>>629 すまん。三浦氏については完全に誤解していた。申し訳ないことをした。
だが、ちょっといっておきたいことがある。
永井は否定しているが、竹田氏が言ったことは、指摘そのものとしては正しい。
「語りえぬもの」の存在は、形式的には<私>の語の自己言及性からきている。
それは「証明できぬもの」を自己言及性によりしめした不完全性定理と、論理
構造的にまったく同じだ。
選択公理が真であろうと偽であろうと自然数論が矛盾しないのと同様、<他者>
がいようといまいと言語哲学は矛盾しない。
ヒルベルトは怒りまくったらしいが、ゲーデル自身は自ら示した結果について
どう思っていたか。悲観どころか、数学は人間理性が理解できるほどちゃちな
ものではないことがわかったと喜んだのだ。
誤解をさせないよう、不完全性定理の内容を正確に示そう。それは、自然数論の
無矛盾性を自然数論内部で証明できないということだ。
ゲーデルが神の存在論に行ってしまったのは何故か。
もちろん、そんなものはうそっぱちだ。証明できるはずがない。それはゲーデル
自身が示したことだ。
永井とゲーデルは同じなのだ。「語りえぬもの(証明できぬもの)」を「語る
(証明する)」ことをしようとしたのだ。
もちろん、そんなの大笑いだ。結果はわかりきっている。まったくの無駄骨だ。
しかし無意味ではない。なぜなら、その場所の存在によってわれわれは生かされ
ているからだ。
もっとも、すぐわかるとおり、こういったことはいってみれば宗教的なものだ。
だからほかのひとは賛同する必要はまったくないだろう。