>>341 >捏造歴史を正すにはこの根本原因を明らかにしなければならない。
ではこの続き
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002.03.07 韓国中央日報記事より抜粋 【コラム】民族と親日 姜偉錫(月刊エマージ編集人)
日帝が朝鮮を併合した際、朝鮮にはこの併合を恥じる主体の民族意識がなかった。
民族は民族意識と同じだ。したがって朝鮮には「民族」がなかった。
李完用(イ・ワンヨン)らが「売国」した朝鮮には主権と領土はあったが、
自らを国民だと意識してその主権と領土が自分たちのものだと主張する民族がなかった。
王と両班のものとしての朝鮮朝の主権は、韓日合併前、既にほとんど自滅していた。
外勢との争いに敗れて滅亡したのではない。
李完用らが「売国」したというのは誇張された修辞である。
争いは清国、日本、ロシアという外勢の間で、無主物となった朝鮮の主権を先取りしようして行われた。
親日派、親ロ派、親清派は名前を付け替えた四色党派の変種にすぎないと見るのがいっそのこと適切でないだろうか。
日本が朝鮮の主人となった後、親日派という朝鮮のエリートは老論の世の中を継承しただけだ。
滅亡した朝鮮朝に忠誠だった「臣下」を民族主義者だったということはできない。
民族は外部的には他の民族との境界ないし葛藤、内部的には民族主権という2つの側面をたどって意識化される。
朝鮮王朝のように「民」には垂直的に捧げる忠誠だけがあり、
水平化された自由と人権がない国家では、民族主権がないため、国家があっても民族意識はあり得ない。
さらに自由と民主主義がない国の民族意識は虚偽意識(false conciousness)でしかない。
日本人は日帝が韓国に鉄道と学校を建設したことを誇りに思っている。
ウォン・イルファン(H.B.アンダーウッド)教授は、日帝が韓国に及ぼした功労は鉄道や学校の建設ではなく両班階級の破壊だと話す。
驚くべき洞察力だ。
しかしおそらく日帝のもっと大きな功労は、たとえこれを感謝することはできないとしても、
他民族による支配という苦痛と葛藤を通じて韓国人に民族意識を芽生えさせてくれたことではなかろうか。
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>>352 >しかしおそらく日帝のもっと大きな功労は、たとえこれを感謝することはできないとしても、
>他民族による支配という苦痛と葛藤を通じて韓国人に民族意識を芽生えさせてくれたことではなかろうか
ここの部分はおかしい。
「民族意識」が無かったのだから「他民族支配」に苦痛なんて起こらない。
日本が学校を建てて、朝鮮の歴史などを教える過程で民族意識が芽生えていったのだ。
さて、民族意識がこのような状態だったので、併合当日の状況も推察できるだろう。
朝鮮各地で大争乱など起こるわけない。
>>353 >朝鮮各地で大争乱など起こるわけない。
韓国日報(韓国語)(2007/08/28 18:00)
http://news.hankooki.com/lpage/opinion/200708/h2007082818000124390.htm 1910年8月 22日、大韓帝国純宗皇帝が臨席した形式的な御前会議で、
総理大臣李完用(イ・ワニョン)は朝鮮と日本の強制併合案を可決させた。
日帝はこの事実を1週間も極秘にして
おき、8月29日に純宗皇帝の玉璽を捺印させて併合条約を布告した。
庚戌の年に起きた恥辱ということで「庚戌国恥」と呼ばれる。
97年前のことだ。この呆れた知らせを聞いて、錦山郡守の洪範植(ホン・ボムシク)は山に登って首を吊って自決し、
梅泉黄ヒョン(訳注:「ヒョン」は王へんに玄)は「絶命詩」を残して毒を仰ぎ殉国した。その後も幾多
の憂国志士が自決の道を選んだ。
今まで、教科書でそう学んだ。このため、当時の全朝鮮人が当然に悲痛な思いで嘆いたと
思っていた。ところが、必ずしもそうではなかったようだ。
3・1万歳義挙の際に民族代表33人中の1人として活動し、
後に主張を変えた崔麟(チェ・リン)は、韓日併合が公布されたその日の鐘路通り(訳注:京城の中心街)の
朝鮮人らはまるで「何事も無かったかのように」賑やかに商売をしたり飲食する「日常」を失わなかった、と述
べている。
これを信じがたいと思ったある歴史研究者は、「俄かには理解できない。もしかしたらこの
日は29日ではなく、李完用と寺内正毅との間で秘密裡に条約が締結された22日の風景
なのかもしれない」と述べた。
(続く)
>>354 (続き)
しかし、崔麟の記録を裏付ける主張がいくつも出ている。
中国の知識人である梁啓超は、
1910年9月に書いた文章の中で、合併条約発表をめぐって周辺国の人々は彼らのために
涙を堪えられないのに、
当の朝鮮人たちは楽しそうにしており、高位の官吏らは毎日、
新時代での栄爵を得ようと嬉々として奔走するだけだった、と主張している。
信じがたい言葉だ。ただ、当時の朝鮮人たちが「日常」を失わなかったという点は納得せ
ねばならないようだ。実際、8月29日当日は意外に平穏で、反対デモも全く無かったという。
当時の朝鮮民衆は既に諦めの知恵を持っていたのかもしれない。
韓国日報(韓国語)(2007/08/28 18:00)
http://news.hankooki.com/lpage/opinion/200708/h2007082818000124390.htm
>当時の朝鮮民衆は既に諦めの知恵を持っていたのかもしれない。
それは違う。民族意識(=民族)が無かったのだ。
現在の韓国人達が持っている過度の民族主義が当時にもあったと思う事、
それが韓国人達の捏造歴史の種であり、被害者である我々日本人からすれば
捏造歴史を受け入れる素地になった。
つまり民族意識(=民族)が無くて抵抗しなかったのに、
「抵抗しなかったのは(現在の韓国人の激しい民族意識を当時の人々にも投影して)凄まじい弾圧をしたからだ」となり、
それに合わせるように嘘の歴史が作られていったという事。
これが捏造歴史が大きくなっていった背景である。
ではあの激動の時代、民族意識が生まれなかったのはどうしてだろうか?
日本の場合はどうだったか?
開国前の日本人は自らを「日本民族(大和民族)」として意識してわけではなく、
開国前の帰属意識はそれぞれの藩にあった。
しかし外国の脅威にさらされた事で、天皇を中心として日本の民族意識が芽生え、
しかもその脅威に比例(対応)する形で早く強く意識された。
朝鮮の場合も似たような状況だったのにどうしてそうならなかったのか?
その原因は奴婢制度(身分制度)にあった。
併合前の1894年、朝鮮の改革(甲午改革)を指導していた日本によって
奴婢解放(身分制度廃止)が行われた。
朝鮮の身分制度を、日本のそれと同じように捉えている者がいるがそれは違う。
奴婢は品物のように売買・相続・譲与の対象であった階級であり、日本にはそんな
階級は無かった。