日本の国語教育【ちょっとヨレヨレ】

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615名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 11:27:03 ID:f0VGC8I9
>>613
 ルソーか、だからフランス革命は血があんなに流れたのじゃないのか。
それゆえに保守という干満な改善主義が誕生することになった。

 ニーチェの詩に対してはベルクソン。

 ラッセルのベーコンヒルスクールについてはよく白ね。でも善意ってやつはそれをただ乗りするフリーライダーに
コストやリソースを独占されやすい。きちんと調べなきゃわからん。したがって保留。

 で柄谷を擁護しようっての?わしは実践においての失敗の現場にいたにもかかわらず、それをネタにしない。
って学者としての態度そのものを批判してるんだが。

 上記の三人にはそんなことないぞ。ネタにしてるじゃんかさ。
616 ◆yk/JpL/Z9U :2007/08/15(水) 11:47:01 ID:cv4hhX95
>>614
何でもお前と一緒にするなw
NAMねー、以前仰山板でタップリ議論したよ。運動周辺というか裏事情をよく知ってる人とも
議論した。なんならイロイロ教えてやろうか?ww

>ネタにしてるじゃんかさ。

はあ?? お前な、柄谷読んでから言え。
実践って、その実践について「書かれた!」もので判断してるだけだろw
もう少し論理的に考えられんかな。

で、擁護もなにも、『ネタとして面白い』かどうかだけだよ。
お前はつまらんし何の参考にならん。だから誰も相手にしなくなった。ここでもあそこでもw

どこでもwwwww
617名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 11:56:09 ID:f0VGC8I9
 くじ引きをしようが、輪番制にしようが、アソシエーションは成立しないという現実を前に、じゃあ何を語るのか
ってことだよ。

 天皇制しか対象はないはずなんだが。それも一木一草天皇制のような観点から、主体化される対象という
ことを語らなければいけないはずなんだが。

 結局、弱者は足を引っ張る、弱者なんかいなけりゃいいのになんて結論にならないことだけ祈っている。
618名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 11:58:14 ID:f0VGC8I9
ネタとして面白い。じゃあブログで書け。面白いと思う人とだけ交通してればいいだろ。

ブログにはトラフィックだとかリンクしていくツールがあるから、意味があればお客さんだってきてくれるだろう。
619名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 12:20:20 ID:f0VGC8I9
某所の過去ログを読んで…何が裏事情だ。
orz

会費を払わなくて除名されました。アハハハだああ。馬鹿。社会人たれっていう組織において…
てな人たちが多かったので地域通貨としてQは信頼されずに終わっちゃったわけです。

人間を大事にしない人にかぎって、柄谷にいかれちゃうのはなぜなんだろう。そこが問題だ。
柄谷に大きな物語をみちゃうんだろうな。それじゃダメなんだって柄谷がどれほどいっても。

そこが問題なんだけど、たぶん柄谷は語れない。そんなの俺のせいじゃない。って。
それは確か。だけど、観察すること記述することを商売に選んだんなら、ここはどれくらい時間が
かかっても記述しなきゃならんだろ。

 そういう責任はないにしてもだ。

真理病に感染してはならない。目の前の女にいい女がいなければいろんなところに出かけみるがいい。
自分にとってのいい女に掘れることができれば、何かが変わるかもしれない。真理なんか必要ないんだ。
620 ◆yk/JpL/Z9U :2007/08/15(水) 12:31:35 ID:cv4hhX95
>>607
私の話のソースは『ニッポンの知識人』(桂秀美、高澤秀次、宮崎哲弥 KKベストセラーズ) 
です。
吉本は柄谷だけでなく、蓮實や浅田らを知の三馬鹿って言ってますね。宮台は本物の馬鹿。
現代とは吉本でなく河合はやおを求めたというあたりが何か悲しいですね。

話に出た中上の作品はぜひ読まないといけないと思いながら、読んでいません。
やることがいっぱいです。
621名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 18:29:43 ID:f0VGC8I9
ニーチェについては永井均の「これがニーチェだ」を読んでおけばよい。

 そうすれば、猫がどんなところに留まっていて、あがくでもなく、身悶えてるだけかがよくわかる。

永劫回帰に駱駝、獅子、子どもが登場しないなんて…っていうかまっとうな人は永劫回帰を生きておる。
心配しなくたって…。それぞれ 馬鹿、かっこつけ、無知に対応しているのかもしれないが…。
622名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 20:28:27 ID:InB1yqLc


誰にも相手されてないw
猫のアンチだから放し飼い




ただそれだけの人間
623名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 21:33:36 ID:Zd8ySXJn
>>622
お前、しつこいぞ!
624名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 22:56:02 ID:InB1yqLc
しつこい ってかww

よく言うよな
625名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 22:59:00 ID:InB1yqLc


もう賞味期限切れだな。アンチだけで存在意味を持つのはキツクなってきたようだ。
お前にはレスがつかないよw
626名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 23:00:03 ID:InB1yqLc
次は もうちょっと
利口なのがいい
627ヤマさん:2007/08/15(水) 23:58:07 ID:OIApUhtB
>>621
基本的な質問で失礼、ニーチェの永劫回帰をひとことで言うと仏陀の永遠の生命に
なるんじゃあるまいか?

とすれば、とすればだよ、漱石が過剰に東洋哲学(特に仏教)を持ち出してニーチェに
反駁を試みた理屈もわかるんだけどね。

つまり、ニーチェは東洋人としての漱石にとってはあたりまえだったんだよ。
欧米人にそのような感覚があること自体が漱石には新鮮だったのでは?

ま、そこまで(仏陀の域まで)ニーチェが考えていたかどうかはわからんけどね。
(僕もわからんが・・・スマソ・・・orz。)

どうだろう?
628おっさん:2007/08/16(木) 04:55:49 ID:egbYvAOk
>>606
戦中、国体と結びつけて国語の伝統を主張した人間がたくさんいた。
戦後、そうした人間が国体は変わっても、
国語には何もなかったように美しい日本語とかを語ってしまう。
また、保科などの国語観は、最初から傷つかない抽象的なものでやはり同じように語ってしまう。
そうした連中に対して、志賀はとち狂ってしまった。
志賀は、本当はどこにも存在しない国語によってずっと小説を書いてきた。
それは、存在しない国語を信じることによって、過酷にリアルな言葉を生き、
国語を実現することでもあったのではないか。
志賀が抽象的な国語とかその伝統とかを抽象的に思考してきただけだったら、
戦後、論理的な、あるいはいかにも小説の神様らしいまともな主張もできたのではないだろうか。
あまりにも愚かすぎる主張に志賀を追い込んだ、日本語への嫌悪感、
これは、生生しく言葉を生きる、志賀の小説家としての優れた資質を証するものなのかもしれない。
途方もなく馬鹿なことに対しては、利口な立場からいくらでもケチをつけることができるけど、
そんなことをしても無駄であり、とらえられない何かがあるような気がする。

これは、僕の勝手な思い付きです。
しかし、僕が志賀のフランス語国語論をはじめて知ったのは、
蓮實の「反日本語論」か「私小説を読む」か、どちらかだったと思います。
蓮實は、志賀を動物として評価していたと思います。
この事件についても、たぶん蓮實らしい屈折した物言いで評価するように思います。
蓮實が実際どんなことを書いていたか思い出せないのですが、
上の志賀に関する僕の思い付きには、たぶん蓮實の影響があるように思います。
629名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 05:20:05 ID:PkofBm6m
>>627
だから、何だって言うの。
630ヤマさん:2007/08/16(木) 07:27:18 ID:o/Y9VubP
国語のテストをデリダにからめて語ってくれる人を
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1131863064/
↑からリクルートしたんだがくるかな?
(o^v^o) ◆m0yPyqc5MQって人なんだが・・・どうだろう?
こないかな?
631名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 08:08:51 ID:9OVhz/Xb
>>627

Nが永劫回帰に撃たれたのは、蛇に口から入り込まれた農夫を幻視したときだそうです。
農夫は生き延びるために、蛇をかみ殺し、蛇の頭を吐き出し大喜びして叫びます。

 そこから永劫回帰を思いつくんですから基地外の考えることはわかりません。
苦しみがなければ喜びもないと思ったのか。そもそもが蛇が空いてた口に入り込むような目にあうなんてってことなのか
そんなことが一瞬でスパークしたのでしょう。

 人生は「そんなバカな」に満ちている。そんな人生への態度を三つの状態に例えているっていうのが教科書的な説明
になりますよ。

駱駝→バカなに耐える
獅子→バカなに朝鮮する
子ども→バカなとも思わない。ただ…ありのままに受け止める。

永井はこれを三つの空間を移動する主体みたいに説明してます。

@理想(道徳)の生まれるところ(駱駝)汝なすべき。
貴族と僧侶の価値対比。ルサンチマン。

A理想よりも優れた理想(メタ)(獅子)われ欲す
力への意志 力を欲するということはすでに弱者?

B反理想という理想(子ども)われ在り
永劫回帰。

ということで、力への意志と永劫回帰は位相が違うので矛盾して当たり前だ。という説明をしています。ハイ。
だからコンビに前にしゃがみこむ奴らの方が猫よりも…なんですよ。N的理想に近けりゃいいのかってことですよね。
これを地理的な移動と考えれば

砂漠(キリスト教の生まれたところ。戒律による生き死にのコントロール)

サバンナ(生き物が溢れ闘争によって生き死にする)

森林(すべてがつながりあって生き死にもつながりのひとつ)みたいな移動と考えてもいいかもしれません。
駱駝はやっぱり仏教ではなくキリスト教で、子どもが仏教に近いのではないでしょうか。
632名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 09:38:59 ID:grn2aQU1
>しかし、まー何でもネト検索で分かったようにおしゃべりするのは立派だよ。

阿呆猫が常日頃やっていることではないか。

阿呆猫の場合は、入門書を呼んで「分かったようにおしゃべりする」ことも含まれる。阿呆猫にとっては、こっちは立派な行為なのだろう。
633名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 10:20:12 ID:lzjF4IBS
お前の嫉妬が見苦しい。ちーとは精進しろ。
面白い話しが出てきそうになると必ず腰を折る奴がいる。
634 ◆yk/JpL/Z9U :2007/08/16(木) 11:07:54 ID:rDMgsaju
「あ」という馬鹿

>ということで、力への意志と永劫回帰は位相が違うので矛盾して当たり前だ。という説明をしています。

そんな説明してない。お前は丸アホか。該当する箇所をページ付して引用してみな。

>だからコンビに前にしゃがみこむ奴らの方が猫よりも…なんですよ。

ほれ、何も分かってないじゃーないか。子どもで「ある」ことではなく、子どもに「なる」
ことが大事なんだね。そのあたりが全く分かってない。

>N的理想に近けりゃいいのかってことですよね

だから、そう言ってるだろって。
下の「おすすめ」に載ってるニーチェスレで永井本にダメだしされているけど、
そのあたりはどうなんだい。そこで紹介されてる他の解説本も読んだのかな?WWWWW
もっとも、オイラは永井を評価してるけど、それはお前のようなものとは正反対においてだ。

まあ、いい。分かる人間には分かる。最初から阿呆は考えてないから。
635名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 11:18:51 ID:m2RbOK2V
>633
どうして、あの手の話が「面白い」と思えるのか。
あれを面白いと思ってしまう自分を反省したほうがよかろう。

>632 を「嫉妬」とみなす根拠は?
636 ◆yk/JpL/Z9U :2007/08/16(木) 12:05:17 ID:rDMgsaju
>>628 おっちゃん
志賀の話はいたるところで目にしますね。
蓮實が志賀を評価することがあれば、それはかなりレトリカルな謂いであり
アイロニーとしか理解できないものでしょう。蓮實の志賀への言及はちょっと
探したけど見つかりません。そのうち見つかるでしょう。

「そこで私は此際、日本は思ひ気って世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとって、
その儘、国語に採用してはどうかと考えてゐる。それにはフランス語が最もいいのでは
ないかと思ふ。」(「国語問題」1946年、志賀直哉)

「反=日本語論」で蓮實は、鈴木孝夫がリヴァロルに言及し、フランス語の明晰性とは
対照的な日本語の性格を嘆いていることに噛み付いています。『明晰性の神話』
蓮實が安易に志賀を評価するとは思えません。

いい機会ですから、以前から強く推奨していたこの本からいくつか取り上げて考えたいと
思います。
まず、蓮實の現実が我々とは違って日本語の自明性や自然さが”空気”ではなかった
ことに留意しておくべきです。彼の奥さんはフランス語母語話者であり、その二人の
子どもが母語を獲得するということは、我々におってはあまりにも自然なプロセスを
大きく揺り動かすものであったということです。
我々は、そのような周縁によってしか自明性の愚かさに気づかないんですね。
実は民主制の原理である”多数”が自然さを形成し押しつけるんだということも確認して
おきたいことです。したがって、今やろうとすることは根本的なアポリアに向かうことでも
あるということは重々承知しているつもりです。


「われわれが日々実践している言語的体験は途方もなく貧しいし、なし崩しの無秩序がいたる
ところで肯定されてゆく。だが、この混乱は、秩序によって統禦され、正しく美しい体系へと
おさまってゆくときに姿を消すものとは思われない。というのも、かりに言葉がおさまるべき
理想的な秩序があったにしても、その秩序の全貌を一目で把握しうるものは誰ひとりとしておらず、
われわれが目にしているのは、たえず露呈した言葉の表層にすぎないからだ。秩序と思われた
ものは、ごく局部的な世界で凝固したかにみえる言葉たち、つまりは慣用というやつだ。そして、
どうやら一定の秩序におさまっているかに見える慣用についてなら、その慣用を共有する人びとに
とっての美しさなり正しさなりは口にしうるだろう。だが、その美しさと正しさの背後には、たえず
凝固することのない言葉のうねりが、無秩序に渦巻いている。美しい日本語への郷愁も、正しい
日本語への展望も、凝固する言葉の背後へと視線を注ぐ姿勢をとりあえず忘れたふりを装うことに
よってはじめて可能となるにすぎない。だが、怖ろしいのは、このとりあえず装われた忘却が、
いつしか真実の忘却へと変容してしまうことだ。
われわれが「文化」を語る場合に陥りがちなのは、どんな「文化」であれ必然的にはらみ持っている
だろう負の局面、たとえば醜かったり、滑稽であったり、貧しかったり、愚かしく思われたりする
局面を、一定の時がくれば常態に復するはずの一時的な錯誤、やがては快癒して秩序へと帰従する
束の間の混乱とみなして視界の外へ追いやってしまうという欠点である。
こうした姿勢は、先天的であれ一時的であれ病気に冒されたものを、人間の範疇から除外して健康者
のみを人間とみなそうとする差別者の視点にほかなるまいが、この無意識の差別を弄ぶ人たちの思考は、
当然のことながら抽象的たらざるをえまい。この書物は、いま、いたるところでくりひろげられている
美しさという名の抽象を、正しさという抽象への一つの批判として提出される。そのことが、
このいささか大げさな『反=日本語論』という題名をわずかなりとも正当化してくれればと思う。」
『反=日本語論』pp.23-25
637名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 12:10:15 ID:lzjF4IBS
>>635
あなたはあなたが面白いと思うことを言えばいい。
あなたの言いたいことは何ですか?
文句だけ?

やはり嫉妬?www
638おっさん:2007/08/16(木) 13:20:52 ID:egbYvAOk
志賀の論そのものはとてつもなく愚かなものですよね。
だから、論の内容そのものは、いくらでも馬鹿にできる。
しかし、そうした振る舞いというのは、相対的な賢さの中にある。
当然、蓮實も志賀の論を評価するはずはないと思います。
蓮實が評価するならば、相対的な賢さには理解しがたい
志賀の動物的な振る舞いでしょう。
それは、相対的な賢さからは、救いようのないほどに愚かに見える、
相対的な思考を超えた絶対的な何か。
竹馬に乗った志賀のことも書いていたように思います。

・・・こんな思考の仕方を僕は蓮實から学んだように思います。
実際蓮實が志賀についてどのように書いているのか、記憶にないのですが、
猫さんの言うようにアイロニカルなものでしょう。
しかし、アイロニカルに志賀の愚かさを否定するのではなく、
志賀の愚かさのあるその場所に賢さが届かない何かをアイロニカルに見出す、
そんな振る舞いを蓮實ならするのではないでしょうか。

相対的には圧倒的に賢い蓮實の嫌味な振る舞いだと思いますが…。
639 ◆yk/JpL/Z9U :2007/08/16(木) 13:31:48 ID:rDMgsaju
蓮實のリアリティとは、日本語論者が捨ててしまうようなことにこそあるようだ。
その意味で、彼は決して志賀を擁護しないと思う。レトリカルなアイロニー以外では。

「われわれの周囲に裸の表層を露呈する言葉は、いま、この瞬間、美しさや醜さを超えた
生なましい現実としてあるからだ。」(同上、p.25)

言葉とは本来、

「決して正しく美しい日本語を語りはしない妻と、日本語とフランス語とを
母国語として操る子供と、母国語ではないフランス語を、家庭的な必然と
職業上の必要から語り、かつ教えつつある筆者」(p.25)

のような人のものであったはずなんですね。
はるか昔から単一民族単一言語であるという伝統を異常に形成する状況を空気とする
われわれに言葉がはたして見えるのか。
「渡来人」が日本!の中核をなしたという起源はどうなのか。
漢字→仮名が単にそれだけの借用でなく、語彙と意味は当然ながら音声や統語規則まで
大きく変容させたという起源の事実はどうなのか。
明治期、今現在使っている抽象語のほとんどが翻訳によって作られたという起源はどうなのか。
語彙だけでなく、文体や統語規則まで翻訳によって方向付けられたという起源はどうか。
明治最初の「国語教科書!」はアメリカの教科書を翻訳した異常!な文体によって誕生し、
それによって統制されることが始まったという起源はどうか。


おっちゃんは、蓮實は志賀を評価すると言いましたね。
正しさと美しさを宣揚する多くの日本語論者は結局、志賀なんですよ。
彼らにとって大事なのは「支配」なんです。本音では日本語なんてどうでもいいんですよ。

保科は戦前戦中戦後と「統制」をただただ叫びます。統制される方向に関しては
意味や価値を持ってない。だから、簡単に転向し戦後は民主的な国語へ統制しようと
絶叫し続けます。封建的な言葉遣いが残っていることを指弾します。


「正しさと美しさに対して、誤りと醜さを顕揚せんとするものではない」(P.25)

という蓮實の意図とは何か。言葉を語るものが既に言葉以外によって犯されている
と彼は言い当てています。彼が「言葉とは本質において不自然な何ものか」(P.26)だという
のはそれが本来美しさや正しさとは位相を異にするものだったからに他なりません。

たとえば、国語は方言を卑しみ憎みました。
しかし、帝国において国語を強要された半島大陸において、その国語を教える国語教師は
九州や東北出身の者が多く、誰も「国語!」を話せませんでした。日本語を母語としない
子供たちに「先生は国語を知らない!」と嘲笑されるわけです。
キツイなまりを母語とした彼らが国語を話し語る不自然さとそれを指摘する第二言語学習者の
正しさ、そのような倒錯的場面が映し出すものは何か。

「この自然さと不自然さとの大がかりなすりかえを操作するものの解明においてはほかにない。」
(P26)と蓮實はします。

おっちゃんは国語は国体であったことを強調しました。もっと、はっきり 天 皇 (制) だと
確認しておきましょうw 天皇の名において国語を強要されたんですね。
しかし、国語(学者)はその不自然さを隠蔽するための理論をいろいろ捏造します。
国粋的イデオロギーに彩られ、鬼畜米英の魂を具現化する言葉としての国語。
その理論は西洋語の分析を無理に当てはめて生まれたキメラだったんですね。
そのボスの上田の理論に苦しんだのが、帝国の最前線で国語を現実に強いる立場に
あった時枝です。

いかに国語はグチャグチャなまま今に至っているか。
国語の純化こそを叫ぶ阿呆によって日本語はどれだけ右往左往七転八倒したことか。
640おっさん:2007/08/16(木) 13:42:00 ID:egbYvAOk
志賀への評価というのは、その論に対してではないのです。
愚かさへと志賀を追い立てた動物的な何かに対してなのです。
むしろ蓮實なら志賀の愚かさをより鮮明に炙り出し、
そして、その愚かさを批判することの安易に賢い連中を撃つでしょう。

「猫」さんの蓮實擁護論さえ、ナイーブな相対的な賢さに収まってしまう、
そんな嫌味なところが僕にとっての蓮實です。

641 ◆yk/JpL/Z9U :2007/08/16(木) 13:54:44 ID:rDMgsaju
続き

おっちゃんは、国語の「統制」がその思惑通りに言っていないことに注意を促します。
私は、その逆に思惑通りではないにしても、かなり成功したのが日本だと考えます。
簡易化の流れなどは、教科書でもメディアなどでも即大きな影響をもたらします。
地方では標準語を話す人が確実に増えています。それは教育の結果ではなく、メディアに
よるものだとする者もいます。メディアとは教育の結果だし、資本の運動なんですね。

今は、方言という水平方向での差異はそのメディアによって解消されたかもしれません。
そのことの是非を論じることとは別に、メディアは垂直方向への差異を煽ります。
それは世代や格差というカテゴリーによって明らかにされたと勘違いされてしまうような
単純なものではないでしょう。
古くは丸文字、最近では携帯の絵文字や変形文字(なんて言いましたかね、わざと崩した
文字)、2ちゃん特有の言葉遣い・・・そういうローカルな差異は常に量産されています。
この新しい垂直の差異はテクノロジーの産物なんでしょうが、国語が射程においてこなかった
ものではないでしょうか。国語は方言の抑圧として(だけ)大きく機能しましたからね。

もちろん、教育の場において、そのような言語運用は厳しく戒められるでしょう。
でも、例えばテレビや電車の吊広告のキャッチコピーが”正しさ”からの逸脱によって
別の”美しさ”=新奇さを獲得しているというようなことを深く考えさせません。
もちろん、資本の運動と人間の心理に関する深い洞察まで掘り下げません。
子供の逸脱は禁じられますが、それを煽る資本の逸脱は逆に隠蔽します。
それが教育です。

その教育ですが、私は一つの方便として、一つの武器として論理を強調します。
具体的には三森らは大筋で同意です。(細かな違いは別にして)
出口らはそれまでの一つの方策としてあるかなっていう感じ。
大久保らの方向性も大筋で、イデオロギー性は別にして、同意します。
向山や西郷らも決して悪くはないでしょう。(詳しく知りませんが)
石原とは、そういうものの一つなんです、私にとっては。別にマンセーではないw

教育の場では、技術の一つとして論理的な言葉の使用、そしてそれに関わる論理的思考を
目指すべきではないでしょうか。実は、それは審議会のアピールとさほど変らないものなんです。
しかし、なぜか受け入れられないw

ここでは、言葉遣いを執拗に問うレスが無意味に繰り返されますね。
言葉遣いの問題が一般化されて問われないよう狡猾に出てきますw
ぜひ、広い問題として俎上に上がって欲しいと思います。
642 ◆yk/JpL/Z9U :2007/08/16(木) 14:06:34 ID:rDMgsaju
おっちゃん

蓮實の賢さですか。
彼が自らを周辺に立たせたところから論を発しているのは一つの強力な戦略
でしょうね。実際、彼は東大の総長にもなったw
中心にいて、なおかつ周縁として振舞うという見えざるダブスタを抉るような
論を発する人間は少ないw

周縁にいて、中心として振舞いたい「と見えてしまう」私の滑稽さと嫌味が
招く憎悪に潜む本性を暴露することからしか、蓮實は撃てないwwww

という皮肉なやり取りが彼にはお似合い??

蓮實も柄谷も面白いし、思考の活性化にとって必要だというだけで十分
薦められるべきだと思います。

カッペはカッペとして開き直るという倒錯的美学が、例えばサヨクから出たとして、
それを発する前衛の僧侶階級としての言説の意味を問わないわけにはいきません。
やはり、いきがる程度がカッペや貧乏人には必要です。

その武器として柄谷や蓮実は実に重宝なんです。面白いし。
で、蓮實論を続行しましょw
643 ◆yk/JpL/Z9U :2007/08/16(木) 14:21:17 ID:rDMgsaju
>動物的な何かに対してなのです。

彼が日本語をいとも簡単に捨ててフランス語を国語にしようとしたのは、
彼が自意識から小説を書き、伝統や歴史というものに価値をあまり見出して
いなかったからでしょうかね。
蓮實なら、志賀が実はそれらにズッポリとらわれていて自明性のまま気づいていない
だけのことだと言うでしょうか。
志賀批判の論者はナショナリズムというイデオロギーを隠し持って、因縁を付けている
ことを蓮實は撃つでしょうか。

志賀が動物的だとするのはボンボンの自然志向のような気がします。ガーデニング?
本当の動物性は マンマ 以外を求めません。

志賀はじつに都会的です。私の印象では。

要は上下の問題。本物のの上澄みはフランス語でいいんですよ。
成り上がりが何か意識せざるをえないものを彼はサッパリ置くことができる。
志賀とはガーデニングを自明とする上澄みに巣食う馬鹿wです。
心底うらやましい愚か者です、私にとっては。
644おっさん:2007/08/16(木) 14:22:47 ID:egbYvAOk
志賀にしろ、中上にしろ、あるいは大江にしろ
蓮實が評価するのは、相対的な賢さの視野の外にある何かに対してですよね。
つまり彼らは、「理性的な人間」ではなく、「動物」だ、と。
相対的な賢さに収まってしまうことを「凡庸」と呼び、
それに対して蔑みつつ、執拗に炙り出しても見せ、愛着さえ語りますよね。

おもしろいのです。
しかし、そのおもしろさによって、自分が連れ出されている場所は?
平仮名がどうしても読めない子にどうしても教えなければならない、
そんな場面の繰り返しの中で自分は蓮實も柄谷も忘れていったのだと思います。
645おっさん:2007/08/16(木) 14:44:09 ID:egbYvAOk
ボンボンなのか成り上がりなのか、
都会的なのかカッペなのか、
そうした見方も相対的なものです。
蓮實はそうした見方の「凡庸さ」をしつこく指摘し、
そこに露呈しているにも関わらず、凡庸な見方によって見えなくなっている
生生しい何かに目を向けさせます。
蓮實にとっては、志賀とは、そうした生生しい何かを露呈した言葉のことなのでしょう。

646おっさん:2007/08/16(木) 15:30:03 ID:egbYvAOk
決死の覚悟で納戸の奥にある本を探してきました。
汗だくです。
『私小説を読む』は行方不明です。
『反=日本語論』はありました。
p258に「志賀直哉の自由」がありました。
647 ◆yk/JpL/Z9U :2007/08/16(木) 16:01:56 ID:rDMgsaju
おっちゃん

そのような凡庸さの地平線上において相対的な”賢さ”が見出しものが「野生の思考」であり、
生なましさだと思います。
野生や生なましさ、それ自体は意味づけを拒否します。驚きや齟齬さえ拒否しています。

志賀や蓮實、ストロースは野生において生なましく行きてはいません。
蓮實の生なましさとは、凡庸さの果てにおいて賢さが異化させたものです。

ここで大事なのは野生でも動物でも生なましさでもない、それ自体ではないのです。
その「見出し」にだけ意味はあると思う。意味の誕生とは、知覚認識するとはそういうものです。

また、生なましさも動物的なものも実は相対的なものです。
私は最初に「多数決」を出しました。その民主的な暴力性への注意も付記しました。

単に少ないということに他なりません。他は事後的なものでしょ。

>おもしろいのです。
>しかし、そのおもしろさによって、自分が連れ出されている場所は?
>平仮名がどうしても読めない子にどうしても教えなければならない、
>そんな場面の繰り返しの中で自分は蓮實も柄谷も忘れていったのだと思います。

私の結論は意外にも単純です。
動物的だとかで、称揚されようともやはり第一に相対的な賢さをどうにかして身に付ける
ようしなくてはならないと思います。このあたりは慎重に説明しないといけないことで、
誤解曲解されるかもしれないなって。
でも、ちょっと横道に長く入りそうなので、絞って論じます。

仮名を読めない子供、それに向き合うおっちゃん、それらと全く同じ地平に柄谷も蓮實も
いるんだと思います。我々は、凡庸でかつ相対的な賢さの恩恵を存分に受け取っている柄谷たちを
イソップのキツネのように言ってはいけないと思います。

その仮名の読めない子どもを「裸の大将」のように讃えることを憎みます。
おっちゃんがそういうことをする人間だとは思いません。そういうカスがいますからね。
仮名が読めない子どもはなんとか読めるようにする。その援助をおしまない。
決して、別の意味や価値を見出してあげない!
それが大事です。柄谷や蓮實から分かることは凡庸で相対的に賢いことの重要性です。
彼らが見出した野生や奇抜さ、転倒ではなく、それの見出しを可能ならしめた凡庸なる賢さです。

私が、周縁が中心を揺るがすことの重要性を繰り返すのもこのような意味においてです。
我々周縁カッペ畜群貧乏人は、中心の意味や価値においてその中心を揺るがさないといけません。
我々は彼らの「ため」にあるのではないのです。
中心は我々を別様に見出します。それに乗じて、「同様に」中心に迫りたいというのが私の戦略です。

仮名の読めない子どもから、逆に蓮實や柄谷、あるいは志賀の相対的賢さの必要性を感じます。
ちょっとでも中心に迫るよう、心からお願いします。
別の意味や価値において転倒的させられることで満足したくはありません。

余談ですが、どれだけ勉強のできない子どもでも意外に日本語には不自由しないようになります。
それは日常生活を送る程度にです。人間の言語能力とは驚愕に値します。でも、臨界期を過ぎてから
学ぶ第二言語、具体的には英語ではその言語能力が自然には機能しません。一般学習能力との相互協力
によって進行します。社会に出る時、ABCが最後まで言えない子どもがいます。
「私は・・」を、いつまでも「My・・」とする子どももいます。で、高校卒業!です。

そういう子どもは、コンビニのバイトで宅配の処理ができず、他のバイトに任せるらしい。
簡単な計算もできない。レジは計算不要ですからね。

この世の中、いかに凡庸で相対的な賢さによって支配されているかです。
それを別の意味や価値を見出して転倒するのは欺瞞です。
転倒させるのは価値ではなく、社会の構造ですw
648 ◆yk/JpL/Z9U :2007/08/16(木) 16:24:54 ID:rDMgsaju
>>646
納戸にあるというのはいいですね。私は以前かなり処分しました。
三分の一ほど、紐でくくってまだ置いてある。そこから、たまに引っ張り出すことが
あります。

「志賀の自由」ページ数、ありがとうございます。汗だく感謝します。
この著書でもかなり難解な箇所ですねw さっと読んだだけでは深いところでの
咀嚼はできません。

ただ、繰り返しますが、志賀もやはり凡庸な賢さの果てです。
カッペの貧乏人はフランス語を夢見ることは不可能です。
したがって、蓮實の「動物」という謂いは同じ地平でしかありません。
実際、蓮實は志賀の「動物」を、都会のボンボンのガーデニングのように
言っています。

志賀の「夢」や「自由」とはそういうものだと思ってしまいます。
自由の王国として夢想するガーデニング。。

すいません、消化不良でのリフレインです。
649名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 17:38:54 ID:9OVhz/Xb
Nは楽しむもの。ということをわしは基本的に変えない。
たばこは体に悪い。だからといって止められない人々がいる。
Nに出会ったのが運のつきだったのかもしれない。

 わしは残念ながら、笑って読める方なのでNは娯楽でしかない。
決して薬にしようとは思わないし、処方箋であるとも思わない。

今月号のVoiceで石原都知事と宮台が対談しているが、宮台は
わしの意見とほぼ同じである。守るべき日本とはパトリオット、地
域性なのだ。

 カッペがカッペを止めたかったら都へ行けばいいのだ。それぐら
いの冒険はなんでもないし、都はそんなカッペで満ち溢れている。
(だけどそんなことしないのは、カッペの中の方が希少性を維持で
きるから。進学校に行った学級1番が学年100番以下になって荒れ
てしまうみたいなものだろうか。)

おっさんさん。
 字の読めない子、字の書けない子に対応していくのがわしらの仕事です。
そして一般的には仕事を通じて社会に参加するようになると、仕事から世の
中をみるようになるし、判断するようになります。

 それが間違いだとはわしには思えません。NAMの失敗はそれがなかったから
書生の遊びごとでは何も変わらない。切ったら血が出るのか?と問われて逃げ
出すようでは話にならないのです。
650おっさん:2007/08/17(金) 00:53:36 ID:qlVYVWay
>そのような凡庸さの地平線上において相対的な”賢さ”が見出しものが「野生の思考」であり、
 生なましさだと思います。
>凡庸さの果てにおいて賢さが異化させたもの

蓮實の言説の仕掛けは、それですよね。
(いわゆる「脱構築」的な思考のパターンなんだと思います。)
自らの凡庸さを忘れ賢しらに語る連中を撃ちながら、
凡庸な賢さではとらえられない何ごとかを顕揚する。
そんな蓮實の振る舞いは、凡庸を批判された者にとっては蓮實の賢さの優位を
顕揚された者にとっては賢くはない=馬鹿であることを感じさせるものです。
その嫌味が蓮實らしい。

「多数決」については、5年生の教室で次のようなことがありました。
何の役目だったか、それを1名決めることになっていました。
最初に立候補者を募ることになり、複数の者が立候補しました。
そこで、この中から1名をどのように決めるか話し合いました。
子供たちからは、「多数決」「籤引き(あるいはじゃんけん)」という方法が出されました。
それぞれの方法について話し合いをしました。
立候補した一人が言いました。
「籤引きがいい。多数決だと僕は選ばれない。」
その他、意見が出し尽くされ、どちらの方法がよいのか決めることに。
議長が「では、多数決がいいと思う人挙手してください。」と言い、
多数の子の手が挙がった時、さきほどの子が泣きながら訴えるのです。
「それだと僕はやっぱり選ばれない。」
・・・こんな時、どうしたらいいものでしょう?

651おっさん:2007/08/17(金) 02:29:47 ID:qlVYVWay
猫さんも僕も「正しい日本語、美しい日本語」を信じてはいない。
「国語」なるものをめぐっては、視点が違うようですね。

>おっちゃんは、国語の「統制」がその思惑通りに言っていないことに注意を促します。
 私は、その逆に思惑通りではないにしても、かなり成功したのが日本だと考えます。

二葉亭四迷は、一旦ロシア語で書いてから日本語に直して小説を書いたそうですよね。
今僕たちは、そのように書き方を意識することなく、実際このように書いています。
二葉亭にとっては苦闘しながら作り出さなければならなかったものが
現在の僕たちにとっては自然に使えるものになった。
僕にでも使えるようになったのは、学校へいき、そこに「統制」があったからでしょうね。
しかし、その自然に使える国語というものがどのようにしてできあがったのか、
そこでは「統制」は、せいぜい表記などに関する事柄でしか確実な貢献はしてこなかったのではないでしょうか。
なんだかわからないけど、いつのまにか出来上がってしまったらしい、というのが実態だと思うのです。
そん本当は定かならぬ国語によって、僕らは自然に書いたり、読んだりしているように思います。

1年生での読みでは、「すいか」を「ス・イ・カ」と読むのではなく、
「スイカ」とひとまとまりに読めるようにすることがひとつの重要な課題となります。
一字一字を拾って読む(拾い読み)だけでは、語としての意味をとらえられないからです。
そうしたことがけっこう一般的な問題となっており、学習指導要領でも学習内容とされています。
一方で、こういう子がいます。(以前も書いたかもしれませんが)
「すいか」を「スイカ」と読める。「すし」を「スシ」と読める。
しかし、「す」を「ス」とは読めない。
その子にとって、言葉とは語や文で、それ以下には分解できないのです。
音や文字の単位では、認識が成立しないのです。
「裸の大将」としてその子を見るなんて問題になりません。
また、「中心−周縁」とか「統制」とかも考えません。
何故読めないのか、どのようにして教えるか、
それについて学び、考えて教える側が賢くなるしかありません。
ただそれだけのことです。
ただそれだけのことを積み重ねていきたいと思ってもいるのです。
しかし、ただそれだけのことが底に穴があいていたり地盤が弱かったりします。
とりあえずの正しさを足場にしながら仕事をしている、そんな感じです。
「国語」、そしてその教育は、僕にとってはそのようなものです。
「統制」の強さを感じそれを解体するよりも、確かなものを構築するほうが課題だと感じています。
652 ◆yk/JpL/Z9U :2007/08/17(金) 10:03:49 ID:x7qWlGXz
>>650
凡庸さ、相対的な賢さ VS 野生、動物、生なましさ、表層の戯れw

前者が後者を見出しているという点がすべてです。
後者が自らを見出していません。自らを見出すのは既に前者の地平を手にしているわけです。
ストロースがブルバキのヴェイユの助けを借りた。群論だー、そんな”野生”ってww
総長はかつて正しさや美しさという権威を徹底して撃った!カックイイィーw

子どものままであるということ、これはもう恥辱であり悲劇なままです。
子どもにあえて「なる」という転倒のかっこよさは凡庸の果てにおいて相対的な賢さが最高に熟した
結果です。ピカソは12・3歳の頃、すでに写実的には完成された絵を描いたという自負を持って
いました。だからこそ、子どものような絵を描けるようになるには随分時間を要した、と言った
のがカックイイんですよね。

柄谷や蓮實のかっこよさとは凡庸さの輝きである。少なくとも同じ地平である。
私は嫌味をあまり嫌味だとは思わないようです。そういう嫌味がないものにこそ嫌味を
感じてしまいます。ここで道徳や言葉遣い「だけ」を主張するカスの嫌味は、もうホント
徹底して暴く覚悟です。
例のガーゲンの本では、現代というテクノロジーで重層的な関係を生きる我々を道徳で
縛るのは害悪だとしています。だけど、「調整」がローカルに機能する原理を簡単には示して
いません。原理論的な本だから仕方ないのかなあ。

>5年生の教室

多数決、民主制が根本に持つ暴力性を考えさせるいい機会だったことでしょう。
じゃんけん、くじ引きもまた別の暴力を持っていますね。それを対比的に考える
ことは非常に勉強になると思います。
ぜひ、偶然性を試してみてください。実験も勉強だと思います。
653 ◆yk/JpL/Z9U :2007/08/17(金) 10:05:24 ID:x7qWlGXz
>「統制」の強さを感じそれを解体するよりも、確かなものを構築するほうが課題だと感じています。

蓮實が注意を促しています。決して醜さを宣揚するものではないと。
私は「統制」を否定してアナキーなものを望んでいるわけではありません。
また破壊に価値を見出しているわけではありません。

統制や構築は何を目指すか、何を基盤とするか、そういうことが大事です。
民主的な国語が叫ばれてからも、国語とはやはり国体の国語、天皇の国語という
側面は否めません。そういう過去を現在の国語から取り除くことも現実的には
不可能でしょう。しかし、自明性に拠りかかり当然だとするのはいかがなものでしょうか。

可視化することも意識しつつ、我々の日本語を構築するべきですね。
私は指導要領を批判しますが、すべて悪いとは思っていません。審議会の委員の中には
かなりの阿呆もいるようですが、事務方すなわち官僚はバランス感覚を持ち、論理的科学的に
検討できる人間が少なくないようです。ちょっと情けないことですがね。

おっちゃんが子どもに対して「確かなものを構築」するのは、国語の習得によって天皇の赤子
になるためではないですよね。国民養成の装置でもないですよね。

共産党は何でも平和、何でも戦争反対、何でも非暴力?w・・・・
しかし、彼らは暴力革命を正当化する理論を持っているし、かつてはそういう実践?もしていた。

国語の伝統と歴史に対峙する我々の日本語を構築することは何にも悪くない。
そのためなら、教室で暴君となろうともwww
えっ、心配しなくても、数ミクロンこっちに引き寄せるだけの結果にしかならないですよ。
その数ミクロンのためには暴力革命も辞さないという「覚悟」は要る??wかも。

おっちゃんが言うように国語とは誰か一人の意図によって成る、成ったわけではないです。
たくさんのベクトルが合成された結果でしょう。その一つとして、一つのベクトルの可能性を
考えるという程度の謙虚なものでもいいでしょう。
少なくとも、合成ベクトルを自分は体現するんだというお馬鹿な頭は、その合成ベクトルでさえも
理解できないし、教えることはできないと思います。

私は、今「社会構成/構築主義」を考えます。構築!!ですよね。
654名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/17(金) 19:32:06 ID:42O2GZDb
>>650
1人ずつその役に持っている意欲を言ってもらう。その後、多数決という方法を
とるようにクラスを導く。選挙ですわなw

漏れた子には1人ずつお話をする。泣いたもん勝ちも間違いだし、
やろうという意欲を「できなかった」だけでそいでしまうのも間違いだわな。

立候補する子は、みんなやりたいんだ。完全な子供任せも間違いだわ。
必要な所は、大人の意見が暗に反映されるべきだわ。それが担任のお仕事。
655名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/17(金) 20:11:03 ID:+9pzXnf8
またでたベクトル。合成の誤謬になるからやめろそれ。

 交通によって作られ、かつ交通の痕跡をそのまま保存するというわれわれのあり方が今の日本語を作った。
と考える方がわかりやすい。

 日本では仏教、神道、キリスト教(バテレン)、拝火教などまったくびっくりするほど、そのままの形でうけいれ
そのまま保存しながら並存させる。

 漢字の読みがいくつもあるのもそれが原因。

 そのように保存して平気な<余裕>について語れるものなら語りたいが、それはどうしてかわしには分からん。
ともかくそのようにして平気なのだ。

 だから方言も標準語もどっちも母語だと思えたり、日本語にだっていろいろあるとものすごく低エネルギーで
反応する。仕切りをどこかに作ろうとしたりはしない。

 いろんな思惑があっても交通を遮断することも独占することもできない。教え込めばどうにかなるという発想が
間違っていた。
656名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/17(金) 20:56:03 ID:e6Uro4zm
脇を固める人、ガンバレw
657名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 01:03:44 ID:xpIE/RpC
猫はいつもながらの調子だからいいとして、
おっさんさあ、猫と話かみ合ってんの?
かみ合ってるように見えんのだけど。
658名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 03:33:06 ID:Pp71ZQGg
かみ合ってはいませんね。
お互いに妙な気を使いながら、自慢話に終始しているようですしね。
659名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 09:28:22 ID:yK38zaIb
脇役いらね
660名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 10:24:17 ID:QZWCxVNi
ん。わし? よんだ?猫語の翻訳?いいけどお。
>>653

 第二段落まで… こんなに長く書く必要はない。これは推敲が杜撰。蓮実を持ち出す意味が無い。したがってそこは
削除。私は以降が肝。なんだけど。

  いいたいことがあいまい。統率を否定してアナーキーを求めるわけではなく。破壊すればいいというものでもなく。
(じゃあ何がしたいのだ。)
  統率や構築は何を目指すか何を基盤にするかが大事。←まてええ。誰にとってだ。もし猫にとってなら、大事です。
ではなく、大事に考えていきたい。またはそれについて考えています。が文としては正しい。この言い切りは、あなたも
そう考えますよね。ということになる。で、何を基盤に構築するかって…社会でしょ。構築自体が社会を通じて社会を形
成するということなんだから。だから、脱社会という現象が起こってる今は、統率によって社会という基盤に載せてしま
わなくてはならないという議論も出てくるわけなんだから。

 そんな当たり前のことも分からないで社会構築主義だとかいってたのか?よしんば、国語という統率が何をもたらす
かということに限ったとしても…じゃあ、何、日本語って言い換えようという主張はいい加減だったのか?ってことになる。
国語の目的や基盤が認識できているから日本語にっていえたわけでしょ。でそのような言説が以下に続くわけだが…
じゃあ今までの枕はいらない。文の無駄遣いだああ。国語国字問題を示せばよろしい。

 で自明性によりかかりうんぬんとなるわけだが、教えるということがわかってない。これは正しいと思わなきゃ教えられ
ない。メタな発想として国語批判が正しいと思うから猫はここで語ってられる。国語批判批判が正しいと思う人はそれに
ついて語れるのだ。(デカルトの決断、断絶がよくわかってない。)

三段落。まったく意味がない。国語がどう形成されたのかがわからないとしながら、<構築するべき>という要請をして
いる。上からの国語作りを否定しながら…国語作りそれ自体は肯定する?バカな。で結局、上からもあり!俺が認める
ものに限りあり!俺が基準だ。ということになる。

四段落。おっさんがいったことがわかってない。そのようなイデオロギーは社会の側がもってるのだ。リテラテシー習得
の結果、どうなるのかは社会に左右される。おっさんはリテラテシーを習得させるのが仕事だっていってるだけ。

五段落。言語そのものの機能を忘れてる。言語を通じて社会的存在になるのが人間。母語ということそのものの意味。
と公用語というものの意味。わしらがやってるのはリテラテシー。文法がうんぬんという話と矛盾する。規範文法を扱う
のが学校なら、公用語のリテラテシーしかやってません。

六段落、矛盾。自分基準だからなんだろう。合成の誤謬がわかってない。

 結論、ワシ好みの言語になってほしいのよ。それが正解。ってことだね。

でもそのワシ好みっていうのがどういうものなのか具体的な絵はない。というか猫の日本語がそれだとすれば、指導者
としてはそんな日本語を教えるわけにはいかない。
661名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 10:33:04 ID:QZWCxVNi
 近代小説が日本語作りに如何に働いたかを述べた柄谷を読んでいながら、教育にものをいえばそうなるという
安易な考えがとても杜撰。

 柄谷は小説は終わったといった。同じように評論も終わってる。

 日本語が機能する社会からこぼれおちている人々がすごく多くなってきてるのだ。

 じゃあどうするんだろうね。
 ラッセルはスクールの顛末を語りながらそこで学んだことを
 教育には規制が必要だと述べている。無駄ではなかった。自由を行使するためには自己規制も必要だと気づいただけ
でもとても立派である。

 Nを子どもになるととらえるのは、孔子の欲するところを行って則を越えずと一緒。
子どものときにもっていて失ったものをとりもどそうと考えるなんてNは言ってない。間違っている。そのような抽象的な
子どもではない。まさに、猫がけぎらいしている存在でいい。

Nが時代の何に向けて語っているかがわかってない。知ったかぶりして何もしない知識人(力への意志の人)じゃなく
ギャング(結果すら考えないバカ)でいいといってるの。Nを持ち上げすぎなんだよ。

 そういうものを排除することでかりそめの安定を図ることへの嫌悪ってことも考えなきゃいけない。
662名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 10:53:59 ID:yK38zaIb
子どものままがいいと言って規律かw
663名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 11:14:51 ID:QEtjIbwA
次スレを誰がどこに立てるか、ちょっと興味がわく。
664名無しさん@お腹いっぱい。
>>662

わしはNは漫才のつっこみの教科書としてしか認めてない。あそこに真理を求めるのは意味の無い路線変更につなが
ると思う。

 だ・か・ら・商売上も思想としても規律や基準というものを扱うわけやね。

Nをそのように読んでミソ。