クリプキの名指しの理論

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377=17:01/09/30 00:36
なぜか途中で名前が変わってしまっていますが、7と17はどちらも私です。

さて>>30の「サンタクロース」は非常に難しい問題です。
クリプキ自身も言及していますが、ちゃんとした説明をしていません。
自分の考えは理論ではなくて素描だからいいのだ、というような言い訳をしていました。
(ただし、『名指しと必然性』を読んだのはもう何年も前だったので、思い違いをして
いるかもしれません)
当然のことながら、現在「サンタクロース」という名前とともに語られる伝説の数々は、
この名前の由来となった古代の実在する聖人とは何の縁もゆかりもないわけで、「サンタ
クロース」が歴史上の人物を指示するというのは無理があります。
そこで、聖ニコラスへの誘惑を断ち切るとするならが、「ドラえもん」と同様に虚構内の
キャラクターの名前と考えられます。
(もっとも、「ドラえもん」の場合は、作者と作品がはっきりしている典型的な虚構名で
すが、「サンタクロース」はそうではないので、本当に同一視していいのか、若干のため
らいは残るところです)
さて、虚構内のキャラクター名をどう扱うかについては、ちょっとずるい方法があります。
それは、この問題は虚構という社会的制度に関するものなので、意味論の扱うべき問題で
はない、と割り切ってしまうことです。
直接指示説の立場からは、単に「『ドラえもん』という名前はドラえもん本人(本猫?)
を端的に指示する」とだけ述べて、ドラえもんがいかなる存在者なのか、という問題から
逃げてしまうのです。
ドラえもんは実在はしないけれども、『ドラえもん』というマンガ及びアニメの中では立派
に存在するのだから、「クリプキ」がクリプキを指示するのと同様のメカニズムで、「ドラ
えもん」はドラえもんを指示するのだ、と主張することは可能です。
或いは、ドラえもんは生身のロボットとしては実在しないけれども、『ドラえもん』という
実在するマンガを構成する抽象的存在者として、立派に「実在」するのだ、と言うことも
可能かもしれません。
(「じゃあ、『めぐみのピアノ』の登場人物はどうなの?」とツッコミが入ると困るのです
が……)
38考える名無しさん:01/09/30 02:01
指示対象をもたないような「いびつな」名は、
そうでない「健全な」名のふりをして機能します。
大事なのは健全な名の働きです。

>>35
そうではないというのがクリプキ説です。
3930:01/09/30 10:50
>>37

名指しの問題を提起することは意味があると思う。
しかしその解答として名指しの対象を探すことには意味がないと思う。

サンタ・クロースの話を持ち出したのは、それがいいたかったから。
人が言葉を用いるときに、ホントウは名指しの対象なんて必要がないのだ。
例えばドラえもんの「デザイン」は実在か?アリにとってはアレはインクの
シミでしかないだろう(笑)実は、例えばソール・クリプキについても
同じことがいえるかもしれない。クリプキの身体が、すなわち実在なのか?
ここまで露骨に唯物論的だと、さすがにバカバカしさを痛感せざるを得ない。
例えば、クリプキの遺体(^^ゞ)よりも、クリプキの著書の文章のほうが
ある意味クリプキをはっきりと形づけている。このような意味で精神は、
決して物質ではない。
401:01/09/30 16:21
カプランの見解に関しては?
417=17:01/09/30 23:27
>>39
>名指しの問題を提起することは意味があると思う。
>しかしその解答として名指しの対象を探すことには意味がないと思う。
意味がないかどうかはどのような関心をもっているかによって異なるでしょう。
哲学は一般に基礎研究の性格をもちますが、言語哲学、そしてその一分野である意味論
はとりわけ実際上の有益性から遠く隔たっているように思います。
通常の言語使用の場面で、名指しの対象を探す必要に迫られることは稀でしょうし、
ましてや名指しについての理論を知る必要は全くないでしょう。
その意味では、「『ドラえもん』は何を指示するのか?」というような問題は無意味です。

なお、名指しの理論は一般に、指示される対象の存在論的身分を決定的に説明するものでは
ありません。
「クリプキ」という名前がクリプキを指す、というとき、指示されているクリプキがどのような
存在者なのか(単なる物理的存在者か、それとも精神的存在者か)ということは、指示の理論の
範疇外です。
これは「名前『クリプキ』は、『"名指しと必然性"その他の論文の筆者』と同義であり、その条件
を満たすものを一意に指示する」という見解をとっても同じことです。
427=17:01/09/30 23:39
>>38
>指示対象をもたないような「いびつな」名は、
>そうでない「健全な」名のふりをして機能します。
>大事なのは健全な名の働きです。
指示の理論を構築するときの戦略としては、それでいいと思います。
しかし、ある程度理論がまとまってきたら、「いびつな」名について、
当該理論が適用可能かどうかについて、検討する必要があるでしょう。

なお、私は固有名については直接指示説を支持します。
「いびつな」名のうち、虚構名については、「健全な」名と同様に説明できると考えます。
すなわち、虚構名も端的に対象の名前であり、対象は何らかの意味で存在する、と考える
わけです。
ただし「何らかの意味」の分析は虚構理論に任せることになります。
正真正銘の虚名辞、たとえば「ヴァルカン」などについては直接指示説は適用できません。
虚名辞は「確定記述の省略表現」とみなすのが適当だと思います。
43考える名無しさん:01/10/01 03:15
>>42
存在しないものに存在のあり方うんぬんを言ってもしかたないので、
虚構名に付いては、(ふつうの名と同様に)指示対象があるかのように
名を使うが、実は指示対象はない、と言っておくのが手っ取り早いと思います。
虚構名について、指示の固定性が成り立つとは実際には言えないけど、
我々はあたかもそれが成り立つかのように使用している
(何と言っても、我々はそれを「名」として使用するつもりなのだから)、
というわけです。
名を使用する機会の度に、それがいつも同じものを指示しているか
尋ねてみても、どうせそんなものはないので、何とも言ってもはじまらないでしょう。
夢みたいなものです。機会とか脈略とか文脈とかの通時的な一貫性が、
虚構名の場合、事実確保できないのですから。
(虚構名について直接指示説をとることは、
虚構的対象が存在すると主張することではありません。)
44考える名無しさん:01/10/01 07:51
>意味がないかどうかはどのような関心をもっているかによって異なるでしょう。

なんだ君、ムカついたのか?(笑)

>哲学は一般に基礎研究の性格をもちますが、
>言語哲学、そしてその一分野である意味論は
>とりわけ実際上の有益性から遠く隔たっているように思います。

ああ、君は、名指しの対象探しを「実際上の有益性」によるものと考えたんだ。

でもその見解による反論はまるっきりアサッテの方向を向いてるな。
私は基礎研究として「対象ありき」というナイーブな態度を批判したまで。

>通常の言語使用の場面で、名指しの対象を探す必要に迫られることは稀でしょうし、
>ましてや名指しについての理論を知る必要は全くないでしょう。
>その意味では、「『ドラえもん』は何を指示するのか?」というような問題は無意味です。

では、どの意味では上の問題は意味をもつのかね?
名指しの対象を探さない通常の言語使用の場面は研究の対象外だというわけか?
いったい名指しの理論は何のために研究されるのかね?まさか、君がここで
薀蓄を語るためのネタの一つというわけではあるまい(笑)
457=17:01/10/01 23:57
>いったい名指しの理論は何のために研究されるのかね?まさか、君がここで
>薀蓄を語るためのネタの一つというわけではあるまい(笑)
現在、私は哲学研究に従事していませんが、ここで書き込みをしているのは、もちろん
蘊蓄の披露以外の何ものでもありません。
まじめな意味論研究者がどのような意図をもって名指しの理論に取り組んでいるかは、
43さんにでも訊いてみて下さい。
おそらく私よりはまともな回答が得られるでしょう(ただし、あなたがその回答に満足
できるかどうかは、別の話)。
46考える名無しさん:01/10/02 00:26
では、人類滅亡後も、「アリストテレス」の指示対象は決まっているわけですね。
想像を絶しますね。

また、すべての可能世界において「アリストテレス」はアリストテレスを指示するが、
(例えば)机を指示しないということの理由を教えてください。
4746:01/10/02 00:31
46は、>>42
>私は固有名については直接指示説を支持します。
へのレスです。
48考える名無しさん:01/10/02 03:07
>>46
人類滅亡後になお誰かがアレストテレスについて何か言おうとするなら
そうでしょう。
「アリストテレス」が別の可能世界で机を指示しないのは、いま「アリストテレス」が
机を指示しないからです。そういうふうに「可能世界」を考えようというだけのことです。
可能性を考えるには、そのためのきっかけが必要です。
想像もしない可能性は、事実として、想像もされません。
49考える名無しさん:01/10/02 10:56
固有名は確定記述に「翻訳」できないというけれども、固有名以外も
厳密には「言語内翻訳」はできないですよね。国語辞典、英英辞典の
記述は(その最良のものについて見ても)つねに暫定的なものにとどまる。
「過剰」を持つのは何も固有名に限らないのでは? クリプキはある種の
一般名に固有名と同様の性質を与えたけれども、さらに拡張すべきなのでは。
カラヤン的には、単独性として見れば、すべて固有名ということか?

そう、固有名って比ゆ的にも使われる。固有名/非固有名という対立は
維持しとおせない?
50考える名無しさん:01/10/02 15:55
え? 『それ』は固有名なの?
51どこかのお姫さま:01/10/02 19:04
>50

 幾つかの立場では,「それ」はその使用のされかた次第で固有名でも
あり得ます。

 ある時期のラッセルにおいては,本来の(即ち,必要にして十分なだ
けの性質を有した)固有名は「それ」のみであり,その「それ」には
「論理的固有名」という術語が用いられています。

(これ以上詳細が知りたければ,飯田氏の『言語哲学大全』第一巻か,
セインズベリーの Rusell の当該個所にでも目をとおしてくださいネ)
52考える名無しさん:01/10/04 16:48
固有名の意味論、名指しの理論は、
何のために研究されるのでしょうか?
それが解決すると何がどうなるの?

まじめな質問ですのでよろしく。
53考える名無しさん:01/10/04 18:04
「aはFだ」の真偽は、Fであるもののクラスにaが含まれるかで判定します。
「the GはFだ」は、FであるもののクラスとGであるもののクラスの共通部分に、
個体が一つだけあるかどうかで判定します。
「a」の指示対象は端的にaだという説と、
それは記述「the G」を介して(場合によれば)aを指示するという説では、
このように真偽判定のやり方が変わってきます。
意味論とは、本来的には、任意の文について
真偽判定法を導出するための一群の規則のことです。
(タルスキの「真理定義」がこれにあたります。各文について真偽判定法は
この「定義」から「定理」として導出されます。)
手っ取り早くいうと、意味論とは、記号に値を割り当てる流儀を研究するもので
それ以上のものではありません。

これはまだ論理学の中でのはなしですが、
こういう「意味論」が人の頭に「格納」されているはずだとみなされると、
それは「心の哲学」と呼ばれるものになります。
54考える名無しさん:01/10/04 21:27
「the GはFだ」は、FであるもののクラスとGであるもののクラスの共通部分に、
個体が一つだけあるかどうかで判定します。
55考える名無しさん:01/10/04 21:29
>>53

>「the GはFだ」は、FであるもののクラスとGであるもののクラスの共通部分に、
>個体が一つだけあるかどうかで判定します。

これって,確定記述に対するストローソン流の扱い方をとっても,妥当するものなの?

 ラッセル流の確定記述のやり方なら,当然,真偽判定の方法も53のいうとおりだと
すぐにわかるが。
56考える名無しさん:01/10/05 09:24
>>53
どうも

んで、意味論と心の哲学の関係は?
心の哲学ってそもそも何?
それほどまとまってないようなので、わかりません。
57考える名無しさん:01/10/05 12:11
>>53
>意味論とは、本来的には、任意の文について
>真偽判定法を導出するための一群の規則のことです。

ゲーデル以降に、こんなウソを吹聴するバカがまだいたか?

>タルスキの「真理定義」がこれにあたります。

タルスキが聞いたら怒るな。
彼は、真理の定義が存在しないことを
不完全性定理の系として証明した。
58考える名無しさん:01/10/05 14:13
任意の文について、真偽を「決定」できるというようなことを
言ってるわけではありません。
「モデル」という言葉を使いたいところですが、
いまいち自信がないので、上のように書きました。
要するに文を「解釈」する=クラスを作る、です。
あまり書くと馬脚があらわれるので。
間違えてたら直してください。
5958:01/10/05 14:29
ふつうに「真理条件」と書くべきでしたか?
それから訂正ですが、
「タルスキの「真理定義」が例えばこれにあたります」
です。
ちなみタルスキが(追加で)言ったのは、
無条件には真理定義はできないということです。
6059:01/10/05 14:31
すみません。もう一回だけ訂正。
タルスキが言ったのは、
自分の真理定義が無制限には適用できない
ということです。
6146:01/10/06 17:57
>>48
>>人類滅亡後も、「アリストテレス」の指示対象は決まっているわけですね。
>人類滅亡後になお誰かがアレストテレスについて何か言おうとするならそうでしょう。

その「誰か」が「アリストテレス」という語によって、例えば<プラトン>という対象を
指示するという可能性を否定できる理由を教えてください。

>>すべての可能世界において「アリストテレス」はアリストテレスを指示するが、
>>(例えば)机を指示しないということの理由を教えてください。
>「アリストテレス」が別の可能世界で机を指示しないのは、いま「アリストテレス」が
>机を指示しないからです。そういうふうに「可能世界」を考えようというだけのことです。

そう言えるのなら、
「机」という語も“いま”は<机>という対象を指示しているかぎりにおいて、
すべての可能世界で机を指示する、と言えることになりますよ。
あなたの言う「可能世界」は、
「アリストテレス」が机を指示しない可能世界のすべて、でしかないです。

「アリストテレス」という語が必然的に同一であるためには、
それを固定指示子として用いることが必要です。
そして、「アリストテレス」という文字や音の物理的または認知的パターンそのものからは、
それが固定指示子であるということは導かれません。
それを固定指示子として用いるという用法(意義)を介してはじめてそう言えるはずです。
したがって、固有名についての直接指示説は誤りです。
62考える名無しさん:01/10/06 18:55
という事は>>35が正しいという事じゃないかね?
>>46
6346:01/10/06 20:26
>>61
×「アリストテレス」という語が必然的に同一
○「アリストテレス」という語の指示対象が必然的に同一
6446:01/10/06 20:32
>>62
私は>>35ではないですが、そういうことです。
65どこかの:01/10/06 22:09
>>61
>「アリストテレス」という語が必然的に同一であるためには、
>それを固定指示子として用いることが必要です。
(中略)
>それを固定指示子として用いるという用法(意義)を介してはじめてそう言えるは
>ずです。したがって、固有名についての直接指示説は誤りです。

 クリプキ=パトナムによる直接指示説(指示の新=因果説)は,周知のように,二
つの独立のテーゼから,構成されています。

 その第一は,ある記号がある個体を指示する固有名として導入されるその仕方につ
いてのテーゼです。
 これについて,新=因果説は,指示の固定は,従来の記述説がいうように固有名が
有する記述的意味によるのではなく,指示対象をコレと指示する(命名)行為,クリ
プキのターミノロジーを援用するならばバプタイジング(洗礼儀式の執行)によるの
だ,と主張します。

 その第二は,個体への固有名の付与の現場にあずかっていなかった話者が如何にし
て,当該固有名をもってその個体へと適切に指示をできるのか,という問いに関する
ものです。
 これについて,新因果説は,命名儀礼に居合わせた話者から当該の話者に到るまでの
その固有名の教授=学習の連鎖という因果に依拠して,当該話者の使用において,その
発話された固有名記号が,適切な個体を指示するに到るのだ,と解答します。

 さて,ここである記号(名辞)が固定指示子であるか非固定指示子であるのか,は
いかにして定まるのでしょうか。

 命名のその場面においての,命名者の意図によってでしょうか?しかし,その場面
に現実存在するものとしては――即ち心的現象としては――意図なるものは存在しま
せん。
 では,その命名儀式の行為文脈が固定指示子を与えるべきものだからでしょうか?
しかし,規則のパラドクスと同様の論法が用いられた時,それまでは固定指示子を,
その時は非固定指示子を与える文脈でそれはあったのだ,という主張に,人は如何に
対抗できるのでしょうか。
66どこかのお姫さま:01/10/06 22:13
 結局のところ,命名現場においては,名辞が固定指示子であるのか否
かは,それがどの個体をこの現実世界で指示しているのかが不可測であ
るのと同様,(少なくとも)認知不可能です。

 それが,明らかにされていくのは,仮想世界についてその名辞が用い
られる状況が積み重ねられていくその後の語の使用に於いてです。それ
において,当初の命名が固定指示子として若しくは非固定指示子として
命名されたものであったのだ,と推測する証拠が累積されていくのです。

 
67どこかのお姫さま:01/10/06 22:21
 更に,名辞の継承者による使用についていうならば,彼/女の使用が
そもそも命名儀式においてなされた個体−名辞関係をそのまま再用する
ものであるか否かの根拠も(一概には)存在しません。
 人は,彼/女が,先の命名儀式においてある個体に固定/非固定指示
子として与えられた音声/文字記号と同一の記号表現を有した,しかし
別の個体に与えられた音声/文字記号である可能性を,排除できません。
(そして,この排除不可能性は論理上も規則のパラドクスから導出でき
ます。)
 という事は,いいかえれば常に話者は,固有名の使用の度毎に,常に
新に,その記号を固有名として(個体に)命名・付与している,という
事なのです。
 そして,その付与の仕方が,その話者がその記号を継承した教授者の
諸使用における付与の仕方と(著しく)異ならない時,その時に,人は
固有名の因果的継承が成立している,と呼ぶのです。
68どこかのお姫さま:01/10/06 22:34
 さて,ここで「それを固定指示子として用いるという用法(意義)を
介してはじめてそう言えるはず」という61氏の主張についての検討に
入りましょう。

 ある記号が固定指示子として用いられるためには,それが導入時であ
れ継承時であれ,その記号とそれを取り巻く行為文脈とのみによっては
充分ではない,という主張だ,と61氏の主張を解すれば,そのとおり
です。

 しかし,確かに使用によって(恐らくは認識論的のみにでなく,そも
そも存在論上)初めてある名辞が固定指示子である事が成立するのは,
疑いないことではあるにせよ,意義によってだ,というのはいかがなも
のでしょうか?

 或いは,61氏は「用法」と私は第一次的に述べているではないか,
と反論されるかもしれません。
 しかし,用法は諸使用を後から法則化したものに過ぎず,使用の不
確定性や不可測性を制約しえるものではありません。
 (この事への悟覚が,文法≒用法から使用へとの中〜中後期から後期へのウィトゲン
シュタインの言語観の変遷の主眼でありました。)

 ましてや,如何に使用されたか,を意義と呼ぶ事は(仮令,『探究』に意義と
いう語が頻出するにせよ,哲学的には不適切,といわざるをえません。(
『探求』において,ウィトゲンシュタインが敢えて意義・意味という語
を用いているのは,彼の目にした終着点を未だ見据えていない読者への
配慮でしょう。
 その証拠に,彼は「哲学は,言語の意味に一切関わらずに,なされえる
であろう」という趣旨の発言をしています。)

 かくして,61氏の,私が取り上げた主張は,部分的に先鋭に問題点を
抉摘しながらも,充分適切な解答を与えてはいなかった,という結論に,
筆者は到らざるを得ないのです。

(うーん,お師匠さんゆずりのジジくさい文体ですね。いや,師よりは
るかに酷いかも・・・・)
69どこかのお姫さま:01/10/06 23:04
 このあたりの議論については,

関口浩喜,「指示論の虚構」,『現代思想』,春秋社,1988ころ?

が,適切に問題点を取り上げて論じています。
70考える名無しさん:01/10/06 23:43
>どこかのお姫さま
すばらしいです。今までまとまってなかった、この領域に関する認識が、
ましになってきました。どうもありがとうございます。
71どこかのお姫さま:01/10/06 23:58
文献についてですが,クリプキ,パトナム,カプラン以外では

Salmon, Nathan U., Reference and Essence, Princeton,1981
Schwarz,David S., Naming and Referring, de Gruyter,1979
Swartz,Stephen P.ed., Naming, Necessity, and Natural Kinds, Cornell U.P.,1977

あたりから読み始められてはいかがでしょうか?いきなり最新の論文,最近の有力説
等々に飛びつくのはいかがなものか,と思わないでもないです。
7246:01/10/07 00:06
>>68
>用法は諸使用を後から法則化したものに過ぎず,
>使用の不確定性や不可測性を制約しえるものではありません

>如何に使用されたか,を意義と呼ぶ事は(仮令,『探究』に意義と
>いう語が頻出するにせよ,哲学的には不適切,といわざるをえません。

「用法(意義)」という表現が気に入らなければ、
「指示対象の指定制限」とでも言い換えてかまいません。
そして、それは「諸使用を後から法則化したもの」というより、
むしろ「その時々の使用」です。

もし、固有名の指示対象が必然的に同一であるために、
その名の使用者による指示対象の指定制限は不要だというのならば、
語「アリストテレス」が対象<机>を指示する可能性も許容せざるを得ないはずですよ。

それと、
ウィトゲンシュタインがそう書いているからといって、
“哲学的に不適切”というのもどうかと思いますが。
哲学はウィトゲンシュタインの同義語ではないわけでね。
73考える名無しさん:01/10/07 00:25
>>72
>ウィトゲンシュタインがそう書いているからといって、
>“哲学的に不適切”というのもどうかと思いますが。
ウィトゲンシュタインも意義と言う語を探究で用いているが、
それは読者への配慮であろう。いずれにせよ、哲学的に正当ではない
という文脈だと思いますが。書きなおしたほうがいいと思いますよ。
74考える名無しさん:01/10/07 05:26
何かの名が「固定指示子」かどうかを事実問題みたいに言ってる人いるの?
いたら教えて。
75考える名無しさん:01/10/07 23:29
すみません 厨房っス
>>52 への回答 自分も気になります
どなたか可能ならお願いします
76考える名無しさん:01/10/08 18:03
クリプキが「天才」だと言われたりするので、
思想系の人たちの虚栄心をくすぐったってだけでしょ。
だからもう忘れてください。
(本人たちもとうに忘れてるはず)
77考える名無しさん:01/10/15 09:37
>>75
プリーズ
78野球小僧:01/10/15 16:41
>52
学問は、別に何かのために行われるものではないでしょう。
知的興味じゃないのかな?
79考える名無しさん:01/10/15 20:33
固有名詞の位置付けはだいたいわかりましたが、
普通名詞の場合はどうなるんでしょ。
80考える名無しさん:01/10/16 20:24
qge
81どこかのお姫さま:01/10/16 21:56
>>72
>もし、固有名の指示対象が必然的に同一であるために、その名の使用者による指示
>対象の指定制限は不要だというのならば、語「アリストテレス」が対象<机>を指
>示する可能性も許容せざるを得ないはずですよ。

 私が新−因果説を解する限りでは,複数回(且つ/若しく複数人)使用された固有
名のそれらの使用における諸指示対象が(必然的であるか否かに関わらず)同一であ
る為に,制約は必要ない,というのが最も初期の(原始的な)主張であったように思
われます。

 但し,その際(Naming and Necessity)ですら,既に,その命名において採用さ
れる言辞が固有名として使用されること,即ち,その言辞が指示される対象の本質
を指示するような言辞として採用される事は,文意上補足してよい,と思われます。

 この段階で問題なのは,この「固有名として使用されるよう採用される」という事
がいかなる内実を付与されるべきなのか,です。
 クリプキは彼の‘ Speaker’s Meaning and Semantic Meaning’だか(題名亡
失)という論文において,話者によりそれを意味もしくは指示するべく用いられた語
の話者による意図内容としての意味もしくは指示は,意味論的意味ではなく,
従って,意味論上は問題とされるべきではない,と主張していたはずです※。
82どこかのお姫さま:01/10/16 21:58
ですから,46氏がお書きになられた「その名の使用者」が話者(若し
くは筆者等,言語行為の遂行者本人個人)を意味されているなら,
<クリプキ的には>固有名の指示固定に必要ない,ということになりま
す。

 但し,クリプキが話者の意図がそれに必要ない,と主張するのは,意
味論的意味/指示は言語共同体に担われるもの,という観念が前提され
ているからです。(クリプキ流の反−私的言語論を参照の事。)

 従って,「固有名として使用されるよう採用される」事の了解は,そ
の言語共同体の参与者達(の大半)によってもたれていなければならな
い事になります。
 この参与者達の事を,46氏が「使用者」とかかれているのであれば,
クリプキも使用者による「指示制限」なるものを(ある意味において)
認めている,という事になります。

※もしかすると,当該論文では,クリプキは指示についてではなく意味
についてのみ論じていたかもしれません。
その場合には※しるし以下の議論は,クリプキの意味についての議論を
参照にして,私が指示について平行的に構成して見せたもの,という事
になります。

 命名場面の他に,固有名を継承しての使用についての議論はまた今度。
83どこかのお姫さま:01/10/16 22:14
>>46
>では、人類滅亡後も、「アリストテレス」の指示対象は決まっているわけですね。
>想像を絶しますね。

>>61
>その「誰か」が「アリストテレス」という語によって、例えば<プラトン>という
>対象を指示するという可能性を否定できる理由を教えてください。

 この問いについての直接指示説からの回答はおそらく以下のとおりです。

「一度,「アリストテレス」によってアリストテレスが指示されるや,その指示に
用いられた限りの名辞,固有名「アリストテレス」は,人類滅亡後であろうと,他
の諸可能空間においてであろうと,アリストテレスを指示する(そして,プラトン
を指示しない。)
 但し,この事は,その命名の直後にまたもや別な使用という新たな命名があって,
そこにおいて「アリストテレス」はプラトンを指示する,そのような固有名=指示
対象が成立する可能性を否定するものでは少しもない」
と。

 なお,私自身は指示の新=因果説についてはほぼ全面的反対論者で,指示につい
ては,使用に基づく指示対象の制限増大による指示構成主義,とでもいえる立場に
たっています。
 かつてご紹介した,関口氏の立場にかなり親近感を持っています。

 上記のいくつかの議論は,新=因果説にたっての仮の応答なので誤解なきよう。
84どこかのお姫さま:01/10/20 15:54
>>83
「一度,「アリストテレス」によってアリストテレスが指示されるや,その指示に
用いられた限りの名辞,固有名「アリストテレス」は,人類滅亡後であろうと,他
の諸可能空間においてであろうと,アリストテレスを指示する(そして,プラトン
を指示しない。)

に,付加をします。
「その固有名「アリストテレス」は,その<<論理空間において>>人類滅亡後であろう
と,(中略)アリストテレスを指示する」

要するに人類滅亡後も「アリストテレス」はアリストテレスを指示する,といっても
命名のその場において想定される人類滅亡後の話であって,命名から長時間現実の時
間が経過した後に現実に生起した人類滅亡後においての話ではない,という事です。
8546:01/10/23 00:01
>>82
>但し,クリプキが話者の意図がそれに必要ない,と主張するのは,意
>味論的意味/指示は言語共同体に担われるもの,という観念が前提され
>ているからです。

クリプキやパトナムらが言語共同体における「社会的分業」といったことで
指示について主張しようとしていることの内容が、私には理解できません。
仮に、ある記号表現の指示対象が、その表現を使用・解釈する「言語共同体」
の成員の間で結果として共通だとしても、個々の指示は個々の成員が行うはずで、
それには「意図」など個々の心的出来事が介在しているはずです。

>>83
>この事は,その命名の直後にまたもや別な使用という新たな命名があって,
>そこにおいて「アリストテレス」はプラトンを指示する,そのような固有名=指示
>対象が成立する可能性を否定するものでは少しもない

すると、固有名「アリストテレス」の指示対象は、「別な使用」においては、
対象<アリストテレス>ではなく、対象<プラトン>でありうるということになり、
ある固有名の指示対象が現実世界におけるものとは異なる可能世界が
少なくとも1個存在する、ということになります。
8646
つづき
>>83
>要するに人類滅亡後も「アリストテレス」はアリストテレスを指示する,といっても
>命名のその場において想定される人類滅亡後の話であって,命名から長時間現実の時
>間が経過した後に現実に生起した人類滅亡後においての話ではない,という事です。

私が問題にしているのはその後者のほうで、
現実に生起した人類滅亡後における指示は(ちなみに、命名時刻と滅亡時刻との間の
時間の長さは無関係です)、「指示」の性質上、存在しないと私は考えます。
任意の記号表現にその指示対象を割り当てるのは結局、その記号表現の使用・解釈です。
人類滅亡後はその使用・解釈が存在しないので、指示も存在しません。
したがって、人間が全く存在しない状況において、本に記された「アリストテレス」という文字や、
音響発生装置から発せられる「アリストテレス」という音は物理的な存在者でしかなく、
その指示対象は存在しません。当たり前といえば当たり前の話ですが。

任意の記号表現を固有名として使用・解釈するということから導かれるのは、
その表現の指示対象は可能世界のそれぞれにおいて1個存在するということだけであって、
すべての可能世界にわたってその指示対象が同一であるということではありません
(この点については前述を訂正します)。
したがって、語「アリストテレス」を固有名として用いたとしても、そのことから導かれるのは、
語「アリストテレス」の指示対象が、各可能世界において1個だけ存在するということであり、
すなわち、ある可能世界では、現実世界で固有名「プラトン」で指示される対象と同一
であると同時に、別のある可能世界では、現実世界で固有名「ソクラテテス」で指示される
対象と同一であることは可能です。