性に対する反証では
なくて、この存在構成の欠如的様態として、かえってそのことの証例なのである。
その時代が非歴史学的でありうるのは、その時代が「歴史的」であるからにほかなら
ない。』

この論理、反論キボーン。
57考える名無しさん:01/11/10 22:54
>>55
ワラタ
>>56
現存在本来の歴史ってこと?
58考える名無しさん:01/11/10 23:20
さいごの「歴史的」ってトコ?文脈的に、そーね。
59考える名無しさん:01/11/10 23:52
欠如的様態ってのは事実が自分の主張と
食い違う時に、ハイデガーがよく使うレトリックだね。
60考える名無しさん:01/11/11 00:49
>>59
ごり押しってこと?
61現存在009:01/11/11 01:37
第一章の冒頭でさ、

「われわれの時代は、「形而上学」を再び肯定するにいたったことを、
現代の進歩のうちに数えたてているけれども…云々」

ってあるけどさ、この当時の「形而上学」の肯定って、具体的にどういった
類のものだったわけかね?
62らげ@遠距離中:01/11/11 01:55
直接にはニコライ・ハルトマンのことです
63現存在009:01/11/11 01:56
>>56
現存在に歴史性が備わっているからこそ、その「欠如」っていう否定が
なされるわけで、元々歴史性ってものが無いなら、その否定も同時に存在
しないってことだろ。「欠如」という否定がなされる限りは、否定される
何か、つまりここでは「歴史性」ってのが必ずある、とハイデッガーは
言いたいんじゃないかしらん。

でも、「欠如」という表現を使ったのもハイデッガー自身であって、そこが
怪しいわけだな。といのは、否定する語を登場させることによって、その否定
的な表現を用いる妥当性は放っておいて、「否定される当のもの」の方へ、
視線をズラすという卑怯極まりない方法に思えたりする。


てか、61に関してコメントないかね。
64現存在009:01/11/11 01:58
おお、いつのまにか>>62にコメントがあるじゃーないか。
ニコライ・ハルトマンか。自分でも調べてみるけども、何かその人の
紹介でもあれば、一言ぷりぷり。
65らげ@遠距離中:01/11/11 02:00
欠如という概念についてはこう考えるとわかりやすい。
つまり欠如というのは、存在にたいして非存在を言うのではなく
想起にたいする忘却のようなもの。
こうすれは存在ー非存在は直接的繋がりはないが
忘却はつねに想起の反映、想起は忘却の反映という具合に、
こちらの場合両者には直接的な対応関係が成立する。
非歴史的であることは、いわば歴史的なものの忘却を反映してる、というわけさ。
66らげ@遠距離中:01/11/11 02:02
>>ガダマーの『哲学修行時代』読め。
 ハルトマンというのは当時の新カント派の重鎮。
67現存在009:01/11/11 02:04
>>65
忘却か、そっちの方が断然良いな。
でも、俺が63の後半に書いた内容は、いずれにしても当てはまる
んじゃないかしらん。あやしいよね。そーでもないのかな。
68らげ@遠距離中:01/11/11 02:05
伝統的には、欠如というのはよく中世の神学論争で使われるだ。
悪を説明する場合に、それは神より直接生まれたものではなくて
いわば善が欠如している状態だ、と考える。
こうすれば悪の概念を直接神に還元するというヤバい思考を免れる、というわけさ。
69らげ@遠距離中:01/11/11 02:07
ハイデガーがもともとカトリック神学者だということは言うまでもない。
70考える名無しさん:01/11/11 02:08
閑古鳥
71考える名無しさん:01/11/11 02:12
じゃあ、こういった神とは関係ない文脈でハイデガーが神学論争で
度々使われる「欠如」って単語を使ったその動機はなんだと思います?
なにか68の内容と絡んでるんですか?全く関係ないかな?
関係無いようにみえるけど。
72らげ@遠距離中:01/11/11 02:22
あんまり動機ないでしょ。
修辞法のひとつですよ。
73考える名無しさん:01/11/11 04:36
>>70
???
74現存在009:01/11/11 15:12
この「存在と時間」の中で、ギリシア的真理概念だの、ギリシア的存在論だのが
出てくるけど、これは否定してるんじゃなくて、その限界は示すが積極的に受け入れ
る、って読み方でいーのかな?でも、この積極的な解体作業ってのは、具体的に
どーいったこと指すのか。それは、今までの(ハイデッガーまでの)存在論の歴史
の中で、存在の解釈をどの程度まで時間の現象を踏まえて考えてきたかってことを
探るってことでいーのかな。
意見or別解釈キボーン。
75考える名無しさん:01/11/11 15:14
↑解釈っていうより、本文とあんま変わらないこと書いてる。
76現存在009:01/11/11 15:19
>>75じゃー、こんな感じに理解していれば、オウケイですかね。
77考える名無しさん
agetyapin