長文失礼します。見た人、少ないでしょうからレビューしてみます。
「地獄堂霊界通信」
東宝の「学校の怪談」、松竹の「トイレの花子さん」の流れから出てきたと思わ
れる映画。子供達の演技には東映らしさが良くでています。「学校の怪談」は
ホントにいそうな自然な感じの演技、「花子さん」は劇団系の作り込まれた演技
なのに対して「地獄堂」の子供達は、そのどちらにも属さない、力で押しきる
ような演技。全編「ありえない」状況で固められたこの映画、主人公の少年は
リーゼントで、全セリフをキバり、ガナリながら喋るという、まるで清水宏次郎の
縮小版。当然、大変セリフは聞き取りづらく、観客そっちのけのテンションを
暴走させ続けます。物語の肝心要である筈の3人の少年が、それぞれただ
セリフを喋る(あるいはガナリ立てる)ばかりでキャラクターとしての魅力に乏しく、
映画を牽引する力として全く機能していないのがつらいです。
また、ロケ撮影とセット撮影とが全く融合しておらず(セットのせせこましく息苦しい
こと!)、せっかくの風情ある地方の町でのロケが、映画に何の恩恵ももたらして
いません。そんな中で、唯一の演技派、本田博太郎が堂々とした風格を
見せますが、北京原人も真っ青な特殊メイクでは、その存在自体のリアリティの
無さとのアンバランスさ加減を際立たせる要素でしかありません。エンドロール
での恥ずかしいノリも含めて(本気ゼロな子供のふざけた踊りはちょっと
「さくや妖怪伝」のエンドロールと似てます・・・)、原作ファンにとっては愛のない
不幸な映像化だったのではないでしょうか。私は原作を知らないのですが、
少なくともこの映画から何らかの魅力を感じる事は全くできませんでしたから。
1点(10点満点中)
いつか某所で同じよーなレビューが出ても気にしないで下さいね
『児剃判(こてはん)』
三国時代後期の中国で、呉のとある村を中心に頭虱が大発生した。
医療・衛生技術の発達していない当時では有効な駆除法は皆無であったため、
呉の人々は頭髪を全て剃ってしまうことで対策とした。
これが功を奏し、虱はしだいに数を減らしていったが、全員が剃髪した事により、
似たような顔立ちの者、特に子供たちの見分けが付き難くなるという弊害も発生した。
そこで、子を持つ者たちは、それぞれ子供の名を刻印した大きな印鑑を作り、
毎朝我が子の頭に判を押すことで区別を可能とした。
これを「児剃判」という。
現在、インターネットの匿名掲示板で個人を特定するためのハンドルネームを
「コテハン」と称するが、これはこの故事を由来とするものである。
民明書房刊『君の名は』
涅罵陀(ねばだ)
唐代中国の武人。その武名は広く知れ渡っており、彼を慕う者は多かった。
『@u@』(あっとますますあっと)の旗印の下、多くの部下を抱えていた。
しかし彼と並び称された武人・沙斗巳(さとみ)は彼を快く思っていなかった。
ある時、涅罵陀がいつものように於派用備維務(おはようびいむ)の任についているとき、
沙東巳は彼の旗印を指して、「其変旗印如何。可否愚弄?」と侮辱した。
これに怒りを覚えた涅罵陀は沙斗巳に楠拿闘(なんだとう)の決闘を申し込み、
愕襲屡宇無(がくしゅうるうむ)にて見事沙東巳を打ち負かせて恥をすすいだという。
余談ではあるが、当時沙東巳は内府の役職を与えられており、
沙斗巳を討ち取った涅罵陀は興奮のあまり「勝った勝った、内府に勝った!」
と叫んだと言われる。
この時涅罵陀が使用した武器を改良して生まれたのが「カッターナイフ」であることは言うまでもない。
民明書房刊「少年犯罪裏面史」より
那礼哀(なれあい)、後場苦(ごばく)
他人の両目を人差し指と中指の爪で突こうとする(本当に突いてはいけない)、
中国古来の子供達の拳法遊びが那礼哀と呼ばれていた。また失敗し、相手の
目を本当に突いてしまった場合、その後ついた者・つかれた者ともに苦しむこと
から後場苦とよばれる。後に西洋に伝わり、爪・目(nail,eye)の語源ともなる。
同じく後場苦は元に戻りたいという希望をもふくめた、Go Backの語源ともなる。
後に明治時代、清を経由して来日し、日本海軍の創設に尽力したドイツ系アメリカ人
Hayrlo Joukie(ヘィロ・ユウキィ)氏が格闘教練中に誤って、目を突いた者をたしなめる
ときに出た言葉から、日本へと回帰輸入された。つまり、目潰しの振りをすることを
「なれあい」、馴れ合いのつもりのミスを「ごばく」と聞き違えたのである。
民明書房刊 「ちゃいるど・ぷれい」
韓国式起源創成法(日本でやった場合)
「キムチは日本が起源だった」
朝鮮出兵の際、加藤清正が虎退治をした話は有名だが、唐辛子と漬物を伝えたことは
あまりというかほとんど知られていない。
その昔加藤清正は虎退治から帰る際、山で迷ってしまった。
その際1件の民家を見つけ泊めてもらおうとした。
しかし現地の農民は大きな虎の死体と鎧武者の一行を怖がって家を飛び出し、離れの小屋に隠れてしまった。
翌日加藤清正は一泊のお礼として寒さしのぎの唐辛子と保存食である漬け物1樽、イカの塩辛や昆布などを家の前に置き、大声で離れの
農民に言った、「これは拙者たちのほんのKIMOCHIだ、KIMOCHIだよ!」と。
こうして加藤清正は日本に帰ったのだが農民は樽の漬物を見てこう解釈した、「これはキムチという食べ物で(反復したので)、この樽の中に
周りにおいてある唐辛子や塩辛を入れて食べろと言ったのだろう」
こうしてキムチは韓国に広まって言ったかどうかは定かではない。
民明書房刊「あなたのキムチが良く分かる」より抜粋
『治殷 治殷 主!主!主!(ちんちん シュッ! シュッ! シュッ!)』
殷王朝最後の皇帝である紂王は寵愛する妲己にそそのかされ、悪政を重ねた後、
周の武王により打ち倒されたのはあまりにも有名な話である。
紂王は、牧野の戦いで大敗後、都へと逃げ戻り、鹿台に火を放って自刃するのだが、
自刃の直前、紂王の元で贅沢の限りを極めた役人や宦官たちは、
かつての贅沢がもうできないのを悔やみ、紂王に対し、泣きながら
「治殷 治殷 主!主!主!(※注・治殷=殷を治めて下さい、主=我らが主紂王よ!)」と懇願した。
その懇願ぶりは、悲惨としかいいようがなく、ある者は燃えゆく宮殿の中で「治殷 治殷 主!主!主!」と
ヨダレを垂らしながら、柱に体を激しくこすりつけ、そのこすりつけようは柱の塗装が剥がれ落ち、
血が噴出し肉がずたずたになるほどであったという。
なお、現代日本の匿名掲示板において「ちんちん シュッ! シュッ! シュッ!」という文言と共に
ヨダレを垂らした肥えた初老の男性のAAが貼られるのは、
根底にこの逸話が元になっていることはいうまでもない。
民明書房刊 『古代中国王朝滅亡全書』より抜粋