海岸線については江戸初期までは倉敷の羽島や四十瀬のあたりまで海だったってね。
吉備路を車で走ると何となくここは古代から陸だったんだろうなは分かるね。
そうか奈良盆地を考えると何となく見えてきそうな見えなさそうな・・・。
うーむ、やっぱり古代地形図、できれば縄文〜弥生にかけて海面上昇前後の
推定地形図みたいなものはどっかの本にでも収録されてないのかなぁ。
前に岡大の考古学研究室のサイトも見てみたのだが、地図ソフトの紹介はあった
ものの肝心のデータがなかったような気が・・・。見落とし?。
漏れ古事記しか読んどりゃーせんけど、吉備の話は温羅の乱といい、仁徳天皇
(だったよな?)の愛人の話といい、それから吉備と組んで出雲を討った話といい
結構書かれてるんだけど、なにかしらの意図を感じてしまうんだよね。
吉備には崇神天皇が四道将軍の一人として吉備津彦が派遣された。
この崇神天皇は、ただの名をミマキイリヒコ
この名前は初代天皇とされる神武天皇と同じ名前でね。
崇神天皇=神武天皇との説があるくらい、その存在に意義がある天皇だ。
吉備津彦は、その崇神天皇の皇子とされている。
天皇に後世従った地方の氏族の王は、全て天皇家から分かれた分家を称していたから
本当に吉備津彦が天皇の皇子であったか疑問だが、少なくともきわめて有力な豪族が吉備にいた可能性が高い
この吉備は、当時、大和朝廷の最大の対立勢力である出雲王朝と真っ向から対峙する位置づけにあった国であり。
瀬戸内は大陸からの交易品が通る重要な海の拠点だった。
それだけに吉備には大和朝廷に従う地方豪族の中でも極めて有力な豪族の本拠地だったのだろう
記紀の時代、殿上貴族を出した氏族は3桁に届くくらい出てる。
大政奉還のときの公家は、4氏族。4氏族のうち3氏族は記紀の時代よりも
あとに皇室から分かれたでたものなので、貴族と皇族とあわせて2氏族。
大伴氏や蘇我氏や紀氏や安倍氏や物部氏なんかは殿上貴族としては続かなかったが、
母系を介して、明治まで残った藤原氏や皇族に子孫を残している。
17世紀後半〜18世紀前半、競馬が盛んになりはじめた頃、ヨーロッパの競走馬を
改良するために中近東から輸入された種牡馬は判っているだけで約200。
この中で父系が残っているのは3。反対側からの視点でいうと、この父系の残った
3頭の種牡馬を「三大始祖馬」とか「三大根幹種牡馬」とかいうことは、競馬の
世界でよく知られているところ。
やはり、この時代、中近東から輸入された種牡馬も、ヨーロッパ在来の軽騎種も、
北アフリカや中央アジアから連れてきた牡種馬も、沢山(少なくとも数十万)
あってそれぞれに子孫を現代の競馬に伝えているんだが、牡→牡だけで連続して
いないため、三大始祖種牡馬になれなかった。
これは、父系の例で、父系の方は物理的な理由から拡散・消滅が早いため、日本の
殿上貴族なら1500年で100→2、競馬の馬なら数万→3という減り方をするが、
母系だって同じような形で減少する。
類はアフリカにかつていた一人の女性に帰着する、その女性の生きた時代、やはり、
多数の女性があり、それぞれに子孫を残し、その多くが現代に血脈を繋いでいる。
娘→母ですべて辿ることができるのはアフリカの一人として、「母→男児」という
形で子孫を残しミトコンドリア以外の遺伝要素を後世に伝えた「イブ」にならなかった
岡山県灘崎町の彦崎貝塚で、約6000年前(縄文時代前期)の地層から、
稲のプラント・オパール(細胞化石)が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期のものとしては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石の
量が大量で、小麦などのプラント・オパールも見つかったことから、町教委は
「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。しかし、
縄文時代晩期に大陸から伝わったとされるわが国稲作の起源の定説を約3000年
以上もさかのぼることになり、新たな起源論争が起こりそうだ。
史跡整備に伴って発掘した際に採取した土を分析したところ、地下2・5メートル
の土壌から、土1グラム当たり約2―3000個に達する稲のプラント・オパールが
見つかった。これは朝寝鼻貝塚の数千倍の量に当たる。
ペルーの北に位置するエクアドルのバルディビア文化からは、高い完成度を持つ
紀元前200年以上前の土器が出土している。興味深いことにこの土器は、日本の
縄文土器、その中でも特に九州で出土している土器との類似性が強く、その起源を
縄文時代に求める研究者もいる。この土器を発見したエクアドル出身のエミリア・
エストラーダ氏は日本の縄文土器との類似性を直感し、米国ペンシルバニア大学の
考古学者・エヴァンズ夫妻へ鑑定を依頼した。1965年のスミソニアン博物館の
学術報告書「エクアドル沿岸部の早期形成時代〜バルディビアとマチャリラ期〜」
で世に出たが、縄文と南米をつなぐ大胆な発想は注目を集めたものの学会もこの説を
容易に受け入れようとはしなかった。これらの土器が、その水準に至るまでの発掘途上
の土器を伴わず、突如として技術的に高度ものが出現していることから、ほかの
地域から持ち込まれた疑いが否定できないからである。
BC1万年以降は縄文時代です。縄文土器に似た土器が中国の北方から出土するので
縄文人も北方から来たようですが、氷河期が終りサハリンから歩いて来ることは
不可能なので丸木船で来たようです。エクアドルからも縄文土器が出土することは有名で、
その出土地域に住む人は他の南米原住民とはちょっと異質であるとも言われ、
魏志倭人伝に「女王国から南四千余里、朱儒国に至る。朱儒国から東南へ船で行くこと1年、
裸国・黒歯国に至る。使訳の伝えるところでは、ここで終極である。」とありますが、
朱儒国がフィリピン(沖縄の漁民は古来からフィリピンまで簡単に行き来していました)、
裸国・黒歯国がエクアドルであり、しかも船が難破して行ったきりになったのではなく、
使訳(通訳)が行き来して現地の様子もわかっていたのですからエクアドルと邪馬台国とは
往来があったことになるし、終極というのですからエクアドルも邪馬台国を盟主とする
倭国の領土です。
クローヴィス文化と土器はとくに関係ないでしょう。
クローヴィス文化と近い関係にありそうなのが、クラヴェット文化
で、これが、ロシアとか黒海沿岸あたり発祥で、ヨーロッパとシベリア
に拡散し、シベリアに行った部分の一部がアメリカに到達したのでは
という説がある程度です。クラヴェット文化はすばらしい後期旧石器
文化です。
土器はどちらかというと南方的です。ただ、日本あたりは、両者(北
方系も南方系も)が入ってくるし、そのまま、アメリカまで到達した
ので、日本にクラヴェット文化などは入ってきていませんが、もしか
したら、日本から出ていった人々とクラヴェット文化をもつ人々など
がベーリング海で合流したのでは、と思ったりします。
現代のエチオピア人は、白人系+南方アジア系です。もともと、
アラビア半島に住んでいたのが、紀元前後か結構新しい時期にアフリカ
に入ったので、生粋のアフリカ人ではありません。黒いのはもともと
そこにいたアフリカ系の人々と混ざった結果でしょう。
アフリカのサハラ砂漠より北の地中海沿岸は、アフリカを出た人々が
いったん中近東からヨーロッパに入ったあと、そこからアフリカ北部
に再度拡散した結果で、サハラ砂漠より南の人々との交流はほとんど
ありませんでした。系統としても全く違います。ですから、一応、
北アフリカ地中海沿岸は、白人系です。
本当のアフリカ人は、赤道より南のほう、あるいは西のほうのサハラ
砂漠より南の地域です。さらに南で、南アになると、今度は、ブッシュ
マン、ホッテントットなど、もっと古い非黒人系の民族がいます
クロマニョン人っていうのは、194に書いた、アフリカを出て
北回りに中近東、さらに、黒海、カスピ海沿岸に入った一派の
うちの、西に向かったものだとされています。アナトリアとか、
黒海沿岸あたりで、オーリニャック文化をもつに至り、その文化
をもって、ヨーロッパに入り込みました。4万年前ごろです。
最初のクロマニョン人は、実質ほとんど褐色の肌をしたかなり、
アフリカ人に近い系統だとされています。背も高く、ひょろひょろ
で、南方的な骨格でした。ただ、この時期、ホモ・サピエンスは、
どこの人も、みな肌の黒いか褐色で、ひょろひょろしていて、
かつ鼻が大きいような顔だったとか。
クロマニョン人といっても系統はいろいろあって、もっとも古い
のが、4万年。これが、オーリニャック文化のクロマニョン人です。
つづいて、クラヴェット文化をもつクロマニョン人がヨーロッパに
入り込みます。しかし、クラヴェット文化は、東へも広がり、
ヨーロッパでは、2万5千年前ごろに西の端まで達する文化で、その
後、他の文化に変化していきます(マグダレニアンとかソリュートレ
とか)。ところが、東のほうでは、ウラルからアルタイ、さらに、
シベリアまでクラヴェット文化の系統のものが栄え、そのまま、
アメリカ大陸まで向かったようです。
ヨーロッパには、さらにいろいろな人々がなんどとなく、東から入り
西に向かうというパターンが続きます。
ウラル、アルタイ、シベリアに向かったクラヴェット文化の担い手を
クロマニョン人というかどうかはわかりません。年代は、2万年前
から1万8千年前ごろでしょうか。
シベリアあたりに入った段階では、他のアジア系の人々も混成して
いたと思われます。
言語については、わからないことだらけ。
言語を話すためには、ハードウェアとしていろいろ対応しないと
いけないことがある。考古学的に化石からわかりやすいのは
1)肺の呼吸を口や舌の運動と連動させるための脊髄の太い神経
2)喉頭の位置をさげて、音の共鳴でいろいろな音色の声がだせる
ようにする。
で、1)については、160万年前のナリオコトメボーイ(ホモ・
エルガスター)では未発達で、5万年前のネアンデルタール人は、
十分に発達しているので、発達が始まった時期は、50万年以上
前だろうってことになる。
ついで、2)についても、ホモ・エレクトス段階(100万年前
以降)からハイデルベルゲンシス段階(50万年前ごろ)にかけて、
頭蓋骨底部の屈曲が強くなり、喉頭の位置が下がったことがわかる。
ネアンデルタール人は逆に短くなっているので、母音があまり発音
できなかったようだが、これは、彼らが寒いところにいたことと
関係ありそうだ。
音声によるコミュニケーションは、150万年前ごろからかなり本格
化し、それにあわせて、肺の神経の発達と、喉頭部の発達があった。
ネアンデルタール人もごく普通にしゃべっていたが、たぶん、子音
ばっかりみたいな言語だったろうね。寒いからしょうがない。
舌の骨(舌骨)は、残りにくいがネアンデルタール人は現代人と同じ
形をしているので、舌のコントロールも十分だ。母音は少ないが、
かなり巧みにしゃべっていただろう。
さて、それが、旧石器時代の状況だ。しかし、新石器時代
になって、農耕が始まると、定住生活とともに人口爆発
が起こる。理由は簡単で、移動生活をしている旧石器時代
の人々は、子供が親と歩けるようになる6歳ぐらいになる
まで、女性は次の子供を作らない。しかも、初潮年齢も
18歳くらいで遅いから、女性は、生涯で、3人程度の
子供しかもたない。乳幼児死亡率など考えれば、3人の
うち2人くらいしか育たないということで、人口は一定だ。
けれども、定住すると、いきなり人口爆発が起こる。
毎年子供を産んだりできる。かといって、農業では、
収穫量をすぐに増やすこともできないから、圧倒的な飢餓
状態が起こる。結果として、新石器時代に入ると、人々は
体格も貧弱になり、脳容積もどんどん小さくなり、って
ことになる。しかも、文化的にも石器技術などはあきらかに
退化する。でも狩猟生活には戻れない。おそらく初期農業
のころには、ものすごい悲惨な生活があったと思う。
で、農民は、人口爆発すると、近隣の未開拓の地にどんどん
でかけて、拡散し、もとの地域の言語を保持したまま、どんどん
広がる。これが、大きな語族が形成された理由だろうという。
現在人口の多い言語は、ほとんどが、農耕を始めた人々の言語
だ。狩猟採集民は家族ごとに言語がちがっていてもよい。
農耕民は拡散する。征服者になることもある。さらにそこに、
遊牧民が現れる。それで、言語がさらに拡散して、帝国が生まれる。