問うということは、求めることである

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1syunnsaku
ハイデッガー『存在と時間』(ちくま学芸文庫)P33〜34


すべて、問うということは、求めることである。そしてすべて、
求めるということは、求められているものの側からあらかじめうけ
とった指向性をそなえている。問うということは、存在するものを
、それが現にあるという事実とそれがしかじかにあるという状態に
ついて認識しようと求めることである。認識的に求めることは、問
いがむかっているところのものを開発的に規定する作業という意味
での「考究」となることがある。要するに、問うということは「…
…へむけられた問い」であるから、それによって問われているもの
(Gefragtes)がそれに属している。――すべて「……へむかって
問う」ことは、なんらかの形で、「……に問いかける」ことである
。したがって、問うということには、問われているもののほかに、
問いかけられているもの(Befragtes)が属している。――考究的
な、すなわち特に理論的な問いにおいては、問われているものが規
定されて概念として表明されなくてはならない。この場合には、問
われているもののなかに、根本において指向されたものとして、問
いただされている事柄(Erfragtes)がひそんでいるわけであって
、問いはそこにいたって目標に達するのである。――問うというこ
とは、ある存在者、すなわち問う人の働きであるから、それ自身、
固有の存在性格を帯びている。問うことは、「ただ何気なくきく」
という形でおこなわれることもあれば、また明確な問題設定として
おこなわれることもある。後者の特色は、問うことがここで述べた
問いそのものの構成的諸性格のすべてにわたって、あらかじめ透明
な見通しを得ているという点にある。

↑上の部分に出てくる、

Gefragtes
Befragtes
Erfragtes

の違いを、より詳しく説明してください。
2考える名無しさん:01/10/31 22:48
Gefragtes は単純に「問う」、「問われる」で受け身の意味だな。
Befragtes は問われるのが物というよりは人というニュアンス。
Erfragtes は後半の説明の如く、尋ねるというよりは考究というイメージ。

単純に要約すれば、わからないから問うというよりは、生まれついて
与えられている漠然とした認識をよりはっきりさせるために問うということ。
「問う」という行為をした時点で既に漠とした答のイメージは持っているもの。
よくいるだろ。
悩み事を相談したいと言ってくるやつは既にもう自分で答は出してるんだよ。
わからないから答を教えてほしいというよりは、最後の一押しをしてほしいんだ。
だからまっとうな答を与えても満足しないやつも多い。
それは答えられない問いだというふうに答えても満足しない。
ここではそれを哲学的問いについて説明している。
3syunnsaku:01/10/31 23:10
早速、ありがとうござります。

>Befragtes は問われるのが物というよりは人というニュアンス。

↑これを、もうちょい説明していただきます。恐縮です。
4らげ@ぶっとい漢:01/10/31 23:24
『存在と時間』の演習で上の三つを説明できない先生は
間違いなくカス。そういう意味ではよい試金石。
答えはいたって簡単。
Gefragtes→存在者。つまりこの場合、範例的存在者としての現存在
Befragtes→存在者の存在。つまりこれは、問いの方法として存在を問うという存在論的方法論の暗示
Erfragtes→上の結果問われてくる、『存在と時間』の真の主題。つまり存在の意味。
要するに
存在者
存在者の存在
存在者の存在の意味
という三大構えナノダッ!!
5syunnsaku:01/10/31 23:34
>>4

おお、なるほど!ありがとーごぜーますだー。
6考える名無しさん:01/10/31 23:35
>>4 らげさん
>三大構え → 三段構え でしょ。
7らげ@ぶっとい漢:01/10/31 23:36
ア?
86:01/10/31 23:41
らげあしとってごめん
なんつって
9考える名無しさん:01/11/01 00:18
Gefragtes 浮上した問そのもの
Befragtes 問われる相手・問の向かう方向
Erfragtes 問われる事柄へ根本的な答えの意味。

 例えば、
自分の意思→    会いたい!

問→        会いたいのか?
問の向かう方向→  聞きたい相手
問のゴール→    会いたいと思える関係であるかの確認。

問うことは、
相手が自分の願望に応えて欲しいと思える相手であり
応えてくれるであろうと、予測できる相手に向けられる。
また、何故そう思うのか理解してもらいたい相手の場合にも向けられる。

問い掛けることは、自分と相手が、受け入れ合えるものと希望し確認すること。
10:01/11/01 00:27
Gefragtes:問われるもの、つまり存在者の存在
Befragtes:じゃあ何の存在者にその存在を問いただすのか→現存在(人間的存在者)
Erfragtes:その方法としての基礎存在論において問われるもの、存在者の存在の意味
112:01/11/01 00:38
実は>>1もハイデガーも初見でドイツ語だけ知ってて当てずっぽうで
書いたけどそこそこいい線言ってたかも。
12syunnsaku:01/11/01 23:04
>>2
Gefragtes は単純に「問う」、「問われる」で受け身の意味だな。
Befragtes は問われるのが物というよりは人というニュアンス。
Erfragtes は後半の説明の如く、尋ねるというよりは考究というイメージ。

>>4
Gefragtes→存在者。つまりこの場合、範例的存在者としての現存在
Befragtes→存在者の存在。つまりこれは、問いの方法として存在を問うという存在論的方法論の暗示
Erfragtes→上の結果問われてくる、『存在と時間』の真の主題。つまり存在の意味。

>>9
Gefragtes 浮上した問そのもの
Befragtes 問われる相手・問の向かう方向
Erfragtes 問われる事柄へ根本的な答えの意味。

>>10
Gefragtes:問われるもの、つまり存在者の存在
Befragtes:じゃあ何の存在者にその存在を問いただすのか→現存在(人間的存在者)
Erfragtes:その方法としての基礎存在論において問われるもの、存在者の存在の意味


↑以上のような答えが今のところ出ています。ありがちょう。

2・9・10は同じニュアンスですよね?4はちょっと違いますよね?
どーなんでしょ。
13考える名無しさん:01/11/01 23:18
>>12
9,10が正しいに一票。
んで、ラゲは誰かの受け売りに一票。
14syunnsaku:01/11/02 00:27
10がやはりヨクまとまってるんですかね。
これに関して、まだ何か意見があったらヨロシクお願いします。
15syunnsaku:01/11/02 00:28
ハイデッガー『存在と時間』(ちくま学芸文庫)P42

 存在とは、いつも、ある存在者の存在である。存在者の一切は、そのさまざま
な境域に応じて、一定の事象領域の開拓と画定の分野となりうる。これらの事象
領域はまた、たとえば、歴史、自然、空間、生命、現存在、言語などのように、
それぞれに相当する学問的研究において主題的な対象とされることができる。学
問的研究は、これらの事象領域の開発とその最初の画定を、素朴な態度でおおま
かに遂行している。それぞれの領域をそれの基本的諸構造について明確にする仕
事は、すでに、ある形で、その事象領域そのものがそこで画定される存在境域に
ついての、前=学問的な経験および解釈によって、はたされている。このように
して生じてきた「基礎概念」が、さしあたっては、この領域の最初の具体的開示
のための手引きになっているのである。科学的研究の重点は、いつもこういう実
証性におかれているけれでも、その研究の本当の進歩は、そのようにしてえられ
る実証的研究成果を集積して「事典」に収録する事にあるよりも、むしろ、事象
についてこのように蓄積されていく知識の増加からたいてい反作用的におしださ
れてくる、それぞれの領域の根本構成への問いのなかにある。



↑このようにあるのですが、ここで出てくる、
「存在者の一切」
「さまざまな存在境域」
「基礎概念」
「さまざまな事象領域」
「自然・空間・歴史等」
「学問的研究分野」
これらの関係を、なるべく簡単に理解しやすいように説明してください。
16/:01/11/02 00:51
>>15
そこは挙げている用語の意味が重複するように思える。俺もわからん。
ちくまなら注に図解が載ってる。
学問は、生物学なら生命、言語学なら言語のように存在者全体から
別個に存在者を切り取ってきて、存在者の存在を究明する。
しかし存在者全体の存在をまず明らかにするべきだと、ハイデガーは言いたいようだ。
次の存在問題の存在的優位の方が重要だし、分かりやいよ。
17考える名無しさん:01/11/02 06:54
ここで「存在と時間」の公開輪講でもやるってか?
おもしろい、がんばってくれ。
>>15は現代科学の専門化、細分化に突きつけられた課題だと思う。
際限なく細分化してゆく学問研究をいかに相互に有機的に関連付けて
推し進めてゆくかが大事ということが言いたいんじゃないか?
さもないと、せっかく専門化して詳しい知見が得られても細かいだけで
なんの普遍性(ここで言うところの「存在者」)も法則性も秩序性もなく、
単なる研究者の自己満足だけで終わってしまう。
18考える名無しさん:01/11/02 07:04
「存在」→「普遍的、根源的法則」と言い換えるとわかりやすく
ならんかな?
19考える名無しさん:01/11/02 07:35
おねいちゃん、スリーサイズいくつ?と問うことは
おねいちゃんのボデーを求めることなり。
20syunnsaku:01/11/02 12:55
☆言いたいことは分かるんです。極めて簡単に言うと髪の毛の先っぽばかり
見てないで、毛根の構成を問え!さもないとハゲるぞ!とゆーことでしょう?
ちくまの注記には、>>16サンの言う通り、これらの関係を表す図解が載っています。↓


存在者の一切 ―――――――さまざまな存在境域 → ・自然
(das All des Seienden)   (Seinsbezirke)   ・空間
                ↓         ・歴史など
              基礎概念        ↓
                ↓         ↓
              さまざまな事象領域  (学問的研究分野)
               (Sachgebiete)


大体こんな感じです。「基礎概念」と「事象領域」との関係はわかります。
「自然・空間・歴史等」と「学問的研究分野」との関係もわかります。
俺にとってネックなのは「さまざまな存在境域」の立場というかなんとゆーか、
そこんとこヨロシコ。

>>19 本文の内容と具体的にどうつながってるんですか?
21syunnsaku:01/11/02 12:59
↑あーあ、見事にずれてやがる。

自然・空間・歴史など は斜めになってますが、ほんとは縦まっすぐです。
んで、歴史などの下に↓二つで、(学問的研究分野)へと繋がってます。
さまざまな存在領域が(Seinsbezirke)です。そこから下に↓で基礎概念
に繋がってます。すんまそん。ちくまの「存在と時間」持ってる人は
そちらのP482をチェケラ。
22考える名無しさん:01/11/02 13:01
>>21

>さまざまな存在領域が(Seinsbezirke)です。



>さまざまな存在境域が(Seinsbezirke)です。

だろ。
23syunnsaku:01/11/02 23:27
ハイデッガー『存在と時間』(ちくま学芸文庫)P44〜45

ところで、これらの事象領域は、それぞれ存在者そのものの境域から得られるもの
であるから、ここで述べたような形で基礎概念を汲み上げる先行的な探求とは、こ
の存在者をそれの存在の根本構成について解釈するという仕事にほかならない。か
ような探求は、実証的諸科学に先駆しなくてはならないし、また先駆することがで
きるのである。プラトンとアリストテレスの仕事が、その例証である。この意味で
おこなわれる科学の基礎付けは、ある科学のそのときどきの現状を調べてその「方
法」をつきとめるというような、おくればせの「論理学」とは、原理的に区別さる
べきものである。それは、特定の存在領域の只中へいわば率先して飛びこんで、そ
れに具わる存在構成をはじめて開示し、こうして得られた諸構造を問いの透明な指
針として実証科学のように供えるのであるから、この意味でそれは先導的な論理学
である。たとえば、哲学的にみて第一義的なものは、歴史学の概念形成の理論では
なく、また歴史学的認識の理論でもなく、更にまた歴史学の客観としての歴史の理
論でもなく、本来的な意味で歴史的に存在するものを解釈してそれの歴史性を究明
することなのである。

↑長めに引用しましたが、確認したいのは、最後の部分です。
「たとえば、哲学的にみて第一義的なものは、………究明することなのである。」

ここで「本来的な意味で歴史的に存在するものを解釈してそれの歴史性を究明する
こと」と対照的に第一義的でない例として「歴史学の概念形成の理論」「歴史学的
認識の理論」「歴史学の客観としての歴史の理論」が出てくるわけですが、では、
この三つは具体的にどういった理論であって、そして、ハイデッガーの言う「本来
的な意味で歴史的に存在するもの」とは一体なんなのか?説明してください。
24考える名無しさん:01/11/03 00:54
>>23 説明できません。じゃー帰れ。はい、帰ります。
25考える名無しさん:01/11/03 01:55
あげ
26考える名無しさん :01/11/03 02:25
「歴史学の概念形成の理論」
「歴史学的認識の理論」
「歴史学の客観としての歴史の理論」
どれも理論だが、理論は現存在の理論的態度の産物であるから、
理論は現存在の存在に基づくわけだ。
だから第一に問われるべきものは、現存在の存在ということになる。
現存在は、誕生と死の間を存在しているわけだが、
誕生すると同時に死に臨む(死につつある)存在として、
誕生と死の間に自己伸張(Sich erstrecken)していることである。
この自己伸張を経歴(出来事・Geschehen)という。
そしてこの経歴の存在構造が歴史性(Geschichtlichkeit)と呼ばれる。
歴史の理論を形成する歴史学的態度の基礎は、この歴史性から解明されねばならない。

「本来的な意味で歴史的に存在するもの」というのは、現存在のこと。
27考える名無しさん:01/11/03 08:51
今、されてる話から、ズレてるんですけど
このスレのタイトル「問うということは、求めることである」というところから
始まっていますよね?

自問自答って言葉がありますけど、>>1のBefragtesが、自分に対象となる。

問うということは、求めることであるなら
自分に問いかけていることって、自分に求めているということになるんですよね。
人に問い掛ける場合、それを求めている事が自覚してたりするわけですが
自分に置き換えてみる事が無かったので、なんだかおもしろかったです。
28考える名無しさん:01/11/03 10:00
どんどんどんどん根源へさかのぼれってことじゃないの?
歴史を探究するときも、歴史とはかくあるべしという態度は排除せよ
ということでは?
29syunnsaku:01/11/03 11:35
>>26
ありがとうごぜいます。とても分かりやすいです。

>>28
流れはそうですね。
ちょっと具体的に「本来的な意味で歴史的に存在するもの」と、それの「歴史性」
ってのが、何を意味しているのか知りたかったものですから、質問してみた限りです。
30syunnsaku:01/11/03 11:43
ハイデッガー『存在と時間 (上)』(ちくま学芸文庫)P47〜48

 現存在は、たんにほかの存在者の間にならんで出現するにすぎない
存在者ではない。それはむしろ、おのれの存在においてこの存在そ
のものに関わらされているということによって、存在的に殊別され
ているのである。してみれば、現存在の存在構成には、それがおの
れの存在においてこの存在へ向かって、ある存在関係を持っている
、ということが属しているわけである。そしてこのことはまた、現
存在は己の存在においてなんらかの様式と明確度において、自己を
了解している、ということを意味する。この存在者には、おのれの
存在と共に、かつこの存在を通して、この存在が自己自身に開示さ
れている、ということがそなわっているのである。存在了解は、そ
れ自体、現存在の存在規定なのである。現存在の存在的殊別性は、
それが存在論的に存在するということにある。
 ここで、「存在論的に存在する」と言ったのは、まだ、「存在論
を形成する」という意味ではない。だから、存在論という名称を、
存在者の存在へ向けられたあからさまに理論的な問いを表すための
言葉として保留しておくとすれば、ここで言おうとした現存在の存
在論的存在は、前=存在論的な(vor-ontologisch)存在と呼ぶべ
きものである。けれどもそれは、ただ単純に存在者として存在する
というのと同じことではなく、存在をなんらかの形で了解するとい
う仕方で存在するということを意味しているのである。


↑ここで、現存在は、単に存在者として存在するわけではないが、しかし
「前=存在論的」である、ってのは、「なんらかの形で了解する仕方で
存在する」って箇所がポイントで良いんでしょーか?
31考える名無しさん:01/11/03 13:58
現存在の「存在的優位」と「存在論的優位」の違いって?
32考える名無しさん:01/11/03 15:37
解釈の「実存的見地」と「実存論的見地」の違いって?
3324:01/11/03 17:09
俺は分からん!じゃー帰れって?はい、帰ります。
34mimesis:01/11/03 17:34
私の記憶が確かならば、
筒井康隆は「誰にでもわかるハイデガー」という講演で、
この箇所(>>30)を読み上げて、
「皆さんお分かりになった事と思いますが」といって
笑いをとっていた。
3524:01/11/03 17:52
そりゃぁ笑える。俺みたいな奴ばっかが聞いていたんだな。
36考える名無しさん:01/11/03 22:53
age age age
37考える名無しさん:01/11/03 23:20
おのれの存在においてこの存在そのものに関わらされているということ

この命題は「存在と時間」に何度もでてくる。要するに現存在は
自分のことにいつも関心をもって存在しているといこと。
この漠然とした自己についての存在了解を、存在論的に
発達させる(解釈する)ことが、現存在の準備的基礎分析の目的。
「前=存在論的」っていうのは、漠然と了解してはいるが、
まだ存在論的ではないし、概念的でもないということ。
38syunnsaku:01/11/03 23:25
>>37 ふむふむ。

>>31 >>32 に関してはどーですか。
39考える名無しさん:01/11/04 00:23
>syunnsaku

これからも初学者がつまづきやすい要所要所を引用して解説していってくれ。
頼んだ。
40syunnsaku:01/11/04 01:38
ハイデッガー『存在と時間 (上)』(ちくま学芸文庫)P63〜64

現存在が自己の過去を「存在する」というとき、この「存在」は現存在に固有の
存在様相の意味で言われているのであって、この存在は、おおまかに言えば、そ
のつど現存在の将来の方から「経歴する」のである。現存在は、それのそのつど
の存在様相において、したがってまたそれにそなわる存在了解においても、なん
らかの在来的な現存在解釈の中へ生い立ち、かつそのなかで育ってきた。現存在
は自己をとりあえずこの解釈に基づいて了解し、そしてある範囲内ではいつもこ
の解釈の中にとどまっているのである。このような了解が、現存在の存在のもろ
もろの可能性を開示し、かつ規制している。現存在自身の過去は――ということ
はいつも、それの「世代」の過去ということであるが、その過去は――、現存在
の後についてくるものではなくて、いつもすでに現存在に先廻りしているのであ
る。


↑このなかでいう、「将来の方から経歴する」、だとか、「すでに現存在に先廻りしている」
とかは、一体どういうことなんですか?
31・32に関しても、なにかコメントがあればヨロシクおねがいしまするう。
41考える名無しさん:01/11/04 02:34
「将来の方から経歴する」とは、現存在は常に彼の将来から起こるということ。
経歴は、起こること(Geschehen)と解するとわかりやすい。
現存在は可能性に臨む存在として、将来に向けて存在する
(現在に停滞するわけでもないし過去に逆行するわけでもないから)。
現存在が将来から自分の可能性を了解するとき、その将来は既に
様々な既成解釈に満たされている(人は常識や伝統、既存の知識から
自己の可能性を了解する傾向がある)。
だから現存在は「なんらかの在来的な現存在解釈の中へ生い立ち、
かつそのなかで育ってきた。現存在は自己をとりあえずこの解釈に基づいて了解し、
そしてある範囲内ではいつもこの解釈の中にとどまっているのである。」
過去が「すでに現存在に先廻りしている」とは、過去が将来に先回りして
将来を満たし、それが現存在の了解を規制しているということ。
つまり人は伝統や常識に縛られているのである。
42考える名無しさん:01/11/04 03:33
疑問形に見せかけた、或いは「問い」に見せかけた主張を
「哲学」と言えるかどうか
43syunsaku:01/11/04 11:24
>>41
なるへそ。ここの文章を読むときは「現存在が自己の過去を「存在する」という
とき、この「存在」は現存在に固有の存在様相の意味で言われているのであって」
ってことに留意しながら読まないと訳がわからなくなりますね。

>>42
哲学とは言えないですね。ただ、学問研究分野としての哲学に関係してるのみ。
哲学の領域の根本構成を問わないかぎり、研究の本当の進歩は見られないのだろう…。
でも、やはり、ココでは『存在と時間』の質問中心で。
44考える名無しさん:01/11/04 23:00
age
45考える名無しさん:01/11/05 00:51
age age
46Martinの末裔(shunsaku:01/11/05 22:16
☆現象(Phänomen)には、二つの意味がある

⇒「ありのままにおのれを示すもの」、「あらわなもの」

⇒現象の欠如的変様としての仮象、「(いかにも)……のようにみかけられる」


↑この区別の説明の後、↓

ハイデッガー『存在と時間 (上)』(ちくま学芸文庫)P81〜84

 ところが、このふたつの用語が言い表している事柄は、ふつうに「現象」(Ersheinung)
とか、まして「単なる現象」(blosse Erscheinung)とか呼ばれているものとは、さし
あたりまったく別なことなのである。
 それはたとえば《Krankheitserscheinungen》(症状)といわれるようないい方に見られ
るものである。それが指しているのは、身体上のある所見で、これ自身はおのれを示す現象
であるけれども、この現示において現象するものとして、それは同時に、おのれを示さない
ある事柄の「徴候」となるものである。すなわち、このような症状の出現、それの現示は、
それ自身を現示しないある種の故障の存在にともなっている。してみれば、このように「ある
ものごとの」《現象》(Ersheinung)という意味での《現象》(Ersheinung)は、そのもの
がおのれを示さないこと、かえって、おのれを示すものを介して、おのれを示さないものが通示
される(sich melden)こと、をいうのである。《現象》(Ersheinung)とは、「おのれを示さ
ないこと」である。
(中略)
 《現象》(Ersheinung)という言葉そのものも、これまた二重のことを意味しうる。すなわち
一方では、「おのれを示さずにおのれを通示するという意味での《現象》(Erscheinung)」を意味
し、また他方では「それを通示するもの自身、すなわち、おのれを示しつつ他のおのれを示さぬも
のの通示者となるもの」をも意味しうる。さらにまた《現象》(Ersheinung)という言葉は、
「おのれを示すこと」という現象(Phänomen)の真正な意味を表すためにも用いられることがある。
これらの、それぞれことなる三つの事態を無造作に《現象》(Erscheinung)という名称で表そうと
すれば、混乱はさけられなくなる。
 ところが、《現象》(Erscheinung)はなおもうひとつの別な意義を帯びることがあるので、その
ために混乱がなお著しく高まるわけである。すなわち、おのれを示しつつ、あらわでないなにものか
を告知する通示者を、あらわでないものの表面に流出的に出現するものとして捉え、そのさい、その
あらわでないものは本質上あらわになり得ないものであると考えるならば、――そのときには、
《現象》(Ersheinung)とは、産出ないし所産というような意味になり、しかも産出者自身の本来の
存在を形成しないものと考えられる。《単なる現象》とは、この意味で言われるのである。



↑長くなってしまいましたが、この箇所で、《現象》(Ersheinung)は、本文中で言う
「それぞれことなる三つの事態」プラス「なおもうひとつの別な意義」の、計4つの意義
を持つと考えて良いんでしょうか?そして、《単なる現象》は、この4つのうちの一つ、
という受け取り方で間違いないですか?では、そう考えた場合、本文の順番でいうと二番目
の「それを通示するもの自身、すなわち、おのれを示しつつ他のおのれを示さぬものの通示者
となるもの」と、「単なる現象」の違いは何なんでしょうか?

もし、質問自体が全くの見当違いであるならば、そこも指摘していただきたいのですが…。
47考える名無しさん:01/11/05 22:33
読みずーらいよう
48Martinの末裔:01/11/05 22:36
簡単に言うと、

本文中(P83)で言う、「それを通示するもの自身、すなわち、おのれ
を示しつつ他のおのれを示さぬものの通示者となるもの」と、「単なる現象」
の違いは何なんでしょうか?もしかして、同じですか?違うよね?
49考える名無しさん :01/11/05 23:49
「ありのままにおのれを示すもの」、「あらわなもの」
これが上に挙げた現象の諸様態の基礎となっている。
仮象、「現象」、「単なる現象」は全てこの意味での現象に基づいている。
ちなみに「単なる現象」はカントの時代に形成された認識論的概念。
時間空間は現象として認識できるが、この現象は物自体に基づいている。
しかし物自体そのものは決して認識できない。非常に哲学の手垢の濃い概念。
50Martinの末裔:01/11/06 00:21
ほう、手垢が濃いのですか。じゃあ誰か他に何か「単なる現象」について発言はありませぬか?

あと、まだ理解でけてないんですが、>>48の本文に関する質問についてはどうなんで
しょうか…。
「ありのままにおのれを示すもの」、「あらわなもの」、これが上に挙げた
現象の諸様態の基礎となっている。⇒ここまでは流れとして分かるんですが。
51考える名無しさん:01/11/06 01:17
「単なる現象」に関しては「存在と時間」でカントとの関連で
言及されているのを知っている程度で、後はよく知らない。
ただ、認識できるのは現象だけで、背後にあるその現象の産出者
である実在(物自体)は認識できないという立場は、不可知論と呼ばれる。
「単なる現象」という概念は不可知論において形成された概念だと思う。

他のおのれを示さぬもの(風邪)の通示者となるもの(咳、鼻水)
咳や鼻水の症状が現れて、それらを通じて風邪が通示される。
「単なる現象」では、咳や鼻水は現れるのだが、風邪自体は
それらによっては通示されない。しかし咳や鼻水は風邪に基づいている。
こういう日常的な出来事に当てはめるとわけがわからない認識論的概念だが、
存在も存在者をあらわにしながら、それ自体は自己をあらわにしないという
性格がある。
52Martinの末裔(ろくでなし):01/11/08 00:14
ハイデッガー『存在と時間 (上)』(ちくま学芸文庫)P89〜91


λογοζが「真であること」、すなわち、αληθενεινとは、話題になって
いる存在者を、αποφανσιζとしてのλεγεινにおいて、その隠れから取
りだし、それを隠れもないもの(αληθεζ)として見えるようにするということ
、要するに、発見する(entdecken)ということである。同様に、「偽であること」
(ψευσεσθαι)とは、蔽いかくす(verdecken)という意味であざむくとい
うこと、なにかをあるものの前に(見えるようにするという仕方で)置いて、それを
それでない別のものだと言い立てるということなのである。

(中略)

ところが、このようにひたすら見えるようにするという遂行形式を取らずに、挙示に
際してそのつどあるほかのものを参照し、こうしていつもなにかをあるものとして見
えるようにする場合には、この綜合の構造に伴って隠蔽の可能性を引き受けることに
なる。そして「判断の真理性」とは、この隠蔽に対抗する場合の真理にすぎないので
あり、すなわち真理現象としては、いくえにも基づけられた現象なのである。ギリシ
ア的真理概念をもとにしなくては、「イデア論」というようなものが哲学的認識とし
てそもそもどうして可能であるのかが理解されないのであるが、実在論も観念論も、
このギリシア的真理概念の意味を、同じように徹底的に取り逃がしてしまう。


↑ここで、ロゴスの説明の後(ここでは、かなり端折りましたが)、だから上でいうと
「中略」の後の部分で、
>この綜合の構造にともなって隠蔽の可能性をもひきうけることになる
だとか
>いくえにも基づけられた現象なのである
とかいった部分が、どういうことなのかがピンと来ません。
このロクデナシに救いを…。
53考える名無しさん:01/11/08 14:41
いやん。わかんない。
54考える名無しさん:01/11/09 12:38
ギリシャ語?λογοζ=ロゴス?
55考える名無しさん:01/11/09 13:41
求め過ぎである。
56考える名無しさん:01/11/10 22:51
『ある時代に歴史認識が存しないということは、現存在の歴史性に対する反証では
なくて、この存在構成の欠如的様態として、かえってそのことの証例なのである。
その時代が非歴史学的でありうるのは、その時代が「歴史的」であるからにほかなら
ない。』

この論理、反論キボーン。
57考える名無しさん:01/11/10 22:54
>>55
ワラタ
>>56
現存在本来の歴史ってこと?
58考える名無しさん:01/11/10 23:20
さいごの「歴史的」ってトコ?文脈的に、そーね。
59考える名無しさん:01/11/10 23:52
欠如的様態ってのは事実が自分の主張と
食い違う時に、ハイデガーがよく使うレトリックだね。
60考える名無しさん:01/11/11 00:49
>>59
ごり押しってこと?
61現存在009:01/11/11 01:37
第一章の冒頭でさ、

「われわれの時代は、「形而上学」を再び肯定するにいたったことを、
現代の進歩のうちに数えたてているけれども…云々」

ってあるけどさ、この当時の「形而上学」の肯定って、具体的にどういった
類のものだったわけかね?
62らげ@遠距離中:01/11/11 01:55
直接にはニコライ・ハルトマンのことです
63現存在009:01/11/11 01:56
>>56
現存在に歴史性が備わっているからこそ、その「欠如」っていう否定が
なされるわけで、元々歴史性ってものが無いなら、その否定も同時に存在
しないってことだろ。「欠如」という否定がなされる限りは、否定される
何か、つまりここでは「歴史性」ってのが必ずある、とハイデッガーは
言いたいんじゃないかしらん。

でも、「欠如」という表現を使ったのもハイデッガー自身であって、そこが
怪しいわけだな。といのは、否定する語を登場させることによって、その否定
的な表現を用いる妥当性は放っておいて、「否定される当のもの」の方へ、
視線をズラすという卑怯極まりない方法に思えたりする。


てか、61に関してコメントないかね。
64現存在009:01/11/11 01:58
おお、いつのまにか>>62にコメントがあるじゃーないか。
ニコライ・ハルトマンか。自分でも調べてみるけども、何かその人の
紹介でもあれば、一言ぷりぷり。
65らげ@遠距離中:01/11/11 02:00
欠如という概念についてはこう考えるとわかりやすい。
つまり欠如というのは、存在にたいして非存在を言うのではなく
想起にたいする忘却のようなもの。
こうすれは存在ー非存在は直接的繋がりはないが
忘却はつねに想起の反映、想起は忘却の反映という具合に、
こちらの場合両者には直接的な対応関係が成立する。
非歴史的であることは、いわば歴史的なものの忘却を反映してる、というわけさ。
66らげ@遠距離中:01/11/11 02:02
>>ガダマーの『哲学修行時代』読め。
 ハルトマンというのは当時の新カント派の重鎮。
67現存在009:01/11/11 02:04
>>65
忘却か、そっちの方が断然良いな。
でも、俺が63の後半に書いた内容は、いずれにしても当てはまる
んじゃないかしらん。あやしいよね。そーでもないのかな。
68らげ@遠距離中:01/11/11 02:05
伝統的には、欠如というのはよく中世の神学論争で使われるだ。
悪を説明する場合に、それは神より直接生まれたものではなくて
いわば善が欠如している状態だ、と考える。
こうすれば悪の概念を直接神に還元するというヤバい思考を免れる、というわけさ。
69らげ@遠距離中:01/11/11 02:07
ハイデガーがもともとカトリック神学者だということは言うまでもない。
70考える名無しさん:01/11/11 02:08
閑古鳥
71考える名無しさん:01/11/11 02:12
じゃあ、こういった神とは関係ない文脈でハイデガーが神学論争で
度々使われる「欠如」って単語を使ったその動機はなんだと思います?
なにか68の内容と絡んでるんですか?全く関係ないかな?
関係無いようにみえるけど。
72らげ@遠距離中:01/11/11 02:22
あんまり動機ないでしょ。
修辞法のひとつですよ。
73考える名無しさん:01/11/11 04:36
>>70
???
74現存在009:01/11/11 15:12
この「存在と時間」の中で、ギリシア的真理概念だの、ギリシア的存在論だのが
出てくるけど、これは否定してるんじゃなくて、その限界は示すが積極的に受け入れ
る、って読み方でいーのかな?でも、この積極的な解体作業ってのは、具体的に
どーいったこと指すのか。それは、今までの(ハイデッガーまでの)存在論の歴史
の中で、存在の解釈をどの程度まで時間の現象を踏まえて考えてきたかってことを
探るってことでいーのかな。
意見or別解釈キボーン。
75考える名無しさん:01/11/11 15:14
↑解釈っていうより、本文とあんま変わらないこと書いてる。
76現存在009:01/11/11 15:19
>>75じゃー、こんな感じに理解していれば、オウケイですかね。
77考える名無しさん
agetyapin