【村田亙】専修大学ラグビー部復活へ

このエントリーをはてなブックマークに追加
273名無し for all, all for 名無し
村田 亙 (福岡市城南区出身)

草ヶ江ヤングラガーズ-福岡市立城南中学校 -東福岡高等学校-専修大学
-東芝府中 -アビロン・バイヨンヌ(フランス) -ヤマハ発動機ジュビロ
- 7人制ラグビー日本代表監督 - 専修大学ラグビー部監督

ラグビーを始めたのは小2。専修大学ラグビー部4年時には主将として関東大学リーグ優勝に貢献。
その後チームは関東大学交流試合で明治大学と対戦し、13-13で引き分ける。

大学卒業後、東芝府中に入社。向井昭吾監督(当時)が掲げた「PからGO」の戦術にマッチしたプレースタイルをいかんなく発揮し、
1996年(平成8年)度からの日本選手権3連覇に貢献した。

1991年(平成3年)のアメリカ代表戦で日本代表初キャップを得る。
ラグビーワールドカップには第2回大会(1991年)スコットランド代表戦、第3回大会(1995年)ニュージーランド代表戦、
第4回大会(1999年)ウェールズ代表戦の3度出場している。日本代表キャップ数は41。

1999年(平成11年)、フランスリーグのアビロン・バイヨンヌとプロ契約し、日本人初のプロ選手となった。
デビュー戦でいきなり2トライを挙げるなど、フランスリーグでは44試合出場し7トライを挙げ、チームの中心選手として活躍した。
また、この時からラグビーマガジンと自身の公式サイトとで、フランスでの生活を報告するようになる。

2001年(平成13年)にヤマハ発動機ジュビロに移籍。円熟味を増したプレーでチームを引っ張り、2002年(平成14年)度には関西社会人リーグ初優勝を果たす。
2005年(平成17年)には37歳で日本代表に復帰し、ロス・トンプソンが持っていた最年長出場記録を更新した。
またトップリーグにおいても最年長出場記録を持っている(40歳)。

2008年(平成20年)1月、2007-08シーズンをもって現役引退することを表明。
2月2日東芝戦後に引退セレモニーが行われ、同い年の親友で、同じ磐田市をホームとするジュビロ磐田の中山雅史選手から花束を贈呈され、
お互いのユニフォームを交換した。

2008年(平成20年)2月、日本ラグビー協会より7人制ラグビーの日本代表監督の要請を受け就任。同年3月の香港セブンズで初指揮を執った。
同年の10月には、やはり香港で行われたラグビーワールドカップセブンズ予選で、日本代表を、2009年(平成21年)3月にドバイで行われる本大会への出場に導いた。
同い年には中山雅史のほか、ラグビー界には清宮克幸がいる。