パチンコ業界の内部告発

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161(`・ω・´)
これからお話する内容は、内部告発文書です。
証拠となるものは公的な書類や経過の推移、公式に発表された
数字などありますが、すべて揃っているわけではありません。
また、猜疑心で満ちた方たちなので、公的な機関との接触の証拠は
当然のことながら処分されています。
このように匿名で公表することを了承ねがいます。
また文中には伏せ字がありますが、現在の状況によりせざるを得ません。
162(`・ω・´):03/03/05 09:00
1. 上場

1998年 株式公開準備室が設置される。
株式会社マルハン、韓昌祐会長直属の組織である。
韓会長は東京株式市場に店頭公開することを
強く希望しており、次のように述べている。
「メーカーばかり公開できてホールが上場できないのはおかしい。
メーカー優遇は差別に等しい。ホールあってのメーカーということを
知らしめるのは、うちのマルハンを店頭公開しなければならない。」
マルハン京都本社と証券会社・日本証券業協会の往復が続く。
しかし、これ以降さまざまな出来事が起こる。

当時、マルハンの経営は厳しい状況であった。
大阪、愛知、静岡、神奈川、東京とバブル崩壊で
下落した土地を買いあさり、大型店の展開を広げていった。
しかし、急に銀行の貸し渋りで、巨額の設備投資と金利負担で
経営内容は悪化の一途をたどり上場どころではなかった。
ところが韓会長は、マルハンの店頭公開で得られる創業者利益を
もってこの経営危機を打開しようとした。
しかし事は運ばず、その執着心は社員へと向けられるのであった。
「売上げも規模も十分に基準を満たしている。それができなないのは
お前たちのせいだ。自分が韓国人であるから差別しているのではないか。
徹底的に調査をして証拠を持ってこい。」と厳しく叱咤されている。
野村・勧角(当時)・国際証券、日本証券業協会審査部・調査部へ
何度も足を運んだが進展は見られなかった。
韓会長は社員の上場意欲がないと思い、持ち株制度を強調していたが
じつのところ、株は韓会長と夫人、三男の杉本卓三名義で親族以外では
鈴木社長、藤原専務がそれぞれ1000株しか持っていなかった。
内勤社員たちは韓会長の話が嘘であることをすぐに察知した。
163(`・ω・´):03/03/05 09:01
韓会長は上場に関して多くの人に相談している。
平和の中島会長、息子の中島潤副社長(当時)、アルゼの岡田社長、
高砂の濱野会長、京セラの役員専務、自民党衆議院議員の伊吹文明氏、
自民党衆議院議員N氏、N氏事務所の井嶋氏。
これらの方々を通じ、大蔵省や日本証券業協会の壁を越えて、
店頭公開を実現しようとした。
しかし、時間と資金だけを浪費し経営は好転しなかった。

2. 出世払い

韓会長は月に一度は韓国へ里帰りしていた。
しかし理由はそれだけではなかった。
伊藤忠商事本社イケダ部長と駐韓ソウル支店長と共に
新韓銀行本店、新韓生命保険本社へ通った。
なぜ韓国マネーとつながりがあるか?
韓会長の夫人は韓国の金泳三前大統領と親族になる。
この話し合いは詐欺のような資金調達であった。

「マルハンの店頭公開利益を見込み、第三国経由で
資金調達をする。」
その役目を買って出たのが先のメンバーである。
新韓銀行と新韓生命保険が伊藤忠との三角取引で
マルハンへ迂回するというもの。中国も関わっているらしいが
詳細は不明なままである。
金額は具体的に知らされていた。1回目が800億円、
2回目が5〜600億円というものであった。
164(`・ω・´):03/03/05 09:03
1999年夏までに韓会長は政治家へのばらまき、
証券会社・日本証券業協会、関係者へ多額の接待を
行なったが効果はなく、韓会長が切望している株式公開が
難航した。この時期いらだちも頂点に達し、社員へもかなり
厳しくあたっている。
「人種差別はないか。あれば日韓問題にして先生に国会から
圧力をかけてもらう。」と、国籍のコンプレックスともとれる
感情を表わしている。
なぜこれほどまでして上場できないのか?
見解はこうである。
「ホールの株式公開は時機尚早である。営業そのものが
ギャンブル性と射幸心を煽ることで成立している。
社会信用度も低く脱税が目立つうえに社会貢献度も
低い業種である。風俗営業法の枠内にあり安定度と
イメージが悪いので上場が難しい。」
しかしマザーズやナスダックのような新興市場の登場で
基準にも変化が出てきた。
係争・訴訟中の問題さえなければ公開の許可を認める。
という内容だ。
しかし、2000年10月現在、大阪・静岡等で裁判係争中である。
165(`・ω・´):03/03/05 09:14
3. 新たな

1999年マルハンは大阪のS市に出店しようしていた。
S市警察署の副署長に会い挨拶をしたあと、営業許可を
取るため保安課に出向いた。
課長と係長は「いきなり大型店舗それも800台という営業許可は
出せない。これだけ大きいと所轄から許可は出しづらい。本部から
指令があれば別だが、慎重に対処するので時間をくれ。」
この時の実行指揮は藤原専務が、マルハン本社では工藤部長代理が
担当していた。
いままでこの2人で各地のオープンをスムーズに行なってきたが、
今回これほど難航するとは思ってもいなかった。
1999年5月のGWにオープン予定が7月、9月と日ごと延期に
なった。
原因は営業許可が下りなかったことである。
 
すぐにN氏事務所へ赴き、井嶋氏に善処を依頼した。
2日後、警察本部へ行くとそこにはマルハン東大阪店長が
待機していた。藤原専務と店長は警察本部で陳情した後に
今度は毎日新聞社の和賀井編集委員と会った。
和賀井氏は京都へちょくちょく行っては韓会長や藤原専務が
接待をした。
 
和賀井氏はマルハン側に警察本部幹部や府会議員、S市市長を
引き合わせた。また、警察まわりの記者をマルハンT市店に
行かせたりした。
韓会長は政治家を、藤原専務と工藤部長代理は
警察などの工作を分担していた。
166(`・ω・´):03/03/05 09:31
最大の障害は隣接地に診療所が建設されることであった。
興信所や警察OBを使い徹底的に調査する一方で、
裁判所に異議を申し立て、両面で一気に解決するつもりであった。
しかし、警察が許可を出さないので進まず、マスコミや政治家を
使い早く決着しようとしたのである。
10月の会議でも「実力行使と抱き込み工作で11月には
許可を取れ。」との韓会長の指示でした。
マルハンT市店を前線本部にし、警察本部、S市警察、
大阪府庁、S市市役所へ営業許可の催促を行なった。
この時に和賀井編集委員がマルハンの意向を汲みTBSを動かし、
反病院キャンペーンの番組を制作し放映した。
警察は「タマゴが先かニワトリが先かが問題であって診療所と
合意があれば心配はない。警察は民事不介入だから、これ以上の
便宜ははかれない。」と。しかし、韓会長や藤原専務はメンツに
かけて「強行突破」の一言だけであった。
 
1999年12月、歳末営業会議で9月期決算の報告があった。
売上げ目標2500億円に対し、2370億円と下回った。
原因はS市店であると考えた。
韓会長と藤原専務はS市店専従班につぎのように言った。
「手段を選ばず許可を取れ。忘年会シーズンだから警察への
接待も目立たないから攻勢をかけろ。X’masプレゼントやモチ代の
名目で実弾を使え。許可さえ取れば安いものだ。この機を逃せば
来年の春になってもオープンできない。一切の責任は個々に
まかせる。会社は上場前なのでイメージは落としたくないので
諸君の愛社精神に期待する。」
ついに社員の人柱へと発展したのである。