1 :
底名無し沼さん:
♪あの頃き〜みは〜若かった〜♪
「ロックやフォークより、山がすべてだった。」
気のきいたプレイバックを書き込みしてちょ!
2 :
底名無し沼さん:2010/09/09(木) 17:12:04
tes
3 :
底名無し沼さん:2010/09/09(木) 21:37:23
カテゴリの「旅行・外出」がぶっ飛んだみたいですね
>>3 カテゴリは飛びません
飛んだのは鯖です
分かりましたか?お爺ちゃん
5 :
底名無し沼さん:2010/09/09(木) 22:20:26
6 :
底名無し沼さん:2010/09/10(金) 08:41:47
>>4 自分の鬱屈した人生を他人(世代)のせいにして生きているタイプだな
7 :
底名無し沼さん:2010/09/10(金) 11:00:23
もうちょっと盛り上がると思ったんだけどここダメみたい
8 :
底名無し沼さん:2010/09/10(金) 12:15:33
手ごたえ全くないしな…
9 :
底名無し沼さん:2010/09/10(金) 13:06:44
ここはおかしいのが二人いるようですね(単独の自作自演かも知れんが)
10 :
底名無し沼さん:2010/09/10(金) 13:21:02
そうだな
釣るアフォーに釣られるアフォー
自作自演じゃないか
11 :
底名無し沼さん:2010/09/10(金) 13:41:11
なぜいいスレが落ちっぱなしで、こんなクソスレが復旧しているのか
1975年以前の山屋で2ちゃんへ来られる方は限られると思う
パソコン入力が満足に出来まへんw
13 :
底名無し沼さん:2010/09/10(金) 14:31:48
物置の奥で眠っていたSIMOND スーパーDを昨年冬から使っています。
14 :
底名無し沼さん:2010/09/10(金) 17:08:14
>>12 1975年で25歳として今60歳 30歳として今65歳 35歳なら70歳か
Windows95から15年・・・仕事で使ったか使わないかで個人差が出てくるね
15 :
底名無し沼さん:2010/09/10(金) 17:39:17
門田の鍛造アイゼンを押し入れにしまってある。
もう二度と履くことはあるまい。
こんなとこ上げんなよ
いまならすぐ落ちる
>17
学生の時にFORTRAN、BASIC等のプログラミング演習を大型計算機で行っていた方 w
FORTRAN、BASIC。カセットテープとかカードとか懐かしいw
20 :
底名無し沼さん:2010/09/11(土) 11:25:45
独り言スレ
学生はまだキスリングだったけど、社会人なんかはカリマーのジョーブラウンが
かっこいかった。今風のザックの出始めで懐かしい。
昔話してくれるオッサンと知り合いたい。
昭和スタイルは格好いいと思う。
山で挨拶する時も昔話してくれないか
期待してるんだけど若いねぇで終わってしまう。
1975年頃の夏と言えば、新宿駅から夜行の臨時急行アルプス号が4、5本出ていた時代。
その電車に乗るために、夕方ぐらいから地下通路には山登りの格好をした人の幾つもの
列が出来ていた。ということを語るのは、おじさん。
25 :
底名無し沼さん:2010/09/12(日) 06:19:31
あの頃の山屋は衣食住担いだ今でいうスレムーホ。
駅の待合室でブス焚いてアルファ米にペミカンぶっこみ喰らったものだ。
不衛生とか不潔とは無縁の世界であった。
この頃から夏用テントが三角形からドーム型になってきた。
吊り下げ式でジュラルミンフレームという現在の主流となっている構造をいち早く採用した画期的なテント。
後に橙色にフライが青色のダンロップテントが涸沢をほぼ占領した時もあった。
27 :
底名無し沼さん:2010/09/12(日) 07:50:32
学生時代のグラウンドシート分離式の家型テントが懐かしい。
丈夫ではあったが帆布製で何しろ重く、山行は背負子+キスリングの
組合せで立ち上がるのに先輩に支えてもらったものだ。
防水メンテのために白熊印のパラフィンをたっぷり塗布したものだ。
軽量化の技術進歩で社会人になってからはダンロップのXシリーズ
のお世話になったものだ。
振り返るとザック、テントの順で現在の形になり、そしてコンロが続いた。
はじめはキャンピング・・・・・・だったが性能、利便性に欠け、今の岩谷などのコンロに。
一方、ラジュース、フォエーブスといったプレヒートが必要なコンロは、山岳会とかサークル
といったグループ登山の方々に愛用され続けた。(そして、どうなったたか?)
PRIMUS(岩谷)が独占?
29 :
底名無し沼さん:2010/09/12(日) 14:21:51
今年60歳だけれど、20歳代の時には、夏山のアンダーウェアは綿の下着で
よかった。せいぜいこって網シャツだけれど、それも素材は綿が主。
冬はもちろん「死にたくなかったらウール」だったけれど、夏山については
今ほどうるさくなかったと記憶している。
30台で山からとおざかり、50台で再開したら、衣類がえらく進歩していて
おどろいた。
いったいいつから、夏山でも「下着に綿はダメ」になったのだろう。
天然記念物のカモシカの尻皮が手に入った頃の話・・・
還暦をカミングアウトする人にびっくり
32 :
底名無し沼さん:2010/09/12(日) 16:06:04
今どきの若者より、今どきの還暦の方が明るい未来が開けていそうだ。
>>29 記憶でしかないですが、ダクロン製の下着が出てきたのは1980年はじめぐらいでは。
それより前にゴアテックス製のレインウェアが売り出されていました。(←購入したので確実)
1980年初頭ぐらいに登山用具は、おおかた新素材、新型になったと思います。
そして、雨具、テントは軽量化へと展開。
トレッキングポール?ダブル?
グレゴリ?オスプレイ?アーク?
クマ鈴?北海道か?
今はトレッキングポールも熊鈴も必携。
ニッカボッカにニッカホース。下着はウール。
ピッケルはKADOTA、アイゼンはSALEWAのクロモリ12本。
いまだに使ってるぞ。
37 :
底名無し沼さん:2010/09/12(日) 20:55:31
>>36 ご立派!!
中高年から山始めた人達とはちと違う
38 :
底名無し沼さん:2010/09/12(日) 21:01:24
>>29 似た方がいますなぁ〜
大袈裟かも知れないが30代で(山を)取るか(仕事・家庭)を取るか・・・
山取ってたらいずれ死んでたろうけど
39 :
29:2010/09/13(月) 13:26:06
>>33 ありがとうございます。西穂〜奥穂の縦走にいって、悪天でひきかえしたのが
1978年で、それ以降は山らしい山に行かなくなったので、新しく登場した
新素材のウェアを着ることもなく終わったようです。
1度1985年に知人と下廊下を下ったときに、新しい軽量テントにお目に
掛かって驚いたことがありました。でも、山行きを復活させるまでにはいたら
ず、2002年に再開した時には、まさしく浦島太郎状態でした。
そういやあ、あの頃ってまだ新宿23:55発の普通列車長野行があったなぁ。
初めての南アルプスで、しかも北岳に登る時に乗車した。
甲府が午前3時着。
広河原行きのバスが4時発で待たされたという思い出。
あの頃は若かった、セブンティ〜ンw
41 :
29:2010/09/13(月) 13:30:24
>>38 そうですか。同志というわけですね。私は子供が生まれたので、山から
足が遠のきました。そんなに先鋭な登山はしてなかったので、そのまま
続けていても、死ななかったとは思いますが、岩登りは下手だったので
墜落して大けがはあったかもしれません。
儂は既に山から引退したが、ついこの間まで現役だった友人は二度ばかり死にかけたな。
そいつは生涯独身を貫いていたが、好きな女が出来て山をやめたよ。
我が家の下駄箱には二度と履かれないであろう、トップ靴店の重登山靴が鎮座してる。
43 :
底名無し沼さん:2010/09/13(月) 19:01:27
ここ団塊のたまり場ですか?
44 :
底名無し沼さん:2010/09/13(月) 19:21:09
ゴミは持ち帰れ
それだけだ
45 :
底名無し沼さん:2010/09/13(月) 20:02:31
>>33 昔の事なので違っているかもしれませんが、アルパインクラフト(通称アルクラと
言っていたような)が日本で最初にゴアテックスの雨具、テントを製造、販売して
いましたね。
モンベルはまだ無かった時代ですね。
当時はマンモスと呼んでいましたが、今のマムートのザイルにマンモスが刺繍された
ワッペンが付属していて、エイダーのクライミングジャケットに手縫いで縫い付けて
クライミング時に着ていた記憶がありますね。
懐かしいですね。
まだ鋲靴全盛の時代ですね
鋲靴は20〜30年代じゃないかな。
>>45 33です。
1978年に初めて憧れの北アルプスへ一人で行く時にゴア製の雨具を購入しました。
それは、HERITAGE のでした。
当時は、ゴールドウィンはありましたが、NORTH FACE は無かったと思います。
50 :
底名無し沼さん:2010/09/14(火) 08:53:38
1970〜75年(S45〜S50年)を基準にすると靴は普通にビブラムでしたよ
当時購入の靴は、ビブラム底で、底の張替えを2回して何とか新調せずに来たが
さすがに重く、日帰り登山が多いということもあり、今はランニングシューズで
登っているという現実。
52 :
底名無し沼さん:2010/09/14(火) 12:12:00
ベテランの方々へ
若者に説教たれてないで同世代の初心者への啓蒙をお願いします
53 :
底名無し沼さん:2010/09/14(火) 12:27:45
昔は中高年になってから山を始めるという人は少なかったと思う。
20〜30代で単独、技術の限界を感じ山岳会に入ってレベルアップというパターンが多かった。
同世代の初心者って学習能力がないというか連れてって〜気分でダメ。
それは、中高年者の事故が、減少しないことが物語ってるのかも。
>>54 >同世代の初心者って学習能力がないというか連れてって〜気分でダメ。
じゃ、打つ手なしデスカ??
56 :
底名無し沼さん:2010/09/14(火) 15:45:20
儂も中高年じゃけど、山に対して畏怖と言うか、そういう気持ちはいつも持ってる。
何かあったら、撤退を考えるし計画の延期や中止も考える。
中高年登山者の多くがそういう事を考えないで行動してるとしたら、同じ中高年登山者として悲しい事だ。
57 :
底名無し沼さん:2010/09/14(火) 16:39:54
あの頃ってやっぱストーブとかは
ラジウス系だったの?
58 :
底名無し沼さん:2010/09/14(火) 16:43:19
>>57 儂はスペア123使ってたな。
いまだに現役だぞ。
59 :
58:2010/09/14(火) 16:46:49
×スペア
〇スベア
間違えたぜ
60 :
底名無し沼さん:2010/09/14(火) 16:54:52
スベアガソリン入れて600gぐらいだね
カセットガス系と同じくらいの重さになる
マナスル96は700gぐらいだった
61 :
底名無し沼さん:2010/09/14(火) 17:14:32
>>60 スベアは単独にはちょうどいい大きさなんだよ。
しかも火力は大型にも引けを取らないし。パッキングもしやすかった。
なんで昭和40年代末期なんだよ
登山ブームのピークは昭和30年代だよ
63 :
底名無し沼さん:2010/09/14(火) 18:20:09
ここのスレに来る昔取った杵柄タイプとツアー依存の登山趣味の中高年とはかなり考え方が違うと思う。
日本100名山や300名山なんぞ困ったものだ。
>>62 そう思うなら自分でスレ立てればいい。
何でも他人任せだから団塊団塊って馬鹿にされるんだよ
>>55 おいらの推測です。以下に。
1995年にNHK教育テレビで 『趣味百科 中高年のための登山学』 という番組があり、
それが切っ掛けで中高年の登山が盛んになりはじめたとすると、約15年が経過した。
当時、50歳として現在65歳。あと10年もしないうちにピークを向かえ、減少傾向に
転ずると考えられる。
百年に一度の不況で倒産、早期退職。そして、バブル崩壊後への世代となり、山を楽しむ
という余裕はなくまた、物が豊富な少年期をすごしたことで山への関心も少なくなる。
近場での山がせいぜいで、百名山への挑戦等は少なくなると考えられる。
また、山に登る手段として車を利用しているという中高年が将来的に減ることが、若者の
車離れから予想される。
よって、もう少しの辛抱。流れに逆らってはダメ。打つ手なしですw
66 :
底名無し沼さん:2010/09/14(火) 18:37:51
>61
スベアいいよね気に入ってる
ただ人ごみの中で使うのには気が引ける
昔はそんなの関係なかったんだろうなー
67 :
55:2010/09/14(火) 19:22:55
>>65 分りました。ありがとうございます。
でも、マナーの悪い中高年パーティが多いので、同年輩のベテラン風の人に一喝されると
効くんじゃないかと思った次第です。
昭和30年代の山を語れって言われてもそんな人いなそう。
無理でしょう。
だが先人達には、もっと多くの事を語って頂きたい
なんならPC関係の相談にも乗ってあげるから
>>67 50過ぎたおっちゃんは、仕事から離れたら、遊びモードとなって羽目を外すのみ。
初心者であればなおさら。歳を取っている分、厄介なのかもしれませんが、
歳が近い程、注意となると難しいです。
山の基本は、自己責任であることをしっかり理解させ、連れて行くガイドとなる方が
しっかり統率することだと思います。(持ち物、コース、タイム、天候、体力etc)
71 :
底名無し沼さん:2010/09/14(火) 21:17:48
登山を始めた頃は小西政継や加藤保男のような届かぬ存在だが武骨な山屋に憧れた。
書物では、松涛明の「風雪のビバーク」や加藤文太郎の「単独行」の描写に衝撃を受けた。
今では、中島みゆきの「時代♪」の情景が走馬灯のように思い出される。
72 :
底名無し沼さん:2010/09/14(火) 21:20:19
おれは
ヘルマンブールの8000の上と下だな。
73 :
底名無し沼さん:2010/09/14(火) 21:44:24
>>66 スベアに限らずコンロの類は土間で使ってた。
小屋によっては外で使えって言われるけど、昔は小屋の中の土間で調理したよ。
炒め物なんか作るといいにおいがして、食事つきの泊り客から羨ましがられたもんだった。
で、「どうぞ・どうぞ」って勧めるとお礼にビールなんぞ貰ってね。
今思うといい時代だったんだな。
ヘルメット・ゲバ棒・手拭いにサングラス
顔を隠して、山中でオルグだ粛正だと遊び回ったな
懐かしい
>>74 スレ違いも甚だしい
恥ずかしいこというもんじゃない
76 :
底名無し沼さん:2010/09/14(火) 23:22:34
蓼科ロープウェイで登って、記念コイン作って
楽しかった小学生時代
74のようなお兄ちゃんが何か放水されたり、鉄球攻撃を受けたり
ケダモノと本当に思ったwwwwwwwwwwwwwwwwww
77 :
底名無し沼さん:2010/09/15(水) 00:34:01
>74
山岳ベースってそんなにいっぱいあったの?
金剛山とか葛城山あたり気になる
78 :
底名無し沼さん:2010/09/15(水) 08:28:48
>>71 私も遠い田舎から山学同志会なんかに憧れをもっていました。
主だった人達はみんな山に散っていった。
あなたが上げた小西政継、加藤保男、松涛明、加藤文太郎も。
山に一歩踏み込んだらツアーであれ、山岳会山行であれ、全ての責任は自己にあると自覚して欲しい。
79 :
底名無し沼さん:2010/09/15(水) 08:50:07
北アは昔から混雑してたが、南アは空いてたなぁ。
さすがに白峰は混んだけど、仙丈や甲斐駒でも小屋で窮屈な思いしたことなかった。
最盛期の仙丈から塩見まで馬鹿尾根縦走した時なんか、仙丈から三峰の間で誰にも会わなかった。
途中両俣に降りたけど、宿泊客0、小屋番不在で本当に誰にも会わなかったよ。
現在では予約なしじゃ泊まれない塩見小屋も余裕だった。と言うか、小屋に予約入れた事なんかなかったな。
>>69 >>なんならPC関係の相談にも乗ってあげるから
思い上がるなよ小僧
ワシを誰だと思っている
81 :
底名無し沼さん:2010/09/15(水) 09:55:48
↑
皆から嫌われているのでは。不愉快なりw
82 :
底名無し沼さん:2010/09/15(水) 09:58:05
団塊がPC苦手と思ったら大間違い!
私はネットワーク構築を仕事にしていたし会議はパワーポイント使用
このスレに来ている団塊はそれなりのスキルを持っている筈
83 :
底名無し沼さん:2010/09/15(水) 11:31:51
最近の中高年登山者はガイドブック以外読めないらしい
ブールやレビファ、エルゾーグの本は不人気でネットで300円で売ってら
>>82 もし貴方が団塊世代でPCにも詳しくても、それをひけらかすと自分を下げるだけだぞ。
ちなみに儂はエロいの見たくてPCに詳しくなったがなw
86 :
底名無し沼さん:2010/09/15(水) 12:02:02
>>12 >>1975年以前の山屋で2ちゃんへ来られる方は限られると思う
以前の山屋だよ。
キスリング、片桐の2尺4寸、2尺2寸、2尺現存。
尻皮もあるぞ。カモシカかな。
ストーブはスベアの121だな。
カミシマという日本製のストーブが在ったけど、ダメだった。
エバニューのコッヘル(笑)。
速乾下着の代わりに、南極でも着たという「網シャツ」があった。
この網シャツの上にラクダのシャツを着た。
この網シャツのネットがキスリングを背負った時、肩に食い込む。
ウールのニッカーズボン。
ピッケルも8本爪のアイゼンも門田。
もっと、いろんなモノがいっぱい在るぞ。
88 :
底名無し沼さん:2010/09/15(水) 12:35:08
1975年の大晦日はあの山でビバークしながら布施明のシクラメンのかおりを聴いていた。
>>86 網シャツw
よく着たなぁ。野郎はみんな着てたんじゃないかな。確かに綿シャツより乾きが速くて冷たくなりづらかったけど、格好は悪かったよな。
だらしなくベローンってなっちゃうしさ。一度網シャツ着たまま昼寝しちゃって起きたら網目の日焼けになって恥ずかしかった。
何でか知らんが、脱いだら編み目の穴に当たってた部分の皮膚に点々と痣が出来ていた事が何度かある。
あと、異様に編み目の間隔が広くて、どう考えても下着としての効果に疑問のある製品もあった。
ラグランスリーブみたいな縫製で、肩から腕にかけては普通の布地になってるのは着やすくて、15年位前まで仕事着の下着にしていた。
91 :
底名無し沼さん:2010/09/15(水) 13:15:02
何十年振りかで山を復活させ山岳会に入ったが、同年代のジジババのやかましさ(山の中でも下界でも)に
閉口して退会。
今は単独でシーズンを通して自由気ままに行ってるが、若い頃の経験が無ければ無理だったろうと思う。
>・・・・・・同年代のジジババのやかましさ・・・・・・
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
当時の水筒と言えばポリタンだと思うが、米軍払い下げの水筒を持ってる奴もいた。
デカくて丈夫そうだったが、戦死した兵士の持ち物だとイヤだと思い使う事はなかったな。
94 :
底名無し沼さん:2010/09/15(水) 18:27:51
>>93 戦死した米兵のものといえば、羽毛シュラフだな。
ガサばるし、重いし、羽毛なのにすぐぬれる。
仲間の持ってたシュラフは、血痕が付いてた。
95 :
底名無し沼さん:2010/09/15(水) 18:34:30
>>94だが、この話昭和30年代だ。
40年にっても売ってたかどうか、不明。
>>93 別にデカくなかったよ。
今のと材質が違うだけで、形や大きさは似たようなモン。
水筒よりも、付属のカップの人気が高かった。
これも今のに近いけど、ハンドルがL字型で今より長く、焚き火で側面をあぶって温めながら飲めるんで、沢登りの人達に人気があった。
97 :
底名無し沼さん:2010/09/15(水) 18:54:35
>>95 羽毛シュラフだけでなく
ベトナムから流れてきた遺体収容袋も売っていた
シュラフカバー替わりに重宝したし
事故の時は本来の役割も発揮したな
98 :
底名無し沼さん:2010/09/15(水) 20:46:17
1977年当時の小生の装備。
寝袋は貧乏学生のためモンクレーではなく天山(テンシャン=中国?)、ピッケルはシモンではなく
エバニューのローツェ、アイゼンはサレワでなくカジタの鍛造10本、ストーブはスベアでなく
マナスル121、ザン靴はガリビエールではなく安藤、ザックはミレーでなく片桐の強力、天幕は細野、
下着は親父のお下がりの松坂屋のカシミヤ上下だった。
こなまさん
あのぉ、俺未だ下着は松坂屋のカシミアなんですが(マジっす)・・・・最近のウールより遥かによいと思います。
101 :
底名無し沼さん:2010/09/15(水) 21:26:39
巷の情報はラジオの「オールナイトニッポン」
流行り歌は三雲孝江アナの「歌うヘッドライト」から。
テレビは刑事コロンボや特捜最前線を好んだ。
スレ違いでスマン。
西部劇やトム&ジェリーに出てくる、尻の所がボタン留めになってるツナギのウールの下着いいよね。
出来れば赤で。
103 :
底名無し沼さん:2010/09/15(水) 22:47:02
米軍のGIストーブとかあったそうじゃないの?
あとエンダースとか羨ましい
最近の山岳会の多くは居場所作りの旅行サークルなんだから
目的にあったところ入れたら幸せだな
105 :
底名無し沼さん:2010/09/16(木) 08:20:56
>>86 86だけど、昨晩「開かずの押入」を開けて、なかに入っているモノを引っ張り出した。
ビニロンのオーバーズボン、ヤッケ、オーバー手袋、底がボロボロのオーバーシューズ。
細野の破れて穴の開いたツエルト。
細野のサブザック。細紐で巻いて止めるだけのヤツ。
エバニューのポリタン水筒。キャップが黄色いヤツ。
空気漏れがするエアマット。
ベロが付いた登山靴。このベロはゲートルを巻くのに都合がよいが、邪魔。
使わなかった「トリコニー」「ムガー」「クリンカー」が数個。
鉄製のカラビナ数個。ハーケン縦型、横型。
ハンマー。これは今でもちょっとした釘を打ったりするのに使える。
焼けこげたホエーブス。
重ねられるスプーン、フォーク、ナイフセット。
アルミケースに入った2眼ゴーグル。スポンジがボロボロ。
昭和30年代後期、シャルレのモンブランをなんとかして購入した。
15000円くらいだった記憶がある。
その頃、ドメゾンの羽根服上下が6万円くらいした記憶があるが、
とても買える金額ではなかった。
翻訳家の近藤等氏がガストンレビュファを日本に招待した。
その時にレビュファに会いに行った。
う〜む。「開かずの押入」のなかはタイムマシンのようだ(笑)。
106 :
底名無し沼さん:2010/09/16(木) 08:22:53
ホエーブスとかオークションで高値で売られてる
107 :
底名無し沼さん:2010/09/16(木) 08:51:04
>>105 色々残ってて羨ましい限りだす。
うちは嫁に大物を処分されて小物くらいしか残ってないな。
IBSオリジナルの冬用ヤッケとスパッツは表面がボロボロになってる。
そう言えばスキーも残してあるけど、使えるかな?オガサカの板とかサロモンの靴とか。
靴は劣化して割れてんだろうなw
すごいな。当時の熱気が伝わってくるようだ
109 :
底名無し沼さん:2010/09/16(木) 09:34:02
僕は40年代後期だけど、ワルテル・ボナッティ、ルネ・デメゾン 、ガストン・レビュファの名前だけはいつまでも忘れない。
図書館にでも行けば彼らの写真集があるかな?
110 :
底名無し沼さん:2010/09/16(木) 12:50:49
>>105 訂正
>>う〜む。「開かずの押入」のなかはタイムマシンのようだ(笑)。
タイムカプセルの間違いです。
>>109 ガストン・レビュファとは握手しました(笑)。
111 :
底名無し沼さん:2010/09/16(木) 14:53:09
ニッピンのメスナーテントって昭和50年代の発表だっけ?
1976年メスナー自身が書いた、テントの設計図がニッピンに送られてきたことに始まった。
自分の五体だけを頼りに無酸素登攀するアリピニストの彼にとって、最小限の重量で最大限の
機能を発揮する道具こそ理想だった。
長年、彼の胸の中であたためられた設計図をもとに、1週間で試作品を作り上げ、イタリア・
フィルノスの彼のもとに送った。新しいモデルの試作品は、まず彼の自宅近くのドロミテ山郡で
テストされ、その後、1976年にマッキンレー(6,191m)、1977年ダウラギリ
(8,167m)と高度を上げてチェックされた。
1回の登攀ごとに、改良点を国際電話で話し合い、難関な個所は企画スタッフが直接現地に飛んで
話し合い、新たな試作品が作られた。
こうして1978年メスナーのエヴェレスト(8,848m)無酸素初登頂で、メスナーゴアテントは
究極の機能を発揮した。
http://www.nippin.co.jp/hp/mind.htm
113 :
底名無し沼さん:2010/09/16(木) 20:31:57
105さんの押入はさながら山岳博物館ですな。
名前忘れたけどアルミの2眼のゴーグルや舶来乾電池でコードタイプの
ヘッデンとか懐かしスギ。
想い出とともに、メタの甘い匂いが漂ってきそうです。
>>113 メタと言えば、燃えカスの白いモワモワした、ワタスゲの毛みたいなのって有害なのかな?
当時は漂ってるアレを平気な顔して吸い込んでいたんだが・・・
チョット待って!
メタってもうないの? じゃ古いホーブスとかマナスル持ってる人はどーすんの?
ホエーブスですた
昔のメタってもっと細くて、スライド蓋の平たい容器に沢山入ってたなぁ。
まあ、灯油ストーブのプレヒートは、トイレットペーパーの紙縒に噴出させた灯油を染み込ませてやってたけど。
黒煙が凄かったなぁ。
119 :
底名無し沼さん:2010/09/16(木) 21:43:14
エスビットじゃないの?メタって
>>119 それぞれ違う製品の商品名だよ。
でも、東京トップの"メタ"クッカーにはエスビットがセットになってたけどw
121 :
底名無し沼さん:2010/09/17(金) 01:35:56
オプティマス8Rみたいなのっていっぱいあった?
親戚みたいのとか
>117
「メスナー」は、メスナー流の短期速攻なら優れた機材なんだろうけど、
厳冬期縦走では厳しいんだよな。長期縦走だと、居住性の悪さが
じわじわとダメージになるからなあ。。。
123 :
底名無し沼さん:2010/09/17(金) 07:10:57
内張りに滴る結露を拭きつつ、コッフェルに少しづつの処女雪を足しながら、
ブスの轟音と吹雪の合唱に瞑想し、時折、武器のザクザク音が満たされぬお腹を刺激する。
テルモスに「明日もたのむぞ」と言い聞かせて眠りについたのが昨日のようだ。
同士に合掌。
124 :
底名無し沼さん:2010/09/17(金) 08:49:30
>>123 確かにコンロの音には癒やされなぁ。
ある秋の日に朝日岳から大無間岳に向かった。尾根伝いに行けると踏んだんだが甘かった。
途中ビヴァークする場所もなく倒木と倒木の間にツェルトを張って寝た。
尾根を吹き抜ける風音が不気味で心細くなるのをスベア123の音が救ってくれた。
翌日天候が悪化して撤退したが、敗北感はなかった。
125 :
124:2010/09/17(金) 08:50:55
○大無間山
×大無間岳
だっけ。
126 :
底名無し沼さん:2010/09/17(金) 09:47:20
厳冬期、ツェルト被ってのビバーク、二人でピッケルで雪洞掘ってのビバーク。
もう一度やってみたい気がするがダメだろうなぁ〜。
もうダメだよ
128 :
底名無し沼さん:2010/09/17(金) 10:33:36
メタボの脂肪を燃焼させて2、3日くらい持たないだろうか。
疲労困憊してのビバークと体力温存してのビバークは全く違うから。
ダメだよ
130 :
底名無し沼さん:2010/09/17(金) 10:51:08
よし!
冬になったら近くの山に行ってマイナス10℃位を目安に夕方4時から翌朝6時まで
膝を抱えてのビバーク訓練やってみるか。
131 :
底名無し沼さん:2010/09/17(金) 11:22:04
>>130 ガンガレ!
但し、パンパカすんなよw
132 :
底名無し沼さん:2010/09/17(金) 12:11:24
>>131 ありがと!
ヘリタク呼ばないよう携帯無しで頑張ります
133 :
底名無し沼さん:2010/09/17(金) 12:43:33
>>86と同じ、1975以前の山屋。
片桐の2尺4寸、今でもあるぞ。
上級生になると入山時パンパンだったキスリングが、最後には個人装備だけになって
両ポケットだけ一杯だから、メインを絞るとまるで蝶々のようになった。
当時はなんの疑問も無かったが、キスリングはパッキング難しかったな。
2尺4寸のキスって1斗缶が4発はいる特大のことですか?
135 :
底名無し沼さん:2010/09/17(金) 14:57:46
00 超特大 幅73糎×深さ96糎 \5,550-(細野製)
0 特大 66糎× 90糎 \5,300-( 〃 )
>>121 マナスル160って言う国産コピー品があった。
8Rより安いのに、仕上げは遥かに丁寧で、性能も安定してた。
137 :
底名無し沼さん:2010/09/17(金) 17:52:52
>>134 >>2尺4寸のキスって1斗缶が4発はいる特大のことですか?
>>86 >>105 だけど
1尺は約30センチ、1寸は約3センチ
故に2尺4寸=30p×2+3p×4=約72p(巾です)
高さは1mくらい。
しわをつけずにパッキングするのが粋だった。
またそれで力量判断した。今でも少しこだわる。
昔のメタが出て来た。
http://p2.ms/s1hta 平たいパレット状のは20枚入りでかなり昔のヤツ。
四段重ねで40枚入りもあった。
真ん中の四角いのは、90年代によく売ってたので、コンパクトだけどちゃんと20枚入ってる。
8Rのケースの中の隙間に入るので重宝した。
一番右のは今でも見かけるパッケージで、10枚しか入ってないが、一枚が先の二つのタブレットより大きい。
最初は昔と同じく誤食防止のグレーの苦味剤が塗布されてたが、途中で廃止された。
昔の小型のタブレットは、二つに折る為の筋とか、メーカーロゴが刻印されてたが、それらも廃止されている。
また、最近のは古くなると吸湿し、燃焼させるとポンポン破裂するようになった。
スイスメタの蓋が外せなくて切れたことが・・・(遠い目)
141 :
底名無し沼さん:2010/09/17(金) 21:18:12
登山って、今も昔も生活に困窮する者が入り込めないジャンルだと思う。
最近の中高年や山ガールだって、それなりに生活にゆとりがないと楽しめない。
装備品なんか、1970年代のサラリーやバイト代からして相当に高額の部類。
だからこのスレに参加の皆さん、かつての道具や小物類が手元になくてもお互い
そうそう、なんてイメージを共有できるんだよね!
>>139 左のヤツ愛用してた。
二つに折って、スベア123の火口の根元に置いて、ライターで火を点けて・・・
一度スベアのカバーを付ける前に火を点けちまって、カバー付けようとして火の点いたメタを下に落とした。
テントじゃなくマットを焦がしただけで済んだけど、ビビったなぁ。
143 :
底名無し沼さん:2010/09/17(金) 22:28:07
いつ頃からかストーブをバーナーと云うようになったのか?
まだいわない
つーか、「コンロ」のコトを「ストーブ」などと言いだしたのは、いつかと。
ワシの記憶では、1978年のヤマケイ誌の高田直樹のエッセイでした。
「ピークワン」のことをストーヴって呼ぶんだと。なんか恥ずかしかったなあ。
146 :
底名無し沼さん:2010/09/18(土) 01:31:48
ヨーロッパの軍隊ってラジウスとかオプティマス使ってそうだけど
アメリカだけはコールマンなんだよなぁ
日本は・・・
147 :
底名無し沼さん:2010/09/18(土) 02:07:49
・
148 :
底名無し沼さん:2010/09/18(土) 07:14:41
>>143、
>>145 >>86だけど、今、1962年(昭和37年)の日本山岳会出版の「山日記」(280円)を見ている。
登山用装備表には「石油ストーブ」と書かれている。
「バーナー」と書かれているモノがあるが「アルコールバーナー」のコトだな。
TOPとかエバニューから、「今流行り」のアルコールバーナーが売られていた。
でも、一般的にはラジュースとか、スベア、フォエーブスは「コンロ」と呼ばれていた記憶がある。
1980年ころに流行り始めた「アウトドア」という言葉。気恥ずかしくて「アウトドア」という言葉を数年前まで言えなかった。
「アウトドア」と云う言葉は軽すぎて軟弱ぽかった(笑)。今は自分が軟弱になったので、十分云える(笑)。
>>146 >>日本は・・・
日本にはカミシマストーブと言うモノがあった。
http://www.firecollectors.com/kamishima2/kamishima2.html 露天で飲み屋をやる場合、今はプロパンガスが100%だと思うが、プロパンガスが出てくる前は、カミシマストーブの平べったいヤツ。
今で言う卓上コンロの形をしていた。現在のコールマンのツーバーナーのようなヤツを、戸外で開く飲み屋では使っていた。
そんなに自虐になる必要はない。
149 :
底名無し沼さん:2010/09/18(土) 07:55:30
山を知らない奴は「ストーブは必携」って云うと、
「寒がりやな〜、どないして持っていくねん。」と云う。
「ラジウスはええぞ。」には、「北海道のどこやねん?」となる。
やっぱ昔はヒュッテで「山男の歌」とか「おお牧場はみどり」を肩組んで歌ったわけ?
それは、女の子がいたワンダーフォーゲル部とかサークル仲間ね。
30年モノのスイスメタをまだ持ってる。あれって自然発火したりしないだろうな・・・・。
75年を過ぎるかもしれないけど芦沢一洋なんかが多用していた英語圏の横文字の用語も影響が
大きそうだね。ストーブとかも一般的呼称になった?
153 :
底名無し沼さん:2010/09/18(土) 10:16:03
何十年振りかで山に向かっているが、浦島太郎なので登山用語の変化にどうしてもなじめない。
一番はザイル→ロープ・・ザイルはザイルだが多目的多種なロープのことをザイルとは言わないだろが。
アイゼン、ハーケン、その他
やっぱり欧から英語圏というところですか。
154 :
底名無し沼さん:2010/09/18(土) 10:26:28
当時流行った Made in USA とかの影響やな
155 :
底名無し沼さん:2010/09/18(土) 10:36:16
>>150 歌ったのは安曇野節だな(笑)。
谷川岳では
「行こか、戻ろか、南陵のテラスゥ〜」って言うのも唄ったな。
156 :
底名無し沼さん:2010/09/18(土) 10:46:14
真冬の奥多摩小屋で、常連のおっさんたちが小屋番と一緒になって酔って歌ってうざかった
初心者には見えなかったが、年齢とともに人の迷惑を顧みなくなるのかと自分も不安になった
157 :
底名無し沼さん:2010/09/18(土) 10:58:29
やっぱ、山の数え唄っしょ!
♪一つ出たホイのヨサホイのホ〜イホイ♪
♪一人娘とやるときにゃ〜 親のゆるしを得にゃならぬ〜♪
♪二つ出たホイのヨサホイのホ〜イホイ♪
♪二人娘とやるときにゃ〜 姉のほうからせにゃならぬ〜♪
158 :
145:2010/09/18(土) 11:18:41
>>148 なるほど。「ストーブ」も長く使われていたんですね。
1975年くらいから、ヤマケイ誌は舐めるように読んでいたけれど、そのときまで、ストーブという記号はアタマに入らなかった(w
1976年発行の「夏山JOY」、これ、今も続く別冊系の最初の号だと思うけど、ソコでは「バードウォッチング」とか
「ホースバックライディング」なんてカタカナが書いてあって、「おいおい、西海岸にもほどがあるだろw」と思ったネ。
>>154 山登用品は輸入品が多く、信頼されます。
3 Germany → Deuter、Leki
6 England → Karrimor
13 Italy → Dolomite、Asolo、Cassin、Vibram
14 Norway → Helly Hansen
18 USA → The North Face、Columbia、Patagonia、Osprey、Gore-Tex
21 Switzerland → Mammut
27 France → Millet、Simond
29 Denmark → Primus、Optimus
30 Japan → Mont・bell、Heritage、Snow Peak、Caravan
32 Sweden → Silva
64 Finland → Suunto
注)左端の数字はFIFAの最新のランキングw
160 :
底名無し沼さん:2010/09/18(土) 12:56:52
ストーブ類ってスウェーデンやオーストリアってイメージだよね
昔のは
161 :
底名無し沼さん:2010/09/18(土) 15:21:16
70年代前半の生産国はそうだね。
スベア:スウェーデン
ホエーブス:オーストリー
キャンピングガス:フランス
マナスル、ツバメガス:国産
熱い時代だったなぁ。
今年の夏の方が熱いよ
164 :
底名無し沼さん:2010/09/18(土) 18:06:21
熱い時代というか登山者がみんな若かったということかな。
当時離脱した友人は中高年登山者の仲間と数多くの山をこなしているが、
今となっては登れないルートを一般コースからジーッと眺めてしまうと云っていた。
山は逃げないというが時代と共に逃げるものだ。
体力はなくなるね
中学に山岳部があった。今じゃあ、大学にあっても同好会では。
>>164 確かにそれは言える。
体力はもちろん、ヒマも金もない。まあ、若い頃から金はなかったが・・・
自分は宮之浦岳に登らなかったことを後悔してる。
20代に計画たてて友人が急に行けなくなり中止になった。
その時は「いつか行けるだろ」と思ってたんだが、結局行かずじまいだ。
多分、もう屋久島自体に行くことも出来ないと思ってる。
若い奴ら、本当に行きたい時に行動しろよ。後でなんて考えるな。
この頃って毎年のように正月の大量遭難とかあったんじゃなかったっけ?
俺51歳で北鎌単独でやったが。
170 :
底名無し沼さん:2010/09/18(土) 22:26:49
>若い奴ら、本当に行きたい時に行動しろよ。後でなんて考えるな。
新卒ですが就活決まらないですぅ
登山が趣味と言ってもあまり印象が良くないのか
>>170 39歳で会社破綻、更正法で出直しするも潰れた
会社、仕事等幻想だ
172 :
底名無し沼さん:2010/09/18(土) 22:49:31
40♂だけどこの前小屋で話した60代後半のおっさんから
今のうちに西穂奥穂などの難所に行っとかないと
年取ったらいけなくなるぞといわれたな
173 :
167:2010/09/18(土) 23:06:16
>>169 その歳で北鎌やれる体力が羨ましいよ。
自分は体力も落ちたが、その他にも行けない事情があるのさ。
歳取れば誰しも事情が出来て行きたくても行けなくなる。
>>170 ま、就職決まらないと山にも行けないよな。
頑張って何とか就職してくれ。俺にはそうとしか言えないよ。
167で偉そうな事書いたけど、生活を放ってまで入れ込むもんじゃないしな、山なんて。
俺は山より女を取った軟弱者だ。けど、やっぱり悔いが残るのも事実なんだよ。
北鎌>>>>>西穂奥穂 ですか?
>>174 そうだな。北鎌は「一般コース」ではないから。
ついでに言うと、前穂北尾根>北鎌。
北鎌はザイルなしでも行けるから。
前穂北尾根>北鎌>>>>>西穂奥穂>>>剣岳のタテヨコ>北穂大キレット>鹿島槍五竜 ですか?
177 :
底名無し沼さん:2010/09/19(日) 09:07:52
体力的には、
北鎌>>前穂北尾根
北鎌と西穂奥穂、岩稜そのものの難しさにはそれほど違いはないと思うが、
「一般コース」でないことからくる負担の差は大きい。鎖はもちろん、
ペンキマークも少ない。アプローチの長さ、場合によってはビバーク
もあるからその準備と覚悟がいる。
西穂〜奥穂間は、山と高原地図(昭文社)では破線で「危」マーク入り。タイムの記載なし。
昔のガイドブック・アルパインガイド(S52年版)では下記のコースタイム
西穂山荘-- 2:20 →西穂高岳-- 6:30 →奥穂高岳-- 0:50 →穂高岳山荘
西穂山荘← 1:50 --西穂高岳← 5:10 --奥穂高岳← 0:50 --穂高岳山荘
179 :
底名無し沼さん:2010/09/19(日) 14:00:02
高度成長期の昭和40年代の若者は山と仕事を両立できたかもしれないが
今の時代は年金生活者の中高年くらいなもんだろうな
しかしそれも
>>65さんのいうように後10年くらいか
>>65 高齢者は山には鉄道で行くんだよ
土日の中央線とか乗ってみろ
181 :
底名無し沼さん:2010/09/19(日) 17:05:46
押し入れからオボスポーツを発掘
昼飯がわりに食べて5時間経過
異常なし・・・
>>180 鉄道の利用となるともう交通手段は、車→電車になり、中高年もスタイルを変えつつある
のかもしれないです。
ブームを牽引した要因として、高速道路&コンビニっていうことが言われてたが、それも
選択肢でないとすると中高年はさらに高齢化して、事故だけが増加しているという状況かも?
少なくとも日本語の崩壊は進んでいるようだ。
そもそも中高年登山客はあんな無駄に太った家畜のような体で何で山に登ろうと思うのかな
ただただ苦しいだけだし、オマケに遭難する可能性も高いよね
中高年者の登山って、一年中、スパッツっすねw
スパッツ=雪山用として靴に雪が入らないようにするための道具
一応"レインスパッツ"って商品もあるけどな。
名前は忘れたが、非常用の食料でクッキーとゼリーを売ってた。
高カロリーで非常食として最適と謳ってたんで、とりあえず非常用に買っておいた。
ある日、ザックの底に仕舞いこんであったのを思い出し、食ってみた。
お世辞にも美味しいモノではなかった。
ジフィーズのアルファ化米のピラフとかドライカレーが全盛の頃のモノだが、知ってる人はいるかな?
>>187 菓子缶みたいなのに入ってた"ガンバリ食"だっけ?
自衛隊の航空機に搭載されてた非常食の市販品の。
昔から山登ってる人はレインスパッツは履かんでしょ
あれは繁殖期のフェロモン代わりだろ?ランドネ御譲ちゃんとか
履いてるジジババは一応お盛ん(なつもり)な人たち
レインスパッツは昭和の終わり頃から使っていたが、40年代末期ではないな。
>>187 79年の石井のカタログに載ってた。商品名は非常食だそうだ。
一食200カロリー(Kcal?)で2年間保証とある
ゼリーとクラッカーの2種。重さ47g、どちらも130円と書かれている
192 :
187:2010/09/20(月) 10:43:30
>>191 情報ありがとう。
クッキーではなく、クラッカーだったか・・・。
とにかく、どちらも不味かったのを覚えている。クラッカーはボソボソで、ゼリーは異様に固かった。
クラッカーは水がないと流し込めないほど、ボソボソだったな。
ん〜でも2年間の品質保証か〜。もっと経ってから食べたかも知れんw
191と似たようなモノだね。添加物など食品内容表示が無いのが気になるが・・・。
どっちにしても不味そう・・・。
あまり美味いとすぐに全部食べてしまうから不味くしてるんだと聞いたが
そりゃあ嘘だ。そんなに旨くできるならなんで通常の食料が不味かったんだ
確かに(笑
今のフリーズドライはどれも美味いよな-
198 :
187:2010/09/20(月) 19:00:25
今のフリーズドライはみんな美味しいよ。
昔のジフィーズなんて、チャーハン・ピラフ・チキンライス・ドライカレー・・・どれも基本の味が同じだから、飽きてくる。
レトルトのカレーが唯一美味いんだが、重くて結局インスタントラーメンとアルファ化米ベースの食料になっちゃう。
レトルトのすき焼きがあって、山行の後半に食べた。楽しみにしていたんだが、その味は・・・
ただ、ただ甘いだけのシロモノだった。肉も豆腐もシラタキやネギも、み〜んな甘いだけ・・・
199 :
底名無し沼さん:2010/09/20(月) 20:36:15
>>169 >>148だけど、昭和22年生まれ。17歳の時に初めて北鎌へ行った。
所属していた山岳会で行った。
七倉から入って湯俣→千天の出会いで幕営。
そこに岩小屋があった。
P1から登った。北鎌のコルで幕営。落雷が怖かった。
独標下のトラバースも怖かった。
キスリングが邪魔だった。
その後20歳代に北鎌へ2回行ったが、湯俣からだ。
今は高瀬川の右岸を行くが、当時は左岸を歩いた。
トロッコ線路が在った記憶がある。
>>198 ジフィーズにフリーズドライのスキヤキもあったな。
見た目はアレだけど、ご飯にかけるとそれなりに食えた。
>>199 千天出合って掛け小屋がなかったっけ?地面に杭打って枝を渡したヤツ。
高瀬川左岸は結構ヤバイ道だったような記憶がある。
3連休終了。中2日で秋分の日。
休日増えたのはうれしいが
モチベーション、体力、金がついていかない。
学生時代は土曜半ドン。完全週休2日も就職後
かなり経ってから。有給なんて申請できず休日
出勤して代休もらって連休にした。
204 :
底名無し沼さん:2010/09/21(火) 08:51:30
昔は前夜発日帰りが多かったな。
土曜半ドンで支度して新宿に駆けつけ、夜行で甲府や塩山へ出掛けたな。
大菩薩や南ア前衛、八ヶ岳なんかは大体このパターンだった。
50年代関西在住。横山厚夫氏の本読み奥多摩にあこがれ。
大垣発夜行で雲取山行き。登山道が立派&富士山の記憶。
現在関東だが雲取だけは以来登ってない。いい意味で。
206 :
底名無し沼さん:2010/09/21(火) 18:49:44
>>201 昭和30年代後半に、高瀬川左岸を通った。
硫黄尾根末端から千天の出会いまでのほうが、北鎌尾根よりヤバかった。
>>206もうちょっと詳しく聞かせて! 興味あるよ。
それと昭和20年代生まれの人たちが若いときにやった北鎌。
今とは違ってまだ岩の風化は始まってなかったのかな?
208 :
底名無し沼さん:2010/09/21(火) 21:49:28
昭和50年に高瀬川をさかのぼって、千天の出合いの先で1泊し、北鎌沢経由で槍までいった。
水俣川左岸のへつりは怖かった。ツルツルすべる花崗岩をへつるのだが、下みると水俣川の激流が泡吹いていてここですべったら一巻の終わりだと思うと足がすくんだ。
北鎌では独標こえて、いくつ目かのピークの手前、ザクザクの白ザレの斜面が蟻地獄みたいで、ずるずると下に落ちていってどうなることかと思った。
北鎌平の手前で千丈沢側の巻き道に入り、どんどん稜線から離れていくので、あせった。なんとか北鎌平の手前にはいあがったが、独標からえらく時間がかかり、ようやく日没前に頂上にすべりこんだ。
209 :
底名無し沼さん:2010/09/21(火) 22:33:23
汗かき水飲みだったのでキスリング両ポケにポリタン必需だった。
よく年配ベテランに「体絞れ」と説教されてた。
確かにベテランは食事以外あまり水飲まない。さすがだ。
何のことはない。年とれば自然と水分欲しなくなるじゃないか。
カサカサに干上がるが。
212 :
底名無し沼さん:2010/09/22(水) 07:41:47
>>201 >>206 199だけど
七倉から千天の出合いまで、高瀬川左岸を歩いたが、トロッコの軌道が
真ん中あたりまであって、歩幅をそれに合わせないと、歩きづらかった記憶がある。
その写真も在る(白黒だけど)。昭和39年か。
真ん中へんから千天の出合いまでは、普通の小径だった記憶がある。
P1から登り始めたが、当時はみんなキスリング。
藪にザックが引っ掛かり大変だった。
>>207 それほど多くの人が北鎌へ入っていたわけではないので荒れている感じはしなかった。
当然マーキングなどは全くない時代。
当時、北鎌は北アルプス最後の秘境とか云われていた気もする。
※思い出した。
当時、読んでいた本は安川茂雄の「霧の山稜」、吉野満彦の「山靴の音」。
結構愛読書だったな。
213 :
底名無し沼さん:2010/09/22(水) 08:37:28
何たって、有名なクライマーが何人も命を落としているからな〜。
それだけで危険なルートって擦り込まれたよ。
今の北鎌の盛況ぶりを彼のクライマー達はどう見ているんだか・・・
214 :
底名無し沼さん:2010/09/22(水) 12:48:00
>>207>>212 昭和40年はさんで何度か行った。
>>212の言うように、トロッコ軌道歩いた記憶がある。少し後になるとダム工事
だったと思うが、ヘルメット貸してくれて湯の股まで歩いたこともあった。
自前のがあるといっても、規則だからと渡された。
>>208の言うとおり、湯の股〜千天出会いのへつりは恐怖の連続で、出会いに
着いたら嬉しかったな。
心のどこかで、北鎌で落ちるのは仕方ないとしても、アプローチでやったら恥ずかしい
なんて邪念があったのかもしれない。
北鎌尾根はまだ秘境の様子だったね。
踏み跡見たら懐かしい気がした。
215 :
207:2010/09/22(水) 12:53:06
お二方ありがとうございます。
秘境ですか、、、、今でも損雰囲気は残してますが、ケタ違いだったのでしょうね。
216 :
底名無し沼さん:2010/09/22(水) 17:38:31
217 :
底名無し沼さん:2010/09/22(水) 23:36:50
福ちゃん荘を機動隊が取り囲んだ頃を語るスレですか?
218 :
底名無し沼さん:2010/09/23(木) 05:13:53
学生時代の合宿は兎に角「根性や気合い」に支配されていた。
部の山行はもちろんキスリング。
個人山行はサイドポケットなし縦型アタックできめた。
ただミレー、カリマーは高くて無理。さかいや製だった。
大鍋担当。ドン亀チャン。
221 :
底名無し沼さん:2010/09/23(木) 10:26:10
>>219 当時は今の中国と同じで、カリマー・ジョーブラウンやミレー・グランドジョラスを
模倣した商品が堂々と売られていた。
さかいやの「先縦者」とか、な。
223 :
底名無し沼さん:2010/09/23(木) 11:43:33
安かったけど縫製が雑なヤッケをつくっていた
「たにがわ」というメーカーもあった
通販で秋に注文して、届いたのが暮の冬山出発直前で往生したわ
224 :
底名無し沼さん:2010/09/23(木) 12:53:21
カリマーのジョー・ブラウン、ピーター・ハーベラー、ハストン・バロット、・・・
どれも懐かしい。できればもう一度、背負ってみたいザック。
ミレーのグランドジョラスは大事に使った。
残念ながら今風のザックの方が背負い易さは優ってる。
今は緊急具入れてる。震災時は共に避難。
最近山に湧く団体連中と違ってここの人々には好感を覚えます。
アルパインガイド槍穂の三宅氏、近畿の山の
中西氏の文章は紀行文のようですきだったな。
日本アルプスの中で南から始めた俺は白籏史朗氏著のアルパインガイドを、それこそ擦り切れるまで読んだ。
氏の書き方は無骨さが溢れ、いかにも南アらしく思った。
光岳から寸又峡、大無間、笊。自分にとって未知の山々の紹介文を何回も読んだ。
>>228-229 アルパインガイドの「上高地・槍・穂高」(三宅修著)と「南アルプス」(白籏史朗著)は、
今でも、本棚にあり。どちらも写真家であり、また単独で書かれた山と渓谷社発行の
ガイドブックですね。
「上高地・槍・穂高」には、北鎌尾根から槍ガ岳へ(日程:前夜発2泊3日、歩行
約25時間25分)が、熟達者のみに許されるコースとして3ページに渡り、紹介されている。
また、2冊共、序章でアルプスへの旅として、入山へのアドバイスなどが記載されていて、
ちょっとした読み物になっているのが興味深い。
今また、読み返している。
231 :
底名無し沼さん:2010/09/24(金) 16:41:09
青い表紙の版だけど、白籏さんの『南アルプス』は今でももっている。南アルプス
林道が開通する前で、戸台から北沢峠まで歩かなきゃいけなかった時代。
三宅さんの「上高地・槍・穂高」は赤い表紙の時代のをもっていたけど、なくして
しまった。記憶では、徳沢から大滝山にいくルートがのっていた。
ほかに、中畠沢からの六百山、八右衛門沢からの霞沢岳もあったように思う。
232 :
底名無し沼さん:2010/09/24(金) 18:36:57
「登山者のための気象学」って名前だったか?
気象の本をボロボロになるまで読んでバラバラになった。
お気に入りの音楽とひとり酒をのみながら読むことのできるよいスレだね。
234 :
底名無し沼さん:2010/09/24(金) 20:40:55
>>199 だけど、ボクが持っている「南アルプス」(アルパインガイド)は
著者が山本朋三郎(やまもとともさぶろう)だ。静岡の人だね。
昭和39年発行、210円。
235 :
底名無し沼さん:2010/09/24(金) 21:18:15
>>232 昭和48年にタイムスリップ!
「登山者のための気象学」山本三郎著380円。
横山厚夫著「登山読本」も380円。
五百沢智也著「登山者のための地形図読本」は750円。
「登山者のための気象学」山本三郎著は、1977年3月20日改版22版発行で780円。
恥ずかしいことに新品に近い状態。これからまじめに読みますw
山渓カラーガイドにも三宅氏や白籏氏の著書があった。
観光目的のガイドがほとんどだったが、山渓らしく山に関する本も結構あった。
その中に「雲」と題された本があって、前半は新田次郎氏の随想、
後半は筆者を忘れてしまったが雲についての解説だったと記憶している。
その本で自分は十種雲形とか観天望気とかを覚えた。
珍しい雲の写真も多数で結構気に入って読んでいた。
高校のとき友人に誘われて、鳳凰三山に行ったよ。自分にとって初めての日本アルプスだった。
お盆も過ぎた夏の終わり、夜叉神峠から登り始め南御室小屋に泊まった。
ランプの灯る山小屋の薄暗さとカビ臭い布団に正直幻滅してたけど、なぜか興奮してなかなか眠れなかった。
翌日早朝に小屋を出発して、森林限界を越えたところで御来光を待った。
残念ながら曇りで太陽は拝めなかったが、白砂青松の道は歩きやすく左に北岳を望みながらの稜線歩きは楽しかった。
途中オベリスクで遊んだりしたため、青木鉱泉に着いたのは日も暮れかかってたけど、満足のいく旅だった。
そうして自分も友人たちも山にはまり込んで行ったのだった。
239 :
238:2010/09/24(金) 22:28:47
↑今から30年も前の出来事でした。
230です。
>>231 >>234 「上高地・槍・穂高」(三宅修著)→ 昭和52年版J
「南アルプス」(白籏史朗著)→ 昭和50年版E
を持っていて、どちらも表紙は写真になっている。
「上高地・槍・穂高」は、上高地のバスターミナルと河童橋の中間地点の左岸から望む白銀の穂高。
内容は、常念、燕、乗鞍岳も網羅している。
「南アルプス」は、バットレスを背景に大樺沢を登はんしている5人の絵である。
ザックはキスリングで麦藁帽子というおそろいの格好は今でこそ?
あとがきを読むと初版は昭和45年(1970年)らしい。
本は購入後すぐに本が傷まないように図書館の本のようにフィルムコーティングしたので
結構、持ち歩いているが、しっかりしている。が月日は30年以上経過している。(笑)
241 :
230:2010/09/25(土) 00:33:17
>>230 >>240 さんへ
ありがとう。私のもってる「南アルプス」は昭和46年7月10日発行初版。
表紙の写真はご説明のとおりです。昭和45年7月に白峰三山を縦走した時も、
麦わら帽子はかぶっていないが、写真と似たようなキスリングとニッカーだった。
探すと仲西さんの「近畿の山」もみつかった。こちらは昭和47年1月10日
発行3版。
「冬山―入門と案内」は昭和44年11月20日発行5版
もっと古いのもあって、角倉三郎・阿部恒夫「比良―研究と案内」は昭和40年
森本次男「京都北山と丹波高原」も昭和40年。この二つは表紙が赤。
なくしてしまった三宅さんの「上高地・槍・穂高」はこちらの赤いほうだった。
240です。
>>241 昭和50年版には、このガイドブックも5年目をむかえる、と記載されているから、
初版は昭和46年(1971年)となる。間違えました。m(_ _)m
>>227 連合赤軍になる前の赤軍派が軍事訓練(笑)をするために合宿してたから
244 :
底名無し沼さん:2010/09/25(土) 19:47:18
>>199 だけど、
>>230 タイムカプセルを開けた。
アルパインガイド「北アルプス」と「上高地・槍・穂高」が在った。
「北アルプス」は槍沢から槍ケ岳を望んだ表紙。
昭和35年初版、昭和37年四版発行。150円。
編集兼発行人は川崎吉蔵。
発行所:山と渓谷社
「上高地・槍・穂高」は上高地から見た岳沢の表紙。
著者は三宅修氏
昭和45年6月1日。初版発行。300円。
この版には、西穂ロープウェイが地図に載っている。
245 :
底名無し沼さん:2010/09/26(日) 15:31:53
ところで昔のテントに比べて今のホームセンターに売ってる
2.3キロぐらいのツーリングテントって十分すぎる性能ですか?
246 :
底名無し沼さん:2010/09/27(月) 08:48:28
>>245 30年代後半から40年代半ばにかけてだけど、夏期はほとんどが家型のテントだった。
写真が見つからないので、詳細は覚えていないけど、真ん中に一本、今で云うドーム型
のフレームを入れていた。風が強いときに、そのフレームを押さえた記憶がある。
素材はビニロンだったと思う。
2〜3人用で数sかな。雨、夜露で濡れた後は、丸めて背負子に縛り付けていた。
今の1〜2用の山用のテントを持っているが、耐久性、重量、快適さは雲泥の差があると思う。
247 :
底名無し沼さん:2010/09/27(月) 12:05:11
>>245 夏はツェルト、冬はウインパーを使っていた。
素材はビニロンかタフタ?だったかな。
ウインパーは内フレーム(塩ビパイプや竹)を入れるとフレームだけで
今のロッジ型テントの収納サイズより大きく、新人の時の冬合宿はこれを
3張り持たされて辛かった記憶があります。
そのかわり、どんな悪天でもびくともしないテントでした。
>>247 タフタってのは織物の名称で素材じゃないぞw
>>247 ビニロンのウインパー、仮に5人用として、合掌式ポールやフレーム込みで
だいたい8sぐらいあるだろう。
1張りならともかく、3張りも新人に持たせて冬山を歩かせるような
リーダーは失格やな。新人がバテたり滑落したらパーティはテントなしで全滅やんけ。
251 :
底名無し沼さん:2010/09/27(月) 17:57:07
252 :
底名無し沼さん:2010/09/27(月) 18:17:27
>だいたい、いつも40kgくらいか
昔の人はいつも40キロ担いでたんでつか????
冬山合宿なら長期間だし30−40kgは当然でしょ。
254 :
底名無し沼さん:2010/09/27(月) 21:43:00
>>251だけど
夏でも冬でも40キロ前後かな。
軽くしようと云う思いは余り無かった。
それが普通だったから。
それに比較して軽いモノなんか一つも無かったから。
ストーブ(コンロ)はラジュースかスベアかホェーブス。
みんな重さはほとんど同じ。
なんg(グラム)なんて、考えたコトもなかった。
255 :
底名無し沼さん:2010/09/27(月) 21:48:06
40キロってさぁ
容積的にどれくらいになるの?
100リットル?
まぁ。水を30リットル持って上がった
って言われれば
ハイ。そうですか。。。て言うけど
256 :
底名無し沼さん:2010/09/27(月) 21:55:52
>>248 タフタで通じるだろう。
例えばエステルを使ったタフタなんてないだろう。
40てすごいな。ボッカ訓練でそれぐらい。
骨ゆがむ。冬でも30いかなかった。
258 :
底名無し沼さん:2010/09/27(月) 22:49:55
40キロって。すげぇなぁ
それ担いで平気で登ったんだ
でも、40キロはすげぇよぉ
山岳部のOBが「コレ持ってけ」って丸ごとのスイカや一斗缶入りの水飴持ってきたり…
泣きながらキスリングに積み上げる。
260 :
底名無し沼さん:2010/09/27(月) 23:03:53
なんかさぁ
じじいが。記憶を頼りに
自慢してるって言われてもしょうがない
状況だよな。。これは・・・
40キロって。妄想だよって
速く認めろよ
261 :
底名無し沼さん:2010/09/27(月) 23:04:34
妄想じゃないだろ
262 :
底名無し沼さん:2010/09/27(月) 23:06:42
40キロだぞ
何持てば40キロなんだ?
水40リットルか??
263 :
底名無し沼さん:2010/09/27(月) 23:09:37
>>262 たとえば、セメント一袋はだいたい40キロだね
今は軽くなってるのかな?
265 :
底名無し沼さん:2010/09/27(月) 23:16:27
ぼっか訓練じゃなくて。。。。
普通の山行きで40キロは当たり前だって
親父?叔母さん?がいるから。。。
ぼっかの人は別だと思うぞ
夏でも30-40普通っていうのが
湧いたからスレが進んだだけだ
266 :
底名無し沼さん:2010/09/27(月) 23:18:14
合宿の話だろ。
今の装備では想像つかないだろ。一つ一つの装備が重くでかい。
小物入れにビスケットの空き缶使ったりな。
軽量化の概念が今と違う。
今は道具そのものを軽量なモンにするけど、昔は「持って行くか置いて行くか」の二択。
269 :
底名無し沼さん:2010/09/28(火) 00:05:22
UL厨ってテント泊で「今回は12kgでした。。重すぎてばてたorz」とか
言ってるよなw
>>265 おい。「山行き」って何だ?
ゆとりでシロートが、これまたエラソーにw
素人が素人にシロートと言う
まさに2ch
自己紹介乙
273 :
底名無し沼さん:2010/09/28(火) 07:44:16
>>255 >>40キロってさぁ 容積的にどれくらいになるの?
キスリングのサイズは巾で2尺4寸、2尺2寸、2尺と在った。
なんリットルなんていう表示は無い。
1尺は約30センチ、一寸は約3センチ
故に2尺4寸は30×2+4×3=72センチ。(サイドポケット含まず)
高さは約90センチ(3尺)。
厚みは約24センチ(8寸)
容積を計算すると、約150リットルか。計算違っているかな?。
でも、目一杯高く入れることはなかったから120リットルくらいか。
冬山偵察のデポするモノなど、一斗缶へ入れたが、ザックの上に乗せた。
それでも、乗らないと、背負子にキスリングを縛り付け、一斗缶を乗せた記憶がある。
それ故、カニ族なんて言葉もあったな。
てか、今でもボッカもできないヤツなんか冬山に連れて行きたくないよ
昔の岳人たち凄すぎだろ……
今の若者が40kg背負ったら背骨折れるぜ
ボッカなんかシゴキにつながるからな・・・だからその後本格的登山から若者が
離れていって中高年の趣味になっちゃったのかもね。
となりの半島では登山が盛んでヒマラヤなんかもよく行っているようだけど
徴兵があるから基礎体力ができているのかもな。
若者なき登山(ハイキング)
・金必要。
・時間必要。
・歩くだけ。技術的向上不要。
・闘争心不要。刺激なし。
279 :
底名無し沼さん:2010/09/28(火) 18:22:33
昭和40年前後の経験だが、夏の合宿でも出発時普通に35〜45kgだった。
今と素材が違う。
ナイロンテントはあっても1張、あとは良くてビニロン、古いのは帆布だ。
それにフライの重さが追加されるし、ポールはアルミだがペグは木製が主流だった。
一夜張ったら、ずっしりと重くなった。雨ならなおさらだ。
食糧が重かった。にんじん、たまねぎ、ジャガイモ、きうり丸のまま持って行った。
肉は味噌に漬け込んで、トン汁にした。
当時はそれが当然と思って、新人のときは前の人の靴だけを見つめて歩いてた。
ジジイの妄想とかじゃなく、当時の計画書のままだよ。
生きた鶏持って行った世代ですか
ウエストベルトなんてない時代
282 :
sage:2010/09/28(火) 19:08:31
ボッカ40キロについて
いろいろ、ご教授頂き有り難うございました
往年の皆様におかれましては
今後ますますのご活躍をお祈りしております
また、季節も冬に向かいます、くれぐれも
持病や怪我にお気を付けください
天寿を全うされますことをお祈りしております
では。rom専門に徹します。
283 :
底名無し沼さん:2010/09/28(火) 19:11:57
いや、雷鳥を焼き鳥にして食ったとか聞いたことあるけど本当?
画像か動画をアップしてほしいな
285 :
底名無し沼さん:2010/09/28(火) 19:43:25
ジャガイモとか洗って持って行った?
動画ってまだ8ミリとかがやっとの時代だったんじゃないかな。
>>283 そりゃ昭和でも初期の頃までの話じゃね?
昔は、鉄砲持って山行ってたから雷鳥はおろか、熊やカモシカも食ってたでしょ。
288 :
底名無し沼さん:2010/09/28(火) 21:02:01
>>279 >>肉は味噌に漬け込んで、トン汁にした。
肉って云っても、豚肉だった記憶がある。牛肉は高級品。
味噌で包み込んで、空気が入らないようにした。
空気が入ると痛みが早くなるから。
そんな中でベーコンが在った。
ベーコンというと鯨肉のベーコンの事だった。
>>286 >>動画ってまだ8ミリとかがやっとの時代だったんじゃないかな。
世間ではゼンマイ式の8ミリカメラだった。それさえも高級品。
一般の家庭にカメラが無い時代だ。固定電話も普通の家庭には少なかった。
そんな中、岩波映画社が16ミリカメラを持って涸沢を基地にして
映画を撮っていた記憶がある。
289 :
底名無し沼さん:2010/09/28(火) 21:11:16
学生時代(昭和49年)に先輩から冬合宿用として、湯通しした白菜や大根、人参
を天日やストーブで干して乾燥野菜にするよう指示を受けた。学生寮で皆から臭い
の苦情に苦しみながらも懸命につくった。
しかし、合宿の鍋でこの乾燥野菜は汁につけても「野菜」に戻ることはなく、干か
らびた繊維のままだった。
290 :
底名無し沼さん:2010/09/28(火) 21:51:30
ボッカ40キロについて
いろいろ、ご教授頂き有り難うございました
往年の皆様におかれましては
今後ますますの掲示板での昔話で
ご活躍されることをお祈りしております
また、季節も冬に向かいます、くれぐれも
持病や怪我にお気を付けください
いまは使われない登攀道具でアイスメスってどうやって使うんですか?
292 :
底名無し沼さん:2010/09/29(水) 21:03:39
ニッカボッカが廃れた経緯と時期が知りたい
>>292 ありがとうございます。昔の登攀記に出てきていたのでどうつかうのかわかっていませんでした。
リンク先の文中に
>広島の有名登山家がパートナーとロープで繋がったままこのコースで転落死した。
とありますが・・・この方、K2を無酸素で登った人のことかな・・・。
>>292 そこのページの人熱いなぁ
昔はみんなそんな感じだったのかな
俺にはそんなバイタリティねぇわ
296 :
底名無し沼さん:2010/09/30(木) 08:37:09
>>293 昭和50年代辺りにチノパンが台頭してきてからじゃなかったかな?
この頃から夏山縦走はチノパンにラグジャーってスタイルが流行りだしたと思う。
297 :
底名無し沼さん:2010/09/30(木) 09:20:59
>>293 >>ニッカボッカが廃れた経緯と時期が知りたい
>>296 >>昭和50年代辺りにチノパンが台頭してきてからじゃなかったかな?
山と渓谷社から月刊誌「OutDoor」、小学館から「Be-pal」が発刊されたころかもしれない。
それまでは欧州系のスタイルだったけど、それ以後は米国系が増えていった気がします。
「アウトドア」という言葉に、すごく違和感を持ったのもこの頃かな。
やはり、この頃から僕もラグビージャージを着ていたな。
>>293 ウールのニッカーは85年とかでも普通に売られていました。
内側の膝前にナイロンタフタを当てたニッカは今でも歩き易いし重ね着してても
脚上げも良好です。
当時のズボンでストレッチ素材はジャージみたいなのしかなかったのかな!?
外観から来る古臭い?イメージとストレッチ素材の長ズボンの登場が衰退の原因?
でも、純日本人体型の我々には似合わんかったんだよね、ニッカー…
>>297 「ヘビーデューティ」っていうアメリカのアウトドアファッションだね。
80年のタラスブルバのカタログが出てきたけど、まるっきりそれ。
ニッカーなんて作ってない(笑)
ニッカの時の靴下に馴染めなかった。
オッサンのルーズソックス姿。
302 :
底名無し沼さん:2010/09/30(木) 10:42:25
>>297だけど
>>298 >>当時のズボンでストレッチ素材はジャージみたいなのしかなかったのかな!?
今のジャージのようなモノ自体がなかった気がする。
綿だったらあったのかなぁ?。
伸びるズボンということで、スキーズボンを履いた。
当時、エラスチックという素材で伸びるスキーズボンが売り出された。
細くて足の土踏まずに引っかけて履くタイプのズボン。
靴のなかにズボンが入る。
トレンカーと呼んでいた。
知り合い同士で山行した際、一人がバテた。ワンゲル副部長やってた慶応のが(その場のリーダー)
自分のキスリングの上に、バテた奴のキスリングを乗せて、すいすい歩き始めたのには
たまげたな。少なくとも30kはあったろうな。
305 :
底名無し沼さん:2010/09/30(木) 15:18:01
>>302 チノパンにはストレッチ性はなかったな。
ニッカーからチノパンに履き替えて山行ったら、ちょっとした岩場を乗り越えるのに膝が伸びなくて嫌な感じだった。
ジャージの方が岩場は歩き易かった。ただ、ジャージはすぐに裂けるけどチノパンは簡単には破けたりはしなかった。
昔のズボンはしゃがんだときによくケツが裂けた。縫製が弱かったのかな。
型紙と言うか裁断にも問題があったんだろうな。
308 :
底名無し沼さん:2010/09/30(木) 17:44:50
>>304 ワンゲルは重量そのものが目的みたいに背負ってたね。
山行中メンバーが動けなくなったら、交代でも背負って下山が常識だったと思う。
今のように、怪我したら救助ヘリとか言う発想がまるで無かった。
梅雨の頃、丹沢大倉尾根で石や水詰めたキスリング背負ってあえいでいたのは、
各大学のワンゲル部員たちだった。
昔は「ヘリを呼ぶと家がつぶれる」って言われてたからなぁ。
今は日が暮れそうになったらタクシー代わり。
>>304 その人カッコイイな。
今どうしてるの?
>>308 高校山岳部で、バカ尾根のボッカ訓練は、よくやったよ。
1970年代中盤のころだが。
あのころの塔ノ岳山頂には、丸い大石がゴロゴロしていたっけねw
昔話しかできないのかぁぁぁぁ!!!!
そういうスレじゃないんかw
そういう。スレだったんだ。すまん。。。
>>311 今はわからない。信用金庫に就職したことまでは、卒業したすぐ後、間接的に聞いたけど。
慶応の商学部だったから、(こう言っては信用金庫の関係者に失礼だが)ちょっと
以外だった。オイルショック直後で、大企業は軒並み採用を控えてたから、そのせいかな?と。
人類の進歩と調和
318 :
底名無し沼さん:2010/10/01(金) 17:57:06
>>305 昭和40年(1965年)前後には、チノパン…という言葉がなかった。
VANジャケットが盛んな頃だったのでコットンパンツという呼び名だと思う。
チノパンという言葉は、昭和50年(1975年)代、アウトドアという用語が
出来てからと思う。
ニッカーズボンの後はスキーズボン→ウールの普通のズボン…と言う感じだった。
昭和47年(1972年)の札幌オリンピック以降はスキーズボン(トレンカー)
を多勢の人が履いていた。その後スキーズボンが靴の上にかぶせるタイプになった
ので、止めていった。
319 :
底名無し沼さん:2010/10/01(金) 18:46:26
>>318 スキーズボンはエラスチックと表示されて伸縮性があるのがウリだったけど、
最初の頃は縦方向だけしか伸びなかった。
北アなどでは、まだニッカが主流だったように思う。
ただ女性は圧倒的にスキートレンカーが多かった。其れも黒の。
すそがかかとを包んで登山靴の中に入ってしまうから、足が長く見えるのが
理由だったのかもしれないね。
当時の山おんなに、今度OB会で尋ねてみよう。
ニッカーズボンと並んでトレンカーがありましたね。ググると、50年代の大学山岳部では
トレンカーが主流だったらしい。その後10〜20年で、ニッカー主流になったのでしょうか。
321 :
底名無し沼さん:2010/10/01(金) 20:41:42
未だにムッシュ製のトレンカーやIBS石井タグのニッカが衣装ケースに入っている。
恐らく35年は経っている。継接ぎだらけだがなぜか捨てられない。
それを履いて散歩するんだ!
少なくとも俺は笑わんぞ。
そして夜な夜な取り出しては、そっとにほひを嗅ぐのだな…
324 :
底名無し沼さん:2010/10/01(金) 21:08:44
318だけど、
みんな尻革は、何を使っていたんだ?(笑)。
なんか想像するに、果てしなくマタギに近い世界だったようなw
それは高かったのか、それとも安かったのか?
見当もつかないなあ。
つい数年前まで、ニッカとカッタシャツで、低山を徘徊してたんだが・・・
330 :
底名無し沼さん:2010/10/01(金) 22:26:49
尻皮って、今は高級品じゃないの?
熊の尻皮探してます。散弾で穴が空いてない奴。
遭難騒ぎにはなったが、森吉山3人組はある意味カッコいいな。
332 :
底名無し沼さん:2010/10/02(土) 20:00:39
尻皮にお似合いは手甲・脚絆に編み笠の井手達。
チューリップハット、チロルハット、テンガロン、ハンチングは
ゴメンなさい。
334 :
底名無し沼さん:2010/10/03(日) 16:22:37
そんな時代もあぁ〜たねと いつか 話せる日がくるわ〜♪
あんな時代もあぁ〜たねと きっと 笑って話せるわ〜♪
まわる ま〜わるよ〜 時代はまわる
別れと出会いを 繰りかえ〜し
今日は倒れた旅人たちも 生まれかわって 歩き出〜すよ〜♪
335 :
底名無し沼さん:2010/10/03(日) 20:46:12
ついに変なの来た!
336 :
底名無し沼さん:2010/10/03(日) 21:32:16
しかもマゾだ!
338 :
底名無し沼さん:2010/10/04(月) 12:12:21
>>334 ちょっと世代が下かな?
社会派フォークからみるとニューミュージック世代はズレを感じてしまう
339 :
底名無し沼さん:2010/10/04(月) 12:24:31
>>324 犬のダブル使ってたよ。
折り返して2重になってるから、雪の上では断然暖かかった。
先輩に熊、カモシカ持ってる人が居て、羨ましかったな。
同級生にナチス独軍の尻当て持ってるのが居て、其れはそれでカッコ良かった。
あれはどこで手に入れたんだろう?
340 :
底名無し沼さん:2010/10/05(火) 20:52:14
ナチスの尻当て…ってあったんだ!(驚)。
341 :
底名無し沼さん:2010/10/05(火) 20:59:41
当時、キスリングとは別にアタックザックと称するザックを使っていた。
ただの袋状のザック。横にチャックが付いている。
「Severe」というネームのタグが縫いつけてある。
冬用のアノラック、オーバーズボン、オーバーシューズにも
この「Severe」マークが付いているが、誰かメーカー名を知らないかな?。
たまには施設から
外に出て
山へ散歩に行こう!
ムリするんじゃないぞ。・若くないんだから
343 :
名無しさん@十一周年:2010/10/07(木) 04:32:12
その頃軟弱私立のワンゲルにいた。冬はスキー。
キャンプ時はベースを張って、肉を塩とか味噌で炒めて保存用にする。
ゴミ用の青いビニール袋に入れて川や水場の冷たい水で保存。3日ほど保つ。
海(無人島)でキャンプした時に同様の方法で海に沈めた。
結果⇒カニに襲われてグチャグチャになった。
魚肉ソーセージ(今みたいに洗練されてなく太くて脂がぶつぶつしてるやつ あれ最近見ないな?)
を大事に使って トン汁(魚肉汁) カレー(魚肉カレー) 肉野菜炒め(魚肉炒め)・・・・
ウニとタコは簡単に取れたので助かった。
344 :
底名無し沼さん:2010/10/07(木) 06:31:44
おまえもすぐ仲間入りw
昔ながらの重登山靴での雪山&春の残雪時ですが、ソールの縫い目の糸から浸みますよね?プラスチックブーツが出る前はどうしてたのですか?
すぐに割れて剥がれてくるけど、靴の縫い目専用のセメダインみたいな目止め剤があったよね。
糸が腐るから、オイルやワックスは塗るなって言われてた。
水の染み込みを防ぐ為に、細くて薄い革を縫い込んである靴も多かったね。
シリコンの目止め材が最強
346です
縫い目に目止めするのですか。小説氷壁ではオーバーシューズを履いたとか書かれていましたが見たことが無かったもので…。
レスいただけた方々、ありがとうございました。
352 :
底名無し沼さん:2010/10/07(木) 17:01:25
>>351 オーバーシューズは耐寒用なんですよ。
目出帽、オーバーヤッケ、オーバーミトン、オーバーズボンにオーバーシューズ。
言われてみると体丸ごと、オーバー何々で覆ってたんだね。
もし日本山岳会のエベレスト初登頂動画か写真見る機会があったら、
フル装備のオーバー何々が分かります。
>>352 351です
レベルの低い奴でスミマセンでした。
オーバーシューズの件まで教えて頂き感謝感謝です。ここは良スレですね。
エベレストの画像はNHKのを録画してありますので改めて見てみます。
未だにオーバーシューズ売ってるよね
縁を引っ掛けるだけのは嵌めるのが大変でさー…
356 :
底名無し沼さん:2010/10/07(木) 21:09:46
まるでミイラのごとく重ね着の極致があの当時の冬山スタイルの定番。
先輩からのお下がりのオーバーシューズやオーバーミトンなんて継ぎはぎ
だらけで、よく凍傷もせず生還できたものだ。
とにかく濡らさない工夫だけがおのれを守る術と叩き込まれた。
そうは言うけど、3日目のウールの下着なんか、行動中はグシュグシュ、停滞中は半分凍ってガッパガパでさ…
358 :
底名無し沼さん:2010/10/08(金) 11:46:09
ウールの下着、いわゆるラクダだな。
ザックを背負って、背中に汗をかくわけだが、何回も使っていると
背中がフェルト状になって、一枚の硬い布のような感じになってしまう。
オーバーズボンはアイゼンが当たる部分はボロボロになるね。
あの頃のアイゼンは8本爪。
アイゼンバンドは革製で毎朝凍ってカチンコチン
おれのチンポもラクダのパンツの中でカチンコチン
若かったのう
361 :
底名無し沼さん:2010/10/08(金) 16:22:02
凍らせまいと、入るだけのものをシュラフに詰め込んで眠ったね。
靴もアイゼンバンドも手袋、ミトン、水筒まで・・・
氷を抱いてるようなもので、いつまでも暖かくならないまま文字通り
震えて眠った。
両側のシュラフも震えていた。
夜中にオーバーシューズを履いてキジうちに行って
尻出したまま滑落してパンパカしないよう、
底にシールを縫いつけた特製のテントシューズを使っていた。
おかげで雪煙たなびく夜の稜線でも安心してうんこができたな。
363 :
底名無し沼さん:2010/10/08(金) 20:55:53
冬の天幕内はストーブを焚いていれば摂氏零度位でも暑く、内張りに滴る
水滴を小まめにふき取る作業を黙々としていた。
火を消した途端にバリバリと天幕が揺れながら凍っていく様子が昨日のよ
うに想い出される。
同志に合掌。
364 :
底名無し沼さん:2010/10/09(土) 04:16:39
本物のシールってアザラシですか?
まだ北海道で作ってる人いるのかな
366 :
底名無し沼さん:2010/10/09(土) 14:51:42
スキーか。なんだっけ?カンダハー?ってもう無いよね?
アルペンではバッケンからビンディングになってきた時期?
367 :
底名無し沼さん:2010/10/09(土) 16:26:37
山スキーとカンジキ、どっちが雪山登るのに有利か?ってTVで昔やってたな〜。
斜面を直登するのがカンジキ、ジグザグ切って登るスキー。
距離はカンジキの方が断然短いが時間と体力ではスキーが有利。
加えて下りで斜面を滑ってこれるのでスキーがいいとされた。
ただスキーの最大の弱点はかさばる事。
>>364 アイゼン持ってれば、ワカンの爪は不要。
両方同時に装着する時は、ワザワザひっくり返して爪を上向きに装着した位だ。
スキーの最大の弱点は雪崩を誘発しやすいこと
>>364 学生ですが(正確には院生なので、部活からは離れてますが)、ゾンメルって
春スキーのことかと思ってました。
>>368さんの言っておられるテクニックは「アイゼンわっぱ」と言ってました
。
装備は変わっても、言葉は結構伝承されているものですね。一本立てる、アルバイト、
しごかれる、ゼルバン、等々。
371 :
底名無し沼さん:2010/10/09(土) 21:03:36
>>365 そう。本物のアザラシの皮。トゲが立って居るんです。
それをスキーのソールの巾のテープ状にしたモノ。
スキーのトップにも、そのシールを引っかけるように出っ張りがあった。
後はベルトで板に絞める。
>>366 スキーの金具はカンダハーか。
その後、スキー界ではローターマートとか、ルックネバダの
セフティー金具が出てきた。
アイゼンと裏返しにしたワカンを同時に履くことはあったが、
実際にはアイゼンを履いた時と、ワカンを履いた時は、
歩き方が異なるので面倒だった。
ラッセルするような時は、ワカンだな。
372 :
底名無し沼さん:2010/10/10(日) 23:30:38
スキーが大衆化しだしたころ、ナウい男女は華やかでカラフルなファッション
で着飾りアルプス山麓のスキー場からは洋楽が流れてきた。
山岳部の冬合宿はモノクロで自虐的であり、大きなギャップを感じ出したのは
1978年だった。
373 :
底名無し沼さん:2010/10/11(月) 09:16:20
>>372 八方辺りでゲレンデスキーでチャラチャラ滑っていると、上の方からデカいザックを背負って力強い滑りで降りてくる数人の男達を見た。
ウェーデルンみたいにカッコいい滑りではなく足を開き気味のパラレルだが、その滑りはコブなど潰してしまいそうな力強さだった。
その時が山スキーとの出会いだった。武骨で男っぽいスキーがすごく格好いいと思った。
374 :
底名無し沼さん:2010/10/11(月) 09:52:36
冬合宿で先輩が「リフトは使うのは邪道」と云って、未明のゲレンデを
ヘッデン灯してかんじきでガシガシ登らされた。
しかし、リフトの運転が始まり監視員からゲレンデを荒らさないように
と注意され、朝一番のスキー客に罵声を浴びせられた。
懐かしい1976年。
376 :
底名無し沼さん:2010/10/11(月) 16:56:22
北海道から
スキーはあくまでアプローチ手段と教えられ、重い荷を背負ってスキー限界までラッセル。そしてつぼ足で岩場へ。
下山の時、スキーの下手な俺はあえて竹のストックを使用し、股に挟んで制動をかけ直滑降。
板はカンダハーで無かったが、懐かしさが蘇る1975年厳冬期。
377 :
底名無し沼さん:2010/10/11(月) 17:55:01
八方尾根。
ゴンドラでウサギ平へ。
その上へ向かうアルペンリフト。
強風で運行停止。
短いリフトの終点にあった小屋。
リフトに乗ると数分かな。
胸までの雪をラッセルして小屋まで2時間半。
トヨタ2000GTが発売なった、1965年厳冬。
トヨタ2000GTか…
トヨタのスペシャルカーなのに、エンジンからボディまで全部ヤマハで作ってたんだよな…
S800ってのもあったな チェーン伝達式だったか
トヨタスポーツ800は、スポーツカーのクセにエンジンとかは小型トラックのミニエースと共通部品が多かったのな。
ヒーターオプションでは燃焼式だし…
ホンダのSは600と800があった。
よく火を吹くと噂になったが、エンジンは分割クランクシャフトとか採用していたりして、「よくこんなモノを量産出来たな」って高いレベル。
「走る精密機械」とも呼ばれた。
381 :
底名無し沼さん:2010/10/11(月) 20:04:55
いつのまにかカーグラになってるし!
ここでアムロ君のナレーションが入ります
383 :
底名無し沼さん:2010/10/11(月) 20:16:16
田口トモロヲ でお願いします。
「若者たちは熱狂した。」
「夜の街にカミナリ族の爆音が轟くまでにそれほど時間はかからなかった」
あの頃は良かったな
今はこの国も風前の灯みたいになってるけど
まだだ…まだ終わらんよ!!
007の「死ぬのは奴らだ」だったかで、敵のスキーヤーが除雪車に巻き込まれるシーンがあったね
>>385 クワトロ大尉乙
車好きの上にアニオタか・・・お前は俺か
390 :
底名無し沼さん:2010/10/12(火) 20:51:13
原田知世主演の「私をスキーに連れてって」は1987年
志賀高原舞台にセリカGT4がゲレンデでひっくり返ってた。
最後のスキーブームの火つけ役だった。
スレ違いスマソ
昨晩みたくせにw
392 :
底名無し沼さん:2010/10/12(火) 21:27:05
>>377だけど、申し訳ない。
車に振ってしまった。
当時、オヤジが2000GTを買ったのを覚えていた。
当時は、芳野満彦とか奥山章とか第二次RCCのメンバーに憧れたな。
>>392 マジっすか!?と即レスw
差し支えなければお父上の職業お教えくださいませ。
だって当時医者でも変えないくらいのブツだったでしゅ。237マンエンだったかな?
実は400万円で売っても採算がとれるかどうかの車だった。
超お買い得。
395 :
底名無し沼さん:2010/10/13(水) 07:12:10
>>392 当時の初任給は2万円以下だった。
現在の初任給が20万円とすると、当時250万円した車は
今で言うと、2500万円。
車の普及度も含めたら、今で言えば2倍の5000万円くらいかもしれないな。
>>378 ヤマハが作ってたのは知らなかった。バイクの技術が生きたのか。
昭和のトヨタの高性能エンジンはヤマハ製。
ただ2000GTは当初日産に売り込んだが、関心を惹くことができず、
トヨタへの売り込みが成立した経緯がある。
398 :
底名無し沼さん:2010/10/13(水) 20:27:27
文化・伝統から工学までえらい勉強になるな〜。
さすが日本の高度成長長を支えた世代だ。
そう言えば、日産はプリンスのエンジン技術欲しさに吸収?合併したんだっけ?
>>399 実際は技術じゃ喰えないので
販売流通網が有る日産に買って貰った。
数十年後に腐乱すメーカーに買い取られるは
401 :
底名無し沼さん:2010/10/14(木) 10:55:14
冬、雪中でテント泊するときには、炭俵が必須だったな。
当時は次第にプロパンが広まっていたが、麓のどこの村でも、炭屋さんが在った。
炭俵って米俵と違ってもう少し硬いストロー状のやつだ。
テントを張って、最初に床に広げるのは炭俵。
その上にエアマットを広げた。エアマットも、やたら空気が漏れた。
それは昭和30年代の話や
爺さん、はよ寝いや
403 :
底名無し沼さん:2010/10/14(木) 21:05:12
>>401 時代考証大丈夫か?
エアマットは家畜の内臓で造ったもの?
そういう人もいたのかね。
昔のエアマットてプールで使うようなマットだったんだろ
あんなもんどうやって持ってくんだよ・・・
407 :
底名無し沼さん:2010/10/15(金) 09:30:26
悪気は無いのだろうけどズレが多き過ぎるかな
エアマットは冬山ではかえって冷えると聞いたな。
409 :
底名無し沼さん:2010/10/15(金) 11:54:06
エアマットは経験ないなぁー
泡マットなら経験豊富なんですが・・
ハクキンのような金属の容器に墨入れるカイロって使えますか?
また安全性はどうですか?
桐灰カイロか。
炭の宿命として、微量ながら一酸化炭素が発生する(心配するほどの量じゃない)のと、身体から焚き火みたいなニオイがするようになるのが難点か。
その辺で売ってるライターオイルやストーブ用の白ガソリンが使える触媒カイロと違い、専用のスティック型の炭しか使えないのもデメリット。
>>412 どうも。 暖かさは・・・ハクキンと比較して暖かさはどうなんすか?
炭俵のお爺さん、生きてますか?
415 :
底名無し沼さん:2010/10/17(日) 05:36:56
>>414 生きてるよ!。
あの頃の山の教科書は「登山技術と用具」だったな。
西岡一雄、海野治良、諏訪多栄蔵共著。
山と渓谷社。
220円。
昭和34年。
416 :
底名無し沼さん:2010/10/17(日) 06:35:58
>>415 炭俵のお爺さんって、戦前ウマれの古希ですか?
西岡さんも海野さんも諏訪多さんも草葉の陰
炭俵の爺さんもそろそろですかね?
418 :
底名無し沼さん:2010/10/18(月) 17:30:04
炭俵の爺さんの仲間じゃ。
助っ人に駆けつけたぞ。
炭俵は稲わらではなく、萱で作ってあったんじゃ。
今、ホームセンターなどでよしずを売ってるが、あれの小型のものだと思えばいい。
設営前につぼ足で雪面踏み固めて、炭俵を敷き詰めていく。
エアーマットはゴム製で、表面に繊維の粉みたいなのが貼り付けてあった。
キャラバンシューズで大もうけした片倉ゴム製だったな。しかも枕付きだ。
座ったり踏んだりしたらボンボン撥ねる。
高度あるテン場で膨らますと、でかい風船と同じでめまいしたものじゃ。
419 :
底名無し沼さん:2010/10/18(月) 17:45:11
昭和30年代に乗っ取られそう
突然車の話に持っていくからだ
40年代も飽きてきたし炭俵の爺と助っ人でやってくれ
同一人物だと思うけどな
よしず?羽毛シュラフなぞ無いので外からの断熱だったんだ
420 :
底名無し沼さん:2010/10/18(月) 17:59:08
>>418 ありがとう(笑)。
麦藁でなくて、アシの細いヤツか。
>>419 同一人物ではないゾ。
羽毛シュラフは在った。
米国軍の放出品を扱う店があって、そこで売っていた。
が、朝起きると、身体が羽根だらけになっていた。
昭和39年、東京オリンピックの頃、羽根服が売られた。
高卒初任給が地方では1万8000円の頃、
ルネ・ドメゾンの羽毛上下が7万8000円だった。
この頃を、第二次登山ブームと言ったのではないかな。
第一次は戦前か?。
421 :
底名無し沼さん:2010/10/18(月) 18:35:17
ところで、なんで昭和40年代末期なんだ?何かあったのかな。
別に江戸時代でもいいよ
もっとも登山が盛んだった奈良時代でもいいよ
425 :
底名無し沼さん:2010/10/18(月) 21:06:07
アッハッハハハ!
皆さん大人ですね
426 :
底名無し沼さん:2010/10/18(月) 21:19:00
>>422 スレ立てた人はその頃、青春真っ盛りだったのでしょうね。
昭和50年大晦日、レコード大賞を聴きながら膝抱え壁でビバークしてた。
大賞だったシクラメンのかほりを聴くと思い出す。
しみじみ目に浮かぶなあ。
428 :
底名無し沼さん:2010/10/19(火) 08:06:43
炭俵ジイです。良い名前を付けてくれてさんきゅう。
昭和44年、安田講堂、アポロ月面着陸
昭和45年、大阪万博、三島由紀夫自決、70年安保
昭和46年、????
昭和47年、浅間山荘、札幌オリンピック
この頃から、山から遠ざかっていた。
山の友人が遭難して亡くなったり、社会人生活が忙しくなったきた。
40年代後半というと、こんな時か。
山へ復帰したのが平成のはじまり頃かな。
阪神大震災の後からだ。
登山板でこのスレが一番面白いw
当時からずーっと続けている人はやっぱり少ないのでしょうかね
年齢は
>>14くらいだから沢山いるだろうけど、2ちゃんやってる人は少ないのでは。
431 :
底名無し沼さん:2010/10/19(火) 10:46:52
炭俵ジイです。
マイコン時代からのパソコンユーザーです。
DOS時代からCタームとか、versalinkとかを使ってパソ通をしていた。
1985年がNTTの規制緩和で、カプラーからモデムが使えるようになった。
地方では最初は300ボーくらいか。
インターネットはWindows3.1から使っていた。
トランペットとか、ウインソックスとかエアモザイクなんかを集めて接続。
本格的に接続したのはWindows95。
Windows98になったら普通になった。
最初はナローバンド、NTT料金は従量制。
アナログ回線、ISDN、ケーブルネット、ADSL、光…と回線も変わってきた。
常時接続になって料金が固定料金制になってから、インターネットは広がったね。
1995〜1996年ころか?。忘れた。
XPになってネット加入者が一気に増えたな。
432 :
底名無し沼さん:2010/10/19(火) 13:37:57
>>426 俺は、その日七面山敬慎院で板の間に正座して読経してたよ。
その夜は途中で一緒になった女の子達と枕を並べて寝た。
敬慎院名物の長い布団に順番に入るんだが、若い女性と隣り合わせで寝るなんて始めてで落ち着かなかった。
彼女の体温を直に感じるんだから若い自分はたまったモンじゃない。しばらくは寝つけなかったよ。
翌日は快晴で富士山から昇る初日の出や右手に広がる南アの山々が綺麗だったが、前夜の事が頭から離れずうわの空で歩いてた。
懐かしい青春時代の一コマでした。
434 :
底名無し沼さん:2010/10/19(火) 14:21:28
>>433 風呂は入らなかった。
確かタオル厳禁、石鹸使用禁止じゃなかったかな?
435 :
底名無し沼さん:2010/10/19(火) 17:22:32
炭俵ジイの助っ人です。
スレからはみ出すが、老いの繰言と許してくだされ。
>>420の話、全く一緒、ひょっとして同僚?
昭和39年10月10日、東京オリンピックの開会式当日涸沢で幕営してた。
前夜からの降雪ハンパなく、起きては除雪の繰り返しでテント掘りの状態だった。
一転快晴となったが、日本国の一大イベントに敬意を払って停滞にした。
涸沢ヒュッテがスピーカーで入場式の中継を流してくれた。
「日本選手団、堂々の行進!」
アナウンサーの絶叫が穂高の壁にこだましていた。
436 :
432:2010/10/19(火) 18:12:18
この時知り合った彼女とは、しばらく文通(笑)などして付き合った。
だが、向こうは既に働いていたし、こっちは貧乏学生。なかなか会う事も出来ず、結局振られたな〜。
437 :
底名無し沼さん:2010/10/19(火) 21:15:02
慶応生まれの皆さん、戸籍からちゃんと抹消しますから成仏してください!
438 :
底名無し沼さん:2010/10/19(火) 21:33:40
65歳過ぎて2ちゃん来るのは大したもんだ
昭和30年代スレなど立てて追い出したら毎日二人でやるしかないし
>>12 1975年で25歳として今60歳 30歳として今65歳 35歳なら70歳か
Windows95から15年・・・仕事で使ったか使わないかで個人差が出てくるね
東京オリンピックの時代に涸沢ってすごいな・・・
当時の上高地ってどれくらい寂れてた、というか開発されてなかったの?
その情景教えてください。
それとその当時文太郎の名は知れ渡ってた? 興味あるなあ。
>>433 御意に。びっくりしたな。
敬慎院では狭い風呂に混浴。
露天風呂と違い何だかはずかしかった。
ふとんは男女別。頭を突き合わせた形で寝た。
そのうわさを聞いて七面山〜八紘嶺
出かけたけど当時すでに混浴中止してた。
442 :
底名無し沼さん:2010/10/19(火) 22:37:04
>>435 炭俵ジイです。
同僚ではありません。ごめんね。
その年の、その時はまだ高校三年生。
涸沢には住んでいなかった(笑)。
涸沢は頻繁に行っていた。
その頃、涸沢奇族の岡村なんとかさんと
お友達になりたかった。
毎日、ザイテンを上り下りして、滝谷に出張の日々。
>>439 >>当時の上高地ってどれくらい寂れてた、というか開発されてなかったの?
山の形は当然、変わっていない。
けど、上高地へ向かう道路は川沿いの道。
今でも、崩れてはいるけど、車から見える。
>>それとその当時文太郎の名は知れ渡ってた? 興味あるなあ。
加藤文太郎の本は出ていましたから、知っていました。
風雪のビバーク、松濤明。
山靴の音、芳野満彦。
今はない、朋分堂の山の本が懐かしい。
443 :
432:2010/10/19(火) 22:39:06
>>440 布団が男女別だったの?何時頃のことだろ?
昭和50年の大晦日は男女一緒だったよ。
元日は八紘嶺まで彼女たちと一緒に行動した。
彼女達は静岡の藤枝に住んでて、俺らは東京に帰るから静岡駅でお別れだったが、写真を送ると言って住所を聞いたっけ。
>>442 おじいちゃんだから仕方なかろうが、ビミョーに記憶違いがあって、微笑ましいw
滝谷に出張するなら、「南稜」でしょう。
そういえば、朋「文」堂ヒュッテは、いつから涸沢ヒュッテと名前が変わったんですか?
朋文堂が倒産したのって、調べても良く分からんのです。
445 :
底名無し沼さん:2010/10/20(水) 10:24:50
炭俵ジイです。
>>444 そおか、ザイテンも南陵も使った。
ジャンダルム側に行く時にはザイテングラードか。
最初はキャラバンシューズを履いていたが、その後、黒い硬いビニール製の登山靴にした。
確か、セルバンシューズとか言った記憶があるが、曖昧だ。
足首に折り返しが付き、ゲートルを巻く時に重宝だと言われたが、ゲートルを
巻いたことはなかった。
朋文堂はいつ倒産したのだろう?。
私もしらない、覚えがない。気が付いたら朋文堂がなかった。
良い山の本がいっぱいあったな。
涸沢ヒュッテ、素泊まりで400円くらいだった記憶がある。
幕営だったから、それほど何回も泊まったコトはない。
446 :
底名無し沼さん:2010/10/20(水) 18:25:27
炭俵助っ人です。
>>434 上高地は現在とそれほど変わりないよ。
5千尺旅館が古くて、まだ山小屋の雰囲気だった。バスターミナルが今より小さかった。
全体に旅館の数は少なかったと思う。
若い皆さんが想像してるよりずっと賑やかで、遊歩道なんて整備されてないから混雑は
逆に酷いくらい。
カッパ橋も、今と同じデザインだった。
炭俵ジイの回想のように、大きく違うのは島々〜上高地のバス道。
稲核(いねこき)ダムが無かったから、路は梓川の水面近かった。
釜トンネルあたりも含め台風で土砂崩れが何箇所も出て、上高地が孤立することが
あった。
下山してきたら通行止めで、旅館に泊まろうとしたら満杯。
テント持ってる人は幕営をと言われたが、食糧使い果たしてて非常食の乾パン食べてしのいだ。
開通のめどがハッキリしないので、徳本峠越えて帰ったことがあったよ。
447 :
底名無し沼さん:2010/10/20(水) 18:32:34
>>445 サンクスです。
いつの間にか倒産していた朋文堂・・・、ちょっと切ないですねえ。
449 :
底名無し沼さん:2010/10/20(水) 20:47:06
国道158号はは当時名だたる悪路だった記憶。
落石ひんぱんでガードレールもボコボコしてた。
二車線ないところが多く、カーブでクラクション鳴らしながら運転した。
でも、上高地BSの駐車場に難なくマイカー停めて登山できた。
昭和40年代末期。
そうだったなぁ。
上高地も尾瀬鳩待峠もマイカーで入山できたんだよなぁ。
>>450 当時マイカーを持っていた人のみネ・・・
452 :
底名無し沼さん:2010/10/21(木) 08:32:14
>>446 炭俵ジイです。
炭俵助っ人さん、ありがとう。
さすがに徳本峠を越えて帰ってきたことはなかったです。
その頃はカメラも貴重品。それほど写真を撮っていなかった。
数少ない写真、アルバムの中から昭和38年8月のバスの切符がでてきた(笑)。
上高地→松本。上高地線。260円。
10数年前に山を再開して、一番最初に行った所は徳沢です。
涸沢まで行こうと思ったけど、徳沢園の個室へ泊まって見たかった。
家族で行ったのだけど、目的地は徳沢園。
ここへ幕営したことは何度かあったが、あくまでも前線基地として使っていた。
明神を見上げて、うかつにも涙が出ました。
>明神を見上げて、うかつにも涙が出ました。
良いなぁ...。
30〜40年後見上げて泣けるような所は全然まだ行ってないな。
来年こそ北アチャレンジしよ
よく昔の覚えてるなぁ。回顧録のカキコミか。
455 :
底名無し沼さん:2010/10/22(金) 21:07:46
>>453 炭俵ジイです。
その頃は、明神、屏風を見上げても、何とも思わなかったんです。
ただ、登攀する対象物でしかなかった。
だから、どこの山でも良いと思う。
北アルプスだけでなく、自分の地元の山で良いと思う。
自分が情熱を注いだ山。
それが何十年後に熱い想いになるのだと思う。
100名山なんか、関係ない。自分の好きな山を登るのです。
他人の決めた山なんて関係ない。自分の好きな山を登るのです。
何回も。
40年代後期の板に、30年代を入れてしまって、申し訳ない>all
ヤマレコって、処にいってみ
すごいから。写真付きで
オレが生まれる前からのぼってる人がいっぱい。・・
457 :
底名無し沼さん:2010/10/23(土) 11:25:07
良スレですな。
458 :
底名無し沼さん:2010/10/23(土) 20:47:04
取ってもいいのは写真だけ!
残してもいいのは想い出だけ!
459 :
底名無し沼さん:2010/10/23(土) 20:56:05
460 :
底名無し沼さん:2010/10/24(日) 21:40:41
詳しく聞かして
>>459 つまりウスユキソウは穂高では絶滅したってこと???
462 :
底名無し沼さん:2010/10/25(月) 20:55:20
初めて中部山岳など3千m級の山岳を訪れた時、「自然を大切に」なんていう
看板が沢山あって驚いた。
まだ自然保護や保全が社会一般に浸透していなかったから、妙に新鮮なフレー
ズに感じた。
昭和48年。
今ならその看板が先ず要らないと言われる
でも未だにトンデモな人いるよ。
この9月、重太郎新道のド真ん中に大量のティッシュのしたに○○が!
ガマンできなかったのは分かるが、せめてひねり出す場所と、水溶性の紙使えよ!と思った。
俺紙は燃やしてる。 燃やすとね、ウンコが付いてる部分j爆ぜるんだよw
465 :
底名無し沼さん:2010/10/25(月) 22:13:33
「コレが一番環境に優しいんだよ!!」とか言いつつ、その辺の葉っぱで尻を拭く知人がおる。
いつか漆の葉っぱでやってくれるんじゃないかと期待している。
467 :
底名無し沼さん:2010/10/26(火) 00:25:04
>>461 絶滅以前に自生してんの?
穂高にエーデルワイス、ひょうたん池には行ったことないからなんなんだけど。
>>466 川に入って洗うバカなサバイバル登山家というのもいるそうな
469 :
底名無し沼さん:2010/10/26(火) 01:13:33
467です
調べたらエーデルワイスって雑草みたいに、どこにでもあるみたいです。
中東出張でやみつきに。左手とペットボトルの水で洗い、
拭かないでパンツあげる。そのうち乾く。
キジウチ、オハナツミですな。
昭和末期にスキー場で働いていた。
大学のスキー部がかけ声かけながら列になって滑って来る。
それを見ていた当時年配の登山の人達が懐かしいと言ってた。
聞けば昔は山行きの時もあんな風にかけ声かけて
時々スローガンなんかを叫びながら登ってたそうで。
それから10年位経ってどこかの山でそんなパーティを見かけて
まだ生き残ってるんだ、あのおじさん達は元気かなと懐かしく思い出した。
473 :
底名無し沼さん:2010/10/26(火) 13:06:26
>>472 掛け声は普通だった。
冬でもやってたはずなのに、なぜか夏合宿のシーンを思い出す。
俺たちはファイトォー!だった。
サブリーダーが発声してみんなが続いて叫ぶのだが、呼吸のリズムが乱れて
発声後は前より息が荒くなったものだ。
でも30キロ〜40キロのキスリングが肩に食い込んで、意識が重量だけに集中して
しまってる時だから、安全のためには役に立ったと思う。
>>473 やっぱり普通だったんだ。
根性論ではなく安全の為だったんですね。
今ではスキー場でも聞けなくなりました。
運動部なら掛け声は普通に出すでしょ
住宅地でも山間でも海沿いでもランニング中はみんなで掛け声出して走る
今は住宅街から苦情が来るのでそこだけ無言で走ります
今時田舎の高校生でもしてないよ
掛け声で気合なんて今どき自衛隊のレンジャーくらいな気がします
でも、一体感と意識強化には価値ありますよね、個人的には好きです、声出
警察もまだやってますよ
水をさすようで後ろめたいんだけど、
掛け声があるが故、己の限界を見間違えたり、仲間のそれに気が付かなかったりするって恐れあると思う。
事実大昔どこかの雪山で学生の大量遭難死あったでしょ。
あれホワイトアウトの中そういうノリで前進し続けたのが最初のマチガイだったらしい。
唯一生存者(リーダー)が語ってたような・・・・チョイ不確か
>>478 レンジャーは掛け声等出さないぞ
敵にバレバレジャン
植村直己は軍歌歌いながら登ってた。
今の流行りは森のクマさん。
つまんね
>>480 思い違いだよ
薬師なら13人全員死亡で生存者なし
小枝氏より中田氏のほうが好きだな
TV登る女。富士山でニッカ&キスリングの御人発見。
いまも生存するのか。さすがにキスリングは背負いたくは
ないが、ニッカは着用の機会をひそかにねらってる。
488 :
底名無し沼さん:2010/10/27(水) 12:14:57
>>485 昭和38年だったね。
ものすごい豪雪の年だった。
上越線土合駅が雪に埋まって、改札口から雪のトンネル。
駅からマチガ沢出会いまで6時間以上掛かった記憶がある。
当時土合は地下ホームではなく、地上の線路を渡って改札口へ出た。
>>487 ニッカって歩きやすいよね
低山行くのに膝までのパンツを穿いた時に思ったよ
膝の動きを妨げない
ウールのニッカって案外暖かいんだよね
夏履いてもそんなに暑くないし
結構良いもんなんだけどな
ウールのズロースも暖かいよ
夏も蒸れないウールのズロース
ニッカにルーズソックス
山ガールならぬ山ギャル byオヤジ
493 :
底名無し沼さん:2010/10/27(水) 16:20:50
ニッカーしか知らない世代にとっては何の疑問も無かったが、今ふりかえると
伸縮性の無い生地ではあれしかなかったのかも。
小石が靴にはいる、藪ではストッキングが破れるとか、欠点もあったな。
現在の山やさんのように、長ズボン、すぐロングスパッツつけるというのは、
案外合理的だと思う。
494 :
底名無し沼さん:2010/10/27(水) 17:54:01
>>493 炭俵ジイです。
普段の山行きはトレンカーとウールのニッカー。
摩擦に強いと云うことで、岩登りの時はコールテンのニッカーを履いた。
既製品で山道具屋で売っていた。
スパッツも在ったけど、長いヤツでなく足首だけを包むようなモノだった
記憶がある。石ころ砂などが靴の中に入らないようにしたのかな。
長いのも在った記憶があるが、使ったコトがない。
495 :
底名無し沼さん:2010/10/27(水) 21:11:19
だから〜昭和40年代末期でお願いシマス。
オール ガンバー! (行く)ゼッ! (行く)ゼッ! (行く)ゼッ!
良スレなんで、sageでいきましょうや。
自分は3000m級や冬山では、いまだにニッカ。 やっぱ、動きやすいし暖かい。
ニッカは、昭和40年代末期はもちろん、平成1ケタまでは主流だったと思う。
今では入手困難なのが悩みの種。
>>494 冬ではロングスパッツは必須だと思うんですが
何か格好いい人多いなぁ
この前穂高に行った時ニッカに地下足袋ってのが数人居ましたよ
見た目にも歩きやすそうだったなぁ
499 :
底名無し沼さん:2010/10/28(木) 11:16:22
>>495 スレチかもしれんが、昭和30年代も片隅に置いといてください。
行くところが無いんです。
大正池工事では?
>>499 いいよ
テントの前室ならいつでもどうぞ
502 :
底名無し沼さん:2010/10/28(木) 12:22:45
>>501 ありがとう。
山板の人はいい人ばかりだ(泣)。
【アメリカの肉便器・脱糞馬鹿ウヨ】
1.世界的視野が狭く短絡思考。
2.断片的知識で都合の良い様に短絡思考し、
自己中心的で善悪の見境がない。
3.感情的に短絡思考しワメキ散し、
果ては罵り暴行に及び、最悪は人殺しに及ぶ。
4.暴走族や狂信カルト信者に似ている。
5.日本の国情や国際外交を殆ど考慮せず、感情的な短絡思考で
言動に及び、それが国益を損なう事を理解できない。
また国益を損なう結果に及ぶ。
6.知能はアホ厨房以下。
ウールのニッカ、引っ張り出したら入らないわ
若い頃のだからウェストがねorz
単独でニッカ履いて、新宿から電車で行くのには多少照れがあるかな
506 :
底名無し沼さん:2010/10/28(木) 15:54:36
山渓や岳人なんか全然買ったことないなぁー
本屋でチラッと立ち読みするくらい
岩と雪は廃刊するまで取っていたが
「新ハイキング」いかが?
508 :
底名無し沼さん:2010/10/28(木) 18:29:36
>>494 炭俵ジイさんの助っ人です。
コールテン、そう呼んでたよね。
あれ、ほんとに摩擦に強かったのかな。
なんかすぐ擦り切れて、当たる所がペラペラ布一枚になった思い出がある。
>>496 ロングスパッツが普通になるのは、だいぶあとになってからと思う。
靴の防水や保温が格段に進歩したからでしょう。
革靴はどんな高級品でも、5日も雪の中で行動すればダダ濡れだった。
保温最優先で、オーバーシューズをはくのが普通。
ちなみにオーバーシューズは靴底から全部スッポリはいて、上で締める。
底を張った筒のようなモノです。
万一アイゼンが引っかかった時、破れたほうが転倒しないというので、キルティングの
オーバーシューズ買った。
510 :
底名無し沼さん:2010/10/29(金) 08:31:44
>>508 炭俵ジイです。
さんきゅうです。
オーバーシューズ。黄色のビニロンでした。
今でも靴底(アイゼンが当たるカ所)がボロボロですが残っています。
キルティングのオーバーシューズは見たことがあったけど
買えなかった(泣)。
アイゼンの大きさはオーバーシューズを履いて合わせたので
靴のままはアイゼンを履くには大きくてグラグラで履けない。
黒い絶縁テープをグルグル巻きにして、サイズを合わせた記憶がある。
その頃、「山と渓谷」、「岳人」、「ハイカー(山と渓谷社)」が在ったな。
コール天とまだ普通に言ってる。
>>504 ウールはなぜかチクチク感があって当時敬遠した。
いまだに下着もだめだ。
>>511 コーデロイに名称変更。
513 :
底名無し沼さん:2010/10/29(金) 16:11:52
ここはほのぼのした良いスレだね。
コーデロイじゃねえよコーデュロイ
オーバーシューズ+アイゼンは経験なし。
オーバーズボン+ロングスパッツ+アイゼン有or無は当時も普通だった。
登山靴の靴底が露出するタイプのオーバーシューズもあった。
縁が強力なゴムで、取り付けに馬鹿力が必要なんで、一度取り付けたらワンシーズン付けっぱなし。
517 :
底名無し沼さん:2010/10/29(金) 21:15:47
ロングスパッツのふくらはぎ側にファスナーのあるタイプは、
体をねじっての悪戦苦闘の装着で登山する前から筋を痛めた。
ゴアテックスはこの頃か?
ポリプロピレン製の下着というのを買ったが、あれは50年代だったかな?
コインランドリーの乾燥機で乾燥させると、縮まってしまうもの。
ゴアが出た直後、スポーツ用品店でゴアのデモやってて
まじ「すげぇ!」と思った。
発デートの彼女と見てたんだ。
そのときスカしっぺが漏れちまって、辺りにニオイ充満して・・・だったの鮮烈に覚えてるよ。
>>521 そのデモってゴアの上に水張って、下からエアポンプで空気送って「空気は通るけど水は漏れない」ってデモかな?
見た記憶があるんだがな。どこで見たんだろ?思い出せん・・・
オレの発汗量からすれば焼け石に水だ、といいながら使う。
初めてのゴアテックス製品は娘のオムツカバーでした。
今はその娘にオムツを交換してもらっている爺です。
1976年8月号の「山と渓谷」誌を買って、丹念に見てるけど、この時代はまだ、ゴアテックスの「ゴ」の字も出てこないね。
>>522そそ、そのテモだ。
ただ下になるのはポンプじゃなくて、小型モーターで回すプロペラだった。
直径10cmほどの透明アクリルの筒だったと記憶してる。
528 :
522:2010/10/31(日) 23:27:40
>>527 プロペラで空気送ってたのか・・・
その辺も記憶が曖昧なんだよなぁ・・・
兎に角、すげ〜なって印象はあった。これからの合羽は劇的に変わると思ったよ。
それまでのゴム引きの合羽は雨で濡れないかわりに汗で濡れ濡れになったから、どっちにしろ濡れたんだよな。
ゴアの合羽なら、もうあの不快感は味わなくて済むと思った。
まぁ宣伝するほど快適じゃなかったけどね・・・
遊歩大全の原書にはゴアテックスは紹介されてないけど、芦澤氏が訳注で最新素材として紹介しているから、多分その間。
530 :
底名無し沼さん:2010/11/01(月) 11:05:43
炭俵ジイです。
山と渓谷社から「outodoor sport」誌というのが創刊されたのが、1976年11月。
第2号1977年5月。三号が1978年6月。
月刊誌になったのは1980年以降ではないのか?。
http://www.re-make-re-model.com/outdoor.htm このリンク先を見て「ゴアテックス」で検索すると1979年5月号にヒットする。
その頃から、米国の山道具が紹介され、「アウトドア」、「フィールド」とかの
言葉と一緒に日本へ入ってきたような気がする。違ったら訂正下さい。
それまでは欧州一辺倒の登山界だったが、この頃から円高も相まって、輸入し易く
なったのではないか?。
531 :
底名無し沼さん:2010/11/01(月) 11:20:36
炭俵ジイです
>>401 に雪の上での幕営には炭俵を敷いたと書いた。
昨日、本屋で「PEAKS」という雑誌を購入した。
お洒落で楽しい本ですネ。
昔、山と渓谷社からでていた「ハイカー」という雑誌と同じかな。
その中に、同世代の坂下直枝氏(男性)が紹介されていた。
ボクは20歳代の中頃には山を止めてしまっていたので、知らない。
現在は登山道具のロストアローの社長さんですね。
99ページの上段に、「捨てられた登山靴を修理して履き、マット代わりに炭俵を
背負ってひとりで冬山へ登った10代のころ」という記述があった。
>>531 なぜ名前欄に「炭俵ジイ」と記入しないの
コテるとキモイ粘着とか湧いちゃうからこれでいいんじゃね
それより炭俵ジイさんよsageてくれんかのぉ
登攀用でクレッターシューズってのは、この頃だったかな?。
爪先詰め気味で、コバ小さくして、立ち込みし易くしたやつ。
ついでにニッカーの話です。
先日、知人の仕立屋に聞いたところ、現在はツィードのズボンを仕立て直して作ったりする事も有るよう。
勿論、オーダーメイドなら生地からお好みok。
「今の若いテーラーは作れないかもな」と宣っておりましたよ。
60年代のハリスなら暖かいね
先週、下山後に煙草を吸っている男性を見ました 推定60歳。パイプでした。
昔は、登山にパイプは、つきものだったのかな
雪山賛歌にもそんな歌詞がありますね。
パイプは上手にふかすの難しいんだよね
ツバたまっちゃうし
紳士のたしなみだ
540 :
底名無し沼さん:2010/11/03(水) 20:37:31
>>538 炭俵ジイです。
第一次南極観測隊の副隊長兼越冬隊長や日本山岳協会会長をした
西堀栄三郎さんが作詩。
(1) 雪よ岩よ われ等が宿り
俺たちゃ 街には
住めないからに
(2) シール外して パイプの煙
輝く尾根に
春風そよぐ
シール外して…って分からないだろうナァ。
このスレあんまり荒れないから、別にageでも構わん気もする。
>>542 まぁ、変な奴が寄ってこないように基本sageが推奨だからね。
炭俵ジイさんはage・sageの意味知ってるんだよね。
一応sage進行でお願いします。
>>540 シール?
スキーのシールのことじゃないの?
それともアザラシのこと?
>>544 スキーのシールは昔はアザラシの皮だったからシール云うんぢゃ〜い!!
>>540 新田次郎の小説には荼毘にふす時に歌うとか。
ちょっとふかしてみたいけど、パイプは敷居が高いです
自分には水煙草くらいで分が合う。
その人も白髪まじりでいいかんじに枯れた紳士だった。
雪山賛歌は詞にくどさが無くていいなあ
だけどさ、ずっと シールって、煙草の箱の封のセロハンのことだと疑わずにいましたよ
西堀栄三郎さんの話は色々面白いですね。
真空管に過電流をわざと流して修理したり、雪上車のスプロケットを、紅茶の葉混じりの雪で固めて応急修理したり。
実際は相当の困難があったんでしょうが、それを感じさせない語り口が素晴らしい。
新田次郎の小説読むとヨーデルを歌う場面が出てくる。
沢田真佐子という人の山行記にもヨーデルを歌ったとある。
昔は本当にヨーデルって歌ったモンなの?
炭俵ジイですさん、sageというのをお教えします。
sageを居れず書き込みすると、そのスレは板一覧の最上位に上がってしまうのです。
すると和やかに進んでた会話も、一般人(勿論荒らしも含む)の目に触れ、すさんでしまうことも多々ありますね。
そこで記入するとき[メール]欄に「sage」と半角英数字で入力してください。
するとスレは上がらず、平穏に保たれるのです。
新田次郎の小説に落石の時はヤケーと叫ぶとあったけど
ラクーではなく昔はヤケーだったの?
552 :
底名無し沼さん:2010/11/04(木) 00:20:41
オレ今年紀美子平ヨーデル歌ったぞ。
>雪上車のスプロケットを、紅茶の葉混じりの雪で固めて応急修理
不可能。完全なるデマ。
>>553 西堀栄三郎さんの著書「石橋を叩けば渡れない」に書いてあったのだが・・・
ホラ吹きなのはみんな同じだ。
>>555 山行の思い出話がそうとられることがある。
まぁ、笑わせようとして若干の誇張はあるが。
山の話に誇張があるのはデフォでしょ。
今時分の話題だとキノコ狩りに行って一抱えもある大舞茸を見つけたけど、重すぎて置いてきた。なんて話は良く聞くね。
山小屋の親父の自慢話なんて聞くと、大体こんな話だね。
だからといって、全否定することもないよね。
大学生の頃パイプふかしてたなぁ
金無いから桃山だったけど
その後葉巻になった
これは周りからクレームが多かった
社会人になったら普通の紙巻煙草にした
40過ぎて禁煙したよ
そんなことより炭俵ジイさんが、今度こそsageてくれるかドキドキワクワクしてんだがw
>>558 禁煙その後どう?
実は俺今日で禁煙24日目。 昨日今日と再度ガマンつらくなってきてさ・・・・・めげそう
>>560 そこまで我慢できたなら大丈夫。
我慢できるさ。ガンガレ
562 :
底名無し沼さん:2010/11/05(金) 08:12:03
>>559 自分でsageれば。
休煙。
断煙。
卒煙。
再煙。
自ら、たばこを止めることは禁煙とは言わない。
断煙。
何か変なの湧いてきたよ。
564 :
558:2010/11/05(金) 08:45:16
>>560 もう2年経ったよ
20年以上吸い続けてきたのに止める時は意外と簡単だった
まぁ、3ヶ月位は吸いたい衝動が波のように来てたけどねw
>>560 俺は30年近く吸ってたけど、そんなに苦労せずに止められたよ。
とりあえずニコチン1mgのタバコにして、暫くして止めた。そんなに禁断症状みたいのは出なかった。
でも山頂で吸うタバコはうまいんだよな。
可愛い〜あの娘は〜
タバコが〜好きで〜
いつもプカプカプカ〜
煙草吸って酒飲んで少ない休みに夜行で行って
元気な時代だったかもね
568 :
560:2010/11/05(金) 21:00:44
>>564 3ヶ月か。あとたたの60日だ、頑張る!
実際禁煙初めて山歩き劇的に楽になったもんな。
これは励みになってる!
>>566 チョット貸し間違ってるお
おれのあん娘は〜・・・・でした、ペコ
良スレですね
色々と勉強させてもらってます。
>>569 しまった・・・訂正感謝。記憶能力が落ちた・・・いかんな。
質問なのですが
加藤保男さんが厳寒期のエベレスト登頂された時、テレビ放映されたと聞いたのですが
どんなふうだったか教えてもらえませんか、私としてはTV報道自体が信じられないのですが・・・
この前の栗城よりも注目度・視聴率共に低かった
音沙汰なし。くたばったか?入院か?
じいさま達の昔話をもっと知りたかったなあ・・・
ピッケルは、もちろんウッド・シャフト。
自分はシャルレを使ってたが、シモンの方が人気があったと思う。
メタル・シャフトが頭角をあらわしてきたのは、80’中期のカジタからじゃなかろうか。
よくワカンやピッケルにアマニ油を塗ってた。
山道具の中で、ピッケルだけは思い入れがあるので、買いかえるつもりは全くない。
577 :
底名無し沼さん:2010/11/11(木) 21:01:44
age
ビバークとか遭難の話があれば教えて欲しいです。
クレクレですみません。
579 :
底名無し沼さん:2010/11/12(金) 08:00:13
会社なので音を聞けないが
映像だけ見ていると
新手の尻セード?と思ったけど合ってる?
581 :
底名無し沼さん:2010/11/12(金) 10:12:46
まさか そばでゲラゲラ笑っている女のでかい声が聞こえるよ
スレ趣旨がおかしくならないよう
栗城のことはこれくらいにしておきますね
583 :
底名無し沼さん:2010/11/12(金) 12:52:49
俺今までもウッドシャフトだよ
ちょっとはずいけど
意味ワカラン
588 :
底名無し沼さん:2010/11/13(土) 10:10:01
セーターの毛玉対策ってどうしてました?どのスレで聞いたらいいか分からなかったので、
ここはベテラン諸氏の意見を頂戴したく書き込みさせてもらいます。
>>590 なるほど髭剃りですね。Tの字のでしょうか。試してみます。
>>591 猛者は気にしませんかw確かにインナーに着込むなら気にならないのですが、
アウター代わりに外に着るときになるんですよね。
毛玉は取っちゃダメだよ。
どんどん薄くなり、保温性は落ち、最後には穴があく。
>>594 分からない人だなw
毛玉ってのは記事の表面を結果保護してるわけ。
だから、取った矢先から再度毛玉は出来始め・・・以下省略
596 :
底名無し沼さん:2010/11/13(土) 22:36:14
ぐるぐるケダマン
>>595 なんで切れてるのかが解らないんですが・・・
リンク先は生地を傷めずって内容のはずなのですが
くだらん
>>583 炭俵助っ人です。
驚いたなぁ、私のほうが数年、歳が上と推定できるけど、ピッケルまで同じとは。
Model RCCは、今でも大切に持ってる。
ヤフオクに出てるのは後期のモデルなのでしょうか。
注文してから1ヶ月後に届いたときの嬉しさ、思い出したよ。
私のものは刻印記号が4桁の数字のみです。NO.1からの通し番号です。
初期モデルだからと思うが、出品されてるものよりブレードが幅広く、カーブも強い。
門田はアサヒグラフか何かで、グラビアがありました。1本づつ手作業で研磨している写真でした。
亜麻仁油も中々手に入りづらいようですね。
画材店に行くと有ったりします。
オピネル愛好家は木部に塗ったりしているようですよ。
アマニ油は近所の好日山荘でいつも十個くらい置いてあるけど
605 :
底名無し沼さん:2010/11/16(火) 07:13:23
>>602 炭俵助っ人さん。炭俵ジイです(笑)。
モデルRCCをお持ちですか!。
我が家にも残っていますよ。
当時、数は少なかったでしょうね。
>>ヤフオクに出てるのは後期のモデルなのでしょうか。
スピッツェ…って言うのでしたっけ、あそこが丸くRを描いて上に伸びている。
初期のモノは真っ直ぐですよね。
606 :
底名無し沼さん:2010/11/17(水) 08:27:11
>>602 >>私のものは刻印記号が4桁の数字のみです。NO.1からの通し番号です。
炭俵ジイです。
モデルRCC
11c1…という刻印しかないです。もしかしたら1101かもしれない。
607 :
底名無し沼さん:2010/11/17(水) 15:35:43
スレヌシがageてるからage
>>606 助っ人です。
モデルRCCの購入のとき、刻印は通し番号と説明されました。
少しあとに仲間二人が購入しましたが、やや大きい4桁の数字でした。
炭俵ジイさんの番号が1101だとすると、自分のものにきわめて近いです。
609 :
底名無し沼さん:2010/11/17(水) 23:40:34
寒いからage
610 :
底名無し沼さん:2010/11/19(金) 12:40:41
天気最高age
ちんちんage
612 :
底名無し沼さん:2010/11/19(金) 16:44:53
ageとく
613 :
底名無し沼さん:2010/11/21(日) 20:53:58
ボジョレ飲み過ぎて頭痛が‥
加齢臭がすんな
このスレ
くんくん。くさっ>w<
爺さん
ここらで生存報告を
前二桁は製造年なんだがな
ユ店行った。ダウン安いのにびっくり。
かってドメゾンの羽毛服は手がでなかった。
30年ほど経って1/5か。
>>619 比較する対象が違う。まあドル260円が今は80円だからな。
当時はポケットなく、手はつっこめないしタバコもいれられなかった。
621 :
底名無し沼さん:2010/11/23(火) 18:03:41
ハネ服着てどこの山に行ったん?
国内じゃいらんだろうし
>>621 今どきのULブロガーの冬山レポを読んでみろよ。
おもしろいぞーw
623 :
底名無し沼さん:2010/11/23(火) 20:25:44
>>617 >>619 >>620 炭俵ジイです。生きていますが、夜が弱くなった(笑)。
ドメゾンの羽服上下。
昭和40年前後には、上下で7万円した記憶がある。
どうだろう、一般的に世間相場として初任給が2万円のころかな?。
多少は違うかもしれないけど。
1ドル360円。外貨持ち出し禁止の頃だ。
外貨を持ち出すには制限があった。
故に外国に行くには日本円で持っていった。
しかし、日本円の価値など全くなく、現地の銀行で替えてもらうと
銀行によっていろいろ。
1ドル400円〜450円はざらだった。
1日バイトして1000円以下の頃かな。
624 :
底名無し沼さん:2010/11/23(火) 21:14:25
いったよ
白頭山とか金剛山とか
626 :
底名無し沼さん:2010/11/27(土) 02:41:52
キリマンジェロとかお勧めっす!
627 :
底名無し沼さん:2010/11/27(土) 07:27:45
>>624 炭俵ジイです。
山へは行かなかったけど、米国の大学へ行ったんです。
昭和40年つーと初任給は3万円くらい?
こづかい10円ぐらい。
昭和45年くらいの時15円でアイスが買えた気がする
ジイ金持ちだなw
ベビーラーメン10円だった
633 :
底名無し沼さん:2010/11/27(土) 23:26:20
昭和50年だけど小屋のカップヌードルって¥300
今はいくらかな???
634 :
底名無し沼さん:2010/11/27(土) 23:51:36
今も300円
カップヌードルはでた当初まずかった。
636 :
底名無し沼さん:2010/11/28(日) 00:58:30
日本赤軍が、おいしくしてくれた
70年代の冬
総括!
お星様になり…
639 :
底名無し沼さん:2010/11/30(火) 19:13:55
そして、気圧ゼロの宇宙空間にカップヌードルは美しく粉砕し飛び散る。
山で気圧が低いのは愛想。
うどんDEすかいとかいうのは飛行機でくった。
つまんね
641 :
底名無し沼さん:2010/12/01(水) 00:11:23
>>636 昭和40年代末期の山小屋は、あさま山荘だね
LOWAの旧、革のcivettaはいつぐらいから販売されていたのでしょうか
先輩の履いているのを欲しいなーと思って見ていた昭和50年代末期登り始めです
643 :
底名無し沼さん:2010/12/01(水) 20:46:59
そんなの知らない
ズック靴にジャージで燕山荘一泊の、長野県民の中学の遠足。
644 :
底名無し沼さん:2010/12/02(木) 10:00:16
ローバ・チベッタって深型の軽いヤツでは。革製だったけ?
チベッタか。昔、横浜のジャヌーで古川さんから買ったな。
ヒマラヤトレッキング
ラーメンライス
ヒマラヤdeヒラアヤマリ
650 :
底名無し沼さん:2010/12/11(土) 13:23:18
>>642 私が購入したのが、昭和51年でしたから40年末には販売していたと
思います。
当時、3万位したかなあ ゴルフ場のキャディのバイトをして買った記憶
当時、ヘンケモンブランが欲しくてIBS行くたびにためし履き。
どうしても足にあわずあきらめたが、ホントは金なかった。
652 :
642:2010/12/12(日) 00:47:56
>>650 ありがとうございます。同一モデルを10年間も販売していたんですね。
この頃少しずつノルウィージャンの靴も復活していますが、
各メーカーに1種類ずつ位はプラブーツと同じく残して欲しいです。
年20日とかも行けない人間には使わなくても
製造からの経年期間で寿命が来る最近の靴より
使用頻度で寿命が決まる古い作りの靴のほうが愛着がわいてすきです。
もっと手軽に手に入るようになって欲しい。
>>651 おお! ヘンケモンブラン、なつかしいですね。昭和49年頃、鶴見のIBSで買いました。
これまで履いた靴の中では最高でした。
まだ保管していますが、保革油を塗り込んで靴底を張り替えれば、まだまだ使えそうな気がします。
でも片足1.2キロは、もう体力的にきついかも。
654 :
底名無し沼さん:2010/12/21(火) 06:21:01
昭和40年代って学生運動のイメージがある。
山家も、酒を飲みながら、♪フォークソングを歌っていたのでは?
ヒマラヤからトレッキングとやらが、北米からはバックパック
とともにジョンデンバー、ということで♪カントリー♪。
サンシャ〜イン オンマイ ショルダ〜 メイクスミィハッピィ
サイケ!
お亡くなりになったときにはある種の衝撃を受けたな。
やはり年代的にはジャニス・ジョプリンなんすか?
いや園マリです。
爺さんたち死んじゃった?
年末年始は忙しいんだろ
年寄りの会合とかで
ニートw
665 :
底名無し沼さん:2011/01/05(水) 14:32:11
age
立春まで冬眠
667 :
底名無し沼さん:2011/01/06(木) 08:53:52
>>660 何でだろうね
フォーク世代だが、何とも思わなかった美空ひばりが良くなってくるのは
園マリもつべで聴くと良いんだなぁ〜これが
んで、山に入って雪崩ですか
幸いなことに、雪崩にはやられなかった。
雪庇踏み抜いたことはある。
それ以後かなり夢でうなされたな。
昔セッピィってニックネームのレーサーが好きだった。
アークテリクス、グレゴリー、オスプレイなどは
知らなかった。いつのまにか主流になってた。
そう。ワシもビックリした。
そして、30年前は威光ビシバシだったミレーとカリマーが、おとしめられていた。
673 :
底名無し沼さん:2011/01/15(土) 09:17:54
ジジイたちは責任感ないな〜
埋めるまでやれよな
まだ40代だから若い方かな。
675 :
底名無し沼さん:2011/01/16(日) 06:14:44
メイド イン インドネシアの【ミレー MILLET】ザックを買ったときは、メマイがした。
10年以上、旅行用に使っているんだけど、まだ故障していない。
40年代前半までのテント(夏用)は、ほぼ100%家型だったな。
涸沢なんか、上から見ると三角屋根が同じ方向にずらりと並んでた。
重いうえに、防風、防水性能は現在のテントに比べると話にならなかった。
あの中でよく疑いもせず寝てたものだと、今更思うよ。
677 :
底名無し沼さん:2011/03/13(日) 10:16:23.57
ageとくか。
678 :
底名無し沼さん:2011/03/29(火) 08:36:26.77
昭和30年代のジジイ2人!
間違ってもあの世から蘇ってくるなよ
>> あの世から蘇ってくるなよ
心配するな
絶対にありえないよ
大戦ドイツ軍レプリカの山岳アノラック(ヤッケ)買った。
けっこう綿が入っていて雰囲気はアイガー北壁な感じ。
バイバイ、スーちゃん。合掌。
ラストメッセージに涙した。
>>646 ジャヌーの古川純一さん
高校の文化祭にお呼びしてスライドショー講演を
していただきました。
チベッタは友人が履いていた、岩が遠いと愚痴っていたな
私はヘンケのトゥーデイだった課なり細かいスタンスに立てた。
たき火を消そうと思って、ポリタンの水ぶっかけたら
石油だったでござる、酔いが吹き飛んだ。
石油なら、消えるだけだな。噴霧しても、あんまり引火しないかも。
おまえか
先週新宿でそれつけて歩いて職務質問受けてた奴
689 :
底名無し沼さん:2011/05/16(月) 18:13:46.68
なんだw昔も同じく二本足で歩いてるじゃないかwww
691 :
底名無し沼さん:2011/05/25(水) 08:33:22.17
>>687 カッケェな、欲しい
こういうゴーグル今でも売ってんのかな?
かっけえ
紅の豚の空賊みたいだ
水中眼鏡でいいじゃん。
シュワッ!
695 :
底名無し沼さん:2011/07/29(金) 10:25:13.98
チ!!
お自慰ちゃんお元気ですか?
だ〜れも いない
NHK-BSのザ・タイガースin武道館に感動。
ジュリー肥満。トッポどうした、参加しろ。
昔のユキサオリて美人だな。
◇ ミ ◇
◇◇ / ̄| ◇◇
◇◇ \ |__| ◇◇
彡 O(,,゚Д゚) /
( P `O
/彡#_|ミ\
</」_|凵_ゝ
【ラッキーAA】
このAAを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けてください
そうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
701 :
底名無し沼さん:2012/05/14(月) 16:51:33.20
うわー、懐かしい名前がいっぱいでてきますね。
私も還暦を超えて数年たってますが
ルネ・ドメゾンの羽毛服、同半シュラフ
門田のピッケル、タニアイゼン(まだ塗装前)
未だに現役です。
欧州山荘のサレワ形テント(2〜3人が限界)もあったのですが
さすがにこれは処分しました。
702 :
底名無し沼さん:2012/05/15(火) 22:23:05.91
1974年16歳で山登りを始めた若僧が来ましたよ。
ぎりぎりお仲間できますかね。
物置には、小ブス、先輩からのお下がりのピッケル、キスリング、IBSで買った登山靴が眠っている筈。
ワンダーのヘッドランプは本棚の隅に、水筒代わりのSIGGのフュエルボトルは台所に。
その頃と比べると、毎日24キロの負荷訓練をしている勘定のウエイトが哀しい。
子ブスですか、私は8Rを使用していました。
友人で大ブスを持ってきたやつがいたんですが
プレヒートを不十分なままひねったもんだから
大ブスがどんどん炎につつまれて大騒ぎになったことを
覚えています。
704 :
底名無し沼さん:2012/08/29(水) 10:45:41.32
夏が終わりますが
クールクールで夏がくーるー
706 :
底名無し沼さん:2012/09/14(金) 11:51:43.62
炭俵ジイです。
2年振りで(笑)。
生きています。
この板も、生きていたんですね。
キスリング(片桐)の2尺4寸と2尺。
アルミの楕円形のケースに入っていた2眼のクライミングゴーグル。
空気が漏れるエアマット。
サブザック(細野)
ツエルト(ビニロン・細野)
オーバーズボン(ビニロン)
オーバーシューズ(ビニロン)
ウインドヤッケ(ビニロン)
寝袋(カネカロン)
などなど、今年の夏前に廃棄しました。
ウッドシャフトのピッケルモデルRCC、
スベア121L(使用可能)、
一人用のコッヘル(使用可能)、
などのいくつかは捨てられませんでした。
707 :
底名無し沼さん:2012/09/15(土) 10:43:51.05
炭俵ジイ、おかえり。
708 :
底名無し沼さん:2012/09/15(土) 10:47:53.81
なんて恥ずかしいスレだ
709 :
底名無し沼さん:2012/10/19(金) 17:27:48.54
法政大封鎖機動隊出動ォ―
710 :
底名無し沼さん:2012/10/20(土) 10:50:19.81
こんな良スレがあったとは
69年生まれ
>>709 俺らのときは学生運動も部活みたいなノリになってたな
60年生まれ
712 :
底名無し沼さん:2012/11/10(土) 21:44:57.91
夜行列車の床に新聞紙敷いて寝ていったらしいな
場所によってはトイレの前とか最悪らしい。
713 :
北鎌の星:2012/11/11(日) 19:25:05.12
おれは網棚で寝ていった。
>712
そうでもないよ
缶ビール5本空く頃にはどうでもいい
かえって近くて便利
大垣行き各駅停車を乗り継いで、毎夏広島に行ったなあ。
スレ違いだが。
>>710 キスリング未経験者は、ここに出入り禁止なわけだが、、
>>771 昭和35年生まれだろ?
アンタが大学行った頃、学生運動なんてしてる奴は白い眼で見られていただろwww
719 :
底名無し沼さん:2012/11/13(火) 10:19:47.03
>>716 最近登山を始めた新参なんですが色んな書籍を読んでこの時代、
S40年代30年代の登山に興味と憧れを持ってるんです。
>>717 その頃ってもう燃えカスくらいだったわな
関西方面は結構活動していたみたいだけど
>>720 だよな〜
アイツらキャンパスから追い出されて正門前でアジってたけど、学生もほとんど無関心だった。
試験の妨害するから市谷では受けられなくて武蔵小杉まで行かされて困った
おお、ア法政
724 :
底名無し沼さん:2012/11/13(火) 22:19:41.93
小学4年生の時に買ったキスリングで今でも北アルプスに登ってる
昭和40年生まれが通りますよ。
>>724 あの、家型テントからラジウスやらガッツリ入る100リットルくらいのヤツ?
スゴいとは思うが真似したくない。
密かにニッカボッカ復活を願っている
あれ、裾がパタつかないし、ニッカーホースって
今でいう機能性タイツみたいなものだったんじゃない?
727 :
724:2012/11/14(水) 20:37:58.70
>>725 小学4年生が背負えるサイズだから45L相当の軽キス、
だけど、かさばる家形テントもフェザー(社名)のシュラーフも
ダウンジャケットもフリースもザックの上に括り付ければOK
鍋代わりの飯盒はキスリングなら外にぶら下げても似合う(よね?)
ストック代わりのウッドシャフトピッケルは、邪魔なときは
ザックと背中の間に上から斜めに差し込む。
容量的には天泊でも不満は無い。47歳の老体には
これ以上荷物増やしても背負いきれない。
729 :
727:2012/11/15(木) 22:50:28.31
>>728 高校生頃から使ってたナイロン?ザックが劣化して、
代わりを探したら物置から小学生の時に使ってた
SSK他の登山用品一式(キスリング、ポリタン、飯盒、
アルミ食器、化繊シュラフ、メタ)がでてきて、
心だけ登山好きの小学4年生に戻った。
ガスコンロ等今の装備を一部加えて、久しぶりに使ってみたら、
あのころあれだけ死にそうに重かった一式が苦もなく背負えて、
今の山行に十分使えることに気づいたから。
三里塚の第一次収用反対闘争に参加する為にテントやキスリング、シュラフを購入し、運動が収束した後は軍事訓練だと嘯いて、山に登っていました。
類は友を呼ぶと言うか、山仲間は不思議と左翼崩ればかりでしたねw
交通事故を起して内蔵に傷害を持ち、もう山には登れないでしょうが、古い道具を磨いては、思い出に浸っています。
今宵、磨いているのはエバニューのスポーツハシェット 多分今では貴重品でしょう?、
ベトナム戦争では銃の少ない解放戦線側では鉈も立派な武器だったとかで大事にしていますw
第四インター乙
732 :
底名無し沼さん:2012/11/20(火) 15:41:16.86
炭俵ジイです。
お茶の水をカルチエラタンにしよう
…のまっただ中にいました。
732
中央?
明治?
駿台予備校?
734 :
底名無し沼さん:2012/11/21(水) 11:52:32.05
炭俵ジイです。
歩道の30センチ角くらいのコンクリートタイルを
はがして割って、投石に使っていたようなので、
歩道をアスファルトで固められた。
>>731 田舎ブンド崩れの無党派だった
ちょうど明日だが、1968年11月22日、東大全共闘と日大全共闘の呼びかけで
全国全共闘の結成集会が安田講堂前であり、それに遅れて参加したのが、オレの東京デビュー
末端なので上から教えられたままに、各学部の闘争委員会やセクト毎に割り当てられた安田講堂内の部屋で泊り込んでいたが、医学部長室だとかでフカフカの絨毯
部屋の責任者は院生で、地下の灯油タンクは占拠前に満タンにされていて、暖房完備だった
その党派そのものが分裂していたが、末端は関係なく、水産大や山口大の同室学生たちと話し合っていたな
党派はやがて細かく分裂していくが、思想的には結びつかないのに、水産大の一部が京浜安保共闘に流れたようだ
そして、名古屋でも末端の女子短大生が一人、中京安保共闘へ流れていった
オレは田舎ブンドのシンパレベルだったので、その短大にもシンパがいると言うぐらいしか知っていなかったが
浅間山荘事件当時は運動を離れていた大学の後輩女性が個人的に交流を続けていたとかで、安保共闘の彼女がベースキャンプに参加するのを名古屋駅まで見送ったと聞いた。
冗談だろうが「攻めてきて、あんたらを殺すからね」と言って東京へ向かったそうだから、革命根拠地を作り、やがて都市を攻撃するとの意識で、冬の山岳ベースへと向かったようだ。
彼女は思想的に未熟で、組織的にも末端だった事が幸いしたようで(^_^; 総括されずに生き残った。
そういや山手線とかのレールの間に撒いてる石もアスファルトで固められてたな
737 :
底名無し沼さん:2012/11/24(土) 21:34:13.05
そろそろ誰かさんが「山岳ベース」について重い口を開く頃か
「三角ベース」だな?
昭和40〜50年代にかけて小中学生やってましたが遠足はほとんど山でしたね。
もちろん半日でピストンできる低山ばかりですが。
小学校の宿泊行事で菅平に行き根子岳登ったこともありますが根子岳だけでおしまい。
ただ、当時おやつ300円とともにクラスメートとべちゃくちゃ喋りながら登った山も
最近あらためて行ってみると意外と奥が深いですね。
「月星」とか「ミーナ」とかのビニール靴でみんなよく登ったよなあと感心もしますw
登山靴ならキャラバンシューズが最高
>>739 俺んちは金持ちだったので、ゴム引きナイロンのキャラバンシューズだった。
「月星」とか「ミーナ」みたいなズック履いたプロレタリア子弟の羨望の眼差しが
痛かったよ。
雪山で沢の近くにテント張ってホエーブス725で飯を作る。
料理ができて燃焼を止めたとき、全く音のないあの静けさ。
あれがいい。
シュゴォォォォォォォ・・・・・
ドスッ………ドスッ…(枝から雪落ちる音)
天気図描こうとラヂヲをつけると
ガガー・・・・またっ逢う 日まで・・・
今年のレコード大賞はこれだな
「ピー ガガー 勅命が発せられたのである
既に、 ・皇陛下の御命令が発せられたの・・・
お前・・ 上官の命令を正しいも・と信じて絶対服従・・ ピー ガガー…」
そこまで古くねえだろw
金がなかったので、夏用?のテント(帆布製)の中にツェルトを張り、3シーズンシュラフに包まって年越しをしました。
友人と3人だったので、それほど寒くはなかったですね。
ちなみに、出掛けたところは愛鷹山(越前岳〜呼子岳〜鋸岳〜位牌岳〜愛鷹山)でした。
皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ
バートバカラックいい
MASTER TAPE 荒井由実
754 :
底名無し沼さん:2014/01/19(日) 16:48:52.61
炭俵ジイ まだ生きてる?
755 :
底名無し沼さん:2014/01/21(火) 18:35:53.29
炭俵ジイです。
覚えてくれていて、ありがとう。
正月に安川茂雄の「霧の山稜」を読み直して、イイなぁ…と思い
このスレッドをのぞいたトコです。
756 :
底名無し沼さん:2014/01/21(火) 19:22:33.18
炭俵ジイ、実はヤマレコとかやってるだろ
ちょっとID晒してみんかい
757 :
底名無し沼さん:2014/01/21(火) 19:38:44.70
霧の山稜は加藤泰三でないかい?
安川茂雄の谷川岳関連の作品もいいね
758 :
底名無し沼さん:2014/01/21(火) 23:46:25.20
う〜ん、老醜
759 :
底名無し沼さん:2014/01/22(水) 09:14:21.35
>>756 炭俵ジイです。
ヤマレコ…って何だ?と思って検索したら、
「なるほど」
書いたことがないし、最近は左膝が痛いので、山へ行かないよ。
>>757 訂正してくれてありがとう。
安川茂雄は「霧の山」だ。
名作だね。
加藤泰三が「霧の山稜」だ。
イイカゲン
761 :
底名無し沼さん:2014/01/22(水) 22:25:36.56
老醜
自分の親父もこの辺りの時代に山登りしてたはずで、
先日帰省した時に色々話を聞いてみたんだが、どうにも要領を得なかった
登ってたのは嘘じゃないにしても、単独や少人数でゴリゴリ登山してたんじゃなさそうだ
自分がプリムスのバーナー見せたら、昔は液燃しかなくてポンピングしてたわー、
便利でいいなあ、みたいなこと言ってたw
763 :
底名無し沼さん:2014/01/24(金) 07:21:43.64
>>762 炭俵ジイです。
40年〜50年前は、今ほど電車・車が無く、道路も未整備で山の麓へ行くのも
時間がかかりました。
また、100名山なんていう言葉もなく、山小屋も未整備で山へ入るのは
衣食住をキスリングに入れて担いで出かけました。
今は有名な山は山小屋が整備されていて衣食住のウチ、持って行くモノは
「衣」だけでも足ります。非常食は必要だけど。
>>昔は液燃しかなくてポンピングしてたわー、
私もスベア121Lを今でも持っていますよ。
燃料は灯油だけど、安定しています。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~opt00l/gsvea121.htm
スベアは収集家がいるくらいだし、価値がありますなあ
大切にしてやって下さい
東京ローカルで申し訳ない所ですが、高尾駅は浅川駅だったし(S36改名)、
陣馬山山頂に馬の像は無かったとか(S44)、
もちろん京王線は届いてなかった(S42高尾山口開通)ので、
高尾山は浅川駅から歩いて行ってたとか、昔の話を聞けるのは興味深い物ですわ
戦前辺りまでは高尾山にスキー場があったと言うのも聞いたことがあるけど、
こちらは実際に行ってた人に話を聞けたことはないなあ
ジュリ〜!トッポ〜!他数名!
老人でも自演するんだね
767 :
底名無し沼さん:2014/02/20(木) 18:04:55.10
タンたんは栗ノ木洞のサイケだお(^_^;)
こんなサングラスしてるお(●_●;)
770 :
底名無し沼さん:2014/04/24(木) 20:17:01.02 ID:e5NQynpw
∧__∧
( ^_^; ) 丹沢の栗ノ木洞においでやす
ハ∨/^ヽ
ノ::[三ノ :.、
i)、_;|*く; ノ
|!: ::.".T~
ハ、___|
"""~""""""~"""~"""~"
771 :
底名無し沼さん:2014/04/25(金) 16:29:46.83 ID:VF5ZjxH0
おタンたんかわいい
772 :
底名無し沼さん:2014/04/25(金) 16:54:26.56 ID:ov+xvVff
ワシは50代だがら50年代の話になる
リュックはもちろんキスリングだが当時はその呼び方は無かった。
今はテントが軽くなって一人でも持ち運べるが当時は2人から3人でなければ
1張分も持てなかった。
だから 山小屋利用が多かった。
高校の登山部だったが当時は体力作り以外ではひたすら 地図の読み方コンパスの
使い方 気象情報を聞いて天気図を作りをする テントを張ったり畳んだり
を繰り返していた。
山道具も変わったなー
773 :
底名無し沼さん:2014/04/25(金) 18:07:14.33 ID:/D+eec5k
高校に登山部があるってことは
やっぱりナントカアルプスの近くですか。
私ももっと早く登山に出会いたかったな。
774 :
底名無し沼さん:2014/04/26(土) 05:18:01.12 ID:qSATG+nG
ハゲは帽子被ってください!
775 :
底名無し沼さん:2014/04/26(土) 05:52:17.34 ID:sbKfn+6c
靴スレといいハゲハゲうるさいぞハゲ
776 :
底名無し沼さん:2014/04/26(土) 08:34:49.35 ID:LdGRGQHy
772です
部活名称は登山部ではなかったです。
多分 山岳部です。
高校なので年に数度主に鈴鹿山系に登る程度でした。
3年間で1度だけ顧問が奥穂高に連れて行ってくれました。
777 :
底名無し沼さん:2014/04/26(土) 08:38:13.18 ID:LdGRGQHy
40年代の登山ブーム時の写真や映像には非常に興味がある。
登山客用の列車は臨時電車も出るほどのブーム
確か 剣とかアルプスという名前もあったと思う。
今は名古屋から白馬方面は乗り換えなければいけないらしい。
778 :
底名無し沼さん:2014/04/26(土) 14:25:00.37 ID:XlpBQsGE
>>776 ありがとうございます。
やはり山が近いといいですね。
今はいろいろ軽くなって
年が多めの女子でも楽しめます。
779 :
底名無し沼さん:2014/04/27(日) 06:42:34.27 ID:iNXum0ZI
なんで海は右翼で
山は左翼なんだ?
780 :
底名無し沼さん:2014/04/27(日) 06:52:32.80 ID:u6tXZI0D
そうなの〜!?
781 :
底名無し沼さん:2014/04/27(日) 22:02:31.36 ID:S3nQEz+n
>>777 一応、週一往復だけしなのが白馬まで乗り入れてるけど、
鉄ちゃんでもなければわざわざ選ぶことはないわなぁ
782 :
底名無し沼さん:2014/04/30(水) 01:35:50.05 ID:mnvOgl8g
今のサウスフィールドやモンベルのダウンジャケットって当時では
すごい性能?
783 :
底名無し沼さん:2014/05/09(金) 06:37:45.94 ID:1OEAT94R
超久しぶりです。
炭俵ジイです。
>>782 ダウンジャケットは昭和30〜40年代でもありましたが、全部輸入品でした。
給料が2〜3万円の頃、ドメゾン(フランス)のダウンの上下が7〜8万円しました。
汗をかいてもすぐに乾くなんていうシャツはあるはずもなく、ラクダの上下を着ていました。
ラクダの下着の上に、ウールのセーター2枚、それからヤッケかな。
夏は「網シャツ」というネットの下着を着ていた記憶もある。
スキーの映画が流行った頃でしたから、トニーザイラーの「黒い稲妻」「白銀は招くよ」
などの映画を見てキルティングを着込んでいました。
キルティングと呼んでいましたが、いわゆる化繊の綿を詰めた上着です。
784 :
底名無し沼さん:2014/05/09(金) 12:14:34.91 ID:+OP3Gv3s
網シャツはショルダーストラップが当たる部分の皮膚が凄い事になった。
後にその部分だけ普通の布地になった。
785 :
底名無し沼さん:2014/05/10(土) 00:19:35.18 ID:yV/lf0Kz
インナーダウンみたいのあったのかも気になりますわ
786 :
底名無し沼さん:2014/05/14(水) 07:14:26.39 ID:HcvWGtaH
炭俵ジイです。
>>785 ダウンジャケット自体がほとんど無かった時代ですから
インナーダウンのようなモノは全くありませんでした。
下着の上に着るウールのセータが、唯一のインナーかな。
787 :
底名無し沼さん:2014/05/27(火) 10:34:02.02 ID:PZu60RbJ
前ネットで自転車を背負って崖みたいなところにへばりついていた写真をみた覚えがあるがあれはなんだったんだろう…?
788 :
底名無し沼さん:2014/05/27(火) 12:18:41.91 ID:bTNUl0xI
789 :
底名無し沼さん:2014/05/27(火) 12:19:31.13 ID:bTNUl0xI
ありゃ ↑無視してください
790 :
底名無し沼さん:2014/10/11(土) 17:03:05.35 ID:cmsFaDVr
791 :
底名無し沼さん:2014/10/11(土) 19:27:31.84 ID:47wjLqt4
まだウイリッシュの2代目作製のピッケル使っている。
792 :
底名無し沼さん:2014/10/11(土) 20:02:40.86 ID:OQxF+CYw
793 :
底名無し沼さん:2014/10/11(土) 21:13:08.44 ID:QsCCs5nA
スーパーEとタニアイゼン現役です
794 :
底名無し沼さん:2014/10/12(日) 07:39:27.29 ID:DM7D0WoP
大昔の登山家はゲートル巻いてるけど今はゲートルなんて絶滅している
あれってやっぱり体に悪いのかね?
795 :
底名無し沼さん:2014/10/12(日) 12:45:46.37 ID:nAvhITLp
>>794 今時の若い衆が夏山でストレッチ生地のチノパンの上にゴアのロングスパッツ着けてるのがそれに相当すると思われ
796 :
底名無し沼さん:2014/10/12(日) 13:36:16.05 ID:tm+GMfqC
体に悪いことはないが、より良い物ができたってことだろうな。
797 :
底名無し沼さん:2014/10/12(日) 14:32:53.99 ID:Nu0WBH+y
798 :
底名無し沼さん:2014/10/13(月) 05:06:47.86 ID:3zk3je4i
>>797 参考になるサイトありがとう。今では考えられない重量だが、写真の人達、いい顔してるなぁ。
799 :
底名無し沼さん:2014/10/13(月) 20:18:57.04 ID:Vu4lb5Ct
>>797 偶々ここを覗いた、ビギナーに毛が生えた程度のハイカーです
楽しいURL紹介有難う、私は数年前に始めた程度で、羨ましくも眩しく眺めました
関係無いけどウチはハスキーミックスだったので、後篇の皮膚病の下りに禿同
800 :
底名無し沼さん:2014/10/24(金) 17:02:41.06 ID:Z/++UnFC
801 :
底名無し沼さん:2014/10/24(金) 18:57:38.58 ID:Zxd3klcp
びっくりするほどタンザーワ\(^o^)/!
びっくりするほどタンザーワ\(^o^)/!
栗ノ木洞でセックスしてえ(^_^;)
802 :
底名無し沼さん:2014/10/24(金) 22:37:33.90 ID:IFZ2v4nD
803 :
底名無し沼さん:2014/10/25(土) 20:19:40.04 ID:P913q2EO
来年の夏は麦わらデビューする。
804 :
底名無し沼さん:2014/11/03(月) 12:29:38.68 ID:BTgARqTw
805 :
底名無し沼さん:2014/11/03(月) 12:52:49.68 ID:jouAeCRP
動画話を見ると、確かに麦わら帽子が多いな。
806 :
底名無し沼さん:2014/11/22(土) 08:06:15.37 ID:xpi8G3KL
807 :
底名無し沼さん: