サウリアってどーなん

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492名も無き飼い主さん
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【競馬】JRA、再来年から高松宮記念を「秋篠宮記念」に変更
http://news17.2ch.net/test/read.cgi/news7/1095075975/l50
493名も無き飼い主さん:04/12/21 01:31:50 ID:JS3qdUWz
ゲバ棒

ゲバ棒といえば学生運動の象徴ともいえる兵器であり、1970年前後の学生運動の際に、
機動隊や対立セクトを攻撃するため学生たちが用いた角材である。
ゲバ棒の「ゲバ」とは独語実力闘争や暴力という意味のGewalt、というのが通説である。
しかしこれは学生運動の混乱期に歪曲されたデマゴギーであり、
真の出典は1950年代アルゼンチンにこそあった。
キューバの革命指導者チェ・ゲバラがゲリラ戦のさいに最もよく使った鈍器であり、
絶頂期の彼がこの棒をひとたびふるうと、
十数名が七つの穴から血を噴きだして絶命したといわれている。
いわゆる「ゲバ棒」は、その光景を目撃していた日本人傭兵がその後学生運動へと身を投じ、
角材を用いてチェ・ゲバラが使った棒を真似て作ったものだ。
一説によるとチェ・ゲバラ自身も学生運動に参加して、
このゲバ棒を振るったともいわれるが真相は定かではない。

民名書房刊 『世界の珍棒・奇棒』より

494名も無き飼い主さん:04/12/21 01:35:40 ID:JS3qdUWz
徹マン

麻雀といえば中国が発祥の地であり、日本には大正時代に伝来したと言われているが、
現在の両国における標準ルールは大きく異なっている。
これは、満州にて旧日本軍の将校たちが麻雀を行う際、現地のローカルルールを取り入れたことに端を発するという。
さて、満州といえば南満州鉄道であるが、首都・新京から大連までの道のりはおよそ700キロメートル、
所要時間は当時最高速を誇る特急「あじあ号」でも8時間30分という長大なものであった。
ゆえに、乗客の退屈しのぎとしても麻雀は流行した。
最初は紙牌を使用した簡単なものであったが、後に車内へ麻雀卓を持ち込む者も現れ、
上流階級の乗客には専用の娯楽車まで用意されるほどの流行ぶりであったという。
しかし、流行の熱が高まりすぎたせいか、はたまた車内という閉鎖空間での必然か、
そこではしばしば異常ともいえる独自ルールが追加されることがあった。
その一つが、「目的地に着いて列車を降りるまでは勝負も降りることができない」という過酷なものである。
これは目的地を同じくする4人が同席に集ったときのみ用いられたルールであり、
特に満州鉄道全線を徹して行われるものは「徹マン」と呼ばれ恐れられた。
現在、徹夜で麻雀を行うことを指して同様の呼称が用いられるが、
これは元来の徹マンがしばしば夜を徹して行われたことに由来する。
そこに徹夜の徹と麻雀を縮めたマンが重なり、現在の意味に至るのである。
なお、あじあ号の食堂車には白系ロシア人の女子がウェイトレスとして採用されていたが、
彼女らを指して「ハク」と読んでいたものがいたかどうかは定かではない。

民明書房刊 「超特急が鳴く」より

495名も無き飼い主さん:04/12/21 01:36:53 ID:JS3qdUWz
知らぬが仏の語源

近現代以降の軍事組織において重要な役割を果たした参謀本部の起源がプロイセン
にあることはよく知られているが、軍事組織のもう一つの柱である諜報機関
が例外なくほぼ中国で完成したものを踏襲したものであることは意外と知られてない。
時は南宋初期、情報収集と分析の稚拙が靖康の変を招き河北一帯を喪失した原因の
一つであると考えた胡世将は四川宣撫使として着任後に諜圏司という情報機関を
設置した。この効果は抜群で紹興10〜11年の金の侵攻のおりにいちはやく
侵略の兆しをとらえることに成功し、胡世将の軍が岳飛や韓世忠といった
歴戦の諸将に先んじて効果的な反撃をあげる要因となった。

後に北清事変や日露戦争で活躍した情報戦の大家福島安正少将は諜報の基礎である
諜圏司を詳しく分析した。
その時に胡世将が部下に情報収集の重要性を戒めた言葉を日本人向けに邦訳したのが
「知らぬが仏」である。本来は「不知即決生死」という言葉で、意味は戦場では
事前の情報収集を怠った指揮官の部隊から先に壊滅していくという言葉であった。
そこまでして情報の大切さを訴えた福島少将であったがそれが充分伝わらなかった
ようである。
時代と共に「知らぬが仏」の意味も変質していき、わずかに殺人事件の現場などで
被害者を「ホトケ」と呼称するのがその名残として存在するのみである。

民明書房刊『軍事の奇才・中国人』


496名も無き飼い主さん:04/12/21 01:39:36 ID:JS3qdUWz
『児剃判(こてはん)』

三国時代後期の中国で、呉のとある村を中心に頭虱が大発生した。
医療・衛生技術の発達していない当時では有効な駆除法は皆無であったため、
呉の人々は頭髪を全て剃ってしまうことで対策とした。
これが功を奏し、虱はしだいに数を減らしていったが、全員が剃髪した事により、
似たような顔立ちの者、特に子供たちの見分けが付き難くなるという弊害も発生した。
そこで、子を持つ者たちは、それぞれ子供の名を刻印した大きな印鑑を作り、
毎朝我が子の頭に判を押すことで区別を可能とした。
これを「児剃判」という。

現在、インターネットの匿名掲示板で個人を特定するためのハンドルネームを
「コテハン」と称するが、これはこの故事を由来とするものである。

民明書房刊『君の名は』