65 :
考える名無しさん:01/10/27 00:25
認識とは、物事を知ること。△
存在とは、物事が有ること。△
意識とは、物事が思われること。×
世界とは、物事のすべて。△
自我とは、それを考えている自分。△
公共性とは、自分と他者がいること。×
他者とは、自分以外のもの。 △
時間とは、すべてに変化をもたらすもの。×
超越論的統覚とは、認識を認識たらしめる主観の根源的働き。△
う〜ん、院試にはうかりそうもないな。(ワラ
>>65 シンプルに答えただけさ。院の試験は糞みたいな模範解答があると
誤解しているらしいが、模範解答は過去の哲学者の見解を混合させて、
もっともらしく仕立て上げただけで、中身は俺が書いたのとあまり
変わらないのだよ。
それからね、こういう哲学の基本的用語は、その語自身の定義よりも、
それがどういう文脈で用いられるかで定義そのものが変化するんだ。
だから、院の試験などで求められる解答は、哲学史という文脈の中での
当り障りのない見解で、それは実に糞の役にも立たない、まるで君の存在の
ような、どうでもいい代物なんだ。
哲学に必要なのは、常に定義そのものを解体する文脈の優位性なんだ。
そしてこれがあってこそ、原理そのものを問う哲学が成立できるんだよ。
哲学はそもそもの初めから原理の探求なんだけど、その分だと君は
哲学の初歩にも達していないと言うべきなのだよ。
67 :
考える名無しさん:01/10/27 00:36
なんだ、大したことないな。結局口先だけか。
例えば「認識」という言葉だか、これは哲学史の上から言えば、
プラトン・アリストテレスにまで先ずは遡る必要がある。
勿論、彼等の考えをそのまま反覆する必要はないが、
彼等の考えを無視する訳にも行かない。
哲学は伝統の中でのみ、己の地位を持ちうると言って過言ではない。
それは現在に生きる我々が、伝統の中に「既に常に」生きてしまっている
からなのだ。従って歴史的に考察する事は、同時に現在の吟味なのであり、
現在の吟味を通じてのみ、歴史は我々に何事かを語るのである。
で、「認識」という語を西洋哲学の根底から考えるのならば、
・・・と私がここで模範解答を示しても面白くはない。
君自身が、陳腐な教科書などに頼らずに、君自身の言葉で
定義してみたまえ。そしたら私も付き合ってあげる。
ちなみに下手な知識自慢は私には通用しないぞ。
君自身の安っぽい言葉でオッケーだ。
70 :
考える名無しさん:01/10/27 00:42
画伯お薦めの画家は誰ですか。
71 :
考える名無しさん:01/10/27 00:43
>>66 シンプルに答えたものの中に、間違いが含まれていたら、
目もあてられないが。(ワラ
君のオリジナルな視点もないしな。
文脈どうこう言う前に、基本的理解もできてないじゃないか。
(△はともかく×がある時点で何を言っても口先だけ。)
まあ、はなから期待してなかったが。
せいぜいがんばって精進してくれたまえ。
72 :
考える名無しさん:01/10/27 00:44
最近、新キャラのデビューが相次ぐが(以下略)
>>70 画家? 現代絵画は分からんね。強いて言えば、ロココ時代の
宮廷エロ画かな。
>>71 そういって逃げんなよ。情けないぜ。
おまえさ、人と面と向かって哲学の議論もできないような腰抜けヤロウで、
2ちゃんでしか言いたい事の言えないだっせー奴なんだろうな。
哀れだよ。悔しいなら自分の言葉で何か言ってみろよ。
そうやって哲学者の口真似ばかりしてしけた論文でも書いてろよ。
おまえみたいなのを「役立たず」と言うんだよ。テヘ
75 :
考える名無しさん:01/10/27 00:51
>>69 おいおい、質問を受け付けてるのはきみだぞ。
「認識」よりも×をつけられた「公共性」「意識」
時間」が、なぜ×なのか考えないのかね?
まあいいがね。つきあおうか。
私の解釈
「認識」
物事を自分の意識と関係させ、
その対象を自己の中で理解できる働き
まず、君の解釈の問題点。
>物事を自分の意識と関係させ
まず、「物事」と「自分の意識」との分裂が語られ、
それらを相互に「関係させる」という事が言われているが、
これは近代に特有の認識論的図式であり、彼の認識論はそもそもの
初めから近代認識論の枠内にある。
従って、最初の文で「物事」と言われていたものが、
>その対象を自己の中で理解できる働き
「対象」という言葉に変化している。この辺り、「物事」から
「対象」への移行が、果たして「自分の意識」によって行われるのか、
その働きを認識のうちに数え入れるのか、それは明言されていない。
また、「関係させる」という言葉も極めて曖昧で、なぜ「物事」と
「自分の意識」というまったく異質のものが関係させられるのかが
疑問として残る。
また、「自己の中で理解できる」という文だが、「自己の中」とは
さきの「自分の意識」と同義だろうか。もし同義ならば、そこでの「理解」は
如何にして導かれるのか。
もし「関係させる」働きと、「理解できる」働きとの二つの働きを「認識」と
呼ぶのなら、それは認識のあり方を語ったまでで、認識の「何であるか」を
語っていない。彼の語る「働き」は認識そのものではなく、認識の発生する過程を
描写したに過ぎない。しかし「認識とは何か」という質問に、そのものの
ありようでもって答えることは滑稽である。
従って、認識過程を描写しただけの、認識を「知る働き」に還元しただけの、
彼の解答は不十分である。
さあ、反論してくれ。
また、彼の語る「理解」というのも曖昧である。
理解は「対象を理解する」ことだと思うが、それは
「自分が、認識によって、対象を理解する」のだろう。
しかし、ここで「理解」は如何にして発生するのか。
理解は認識とどう違うのか。
それを説明せよ。
78 :
考える名無しさん:01/10/27 01:16
上の自分の批判は順序が滅茶苦茶だから、ここに出来るだけ分かり易く記す。
まず、君は「認識とは何か」という問いに、
>物事を自分の意識と関係させ、
>その対象を自己の中で理解できる働き
という解答を提出した。そして私は、この解答が、私が上に記したところの、
「認識とは、物事を知ること」である、という極めてシンプルな物言いと、
本質的には何等変わらぬことを示そうと思う。
まず、彼の認識の解釈には、極めて明白に近代の主客二元論が読み取れる。
すなわち、一方に認識する主体としての「主観」を配置し、他方に認識される
客体としての「客観」を配置し、前者が後者と何等かの関係を有して、
そこに一定の理解の生ずることを、とりもなおさず「認識」と称しているのである。
しかし、認識とは、このような「知」の発生のメカニズムそのものを問うているので
あって、このメカニズムそのものを「認識」であると言うのは同語反復である。
問題なのは、「認識の働き」、つまり「主観と客観とを関係付けたり」
「主観が客観を理解したり」する「働き」ではなく、そうした働きをつかさどる何か
なのである。それが「認識」なのである。
もし認識を彼のように定義すれば、主観と客観とを関係付けたり、そこに理解を
もたらしたりすることがいかになされるかが謎のまま残ってしまう。
彼は認識にまつわる「謎」を繰り返しただけであり、認識そのものには迫っていない。
「認識とは何か」とは、彼が語った「働き」の何たるかの究明である。
彼は謎を反覆するばかりで、この究明には参与していない。
それゆえ、彼の解釈は曖昧で粗雑でますます謎を増大させるだけである。
彼の解釈は、「認識とは何か」という問いを逸らしたので、この点で誤りである。
さあ、反論してくれ。
80 :
考える名無しさん:01/10/27 01:31
>>79 暴言だ!!!
ちみは神が造った言葉に自らの意味を加えようというのか?
すべては国語辞典にあるのだよ。
ウーン、逃げられたかな。まあいいか。
兎に角、君はいろいろ私の不備を指摘しているけれども、
まずは君の馬鹿さ加減を反省したまえ。少なくとも私は君より
遥かに真剣に哲学の問題を思惟しているつもりだ。
だが、君が特定の哲学者の名前などを語らずに、哲学の問題地平に
直接取り組むという態度は賞賛に値する。つまり、カントはこう考えたとか、
ヘーゲルはこんな風に解釈したとか、そういう口真似でなくて、
「……とは何か」と問うた時点で、君は既に偉大な哲学者と同一の地平に
立った事になるのだ。その気概を忘れないでくれよ。
というのも、今の哲学科で哲学の勉強をしている奴なんか、
一人として自分の意見を口にする勇気さえなく、惨めに過去の哲学書に
拘泥して、他人の意見を代弁するだけで満足しているんだもの。
そして引用文だらけの情けない論文を学位論文として提出する。
全部が全部、誰それの思想について、みたいなのばかり。
じゃあ、お前はどうなの、って聞き返したくなるよね。
過去の偉大な哲学書から学ぶものはある。しかしそれを
繰り返すのは鸚鵡でも出来ること。大切なのは、何でも一から
自分の頭だけで、幼稚でも粗雑でも馬鹿にされてもいいから、
考えてみる事。哲学の教授なんて馬鹿にして結構。
実際、あいつら馬鹿だもんね。
肝腎なのは、自分を見失わないこと。
自分で考えること。
以上。
82 :
考える名無しさん:01/10/27 01:42
>まず、「物事」と「自分の意識」との分裂が語られ、
>それらを相互に「関係させる」という事が言われているが、
>これは近代に特有の認識論的図式であり、彼の認識論はそもそもの
>初めから近代認識論の枠内にある。
まあ、特に強くは反論しない。細かいところが違うような気がしないでもないが。
>「対象」という言葉に変化している。この辺り、「物事」から
>「対象」への移行が、果たして「自分の意識」によって行われるのか、
>その働きを認識のうちに数え入れるのか、それは明言されていない。
そりゃ長く説明してほしいんだったら、最初からいえよ。
その行為自体は揚げ足取りだな。
この場合の認識において物事とは君の中では、作用主体も含むのかね?
物事とは事象全般であり、そこから個別対象へと的が絞られる。
君が主−客の統一を説くなら話しは別だが。
大雑把に言えば、認識作用の段階的順序は
自己と物事の関係作用→全般対象認識を経
関係性の集中→個別対象→判断→個別認識
(対象の範囲によって、個別認識作用の始まりはことなる。)
>また、「関係させる」という言葉も極めて曖昧で、なぜ「物事」と
>「自分の意識」というまったく異質のものが関係させられるのかが
>疑問として残る。
それが意識の本質的な作用と考えているからだ。
その意味で関係性とは物事との強制的関与である。
異質というのは、君の解釈だろう。
異質と思う原因は、君の認識論から来ているので、
そこを説明したまえ。
>また、「自己の中で理解できる」という文だが、「自己の中」とは
>さきの「自分の意識」と同義だろうか。もし同義ならば、そこでの
>「理解」は如何にして導かれるのか
これは、書き方が不十分だったな。意識と自己内は厳密には違う。
意識のありようにおいて、物事の関係作用が外界に向く時と、
自己に向かう時を分けている。
与えられた対象は自己の中で言語化され、他の保持された記憶、概念
と照らし合わせて判断され、認識へと向かう。
これが「理解」である。
認識のありようでもって答えるのは、認識を答えるのに
それほどこっけいかな?
「認識とは、物事を知ることである」
というのが代替表現に過ぎないという批判はどうかわす?
知るということは何を持って得られるのかな?
別に解答はいつでもいいぞ。
なかなか長い話しになりそうだからな。
俺も再反論がすぐにできるかわからんしな。
あれ、逃げてないんだね。
さあ、なかなかおいしい反論をしてくれたね。
よおし、今日は眠いのを我慢して少しだけ付き合ってみよう。
「自分を見失わないこと」が大事であることには賛同しつつも
あえて、ひとこと言わせてもらいます。
例えば、ある数学の定理があって、ただそれを暗記して
使用しているのと、その定理をより基本的な定理から自分で
導出できることは違っていて、後者のほうが理解が深い。
そのような訓練をすることは大切。
しかし、「何でも一から、自分の頭だけで」考えようとする
ことの効率の悪さは否定できないと思う。自分だけで考える
ことの不経済さを自覚するからこそわれわれは2chの場に
カキコんだり哲学書を読んだりするのだと私は思います。
>>82 まず、私の「認識とは、物事を知ることである」という解答は真に受けないように。
私は認識をそんなに単純には考えていない。これでも一応は認識論をさんざんに
考え抜いた経験があるから。しかし先ずは君の反論に感謝して、それに再反論したい。
まず、君は君自身もしぶしぶ認めているように、典型的な近代哲学の認識論の枠内で
物事を語っているから、この枠組み自体を無碍に批判するやり方は取らないでおこう。
しかし結果的には、私の批判はこの近代認識論に向けられているので、君の認識論が
それに属する限り、私は近代認識論批判というスタンスを固守せざるを得ない。
さて、君の認識の順序についての説明を見ておこう。
>自己と物事の関係作用→全般対象認識を経
>関係性の集中→個別対象→判断→個別認識
これは明らかに、君自身の「認識」に対する説明である。私はこのような、認識作用の
因果的説明を聞きたいのではない。何故なら、このような説明は「仮説」に過ぎないからだ。
君は物理学者が万有引力の法則を説明するかの如く、認識の法則を因果的に説明しただけで
あり、物理学的仮説がその蓋然性を脱却できぬように、君の仮説も蓋然性の域内にある。
このような因果的説明は、如何様にも語ることができる。そして如何様にも細分化できる。
認識のプロセスの説明は、しかし仮説に止まらざるを得ない。
勿論、君が帰納的方法ではなしに、アプリオリな原則から演繹的にこの認識作用の仮定を
導き出したのなら、その原則の是非が問われねばならない。君は知っていると思うが、
これはカントを悩ました最大の問題の一つである(超越論的演繹の問題)。
従って、君の認識作用の説明は承諾できない。増してや「認識とは何か」の問いにも
答えていない。問われているのは、このように説明されている「何か」なのであるから。
次に、君の「理解」の説明についてだが、これも同様に「仮説」の域を出ない。
君は連合心理学の概念まで惜し気なく持ち出しているが、心理学は「事実学」であることを
忘れないように。事実からは事実しか出て来ない。つまり本質を問うことはできないのだ。
君が如何にもっともらしく理解についての説明を試みようと、それは心理学の領域を出ない。
哲学にはなり得ないのである。哲学は「認識」とか「理解」とかを、事実的にそれが
どうあるかを説明するのではない。それは心理学をはじめ事実学の仕事である。
しかし哲学は、「事実的にそうであるもの」の、「本質」を問うのである。
そしてそれがこの場合、「認識とは何か」という問いなのである。
君は従って問いの意味を完全に誤解しているのである。哲学の問いを理解していないのである。
ちなみに私は、「認識」の問題を「知ること」などと片付けてはいない。
それは君の書き込みに対する遊戯的解答であって、私は単に君のように真面目に議論できる
人を待望していただけである。
さあ、君がもし私の反論を受け入れてくれるのなら、もう一度「認識とは何か」という問題に、
認識の何たるかを説明することなし、「認識の何であるか」という観点から答えてくれないだろうか。
>>84 ウーン、多分、君は俺を誤解している。そういう意味ではないんだよ。
おでん屋??
88 :
考える名無しさん:01/10/27 02:40
>>85 もしかして、お前はチンポ太郎か?
そうでなくても、俺も君を誤解していたようだ。
まずは、その反論の濃さに素直に驚嘆した。
しかし、学部生かどうかは、非常に疑わしいが。(ワラ
もしそうなら、俺など君にかなう人間ではないな。
近代哲学の批判とはな。そこに立脚されては
確かに俺のは、仮説の仮説にすぎんだろう。
しかし、事実を事実としてみなすのは、
なにも物理学や心理学の専売特許ではないのだ。
事象を見つめる時、そこに本質や本来的な意味
を見出す行為自体が、「そうしたいという意志」と
「そこにたちあらわれるもの」との違いの境界線を
あいまいにする。
近代を否定しても、近代は超えられてはない。
「認識とは何か?」の何かに、例えば言語以前の
ものを見出す時、それが「何か」の説明にはなりえても、
「認識」の説明になりうるかどうかは、わからないであろう?
本質という幻想と、規定という思考停止には
「認識とは何か?」の問いへの根源的な障害があると思われる。
君の問いへの解答は俺の能力を超える。
なかなか楽しかったよ。またな。
えーっとじゃぁ俺も日ごろ抱いてる疑問をひとつ。
フッサールってそんなにえらいんでしょうか?
私にはこの人が結局何をしたのか、いまいち分かりません。
現象学を創設したといっても。じゃあ現象学で何がわかったのか、
世の中のどんな仕組みが判明したのか、いまいちピンときません。
私見では現象学とは、科学の皮をかぶった美学であり形而上学であり人生哲学です。
フッサールってそんなにエラいんでしょか先生?
90 :
考える名無しさん:01/10/27 02:54
>>89 お前は、前よりも議論の対象者を選ぶようになったな。
厨房にこりたのか?(ワラ
お前の研究しているハイデガーも
フッサール無しには、存在への問い
のスタートに立てなかったろ?
さぁ、どうだろ。
92 :
考える名無しさん:01/10/27 02:59
うるせぇな。糞尿なんとかの答え待ってるんだよ。
まぁ92は現代思想の冒険者達でも読んでろってこった。
94 :
考える名無しさん:01/10/27 03:18
>>93 お前フッサールスレでTranszendentalの意味も
知らなかったくせに、ずいぶんえらそうだよな。(ワラ
まあ、お前はハーバーマスのハイデガー批判に
文句でも言ってなさいってこった。
さて、頭脳鋭敏の君達の事だから既にお気付きの事とは思うが……
天才画伯=チンポ太郎=フッサール=研究者である。
私が何故新スレを投稿する度に名前を変えるのかと言えば、理由は簡単だ。
君達に「余計な先入観」を抱いて欲しく無かったのである。
例えば、私は過去にフッサールを論じたのであるが、諸君の中には私の書き方に
嫌悪感を覚えたり反撥を感じたりした人も少なくはなかっただろう。
私はしかしそうした諸君とも、次の機会には新たな気持で哲学を語りたいと
願ったのである。だからして同名を敢えて回避し、故意に猥褻な表現を多用し、
諸君等の良識を攪乱せしめ、以て議論の新鮮なることを保たんとしたのである。
>>88 >しかし、事実を事実としてみなすのは、
>なにも物理学や心理学の専売特許ではないのだ。
>事象を見つめる時、そこに本質や本来的な意味
>を見出す行為自体が、「そうしたいという意志」と
>「そこにたちあらわれるもの」との違いの境界線を
>あいまいにする。
前半の文意は判然としているが、後半からが分り難い。
まず、「事実」と「事象」は、これらの用語が現象学的な意味で用いられているのなら、
少しくその意味を違えているので注意が必要だ。「事実」というのは、現象学においては
「本質」とは分離不可能であって、事実と本質とは密接に連関し合う。だから「事実」の
探究は、確かに物理学や心理学の専売特許ではない。しかし物理学や心理学は、
それらの研究対象である「事実」を、「本質の相の下に」研究する事はあり得ない。
つまり、「事実」と「本質」との明確な区分を設けて、両者の微妙な相関関係自体を
探究する手段は有していないのである。従って物理学や心理学は、事実的なものの
探究のみに甘んずる。
しかし哲学は、「事実」を飽く迄「本質」との連関において把握する。
本質研究とは、厳密に言えば「本質」のみの研究ではなく、それは必然的に事実的なものを
含まざるを得ないのである。その意味で、哲学は確かに「事実」を問題にするが、
しかしそれは物理学や心理学とは異なった仕方でそうするのである。
一方、「事象」というのは、……ウーン、現象学の解説は詰らないのでやめよう。
兎に角、私はそう考えるが、……そしてこうした見解は実に当り障りの無いものであるが、
君の見解はこれとは異なるようだから面白い。
君は「行為」というものを持ち出している。
実は君は私の反論に急き立てられて、何か「認識」一般に関する興味深い意見を口にして
いるのだ。だからその考えをより詳しく説明して貰えたら嬉しい。
>近代を否定しても、近代は超えられてはない。
異存は無い。私も同感である。否定に終始する人間は何事も語らず何事も行為しない。
>「認識とは何か?」の何かに、例えば言語以前の
>ものを見出す時、それが「何か」の説明にはなりえても、
>「認識」の説明になりうるかどうかは、わからないであろう?
「認識とは何か」という問いは、別に「言語以前のもの」を問うている訳ではない。
君は再び言語以前の心理学的過程を想定しているようだ。だから「説明」という事に
固執してしまうのであろう。
「『認識』の説明になりうるかどうかは、わからないであろう」と言う時、君は
「真偽の判定が可能な」何等かの説明命題を想定しているのである。
しかしそのような説明命題の真偽の判定は、如何に為されるのだろう。
誰かが認識の過程をつぶさに観察する事によって得られるというのだろうか?
それは前にも述べたように、「科学の方法」である。
「認識とは何か」という問いは、真偽の判定が可能な、何等かの説明命題によって
答えられるものではない。そのような答えを提出するとしても、問題なのはその答えが
更なる答えを要求するということである。この答えの連鎖を止めるためには、
君は「実験」を必要とする。しかし実験から得られた結果は、すべて「仮説」である。
こうした「仮説」の真偽を実験の結果から導き出す事はできるが、しかしそれは
実験の条件に左右される限り、蓋然性を有する事実としてのみ規定され得るのである。
>本質という幻想と、規定という思考停止には
>「認識とは何か?」の問いへの根源的な障害があると思われる。
「本質」は幻想であるのか? ヴィットゲンシュタインでさえもそんなことは言わない。
また「規定」は思考停止でも何でもない。こういう短絡的な用語の非難によって、
私の批判に答えようとするのはルール違反だ。少なくとも学問的誠実に欠くものと
言わざるを得ない。だから次からはやめてくれ。
>君の問いへの解答は俺の能力を超える。
そんな事はない。君の解答には非常にいいものが含まれている。
糞尿野郎はよ返事せぇや
>>89 >フッサールってそんなにえらいんでしょうか?
自分の見解では、哲学的には偉大な人物だと思う。
>私にはこの人が結局何をしたのか、いまいち分かりません。
それはフッサール自身と、とことん付き合って見なければならない。
付き合わないと、どんな奴かは分からない。
>私見では現象学とは、科学の皮をかぶった美学であり形而上学であり人生哲学です。
自分はそうは思わない。
さて、そろそろ退散するけど、聞きたいことのある人は今のうちに
どうぞ。
ないようだね。
では、正体がバレたので退散します。
また会えるかな??
バイバイ
>>画伯
俺が言いたかったのはこういうことだ。
意識において「本質」という言葉を持ち出した瞬間に
ある志向性が発動する。「事物への本質の規定への志向」である。
事物と本質という関係が不可分であるのは、
意識の中の「本質を規定しよう」というこの志向性において、
「たち現れるもの」と、「そう見なしたい意志の反映」との
逆転作用を生じさせることがあるからである。
それが、「境界のあいまいさ」という意味である。
「たち現れるもの」が「本質」となり、
「そうみなしたい意志の反映」が「事実」となる危険性。
そのことから、本質自体が幻想というより、事物への本質の規定志向が
認識を幻想にさらすといった方がいいかもしれない。
だが、事実を事実として見るとき
そこには「規定」が横たわる。このことを命題の真理から、
または、認識の形式から見出しても規定である事実はかわらない。
認識とは何かという問いにうまれる「障害」とは、
意識の事物への本質の志向性と規定そのものなのである。
関係性とは、事物との強制的関与というのはもうすでに述べた。
さらにいえば、関係性とは意識の形態であり、作用なのである。
本質を見ようとするとき、本質を見ようとするのではなく
意識の関係性における、事物との強制的関与からではなかろうか?
というのが俺が現在まで考えた浅はかな途中経過だが、
チンポ太郎にはかなわんし、恥ずかしいから一応sageて書く。
まあ、もういないだろうし、このスレを見ることもないかもしれんが。
な・ん・だ!!!その答えは!!!!!!!!!!
氏ね。転載画伯よ。頼むから氏んでくれ!!!!!!
つーかブッ殺す。
>>102 ははは。
らげさん、なめられちゃったね。
もうさ、僕らの存在する宇宙ってね、訳解んないことだらけでさ
不安で怖っくて鬱になって死にたくなったりするよね、時として。
で、訳解んないことっていうはさ、色々とみんなの中で設定があると思うんだけども
それぞれバラバラの設定や設定に対する答えについて
言語(空気の振動、インクの滲みとか)に依って
超沢山議論して、様々な妄想(宗教、哲学、科学)を創出したよね
僕らが感じる恐怖に対して、逃避ではなく真っ向勝負を挑む為に、ね。
真理の探究と表現した方がスッキリとするのかな・・・まあ、いいや。
多くの人々は創出された妄想を信じたり、思いっきり利用したりした訳だけどさ
稀に存在する誠実(キチガイ)な人達が、長い間議論を積み重ねた結果である現在
どうやら宗教は、僕らが設定する「訳解らない」に対して、真っ向勝負出来ない存在にまで縮小され
哲学は、妄想を支える言語を解体し
科学は、有用性に還元されちゃって
結局、僕らは「訳解らない」からの逃避とタナトスとの狭間で
日常生活を送っちゃったりしちゃってるてゆー感じでOKかね、諸君!(キャラクターチェンジ)
んで、この辺のお話は、日本国民の10%くらいが
合点承知の助、或いは、解ったふり太郎(俺が今つくった)なんだけど
現状を打開するビジョンは二つある。
一つは、優秀で愛国心に溢れ気味の官僚君達のエスタブリッシュメントとなっている
「日本的封建社会(江戸時代)に倣った社会システムへのソフトランディング」
即ち、妄想に対する深度を低下させ精神安定を図る(みたまえ! ゆとり教育により低脳化したチルドレン達の活力を)
ヨーロッパ型のビジョン。
もう一つは、社会適応能力の低い逃避妄想ドップリ君達に一部熱狂的支持を集める
「従来環境を加工してきた科学技術を人間自身の加工にあてるサイバーパンク的社会へのハードランディング」
即ち、長い間培われてきた「人間性という妄想」を全てかなぐり捨てて
なんか新しい想像もつかねえ様な存在に人工進化しましょうっていう感じの
アメリカが何とか誤魔化しつつ、無理とも思いつつ進めている気がするっぽいビジョン。(アヒャ)
といった以上二つのビジョンである。
つー訳で長くなったが、チンポ太郎に答えて欲しいのは
このお話に対する感想及び、どっちのビジョンを支持するか答えろ!(又は、第三のビジョンを提示せよ)
Rage! テメエもついでに答えろ! つーことだ。
オマエ等コテハンで半年以上こんなカスい板で自己主張する様な
エゴの強いキチガイなんだから、どうせ政治の方向性に向かうんだよ、オラ!
2対1で勝負じゃ! ガハハ
105 :
考える名無しさん:01/10/28 21:05
言葉遊びって面白いね(ワライ
106 :
考える名無しさん:01/10/29 15:29
ahe
107 :
考える名無しさん:01/10/30 08:00
らげしょぼいあげ
108 :
考える名無しさん:01/10/30 12:54
あげておこう。
109 :
考える名無しさん:01/10/30 13:51
ちんぽ太郎ってこんなに頭悪かった?
110 :
考える名無しさん:01/10/30 13:54
111 :
kudo-chan:01/10/31 18:27
112 :
ホームラン松井:01/11/01 22:29
レスが付いてない。
僕の思いは届かなかったのでしょうか。
113 :
考える名無しさん:01/11/03 18:47
天才画伯待望あげ
114 :
考える名無しさん:
デリダについて面白おかしく語ってみてもらいたいあげ