知覚の信用度

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1Kudo-chan
目の前に何かが見える。これって当たり前ですよね。
でも、あえてこれについて考えませんか。
現象学にしろ、なんにしろ、知覚が大前提。むむむぅ。
まー、ジックリやりまほー。
2考える名無しさん:01/10/27 12:44
削除依頼出しておきました。
3Kudo-chan:01/10/27 13:00
うそーん!!
4考える名無しさん:01/10/27 16:48
テンポのよい展開にワラタ
5考える名無しさん:01/10/27 18:05
分からない事・知らない事が気になるから学
6考える名無しさん:01/10/27 18:41
このようなことをよく考えます。

目の前のコップをじっと観察してると、
それがねずみに変身してしまった。
そのねずみを見てると、今度は石ころに変身してしまった。
しばらくすると、その石ころが元のコップに戻った。

これらのことをいかにありありと知覚したとしても、
最終的には私は「そんなことはなかった」と判断せざるを
えないのではないだろうか。
なぜなら、「そんなことはありえない」からである。

すると、知覚が大前提とは言いきれないのではないか。
7考える名無しさん:01/10/27 18:57
そもそも知覚の記述というのはあり得るのか?
あるとすれば知覚の記述は,知覚そのものとどのような
関係があるのか?
8Kudo-chan:01/10/27 19:04
>>6

面白いですね。
それは確かに、確信は知覚からはやって来てませんね。
そういう状態で「そんなことはなかった」と知覚を裏切ってまで
確信するのは、経験的に今までそうだったからですよね。ヒュームの
懐疑論的な確信の崩壊させ方。

逆についても言えますね。
というのは、もし、生まれてからずっと、目をつぶる度に
目の前の物体が変身していたら…。

もし、目をつむる度に目の前の物体が変身することが当たり前と
なっていたら、目を開けたときに以前と同じ物があった場合、逆に
動揺するのではないでしょーか。その場合も、知覚を裏切って、
「そんなことはありえない」「何か別の物になっているはずだ」
と思うのでしょうね。
確かに知覚からの確信は、絶対ではないようです。
9Kudo-chan:01/10/27 19:09
>>7

知覚の記述ですか。知覚として得られる物の記述でなく、知覚自体の
記述ですよね。もし、出来れば、知覚そのものとの関係は出てくると
思いますが。

でも、これは俺の最初の質問と、かなりシンクロしてるかもしれません
ね。知覚自体に振り返って考える、ってのは、難しいですよね。
誰か意見ありませんか??
10考える名無しさん:01/10/27 19:10
>>6
でもありありと見ているその瞬間においては、確信せざるおえないんじゃないのかな?
11Kudo-chan:01/10/27 19:13
>>10

そうそう、そういうことです。問題は。
その瞬間、瞬間での知覚の働き。確信と知覚との結びつきは
強いですよ。
でも、知覚を失うと、その確信は勿論、他の感覚と結びつき始める
わけですから、確信と知覚の結びつきは絶対ではないわけですよね。
12Kudo-chan:01/10/27 19:19
>>11

知覚を失って、他の感覚ってのはおかしいですね。
よーするに、言いたいのは他の確信の可能性ということです。
ないか??
136:01/10/27 19:23
>>10
これこれの存在である、ということと
これこれと認識している、ということは
別のことだと思っています。

つまり、確信できるのは、「・・・と知覚している」
ということまでです。
14考える名無しさん:01/10/27 19:24
知覚ってのは、感覚器官に与えられた刺激作用を通して、
外界の事物・事象をつかむ働きなわけだから、視覚を失ったら
聴覚から確信は得られるし、聴覚を失ったら、触覚から…。

こんな調子で、もし知覚が全て無くなったら、思考のストップか。
意識の志向性も無くなるか。むう。
15目の前のモノが全てCGだったとしたら・・・:01/10/27 19:25
>>Kudo-chan

これから一緒にT2観ようYO!。
ヒントが見つかるかもしれないZE!。
16考える名無しさん:01/10/27 19:35
ですな。

でも、もうちょっと多くの意見を聞いてみたいから、
後で再度あげましょう。
17kudo-chan:01/10/27 23:29
『T2』になにかヒントがあったかな?

風呂に入って考えてみたけど、どうも知覚は確信を生む絶対的根拠
みたいですね。だから、ここからは話を整理して、知覚が生む確信の信用度
、これについて考えませんか?始めからこのレベルで話を進めるべきでした。
俺自身、何が言いたいのか分かってなかったようです。

自分の確信の信用度、これを問題にするとなると、他者が登場してくるんで
すかね?自分の意識を反省することによって、この議論は進められないです
かね?どうでしょう。。
18初心者厨房クンへ:01/10/27 23:30
まずカントね。それからフッサールでも読めばいいんじゃないかなあ。
19kudo-chan:01/10/27 23:44
フッサールぼちぼち勉強してるんですけど。勿論、未熟ですが。
フッサール現象学は、確信の根拠を求めますよね。
そこでは、視覚を前提に話を進めています。

視覚って、これ自体を反省して考えられないでしょうか?
視覚ってのは、結構ネックでして、聴覚で現象学って出来ます?

話が大元からズレてきてすみませんが、始め、視覚と知覚を混同して
たのが間違いでした。これからは上の路線で話すすめましょうっ。。
20まず応答:01/10/27 23:48
>知覚は確信を生む絶対的根拠
そうでもないでしょ。科学の世界が本物で知覚の世界は仮象だと考えられる場合もあるし。
だから、
>知覚が生む確信の信用度
とあなたが言う場合、この信用度が何を意味するのか、知覚が何に対して信用度が高いのか、ということをもう少し明らかにしなくちゃいけないんじゃないかな?
21それから:01/10/27 23:53
フッサールは知覚に確信の根拠を求めるのではなく、確信は知覚の本質的要素であるというふうに考えている。
しかしながら、その知覚的確信自身は哲学的には信用の置けないものだというわけ。
その一方で、知覚的世界が科学の地盤になっていると言う。これが所謂生活世界というやつね。
22kudo-chan:01/10/27 23:54
>>20


>知覚が何に対して信用度が高いのか、ということを
>もう少し明らかにしなくちゃいけないんじゃないかな?

すんません。自分、19のところで自分のハチャメチャな事に気が付き
まして、信用度って何って話ですよね。
だから、すんませんけど、19あたりの話を進めませんか?

でも、科学の世界、、のくだりについて一言。確かに、そういう場合
はそう絶対的根拠にはなりえませんが、そこは話出来ない世界です
よね。だから、客観的自体存在を前提にしてはならないと思います。
俺としては、現象学的な傾向で話を進めたいんですよ。
23kudo-chan:01/10/27 23:59
>>21

>確信は知覚の本質的要素であるというふうに考えている

すみませんが、これは、もうちょっと説明が欲しいですね。
後期のフッサールですか?
俺的には、確信が成される働き、を見て行くっていう構成の
考えあたりに重点を置いてるんですが。意識は明証性を求めて
理解を充実させていく、といったような、意識の働き。
24>23:01/10/28 01:18
一番はっきりと言っているのは、『イデーンT』(§103とか)だと思いますが、危機書にも論研にもある考えでしょう。
つまり、何かを想像する場合には我々は対象の実在を信じてはいないが、知覚の場合には対象の実在を確信しているということです。
フッサールの場合、確信Gewissheitより措定Setzungとか設定立Positionという用語の方がポピュラーでしょうか。
25わかりません:01/10/28 01:31
私たちが「何かを知覚している」という場合、知覚にはある一定の方向性というものが
あって、「それを見ている」という事はそれ以外を見ていないということを意味している。
ということは、知覚とはすでに何々への知覚として方向付けられているのであって、
まったく無垢な知覚というものは考えることが出来ないでしょう。
私たちが何かを見ると言う際、すでに私は対象を捉えるという行為のうちに私のすべて
をそこに投げ出しているのであって、例えば、湯気の立ったスープを見てうまそうと判断
するのではなく、腹が減っているからこそそれを見たのであり、私がラーメンをすきであ
るからこそそれを見るということが考えられるのであって、何かを見てその状態を分析して、
うまそうと判断するのではない。それではそもそも対象を見るということが、偶然行われた
かのようであり、なぜそれをわざわざ分析するのかが不問のままであって、問題の立
て方が抽象されてしまい、それにひきづられたまま、無垢な知覚という概念を出さざるをえ
ないでしまっている。しかし、そもそも何かを見もている私とは、そのような抽象的なもの
でもなく、ましてや概念ではなく、具体的に今ここにいるものなのであって、何かを知覚す
るとは、常に「私が見ている何か」についての考察でなければならない。
26わかりません:01/10/28 01:56
確信の根拠はすでに獲得された世界と獲得されつつある世界との差異
にあるのであって、確信の本質は時間性にあると思います。知覚につ
いていえば、抽象的で無垢な知覚というものがない以上、すでに獲得
された世界を前提としているのであって、知覚自身が何者かの前提と
いうことではない、と思います。あえて言えば、身体に対する知覚が
世界を前にする際の確信の根拠だともいえそうです。
27kudo-chan:01/10/28 02:04
>>25

そうですね。だから、知覚についてはヤメにして、19の議題に
移ろう!とゆー流れにしたいのですが。知覚ってのは、視覚
だけじゃないですよね(最初混同してしまってたけど、俺)。
じゃあ、聴覚等の他の感覚器官での意識の志向性について、
記述してみませんか。

>何かを想像する場合には我々は対象の実在を
>信じてはいないが、知覚の場合には対象の実在
>を確信している

なるほど。で、その確信は何故起こるのか。それは、
地平意識、可能力性の意識とゆーのがあって、これに
は、新たな対象の主題化をどんどん進めることが出来る
とゆー意識が属していて、……とゆー流れになるんじゃ
なかったですかね。

>確信Gewissheitより措定Setzungとか設定立Position
>という用語の方がポピュラーでしょうか。

頻度からすると措定ですかね。あまり用語に意識が行ってませんでした。
未熟ですんまそん。
28考える名無しさん:01/10/28 02:37
たぶんフッサールは確信そのものがどう生じるかという議論はやってない。
むしろ「常に既に」そういう確信があって、その構造を分析するというスタンスだと思う。
で、後期では、主題的に働く知覚作用の背後には「常に既に」地平意識が働いているという話なのでは?
29kudo-chan:01/10/28 02:39
>>28

そうなんですか。もうちょっと研究してみまっす。

ところで、視覚以外の知覚での現象学。これどーです?
レス、成り立ちませんかね。
30考える名無しさん:01/10/28 02:47
成り立たないこともないと思うけど、なんか問題提起がないとレスがつけにくい・・・
31kudo-chan:01/10/28 02:52
では、こんなのはどうですか。

視覚を失った場合、現象学(現象学って名前おかしいか)における
考え方は、どこまで通用するか。どこが弱いか(全部か?)。
32考える名無しさん:01/10/28 02:59
視覚以外の知覚・・・その曖昧さ?の実例。
例えばヨガで逆立ちをする。頭のてっぺんだけ付けて逆立ちし、
両手のひじをバランスを取る程度に添えているカタチの
三点倒立だ。そうやって、目を閉じる。
すると、
頭頂に圧迫感があるだけで、
自分の体が逆立ちしているという感覚は、「全く」無いのである。
もしも誰かが、
「あなたは逆立ちしているのではなく、頭のてっぺんを強く
押さえられているだけです」と囁けば、
あっさり信じてしまえるだろう、と思えるほどだ。
体が倒立している「感じ」は、しないのである。(ホント!)
これって、どうよ?
33kudo-chan:01/10/28 03:07
>>32

確かに、
>視覚以外の知覚・・・その曖昧さ?の実例。
ですね。
でも、視覚にも>>6 >>8 のような曖昧さ、もしくは懐疑の
可能性はあります。もう、確信だの信用度だのいう話は
やめにしよー、とゆーことになってまして、今考えたいのは、
視覚無しで現象学を語る場合、問題は起こらないか?フッサールの
現象学は、視覚を持つことが大前提か(多分そう)?とゆーこと、
なんですよー。
3432:01/10/28 03:12
あ、ごめんね、前レス読んでなかった。スマソ。無視して
先に進んでくれ。
35考える名無しさん:01/10/28 03:18
現象学が通用するか、という問題設定だと「現象学とは何か」という壮大なテーマから入らねばならないから、あまりうまくないと思われ。
なんかケチつけてばっかでゴメン・・・。

ちなみに、『知覚の現象学』に盲人の杖の話が出てくるね。
あと、先天的に盲だった人が手術で視覚を獲得したときの話とか。
36kudo-chan:01/10/28 03:22
そうですね。どうも最近、この掲示板にやって来たものですから、
ついつい問題を大きくし過ぎて浅くなるテーマしか思いつきません。

知覚知覚ってゆーわりに、メルロポンティあまり知らないんですよ。
で、これからちょっと齧ろうと思って、ココで入門的な知識をを得
ようかな、と思った次第だったのです。

読んでみます。このレスはしばらく放置しますかな(消滅?)。
ではでは、35サン、大変お世話になりました。
37わかりません:01/10/29 02:55
「知覚の信用度」というタイトルが示すように、知覚という言葉は心理学の範疇の用語です。
「知覚」という言葉が哲学の中でどのように使われてきたかはともかく、主知主義と経験論
の中では成立する用語だとしても、基本的には認知心理学とか、対象に対する科学的態度
を前提としている学問的態度の範囲に入ると思います。これはメルロー=ポンティにもいえ
ることで、何か無垢で写像理論的な知覚があるかのような誤解を与えかねないという点で、
論旨を正確に反映していないと思います。
知覚とは彼の論旨からすれば、世界を獲得する具体的な行為そのものということがいえると
思うのですが、これに対して例えばハイデガーの戦略などは徹底していて、配視や配慮とい
う用語で現存在が世界に関与するあり方を捕らえており、ここにはもう信用度などという
慨然的要素が入り込む余地がないわけですから、議論としてすっきりしていますよね。
もっとも、分析関係の人が知覚を語ると、もっと違うんでしょうけど。
38考える名無しさん:01/10/29 04:44
うーん、「わかりません」さんハイデガー好きですねえ。
39kudo-chan
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/philo/1004328303/

↑タイトル変えたいし、移動しまっしゅ。。。
「視覚無しで現象学を考えるぞ、ゴルァ(゚Д゚) ! 」