電源・SPケーブル等単なる思い込みだった40MkU
>>148 結局言っていることは
>>13な訳だ。ブラインドテストはテストというだけで心理状態が変わってしまうから判別出来なくてもしょうがないと。
アホらしい。練習の時と本番の時とでは心理条件は全く違う。
当たり前のことだ。本番で9秒58を出さなければ、「本番は練習時と心理状態が違う。練習の時は9秒40で走れる」と幾ら騒いでも9秒40で走れたとは見做されない。
それなら練習で9秒40を出すところを見せてくれと言ったら、「人が見ていたらそれは本番だから練習とは違う心理状態になってしまう」と、永遠に本番を回避する言い訳が出される。
そもそも、本番で出来なかったら「出来なかった」という結果しか見出せないという当たり前のことがわからないのかね。
駿台の東大模試でずっと1番を取って来た。だが、本番の入試で落ちた。それは、「東大生ではない」という結果を認定して構わない。
ブラインドテストで聞き分けが出来なかったら「ケーブルの音の差は無い」で構わない。
だが、別にブラインドテストで聞き分けが出来るできないに拘らず、「ケーブルの音の差は無い」で構わないのだ。
それは「この男はピアノが弾けない」という前提で構わないという論理で説明済み。
>ここにはケーブルで音が違って聞こえる人間の存在が欠落している。
というのは丸で的外れ。メタファーを理解出来るのは認知能力の一つ。その認知能力が欠けているとしか言い様が無い。
「この男がピアノを弾いているのを見た」という人間が「ケーブルで音が違って聞こえる」人間に等輩する。
「この男がピアノを弾いているのを見た」という人間が居ても、ピアノの前に座った男が何も弾かなければ、前提「この男はピアノは弾けない」が覆されないという当たり前のことが理解出来ないのか?
今問題になっているのは「この男がピアノを弾いているのを見た」でもいいし、「私はピアノが弾ける」でもいい、それが嘘か本当かを判別する、ということである。
「ピアノを弾いてみせる」、これがあれば、前提「この男はピアノが弾けない」を覆せる。
では、「ケーブルで音が違って聞こえる」は、どうすれば前提「ケーブルの音の差を聞き分けられる人間は居ない」を覆せるのか。
ブラインドテストによる他ないではないか。
人間は、ホワイトノイズの中からも曲を聞き出す錯覚能力があることは証明されている。
ホワイトノイズを聞かせている時に「桜、桜」というメロディーが聞こえませんか?と問うと、「あ、聞こえる、聞こえる、桜の歌が」となるのである。
実際には只のホワイトノイズだけを聞かせているにも拘らず。
これを以って、「桜が聞こえたのだから桜が鳴らされていた」、と強弁するのが「ケーブルによって音が変わった」という主張と相似をなす。
これが相似となっていることすら理解出来ないかね?
つまり、
>ピアノ男については、弾いているのを見たことがある人がいる以上は、それが幻覚であることがはっきりしていない限り、「この男はピアノが弾けない」
>という判断が「前提」になりようがないのは明らかだろう。
こそが、全くの明らかな誤りであることがわかるだろう。
「弾いているのを見たことがある」ことが本当かどうかは、ピアノ男がピアノを弾くかどうかで判断され、ピアノが弾かれるまでは前提「この男はピアノが弾けない」は成立したままなのだ。
簡単な論理だが、これすら理解出来ないからピアノ男がメタファーとして相似を成していることが理解出来ないのだよ。
「弾いているのを見たことがある人がいる以上は」というのは「雪男と会ったことことがあるという人がいる以上は」と相似を成す。この相似は理解出来るかな?
「雪男と会ったことのある人がいる以上は、『雪男がいない』は前提にはならない」と言っている訳だ。
このスレをよく読んでくれているかな?
possibilityを主張するのであれば、雪男はいないとは言えない。だが、学問では(法曹では、と言い換えてもいい)、雪男はいないという前提で構わない。
何故なら学問はpossibilityではなく、probabilityで成り立っているからだ。
ケーブルの音の差を聞き分け出来る人間が現れるまでは、「人間はケーブルの音の差を知覚出来ない」で構わない。
だからこそ、ランディ財団は100万ドルを用意しているのではないか。
まず、肯定派がアホなところは、「人間は100mを5秒では走れる」ということと「ケーブルの音の差が聞き分けられる」ということが相似であることを理解出来ないことである。
「1km先に落とした針の音が聞こえた」「象の体重を計っているときに象に蝿がとまったのがわかった」etc.皆さんアホな肯定派の為に色々とメタファーを出してくれている。
今は超人探しだ。雪男探しと相似を成す。これも理解出来ないかな?
「ケーブルの音の差が聞き分けられる」という超人を探しているのだ。
アホな肯定派は誰も彼もが自分は超人だと言う。曰く、ケーブルを嫁が踏んだのがわかった。ケーブルの下に木を置くと音が柔らかくなり、金属を置くと硬くなる。6Nと7Nでは音が違う。
否定派は自分は普通の人間だと言う。すると
>>159のようなバカが「普通の人間であることを証明しろ」と言う。
一般に「事実の有無の証明が問題になる場合、ある事実がある(積極的事実)と主張する側に当該事実の存在について証明すべきであるとされる」。
でないと悪魔の証明になる。この一般常識を肯定派は何故無視しようとし続けるのか。
「人間の知覚の機序が未だ解明されていない。故にケーブルの音の差が知覚出来ることを否定出来ない」。
これは端的にオカルトである。
因果関係が証明出来なければ科学ではない。科学と言うのはいい加減に見えて、その運用は厳密である。
上に「法曹では」と書いたこともそのことに由来する。
水俣病に於いては、チッソの廃液が原因であると大方の予想は付いていたが、メチル水銀と病気との因果関係が証明されるまでは廃液は流され続けた。
ケーブルで音が変わるというのなら、その機序を明らかにすればいいのであって(cf.前スレ
>>950)、人間の聴覚の機序が明らかでないという所にケーブルで音が変わる原因を求めるのであるならば、それは単なる脳内妄想である。
完璧な実験が実現出来ないから証明も出来ないという論も何ら意味を成さない。
要は、人間にとって役に立つか立たないかが問題であって、簡単な実験であっても「ケーブルの音の差は人間は知覚出来ない」という結果が出れば、役に立つ。
一方有意差が出た場合、「ケーブルの音の差を人間が知覚出来る」という結果はどうやっても導出されず、「ケーブルの音の差を聞き分けられる超人珍怪がいた」という結論を招くに過ぎない。
そしてこれは水俣病と同様、その因果関係を明らかにしなければ何の役にも立たない。(というより、現状ではケーブル詐欺が罷り通っている惨状である)
音を変えるのなら、エフェクタを使用すればよいだけのことであって、ケーブルで音を変える必要は全く無い。つまり、役に立たない。
役に立つとしたら、ABCDEというケーブルをその音色ごとに使い分ける、ということしかありえないのだが、そもそも
>>148は
>>10にある通り、ケーブルの音色を使い分けるという肯定派の嘘は認めてしまっている。