治幕帝賂(じばくてろ)
古代中国において、帝の権力は絶対のものであった。
秦の始皇帝の例を見る限りでもそれは明らかであろう。
それ故、帝へ如何に取り入るかというのが当時の官職についていた者達の最大の関心事であった。
隋の時代、宮内の二大派閥であった至阿派(しあは)と寸爾派(すんには)の間では、権力闘争が激化していた。
互いに帝に取り入るために金銀、調度品、時には女性を帝にあてがう事で帝の威光を得ようとしていたが、
煬帝(604年-618年在位)が即位して間もなく、寸爾派の高官であり、強硬派であった瓶羅傳(びんらでん)は
「帝賂即治幕(帝に献上するものは政治を治めるものでなくてはならない)」
とし、王朝に仇なす者を葬り去ることが煬帝への至上の献上品であるとした。
当時隋朝を脅かす一団に、雄獲枢家(ゆうえすえ)なる武力集団がおり、瓶羅傳はその討伐に努めていた。
しかし、奇術「烈火有嵐(れっかうらん)」を用いた戦術に手をこまねいていた瓶羅傳は、とある決断をする。
それは間者を放ち、当時最新兵器であった火薬を用い、雄獲枢家を内部から崩壊させようとするものであった。
だが、この戦略には危険が伴い、命を落とす間者も少なくなかった。
しかし、この戦略で命を落とした間者は、「英雄」として奉られたという。
この故事から転じ、自らの国、信条のために命を落とすことも厭わないことを「治幕帝賂(じばくてろ)」と呼ぶようになった。
なお、「自爆テロ」がこの「治幕帝賂(じばくてろ)」に由来している事は賢明な読者にはもうお分かりだろうが、
一転して無差別に罪の無い一般の方まで犠牲になっているということには怒りを禁じえない。
民明書房刊 『歪められた美徳』より
慢努癖(まんどくせ)
かの孔子が、人間が憎むべきものとして呈示したのが、この慢努癖である。
慢努癖とは、「努力するのを怠る癖」という意味で、孔子はこれを、学問をする者が一番してはならぬ事と位置付け、弟子達を戒めた。
荀子は更にこれを発展させ、「慢努癖というものが人間にある以上、それを規制する法律が必要なのは明らかである」と、自説の正当性を訴える材料としている。
一方、無為自然の立場に立つ老子は、孔子の説を批判し、「慢努癖こそが、人間が生来持っているものなのだ。それを無理に矯正する事は本来すべき事ではない」とした。
やがて時代は流れると、乱世になる度に、領民達は年貢を渋り、「慢努癖」と連呼したという。この時、慢努癖とは、単純に努力云々ではなく、物事全てに於いて実行を渋る意味を持つ様になった。
それは現代にも「マンドクセ」または('A`)マンドクセという形で、インターネット上に受け継がれている。
民明書房『民俗で見る中国史』
癒喜子(ユキコ)
古代中国には華余(カヨ)という女性がいた。華余はたいへんに可愛らしい女性であり、
「星短情(スターたんじょう)」(日本でいう俳句大会)で優勝するや、みるみる内に中国本土に
容姿、知性ある女性という事が知れ渡り男性はしかり女性の憧れの的となった。
皇帝は華余を見るや心が癒され嬉しくなる女性との意味から癒喜子の名を授けた。
美人であった為、プロポーズの言葉も多数受けた。うらやましい限りではあるが、
癒喜子は本命の男性と一途に恋をしたいとの気持ちが強く、多数の人からのプロポーズは本意ではなかった。
現に本命の男性からはもてすぎる為に高嶺の花だと思われ両思いになる事はできなかった。
それが原因で癒喜子は傷心してしまい、自ら命を絶ってしまったのである。
それにより多数の人がショックを受け続けて命を絶ち、混乱を招いた。
混乱を抑えるために皇帝は、癒喜子の話をした者に処罰を科した。そして癒喜子は封印された。
現在世界3大美女と呼ばれている1人に中国の楊貴妃がいるが、癒喜子が命を絶たなければ楊貴妃ではなく、
癒喜子になっていたかもしれない。
民明書房刊「中国の美女〜悲劇のヒロイン」より
『象怒(ぞぬ)』・前編
かの蜀漢の軍師孔明が、南蛮征服戦争の戦死者をとむらうため、まんじゅうこと
肉入りの中華パン(饅頭)を創始した人物であることは、世に広く知られている
史実である。
ところがこの饅頭を食した一部の兵卒のあいだで、奇妙なうわさが立った。
「饅頭の食材には、蜀軍が倒した木鹿大王の呪いを封印するため、
大王が手足のごとく使っていた珍獣の肉が使われていたというのである。
ご存知のとおり、南蛮の八納洞の主である木鹿大王(ぼくろくだいおう)は象に乗り、
虎や豹、毒蛇などの猛獣を操って孔明軍に挑戦した南蛮の猛者である。
その恐怖の記憶が、あるいはそういう噂を生んだのだろうか?
「たぶん、木鹿大王が乗っていた象の肉だと疑ったに違いない」
孔明は、そうあたりをつけた。あとは、口を濁す兵士たちを計略にかけて、
真実を確かめるだけである。
一計を案じたかれは、或る日の演習において、陣営にたまたま異国出身の司厨兵が
いることを知り、かれに特に命じて異国の伝統的肉料理を作らせた。
(後編につづく)
(『象怒』後編)
演習がすんで空腹になった兵士たちに異国料理をふるまった孔明は、兵士たちが
堪能したのを見計らい、「じつはおまえらが今食べたのは、象の肉なのじゃよ」と
偽った。それまで司厨兵の出自から「●●肉料理」だと思っていた兵士たち
は、いっせいに顔をみあわせた。だが、ちっとも狼狽した様子ではなかった。
当てが外れた孔明はすかさず「残念でした、じつは蛇肉だよ」とか「虎肉じゃ」
とか言ってみたが、だれもが平気な顔である。
最初の確信だった「象」が外れたあと、すべてのあてが外れた孔明は、ついには
怒り出し、「おまいら俺様を馬鹿にしてるのか!」と、ついかれらしくもなく、
突破的に数人の兵士を斬首して憂さ晴らししてしまった。
この孔明の人生最大の汚点となった事件から、「象怒」という言葉がうまれた。
はじめは賢者でもたまには愚行をおかすことがある、という意味だったが、やがて
「賢者をも疑心暗鬼に追いやる、珍獣という形をとった」根も葉もない噂、という
意味になった。
現在の、永楽帝が新大陸を発見したとする西欧人の学者には、このとき蜀漢の兵士
たちが恐れた珍獣というのはアフリカのヌーのことであり、「ヌーにゾッとする」
ということから「象怒」ではなく「ゾッ・ヌー」であると主張するものもいる。
なお当の「異国の司厨兵」が何を作ったのかは記録がない。一般には楽浪郡出身者で、
●●湯を作ったという説が有力である。
民明書房刊「孔明異聞」より