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108名無しさん@お腹いっぱい。
「いらっしゃいませ」
「ごめんくださーい! おばさん、コーヒー一つお願いします」
五十嵐一輝は喫茶店"兎の脚"に入り我が物顔でカウンター席に腰かけると、何時もの注文を告げた。
休日の昼過ぎにも関わらず客の姿は彼以外には一人も見えない。
マスターである品の良さそうな中年の女性はグラスに冷水を注ぐと一輝の前に差し出した。
「はい、お冷」
「ありがとう」
一輝は水を一息に飲み干すと空のグラスを置いた。
マスターはすかさずそれに二杯目を注いでやる。
「休日なのにお勤めかい? 五十嵐君も大変だねぇ」
「おばさんだって、正月盆以外ほぼ年中無休でしょう」
「私のは半分趣味みたいなもんだからね。客もいないし、楽なもんだよ。
 おっと、そう言えば、もう注文受けてたっけ。沙名ちゃん、ホット一つお願い」
マスターが厨房の方に声をかけると、暖簾の奥からおっぱか頭の女が顔を見せた。
歳は二十歳ごろだろうか、白いブラウスにパンツの上にエプロンと言う格好。
ほっそりとしていながらバランスの良い体格をした、切れ長の目が印象的な女であった。
女はいらっしゃいの一言もなく、一輝のほうを無関心げな眼差しで見やる。
それから彼女は返事もせず一つ頷いたきり、厨房の奥へ引っ込んでしまった。
それをぽかんとした顔で眺める一輝。
マスターは肩を竦める。
「ごめんね、愛想がないだけで、悪い娘じゃないんだけど」
我に返ると一輝は立ち上がってマスターに詰め寄った。
「お、おばさん。さっきの子、誰です?」
「ああ、五十嵐君と顔合わせるのは初めてだったねえ。
 産休の昭子ちゃんの代わりにバイト入った丙沙名ちゃん。結構可愛い娘でしょ」
「え、ええ」
一輝は若干顔を赤らめて同意しながら、ちらちらと厨房のほうを伺う。
「何? 見惚れちゃった?」
「え、いえ、その。……ずいぶん綺麗な人だなあ、なーんて」
笑って誤魔化しながら一輝は厨房から目を逸らした。
「丙さん、かあ。ねえ、どんな人です? フリーター? それとも学生?」
「うーん」
それを聞いたマスターは、何故か難しそうな顔をして暫し考え込んだ。
それからカウンターから身を乗り出して、一輝にそっと耳打ちして来る。
「実はあの娘、記憶喪失ってやつらしいのよ。昔のこと何にも覚えてないんだって。
三ヶ月位前、自分の名前以外何も判らない状態で、そこの河原で倒れているのを発見されたのが最初。
それからずっと身元を捜しているんだけど、まだ何も見つからないみたいよ。
だから今はフリーターやってるけど、昔はどこで何してたのか、皆目見当もつかないねえ」
「そうなんですか……」
記憶喪失などと言う話はドラマか漫画の中でしか聞いたこともなかった一輝であったが、朴訥な性格ゆえか、すんなり信じ込んでしまった。
「これでも警官の端くれ、何かお役に立てることがあったら、不肖ながらこの俺……」
「ブレンドコーヒーになります」
突然、お待たせしましたも失礼しますも一言もなく、いつの間にか話題の渦中の人物がコーヒーカップが載った盆を携えて真横に立っていた。
慌てる一輝に構うでもなく彼の目の前にカップと伝票を置くと、他の注文も聞かずに一礼して再び奥の方へ引っ込んでしまった。
それを見て呆れるマスター。
「まったく、あの娘ったら……。接客業は絶望的に向いてないわね。
今度しっかり教育しなおさないと」
「あ、でも、このコーヒー美味しいですよ。おばさんが淹れてくれるのに迫る位」
出されたコーヒーを一口啜り、一輝は素直にその味に感動した。
豆は普段のブレンドだが、きちんと挽き立てを使っており、新鮮な風味が生かされている。
口に広がる嫌味のない酸味と深い苦味。