公園で鳩の雛拾ったんだが

このエントリーをはてなブックマークに追加
1名も無き飼い主さん
何食べるの?
2名も無き飼い主さん:2012/05/30(水) 03:50:46.35 ID:vTKiEGlX
公園に鳥のゲージに入れられて捨てられてたんだけど
3名も無き飼い主さん:2012/05/30(水) 03:52:52.34 ID:vTKiEGlX
二羽いるんだけど
4名も無き飼い主さん:2012/05/30(水) 04:09:56.96 ID:vTKiEGlX
飼育方法全く分からんし、
まだ餌もあげてないから、
餌の上げ方とか、
飼育方法わかる人おったら教えろください。
大至急でお願いします。
5名も無き飼い主さん:2012/05/30(水) 05:50:08.01 ID:Nf1UA6s2
福岡で著名な武将に「黒田如水」という人物がいる。徳川家康に勲功として筑前国に封じられた黒
田長政の父である。如水は豊臣秀吉にその才知を高く評価されて側近であった頃の名乗りの黒田
孝高よりも通称の「黒田官兵衛」の方が全国的に有名であろう。「如水」と名乗るのは、父よりも慎重な
行動が評される長男の長政へ家督を譲って隠居の身となり、「如水軒」と称してからである。
改めた名乗りを社会的立場の変遷に応じて称するのはこの時代では一般的なことであり、例えば「竹中重治」といえば
姓が「竹中」の通称「竹中半兵衛」のことである。孝高と並んで秀吉の参謀的側近として二人は「両兵衛」と称され、
大奮闘するものの、重治は若くして隠居する間もなく陣没したため通り名の「竹中半兵衛」が巷間に広まった。「両兵衛」は
月並みな表現でいうと非常に仲が良く、重治は陣没前に幼少の長政の命を救ってもいる。また「如水」については次
の逸話がある。秀吉が孝高の智謀を「己の座をも脅かしかねないもの」と極めて高く評した言を伝え聞いた際、
即座に「我家の禍なり」と剃髪を決意し、如水と号した、という。如水は隠居後も秀吉の側近として仕え、ここぞという
時に重用され、小田原城の無血開城といった功績を残している。朝鮮出兵(文禄の役)では軍監として従軍するも、諸将
の暴走(小西行長等の先陣争い等)があり十分な采配を執れず病を理由に一時帰国。しかし悪化した戦局打開に
死を賭して再び渡鮮。和式城郭の縄張り等に従事するも石田三成等と確執が生じ再帰国し秀吉の不興を蒙る。その後も
刑は免れたものの、黒田家当主である長政が蔚山攻防戦に関して讒言等により秀吉の不興を買い、更に三成との確
執を悪化させる。如水・長政親子は秀吉の死去前後から姻戚である家康に与し、豊臣恩顧の大名の多くを家康方に引き込む
行動を取り、戦場においては関ヶ原本戦だけでなく九州でも武功を挙げる。破れた敵将の三成の哀れな最期と比し、その勲功
を表された長政は筑前37万石(再検地後は52万3,000石)への加増移封となり、また遺訓として「人に媚びず、富貴を
望まず」が知られる如水は別に提示された上方での加増を辞退して、長政に伴い中津城から福岡城へ移り住
む事を選び、静かな隠居生活を送った。その身の処し方は現代においても求められる潔さであろう。
6名も無き飼い主さん:2012/05/30(水) 06:10:25.51 ID:N4RCNpjP
麻の実(代用としてサフラワー) ・ 鳩用配合飼料
ボレー粉(カキ殻) ・ 青菜 ・ 卵黄
牛乳か豆乳 ・ ナチュラルチーズ(* 麻の実の代用としてサフラワー、
鳩用飼料の代用としてヒヨコ用のすり餌でも可。
カナリア用配合飼料も小鳥用より栄養価が高いので
与えることができます。)
与え方鳩のヒナは、初め、自分から口を開けないので最初のうちは無理やり嘴をこじ開けて差し餌をしてやらなくてはいけません。
餌は一日2回から5回に分けて与えます。 胸のえさ袋(そのう)の膨らみに注意して糞の具合を見ながら、最初は少しづつ与えます。
量が分からない時は、出来るだけ少なくして回数を増やすといいでしょう。
餌も人肌温度に温めて与えて下さい。前回与えた餌がそのうから無くなっているのを確かめて与えます。
成鳥になった際、好き嫌いを防ぐために、大粒の餌を与えるようになったら
配合飼料に含まれている餌は、まんべんなく与える様にして下さい。水は人肌に温めたものを、スポイトで与えます。
その時無理に与えると気管に入ってしまうので、 ほんの少し嘴を開かせて、根元の合わせ目の所から少しづつ含ませてやります。
鳩の口を開けると二つの開口部があり、手前が気管、奥が食道です。
http://www7.ocn.ne.jp/~hatogoya/hatohina.html
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/binchos/pagee/dove-1.html
7名も無き飼い主さん:2012/05/30(水) 08:49:02.21 ID:Nf1UA6s2
福岡で著名な武将に「黒田如水」という人物がいる。徳川家康に勲功として筑前国に封じられた黒
田長政の父である。如水は豊臣秀吉にその才知を高く評価されて側近であった頃の名乗りの黒田
孝高よりも通称の「黒田官兵衛」の方が全国的に有名であろう。「如水」と名乗るのは、父よりも慎重な
行動が評される長男の長政へ家督を譲って隠居の身となり、「如水軒」と称してからである。
改めた名乗りを社会的立場の変遷に応じて称するのはこの時代では一般的なことであり、例えば「竹中重治」といえば
姓が「竹中」の通称「竹中半兵衛」のことである。孝高と並んで秀吉の参謀的側近として二人は「両兵衛」と称され、
大奮闘するものの、重治は若くして隠居する間もなく陣没したため通り名の「竹中半兵衛」が巷間に広まった。「両兵衛」は
月並みな表現でいうと非常に仲が良く、重治は陣没前に幼少の長政の命を救ってもいる。また「如水」については次
の逸話がある。秀吉が孝高の智謀を「己の座をも脅かしかねないもの」と極めて高く評した言を伝え聞いた際、
即座に「我家の禍なり」と剃髪を決意し、如水と号した、という。如水は隠居後も秀吉の側近として仕え、ここぞという
時に重用され、小田原城の無血開城といった功績を残している。朝鮮出兵(文禄の役)では軍監として従軍するも、諸将
の暴走(小西行長等の先陣争い等)があり十分な采配を執れず病を理由に一時帰国。しかし悪化した戦局打開に
死を賭して再び渡鮮。和式城郭の縄張り等に従事するも石田三成等と確執が生じ再帰国し秀吉の不興を蒙る。その後も
刑は免れたものの、黒田家当主である長政が蔚山攻防戦に関して讒言等により秀吉の不興を買い、更に三成との確
執を悪化させる。如水・長政親子は秀吉の死去前後から姻戚である家康に与し、豊臣恩顧の大名の多くを家康方に引き込む
行動を取り、戦場においては関ヶ原本戦だけでなく九州でも武功を挙げる。破れた敵将の三成の哀れな最期と比し、その勲功
を表された長政は筑前37万石(再検地後は52万3,000石)への加増移封となり、また遺訓として「人に媚びず、富貴を
望まず」が知られる如水は別に提示された上方での加増を辞退して、長政に伴い中津城から福岡城へ移り住
む事を選び、静かな隠居生活を送った。その身の処し方は現代においても求められる潔さであろう。
8名も無き飼い主さん:2012/05/30(水) 08:49:31.73 ID:Nf1UA6s2
福岡で著名な武将に「黒田如水」という人物がいる。徳川家康に勲功として筑前国に封じられた黒
田長政の父である。如水は豊臣秀吉にその才知を高く評価されて側近であった頃の名乗りの黒田
孝高よりも通称の「黒田官兵衛」の方が全国的に有名であろう。「如水」と名乗るのは、父よりも慎重な
行動が評される長男の長政へ家督を譲って隠居の身となり、「如水軒」と称してからである。
改めた名乗りを社会的立場の変遷に応じて称するのはこの時代では一般的なことであり、例えば「竹中重治」といえば
姓が「竹中」の通称「竹中半兵衛」のことである。孝高と並んで秀吉の参謀的側近として二人は「両兵衛」と称され、
大奮闘するものの、重治は若くして隠居する間もなく陣没したため通り名の「竹中半兵衛」が巷間に広まった。「両兵衛」は
月並みな表現でいうと非常に仲が良く、重治は陣没前に幼少の長政の命を救ってもいる。また「如水」については次
の逸話がある。秀吉が孝高の智謀を「己の座をも脅かしかねないもの」と極めて高く評した言を伝え聞いた際、
即座に「我家の禍なり」と剃髪を決意し、如水と号した、という。如水は隠居後も秀吉の側近として仕え、ここぞという
時に重用され、小田原城の無血開城といった功績を残している。朝鮮出兵(文禄の役)では軍監として従軍するも、諸将
の暴走(小西行長等の先陣争い等)があり十分な采配を執れず病を理由に一時帰国。しかし悪化した戦局打開に
死を賭して再び渡鮮。和式城郭の縄張り等に従事するも石田三成等と確執が生じ再帰国し秀吉の不興を蒙る。その後も
刑は免れたものの、黒田家当主である長政が蔚山攻防戦に関して讒言等により秀吉の不興を買い、更に三成との確
執を悪化させる。如水・長政親子は秀吉の死去前後から姻戚である家康に与し、豊臣恩顧の大名の多くを家康方に引き込む
行動を取り、戦場においては関ヶ原本戦だけでなく九州でも武功を挙げる。破れた敵将の三成の哀れな最期と比し、その勲功
を表された長政は筑前37万石(再検地後は52万3,000石)への加増移封となり、また遺訓として「人に媚びず、富貴を
望まず」が知られる如水は別に提示された上方での加増を辞退して、長政に伴い中津城から福岡城へ移り住
む事を選び、静かな隠居生活を送った。その身の処し方は現代においても求められる潔さであろう。
9名も無き飼い主さん:2012/05/30(水) 08:49:53.68 ID:Nf1UA6s2
福岡で著名な武将に「黒田如水」という人物がいる。徳川家康に勲功として筑前国に封じられた黒
田長政の父である。如水は豊臣秀吉にその才知を高く評価されて側近であった頃の名乗りの黒田
孝高よりも通称の「黒田官兵衛」の方が全国的に有名であろう。「如水」と名乗るのは、父よりも慎重な
行動が評される長男の長政へ家督を譲って隠居の身となり、「如水軒」と称してからである。
改めた名乗りを社会的立場の変遷に応じて称するのはこの時代では一般的なことであり、例えば「竹中重治」といえば
姓が「竹中」の通称「竹中半兵衛」のことである。孝高と並んで秀吉の参謀的側近として二人は「両兵衛」と称され、
大奮闘するものの、重治は若くして隠居する間もなく陣没したため通り名の「竹中半兵衛」が巷間に広まった。「両兵衛」は
月並みな表現でいうと非常に仲が良く、重治は陣没前に幼少の長政の命を救ってもいる。また「如水」については次
の逸話がある。秀吉が孝高の智謀を「己の座をも脅かしかねないもの」と極めて高く評した言を伝え聞いた際、
即座に「我家の禍なり」と剃髪を決意し、如水と号した、という。如水は隠居後も秀吉の側近として仕え、ここぞという
時に重用され、小田原城の無血開城といった功績を残している。朝鮮出兵(文禄の役)では軍監として従軍するも、諸将
の暴走(小西行長等の先陣争い等)があり十分な采配を執れず病を理由に一時帰国。しかし悪化した戦局打開に
死を賭して再び渡鮮。和式城郭の縄張り等に従事するも石田三成等と確執が生じ再帰国し秀吉の不興を蒙る。その後も
刑は免れたものの、黒田家当主である長政が蔚山攻防戦に関して讒言等により秀吉の不興を買い、更に三成との確
執を悪化させる。如水・長政親子は秀吉の死去前後から姻戚である家康に与し、豊臣恩顧の大名の多くを家康方に引き込む
行動を取り、戦場においては関ヶ原本戦だけでなく九州でも武功を挙げる。破れた敵将の三成の哀れな最期と比し、その勲功
を表された長政は筑前37万石(再検地後は52万3,000石)への加増移封となり、また遺訓として「人に媚びず、富貴を
望まず」が知られる如水は別に提示された上方での加増を辞退して、長政に伴い中津城から福岡城へ移り住
む事を選び、静かな隠居生活を送った。その身の処し方は現代においても求められる潔さであろう。
10名も無き飼い主さん:2012/05/30(水) 08:50:10.44 ID:Nf1UA6s2
福岡で著名な武将に「黒田如水」という人物がいる。徳川家康に勲功として筑前国に封じられた黒
田長政の父である。如水は豊臣秀吉にその才知を高く評価されて側近であった頃の名乗りの黒田
孝高よりも通称の「黒田官兵衛」の方が全国的に有名であろう。「如水」と名乗るのは、父よりも慎重な
行動が評される長男の長政へ家督を譲って隠居の身となり、「如水軒」と称してからである。
改めた名乗りを社会的立場の変遷に応じて称するのはこの時代では一般的なことであり、例えば「竹中重治」といえば
姓が「竹中」の通称「竹中半兵衛」のことである。孝高と並んで秀吉の参謀的側近として二人は「両兵衛」と称され、
大奮闘するものの、重治は若くして隠居する間もなく陣没したため通り名の「竹中半兵衛」が巷間に広まった。「両兵衛」は
月並みな表現でいうと非常に仲が良く、重治は陣没前に幼少の長政の命を救ってもいる。また「如水」については次
の逸話がある。秀吉が孝高の智謀を「己の座をも脅かしかねないもの」と極めて高く評した言を伝え聞いた際、
即座に「我家の禍なり」と剃髪を決意し、如水と号した、という。如水は隠居後も秀吉の側近として仕え、ここぞという
時に重用され、小田原城の無血開城といった功績を残している。朝鮮出兵(文禄の役)では軍監として従軍するも、諸将
の暴走(小西行長等の先陣争い等)があり十分な采配を執れず病を理由に一時帰国。しかし悪化した戦局打開に
死を賭して再び渡鮮。和式城郭の縄張り等に従事するも石田三成等と確執が生じ再帰国し秀吉の不興を蒙る。その後も
刑は免れたものの、黒田家当主である長政が蔚山攻防戦に関して讒言等により秀吉の不興を買い、更に三成との確
執を悪化させる。如水・長政親子は秀吉の死去前後から姻戚である家康に与し、豊臣恩顧の大名の多くを家康方に引き込む
行動を取り、戦場においては関ヶ原本戦だけでなく九州でも武功を挙げる。破れた敵将の三成の哀れな最期と比し、その勲功
を表された長政は筑前37万石(再検地後は52万3,000石)への加増移封となり、また遺訓として「人に媚びず、富貴を
望まず」が知られる如水は別に提示された上方での加増を辞退して、長政に伴い中津城から福岡城へ移り住
む事を選び、静かな隠居生活を送った。その身の処し方は現代においても求められる潔さであろう。
11名も無き飼い主さん:2012/05/30(水) 08:50:37.60 ID:Nf1UA6s2
福岡で著名な武将に「黒田如水」という人物がいる。徳川家康に勲功として筑前国に封じられた黒
田長政の父である。如水は豊臣秀吉にその才知を高く評価されて側近であった頃の名乗りの黒田
孝高よりも通称の「黒田官兵衛」の方が全国的に有名であろう。「如水」と名乗るのは、父よりも慎重な
行動が評される長男の長政へ家督を譲って隠居の身となり、「如水軒」と称してからである。
改めた名乗りを社会的立場の変遷に応じて称するのはこの時代では一般的なことであり、例えば「竹中重治」といえば
姓が「竹中」の通称「竹中半兵衛」のことである。孝高と並んで秀吉の参謀的側近として二人は「両兵衛」と称され、
大奮闘するものの、重治は若くして隠居する間もなく陣没したため通り名の「竹中半兵衛」が巷間に広まった。「両兵衛」は
月並みな表現でいうと非常に仲が良く、重治は陣没前に幼少の長政の命を救ってもいる。また「如水」については次
の逸話がある。秀吉が孝高の智謀を「己の座をも脅かしかねないもの」と極めて高く評した言を伝え聞いた際、
即座に「我家の禍なり」と剃髪を決意し、如水と号した、という。如水は隠居後も秀吉の側近として仕え、ここぞという
時に重用され、小田原城の無血開城といった功績を残している。朝鮮出兵(文禄の役)では軍監として従軍するも、諸将
の暴走(小西行長等の先陣争い等)があり十分な采配を執れず病を理由に一時帰国。しかし悪化した戦局打開に
死を賭して再び渡鮮。和式城郭の縄張り等に従事するも石田三成等と確執が生じ再帰国し秀吉の不興を蒙る。その後も
刑は免れたものの、黒田家当主である長政が蔚山攻防戦に関して讒言等により秀吉の不興を買い、更に三成との確
執を悪化させる。如水・長政親子は秀吉の死去前後から姻戚である家康に与し、豊臣恩顧の大名の多くを家康方に引き込む
行動を取り、戦場においては関ヶ原本戦だけでなく九州でも武功を挙げる。破れた敵将の三成の哀れな最期と比し、その勲功
を表された長政は筑前37万石(再検地後は52万3,000石)への加増移封となり、また遺訓として「人に媚びず、富貴を
望まず」が知られる如水は別に提示された上方での加増を辞退して、長政に伴い中津城から福岡城へ移り住
む事を選び、静かな隠居生活を送った。その身の処し方は現代においても求められる潔さであろう。
12名も無き飼い主さん:2012/05/30(水) 08:53:56.81 ID:DGRAd7Rn
この板で大至急とかあほなの
然るべき施設に連絡してひきとってもらえ
13名も無き飼い主さん:2012/06/04(月) 21:17:31.62 ID:sgVt1bie
ドバトなんか引き取ってくれる施設なんか無い。
14名も無き飼い主さん:2013/02/15(金) 13:39:33.01 ID:FJfT3KmA
原発30キロ圏内で猫の大量死?2013.02.06 Wednesday
福島に来ています。
何人かの30キロ圏内の方からこんな話しを聞きました。「猫がたくさん死んでるのよ」。
公園でノラネコに餌をやっていた人は8匹いた猫が2匹になったといいます。猫を3匹飼っていた方は、
「顔が歪んで毛がみんな抜けて、居なくなったと思ったら3匹とも床下で死んでた」といいます。
別の方は「うちの猫は平成21年生まれなのに去年死んだ。早すぎると思いませんか」と言います。
口を揃えていうのは「たまり水を飲んでた」。「原発と関係あるだべか?」皆さん心配しています。
http://blog.iwajilow.com/?eid=1071623

2013年2月7日木曜日
肩の骨が 痛い・・・。
肩の付け根 の 「 骨 」 の部分を押すと、激痛が走ります。押さなくても、痛みます。
せっかく、両腕が 上がるようになったのに、いまは、腕を上げると、酷く痛みます。
肩こりは、していません。ただ、骨に 痛みを感じます。どうして ・・・ ?
生徒も、同じ痛みを訴えています。整形外科に行っても、湿布を渡されて 終わりでしょう。
痛み方が、今までとは、違います。何か、こう ・・・ ギシギシ という感じです。
どうにかならないものかと、思案に暮れています。http://vera5963.blogspot.jp/
15島本町で凄惨なイジメを受けて廃人同様になった島本町民さんへ
>大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校でいじめ・暴力・脅迫・恐喝などを受け続けて廃人同様になってしもうた僕が言うんやから、
まちがいないで。僕のほかにも、イジメが原因で精神病になったりひきこもりになったりした子が何人もおる。
教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。イジメに加担する教師すらおった。
誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメはなかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
島本町の学校の関係者は、僕を捜し出して口封じをするな

>島本町って町は、暴力といじめと口裏合せと口封じの町なんだな

子供の時に受けた酷いイジメの体験は、一生癒えない後遺症になるなあ