日本の国語教育14

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668 ◆yk/JpL/Z9U :2007/07/09(月) 23:35:02 ID:zgtRf3un
>>665
すいません、いくらでも続投するネタはあるんですが・・
もったいぶっているわけじゃーないんですよ。

できれば、厳しいツッコミをお願いします。
どうも根本的な部分において闘いがないと連投の意欲が出てきません。
「あ」では役不足です。

ママンちゃんとバトルすると私にとっては深化するかもしれない・・
669名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/09(月) 23:49:55 ID:ykZdSYQN
役不足って、そういう使い方だった?
最近はそうなのか?
670 ◆yk/JpL/Z9U :2007/07/09(月) 23:56:56 ID:zgtRf3un
ママンちゃん

ちょっと前に、「高校生のための論理思考トレーニング」(横山雅彦、ちくま新書)
を読んだんです。まあ、レベルとしては威勢のいい素人談義で学ぶことはあまりない
ようなものです。しかし、その”威勢のよさ”はなかなか面白いw

『日本にロジックが根づく可能性は、永遠に閉ざされたのである。そして和洋折衷の
日本語だけが残された』(p.93)

横山が最近流行りの現代文における論理的読解の理論的不可能性を露にしています。
名前が出ていませんが、その論の核心はおそらく出口への批判であろうと思われます。
一時、彼と歩調を合わせることをしようとしたらしい。しかし、そのお粗末さに付いて
いけないと感じたようです。(出口かどうかは確認中)

私は日本語の変容に期待します。
今まで何度も変身してきました。その意味でのポテンシャルに期待します。

変身のツールとして考慮すべきものとして、例えば「思考と行動における言語」
(ハヤカワ、岩波)があります。ここでも何度か言及していますが反応がないのが
残念です。その一般意味論の実践への適用では井上尚美がいます。
http://books.yahoo.co.jp/book_search/author?author=%B0%E6%BE%E5%BE%B0%C8%FE
ただ、私も彼女の著作は一冊しか読んでいません。もっと、勉強したいと思っています。
少なくとも向山や西郷より論理的でシャープです。
宗教になっていないので広がりが少ないとも言えます。

一般意味論
http://www.kh.rim.or.jp/~masa-sem/
671 ◆yk/JpL/Z9U :2007/07/09(月) 23:58:42 ID:zgtRf3un
>>669
すいません、「あ」の方には役不足です。御立派すぎてw
672ダンスというより、暗黒舞踊:2007/07/10(火) 00:00:55 ID:myWSz7Ae
>663
とまあ、「おまえのかあちゃんでーべーそ」レベルまで堕ちちゃうわけね。
やれやれ、 サベツされた! とか思った?
>658 は猫にこそわかる話だと思ったんだが。

正直言って猫とママンの「バトル」なんざスローガン馬鹿同士の
仲間誉めにしかならんさ。
そういうのこそ、「モノローグ」ってんじゃないの?

ああ、ママン。>641 を見ておくように。
673ダンスというより、暗黒舞踊:2007/07/10(火) 00:09:05 ID:myWSz7Ae
煎じ詰めて言えば、小学校教師氏のような「他者」が
でてくる度に「カス認定」して目を背けてきたのが猫なわけで。
猫がいかに都合のいい「他者」だけを求めているかってこと。
そんなもん、すでに「他者」じゃないよ。
674 ◆yk/JpL/Z9U :2007/07/10(火) 00:11:25 ID:/7O6tRLw
個人的には「社会構成/構築主義」をもうちょっとやりたいんですが、
もうやるべきことやっていることが多すぎて困っています。

三森は one of them です。
私は私の道を収斂させます。そのためには貪欲に取り込みたいと思います。
三森、一般意味論、社会構成主義、系譜学、認知科学などがその中心であることは
間違いありません。テキスト分析って実は理論じゃーないんですね。ただ、
テキストを分析するっていうことを言ってるだけ。

「私のうちではねー、犬を飼ってるのよ」

っていう意味はコンテキストが明白であっても伝わらないんだという
慎重な態度が一般意味論から示唆されるところです。
犬嫌いな人には伝わり方が異なる。

スキーマ理論にも関連してきます。

そんなレベルではないんだよ。そういう声はよく聞きます。
教える以前に学ばない姿勢を正当化してしまっているだけだと思うんです。

何か、具体的な話題を提供してください。お願いします。
675 ◆yk/JpL/Z9U :2007/07/10(火) 00:32:06 ID:/7O6tRLw
>>673
うんうん、そのような・・アウシュビッツのような、通り魔のような・・他者を
許容するような原理主義的な他者論もあるな。

でも、オイラは違うんだよ。他者を抑圧する他者さえも認めろという
原理主義は困る。

何でも自由、何でも個性と同様、味噌糞ということでんがな。
アンタの反論における他者論とはこのレベル。

ただね、原理的には「あり」なんだよ。そこは見逃してはいない。
例えば、上野は兵隊から見た都合のいい慰安婦も理論的には認めるんだ。
もちろん少々の留保をおきながら。

もうそんなことは自分の中ではとことん考えつくした。
オイラはなー、そのあたりはスパッとしてるんだ。

アウシュビッツにおいて、虐殺「される」多様性を原理的にでさえ認める
という立場には立たない。他者とは「教える ー 学ぶ」だ。

小学校に乱入して殺戮するものはそのシステム自体を破壊する存在だ。
実はそれらは他者を消す項として存在する。すなわち非対称を転倒させ
対称なものとしてしまうものだ。

原爆においてはすべての差異は消失してしまった。文字通り何もなくなった。
他者や外部は内部や自己を前提する。その逆もまた同時に保持する。
そのシステム自体(内部 ー 外部)のまだ外は要らない。
アウシュビッツは要らんのだよ。それがオイラの「立場」だ。理論だ。

お前はどういう「立場」だ。
何もないが、ただただ反駁したかっただけか?ま、それでもいい。
もうちょっと考えてから発言した方がいいと思う。
でもね、オイラにとっては基本のおさらいになった。だから感謝している。
皮肉じゃーないよ。こういう突っ込みは大歓迎だ。内容あるからね。
(他は駄文で全く意味なし)
676 ◆yk/JpL/Z9U :2007/07/10(火) 00:36:22 ID:/7O6tRLw
クネクネ

嘘はいかんよ、嘘はw

>目を背けてきた

十分相手しているぞw
応答可能性としての責任は十分に果たしている。
何が不満なんだ?

目を背けてるのは オ マ エ !
677ダンスというより、暗黒舞踊:2007/07/10(火) 01:13:24 ID:myWSz7Ae
>他者を抑圧する他者さえも認めろという原理主義は困る。
お前はさ、ここの「認めろ」という言葉をどういう意味で使ってる?
俺は愛しろといってるんじゃないぜ。それはわかるな?
俺が言ってるのは、嘘ついてレッテル貼りをした上で、
「話にならんwww」なんてポーズをとるのは止せということだ。
それこそ「共同体による排除」と変わらん。

>アウシュビッツのような、通り魔のような・・他者
それは本当に「他者」か?
いいや、違うよ。「他者を抑圧する他者」には何でもありだとする
猫からはナチスも宅間もそんなに距離はない。
お前は、理屈さえつきゃガス室のスイッチを入れるよ。
そのとき、お前は「他者を抑圧する他者」なのさ。

お前に欠けているのは、その想像力だ。
その欠如は
>何もないが、ただただ反駁したかっただけか?
こういう一文に出ちゃうんだ。
678ダンスというより、暗黒舞踊:2007/07/10(火) 01:35:10 ID:myWSz7Ae
>676
いや、どっちかというと、小学校教師氏がわざわざ相手してんだよ。
679おっさん:2007/07/10(火) 05:28:41 ID:hUcv1Arb
>変身のツールとして考慮すべきものとして、例えば「思考と行動における言語」
(ハヤカワ、岩波)があります。ここでも何度か言及していますが反応がないのが
残念です。その一般意味論の実践への適用では井上尚美がいます。
ただ、私も彼女の著作は一冊しか読んでいません。もっと、勉強したいと思っています。

井上尚美(しょうび)さんは男性ではないかと思います。
何冊か読みましたが、ずっとそのように思っていました。

以下、小学校国語に携わるものには常識的なことでご存知かと思いますが、
小学校国語のローカルな話のような気もしますので、ご紹介しておきます。

井上さんもコミットしていた民間の研究団体に「児童言語研究会」(児言研)があります。
そのリーダーが大久保忠利さんで、『思考と行動における言語』を翻訳した言語学者です。
(児言研の基礎理論は、パブロフの第二信号系理論のようですが)

児言研は戦後間もなく誕生した団体で、「一読総合法」で有名です。
これは、長らく国語教育の読みの方法として支配的だった解釈学に基づく「三読法」を否定するものです。
時枝誠記もこれを支持しました。

児言研では、「一読総合法」以外にも多くの提案をしています。
当時、黙読重視だった中、「表現読み」としての音読について提案しています。
小学校教師だった荒木茂さんが実に多くの著作、テープなどを発表しています。
HP「音読・朗読・表現よみの学校」http://www16.ocn.ne.jp/~ondoku/

また、とても早い時期に「話しことば」の教育を思考力育成と関連づけ
その重要性を提起していました。
昭和40年代からディベートを授業実践していたと思います。

小松善之助さんという人も中核的なメンバーで、理論的な実践家です。
読み(文学・説明文ともに)、文法等の言語指導、教材分析、授業論など
多岐にわたって著作を発表しています。

児言研の著作をそれほど読んでいるわけではなにのですが、
僕の読んだ授業報告などからは、実践の蓄積による熟成度の高さが感じられました。
教材分析などは文芸研の西郷理論や分析批評にお世話になりますが、
授業実践、特に低学年の授業では、児言研の実践にとてもお世話になっています。

僕は、教師になってから、
様々な理論、研究団体、実践家から自分が納得できるものを取り入れています。
様々と言っても、極めて狭い範囲のローカルなものだと思います。
しかも、つまみ食いです。
児言研については、基本的な理論はピンとこないのですが、読みの方法のひとつとして、
またその実践は大変参考になりました。
680おっさん:2007/07/10(火) 06:25:22 ID:hUcv1Arb
>向山や西郷の実践も実は西洋の論理に他ならないんですよね。
ただ、中途半端だということです。かなりお粗末な部分もあるようです。論理という点に
おいて。いい加減なパッチワークが困るんです。やるんだったら徹底するということです。
そのような負荷において日本語の限界が見えると同時に意義ある変容が期待できる
と考えています。

僕自身は上に述べたようにパッチワークです。
自分の納得できるもの、とは思っているのですが。
徹底化というよりも、実践化という視点の方が強いような気がします。
「いい加減」です。「いい・加減」になるといいのですが。
向山も悪くはなかったんですよ。
今も過去の良質な部分は学ぶべきものがあると思います。
でも、結局向山は運動論(だけ)の人だったんだなぁ、と思います。
法則化は、エイズ問題や環境問題などに、教育界では先駆けて着目しましたが、
それは、児言研が世間的な流行に関係なく
自らの理論的な立場から音声言語に着目したのとはわけが違います。

西郷さんの文芸理論はほんとうはちょっとすごいんじゃないかな、と思っています。
ソビエト出自の理論らしいのですが、基本的には三浦らのように在野の理論家なんだと思います。
こうした人の理論は、アカデミックな連中がよくやるように簡単にバカにできるでしょう。
しかし、流行に敏感で泡のように消えていくのが、
日本のアカデミックな立場からマスメディアに流される言説ではないでしょうか。
681名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/10(火) 06:46:57 ID:65ZVEhGF
猫へ

 感情の表現のあり方もコードだし、共感するために何を読み取るのかということも文化的なコードだよ。
貨幣に価値を見出すこともコードであるな。行為を引き出すために、作られた規則=コードなのだからな。

 ことばの世界でいえば、時候の挨拶なんかはものの見事にコードだろ。あれは論理的かね。

 慣習というものをまったくコードに入れない気かい?ことばそのものは、その慣習によって成り立っている
はずだよね。

 コードについてはこれ以上の説明は必要としないだろ。ヴィトゲンシュタインの言語ゲームという概念にお
けるルールともきちんと呼応してるしね。
682名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/10(火) 06:51:46 ID:65ZVEhGF
ママンへ

 まじめにねえ、本当に大学出てるわけ?仮名というのはひらがな、カタカナ、万葉仮名などの日本語における
表音文字の総称だよ。

 表意文字である漢字(真名)に対して表音文字である仮名なんだよ。

 わしは国語業界じゃこんなの常識だと思ってたよ。っていうか教育課程をとった人間なら国語科概論で習うあたり
前のことなんだよ。文学科じゃまったくやらないのに、教員免許…取れないって…え。本当にどんな大学出てるんだ?

 卒論で必死こいて勉強したことだけしか頭に残ってないのか?だからテキスト論とか…。
 そんな最高学府いらないし、そんな生徒は最高学府へ行くんじゃない。再生産による○の拡大のようだよ。
683おっさん:2007/07/10(火) 06:59:07 ID:hUcv1Arb
例えば、かつて夢中になった柄谷の本は、今も読めるかぁと思ってしまいます。
読んだ当時は、内容を理解することよりも、
時代の閉塞感を切り裂くような文体のテンションにまいったのかもしれません。
とりあえず、今自分が思い出せる内容が多少なりとも自分の血肉になったものと考えています。

「外部性」というのも当時はわくわくしました。
『隠喩としての建築』は、思考の限界としての形式化の徹底ということの意味を問うものだったと思います。
形式化の徹底の果てに見出される決定不能なもの、それは「外部」のひとつの極北の姿である、
と僕の記憶の中にはあります。
その後『探求』における「教える−学ぶ」関係の追求なども、おもしろくはあったのですが、
今ひとつピンときませんでした。

東浩之の『存在論的、郵便的』という本を読んで、
改めて柄谷の「徹底」や「外部」の追求の意味や、その不毛さについて知ったような気がしました。
その一方で、後期デリダがやってることは全然わけがわかりませんでしたが。
猫さんの「外部」とか「徹底」というのも、かつて流行語として知った以上には、
今の僕にピンとこないところがあります。
理解、知識の不足のせいかもしれないな、とは思うのですが。

「あ」さんの言う「言語ゲーム」とか「ブリコラージュ」とかも
僕自身は当時の流行語としてしかしりません。
ヴィトゲンシュタインもレヴィ・ストロースもその著作を読んだことがありません。
なんとなく「外部」とかおもしろかった当時よりも、
今のほうがおもしろそうな概念だとは思いますが、やはりピンとこないのが実感です。
ヴィトゲンシュタインやレヴィ・ストロースを実際に読むとピンと来るのかなぁ。
684名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/10(火) 07:11:09 ID:65ZVEhGF
おっさんさん
 その児童研の話はした。この人たちは自分に都合の悪いことは理解しないし、おぼえないので言わん方がいい。

 なにかとんでもない新しい崇高ななにかが新しい日本語であって、それが今ないということはこれまでの
取り組みが間違っていたのだという信仰にとりつかれているのです。

 昔は王の影響力が絶大であった。中国を作ったのは秦の始皇帝。シナというのは秦のことだし、チャイナ
というのも秦のこと。ことばから思想までまさに国家を作ったといっていい。でもその秦は一代で滅んだ。

 しかし、その後の中国王朝は結局、秦が成しおえたでっかい仕事があったからこそ統治が可能であった。

孔子は周へ帰れといったけれど、それは統治という面からは明らかに間違っていたんだ。

 そのようなとんでもない権力と権威がないかぎり、刷新というものは<意図を元に>行われない。
 技術の革新(イノベーション)によって行われる。日本語でいえば漢字(文字)という技術がまず、それだった
し、その後の仮名(表音文字)もそうだった。その後は、言語使用のモードの刷新によって、音の変更がさまざ
まに行われてきた。昭和に入れば字の簡略化=略字の正当化がなされた。その際に、本かな使いが否定され
た。それは上からだけでなく下からも使いやすさという点で大いに支持されたのだ。

 日本人は<論理的な説明>というものを求めていない。なぜなら、日本語でそれをやると加法の表現になって
いく。説明するものばかりがいっぱい話すのだ。(なにしろ定義をし、効用を話し…反証不可能性へと追い込んで
いくことが日本語における論理的説明なのだ。論破?)日本語はやり取りが前提になっている。基本的に口語が
中心なのだ。

 「おーい お茶」の世界が標準なのである。

 日本語による<論理的な説明>は引き算でなければならない。相手が、それってこういうことと、こちらが言い
たいを相手がいってくれるように説明するのだ。(この方法がグローバルに通用するかはまた別の問題。)

 店頭実演販売員の言語分析こそ、それに近いだろう。

 猫たちはそういう現実がわかってない。(だから常に文献を持ってきたりして足し算しまくる。)
 大事なのは足し算ではなく引き算なのだ。
685名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/10(火) 07:19:58 ID:65ZVEhGF
 というか教える現場にいれば、どう相手に言わせるか、思わず反応させるかというのは
授業の技術として、常に考えていることだと思う。

 正解を教えるんじゃない。正解に気づかせる。引き出すこと。

 真理を言えば世の中が変わると思ってしまう「真理病」になってはいけない。
 真理をどう共有するか、そもそも共有を考えれば、真理なんてものはどこにでも転がって
いるものでテーゼにすぎないものだということがわかる。

 テーゼもアンチテーゼも真理なのである。

 ママンも猫も教育者としては失格であるよ。一から修行し直した方がいい。
猫は教育業界でやってくつもりは無いと思われるので、早く足を洗うこと。
自分のためにも、生徒のためにも。

 できれば筆で生活しようとした方がいいだろう。そうすれば売文という意味が
わかる。
686名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/10(火) 07:24:22 ID:65ZVEhGF
あ 技術革新で忘れてた。

 木版から活字への転換。ワープロの発明。キーボードによる日本語文の作成。メールの普及。
HPの一般化。インターネットのメディア化。

 つまりこの状況が日本語の論理化なんて課題を生み出しているにすぎない。
でも英語でHPを作る人は日本人は少ないしこれからも多くはならないだろう。

 英語圏の人間を相手にしていないから。あらかじめ選別された他者。
687おっさん:2007/07/10(火) 07:42:08 ID:hUcv1Arb
>その児童研の話はした。この人たちは自分に都合の悪いことは理解しないし、おぼえないので言わん方がいい。

研究団体同士の政治は興味がありません。
団体内部では、向山も西郷も大久保も神のようです。
かつて西郷が低俗な法則化批判をしていました。
法則化の有力者の一人が「もう文芸研は読まない」と言っていました。
向山は向山で、ソ連崩壊に対して西郷にこれまでの理論の責任をとれ、
みたいなことを言っていました。
やれやれです。

僕は、おもしろいものはおもしろいという立場です。
向山でも、西郷でも、児言研でも、読み研でも、
できるだけ読みたいと思いますし、
理論や実践でおもしろいと思ったら、また自分で納得できるならば、
その話はしようと思います。

「パッチワーク」(「ブリコラージュ」でも)でいいと思っています。
左翼三浦は、時枝はもちろん、国粋主義者山田も、その学問は評価しています。
パブロフの第2信号系なんていうのはソ連製です。
そうした理論に基づく国語教育理論が一般意味論へも結びついているのです。
688名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/10(火) 18:06:54 ID:65ZVEhGF
>>687
おっさんさん。ええわしもそう思います。

 なぜなら、対象そのものが別のコードで動いている人間そのものだから、
そのつど中間コードのようなものを作り出して移行をはからなてはいけない。

 理科であれば素朴理論から一般理論への移行とかいえるんでしょうけどね。
 国語の場合はそうはいえないですからね。

 だからブリコラージュにならざるおえない。
689名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/10(火) 18:12:27 ID:65ZVEhGF
>>666

 話がずれてる。(またかとほほほ)
 わしは、庶民にまで文字が浸透していた例として万葉仮名を上げたのであって、万葉集の価値うんぬんを
いってるわけじゃない。

 宣長までもちだして何がいいたいのだ?君のことばを借りるならトンチキスペック?
690名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/10(火) 18:32:43 ID:seezCT7O


とは全く似ていない

おっさん
691おっさん:2007/07/10(火) 20:16:27 ID:hUcv1Arb
>684
個々に論点とともに全体の論旨もなかなか理解できません。

とても大きな話なので、一部をかんがえてみます。
>そのようなとんでもない権力と権威がないかぎり、刷新というものは<意図を元に>行われない。
 技術の革新(イノベーション)によって行われる。日本語でいえば漢字(文字)という技術がまず、それだった
し、その後の仮名(表音文字)もそうだった。その後は、言語使用のモードの刷新によって、音の変更がさまざ
まに行われてきた。昭和に入れば字の簡略化=略字の正当化がなされた。その際に、本かな使いが否定され
た。それは上からだけでなく下からも使いやすさという点で大いに支持されたのだ。

>本かな使いが否定された。
この文に対応する歴史的事実は、戦後間もなくの政府が示した「現代かなづかい」のことでしょうか。
これ以後、確かに「歴史的仮名遣い」は一部の人たちが使うだけになり、大いに普及しました。
(それ以前にも仮名遣いに関して同様のことを主張した者はたくさんいましたが、
 上のような影響力はなかったと思います。)
これは政府が行った「意図的な」文字改革(イノベーション?)で、
現在振り返ってみると非常に効力があったと言えるでしょう。
しかし、戦後間もなくの政府が「とんでもない権力と権威」だったとは思えません。
また、こうした政策的なものではなく、言語は通時的に変容していきます。
しかし、そうした変化は、確かにある特定の人格などによる「意図的」なものではなく、
集団による「無意図的」なものだと思います。
その変化は、「技術の革新」「言語使用のモードの刷新」によってなされた、と言えるでしょうか?
変化した結果から、過去と比べ「技術の革新」「言語使用のモードの刷新」がなされた、
と言えるのではないでしょうか?

社会・文化の変容の要因は、権力と技術革新とで十分なのでしょうか?
また、両者は二者択一的なものなのでしょうか?
上の国家・社会の問題と言語の変化の問題は直結できるのでしょうか?
僕には無理があると思えますが。


692ママン ◆mn0Cwuovio :2007/07/10(火) 20:43:38 ID:DSutAL32
>>670
むむ、意味論ですか。
私は勉強したことがないので直接的なバトルはできねーと思います。
今のところ意味論にはおじちゃんしか反応していないんじゃないかな。
お二人が議論を進めてくれれば私も勉強になるのでうれしいのだけれど。
693ママン ◆mn0Cwuovio :2007/07/10(火) 20:47:44 ID:DSutAL32
>>684
足し算引き算なんて言われてもわけわからんよ。
694 ◆yk/JpL/Z9U :2007/07/10(火) 21:03:53 ID:/7O6tRLw
おっちゃん

最初に誤解を解いておきます。
私がパッチワークとするのは味噌糞とほぼ同義です。なんでもかんでも一緒くたに
するのは困るというだけのことです。その原因は一つ一つを(それなりの程度であれ)
丁寧に理解しようという態度がないことにあると考えます。結果として、理解しているか
どうかの問題というより態度=心的枠組みの問題だということです。

あなたは実践にとっていいものは何でも取り入れるということを主張されています。
私も同様のことを主張し、かつそのような姿勢を持っているつもりです。従って、宗派や
教義、そして信仰なんて実にくだらんことだと思っています。

さて、あなたが実践において役立つと判断する「もの」は何でしょうか。
基準や価値観、あるいは考え方などと言ってもいいかもしれません。
全体を俯瞰する視座を持っておられると思うんですよ。もちろん、それは意識的な
ものではないかもしれません。しかし、何かあるはずだと思うんです。

私は「そこ」を問うているつもりです。
とにかく目に付いたものに機械的に次々と飛びつくというわけではないでしょ。
あなたに取捨選択させるものは何でしょうか。

そこを見過ごして、単に結果のバリエーションにだけ目を奪われるのはあきません。

バイキング料理。あなたが選ぶものは何か、それと同時にそれをあなたに強いるものに
強い関心があります。順番に最初から皿一杯に盛る。とにかく食べまくる。そんな阿呆は
要らんのですよ。

選択を問うています。それは結果から事後的に基準とかを見出すようなものかもしれません。
それでもいいと思います。というか、そんなものだと思います。

選ぶ「おっちゃん」を問うています。
695おっさん:2007/07/10(火) 21:24:50 ID:hUcv1Arb
>日本人は<論理的な説明>というものを求めていない。なぜなら、日本語でそれをやると加法の表現になって
いく。説明するものばかりがいっぱい話すのだ。(なにしろ定義をし、効用を話し…反証不可能性へと追い込んで
いくことが日本語における論理的説明なのだ。論破?)日本語はやり取りが前提になっている。基本的に口語が
中心なのだ。
 「おーい お茶」の世界が標準なのである。
 日本語による<論理的な説明>は引き算でなければならない。相手が、それってこういうことと、こちらが言い
たいを相手がいってくれるように説明するのだ。(この方法がグローバルに通用するかはまた別の問題。)

ここもおもしろそうなのですが、理解できません。一応先ほどの話から話題は転換したと考えます。

「日本人は<論理的な説明>というものを求めていない。」
一般的にそうした傾向がある、とは言えるかもしれませんね。
「なぜなら、日本語でそれをやると加法の表現になっていく。」
ここがわかりません。
日本語で<論理的な説明>をすると加法の表現になるから、人々はそれを求めないのですか?
日常生活において<論理的な説明>を必要としない社会的・文化的な要因があるのでは。
また、他の言語では、<論理的な説明>で加法的な表現にはならないのですか?
「定義をし、効用を話し…反証不可能性へと追い込んでいくこと」、
これは、<論理的な説明(?)>の在り方のひとつかもしれませんが、
日本語だからこうしたあり方になるということではないと思います。
言語の在り方とは別な思考とか論駁の仕方とかの問題だと思います。
そうした思考の仕方や論駁の仕方は、欧米的であり、だから日本人になかなかなじめない、
これなら一応わかります。

「おーい、お茶」的な会話で日本人の日常は成り立っている、
これは、<論理的な説明>を求めない傾向にある日本人の会話として一応認わかります。
「日本語はやり取りが前提になっている。基本的に口語が中心なのだ。」
会話が基本ということでしょうか?
会話が基本だから「おーい、お茶」的な非論理的な会話になる、といこと?
プラトンの対話篇で描かれたソクラテスを思い出してしまいます。
会話によって極めて論理的なやり取りをしていますよね。
また会話や口語(?)が基本ということも他言語に比べた日本語の特徴だと言えるのか、疑問です。
柄谷の「聞く−話す」モデルの批判、デリダなどの音声言語中心主義批判、前にあげられていた「言語ゲーム」、
そんなことを思い出し欧米の言語もそうじゃないのかと思ったりもします。
これは僕自身よく理解できていないことなので確証はありませんが。

「日本語による<論理的な説明>は引き算でなければならない。」
ここがわからない。
日本語による<論理的な説明>が足し算になるのに引き算にしてしまったら、
「おーい、お茶」になってしまって<論理的な説明>にならないのでは。
日本人は<論理的な説明>を求めていないのだから、足し算的な言語使用はやめて、
引き算的な<非論理的な会話>を行うべきだ。
こう主張するならば、賛成はできないけれど、わかります。

「相手が、それってこういうことと、こちらが言いたいを相手がいってくれるように説明するのだ。」
全てを言わずに相手の反応を引き出すということでしょうか。
そうした意味で「引き算」的なのでしょうか。
会話の技法として、そうしたことはありかなと思います。
しかし、それがただちに日本語における望ましい<論理的な説明>になるというのは飛躍しています。
また、会話の技法としても、日本語だからということではないと思います。
日本的な対人関係という媒介項を入れて説明するとつながるかもしれません。

で、結局「あ」さんの立場として、<論理的な説明>が必要だと考えるのかどうか、
そこもはっきりしません。

「足し算的」「引き算的」という発想は、おもしろそうです。
日本語という言語レベルと日本的な対人関係や文化のレベル、
思考と表現、論理と会話など観点を整理し、ていねいに論を作っていくと
おもしろいのかもしれません。
696 ◆yk/JpL/Z9U :2007/07/10(火) 21:29:29 ID:/7O6tRLw
>>679 おっちゃん
井上さんは男でしたか。そうかなっと思ったこともあるんですが、何かのときに
女性かなと思いました。

「児童言語研究会」(児言研)ですか、聞いたことはありますがそれだけです。
例えば、私はコージブスキーの弟子であるハヤカワの”実践”に興味あるんであって、それが
ある宗派の教義となっているかどうかはくだらんことだと思っています。

言葉に反応する過程をブラックボックスだとしてないで、自覚的に視覚化するような
訓練が必要だということだと思います。パブロフの犬はそのヨダレの過程へ遡行できません。
しかし、我々人間も放置しておくと、犬同様な反応で終了する危険性の理論的基礎が
パブロフからコージブスキーを経由して一般意味論にはあるんでしょう。

そのような自動化された神経系を違和し、自明性を疑い、自然さに酔えない頭を説いている。
それは一方では、ここで馬鹿が垂れているような自明性を絶対視するような考え方を撃っている。

パブロフの『第二』とは、その社会性・歴史性という点で犬とは異なっているということですね。
犬においての遡行が可能だとして、結果は本能だけになるんでしょう。第一とはそういうこと。
しかし、言葉はそうではないですよね。

社会性・歴史性を見出さなくてはいけません。「いけない」というのは重要です。
これは井上も断言していますが、私も同意します。その理由は次に要約されています。

「教育というものは、たしかに一面では現代社会において生きていくにはどうしたらよいかを
教えるのですが、同時にそれらは、子供たちがやがて活躍する未来を指向するものでなくては
なりません。ですから、単に現代社会によく『適応』する人間を目指すのではなく、よりよい
未来にするためにこの世の中を変えていこうとする意欲を持った人間を形成することを目標
としなければなりません。」(言語論理教育、p.254)
697 ◆yk/JpL/Z9U :2007/07/10(火) 21:47:02 ID:/7O6tRLw
>>680
>僕自身は上に述べたようにパッチワークです。
>自分の納得できるもの、とは思っているのですが。
>徹底化というよりも、実践化という視点の方が強いような気がします。

その実践化とはまさしく理論的であります。そして徹底化でもあります。
あなたはバイキングで最初から順番に同じ分量だけ皿に取って食べる(実践する)
わけではないですよね。食べ放題だかといって、最初から満腹になるまで食べないはずです。

それから、あなたは誰かに料理を取ってきてもらう方ですか。

好きなものがコロコロ変りますか。
あるいは大好きなものだけ一つを満腹になるまで食べますか。

>西郷さんの文芸理論はほんとうはちょっとすごいんじゃないかな、と思っています。

そうですか。私も気に留めておきます。(ここで私の選別が入りました。)
私(の理論)は、あなたのこの発言を選びます。

>在野の理論家
>こうした人の理論は、アカデミックな連中がよくやるように簡単にバカにできるでしょう。
>しかし、流行に敏感で泡のように消えていくのが、
>日本のアカデミックな立場からマスメディアに流される言説ではないでしょうか。

これは偏見です。大きな誤りです。
国語学会あるいは国語教育界の問題です。そういうゴミ箱は、例えば三上章をシカトしてきました。
なぜなら、彼が数学者であったからです。しかも、「国語」のボスを批判した。
本多勝一や井上ひさしは早くから三上章に注目していました。次に三上を見出している
のはアカデミズムです。ただし、そのアカデミズムとは「反」国語という言語科学において
です。最近は新書選書でも三上らに言及した著書がたくさん出ています。

国語「教科書」の文法はどうでしょうか。

アカデミズムの問題ではありません。
国語には長い間アカデミズムが欠落していたからに他なりません。
698 ◆yk/JpL/Z9U :2007/07/10(火) 22:04:19 ID:/7O6tRLw
>>683 おっちゃん
私は柄谷を読んだのは彼が知的な空間でヘゲモニーを握っていたとか、論壇文壇の
天皇だとか、そんな評からです。読む前に真価や好悪は分かりませんからね。

柄谷、だけでなく浅田やその他いろいろ、そういうものの恩恵は今感じています。
少なくとも、まだその装置で語られているとよく感じます。

>『隠喩としての建築』は、思考の限界としての形式化の徹底ということの意味を問うものだったと思います。
>形式化の徹底の果てに見出される決定不能なもの、それは「外部」のひとつの極北の姿である、
>と僕の記憶の中にはあります。

私の方法論的モチーフはここに大きく影響されています。
論理の外部として感性やら情緒は見出されるはずだし、それでなければならない。

最初からバランスだとか、そういうのん気なことを言ってるから困るんです。
一度見出した者しかバランスは言えません。また、見出し方も重要です。
結果の注入ではなく、方法論の伝授もまた重要なことですからね。

>その不毛さについて知ったような気がしました。

最初に不毛さは到来しません。
また、果てにくる不毛さとは他の何か豊穣なものを見出していることが同時に
あるはずです。

おっちゃんが到達した時点から子どもは始めることがいいのでしょうか。
またそこから始めて到達するものでしょうか。
699 ◆yk/JpL/Z9U :2007/07/10(火) 22:11:58 ID:/7O6tRLw
おっちゃん

「世界共和国へ」(柄谷、岩波新書)

柄谷は 転回 しましたね。御存知だと思いますが。
彼は積極的に構築しています。NAMとか失敗もいろいろありますが、
彼がそれでも建築することを意図することに注視したいものです。

あなたは、柄谷以前に回帰するようなことを示唆されました。
柄谷は随分前に建築しています。もちろん、彼の建築を自壊させるのは
たやすいことです。それを一番良く知っているのは柄谷自身です。
彼は自壊の理論的可能性ではなく、建築の現実的蓋然性(!w)を選んで
います。

上掲書の帯には
「私たちの進む道はここにある!」wwww

柄谷は十分戻っていますよ。
もちろん、おっちゃん自身が指向した意味において。

私は、まだ戻れません。
まだずっと後ろを歩いていますから。
700 ◆yk/JpL/Z9U :2007/07/10(火) 22:18:10 ID:/7O6tRLw
おっちゃんは私のかなり前を歩いているのかもしれません。
そういう気が強くします。でも、アカデミズムは既にそういう方向です。

「社会構成/構築主義」

そのためにはまず自壊から始めないといけません。
国語とは戻ったものではないのです。
構築のためにはまず更地へ。。


ポストモダン

モダンを経ていない日本は、そのまんまポストだと錯覚する。
そのまんま現代の建築だと曲解する愚かさ。味噌糞・・

おっちゃんが歩んだ軌跡
それを国語も歩かせてください。そういうことです。
701名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/10(火) 22:57:55 ID:8rs9+BFH
>>696->>700
尾っぽを振ること、尾っぽを振ること。
見苦しい極み。
おっさんもいずれあきれて逃げ出すよ。
みんなそうして居なくなった。
702おっさん:2007/07/10(火) 22:59:37 ID:hUcv1Arb
>694
「パッチワーク」については、態度へのけなし言葉であることは了解していました。
しかし、方法としてはそれでいい、ということでした。
自分の納得できるもの、ということで。

で、自分に納得できる、その基準ですね。
ちょっと考えてみます。

前に書いたのですが、例えば平仮名がどうしても読めない子が入ってきます。
たぶんLDの疑いあり、という子でした。
描いた絵など見ると非常に高度なのですが、平仮名が読めるようにならない。
普通に教え、ほとんどの子は読めるようになります。
この普通が成り立つのは、柄谷の言う「話す−聞く」関係が成立しているからでしょう。
しかし、その子には普通では全く歯が立たない。
これは、僕が顕著に出会った、柄谷の言う「教える−学ぶ」関係だと思います。
(普通の中にも本当はあるのでしょうが)
ここで、「外部」だ、「他者」だ、と言ってすますわけにはいきません。
あの手この手で教えるのです。
ああ音節分解ができないのだ、とわかります。
その時、僕にとっても「音節分解」ということの意味の理解がかわります。
それならば、と様々な方法を考えます。あちこち情報を探します。
失敗の連続です。それでも自分の手持ちの知識も指導法は増えていきます。
そして、読めるときが来るのです。(来ないときももちろんあります。)
どうして読めるようになったのか、本当はよくわからないのです。
しかし、僕は何かを経験したことは確かです。
柄谷の論は極限の論理だと思います。
だから現実のどこにでもあることだけれど、現実のどこにもないことでもあります。
その子と僕は会話しながら、平仮名を教えるのです。
共有したコードをたくさんもっているのです。
そうした現実の中で「教える−学ぶ」関係にあります。
そんな「教える−学ぶ」関係を成立させる何か、これを求めているのかもしれません。
703おっさん:2007/07/10(火) 23:00:25 ID:hUcv1Arb
別の観点から考えて見ます。
僕は、次のような仕事がしたいと思っています。

「言葉に反応する子」を育てたいと思います。
・言葉に触発される子です。
 教師の命令とかによってではなく、作品の言葉に触れ動かされる子です。
・言葉によって感じ、想像し、考える子です。
 思考は重視しますが、全的な反応を求めたいと思います。
 茂木の「クオリア」が気になると以前書いたのもそのためです。
・自分の感じたこと、想像したこと、考えたことを表現する子です。
・他と交流し、自らの反応を豊かにする子です。

ここ2年ほど担任していないのですが、その前は4年ほど低学年を持っていました。
低学年の子が言葉に触発されるためには、基礎体力的なことばの力が必要です。
すらすら音読できるやすらすら書ける、人前で話せる聞こうとする、こうした力が必要です。
そうした基礎体力的な力の上に、運動能力的な力をつけなければなりません。
前に書いた「要約力」の前提になる力なんかそうしたものです。
また、作品への「書き込み」をさせます。その活動の中で、様々な反応の仕方を教えていきます。
表現的な音読や話し合いの仕方も教えます。
ほかにもありますが、とりあえずこれくらいで。
さらにゲームする力をつけてやりたいと思います。
学習したことを表現する場をつくります。

こうした仕事に役に立つものを求めているような気がします。
日本語や言語についての自分自身の理解を深め考えを確かにするもの。
教材の分析に役に立つもの。
子供たちの能力を考え学習活動を組織するために役に立つもの。
指導の具体的な方法を考える上で役に立つもの。
こうしたものでしょうか。
704おっさん:2007/07/10(火) 23:01:11 ID:hUcv1Arb
アカデミズムに対する偏見・・・ああ、これはコンプレックスですね。

>国語「教科書」の文法はどうでしょうか。
アカデミズムの欠落の例としてあげているのでしょうか?
橋本文法があり、山田文法があり、時枝文法があり・・・程度の知識しかありません。
時枝の「国語学原論」は読みました。
そして、僕には、三浦がおもしろいのです。
橋本の「駒のいななき」を青空文庫で読んでおもしろいな、と思って程度ですね。
三上さん「象は鼻が長い」というフレーズしか知らないかな。
まったくアカデミックではないですね。
現代の文法で、橋本らとは全く違ったまとまった体系というのはあるのですか?

今や柄谷は天皇なんですかぁ。
僕が読み始めた頃はむしろちんぴらに近かったような気がします。
かっこよかったですよ。
蓮実は詐欺師みたいでしたし。
「探求」以後は全然読んでいませんね。
705 ◆yk/JpL/Z9U :2007/07/10(火) 23:08:06 ID:/7O6tRLw
一つ重要なことを忘れていました、おっちゃん。

>左翼三浦は、時枝はもちろん、国粋主義者山田も、その学問は評価しています。

ハイデガーの仕事は評価するべきものはある。しかし、同時に彼の理論の本質には
ナチズムと交錯するべき部分はあるんですね。(と、柄谷からのパクリw)
山田の仕事に見るべきものがあったとしても、山田全体や他の部分の評価は基本的に
別です。

ニュートンは実は錬金術とかトンデモの論文の方が多い。
だからといって、彼の仕事のすべてが否定されません。
同時に万有引力の法則のように錬金術を評価できないわけです。

ま、それだけのことです。
同様な常識を「あ」の馬鹿にも適用することを提案します。

もちろん、あなたが彼をどう評価するのかも大きな関心事です。

「あ」の馬鹿は錬金術は当時の科学とかなんとか言うでしょうが。

それと、私に対しても遠まわしなことは無用です。
遠慮なくドンドン言ってください。あなたが理解できないのは、あなたの理解力や
無知のせいではなく、私に原因がある場合が多いと思います。そう感じたら、道徳なしに
そう発言していただけることを切に希望します。
706 ◆yk/JpL/Z9U :2007/07/10(火) 23:25:20 ID:/7O6tRLw
おっちゃん

柄谷の初期、「隠喩・・」「内省と遡行」あたりで評価はそういうものだったと
思います。宝島の現代思想入門(?)で触れてあって、そうなんだと思いました。
なお、「探求」以降をぜひお読みください。

「他者」とは向き合うことでしか到来しないと思います。
だから、「教えるー学ぶ」なのですね。単に異物とかそういうことではないという
意味を私は受け取りました。
交通が訪れても、やはりまだ「他者」としての理論的可能性があると思います。
柄谷のモデルはその可能性を表しているんではないでしょうか。

「教えるー学ぶ」という社会的役割が他者の到来だとも言えます。
従って、教えようとしない人間には他者はいない。おっちゃんの遭遇した、その子も
そういう意味において他者だったわけです。

関係性ということ。それ自体の問題ではないということ。そう思います。

>次のような仕事

方法(論)の伝授を重視するんですね、安心しました。やっぱりとも。
「力」とは学べる力です。


詐欺師蓮實は、実は大ボスになる予兆はありましたよ。
個人的には彼は大ボスになってからの方がいい仕事をした思います。
「反=日本語論」でもその萌芽は見えます。彼は実に論理的です。
彼はそこにおいて感性やらをすくいだします。
707名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/10(火) 23:28:18 ID:8rs9+BFH
>>705
まるで、薄氷の上で得意げに下手なダンスを踊っているようで、こっちがハラハラする。
それから、自惚れるな。

私も、おっさんが、あさんをどう評価するか興味があります。
708おっさん:2007/07/10(火) 23:57:41 ID:hUcv1Arb
蓮実と吉本の対談があるんですが、
吉本が蓮実の評論を胡散臭がるんです。
蓮実は、それに対して言うんですよね。
志賀や漱石を評論するのは本意ではなく、フローベールこそ自分の本当の仕事なんだ。
自分のフローベール研究を語り合えるのは世界で数人しかいない。
いつかその仕事を見てくれ。
そんなことを言ってたように思います。
蓮実のフローベール研究をわくわくして期待したのですが、
いつになっても出ないんですよね。
アカデミックな場では出たのかもしれませんが。

僕は、本当に理解していないと思うんです。
読んでてわかったという気のなりません。
でも、文体に慣れてきて、心地よくなってくると読めるんですね。
で、何を理解してたのかというと、自分でもよくわかりません。
最近は、廣松渉を読んでいます。
昔は退屈で読めなかったのですが、最近ちょっと快感なんです。
それでいて基本的な「対自」とか「即自」とかまだピンときません。
「向自」なんてのも出てきてなんじゃいな、と思いながら読んでいます。
茂木の「クオリア」に近い概念も廣松にはあります。
それもさきほどと関連して廣松を読む動機になっています。
30年前、構築する廣松はかっこ悪かったんですよね。
でも、今、それに惹かれているかもしれません。
猫さんの柄谷的な言説は昔馴染んだって感じなんですよね。
驚きはないんです。
ただ柄谷的な言説によって、何を見つめているのかは、よくわかりません。
興味があります。
また、僕よりずっと勉強しているみたいなので、
今の自分の位置を知るため、無知を補うため、とてもためになる気がします。

「あ」さん、おもしろいです。
僕にとっては腰が抜けるようなことを言ってくれます。
「他者」かもしれません。
つかもうとしてもなかなかつかめません。
一度「あ」的言説に正対してみようと思い、先ほどようなレスをしました。
小さな密度の濃い論を読んでみたいな、と思います。
709名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/11(水) 00:12:16 ID:MQ4ADHKI
比例区は『おすし』と書いて投票しよう
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/giin/1183859979/l50
710名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/11(水) 00:40:52 ID:+jvuYSCg
◆yk/JpL/Z9U の度々の「『あ』の馬鹿」との言い方をどう評価しますか。
是非、お聞きしたいです。
711名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/11(水) 00:41:55 ID:+jvuYSCg
>>710は、おっさんへの質問です。
712名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/11(水) 04:38:21 ID:HDIQAtXu
おっさんさんへ 

 道順の説明でいえば
「ここは○○です。左の道を300メートル進むと酒屋さんがあります。○○商店です。そこの角を右へ折れて
100メートル行くと大きな通りへ出ます。○○通りです。その通りを左に向かってまっすぐ進めばありますよ。」
という説明よりも
「左へ行って、○○商店で右に回って、○○通りに出て左まっすぐ」の方が<わかりやすい>ということです。

 日本人は論理的よりも合理的な説明を求めているといいなおした方がわかりやすいでしょうか。

行き方をわかりやすく知りたいというニーズに対して、行き方を正確に教えるサービスは非合理的です。

 「おーいお茶」という言説はその合理的なのです。論理的ではなくて。

 日本では論理的とはへたをすると、反論を許さないほど正確という意味になってしまいます。
本来は一貫した内容を、根拠を示して(つまり筋道)表現する。ぐらいのことなはずなのに。
そして、そのような筋道を使って表現するということは、形式論理に準拠することになります。

 ところが日常的思考としての形式論理というものが日本語には根付いていない。
その代わり合理的な考え方というものは根付いています。(日本人は非合理的だなんていう
話もあったけど、あれは大間違い。人のところを少し掃除しておくというのは実は社会的なニーズに対して
のとてもすぐれた解であった。その非合理的というの実は「非個人主義的」ということだったのだ。)

 日本人が説明に接する態度は、面白いか、役に立つかという態度なのです。説明とは、面白くするもの。
説明とは役に立つもの。というのが日本における説明の位置なのです。

 そこに、形式論理的な語りは必要でしょうか。そうであればあるほど、非合理になるのではないでしょうか。
受けてにとっては余計な情報がたくさんついてくる長い話になる傾向が出てきます。

 ですから、相手のニーズに応じて端的に話すということが必要になります。論理的であるよりは合理的で
ある方を優先しなければなりません。

 その上で説明というものが相手に納得させるという目的で行うなら、「相手に推論してもらうように」話すこと
がベストということになります。端的に結論を示しても「ああ、そう」なら合理的ではあるが、効果のない説明に
なってしまいます。

 私は、以上の点をもって説明というものは合理的であればよい。と考えます。

正しい説明というものを求められるとき初めて、論理的な説明の登場が合理的なのです。
そして、多くの入試問題で問われているのは<正しさ>だから<論理性>が問われているという、まさに合理的
な説明がなりたちます。

 入試の言語活動と日常の言語活動を直結するようなそんな非合理なことをしろという教師はどうかしています。

 大前提を失念しているとしか思えません。
 

 
713名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/11(水) 04:56:21 ID:HDIQAtXu
 >>705
 科学という定義がないんだから錬金術師でいいんだよ。藁。

 第一科学という別称をなぜ求めたのかといえば、錬金術のような「うさんくさいもの」ではない。という主張=プロパガンダ
だ。

 錬金術だからだめなのだ、というのは科学以降の言説であって、当時は錬金術とは、実験というものを繰り返して、自然の
原理をつかみ、その原理に則って行動すれば、必ず、望んだ結果が得られるという信仰のことだった。

 考えるだけの錬金術というものは存在しない。術なのだから。自然の原理と考えるものがアナロジーだったり、精神論だ
ったりすることもあったからおかしいだけ。

 物はみな同じ物でできてるという直感は、結局今も続いてる。

 鉛を金に変えること。(なぜ鉛なのか、多くの人は知ってるだろうか?鉄でもいいじゃないとか藁。)の可能性は証明されて
いる。同時にそんなことをする非合理さも。

 つまり、錬金術という発想は実に科学的だったのだ。錬金術師たちのしでかしたことが作り出した社会的文脈こそが科学に
よって破棄されただけだよ。
714名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/11(水) 05:00:22 ID:HDIQAtXu
あと補足。

 ブリコラージュ。
あり合わせの道具や材料で物を作ること。日曜大工。器用仕事。転じて、持ち合わせているもので、現状を切り抜けること。

◆英語のdo-it-yourselfにあたる。

なのでそこのところはあんまり意味を広げないでね。
715名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/11(水) 05:04:24 ID:zSnGfuWp


   た だ い ま、 お っ さ ん 争 奪 戦
716名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/11(水) 05:52:17 ID:jpLz7oOk
争奪 するのもされるのも
参加できない

奴もいる
717おっさん
>710
かつて教室では必ず子供を「〜さん(くん)」と呼んでいました。
これは向山の影響です。
また、宇佐美寛の影響で、
論と人を区別し、論は批判しても人はしない、これを心がけていました。
かつては教条的にそうしていたのです。
今は、基本的にはそうしよう、くらいです。
ことばは、意図や状況、関係性などによって違ってくるものだと思います。
それらに無自覚にいつでも乱暴では困りますが、
それらを配慮して様々な言い方を使える、時には乱暴な言い方も使える、
その方がいいと今は思っています。

論文など、状況などに依存しない、影響されない、透明性の高いことばが必要なこともありますが、
ここは、そうしたことばに限定される場ではないと思います。

猫さんは、態度表明しているので、無自覚にそうしているのではなく、意図的なことなのでしょう。
それに対して不快に思う第3者がいることもきっと織り込み済みなのでしょう。
僕も、猫さん的な言い合いがスタンダードになっている場を経験したことがあります。
算数の研究者グループでしたが、相手を叩く、否定する、それがルールになっていました。
僕にはあんまり肌に合わないなと感じましたが、それはそれでおもしろい場でした。

二人のことはまだよくわからないのですが、
僕は不快というより漫才を見ているような気がします。
いくら猫さんでもいきなり「馬鹿」ではなかったと思います。
それが言えるだけの堅い絆が二人の長い歴史の中で築かれたのかな、なんて。

なんかいつも「足し算」的なレスになってしまっているような気がしますが、
答えになっているでしょうか。

712は、おもしろそうなので、じっくり考えさせてください。

「ブリコラージュ」について
僕の知識では、レヴィ・ストロースが近代的な「作る」思想に対比させた「野生の思考」だったと思います。
かつては近代的な知を批判、超克する文脈で使用される現代思想の流行語のひとつでした。
今では一般的な言葉になったのかもしれませんが、
僕にとっては、術語的な意味合いを脱色して安易に使うのがためらわれる言葉です。
やはりレヴィ・ストロースを踏まえないと使えないかなと思ってしまいます。
自分にはまだ使いこなせない言葉のような気がします。
僕には、「日曜大工」とイコールにはできません。
僕の頭の中にある概念のシステムと「あ」さんのそれとがずいぶん違うのかもしれません。
それで、僕は腰が抜けそうになってしまうのかな。