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54名無しさん@お腹いっぱい。

見渡す限り荒涼とした風景が広がる、小高い丘の中腹にぽつんと机が置いてある。
その机に日がな一日腰を下ろし、男は小説を書き続けている。
眼下には赤土の荒野が、吹きすさぶ風に土埃をたてている。
動くものといえば、背の低い草木から吹き飛ばされた枯れ枝が時たま見られるくらいで、
生命の息吹を感じられるものは何一つとしてなかった。

「せんせい」
背後から声が掛かった。しっとりと落ち着いた女の声だった。作家は振り向き、笑みを浮かべる。
「来てくれたのか。まだ出来上がってはいないのだよ」
「お急ぎになることはありませんわ。わたし、待っていますから」
「いや、もう少しで終わる。――退屈だったら辺りを散歩してくればいい」
女は柔らかな笑みを浮かべ、作家の側に歩み寄った。
白い手をさしのべると、無骨な男の手を細くしなやかな指で包み込む。
「おそばにいますわ。もしお邪魔でなければ」
女の暖かな体温が、ペンを握った指に伝わった。書かなくては、と男は思う。
「何を書いていらっしゃるの」
問われて男は手を止めた。あと少しで書き上がる。少し休憩しても構わないだろう。
「自叙伝だよ。わたしのこれまで生きてきた道筋だ。生まれてから――これまでの」
ごく平凡な人生だった。田舎町のヒラ警官として、日々交通整理に明け暮れた。
他人から見ればつまらない生き方だろう。だが、それで十分じゃないか。
「しあわせでしたか」
彼女が問いかけた。もちろんだ。貞淑で優しい妻がいて、子供たちは育ち、自立した。
妻は車をさばく私の指の動きが素敵だといつも褒めてくれていた。
これから先、定年後の人生は妻と二人、庭いじりでもしながら心穏やかに過ごすのだ。
――これから先?
違和感があった。
「せんせい、作品はまだ途中です」
私は胸を押さえた。
「奥様からの伝言をお預かりしています。――愛するあなた」
差し込むような痛みが走った。目の前が暗くなる。
「仕事をしているあなたの姿が大好きでした」
包み込むような彼女の声が遠く聞こえた。
「せんせい、作品が終わるまで、わたし、待っていますから」

「気がつきましたか」
白衣の女性が横から覗き込んでいた。消毒薬の香りが漂う。
「あなたは十日も眠ったままだったのです。どこか痛いところはありますか」
痛みは全身にあった。だが、それよりも私は聞きたいことがあった。
「あれは……わたしの妻はどうしましたか」
自分のものとは思えない、かすれたうめき声が漏れた。看護婦は逡巡する様子を見せた。
「奥様はお気の毒でした。……即死でした」
何度か息を整え、私から目を逸らしたあと、彼女は低い声で告げた。
私は両手で顔を覆い、ぼろぼろと涙を流した。
そうだ。
全て、思い出した。
二人で庭のバラの手入れをしていたときのことだった。
いきなり庭に飛び込んできた車にはねられ、人形のように宙を舞う彼女の姿も。
そして同時に私もはねとばされた。その一瞬、運転席から振り返った男の顔も……。
「――なんということだ」
何もかも、失ってしまった。
看護婦が呼んだのだろう、後輩の警官が部屋に入ってきた。
散歩中の私たちをはねた車が見つかったものの、車は大破しており、
運転者が誰なのか分からないままなのだと彼は言った。
運転手の顔は覚えている、そう私が言うと、彼は写真を出して見せた。
「この中の誰が運転していたか、証言していただけますか」
私は頷いた。ふと妻の声が聞こえた気がした。
「この男だ」
警官の示す写真の一枚を――私は、指で、さした。