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100名無しさん@お腹いっぱい。
1937年の3月15日である。
それは奇妙な感覚であった。感覚──少し違うような気もする。しかし他に上手い表現が思いつかない以上、それは感覚であると形容する他ないであろう。
痛みはあるし、身体は相変わらず動かない。指先一つ、主人の意思に従って動こうとはしなかった。
とどのつまり、これが“死”というものなのだ。
案外つまらないものだと思う。
外套にフードを被り、鎌を携えた死神が来るでなし、ラッパを手にした愛らしい御使いが部屋の扉を叩くでもなかった。
もっとも──、
咳をしようとしたが出たのはヒューヒューという隙間風のようなかすれた音だけだった。
そんなものがいるなどと思ったことは一度だってない。
おりしも空は雲が立ち込めている。まさに闇夜。月の明かりも星の輝きも何一つ届かない闇。まるで死んだように静まりかえっている世界。
たまに吹く風だけだ。それだけが、まだこの世界が生きているということをその存在で知らせてくる。
いつしかその隙間風の音と自分の息の音さえ判別がつかなくなってきていた。
オオーン、オオーンとどこからともなく獣の啼く声が聞こえてくる。
はて、あれは犬だろうか。
犬に決まっている。
山奥深くにある田舎であるまいし、この州都プロビデンスにそれ以外のどんな獣があるというのか。
似合いであるかもしれない。
文学者として、創作者として世に認められることなく、あと数時間のうちに骸となる自分には、犬の遠吠えの葬送曲などお似合いであるかもしれない。
あぁそうだとも。
明日の朝になればアパートメントの住人は欠伸をかみ殺しつつ職場へと向かう。婦人は子供を学校へ送り出すとともに隣人と井戸端会議としゃれ込む。
例えば欧州で始まった戦争によって紅茶が手に入り辛くなったとでも愚痴るのだろうか。
それともこの戦争に巻き込まれはしないかという不安の方が先か。何にしても彼ら彼女らは日常に埋没した生活を続けるのだ。
ゴミの収集に来る業者は舌打ちをしながらちらばったクズを集めて帰るのだろう。薄汚い浮浪者は自分が漁る前に持ち去られたゴミに地団駄を踏むのだろう。
何も変わらない。私がこの世界からいなくなるということは世界の──宇宙の運営には何ら支障をきたすものではない。
あれはなんだろう?
ふと感じたのは先ほどから止まない獣の鳴き声の違和感だった。
オオーン、オオーンと聞こえてくる。
なぜだ、なぜ鳴き声が部屋の中から聞こえてくるのだ?!
ソレは次第に近づいてきていた。
なんだ、これはなんなのだ? 不意に恐怖が私の総てを支配した。“死”ですら私に与えることが出来なかった恐怖をその鳴き声が私に与えている!
なんだ、これはなんなのだ!
ありえないことが起きようとしていた。闇の中、いるはずのない存在が発生しようとしていた。
闇の中? 違う、これは闇が──黒々とした暗い色そのものが蠢いているのだ!
それはまるで這い拠る混沌だった。
ありえないことが起きようとしていた。私が創作した、いるはずのない存在が発生しようとしていた。
それは、それは暗黒のフォラオ!
あれは、あれは──!!
それは根源的な恐怖、それは千の時間千の空間に同時に存在する嘲笑する神・・・・・・。
それは────。
私を呼びに来たのだ。


1937年3月15日、アメリカで最も小さな州であるロードアイランド州の最も大きな街──プロビデンスにてハワード・フィリップ・ラブクラフトは死んだ。
腸癌とそれにともなう栄養失調による病死。
後に怪奇小説の大家として多くの作家たちに影響を与える彼の、生前に出版された単行本は「インスマスの影」ただ一冊だったという。
彼がその今際の際に何を思ったのか・・・・・・、それを知るものはいない。
いないはずで、ある。