プロジェクトXのTRONの回の内容を大予想するスレ
16 :
Be名無しさん:
試験に出るプロジェクトエーックス内容予想:トロソマンセー編
神奈川県横須賀市。とあるビルの一室にその男はいた。
坂村健52歳。
YRP研究所所長と東京大学教授の二つの顔を持つ。
現在、ここで新しいコンピュータを作るプロジェクトの推進に多忙な毎日だ。
プロジェクトの名前は、TRONプロジェクト。
現在、世界で最も使われているOSを生み出したプロジェクトだ。
タイトルバック+地上の星 流れる。
1951年 東京。
サンフランシスコ条約締結、日米講和が成立し日本が国際社会に復帰した年に坂村は生ま
れた。
1957年 トランジスタラジオ開発。
1959年には、後にキルビー特許で名を馳せることになる、ジャック・キルビーによるICが
開発された。
世はまさに、コンピュータの黎明期を脱して、社会に普及しようとしていくところであっ
た。
その頃、坂村は小学校に通いながら、SF小説に没頭する日々を過ごしていた。
SFのような未来がきっとおとずれると、胸を躍らせていた。
慶応付属中学に進学した坂村はアマチュア無線に没頭していた。
名も知らぬ遠くの人達と夜な夜な交わす交信。時おり聞こえる海外との交信にも胸を躍ら
せた。海の向こうにも同好の人がいる。SFでみた夢がいつかかなう。夢が膨らんだ。
自然、秋葉原に通い詰めるようになった。毎日半田ごてを握り、ラジオ製作や無線機の性
能向上に没頭した。
坂村がアマチュア無線に没頭していて、東京オリンピックの真っ最中で人気のなくなった
秋葉原でも無線の部品をひたすら探していたその時、アメリカで画期的なコンピュータシ
ステムが開発された。
IBM SYSTEM360。
世界初のオペレーティングシステムを登載した、万能コンピュータだった。
人月の神話の著者フレッド・ブルックスの指揮で完成したシステムの他を圧する優れた性
能は、世界のコンピュータ業界を瞬く間に制圧した。
日本も例外ではなく、IBMの互換機を作ることで対抗するしかなかった。
後のIBMスパイ事件の前哨戦がここから始まっていた。
(OSの解説)
ベトナム北爆が開始され、中国では文化大革命が起こっていたその頃、慶応高校に通う坂
村は、SF小説に頻繁に出てくるようになった、コンピュータとはどんなものかに強い興味
を抱くようになった。
高校生の詰襟のまま大学図書館に通い、英語のコンピュータの論文を読み漁るようになっ
た。
このころ、NHKで、COBOLやFORTRANのようなプログラミング講座が開始され、必死でプロ
グラミングを覚えた。
学生運動が日本で盛り上がっていた頃に、坂村は慶応大学の電気工学科に入学した。まだ
、日本にコンピュータ学科はなかった。
大学ではプログラミングのアルバイトに熱中していた。
当時のコンピュータは故障が多く、ユーザーが修理できるようにOSや回路図が全て公開さ
れていた。
その公開された情報を元に、無線機で培ったハードの知識と、プログラミングで培ったソ
フトの知識で試行錯誤を続け、坂村は一つの確信を得るに至った。
[ゼロから新しいコンピュータを設計して作って動かせる。]
TRONプロジェクトの原点となった。
1969年 アメリカはアポロ計画ではじめて有人月面着陸を達成した。
科学の未来に痺れた。
同じ年、冷戦を背景にアメリカではもうひとつの新しいコンピュータの流れが生まれてい
た。
核攻撃を受けても生き残れるネットワークを目指し開発されたArpanet、現在のインタ
ーネットの元になったシステムの開始。
Arpanetの基盤となっていくOSであるUNIXの開発開始。
そしてもうひとつ、世界初のマイクロプロセッサ、インテル4004の開発成功である。
専門の管理者に集中管理されたいままでのコンピュータ世界の常識を覆し、より身近に使
えるコンピュータを目指した世界があった。
(UNIXとインターネットの解説)
1973年 ベトナム戦争終結
大学院生となった坂村は、相磯秀夫教授の後押しを得て、アメリカへの武者修業へと旅立
った。
当時まだおおらかだったアメリカでは、聞けばなんでも教えてくれた。
しかし、アメリカから知識を受けるばかりでは駄目だと、英語で論文を書きまくった。連
戦連勝だった。
そんなアメリカで受けた衝撃。
それは、まさにマイクロプロセッサを使った個人向けコンピュータ誕生の瞬間だった。
コンピュータを自分のものに出来る。
マイコンフェアで見たベンチャーのガレージ企業が発するすさまじい熱気。
1976年 日本でもNECがマイコンキットTK‐80を発表。
翌年アップル・コンピュータがAPPLE IIを発表。
パーソナル・コンピュータの時代が幕をあけようとしていた。
坂村の米国と日本の往復が続いた。
そこで、坂村はさらに二つの大きな衝撃を受ける。
ひとつはゼロックスパロアルト研究所で見たALTO。
後にマッキントッシュとウインドウズのアイデア元になったといわれているワークステ
ーションとの出会いである。
GUIとオブジェクト指向の体系を統合した、真の個人向けコンピュータの姿がそこにあっ
た。
開発リーダーは、パーソナルコンピュータの父と言われた天才アラン・ケイだった。
余談だが、ディズニー映画TRONの主人公は、脚本に参加していたケイの妻だったマックバ
ードがアラン・ケイをモデルにしたとも言われている。
そして、国防総省のアーパネットを利用した大学同士の電子メール。
あっという間に色々なところと連絡が取れた。凄い。
どんな遠くの人ともすぐに連絡が取れる。無線マニアの坂村の胸が踊った。
小学校の頃、SFで夢見た未来が、ここには現実に存在している、と坂村は思った。
1978年には、日本語を利用できるワードプロセッサが東芝から発表された。
ワープロと言っても中身はコンピュータだ。日本語の使える個人向けコンピュータが作れ
る時代が来た。
帰国した坂村は、日本でマイクロプロセッサを使った個人向けコンピュータを提案する。
反応は、冷たかった。
マイクロプロセッサは、子供のオモチャだ。使い物にはならない。
システム360を発展させた大型機だけがコンピュータだ。
個人向けのコンピュータはすぐ消えてなくなる。
IBMの大型汎用期システム360の互換機を国策として製造している状況では、坂村の提言は
一顧だにされなかった。
1981年にはゼロックスで見たALTOを商業製品としてリリースしたSTARワークステーション
が発売された。
そして、システム360を作った汎用機の象徴である、あのIBMがついにパーソナルコンピュータに進
出した。
同年、通産省関連の団体、電子協で新しいコンピュータ開発の提言をまとめた。これで
、新しいコンピュータの開発が始まることを坂村は期待した。
提言への反響は大きかった。説明用のスライドは飛ぶように利用された。
1982年 コンピュータ業界に衝撃が走った。IBMシステム360後継機の情報を得ようとした
日本の技術者がスパイ容疑で逮捕された。
手錠をつけた技術者の姿が次々とテレビに映し出された。
日本独自のコンピュータを作っていれば、こんなことにはならなかった。
坂村は思った。
しかし、電子協でまとめたコンピュータの提言にも実現に向けての目立った反応はなかっ
た。
俺がやるしかない。
坂村は決意した。
1984年 東京大学講師になっていた34歳の坂村はついにTRONプロジェクトを開始した。
同年、アップル社マッキントッシュと、現在のパソコンの元になったIBM‐PC/ATが発表さ
れた。
パーソナルコンピュータ時代の幕が切って落とされた。
1987年には東大助教授に就任。その年、最初の組み込み用TRONが発表された。
世界の誰でも使えるコンピュータのため、多国語の研究や、チップの研究も次々にスタ
ートした。
1988年には社団法人TRON協会設立。そして文部省が教育用にBTRONパソコンを採用するこ
とが決定した。
プロジェクトは順調に進んでいた。
1989年 日米経済摩擦の嵐が吹いていた。
あの、オープンだったアメリカも特許重視政策を開始し、昔のような兄のようになんでも
教えてくれたおおらかさはなくなっていた。
むふう
おつかれ
27 :
Be名無しさん:03/03/16 00:39
国連への取材はあり?
ワラタ
書体が完全にプロジェクトXだ。
だれかフラッシュ作って。
試験に出るプロジェクトエーックス内容予想:トロソマンセー編 part2
1989年4月28日 坂村はゴールデンウィークを利用して、趣味の登山に出かけていた。山
荘のTVをつけるとTRONのことを報道していた。
内容を聞いて、腰が抜けた。
USTRがスーパー301条の対象にTRONを挙げたのだ。
苦難の日々の始まりだった。
IBMの副社長からも電話があった。
どういうことか分からなかった。
UTSRの役人が事情聴取に来て言った。
「TRONってなんですか。」開口一番がこれだった。
抗議の結果、程なくして、TRONはリストから外れた。
しかし影響はあまりにも大きかった。
教育用BTRONを開発していた会社は続々後を去っていった。
心労が重なり、足を骨折した。全治3ヶ月。
顔は笑っていたが、落ちこんだ。
いっそ、誘われるままアメリカの企業や大学に行ってしまおうかとも思いつめた。
車椅子と松葉杖で移動する東京は怪我者となった坂村に追い討ちをかける不便さだった。
自分の考えるコンピュータが人間を支援する社会にはこんなことがあってはいけない。障
害者にも、怪我人にも、誰にでも使いやすい設計にするべきだと決心した。
アメリカへの誘いは続いていた。
しかし、プロジェクトは動き出していた。
自分を信じてプロジェクトに参加してくれた人達や企業を置いて、逃げ出すことはできな
い。
電話交換機用のOSの開発や、コンピュータをふんだんに使った実験用住宅の建設も進んで
いた。
坂村はますます仕事に没頭していった。忙しさにまぎれて次第にアメリカ行きは頭から消
えていった。
TRONは裏方として着実な実績を上げていった。
教育用TRONも形を変えてなんとか生き残ってはいた。
そして、10年が過ぎた。
その間、ウインドウズ95が発売され、世の中は空前のパソコンブームとインターネットの
ブームが巻き起こっていた。
もはや、日本ではOSの開発はできないし、必要ない。そんな声まで上がってきた。
TRON自体は着実に実績を上げていたが、そのことは表立って知られることはなかった。
このままでは長引く不況の中、開発費が削られジリ貧になりかねなかった。
窮地に追い込まれたプロジェクト。
転機は意外なところから訪れました。
今では二人にひとりが利用していると言われる携帯電話。
携帯電話の普及により小型化と高機能化が進み、ソフトウエアの開発スピードは加速度的
に上がっていた。
このまま、端末機種ごとにソフトの開発を続けていけば、いずれ開発体制が破綻するのは
目に見えていた。
ソフトの開発効率を上げるためには、OSを採用するしかない。
しかし、どれを?
電話のような通信機器はパソコンと違い、すばやい応答、つまり実時間性能が要求される
。
また、コストダウンの要求も厳しい。パソコンのような高価なライセンス料を支払うこと
は不可能だった。
パソコンのような高機能なプロセッサや大きな筐体を採用することは出来ない。
パソコンのOSのように起動に何十秒もかかり、すぐ動作不良になるようでは使い物になら
ないし、顧客に相手にされない。
パソコンのOSのように自分で不具合が直せないようでは、他者との技術・価格競争に勝て
ない。使いやすさも改良が出来なかった。
安価で、安定していて高性能で、中身が自由に修正できて、低性能な機体で、すばやく動
く。
そんなOSがどうしても必要だった。
開発現場で誰ともなく、TRONを使ったらどうだろう。と声が上がった。
TRONなら家電で培った10年以上の実績がある。自社製品を改造すればライセンス料も要ら
ない。実時間性能もある。どうだろう。
パソコンより圧倒的に性能の劣る機械で、ある意味パソコン以上の性能が要求される。家
電向けのOSでそんなことが出来るのか?
誰もが半信半疑のまま、開発を行なった。
結果は上々だった。いける。これで勝負しよう。
この開発成功がiモードへと繋がった。
パソコンが使えなくてもインターネットとメールが使える。
しかも、いつでもどこでも。
iモードで、携帯とインターネットが繋がった。
誰でも、メールが利用できるようになった。
アメリカではじめて電子メールを使った時の感動を分け与えることが出来た、と思った。
現在の坂村は、ユビキタスコンピュータ、いつでもどこでもコンピュータが人間の生活を
安全に支援できる環境を研究している。
2003年度からは、学校でもTRONを使った端末が利用される予定だ。
いつでも、どこでも、世界中の誰でも使えるコンピュータを作る。
小学生の時の夢を、今日も追いつづけている。
ヘッドライト・テールライト流れる。