三浦
永井均といえば、現代には珍しい「職人哲学者」である。専門的テクニック
を駆使する人という意味ではない。反対に彼の哲学はどちらかというと非分
析的である。知性より感性で掴んだのっぴきならない世界観の肌合いを尊重
する、昔気質の人生職人なのである。
永井のキーワードは「哲学的感度」だ。高感度の哲学アンテナを周囲にめ
ぐらし、微妙な神秘や謎の感触を説得的に提示すること、それが課題である。
これを果たしていない哲学書は、どんな見事な論証を積み重ねていても失格
だ。たとえば永井は、デレク・パーフィット著『理由と人格』(勁草書房)
という七百頁を超える体系的哲学書を書評して「私の年来の問いには答えて
いない。……他の多くの哲学書と同様、問いの存在に対する感度が著しく鈍
い」と一蹴している
三浦
先決めした特定のパースペクティブからの問題意識を持たないからといって
苦情を言うのはむろんフェアでなかろう。しかし、パーフィットのあの名著
にすら断じて満足しない頑固職人が日本の哲学界にいるというのは重要なこ
とだ。そしてさらに重要なことに、そんな頑固職人をも感服させる哲学作品
が、実は現代日本に豊富に存在していたらしいのだ。
それはなんと、藤子・F・不二雄や諸星大二郎のマンガだというのである。
三浦
(中略)
感度は哲学の必要条件ではあっても十分条件ではない。感度という主観的能
力は本来、詩や芸術や骨董の領分であって、哲学の本質は論証であろう。謎
への感性のみを存分敷衍できるマンガ芸術を、永井が哲学として過大評価し
ているように思えてならないのだ。「真の」哲学とは世の哲学者が論文で述
べるようなものではない、マンガや子どもの科白の中に光るものこそ本物な
のだ、といったただでさえ口当たりよいアマチュアリズム礼賛が、哲学初心
の読者の琴線に触れるとすると、由々しきことではなかろうか。
三浦
客観的論証よりも苦吟や詠嘆の断片を然るべき構えで仄めかすことが本当
に深い哲学なのだと思い込むいわば哲学芸道観は、すでにいやというほど
日本に広まっている。「二兎を追う」ことに紛れもなく成功したきわめて
魅力的啓蒙的な本書であるからこそ、哲学という営みへの安易なイメージの
流布に寄与してはいまいかという危惧を、一哲学徒として抱かされた次第で
ある。(了)