>>49 なんで勝手に自分の主張と相手の主張をごちゃまぜにして解釈
すんのかね。
ある種の概念が存在と勘違いされるのは、それが俺らの意識の中で、
「構成され続けている」ため、反省して検討しないと、
あるように意識されてしまうからなんだよ。
52 :
考える名無しさん:01/10/03 04:29
>>50 >例えば山田太郎として指し示される観察できる対象が、
>(ラフに言えば)具体的な存在だと考える。
これはかなり
>君は「経験的な」「反省前の認識」をそのまま受け入れているだけだろ。
だとおもうなあ。
53 :
考える名無しさん:01/10/03 04:31
>>51 ほんと、君ってフォイエルバッハだね。
神が概念に過ぎないから、それを認識すれば問題が解決する、と。
ああ、マルクスの苦労はなんだったのか!
>>53 勝手に人の主張をある人の主張にあてはめて考えるないでくれるか?
誰が神を認識するとか言った?
56 :
考える名無しさん:01/10/03 04:40
>>54 観察でき示される山田太郎?
それは、そこにいる服を着た人間のことなのか?
それとも、服は彼ではないのか?
髪の毛は?
足が一本無くなったら彼ではなくなるのか?
両手両足が無くなったら?
人工心臓に取り替えることになったら、その心臓は彼なのか?
大体、それが単に自称山田太郎にすぎなくて、
実は、山本二郎が騙っているだけではないのか?
結局のところ、それが山田太郎個人だとされるのは
それが社会通念としてあるからなんだよ。
つまり「経験的な」「反省前の認識」ということだよ。
>>56 「指し示される観察される対象」と述べたんだけど。
対象そのものだよ? 山田太郎が社会通念だというのは、
俺がこれまで述べてきた考えに整合的だろ・・・。
山田太郎が社会通念としてあるなら、社会についてはどうなのだ?
社会通念としてあるのではないの?
58 :
考える名無しさん:01/10/03 04:46
>>55 どうもフォイエルバッハとマルクスの議論をご存知ないようだけれど。
フォイエルバッハが直接批判したのは神についてだけれど、
議論の形式は、33のものとほとんど同型。
ここでは別にそれが「神」の批判であることは関係ない。
要は、
それは人々が作った概念に過ぎない、
だから、
それが作られた概念であることを意識すればそれは存在しなくなる、
というその議論の枠組みなわけ。
59 :
考える名無しさん:01/10/03 04:55
>>50 山田太郎という固有名はクリプキがいうようにたしかに
個人そのものを指示するが、しかしそれしか指示しないんだよな。
つまり、固有名は「個体がある」という存在の表示でしかない。
もっとも、例えば孫悟空という固有名がその現実存在まで指示
しているとはいえないがね。孫悟空は架空の存在だから。
まあ、だから山田太郎がどういう人か(つまり山田太郎の「本質」)は
やはり彼か置かれている社会関係(家庭・学校・国家など)
から判断するしかあるまい。
因みに孫悟空の本質は「西遊記」というテクスト=文脈から判断できる。
そしてテクストもまた関係の網の目の一つなのだ。
>>57 >山田太郎が社会通念だというのは、
>俺がこれまで述べてきた考えに整合的だろ・・・。
えっ? 整合的でいいの?
「個人は具体的な存在であり、社会は概念である。」
というのが33のテーゼだと思っていたけれど?
>山田太郎が社会通念としてあるなら、社会についてはどうなのだ?
>社会通念としてあるのではないの?
言いたいのは、
「山田太郎という個人」が、感覚的には自明ではないにもかかわらず、
どれがその山田太郎という個人であるか、という点について、
つまり山田太郎が個人として存在するという点について
日常的には問題なく事が運んでいるという形で、その実在性が与えられていると言うこと、
それと、社会が、日常的には存在するとみなされ、
存在するものとして機能している、ということは単に程度の違いであって、
どちらも社会的な構成として、かつ、それゆえにある種の実在的なものとして
存在しているということだよ。
>>59 そのときに、社会が存在すると構成すべきでない、という点しか、
意見に違いがないんだけど。社会関係から、個人を把握することを
否定していないよ。
>>60 いや、違う。だから勝手に人の主張に他の主張を読み込まないでくれ。
言いたいのは、以降については、
日常的に問題なく事が運んでいるという形で、
実在性が与えられている、社会が日常的には存在するとみなされ、
までは賛成。
存在するものとして機能している、ということは程度の違い、には
反対。
社会的な構成として、かつ、それゆえにある種の実在的なものとして
存在している(とみなしている)なら賛成。()内がないなら、反対。
反対している点は、そうした認識が成立しているときの条件
(意識下での構成)が、常に繰りかえされているという視点が
ない点。
62 :
サルトル@存在とは無そのものだ:01/10/03 05:05
33は存在(〜がある)と本質(〜である)
の区別ができてないな。
これって初歩的なミスだよ・・・
64 :
60(56):01/10/03 05:20
>>61 その説明でわかったからいいんだけど、
>いや、違う。だから勝手に人の主張に他の主張を読み込まないでくれ。
といわれても、
>例えば山田太郎として指し示される観察できる対象が、
>(ラフに言えば)具体的な存在だと考える。
という文は、個体こそ具体的存在物であると言っている点で、
上記のように解釈されてもしょうがない。
それはともかく、やはり分からないのだが、
(個体)
>実在性が与えられている、
(社会)
>社会的な構成として、かつ、それゆえにある種の実在的なものとして
>存在している(とみなしている)なら賛成。()内がないなら、反対。
個体も社会も、どちらも「みなし」である以上、それは程度の差に過ぎなくなるのでは?
もちろん、その二つのみなしは全く異なるみなしである、ということを
議論として展開できるなら別だけど。
65 :
考える名無しさん:01/10/03 05:22
個体の存在そのものも生みの親なしにはありえないから、
個体の存在そのものもやはり(親との)関係性なし
にはありえない。
そういう意味では個体とは尽く関係性の網に絡めとられて
いるような気がするがね・・・
66 :
考える名無しさん:01/10/03 05:25
>>64 >例えば山田太郎として指し示される観察できる対象が、
>(ラフに言えば)具体的な存在だと考える。
ラフに言えば、指し示される対象、としているのに?
まあいいや、言い方がまずいのだろうね。
>個体も社会も、どちらも「みなし」である以上、それは程度の差に過ぎなくなるのでは
程度の差に過ぎなくなるなら、みなしがなされていることを、双方の
概念について認める結論になるはずじゃないの?
みなしが程度の差にすぎないという見方に反対であるのは、
「程度の差」がそこにあるわけではないからだよ。
その場その場で、概念が構成され続けているだけだから。
>>65 何の話?
68 :
64(56):01/10/03 05:40
>>67 やはりよくわからない。
個体も社会もみなしではある、ということなんだよね?
そのうえで、個体と社会では、そのみなしの様態が違うの?
そこがはっきりしないんだけれど。
>>58 >それは人々が作った概念に過ぎない、だから、それが作られた概念であることを
>意識すればそれは存在しなくなる
これには同意しない。俺は、存在とは、存在として人間が意識し続けうる対象一般に
ついて、人間が抽象した際に意識されうる概念だと考える。
俺は、存在として意識され続けていることは、認める。存在しなくなるとは言わない。
俺が批判しているのは、存在するように見えるのは、個々の人間の意識の上で、
存在として、概念が構成されつづけているという視点を常に保てているかどうか、という点。
人間の認識機構が継続して作用し続けていることによって、存在が構成され続けているという点に
自覚的でない点。
>>68 見なしの様態は、違わない部分もあるし、違う部分もある。
(違わない点は、個々の意識上に連続的に構成され続けている概念である点、
違う点は、構成され続けている時に依拠する論拠が違う点)
いずれにしても(みなしであることを認めるなら特に)存在は意識上に構成され続けている
という点に自覚的であるべきだと主張する。
社会が影響力としてあるのは、社会が存在するという意識を持ち続ける人間達の範囲で、
社会において実際に影響を作り出している構成要素(例えば意志をもった人間の諸関係や、
環境条件)を、常に無前提に主観的総合し続ける者の概念把握の上にある、と理解する。
要するに概念構成として社会と総合する事が、広範囲に承認されているから、
社会が影響を持っているように見えるが、実際にはより分析的に社会を構成し、説明しなおせるため、
社会による影響は、より細かい概念構成によるものとして説明されうる、だから、社会は存在では
なくて、説明の態様の一つだ、と理解する。
お前らレベル高すぎてワカンネ
71 :
考える名無しさん:01/10/04 00:10
それより、暴批はどうした
>>69 それは一見したところ批判的な原理になりそうでいて、
その実、非常に観念的な議論で、ほとんど批判的な原理にはならないと思うな。
そうではないと書かれているけれど、
最終的には「意識上にあるということを意識すれば解消できる」と
考えているようにしか残念ながら読めない。
(広松渉的な「学知的立場」にたてばすべて解決という議論とよく似ている)
ただ、国家の問題を出したときにきちんとした回答をもらえなかったので
どう考えているか分からないけれど(国家と社会は、その実体性においてことなる)
問題なのは、たとえそれが人々の意識に大きな支えを持っているにしても、
同時にそれは、日常的な生活の一部となることで、たしかに物質的な基盤を持っている。
問題は意識ではなく、たとえ知っていてもそう行っているということ、
あるいは、意識していなくても、そう行っているということなのだ。
33の議論は、あまりに個人の意識に、それらの集団的な行為を還元しすぎる。
そこには、集団的な行為が個人の意識を規定するという側面が欠けている。
そこには、普段、ひとは意識せずに多くのことを行っているという側面が欠けている。
結局のところ、貴方の議論では、意識はあまりに過剰に能力があるものとみなされ、
無意識的な行為は存在しないものとされ、集合的な構成が作り出す諸力の
各個体を離れた位相が無視され、
結果として一見した啓蒙的な外観にもかかわらず
極めて実効力の無い結論にたどりついているように思われる。
ひとは日々意識して社会的生活を営むわけではない。
意識せずとも可能になる物質化された制度がそこにはあり、
それらは個体の意識を超えた強制力として、むしろ個体の意識を、
個体の日々の行動を形作る。
73 :
考える名無しさん:01/10/04 11:03
だから、スレ違い
>>73 スレ違い、本当にごめん。
>>72 第1に、何度も言っているはずだが、他人の議論との無前提な類比で相手の見解を
論じるのはやめてほしい。それは、君の理解の過程に予断があることを示しているだけである。
たまたま理解の結論があっていることは、あるかもしれないけれども。
第2に、議論は常に「観念的」だ。だから、観念的な議論というのは、批判にならない。
そうした規定は、単に君の議論の性質に関する無理解を、露呈したにすぎない。
要するに、君が「観念的に」実体的なニュアンスを感じていることについて、
自覚的でないことを示したにすぎない。
国家については、
>>69中の社会における説明の際に用いられる、一つの概念と考えている。
実体性について異なるという面は、影響力の強弱の差異として説明される。
こうした差異は、人的・地理的・時的な関係に引きなおせる(引きなおせることを直観した
段階で、自分に直接に影響してくる実体は、国家という関係の、その末端であることがわかる。
これがわかれば、それをたどるという視点が保てる。普通の人は、この段階で分析を止めても
よい。第一、分析する時間がないことくらい、俺だって分かる)。
国家という概念が排されるべきだとは、考えていない。
むしろ、君が言うように、国家に(というより、物質的な基盤に基礎を求めうるとされる概念一般に)
対する、実体的な把握をする人が多数を占めている現状においては、国家という概念が社会を
説明する際に不要だということは、ありえない。
物質的な基盤を持っているからこそ、物質的な基盤から直接的に説明される面は、それにより
説明されるべきである。国家的な範囲の基盤が、そのまま観察できるということがあるというなら、
それは循環論法である(国家的な範囲の確定が無前提になされているから)。
知っていて国家があると見なしているなら、説明される際は、その通りに説明されるべきである。
つまり、「知っていて、国家があるとみなしており、そうしたみなしは〜という社会的な関係に
よっている云々・・・」と、説明するのが、論理的である。
「あまりに」「過剰」とか、どうしてそのように言えるのか論証もせずに規定しても無意味である。
もし個人において俺の意見が意識される事態を想定するなら、そこで求められているのは、
個人の意識の能力の問題と言うよりは、むしろ習慣の問題だと考えている(なぜなら、その程度の
知的能力しか必要としない認識だからである。つまり、国家の輪郭が、人的・地理的・時的に範囲が
画されることを直観できれば良いだけであるから)。
集合的な構成が作り出す諸力の各個体を離れた位相が無視されるのは、俺の方法論が適用された場合に、
そうした側面を無視して議論をした者について言える批判である。
むしろ俺からは、集合的な構成を議論の上で認める事で、各個体を離れた諸力があるように見せかけ、
個々の人間の言動を、そうした諸力が及んだような分布に構成していく働きへの注意がない、と
指摘させてもらう。要するに俺の議論に「実効性がない」からまずいのではなくて、君の議論を
認める集団によって「実効性が作り出されてしまう」からまずいと言うべきである。
(ちなみに議論自体に実効性がないのは、原理的に当然である)
75 :
考える名無しさん:01/10/04 23:18
スレ違いなんぞ気にせずこのまま突っ走ってくれ
76 :
考える名無しさん:01/10/05 01:53
とりあえず、ベンヤミンはマルクス派の人だと
いうことをお忘れなく。
77 :
考える名無しさん:01/10/05 01:59
「アウラ」は物質か観念か?
78 :
考える名無しさん:01/10/05 02:04
アウラはカントの物自体のベンヤミン的翻訳です
79 :
考える名無しさん:01/10/05 11:06
↑ベンヤミンがどこかで言ってるんですか?
それとも研究者が言ってるとか?
ぼくはどちらも知りませんが・・・
80 :
考える名無しさん:01/10/05 22:37
↑↑聞いたことあるようなないような
81 :
考える名無しさん:01/10/05 23:46
↑↑↑ベンヤミン的な意味での翻訳であるよなないような
82 :
考える名無しさん:01/10/06 00:28
ベンヤミン的翻訳とか言い出すと
きりなくなるぞ
83 :
考える名無しさん:01/10/06 22:29
aaa
84 :
paul valery:01/10/06 22:32
ペンヤミンは資質としてては僕に近いんだけど、面白いって思ったことない
85 :
考える名無し:01/10/07 00:03
というか、アウラがカントのいう物自体だとしたら、
被複製芸術には物自体があって、複製芸術にはそれがない、
ということになるぞ。
それは翻訳の域を越えて、根本的な誤りじゃないか。
86 :
考える名無しさん:01/10/07 00:39
アウラとは俗にいう「オーラ」のことです。
つまり「背後に漂うなにものか」、のことです。
87 :
考える名無しさん:01/10/07 00:51
それを知った上でいままで議論(とよべるか?)をしてたの。
知らない人のために書いただけです、すいません。
89 :
考える名無しさん:01/10/07 12:33
崇高?
90 :
考える名無しさん:01/10/07 12:36
物自体のドイツ語の直訳は何?
91 :
考える名無しさん:01/10/07 13:20
アウラ aura 後光、光彩。宗教上の儀礼の対象がもっていた
絶対的な荘厳さ。ベンヤミンの定義は「いかに近くとも、
遥か遠くにあるものの一回限りの現象」。映画等の複製可能
な藝術の登場とともに、アウラは完全に消失する。ベンヤミン
は、アウラなき新しいメディアに、資本に取り込まれない、
表現と政治の結合を希望していた。だが、一方ではアウラの
喪失への嘆きも彼の思考に読み取れる。
哲学事典からかいつまんでちょっとだけ。
92 :
考える名無しさん:01/10/07 17:50
その後のハリウッドの隆盛を考えれば彼は読み誤ったといえるし
ハリウッドは実は戦前から巨大赤字産業であり続け、しかも亡命監督たちにアメリカを
バカにした映画を撮らせ続けていると考えれば達見であったともいえる。
93 :
考える名無しさん:01/10/07 18:18
Ding an sich=物自体
94 :
考える名無しさん:01/10/07 18:43
英語で直訳するとThing actuallyにもなるのですが
95 :
考える名無しさん:01/10/07 18:47
>>90 >>94 この「直訳」っていうのはどういう意味なんだ?
何語からの直訳なのだ?
それとも、書き間違いなのか?
96 :
考える名無しさん:01/10/07 18:55
書き間違えです。スマソ。日本語からのという意味ではなく、
カントの書いてたドイツ語から英語への直訳という意味でした。
Ding an sich=Thing itseIf
98 :
考える名無しさん:01/10/07 21:20
身もふたもないですね。ところで物自体って「喪失」することはありえないんじゃなかったっけ?
99 :
考える名無しさん:01/10/08 02:43
カントのドイツ語自体、ラテン語の概念の翻訳じゃないの?
100 :
考える名無しさん:
age