1 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :
2006/10/16(月) 12:26:33.19 ID:jAcmEZr9 パンツ強盗 殴り倒した女性のスカートに手入れ奪う 15日午前0時55分ごろ、埼玉県春日部市緑町の東武伊勢崎線一ノ割駅近くの自転車置き場で、 男が同市の女性会社員(28)の顔を殴り、はいていた下着を奪い走って逃げた。女性は顔に軽傷を負い、 春日部署は強盗致傷事件として調べている。 調べでは、男は30歳ぐらい。自転車で帰宅しようとした女性に近づいて「パンツよこしな」と声を掛けた。 女性が断ると殴りかかって押し倒し、スカートの中に手を入れ下着を奪ったという。 (07/15 11:31)
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 12:37:58.07 ID:jAcmEZr9
http://love3.2ch.net/test/read.cgi/kageki/1098628239/ レイプとかしている馬鹿ってさぁ・・・
197 :強姦パパ:04/11/03 01:35:28 ID:xxyerHtD
現在私は40といういいオヤジになりますが、妻と一人娘に恵まれ仕事にも不自由なく
ごく普通の暮らしをしています。今だから刑事責任上では時効で匿名のネット上だから
今まで自分の心の中だけでひたすら秘密にしていた罪をこの機会に打ち明けてみたいと
思います。ネタと思われる方はそれでも構いませんが現実的にはこういう事件もあり、
そして私のような人間の姿をした悪魔もいるんだということを知っていただきたいと
思います。
私はもう20年くらい前に7人もの女の子をレイプしてきた過去があります。
好みの年齢は下から小5〜中3くらいの間で実際にレイプした女の子も小5が1人
小6が1人、女子高生が1人、残りの4人は中学生です。またそのうち4人が処女でした。
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 12:39:41.18 ID:jAcmEZr9
198 :強姦パパ:04/11/03 01:36:08 ID:xxyerHtD さらに詳しく申し上げるとレイプした小学6年生の女の子は私の義妹で、中学生の一人は 義父の従姉妹の娘です。私の家庭は連れ子同士の再婚で妹とは4歳離れています。 また両親はスナック経営で毎夜帰ってこず、兄妹二人だけで生活するような関係で一家団欒 というものがほとんどない家庭環境でした。そんなわけで学校から帰ってきた妹の遊び 相手は必然的に私がしていましたし、一緒に勉強をしたり、お互いで料理を作ったり いままではそんな風にして助け合うように生きてきました。 しかし中学生2年生になった私は性欲というものに目覚め毎日エロ本などを読んでは 狂ったようにオナニーをするようになりました。それまではどんな内容のエロ本で興奮 していた私もだんだん純愛もののようなセックスの内容では興奮しなくなり、その趣向が だんだんレイプものに向いていきました。単純に強めの刺激でないと興奮しないという ただ、それだけのことでした。それまではHというものをしてみたいという興味は あったものの、その対象が妹だということは普通に考えもしませんでした。
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 12:40:17.55 ID:jAcmEZr9
199 :強姦パパ:04/11/03 01:36:58 ID:xxyerHtD しかし、そんな純粋だった私も中学3年に上がった頃いつしか悶々としてたまらないときは 小学6年生である妹さえも女として少し意識してくるようになっていました。 とにかく誰でもいいから女の子とセックスをしてみたい。本に書いてあるようなHなことを を体験してみたいと、ただそのことだけに強く心を支配されていきました。そしていつからか 妹は大人しい性格だから手を出しても多分親に告げ口みたいなことはしないだろうと自分の 都合のいいように考えるようになってきました。 どうしても我慢ができなくなった私はとうとう妹が寝静まる夜中12時頃、本を借に来た ふりをして部屋に侵入し震える手で妹のパジャマの上から胸を触ったり、アソコの形などを 確かめたりしていました。やってはいけない事をやっている罪悪感と初めて触る女の体に 対する興味心で一杯だった私は夜這いに病みつきになっていきました。
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 12:40:37.91 ID:jAcmEZr9
200 :強姦パパ:04/11/03 01:37:34 ID:xxyerHtD しかし、妹に対してこんなに悪戯をしていることを知られることが怖かった私はちょっと体を 触るだけで何かしらの反応を見せると逃げるように部屋から去っていました。しかし、日を 重ねるごとにさわるだけでは物足りなく感じるようになった私はこれ以上の悪戯が進むと もう兄妹の関係さえも壊れてしまうことを分かっていながらもどうしても妹の体を知り 尽くしたいという性の衝動を抑えることが出来ずにいました。夜這いは日ごとにエスカレート していきました。最初はパジャマの上から触ったりする程度の事が、唇にキスをしたり、 パンツを途中までずらしてアソコを懐中電灯で照らしてみたり、直接触るようになりました。 そしてある朝のこと、階段ですれ違う妹に変化がありました。それは、私が「おはよう」と 挨拶しても私を意識しているのか目を合わそうとせず、小さい声でおはよう・・というと そそくさと逃げるように去っていくのです。私は夜這いがばれているに気がつきました。 お互いに気まずくて、数日も会話がなかったのですが、夜這いだけはやめることが出来ません でした。
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 12:41:02.98 ID:jAcmEZr9
201 :強姦パパ:04/11/03 01:38:03 ID:xxyerHtD 妹は胸を触られても、パジャマをはだけさせても、アソコを触られても決して目を覚まし ませんでした。しかし体に力が入ってかちこちになり、小さな胸に耳を当てると早鐘の ように心臓がドキドキ鼓動をたてていました。それでも絶対に目を覚まそうとしない妹の 性格を知った私はある日妹を全裸にし私も全裸になり初めてお互いの肌を深く重ね合わせました。 緊張している妹の体は熱く私はアソコに顔を埋めると、まるで狂った獣のように女性器を舐め 始めました。肌の石けんのいい匂いとアソコのむせ返る匂いに私の興奮は一気に上り詰めました。 理性が完全に吹き飛び訳も分からず、私は妹のアソコに自分の一物をあてがうと、ねじ込むように 挿入しました。さすがに今まで寝たふりをしていた妹も初めて貫通する激痛に耐えきれず、 必至に抵抗してきました。 「きゃあああああああああ、抜いて!!抜いて〜」と泣き叫ぶ妹を力一杯抱きしめると無我夢中で 腰をふりつづけ、上り詰めてくる射精感に身を任せ中出ししました。
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 12:41:32.08 ID:jAcmEZr9
202 :強姦パパ:04/11/03 01:40:18 ID:xxyerHtD その夜、妹の部屋からはずっとすすり泣く声が聞こえていました。それからという毎日は毎夜妹の 部屋に侵入してはセックスに明け暮れていました。初めのうちは妹からの「兄妹でこんな関係は やめて欲しいという」一生懸命な訴えもありましたが、いっこうに聞こうとせずやがては暴力に 発展する私にいつしか妹は何も言わなくなり、毎夜毎夜私が部屋に侵入してきてもマグロのように 受け身になりされるがままになっていました。この関係は妹が中学を卒業とともに就職の道を 選んだため約4年間で終わりました。ちなみに妹が中学2年のときに妊娠したため二人の関係は 母だけに知られてしまいました。それからダラダラとした月日が経ち、私は20歳になりましたが 未だにあの懐かしい少年時代の妹とのセックスの味が忘れられずにいました。やがて、私は 身内だけではなく会ったこともない赤の他人にまで性の対象として目を向けるようになりました。 私がそのような悪の道に手を染めてしまった切っ掛けは「親と喧嘩してムシャクシャした」と いう単にそんな些細なことが引き金になだったという事もありますが、実際にはレイプに関しては 妹のことであまり罪悪感がなかったと言うことが大きな原因だったと思います。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 12:41:50.35 ID:jAcmEZr9
203 :強姦パパ:04/11/03 01:41:57 ID:xxyerHtD 家にいるのがいやになった私は友達の家に泊まり渡り歩いたり、車の中で過ごしたり、目的もなく なんとなくその日を過ごす生活を繰り返していました。しかしそんな生活には刺激というものがなく、 といって自分から何かに挑戦してみようという勇気もない私です。昼間から個室ビデオでオナニーに ふけってみたり、エロ本を何十冊と買い込んで山の奥で車の中でオナニーにふけってみたり、山道で 全裸になりそこで思いっきりオナニーししてみたり、そのようなことで刺激を求めるのが関の山でした。 しかし、いつも心はあの日の妹とのセックスばかり辿って叶わぬ夢だということを知りながらも 求めていたのです。さて、人間はおかしな生活を繰り返しているとやはりだんだんおかしくなって くるのでしょうか。その頃の私は個室ビデオや少女のレイプモノの本からの影響もあったのかそのような フィックションと同じようなことを実際にやってみたいという強い願望に支配されていたのです。
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 12:42:07.30 ID:jAcmEZr9
204 :強姦パパ:04/11/03 01:42:35 ID:xxyerHtD 毎夜毎夜、車の中で女子中学生や小学生ほどの女の子をこの山で無理矢理犯すことの想像を膨ら ましては何度も射精をしオナニーに明け暮れていました。しかしどうしても物足りなさと虚しさを 感じてしまうのです。そしてある日私の頭の中で悪魔が囁きました。「一度くらい犯してもバレや しないだろう・・・」。いつしか一度本と同じような強姦をやろうと決心し、私はその日から オナニーを我慢しました。人生一度だけの最高傑作を作るためです。それには妥協は許されませんでした。 計画を実行するまでの一週間、私はレイプの手順をの想像をたくましくし悶々と過ごしました。 それはファーストキスを奪われたときのショックを受けた女の子の表情や全部脱されたときの女の子の 表情、全裸にするときはどのような順番で女の子を脱がしたほうが興奮するか、アソコを舐めるときの 女の子の反応やおちんちんを舐めさせるときの反応、処女を奪われるときの泣き顔もさることながら 昔初めて妹に挿入したときの快楽と興奮をもう一度味わえると思うとたまらない気持ちになりました。
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 12:42:24.33 ID:jAcmEZr9
205 :強姦パパ:04/11/03 01:43:43 ID:xxyerHtD そして決行日の当日、私は夕方から小学生や中学生の下校時間を狙い、車で巡回し、いかにも隙の ありそうな女の子を物色していました。そして午後7時頃、たまたま私が中学の頃通っていた学習塾の前を 通りかかった時でした。入り口から一人で出てくる帰宅中の女子中学生が目が止まりました。私はゆっくり 車で後をついていきその女子中学生が人気のない路地に入ると先回りして女子中学生が近づいてくるのを 待ちました。そして私の横を通り過ぎようとする刹那、私はおもむろに声をかけました。「おいっ!」 女の子はびっくりして私の顔を見ましたが、続けざまに、「お前、どこの中学や?」とナイフを相手の みぞおちあたりにちらつかせてそう訪ねました。ナイフを目にした女の子は息を飲みそれから怯えながら 「○○中学です・・・」と泣きそうな顔で答えました。そして続けざまに「名前はなんって言うのや?」と いう質問に「○○かなえです※仮名」と名前を聞きだし、「実はな、今俺の後輩がお前の中学のもんに 殴られて骨折して入院しとるんや。いま、そいつらを一生懸命探しとる途中なんや。
11 :
悪魔を告発します :2006/10/16(月) 12:43:00.50 ID:jAcmEZr9
206 :強姦パパ:04/11/03 01:44:42 ID:xxyerHtD 車の中にお前の学校の写真があるからちょっと顔を確認してくれや。」とそう告げ車の中に入るよう催促 しましたが、「車の中は嫌です。どうか外でお願いします」と泣きながら訴える少女にさらに俺は「外で 女の子にナイフ突きつけている姿を他の通行人に見られたら俺がお前に危害加えているように勘違いされて しまうやろ?俺はお前なんかに用はないんや、後輩を殴ったそいつらを捕まえたいから写真を確認して 欲しいだけやからな。写真を確認してくれたらすぐにでも帰したる。だけど、今勘違いされてお前に 逃げられると俺が犯罪者みたいに思われるからお前を刺さないかなくなる」と、何日もかけて考えた 車に乗せる口実で私はその女子中学生を車に乗せました。その車は一度乗ったら中から鍵を開けられない ように予めロック解除のネジはとってありました。そして車に乗り込みナイフを突きつけたまま車を 発進させ、目的地の山の方へと車を走らせました。その娘は青白い顔をしてガタガタ震えて、運転する 私に何度も「約束が違うじゃないですか・・」と泣いていたことが今でもよく覚えています。 罪悪感みたいなものはありましたがそのその子がどこかしら妹と重なるところがあり懐かしい気持ちに なりました。私はいろいろな質問をしました「今、いくつ?」という私の問いに13歳です・・と 答える彼女。「彼氏とかいるの?」「いないです・・」「そっか、それじゃあもしかして処女?」と 私の問いに「ひっ」と小さな声を上げすべてを悟ったような恐怖に見開かれたの目で私を見返してきました。
12 :
悪魔を告発します :2006/10/16(月) 12:43:19.69 ID:jAcmEZr9
207 :強姦パパ:04/11/03 01:46:44 ID:xxyerHtD そして、「男の人と裸で抱き合ったりしたことないやろ?」と訪ねると突然大泣きし始めました。 現場に到着するとすぐさまナイフで脅し上半身の制服を脱ぐように命じ、その後ロープで少女の両手を 一端縛り自由を奪った後、胸をゆっくり揉み始めました。中学1年生ににしては豊満な胸をしていて、 柔らかくて手のひら全体に感触が伝わるほど心地よいものでした。次にゆっくり、唇を奪った後、 少しずつスカートとパンティをずりおろし、全裸にしました。これまで妹のものしか見たことがなかった 女性器でしたが、それはとても綺麗でそれでいて私の知っているはずの妹とのアソコの匂いとは少し 違いました。女子中学生はアソコを男性に見られていることの恥ずかしさからなのか目をきつくつむり、 歯を必死に食いしばって恥ずかしさに耐えている姿に私の頭はあれだけ緻密に考えて計画していたレイプの 手順など頭から吹き飛び、無我夢中でアソコの顔をうずめ女性器を舐め始めました。少女は今まで感じた ことない未知の感覚にびっくりしたのか悲鳴をあげながら必死で私の舌の感触からから逃れようと もがきました。私はそれを体重をかけて押さえつけ、さらにアソコから漂う愛液のやらしい匂いに さらに興奮がかき立てられ無我夢中で女性器を舐め続けました。そして一通り女の子の体を舐め 尽くした後、私も全裸になりさらに女の子の両手を縛っているロープを外し、女の子の口元に自分の 一物を持っていき口でくわえるように強要しました。しかし彼女は歯を食いしばって顔を背けどうしても 拒否するのです。ナイフで脅しもしましたがそれでも拒否する少女に私も業を煮やし、暴力で無理矢理に でもやらせようと思いましたが、顔が腫れていたり服が破れていたりするとその後親が警察にでも 通報すると面倒だという考えもあり、私は彼女に交換条件を出しました。
13 :
悪魔を告発します :2006/10/16(月) 12:43:39.11 ID:jAcmEZr9
208 :強姦パパ:04/11/03 01:47:43 ID:xxyerHtD それは「どうしてもしないと言うのならこのまま遠くへ連れて行き監禁する。だけどもしおちんちんを 舐めて射精させてくれたら処女だけは奪わないでやるし、家にもちゃんと帰してやる。」という条件を 投げかけました。彼女はその言葉に少しの反応を見せました。もちろんそんなのはフェラをしてもらう ための口実でさらさら約束など守る気はありませんでした。しかし、もう少しの説得だとそう感じた私は 続けてこう言いました。「処女じゃなかったら彼氏とかできてHしても遊んでると思われてフラれる ことになるよ。好きな人ができて結婚するときも困るし、それに今おれとセックスすると妊娠して 赤ちゃんが出来たら病院でおろさないといけないよ。13歳で処女じゃないなんてクラスにもあんまり いないやろ?」この言葉によほど救いの道を託したのでしょう。泣きながら「本当に何もしないって 約束してくれますか?絶対このまま帰してくれますか?」と聞いてきました。私がうなずくと彼女は おそるおそる震える手で私の一物を手に取り、そして戸惑いながらゆっくりと口に含みぎこちない手つきで 一生懸命にしゃぶり始めました。口の中のあまりにもとろけるようなあの懐かしい感触と舌触りと、 こんな幼い子が私の汚い部分を口に含んでいる姿に一気に射精感が高まり、全部のみ干すように命じると 一気に彼女の口の中に思いの丈を放出しました。それは今までに感じたことのないほどの放出感で しばらく射精後の脈打ちがとまらないほど大量の射精を経験した気分でした。しかし彼女は射精した 精子を口に含んだもの飲む込む事ができず、それを見かねた私は飲むように命じましたが、しばらく 口に精液を含んでいた後、よほど精液の味が気持ち悪かったのか突然オヴェ〜 オヴェ〜と繰り返し 精液だけではなく胃液っぽいものまで吐き出し始めたのです。私はその姿にさらに興奮を覚えました。
14 :
悪魔を告発します :2006/10/16(月) 12:43:59.71 ID:jAcmEZr9
209 :強姦パパ:04/11/03 01:50:55 ID:xxyerHtD そして私は彼女に「じゃあ、着替えて帰ろうか、その前に外でおしっこしてくるから逃げないように 一応縛るね」といって再び両手を縛り車の座席に両手を固定し体の自由を奪った後、シートを倒しゆっくりと 覆い被さり肌を重ね合わせました。そのときの私を見る彼女の表情はまるで裏切られた失望感一杯の 硬直した表情そのままでした。私が、再びアソコを舐め始め、ゆっくり女性器に指を出し入れし始めると 「嘘つきー・・嘘つき」と私を非難してきます。そして両足を開かせ、いきり立った自分の一物を彼女の アソコにあてがいそのまま挿入を開始し始めすると彼女は目を見開き暴れて悲鳴を上げはじめました。 やはり中学生のアソコはかなり狭く、全体重をかけてもゆっくりとしか進入していきませんでした。 一度奥まで入ってしまうと出血したためか、かなり滑らかにピストン運動ができました。 女性の膣の絡みつくような感覚はいままでしてきたオナニーとは比較にならないほどの快楽を与え、 そしてどうしても以前肌を重ね続けた妹となにもかもダブり私はまるで失った時を取り戻すように 夢中で腰を使いました。彼女のは行為の最中言葉にならない悲鳴をあげ続け「助けてお母さん〜〜」と 泣き叫んでいました。私はその言葉にさらに興奮をかき立てられもっと悲鳴を上げるように深く激しく 腰をつきまくり膣内で射精を果たしました。これが私が初めて犯した2度目のレイプ経験でした。
15 :
悪魔を告発します :2006/10/16(月) 12:44:28.24 ID:jAcmEZr9
210 :強姦パパ:04/11/03 01:58:05 ID:xxyerHtD もちろん、警察などに通報されないように少女の全裸やアソコの写真を撮り、住所や名前通っている 中学名を聞き出し、もし警察なんかに通報すれば近所や学校に写真をばらまくことを脅迫し家の前まで 送り届けました。人生一度だけのレイプ・・・そう決めていたはずなのに実際の私はここからは岩が 坂道を転げ落ちるかのようでした。車に乗っているときは無意識に常に女子小学生や中学生を物色し 自然と一人になる瞬間を狙っているのです。悪い事だと知っていても、いつか捕まるということを 知っていながらもそういう自分を押さえられず初めてのあの興奮を求め続けてしまいます。 二人目は小学5年生でした。さすがにまずいと思いながらも自分を止めることはできませんでした。 いつもの山へ連れてくると予め買っておいた手錠ですぐさま自由奪いました。手錠を用意した理由は 簡単に片腕だけの付けはめが出来るため抵抗されても上着を脱がすことが楽なことを以前のレイプから 学んたためです。中学生のレイプとは違い小学生の場合胸もほとんど発達しておらず、陰毛さえもまったく 生えていませんでした。女性器にしても中学生の女の子とは違っておしっことの匂いがして、どういう訳か アソコを舐めても酸を含んだようなすっぱい味がしました。
16 :
悪魔を告発します :2006/10/16(月) 12:44:44.89 ID:jAcmEZr9
211 :強姦パパ:04/11/03 01:58:30 ID:xxyerHtD しかし小学5年生という響きと少女の未熟な体がさらなる興奮を誘い私は少女のアソコをゆっくりと 舐め続けました。その後さっそく少女の体をなめ回し、おちんちんを舐めるように命じると私はシートに 仰向けになりました。その女の子は恐怖のためからか中学生の子のようにしゃべることも抵抗することも ほとんどなく変な口実などつくらずに、すこし脅すだけで言うことを聞いてくれます。用意した手錠など 必要とせず命令すれば「ひぐぅ」というような言葉にならない声を発するだけで目から涙をポロポロこぼす だけでした。 私はそれに便乗していろいろなフェラチオを教ました。おちんちんの裏筋を舐めると気持ちいいとか口で くわえたまましごかせたり、おしりに指をいれながら激しく唇で吸うように上下させるといいとかヘルス嬢 などがつかうようなテクニックを素人に再現させてみたい気持ちになったのです。
17 :
悪魔を告発します :2006/10/16(月) 12:44:59.43 ID:jAcmEZr9
212 :強姦パパ:04/11/03 02:01:09 ID:xxyerHtD しばらくして、少女を上にのせシックスナインの体勢にするとお互いの性器を舐め合いました。しかし 身長差の為にお互い同時に舐め合おうとすると苦しい姿勢になるので私はアソコに指を入れたりしていましたが、 小学生のアソコは入れた中指一本が入るかどうかと思えるほど窮屈で狭く、少しピストン運動させると 「痛い痛い痛い」と泣き始め、私はこんなんでペニスなどいれたらどうなるんだろうと心配になりました。 シックスナインで射精を果たすと決めていましたが、フェラチオをさせても歯があたったりなどとても 下手だったので計画を変更し、隣で「ぜーぜー」と息をついている女の子をゆっくりシートに仰向けに寝せると 手錠をかけ身動きができないようにしたあと、さっきの心配はよそに「大人にしてあげるね」と優しく声をかけ シートの下に枕を引いて腰を突き出させると、自分のいきり立っているそこを女性器にあてがいました。 一体何をされるのか分からないような目で私を見ていましたが、膣への進入が進むに連れ何をしようとして いるのか悟ったのか突然腰をずらして「や、いやー」と暴れだしました。
18 :
悪魔を告発します :2006/10/16(月) 12:45:16.42 ID:jAcmEZr9
213 :強姦パパ:04/11/03 02:01:50 ID:xxyerHtD 中途半端な力では到底挿入できるはずもなく私は少女の脇仕方から腕を回し上へ体が逃げないように肩を 抱え込むように押さえつけ、それから全体重をかけて、まるでねじ込むように挿入しました。 一度ある程度先の方が入ってしまえばあとはなんとか入っていくものでしたが、締め付けるその感触はペニスが 痛くなるほどきついもので、処女をはっきり引き裂いた感覚さえもが伝わってきました。 また、異常なほど熱をもった膣内の温かさは今まで犯した女性の中では最高に思えるほどペニスへ快楽を 与えてくれました。私は無我夢中で激しく腰をつかっている最中は行為の最中ずっと「きゃああああああ〜〜〜っ 抜いて〜〜〜腰振らないで〜〜だれか〜〜っ」などと激しく叫んでいました。しかし実際小学生を犯した感想は 漫画の本などのような可愛い顔で悲鳴をあげたりするのではなく、実際はそれとはほど遠いものでした。 女の子は狂ったように言葉とは思えない言葉をわめき散らし、顔は猿のように真っ赤に紅潮し、こめかみには 青筋さえ浮かび上がっていてイメージ通りの素敵なセックスはありませんでした。
19 :
悪魔を告発します :2006/10/16(月) 12:45:43.29 ID:jAcmEZr9
214 :強姦パパ:04/11/03 02:02:55 ID:xxyerHtD 初めてのレイプから3ヶ月の月日が経たった頃はすでに4人の女の子をレイプしていました。しかし、その頃 どうしても初めの頃の興奮を感じることができず、どうしても妹に似ている最初の女の子を再びレイプしたい衝動に 駆られてどうしようもなかったのです。いくら他の少女を犯しても初めて感じたあの新鮮な気持ちと興奮を 忘れることができませんでした。いや、実際にはかなえちゃんとの初めてのセックスがどこか遠い昔妹と 交わしたセックスとよく似ていたのです。そしてこの事件が原因でこの少女の人生そのものを奪ってしまう ことになろうとはそのときの私には想像すらできませんでした。私は計画を実行しようと決めたその日、 彼女の家の近くに車を止めて少女が一人で帰宅するのをひたすら待ち続けました。そして数時間後学校から 帰宅する彼女を見つけました。幸いに周りに人はおらず、家まで数十メートルのところで私は彼女を呼び 止めました。以前のようにナイフで脅して車に連れ込むつもりでしたが、私の顔をみるなり彼女は突然悲鳴を あげパニックを起こしてとたんに走って逃げ出そうとしたのです。予想もしていなかった状況に驚き口をふさぐと ともにみぞおちに思いっきり拳を叩き込み、のたうち回っている彼女を無理矢理車に押し込むと以前彼女を犯した 現場へ連れてきました。その現場をよく覚えているのでしょう。現場に着くなり彼女は狂乱状態でした。
20 :
悪魔を告発します :2006/10/16(月) 12:45:59.73 ID:jAcmEZr9
215 :強姦パパ:04/11/03 02:06:13 ID:xxyerHtD ナイフで脅そうが以前のように大人しくなるどころかお構いなしに抵抗してくるのです。いや、実際気に なっていたことはそれだけではありませんでした。確かに私の知っているかなえちゃんは初めて体を重ね合った あの日の一度だけでしたが、以前の彼女からとはどこかが違うように思えました。もう、そこには私が知っている かなえちゃんがいないような気がして少し寂しい気になりました。最初は抵抗していた彼女も挿入されるとただ、 うんともすんとも言わなくなり、ただ涙を流して遠くをみているだけでした。そんな肉便器を道具にしている ようなのようなSEXに興奮もなにもあったものではありません。あれだけ期待で胸一杯にして待ちわびた 2度目の性行為だったのに残念に思いました。家の近くまで送り届けるとふらふらしてまるで夢遊病者のように 歩いて帰る後ろ姿が今でも記憶に覚えています。それから2ヶ月くらいしてからでした。私の住むマンションに 警察が訪ねてきました。なんでも痴漢が出没しているということで聞き込みをしていると言うことでした。
21 :
悪魔を告発します :2006/10/16(月) 12:46:15.65 ID:jAcmEZr9
216 :強姦パパ:04/11/03 02:07:29 ID:xxyerHtD マンションの駐車場をみるとパトカーが2台止まっており、懐中電灯でひとつひとつ車を調べている刑事の姿が ありました。私の車はマンションの駐車場が満員と言うこともあり別の場所にに駐車場を借りていましたが 捕まるのは時間の問題だとそれからの月日は怯えながら暮らしていました。近所のあちこちでも痴漢出没の 看板が立つようになりました。これは私が犯した事件のせいかどうかは分かりません。しかし、警察に 逮捕された場合、新聞やテレビでの報道され近所にいられなくなることや、同級生達に顔向けできないこと。 小学生や中学生をレイプしたという事件性の恥ずかしさというすべては自己保身のためとはいえ事件の重大さが 身にしみてわかりました。すぐに車は知り合いに二束三文で売りました。こんな証拠品をいつまでも近くにおいて いたくなかったし、その車でウロウロするといつ警察に職務質問を受けるか分からないからです。 手錠も女の子のレイプ写真もなにもかも捨てました。そしてその日を境にレイプはもう二度としないと心に 誓いました。しかし、もっと大きな衝撃を受ける事実を数日後、知ることになります。年が明けてから私は偶然 、街で以前通っていた塾長とばったり会いました。この塾長とは今でもつきあいがあります。
22 :
悪魔を告発します :2006/10/16(月) 12:46:31.84 ID:jAcmEZr9
217 :強姦パパ:04/11/03 02:08:24 ID:xxyerHtD 厳密には私とつきあいがあるというより、父とのつきあいがあるといった方が正しいのですが・・・その塾は 初めて私がレイプしたかなえちゃんが通っていた塾でもあり、なにかの話の時に教え子が飛び降り自殺したことを 知りました。話をよくよく聞くと私が犯した女の子に間違いありませんでした。塾長はその自殺の原因については 分かっていなくて遺族からも説明は受けていなかったそうなので、その原因が果たして私が犯したことが直接的な 原因かどうかはハッキリしなかったものの、おそらくその原因は私ではないかと思えなくもありません。 いや、私が殺したようなものでしょう。この事を知るまではいつも初めて犯したその子の事を思い出し オナニーのおかずにしていましたが、死んでしまった人間だということを知ってその子でオナニーしても 複雑な気持ちになります。現在私には13歳の娘がいます。どうしても私には娘とあの子の姿がダブって しまうのです。娘は無邪気にお父さんと声をかけてくる可愛い娘に育ちました。そのたびに私はこの家族は 守らなければという気持ちになります。どんなことがあってもこの子は守り抜こうと思います。
23 :
悪魔を告発します :2006/10/16(月) 12:46:47.76 ID:jAcmEZr9
218 :強姦パパ:04/11/03 02:09:30 ID:xxyerHtD しかし、未だに夜道を一人歩きする女子中学生や小学生の姿を見るとまた車に連れ込んで山でレイプしたい 衝動に駆られてしまいます。もう一度、初めて犯した妹やかなえちゃんのような少女を強姦したいと思うのです。 もしタイムマシーンが存在するのであれば昔に戻り、再びなにも知らない妹とかなえちゃんをもう一度犯したいと 思うのです。なぜか小さい子に興味が行ってしまい自分でも病気だということは理解できています。 そして小さい子に目を向けるのは少年時代、ドキドキしながら妹に夜這いをかけた淡い思い出をいまでも 求めているからでしょう。いつもそのような気持ちになる度に娘の事を思い、以前の私と違い今は守るべき ものがあるんだ。たった一回の強引なSEXだけでこの先の将来を棒に振るんだと何度も言い聞かせて 耐えている自分がいます。こんな自分が苦しくてどうしようもありません。俺は心底、冷酷で残酷な男です。
24 :
悪魔を告発します :2006/10/16(月) 12:47:04.32 ID:jAcmEZr9
219 :強姦パパ:04/11/03 02:10:39 ID:xxyerHtD そんなことはさらさら分かっているし変態であることも分かっています。こんな最低な男が今では幸せな家庭と 地位を築き、片方では絶望の淵から立ち直れずにこれから先にある希望に満ちた輝かしい未来を自ら絶って しまっているわけです。本当に狂っているとしか言いようがありません。この世の中には小さい子には全く 興味のない大人も大勢います。なぜ、私はこうなってしまったのか。こんな風になってしまった私自身、今でも 二度と叶うことのない少女への欲望をひたすら押さえていいお父さんを演じて生きています。 様々な罵倒もあるかと思いますがこれで終わりにします。長文にわたる拝読ありがとうございました。
25 :
悪魔を告発します :2006/10/16(月) 12:47:19.47 ID:jAcmEZr9
372 :強姦パパ:04/11/29 21:02:06 ID:??? こんばんは。強姦パパです。予想通りコピペとか官能小説とかいろいろ言われていますが、 その辺はまぁいいとして私がこうしてネットで自分の過去を打ち明けたのは自分自身の ねじ曲がった欲望が苦しいからでもあるんです。まあ、通報とかなんとか言われていますが もし、今でも強姦や痴漢などの事件を起こしているのならこういう場所で書き込みなど しないだろうし、もししたとしても串を通さずに書き込みなどしないでしょう。 なぜなら類似事件があれば警察によってプロバイダーを調べられて分かるからです。 さて、強姦に関する私の心理なんですが「レイプするのが好き」という訳ではないんですね。 ただ、10〜14位の女児が好きなんです。しかし日本では未成年の女の子とのセックスは 法令でも禁止されていて手が出せず、またそのような年齢と関わる機会などほとんど ありません。風俗にしても援助交際にしても成人ばかりです。私がこのように子供が 好きになったのも妹との一件があるからだと思います。私自身みなさんと同じ成人の女性に 興味が持てる人間でありたかったといつも思っております。 お金ならあるわけですから、そういう小中学生と遊んで満足できる場があるならいくらでも していたでしょう。 266さんのレスの「ねぇ性欲ってそこまでして果たさなきゃいけないの?」に対する私の意見 なのですがやったらいけないと分かっていながらもHしたいという衝動とか欲求ですごく 苦しくなるときが今でもあります。ただ、一度やってしまったらこういうのは歯止めが利かなく なりますね。そのことも経験上から分かります。私は煙草とか酒とかはしないので 分かりませんが、急に今日から煙草をすってはいけない、アルコール類はいっさい禁止と なったらなかには押さえきれない人もいるのではないでしょうか。 こういうものと例えてはいけないんでしょうけどやりたいものはやりたいのです。 私自身初めからこういう味をしらなければ・・・と後悔はしています。 これも自己中心極まりない言い方なんですが、未成年でもHが禁止されていなくてお金を 払えば自由に性欲を満たせることができるような場があるならこんなに苦しむことはなかったと思います。
26 :
悪魔を告発します :2006/10/16(月) 12:47:37.40 ID:jAcmEZr9
377 :強姦パパ:04/12/05 19:04:20 ID:??? 串通した位で身元が判らなくなると思ってるとか、そう言うことを言っているんじゃ ないんだけどなぁ・・・・。第一ネットに載せた時点でアウトだろ・・・。 今だから言える話をしているだけで、揚げ足みたいなことしてんじゃないよ。 ^^-FAQ-^^ Q それなんてエロゲ? A 強姦パパです。 Q もし実話ならこの人どうなるんでしょ? A 強姦パパの娘がいつか強姦被害者になるでしょう。 「どんなことがあってもこの子は守り抜こうと思います」なんて ほざいてらっしゃいますが、娘を強姦被害から守ることはできな いでしょう。親の因果が子に巡るということです。
998 :名無しさん 〜君の性差〜:2005/06/05(日) 11:32:44 ID:C5sBQXcX
>>985 んー、処女はともかく、中古に勝手に罵倒と思われるってのは了解してる。
処女に関しては同意しかねる。
処女であったことを喜んでくれたコトが嬉しいという女の実例を知ってるだけに。
処女を含む全ての女に嫌われるから、処女がいいとは思わない(思わないようにする)、
ってんであれば本末転倒っしょ。
匿名掲示板だからたまたまこれだけの本音が吐露されているが、ここで処女が良いと言ってる
男だって、別段普段の生活でそれを明言して生活してるわけではない。
おそらく殆どの「そういう男」は自分の内面で取捨選択している。
俺自身も女にそれを言ったのは今のカミさんだけだ。
それ以外の女(特に事前に中古とわかってる女)にはここでいう非処女派(?)と同じように
「気にしない」という態度を一貫している。
時には「処女に拘るヤツはセックスに自信ないんじゃね?」くらいのコトすら言う。
ようは、その思想自体は嫌われる傾向のあるモノなのかもしれんが、はたからみて
判らないんだから、嫌われていようがいまいが正直どうでもいい。
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 20:19:05.72 ID:jAcmEZr9
パンツ強盗 殴り倒した女性のスカートに手入れ奪う 15日午前0時55分ごろ、埼玉県春日部市緑町の東武伊勢崎線一ノ割駅近くの自転車置き場で、 男が同市の女性会社員(28)の顔を殴り、はいていた下着を奪い走って逃げた。女性は顔に軽傷を負い、 春日部署は強盗致傷事件として調べている。 調べでは、男は30歳ぐらい。自転車で帰宅しようとした女性に近づいて「パンツよこしな」と声を掛けた。 女性が断ると殴りかかって押し倒し、スカートの中に手を入れ下着を奪ったという。 (07/15 11:31)
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 21:52:26.40 ID:jAcmEZr9
(ペリリューのたたかい)とは、太平洋戦争中の1944年9月15日から1944年11月25日にかけペリリュー島(現在のパラオ共和国)で行われた 日本軍守備隊(隊長・中川州男大佐)とアメリカ軍(師団長・ウィリアム・リュパータス少将)の陸上戦闘をいう。 日本が見せた組織的な抵抗は、後に硫黄島の戦いへ生かされていくことになる。 [戦闘直前] パラオは第一次世界大戦後日本の委任統治領となり、太平洋上の重要な軍事拠点のひとつとして整備が進められていき、 ペリリュー島には「東洋最大」と呼ばれる飛行場の建設も進められていった。 日本軍にとってパラオはグアムやサイパン攻略の後方支援基地として、 米軍にとってフィリピン奪還の拠点として注目され、米軍はチェスター・ニミッツ提督の命令の下でパラオ攻略作戦を計画し、 実行に移すこととなった。 一方、日本は絶対国防圏を守るため、パラオへ関東軍最強と呼ばれた第14師団を派遣し、 その麾下の水戸歩兵第2連隊、及び高崎歩兵第15連隊の1個大隊が中核となってぺリリュー島の守備に当たった。 珊瑚礁で出来ていてコンクリート並に硬い地質を利用した、500以上に及ぶといわれる洞窟の要塞化など持久戦に備えた強固な陣地を築くことになる。
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 21:54:12.19 ID:jAcmEZr9
戦闘経過 1944年9月12日、艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ、 周囲のジャングルを焼き払った後の9月15日、「2、3日で陥落させられる」との宣言の下、約28,000名の米軍が上陸。 しかし、日本がそれまで見せてきた「万歳突撃」は一切行われず、ゲリラ戦法による徹底的な組織的抵抗を行い、米軍側に大きな損害を与えることになる。 特に米軍上陸直後の水際戦闘は凄惨を極め、大損害を蒙った米軍が煙幕を焚いて一時退却する羽目に陥った。 この戦闘で、敵味方両方の血で海岸が赤く染まり、今でもこの海岸には「オレンジビーチ」の名が残る。 10月30日には米軍が一時撤退し、師団を一時交代する場面も現れた。 海兵隊の司令官はこの戦いを気に病んで、心労から心臓病を発病したという。 しかし、圧倒的な米軍の物量の下で日本の抵抗も衰えを見せ始め、 11月24日、地区隊長中川州男大佐と師団派遣参謀村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、 玉砕を伝える「サクラサクラ」の打電が送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による「万歳突撃」が行われた後、 11月27日に米軍はペリリュー島の占領を果たすこととなる。 なお、戦闘終結後も生き残りの34人が洞窟を転々として生き延びており、終戦後になってから米軍へと投降した。 この生き残りの34人は「三十四会」(みとしかい)という戦友会を結成している。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 21:55:50.02 ID:jAcmEZr9
[ぺリリュー島の島民] ぺリリュー島では激しい戦闘が行われたが、島民の犠牲者は一人も居ない。 これは戦闘に控え日本軍がぺリリュー島の島民を戦闘に巻き込んではいけないと、島民全員をパラオ本島に避難させた為である。 このことは美談として毎日新聞のコラムで掲載されていたりする。 今でも当時の教育を受けていた島民は日本語を話すことが出来、 また単語に至っては若者でも通じるところがあるという。 後に、同島出身のとジョージ・シゲオとオキヤマ・トヨミらによってペ島の桜を讃える歌(作曲:同島小学校副校長ウィンティ氏)が作詞され、今でも歌い継がれているという。 [編集] ニミッツ提督による詩文 昭和57年に、地元住民の協力を得て、ペリリュー神社が建設された。 神社に建設された碑にはニミッツ提督の詩文が掘り込まれている。 「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守る為に日本軍人が いかに勇敢な愛国心を持って戦い 玉砕したかをつたえられよ。 米太平洋艦隊司令長官C.ニミッツ」 原文は「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island」
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 21:58:48.16 ID:jAcmEZr9
硫黄島の戦い 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション, 検索 硫黄島の戦い 硫黄島に向かう米第4海兵師団(1945年2月19日) 戦争: 大東亜戦争(太平洋戦争) 年月日: 1945年2月16日から3月26日 場所: 硫黄島、日本 結果: アメリカの勝利 交戦勢力 日本 アメリカ 指揮官 栗林忠道中将 ホランド・スミス中将 戦力 22,000 70,000 損害 戦死21,800、捕虜200 戦死7,000、戦傷19,000 硫黄島の戦い(いおうじまのたたかい, Battle of Iwo Jima)とは大東亜戦争(太平洋戦争)末期の1945年2月18日から1945年3月22日にかけて 小笠原諸島硫黄島において日本軍とアメリカ軍の間に生じた戦闘。 1945年2月18日に米軍の上陸が開始され、3月22日に日本軍の組織的戦闘は終結した。 * 1 硫黄島 * 2 前兆 * 3 硫黄島の陣地構築 * 4 アメリカの上陸計画 * 5 戦闘の経過 * 6 部隊編制 * 7 両軍の損害 * 8 硫黄島の戦いを題材とした映画作品 硫黄島 硫黄島は東京の南約1,080キロ、グアムの北1,130キロ、そして東京とサイパンのほぼ中間に存在し小笠原諸島に属する火山島である。 島の表面の大部分が硫黄の蓄積物で覆われているところからこの名称がつけられた。 島は北東から南西方向へ長さ8キロ未満、幅は北部ではおよそ4キロ、南部ではわずか800メートルと異なる。 島の面積は21平方キロ程度である。 一番標高の高い場所は、島の南部にある169メートルの摺鉢山である。 アメリカ軍はサイパン島占領後、B-29による長距離爆撃を行っていたが、この距離からは護衛戦闘機が随伴できず、 日本軍迎撃機によってかなりの損害を被っていた。 そこで米軍においては護衛戦闘機の配備、緊急着陸基地の確保によって長距離爆撃の効果を上げるため、 硫黄島の確保が必要であると判断された。 硫黄島の名称は、今日では「いおうじま」と称されることが多いが、正しくは「いおうとう」である。 かつては、北、本、南3島を合わせて「いわうたう」と呼ばれていたが、やがて3島を分け、本島を「いわうたう」=「いおうとう」と呼ぶようになった。 「いおうじま」の呼称は、アメリカの影響もあり、 1980年代頃よりそのように呼ぶ人が増えてきている。
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 22:00:18.68 ID:jAcmEZr9
前兆
硫黄島と日本本土の位置関係
拡大
硫黄島と日本本土の位置関係
硫黄島の衛星写真(2000年) 左下が擂鉢山
拡大
硫黄島の衛星写真(2000年) 左下が擂鉢山
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Iwojima.jpg 日本軍は1941年の真珠湾攻撃の時点で、陸軍兵力3,700から3,800人を父島に配備していた。
これに加えて海軍の兵員約1,200人が父島海軍基地に居り、小さな水上飛行機基地、
無線基地および気象観測所、および様々な砲艦、駆潜艇および掃海艇部隊を配備していた。
硫黄島においては海軍が摺鉢山の約2km北東に飛行場を構築した。
まず手始めとして1,500人の海軍の航空兵および20機の航空機がこの飛行場に配置された。
アメリカのマーシャル諸島占領、および1944年2月のカロリン諸島トラック島に対する大規模空襲の結果、大本営は軍事情勢の再評価を行った。
マリアナ諸島およびカロリン諸島の攻撃に向けてアメリカ軍が活動していることは明らかであった。
戦力を一段と増加させたアメリカ軍に対抗するために、日本軍ではカロリン諸島からマリアナ諸島、およびそこから小笠原島までに及ぶ防御線を設定し、
これを絶対国防圏として死守することを決定する。
1944年3月には小畑英良中将の指揮する第31軍がこの防衛線を守備するために投入された。
父島守備隊は小笠原島の陸海軍部隊の指揮下に置かれた。
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 22:01:57.91 ID:jAcmEZr9
1944年2月のクエゼリンの戦いとエニウェトクの戦いでマーシャル諸島の基地がアメリカに占領された後、 陸海軍の増援が硫黄島に送られた。横須賀海軍基地から500人、さらに父島から500人が1944年3月および4月に硫黄島に上陸した。 この増援により硫黄島の守備隊は13の砲兵隊、200挺の軽および重機関銃、および4,552挺のライフル銃を装備し総兵力は5,000人以上に達した。 さらに守備隊は120mmの海岸砲、12門の重対空砲および30門の25mm二連装対空機銃を保有していた。 1944年夏のマリアナ諸島の失陥により小笠原諸島の重要性は大幅に増加した。 大本営はマリアナ諸島の喪失によって本土への空襲が増え、日本の軍需生産計画が根底から破壊され、 銃後の士気に大打撃を与えるだろうということを完全に理解していた。 しかし帝国海軍は既にほとんどの主力艦艇、航空機を失っており、 アメリカ軍上陸を防ぐことができなくなっていた為に、日本軍の小笠原諸島防衛の最終計画には暗雲が立ちこめていた。 アメリカ軍の空襲によって軍需産業が影響を受けなかったと仮定しても、1944年における航空機の喪失があまりに深刻だったので、 1945年の3月か4月以前に総航空戦力が3,000 機以上まで回復することは不可能であった。 生産される戦闘機の航続距離はたかだか890kmに過ぎず、本土の飛行場を基地として硫黄島での戦闘に使用することはできなかった。 さらには台湾および周辺海域において予想されていた作戦のために、近隣の地上基地で利用可能な航空機はすべて温存しておかねばならなかった。
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 22:03:04.63 ID:jAcmEZr9
戦後行われた研究において、参謀本部が硫黄島防衛に適用した戦略は次のように評価された: 「上記の状況に照らして我々の硫黄島における陸海空の作戦を最終的勝利へ導くことが不可能だったので、 本土防衛の準備に必要な時間を獲得するために我が軍はもっぱらその区域に設置された防御設備に依り遅延戦術をもって敵を阻止すべきことが決定された。 我が陸海軍航空機の小集団による自殺的攻撃、潜水艦による奇襲および落下傘部隊の行動がいかに有効であるとはいえ、 これらが我が方の唯一の策略だったと見なすことができるかもしれない。これらの作戦の間に時々生じる戦略的好機を利用しようにも、 我々に利用可能な手段が残されていなかったというのは最も気の重いことだった。」 1945年の元旦には、連合軍による攻撃が差し迫っていることを痛感させられる事件が起きた。 スカベンジャー作戦の一環として、マリアナ諸島から発進した爆撃機による空襲が連日本土を襲った。 硫黄島は本土へ侵入する爆撃機を無線で報告する早期警戒所として機能していた。 そのため連合軍の爆撃機が日本の都市上空に到達した時には迎撃の用意や市民の避難などは十分に準備ができていて爆撃を待ちうけることができた。 フィリピンのレイテ島の戦いが終わりに近づくと、連合軍は沖縄侵攻までの2か月間におこなう作戦計画として硫黄島攻略が決定された。硫黄島上陸計画はデタッチメント作戦と名付けられた。
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 22:04:37.86 ID:jAcmEZr9
硫黄島の陣地構築
日本軍指揮官栗林忠道中将
日本軍指揮官
栗林忠道中将
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Tadamichi_Kuribayashi.jpg 栗林忠道陸軍中将(戦死後陸軍大将に昇進)は、1944年5月に第109師団長となり小笠原地区集団軍司令部として父島に赴任した。
当初は要塞のある父島に司令部を置くことになっていたが、情勢を調査した栗林中将と大本営は米軍が硫黄島を攻略することを見抜き、
無防備に等しい硫黄島に直ちに司令部を移し、即日島全体の洞窟を利用した地下陣地の構築に着手した。
計画によると坑道は地下で全島を結ぶことになっており、最も深いところで12mから15m、また工事の遅れを無くすため作業中は一切の敬礼をやめるように命令するなど陣地構築作業は徹底していた。
しかし、地下の猛烈な湿度や温度、そして硫黄酸化物や硫化水素ガスにより兵士は短時間しか作業に従事できなかった。
加えて米軍の潜水艦による妨害によって物資が思うように届かないなどの理由で計画は遅れ、
結局坑道は全長28kmの計画のうち18km程しか完成せず、また摺鉢山への坑道も僅かなところで未完成のままで米軍を迎え撃つことになった。
これらの状況にも関わらず、戦闘が実際に始まってみると地下坑道は所定の役割を十二分に果たすことになる。
栗林忠道中将が到着した時、硫黄島には約80機の戦闘機が配置されていたが7月までには4機にまで減少していた。
7月4日に米水上艦艇は硫黄島の至近距離から艦砲射撃をはじめ、
わずか2日間で島のすべての建物が破壊され4機の残りの航空機も粉砕された。
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 22:06:40.32 ID:jAcmEZr9
硫黄島の日本軍守備隊が驚いたことに、アメリカ軍は1944年夏には上陸しなかったが、アメリカ軍の侵攻が近いことは疑いようもなかった。 栗林中将は以前にも増して、上陸部隊にできるだけ大きな対価を支払わせることを決意した。とはいえ、海軍と航空機の支援無くしては、 制空権と制海権をともに持つ米軍に対して、硫黄島が長く持ちこたえることができないだろうことは明白だった。 持久防御のための第一歩として、全民間人の島外退去が命令され、7月後半までに完了した。 次に、島の全面的な防衛計画が立案された。第31軍司令官小畑英良中将は、1944年の初め、マリアナ諸島への帰還に先立ち、硫黄島防衛の責任者となった。 小畑中将は、上陸には実際に水際防衛で対抗すべしという当時の原則に忠実で、海岸近くに砲兵陣地およびトーチカの構築を命じた。 しかし栗林中将は異なる考えを持っていた。海岸を維持するのは無意味な努力だとして、自動兵器と歩兵の散開展開によって後方を防御することを主張した。 結果として、砲、臼砲およびロケット砲は摺鉢山のふもとと斜面、ならびに千鳥飛行場の北の高台に据え付けられることになった。 また、地上設備は艦砲射撃や空襲に耐えられないことが明白だったため、天然の洞穴とトンネルから成る広範囲な要塞の準備が必要とされた。 このため本土から鉱山技師が派遣され、地下要塞が設計されることになった。 それは良好な換気を保証しつつ、かつ入り口あるいは出口の近くで爆発する爆弾・砲弾の影響を最小限にすることを目的にした、高さを変えた精巧なトンネルから成るものであった。 並行して、増援軍は徐々に島に到着し始めていた。第109歩兵師団の指揮官として、栗林中将は、 まず大須賀應少将指揮下の約5,000人から成る第 2独立混成旅団を父島から硫黄島へ移動させることを決定した。 サイパン陥落に伴い、池田益雄大佐の指揮する第145歩兵連隊の2,700人も、硫黄島へ転進。 これらの増援軍は1944年7月および8月に到着、守備隊はおよそ12,700人までに増強された。さらに、 第204海軍建設大隊の1,233人が到着し、 速やかにコンクリートのトーチカとその他の要塞化に着手した。 1944年8月10日に、市丸利之助少将が硫黄島に着任し、それに続いて海軍の航空隊および地上整備員を含む2,216人の海軍の人員が到着した。 市丸少将は以前は有名なパイロットだったが、1920年代中頃に飛行機事故で身体が不自由になり、開戦以降は後方任務ばかりで苛立っていた。
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 22:08:52.01 ID:jAcmEZr9
次に、硫黄島に配備されたのは、砲兵隊および5つの対戦車大隊だった。 多くの補給船がアメリカの潜水艦および航空機によって沈められたが、1944年秋までにはかなりの量の物資が到着した。 1944年末までに、75mm以上の砲が361門、320mm臼砲が12門、150mm中迫撃砲と81mm軽迫撃砲を65門、80mm以上の艦砲33門、および75mm以上の高射砲94門が稼動状態にあり、 さらに200を越える20mmおよび25mmの対空機銃と69門の37mmおよび47mmの対戦車砲が揃った。 そして、重さ90kgで射程2〜3kmという8インチ弾から、7km以上の射程を誇る250kg弾まで、合わせて70のロケット砲およびそれらの操作員も到着した。 さらに防衛強化のために、満州での長い従軍ののち釜山に駐留していた戦車第26連隊が配備された。 指揮官は男爵西竹一中佐で、600名の人員および28台の戦車から成るこの連隊は、輸送船「日秀丸」に乗り、7月中旬に日本本土を出航したが、 7月18日、父島まで250kmの地点でアメリカの潜水艦「コービア」によって撃沈されてしまった。 このときの人的損害は戦死2人だけだったが、連隊の28台の戦車はすべて海の底に沈んだ。 補充は12月に行われ、最終的に22 台が揚陸された。 西中佐は当初、主戦域に参加するべく、機甲部隊を一種の「戦場の火消し役」として運用することを計画したが、 硫黄島は起伏に富んだ地形のためそれは不可能だった。 結局、中佐の熟慮の結果、戦車は固定砲台として使われることになり、車体を埋めたり、あるいは砲塔を分解するなどして、 上空や地上からわからないように岩の地形に非常に巧みに隠蔽された。 1944年暮には、島に豊富にあった黒い火山灰をセメントと混ぜることでにより高品質のコンクリートができることがわかったため、硫黄島の要塞化はさらに加速した。 摺鉢山の海岸北の近くのトーチカは鉄筋コンクリートで造られ、その多くの壁は1,2mの厚さを誇っていた。 同時に、洞穴、コンクリート要塞およびトーチカの精巧なシステムも確立された。 1944年初夏のアメリカの空襲および艦砲射撃の経験に基づき、日本軍はとても地下深くに潜ったため、これらの要塞は艦砲射撃を事実上ほぼ無力化していた。 西カロリン諸島のペリリュー島では、日本軍は自然の洞穴を「芸術的地下壕」に変えたが、硫黄島の守備隊はそれを科学的に発展させた。 地下陣地が多いため、守備隊の25%はトンネル掘りに割り当てられたが、幸運なことに、ほとんどの火山石が非常に軟らかかったため、手工具で掘ることができた。 地下陣地のサイズは、少人数用の小洞穴から、 300人から400人を収容可能な複数の部屋を備えたものまで、多種多様であった。 兵力がどこか1つの穴に閉じ込められるのを防ぐために、地下施設は、複数の出入口、階段、および相互に連絡通路を備えていた。 ただ、施設の大部分に硫黄ガスが発生したため、適切な換気が行われるように細心の注意を払わなければならなかった。
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 22:10:08.35 ID:jAcmEZr9
栗林中将は、島の北部の北村から約500m北東、北野ポイントの南に司令部を設置した。 地下20mにあるこの施設は、150mのトンネルによって接続されたさまざまなサイズの洞穴から成っていた。 栗林中将は、コンクリートに囲まれた3室の小部屋のうちの1つを、自室とし、あとの2つは幕僚用にしていた。 島で2番めに高い382高地から更に南に、日本軍は無線所と測候所を構築した。 その測候所からすぐ南東の高台上に、硫黄島の全火砲を指揮する街道長作大佐の本部として使われた巨大要塞が構築された。 島の北部の他の丘にも複数の出入り口を持つトンネルが掘られた。そういった地下要塞の中で最も完成度が高かったものの一つが、北村の中央南に作られた主通信所であった。 長さ50m、幅20mの部屋を軸にした施設で、壁と天井の構造と厚さは栗林中将の指令所のものとほぼ同じであり、地下20mにある長さ150mのトンネルがここに繋がっていた。 要塞計画のうち最も壮大なものは、島の主な防御施設をすべて接続するという地下通路だった。 計画上は、この通路は合計約27kmの長さに至るもので、完成した暁には、硫黄島北部の地下施設と島の南部を繋ぐというものだった。 摺鉢山の北斜面だけでもトンネルが数kmにも上るもので、実際アメリカ海兵隊が上陸した時点で、18km以上のトンネルが完成していた。 地下工事に従事していた日本兵は困難の連続だった。 激しい肉体労働に加えて、防毒マスクを着用せざるを得ない硫黄ガスや、摂氏30〜50度の地熱に曝された。 多くの場合、作業は5分だけしか続けられなかった。また1944年12月8日以降米軍上陸まで、空襲は毎日続いたため、 多くの人員が被害を受けた飛行場の修理に振り分けられねばならなかった。 このように硫黄島守備隊が総力を挙げて要塞化を進める一方で、栗林中将は硫黄島防衛の最終計画を練っていた。 計画は、次のように、この戦争でこれまで日本軍が用いた防御戦法から根本的に逸脱したものから構成されていた。
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 22:11:06.98 ID:jAcmEZr9
1. アメリカ軍に位置が露見することを防ぐために、日本軍の火砲は予期される上陸準備砲撃の間は沈黙を守る。アメリカの軍艦に対する砲撃は行わない。 2. 上陸された際、海岸ではアメリカ軍への抵抗は行わない。 3. アメリカ軍が一旦約500m内陸に進んだならば、本山飛行場北付近に配置された自動兵器による集中砲火を加え、さらに、上陸した海岸の北へはその高台から、ならびに南へは摺鉢山からの砲撃を加える。 4. 上陸部隊に可能な限りの損害を与えた後に、砲は千鳥飛行場近くの高台から北方へ移動する。 これに関連して、栗林中将は、この計画が上陸軍をすり減らすことを狙った弾性防御であることを再度強調した。 もちろん、そのような持久抵抗には糧食と弾薬の備蓄が必要で、2.5か月分の食糧が備蓄された。 硫黄島防衛準備の最後の数ヶ月間、栗林中将は、兵士たちの要塞の建設作業と訓練との時間案分に腐心していた。 訓練に、より多くの時間を割くための第一段階として、彼は、島の最北の飛行場での作業を停止した。 12月前半に出た作戦命令により、1945年2月11日が防衛準備の完成目標日として設定され、兵員が時間の70%を訓練、30%を工事に費やすべきことを明示した。 アメリカの潜水艦および航空機による断続的な妨害にもかかわらず、1945年2月まで兵力の増強は続いた。 最終的に、栗林中将は陸海軍合わせて21,000人〜23,000人の兵員を指揮下に置くことになった。
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 22:14:01.17 ID:jAcmEZr9
栗林中将は、アメリカ侵攻の数か月間に、基礎防御計画のいくつかに変更を加えた。 1945年1月に発令した最終作戦は、強力かつ相互に支援し、死守するべき陣地の構築を要求したもので、 大規模な逆襲、撤退、および万歳突撃はいずれも考慮に含まれなかった。 摺鉢山付近の硫黄島南部は、砲郭式の海岸砲および相互に支援するよう設置されたトーチカを含む、半ば独立した防衛区へと組織された。 一方、擂鉢山北部の狭い地峡は歩兵部隊によって防御されることになっていた。 さらに、この全エリアは、南部に対しては摺鉢山に設置された、および北部についてはその高台に設置された、火砲群の砲火に曝されることになっていた。 主要な防衛線は、相互に支援するよう何重にも配備された陣地で構成され、北西の崖から第二本山飛行場を通り南村までの線に沿って、島の北西部から南東へ延びていた。 そこから東へ進んで、立川ポイントの真南の海岸線につながっていた。 トーチカ、燃料庫および要塞は、この防衛線の至るところに点在した。 注意深く埋められ擬装され、さらに凹凸の多い土地で防御を固めた西大佐の戦車隊が、さらにこの要塞化された区域を強化していた。 第二防衛線は、硫黄島の最北端の北野ポイントの南数百mから、未完成の第三飛行場を通り、本山村へ至り、そこから立川ポイントと東ボート盆地の間のエリアへ伸びる線とした。 この第二線の要塞は、第一線より少なかったが、日本兵は自然の洞穴や他の土地の特徴を最大限に利用した。 完成済みの2つの飛行場を直接攻撃から守るための追加手段として、守備隊は、飛行場の近くに多くの対戦車壕を構築し、接近しうるルートをすべて掘削した。 1月2日、十数機のB-24リベレーター爆撃機が第一飛行場を空襲し、重大な損害を与えた。 が、栗林中将は応急修理に600人を越える人員と、11 台のトラックおよび2台のブルドーザーを投入した結果、飛行場はわずか12時間後に再び使用可能になった。 (2,000人が爆弾の穴を埋める仕事にあたり、爆弾の穴ひとつにつき50人もの人が作業に従事した。) 1944年末には、アメリカのB-24爆撃機がほぼ毎晩硫黄島上空に現れ、アメリカ海軍の航空母艦および巡洋艦も小笠原諸島へ頻繁に出撃した。 1944年12月8日、アメリカの航空部隊は硫黄島に800トンを越える爆弾を投下したが、日本軍陣地には実質的な損害をほとんど与えられなかった。 頻繁な空襲で、防衛準備は妨害され、守備隊も眠れぬ夜が続いたが、実質的に作業進行が遅れることはなかった。 1945年1月5日、市丸海軍少将は指令所に海軍の上級将校を集め、レイテ沖海戦で連合艦隊が壊滅したこと、フィリピンが陥落したこと、 そして硫黄島がまもなく敵の侵攻を受けるだろうという予測を伝えた。 そのちょうど1か月後、硫黄島では、アメリカの暗号無線に不吉な変化があることを捉えていた。 2 月13日、海軍の偵察機が、サイパンから北西へ移動する170隻のアメリカの大船団を発見。 小笠原諸島の全日本軍に警報が出され、戦闘配置が取られた。硫黄島でも、迎撃準備を整えていた。
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 22:17:24.16 ID:jAcmEZr9
[アメリカの上陸計画] 1944年10月7日、太平洋艦隊攻撃の足がかりとして哨戒や偵察が容易となり、マリアナ諸島方面への攻撃を抑制されるのでマリアナ諸島は安全な艦隊の拠点にもなり、 硫黄島は長距離爆撃機を護衛する戦闘機を提供する空軍基地に変えることができると考えられた。 この作戦研究で描かれた構想の3つの主軸は、「日本海軍及び航空機の戦力の削減ならびに日本本土の工業地帯攻撃」、 「小笠原諸島の日本軍と航空機の破壊」、「硫黄島の攻略・占領及びその後の防御(空軍基地に発展させる計画)」であった。 10月9日、ホランド・M・スミス海兵隊中将はニミッツ提督から硫黄島の占領を命じる指令とともにデタッチメント作戦計画研究の指示を受け取った。 この指令は特別の指揮官として、まず、5個機動部隊を指揮下に入れた第5艦隊司令官にレイモンド・スプルーアンス海軍大将が任ぜられた。 さらに、スプルーアンス大将の指揮下でリッチモンド・ケリー・ターナー海軍中将が第51機動部隊「共同遠征軍」を指揮することになった。 共同遠征軍の次席指揮官で第53機動部隊「攻撃軍」の司令官はハリー・W・ヒル海軍少将、戦艦を含む水上打撃部隊の第54機動部隊「艦砲射撃軍」の司令官は バトラム・J・ロジャース海軍少将、高速戦艦2隻と空母12隻を率いる第58機動部隊の司令官はマーク・A・ミッチャー海軍中将に任ぜられた。 スミス中将は第56機動部隊「遠征軍」司令官に任命されたが、硫黄島派遣部隊司令として上陸部隊の指揮をとる。 これらの機動部隊は硫黄島派遣軍司令官であるターナー中将の指揮下に一時的に入った。 後に「歴史に残る古典的な水陸両用軍の攻撃」として知られることになる極めて重要な作戦を指揮するために、これらの提督が選ばれたことは偶然ではなかった。 彼らはいずれも前の任務でその有能さを示しており、ある硫黄島作戦記の著者は次のように記した。 「硫黄島に割り当てられたチームは素晴らしかった。彼らはまさにガダルカナル島攻略からグアム島攻略までに水陸両用軍の技術を完成した。 ソロモンのガダルカナルのジャングルからタラワの血の暗礁からマリアナ諸島の山までの中部太平洋を横切る間に、ほぼすべての問題に遭遇し、克服したと信じられている。」 上陸部隊の主力に割り当てられた部隊は、海兵隊の第3、第4、第5師団だった。 第3海兵師団はソロモン諸島のブーゲンヴィル島、マリアナ諸島のグアムで既にその名を知られていた。 1944年、晩秋にデタッチメント作戦の計画が進行している頃、師団はグアム島を巡る激戦の後の再編成中であり、まだ島に残存していた活動的な日本軍の掃討に追われていた。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 22:21:11.05 ID:jAcmEZr9
スプルーアンス大将が1945年1月26日に中部太平洋機動部隊全軍の指揮を引き継いだ後、太平洋艦隊総司令部(CINCPOA)は11-44計画を完全に発効した。 海岸上陸に割り当てられたのは、上陸部隊の予備になっていた第26海兵隊を除く第4、第5の海兵師団だった。 第26海兵隊は作戦に先立つ訓練のため第5師団とともに残ることになり、第3海兵師団はグアムに移動中で、D-デイ + 3日まで船上で目標区域の予備として残ることになった。 海兵隊のLVTで構成された水陸両用軍団(VAC)の上陸作戦行動は比較的単純で、第4、第5海兵師団は東部海岸に並んで上陸する予定だった。 第4が右側、第5が左側とされた。VACに公表された時、第3海兵師団は遠征軍の予備として攻撃に参加するか、あるいは防衛の役割か、 どちらが要求されたとしても、同じ海岸に上陸することになった。 この計画は、橋頭堡を迅速に確保することで、全島を占領するためにさらに北東の方角へ進撃することを要求された。 第5海兵師団の多数は南の摺鉢山の占領に割り当てられた。 東部沿岸には不利な寄せ波の可能性があったので、VACは西部海岸への上陸を企図する代替の計画を1945年1月8日に出した。 しかしながら、北北西の風が島の南西側沿岸に危険なうねりをほぼ常に引き起こしたので、この代替の計画が実行に移される可能性は低かった。 上陸が計画された東海岸は摺鉢山からイーストボート盆地まで北東へ伸びる約3kmの長さだった。 侵攻軍の編成と管制のため、この海岸は各500ヤード(457.2m)を7つの区画に分割され、左から右(南西から北東)に向かってグリーン区、レッド1区、レッド2区、イエロー1区、イエロー2区、ブルー1区、ブルー2区として指定された。 第5海兵師団はグリーン区、レッド1区、レッド2区の三箇所に上陸し、島を横切って対岸まで進む予定だった。 島はこの地点で西側海岸まで狭い地峡を形成していたためであった。 同時に、師団の一部が摺鉢山を占領するために南へ向かうため、右側に向かって戦線を保持することも必要だった。
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 22:23:34.48 ID:jAcmEZr9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Iwo_Jima_-_Landing_Plan.jpgデタッチメント作戦第一計画 第4海兵師団は地峡の中心へ移動する特命を持っていたが、その右側面の本山高原(イーストボート盆地の上の高台)を占領するために北へ進撃することになった。
もし、上陸海岸の北にあるこの重要地点と、海岸を見下ろせて露出した海兵隊へ思うままに発砲できるような地形だった南の摺鉢山が速やかに占領できなかったならば、
上陸部隊に非常に多数の死傷者が出るだろうと予想された。
一旦、硫黄島の南部が安全になったならば、2つの師団は合流し北へ移動することができた。
そして、最初は遠征軍の予備兵力にされていた第3海兵師団が上陸拠点の近くの船に搭載され、VACの攻勢を支援するために上陸させることができるというのも強みであった。
第5海兵師団のハリー・B・リバースエッジ大佐が指揮する第28海兵隊に出された作戦の詳細な指示は、上陸部隊の一番西側にあたるグリーン区に上陸、南部にある擂鉢山へ進撃し、
第28海兵隊の東側はトマス・A・ウォーンハム大佐が指揮する第27海兵隊が島の西海岸の方へ進撃し、次に北東へ向きを変えて作戦区域「O-1ライン」まで前進することになった。
第27、第28海兵隊の任務は硫黄島の擂鉢山から敵を駆逐し、同時にVACの側面及び後方を守ることであった。
第4海兵師団のウォルター・W・ウェンシンガー大佐が指揮する第23海兵隊はイエロー1区とイエロー2区に上陸し、本山第一飛行場を占領して、
次に北東へ進撃、本山第二飛行場の一部と作戦区域「O-1ライン」内を制圧するのが任務だった。
ジョン・R・ラニガン大佐が指揮する第25海兵隊はブルー1区に上陸後、第一飛行場とブルー2区を占領しつつ、北東方向へ進撃して作戦区域「O-1ライン」への到達が任務となった。
ウォルター・I・ジョーダン大佐指揮する第24海兵隊は最初の上陸D-デイ一日目は第4海兵師団の予備として残り、
チェスター・B・グレアム大佐の率いる第26海兵隊はD-デイの予備から開放され、第5海兵師団を支援する準備を行った。
師団砲兵はそれぞれの師団長の命令により上陸することになっていた。
ルイス・G・デヘイヴン大佐が指揮する第4海兵師団は第14海兵隊に支援されることになり、ジェームズ・D・ウェイラー大佐の第13海兵隊は第5海兵師団へ同様の支援をすることになった。
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 22:25:28.88 ID:jAcmEZr9
「H-時」には第1波を構成する68台のLVT(A)-4(水陸両用戦車)が一斉に海岸へ向かい、 これらのLVTは最高水位の地点より先にある最初の陸棚に到着するまで海岸に進む。 また、水陸両用装甲部隊は敵の攻撃を引き付けるため、75mm曲射砲および機関銃を極限まで使用し、 敵の砲火に最も弱い海兵隊のLVTから降りる瞬間を保護する手段とする。 VAC作戦計画の初期バージョンでは、「H-時」 + 30分後に上陸する第4、第5戦車大隊の戦車を使う予定だったが、硫黄島の海岸に関する後の研究により、 柔軟なスケジュールを採用せざるをえなくなった。それは水際が混雑する可能性が高まったことから計画を変更した。 その結果、戦車を揚陸する時刻は連隊長の判断に任された。 なお、第27海兵隊に所属する第 5戦車大隊のA中隊は、「H-時」 + 30分後にレッド区海岸に上陸する計画になった。 代替案であった硫黄島の東海岸へ上陸が困難になって西海岸へ上陸が実施されることになった場合、 第2装甲水陸両用大隊所属の1個小隊によって強化された第24海兵隊の1個中隊が、 監獄岩(硫黄島の約700m北西へ位置する600mの島)を占領するために提供される予定だった。 この島は砲兵陣地として使用できる可能性があったため、4/14の105mm曲射砲をそこに上陸する臨時作戦も準備された。 アメリカ軍は硫黄島が自軍への爆撃機と船舶に対する脅威を低減するだけでなく、 護衛の戦闘機や緊急爆撃機着陸のために飛行場を手にすることを熱望した。 1945年2月16日にアメリカ軍は3日間の激しい爆撃と艦砲射撃を始めた。
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 22:28:03.25 ID:jAcmEZr9
戦闘の経過 米軍の上陸前の攻撃が行われている硫黄島1945年2月17日 米軍の上陸前の攻撃が行われている硫黄島 1945年2月17日 摺鉢山付近の海岸に向かう米軍1945年2月19日 摺鉢山付近の海岸に向かう米軍 1945年2月19日 迫撃砲および重砲の攻撃により擱座したLVT 2月19日の02:00時に、戦艦の砲がDデイの開始を示した。 すぐに100機の爆撃機が島を攻撃し、艦砲からの連射がそれに続いた。 08:30時に、最終的に30,000名になるV水陸両用軍麾下第3、第4および第5海兵師団の第一波が、硫黄島に上陸を始めた。 海兵隊は、島の南にある擂鉢山からの激しい砲火に遭遇しながら、荒れ地をめぐって戦った。 荒い火山灰のため、しっかりした足場も無く、塹壕を掘ることもできなかった。 しかしながら、その夕方までには摺鉢山は包囲され、30,000人の海兵隊が上陸した。 約40,000がさらに続くことになっていた。 摺鉢山の斜面は1mごとが戦闘の連続だった。 砲撃は日本軍に対してはあまり効果がなく、 アメリカ軍の歩兵は火炎放射器と手投げ弾でトーチカを処理しながら前進し、遂に2月23日午前10時15分に頂上に到達し星条旗を掲揚した。 12時15分に改めて5フィート×8フィートと先の旗の2倍となる星条旗を掲げることになりAP通信の写真家ジョー・ローゼンタールは、その瞬間を捉えた写真とあわせ写真3枚を撮影した。 この写真は同年、ピューリッツァー賞(ピューリッツァー賞 写真部門)を受賞した。 (en:Battle_of_Iwo_Jimaに写真あり) なお、2月21日には、千葉県・香取基地から出撃した第3航空艦隊指揮下の第601海軍航空隊所属の艦上爆撃機「彗星」(彗星33型)12機、艦上攻撃機「天山」8機、それに直掩部隊の零戦12機の 計32機からなる神風特別攻撃隊第二御盾隊が、途中、八丈島基地で燃料を補給したのちに硫黄島近海の米海軍艦隊に突入し、 護衛空母「ビスマーク・シー」撃沈、正規空母「サラトガ」大破などの戦果を挙げた。 また、これに呼応して、一式陸上攻撃機数機による米軍艦船に対する夜間爆撃が行なわれた他、日本軍側の航空支援としては、 その後、陸攻部隊や陸軍の四式重爆撃機「飛龍」 による米軍上陸部隊の陣地に対する夜間爆撃なども数回実施されている。 上陸区域が確保されると、より多くの海兵隊および重装備が上陸した。 また、侵攻は北へ進み飛行場および島の残りを捉え始めた。 21,800人以上の守備兵のうち、わずか200人が捕虜になった(1パーセント未満)。
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 22:31:25.13 ID:jAcmEZr9
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 22:32:23.77 ID:jAcmEZr9
[部隊編制] * 日本軍 o 陸軍 + 第109師団(師団長:栗林忠道中将、参謀長:高石正大佐、師団司令部附:大須賀応少将、師団司令部附:街道長作大佐) # 混成第2旅団(旅団長:千田貞季少将、旅団司令部附:厚地兼彦大佐、旅団司令部附:堀静一大佐) * 混成第2旅団野戦病院(病院長:野口巌軍医大尉):4月16日に患者を伴い米軍に投降する。 + 機関銃中隊(阿部武雄中隊長):阿部中隊長は捕虜となるが、戦後、硫黄島協会常任理事となり、戦没者の慰霊に奔走する。 # 歩兵第145連隊(連隊長:池田益雄大佐):3月14日に軍旗を奉焼する。 + 独立歩兵第309大隊 + 戦車第21連隊(連隊長:西竹一中佐) o 海軍 + 第27航空戦隊(司令官:市丸利之助少将) # 硫黄島警備隊(司令:井上左馬二大佐) # 南方諸島海軍航空隊 # 第204設営隊 * 米軍(ホランド・M・スミス中将) o 上陸部隊指揮官(ハリーシュミット中将) o 第3海兵師団長(グレーブス・B・エルスキン少将) o 第4海兵師団長(クリフトン・B・ケーツ少将) o 第5海兵師団長(ケラー・E・ロッキー少将) [編集] [両軍の損害] * 日本 戦死者20,129名(島民から徴用された軍属82名含む)。 * アメリカ 戦死者6,821名、負傷者21,865名。
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 22:34:23.35 ID:jAcmEZr9
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/16(月) 22:35:01.85 ID:jAcmEZr9
パンツ強盗 殴り倒した女性のスカートに手入れ奪う 15日午前0時55分ごろ、埼玉県春日部市緑町の東武伊勢崎線一ノ割駅近くの自転車置き場で、 男が同市の女性会社員(28)の顔を殴り、はいていた下着を奪い走って逃げた。女性は顔に軽傷を負い、 春日部署は強盗致傷事件として調べている。 調べでは、男は30歳ぐらい。自転車で帰宅しようとした女性に近づいて「パンツよこしな」と声を掛けた。 女性が断ると殴りかかって押し倒し、スカートの中に手を入れ下着を奪ったという。 (07/15 11:31)
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/18(水) 12:58:40.89 ID:nv5UgOwn
学生の頃、デパートや雑居ビル・オフィスなどの清掃のバイトを2年間やったことがある。 清掃場所はフロアーとトイレであるが、女子トイレの清掃はすごくたいへんだぞ!! 女は男とは比較にならない位激しい放尿をするので、和式便器の場合は割れ目から飛び散った本流以外の水流や、 便器の下方の激しくたたきつけられた小便の跳ね返りの飛末、 更にお尻に伝わって便器の後ろに落ちる尿滴などでびしゃびしゃになっているので、男の方よりも清掃が大変なんだよ。 あと、ほとんどの男は、この事実を知らないと思うけど、実は女は男よりも遥かにぶっとくて、 しかも信じられない位大量に排便する場合も頻繁にあり、 便器がでかい糞で詰まって流れなくなっている場合が年中起こっている。 でかいうんこが詰まの原因になっているのは、女子トイレ特有の現象だ。 しかも、直径6センチ以上で硬い女の糞が詰まっていると、ラバーカップでは絶対に取れないんだよ。 その場合はゴム手袋をはめて、手を突っ込んでつかみ出すしかないので、当時はさすがにまいった。 そんで、掴み出してもそのままではまた詰まるので、その巨大うんこを細かくしてながしてやるしかないが、とにかく臭くてものすごく硬くてマジで一苦労したよ。 ある女子トイレを掃除したときなんて、5箇所の便器のうち3箇所が糞詰まりになっていた。 そのうちの1つの洋式トイレは人間がしたとは思えない、ビールビンくらいの太さで40センチはある女特有の特大糞が刺さるように突き立っていて、 女のでかいうんこに慣れていた俺も腰を抜かしそうになった。 以上長々と体験上の事実を書かせてもらったが、 実際の女子トイレの姿と女の排泄の実態をしってもらうきっかけになればと思う。 それにしても女子トイレの清掃は本当に大変なんだよ!!
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/18(水) 14:30:32.73 ID:nv5UgOwn
かわいさ余って一心同体 いかに近親相姦萌えっつーても、兄の子を2人も生んだ妹の話 もともと、家系的に内向性があるんだよな。ウチは。今イトコたちみんな30才すぎてるけど、だれも結婚してない(笑) だから祖父母から見たら孫は「私生児」ってことになってる妹の2人の子だけだ。 父親が中学の時(妹からしたら小6の時)に死んだのが、キッカケだろうと思う。 もともと妹は人一倍甘えんぼうで父親が好きだったからね。父が死んだとき、 「こいつの父親代わりになってやろう」と思ったんだ。まあ、「心に誓った」ってほどのもんでもなく、実際に2才しか違ってないから無理っぽかったんだけど。 だけど気持ちだけでも伝わってたのか、妹は僕の言うことはなんでも聞いたし、 泣くことはあっても喧嘩はしなかった。妹のことを何でも知ろう、心の中まで知っておこう、などと思っているうちに、いつの間にか「かわいさ余って一心同体」って気持ちになっちゃってたんだな(笑)
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/18(水) 14:31:03.44 ID:nv5UgOwn
妹の中学の頃から、妹の持ち物から下着や服、それに生理日なんかまで詳しくチェックしてて、 日記なんかもよく見てた。といって妹は絵日記の頃から家族には見せてたから、そんなに悪いことしてたわけじゃないけど、やっぱり勝手に見るといい顔はしなかったかな? でも、結局はこの「かわいさ余って一心同体」が、内向的な妹の心を揺さぶってしまってたらしくて、ある日、えらい喧嘩したんだ。 僕も聖人君子じゃないから、妹の胸のふくらみを見れば触りたくもなる。 で、妹が何も言わないのをいいことに、つい手を伸ばして、もみもみ、としてしまったら、妹が怒り出し、僕を突き飛ばした。 まあ、普通の妹なら怒ることなんだけど(汗)、でもやっぱり僕の妹がそんなんで怒ると、ちょっとオドロキだった。 で、次の日もショボーンとしてたら、妹が部屋に来て、「お兄ちゃん昨日はゴメンね。でもどうして私の胸なんかさわりたがるの?」と言い出した。 で、どうもこれは妹の勘違いなんだと思うけど、洗濯カゴからパンツがなくなることを言い出した。 僕は洗濯機前で妹のパンツを手にして萌えたことはあったけど(←常習・笑)、盗んだことはない。 だけど妹がどんどんしゃべり出して、俺じゃネーヨ! と言う機会を失ってしまった。 でも、結果、これが良かった(悪かった?)のだ。 で、妹の「どうしてそんなことするの?」という問いかけに答えたのが、さっきの 「かわいさ余って一心同体」っていう言葉。すると妹はとたんにすごく喜びだして、 「そこまで可愛がってもらって、私しあわせ! うれしい!」と言って抱きついてきたんだ。 そして「もう私お兄ちゃんになら何されたっていい、パンツも持っていっていい」とか言って、 なんか話が 妙な風にいってしまったんだけど、以後、妹が僕のことを恋人のように思い始めたのは事実だった。
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/18(水) 14:32:34.94 ID:nv5UgOwn
そうなると、妹の方が大胆なるのは、だいたいこのスレの話でも同じこと。 妹の方がすごく積極的で、妹の処女を破ったのも、妹に迫られて、だった。 で、その後、何年も肉体関係は続いた。やっぱり兄妹だけあって、妹の求めることはすぐにわかってしまうから、 ベッドの中では常に妹をイカせることができたし。 でも、妹は将来が不安だったんだろうと思う。ある時、スキンが切れてたのに妹が妙に迫ってきて、 危険日だってうすうすわかってたのに、ついやってしまったんだ。 そしたら、こっちが抜こうとしたら妹は足で僕の腰をがんじがらめにして抜かせないの。 「バカ、はなせ」と言ってあわてて手で妹の足を外したけど、間に合わなくて中でドバッとやっちまった(汗) あわてて妹を抱いて風呂場にいったら、 妹のヤツが泣き出して「お兄ちゃん、そんなに私に子供を生ませるのがイヤなの?」と言うんだよ。 バカ、子供できたらまずいだろ、と思うのに、妹はどうしても納得しない。 抵抗でもしてくれたらひっぱたいてでも洗い流すのだけど、妹はただ泣くばかり。 こっちも気をそがれて、とうとうそのままにしてしまった。 結局妹はそれで妊娠、無事に出産した。二年後にも知らないうちに妹は妊娠して、二人目を生んだ。 もう上の子は小学生だけど、二人とも特に知能や身体に影響はなさそう。 妹の子のパパが僕だってことは、むろん誰もしらない。オカンだって知らない。 私生児だから親戚から白い目でみられると思いきや、一番喜んでるのは祖父母だな。 「この年でひ孫が見られた」って言って、すごく喜んでたよ。 ちなみに、肉体関係は今はほとんどなくなってる。 このあたり、本当の夫婦とあんまり変わらないのかな?(笑) でもたまにセックスすると、以前にまして濡れるし、イクときもすごいし。 シーツの濡れ方なんか、以前には考えられなかったくらい。 考えたら34才って、まだまだ女盛りなのだろうな。 これが僕と妹の、近親相姦と出産にまつわる話です。
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/18(水) 14:33:10.53 ID:nv5UgOwn
まりタソのお姿はピッチリブルマ
俺が小学校のときはブルマはブルマでも提灯ブルマだった(S41生)。
ありゃ、萌えようがねえぞ。短パンのほうがまだましだ。
はっきり言えば、
>>64 の言うように、邪魔な存在でしかなかった。
さて、忘れもしない、小学5年のとき、
俺のクラスにまりタソという美少女が転校してきた。
俺としては、「ああ、可愛いな」と思ったものだが、
そんな投げやりな感情が激変したのは、体育の時間である。
運動場に出てきたまりタソのお姿は、体操服に、ピッチリブルマ……。
初めて見たときは、おパンツじゃねえのかよ! と思った。
提灯ブルマしか知らなかった俺は、ピッチリブルマにノックアウト。
天地がひっくり返って股間に電気が走ったような気がした。
とは言え、その頃は自慰などというオナニーなマスターベーションを
知らなかったので、夜ごとセンズリに身を焼くことなど無かったのだが。
しかし、悲劇はやってくる。
数週間後、まりタソはみんなと同じ提灯ブルマを身につけていた。
子供心に、
「おまえら、それは違うだろ! なんでまりタソが提灯ブルマやねん!?
みんなが同じ格好せんならんやったら、みんなピッチリブルマ履けや」
と思ったのもまた事実。無駄な心理的抵抗であった。
ここで終わってもいいのだが、実はさらなる続きがあったりする。
ご迷惑だろうが、皆さんには付き合っていただく。
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/18(水) 14:38:50.65 ID:nv5UgOwn
私事で恐縮だが、俺が自慰を覚えたのは小学校6年のときのこと。 おかずはもちろん、まりタソのブルマ。 電動マッサージ器を股間に当ててつつ、まりタソがそうされてるかの如く妄想。 脳内のまりタソはたまらず失禁……。まだ愛液なるマン汁の存在を知らなかった たわいない小学6年の慎ましい妄想力のなせる業(わざ)と、お笑いいただきたい。 時が過ぎ、中学へ進学。体育の時間は驚くべきことに、女子は全員ピッチリブルマである。 ああ、なんと……。夢のような光景である。まさしくそれはブルマの園と形容できる。 もうまりタソどころの騒ぎではない。クラスの女子20人、全員がピッチリブルマなのだ。 日替わり定食が20人前である。一日三食で約一週間持つ。 それどころか、脳内で最大20Pまで思うがまま。 おかずが増えたことを、俺はブルマの神様に感謝したのは言うまでもない。 俺のイマジンは暴走する。中学時代の思い出を人から問われれば、 俺は「ブルマ」と即答するであろう。 しかし、春、夏ときて、秋が過ぎれば冬が来るのが自然の道理。 高校は、何を考えたのか男子校に逝くことになったのである。 冬の時代に俺を精神的に常に支えていてくれたのは、ブルマの思い出だ。 今だから言える秘密である。ありがとう、ブルマ。 その後、大学に進学したが、教職でも取らない限りブルマとの出会いはない。 ブルセラ・ショップが一世を風靡するのは、まだ10年も先の話である。 すまんが、テンションが異様に高いのでまだ続く。 本当に申し訳ない。大人の愛でこんな俺を許していただきたい。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/18(水) 14:39:12.10 ID:nv5UgOwn
大学を卒業して就職すると、なおのことブルマと触れ合う機会はゼロである。 本当に「触れ合」ってしまうと、それこそ後ろに手が回る。 俺はブルマ馬鹿ではあったが、それを知らないほどバカではなかった。 ブルマが手の届かないところに行ってしまうと、それに対する欲求は深まるばかり。 賭場が遠くなると深みにはまるという先人の言葉は本当である。 俺は焦がれる心を押さえつけることができなくなり、入社した証券会社を三年で辞めた。 そして、ある学校法人の事務職にありついた。目的はもちろん、ブルマである。 給料は激減。家族や知人からも当然の如く反対された。 世はバブル末期、まだまだイケイケの時代。「おまえは馬鹿か?」と再三言われた。 しかし、俺が馬鹿は馬鹿でもブルマ馬鹿であることを、彼らは知らない。 その学校法人に入るにあたって、面接時に「なぜ?」とも問われた。 「この学校の推進する教育理念は、今の拝金主義的なものと一線を画し……」 そう答えた俺の言葉に嘘はない。ブルマの採用は素晴らしい貴校の理念である。 同好の士にはご理解いただけると信じているが、世の中には金に代えられないモノがあるのだ。 その後、以前勤めていた証券会社は崩壊するのだが、これはまた別の話。 人から「おまえには先見の明があったな」などと感心されるが、それは違う。 ブルマの神様のおかげで、俺は路頭に迷わずに済んだのである。 かくして、俺は心身共に満足する生活を今でも送っている。 俺の人生はなにもかも、まりタソのピッチリブルマから始まっている。 最初の強烈な印象が、己の人生を決めるというお話ではあった。 こんな自分に、暗く深い人間の業(ごう)を感ぜざるにいられない。 だが、それでいい。人生なんて、こんなモノだと思いつつ、 今夜も俺は、まりタソをおかずに想像力の訓練に励むだろう。 ご拝読を賜りました諸兄に、深く感謝を申し上げる次第です。
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/18(水) 14:39:31.54 ID:nv5UgOwn
[抱きオナニー] 俺も小4の妹が一人いるんですが、『抱きオナニー!?』みたいな感じの、してきます。 て言ってもラブラブな関係じゃなくて、あくまで兄と妹って感じで妹に恋愛感情が あるのかどうかはわかりませんが。 俺は今年の春から大学生で一人暮らし始めたんですが、実家がそんなに遠くなくて、 ちょくちょく妹が遊びに来るようになったんです。下宿に上がりこんできても特に相手しないんですが、 妹は『退屈だ〜』とかなんとか言って、やたらとプロレスごっこみたいなのをせがんでくるんですよ。 ベッドの上で取っ組み合いみたいな感じで相手してやるんですけど、 こっちはもちろん本気出さないで負けてやりますから大抵最後はあいつ(妹)が上になってます。 ここからなんですが、締め技のつもりなのか、妹は毎回、俺に抱きついてきて俺の太もも左右どちらかを股で挟んで締めつけてくるんですよ。 で、その形に入ってからは途端に無言になって、ひたすら俺の太ももを『ギュ〜・・・』て挟み込んでじっとしてるんです。
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/18(水) 14:40:07.51 ID:nv5UgOwn
初めは偶然かなと思ってたんですが、妹はほっとくと最後は全部そういう風にもっていこうとするので、 『こいつわざとにしてんのか!?』て俺も途中から気づきました。 気づくまでにそんなに時間はかかりませんでしたが、本当に初めはぜんぜん気づきませんでした(兄妹ってそんなもんなんかもしれないけど)。 でも、いったん気づいてからは、いくら兄とは言え『男の本能』が首をもたげてきまして(^^;)。 いつもは、『まいった、まいった』て言って、あいつ(妹)の股に挟まれてる間はじっとしてるんですけど、 この前は試しに少し抵抗してみたんですよ。その時、俺はあいつに右の太ももを股で挟まれてたんですが、 抵抗するふりしてあいつの股間を刺激するように右の太ももを微妙に動かしてみました。 そしたらその瞬間、あいつの喉から『んぅッ・・・!!』て声が一瞬漏れて、 あらためて俺の右太ももを強く締め付けてきたんですよ。 注意しててわかったんですが、あいつはできるだけ深く俺の太ももを挟んで股間の部分をしっかり密着させようとしてました。 で、俺は股間への刺激を続けながらあいつの顔を観察してみたんですがあいつは目を『ギュッ』て強くつぶって、 眉に皺を寄せてました。驚いたのは顔が真っ赤(特に耳)だったこと。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/18(水) 14:40:29.36 ID:nv5UgOwn
さんざん股間を刺激してやって適当なとこで切り上げたんですが、あいつはグッタリしておまけにハァハァしてました・・・(^^;)。 しばらく経ってから『少しは抵抗した方が面白いか?』て聞いてやったら、『今度から全部そうして』とのこと(w。 最近じゃ、プロレスの前段階がまどろっこしいのか『お兄ちゃんを倒す練習』とかなんとか言っていきなり例の寝技の体勢から入ることを要求してくる始末です。 その際、あいつは自分で気づいてないと思うのですが、始まる前は目が潤んで顔が真っ赤。 完全に欲情モードに入ってます。いざ始まってからも、少し意地悪して抵抗しない(動かない)でいてやると『ちゃんと本気でやって!』て怒ってきますし(w。 特に俺にばれないようにしているつもりなのか、俺が動いてる時はあいつも自分から腰を動かして微妙に股間擦り付けてきてます。 で、そこでさらに意地悪して強く動いてやったりすると我慢してるのか噛み殺したように『くぅッ・・・』とか『アハァッッ!!』なんて声を漏らすんでたまりません。 昨日はあいかわらず俺に抱きつきながら股で太ももを挟み込んで股間擦り付けてるあいつの腰を、上半身を少し起こして両手で上から掴み、 俺の太ももに擦り付けるような感じで前後に動かしてやりました。 そうすると急にあいつの口から大きな声が漏れたんで、俺は驚いて腰から手を離しました。 でも、もっと驚いたのはあいつが俺に『やめんといて!それもっともっとやって!』て叫んだことことでした。 それを言った瞬間さすがにあいつもヤバイと思ったのか『・・・そういう抵抗、なんか面白いから・・・』とあわてて言い直してたのが可愛かったですね。
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/18(水) 14:40:49.12 ID:nv5UgOwn
で、それを再開してやるとよほど気持ちいいのか、あいつは俺に痛いほどしがみついてきました。 俺の胸元のシャツに押し付けられたあいつの口からは『はぁぁぁッ』て感じの喘ぎ声が断続的に漏れてて、 その吐息があたるシャツの部分が湿り気を帯びてじんわり温かかったです。 そのままさらに刺激を加え続けて2分を過ぎたくらいから、あいつの漏らす声としがみつきがいっそう強くなってきました。 もうその時はあいつの下着とあいつに挟まれている俺の太ももはベチョベチョの状態で正直『ヤバイかな・・・』とは思ったのですが、 俺も興奮していて刺激をやめることができませんでした。 あいつはもう夢中なのか自分でもゴシゴシ股間擦り付けてくるし俺ももうやけくそで、『どんな感じだ!?』と聞くと、 なんとあいつは喘ぎ声を必死に押し殺しながら『ぉお兄ちゃん、私、オシッコのッ、オシッコの穴が溶けそうッッ!!!』と叫びました。 そして次の瞬間、『ぉぅぅッあはぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』とあいつが今までで一番はしたない喘ぎ声をあげ、 俺に必死に抱きつきながら体を強く痙攣させました。 そしてまもなく俺の太ももにじんわりと温かい感覚が広がっていきました。 あいつは気持ち良過ぎたのか、オシッコを漏らしながら絶頂に達したようでした。
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/18(水) 14:42:07.62 ID:nv5UgOwn
[度を過ぎたマン臭は悪だ] 史上最強の良スレハケーン。私の悲しい経験を書かせて下さい。 私は19歳の時に素人童貞を捨てました。それまでの間、お恥かしい事に数回風俗に行った経緯が御座います。 人数にして10数人でしょうか?運良く一人もマン臭の持ち主に出会うことは有りませんでした。 女性のあそこの匂い=石鹸の匂い これが19歳までの私の女性器に対するイメージであり、クンニも数人の女性(嬢)に鍛えられ、 何れは高速ベロ膣内ピストン攻撃や超快速クリ縦横舐め攻撃を習得し、クンニの喜びに目覚めました。 通う事半年、私は師匠(オキニ嬢)より『クンニマスター(キラー)』の称号を受けるまでになったのです。 (オキニ嬢が卒業(店を辞める)する日にその称号を戴きました) そのときの私にとってのお万戸とは、クンニとは ・いいにおいの液体が出てくる ・この世で一番隠微な場所 ・最も自分を興奮させる事が出来て ・女性も大喜び 私は史上最高の宝物ワンピー○をハケーンしたル○ィのような気持ちでした。 家で自主トレ(下敷きに万戸の絵を描いてペロペロ)していた位大好きだったのです。 しかし、私には一つ心配な事がありました。 素手ゴロ(素人相手のセックス)でも俺のクンニは通用するのか? こればかりはやってみないと解りません。 初めてのチャンスは19歳の夏、早速やってきました。
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/18(水) 14:42:40.59 ID:nv5UgOwn
相手は一つ年上の20歳、一寸奥手で大人しいタイプの背の高いとても上品な女性でした。 普通の男女の出会い、普通の恋愛をし、自然な流れでその時はやってきました。 人生初の素手ゴロです。しかし私には自信がありました。あれから一日たりとも自主トレを欠かしていなかったからです。 元オキニ嬢の『このスピードなら絶対大丈夫だよ』と言う言葉を信じ…その自信を胸に私は彼女に自分が素人童貞で有ることを言っていませんでした。 (コイツの全ての体液を吸い尽くしてやる)試験・試合等の本番に強い私は根拠は無いものの確信を持っていました。 (元)嬢のアドバイスを思い出しながらネットリしたキス、愛撫を重ね焦らず、時間をユックリかける作戦にしました。 若しかしたら初めての素手ゴロで少々怖気づいていたのかも知れません。 又、初めて嗅ぐ石鹸以外の女性の体臭に物凄い興奮しました(体臭は良かった)。 お互いに興奮しすぎてシャワーも浴びていませんでした←試験に出るほど重要です。 彼女の体温が上がっていくのが解ります。表面にはうっすら汗が滲み、 所々鈍い高音のそれでいて美しい嗚咽を漏らします。 私は超快速クリ縦横舐め攻撃を乳首に応用してみる事にしました。 クンニの前の差し詰めオープン戦です。 舌を高速回転させた瞬間、彼女の声は最高潮に達しました。 『俺のテクはこっち(素人)の世界でも通用するんだ!』私の確信は確固な物となりました。 こうなったら攻めに転じない手は有りません。 私は少々焦り気味になりながらも遂に、左手を彼女の下着の中へ滑り込ませました。
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/18(水) 14:47:52.99 ID:nv5UgOwn
※書いているうちに怒りが込み上げてツイツイ余計な事を書いてしまいました。少し長くなりそうです。 普段は大人しい彼女の別人のような喘ぎ具合に完全に気を良くした私はもう行け行けモードです。 下着の中に入った私の左指に触れたのは、殆どストレートの薄いヘアでした。 薄毛好きで一寸ロリ入っている私はこれで大興奮です。 陰部の周りに触れて一寸焦らしを入れ様と思ったのですがもう我慢なりません。 私は間髪要れずに左手を更に奥に滑らせました。 だ・大洪水 超ビックウェーブ、私の手のひらは瞬く間にビシャビシャです。 余り得意ではなかったのですが優しく中指を挿入。 彼女の声は更に大きくなります。指ピストンをしても奥から奥から水が湧き出てきます。 彼女の小さな体の何処からこれほどの水分を含んでいるんだと不思議な気持ちになった位です。 その水は私の手のひら→手首→防水加工の腕時計にまで及んでいます。 10分程手マンを続けたでしょうか?彼女は喘ぎっ放しです。 私は指をユックリ抜き去り、キスをしながら彼女の下着をスルリ脱がします。 私はクンニの前に必ずやる儀式がありました(今はもうやりません)。 手マンして指に付いた液体をペロッと軽く舐める、一寸したクセです。 ケンシロウが戦う前に親指で軽く鼻の下を擦るのと似たようなものでしょう。 私は何も考えずに左手中指を舐めようと手を顔に近づけた瞬間…
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/18(水) 14:48:14.26 ID:nv5UgOwn
目の前が…真っ白になりました。頭を後からぶん殴られた時のような… 鰯の内臓を生で掴んで顔の目の前にさらした匂い。 昔市場でバイトした時に謝ってアジを詰めた木箱をひっくり返しアジとそれを 漬け込んだ薄赤色の液体を頭から被り呑んでしまって気分を悪くしてバイトをやめた経験があります。その地獄を0.00001秒で思い出しました。 しかしその時はマン臭だと未だ信じていませんでした。何か他の匂いじゃないのか? 今迄、石鹸の様な匂いだと思っていた私にとってその匂いは信じられないものだったのです。 きっとこのホテルが不衛生で布団とかの匂いが手についているに決まっている。 私は不衛生な布団を剥がし、顔を彼女の陰部に近付けて確認する事にしました。 薄毛のピンク色、とても綺麗でした。でも何か未だものすごい臭い。 布団を剥がすと部屋中の空気が濁っていくのが解ります。私は味を確かめないと解らないと思い、 息を止めて一気に一番の得意技高速ベロ膣内ピストン攻撃を仕掛けました。 ベロが物凄いビリビリします。何回か舌ピストンを繰り返すと奥のほうから白っぽいドロッとしたものが沸いてきます。 私は息が苦しくなって思いっきり鼻で息をしました。 ……まさにドブ川の匂いです、蛙とかザリガニ屍骸が混じっている。
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/18(水) 14:48:47.60 ID:nv5UgOwn
間違いない、ここから(万戸)から臭っているんだ…私は突然気分が悪くなり、その日素人童貞を捨てる事が出来なくなりました。 彼女は私の事を心配してくれ、後日又しようと言う事でその日は別れました。 私は当時ガードマンのバイトをしており、翌日出勤でした。手袋を嵌めても未だ匂いは消えてくれません。 時間を見ようと思って腕時計を覗き込むと時計に移った匂いが私にあの地獄を思い出させてくれます。 親が大学の入学記念に買ってくれた大切な時計だったのですが何度か洗っても臭いので新しい時計に変えました。 友人にも相談できない私は色々考え、悩み、結果一緒に風呂に入って石鹸で洗ってみたり色々試みましたが結果は同じ、 ラブホの部屋が一瞬で築地市場に早代り。その時は耐えて40分間クンニをしました。そして家に帰って胃の中に有るものを全て吐き出しました。 後日、我慢の出来なくなった私は彼女と一緒に婦人科へ医者にも説明し嫌がる彼女を無理やり診察させました。 結果:異常なし 医者曰く『もう少し清潔にした方が良いけどこう言うのは個人差が有りますからね』 婦人科では濡れていないからあの臭気は発生していなかったのでしょう。 病院を出てからは彼女の猛抗議が始まりました。先ず聞かれたのは誰と比較して匂うのかと言うこと。 言い逃れの出来ない私は彼女に自分が素人童貞で有る事 風俗嬢のあそこの匂いしか知らない事 しかし貴方のマン臭は絶対に可笑しいと言いましたが彼女は頑として受け付けてくれません。
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/18(水) 14:49:21.16 ID:nv5UgOwn
彼女は私の揚げ足を取って罵るばかりで他の女性の匂いも嗅いだ事がないくせに自分のマン臭は普通だとまで抜かしやがりました。 勿論私たちはその日で破局加えて彼女が私の風俗話に尾ひれをつけて皆に流しまくり 私は風俗大王(マスター)と言う有り難くない肩書きを仰せつかりました。 セックスする事も怖くなり結局素人童貞を卒業したのはその2年後です。 その女性の匂いが普通だった時、私は始めてあの彼女の匂いが特別である事を知りました。 以後、30人前後の素人女性と関係をもちましたが彼女以上の匂いは体験してません。 彼女の匂いの所為で棒に振った2年間の青春時代。マ ン臭女はその後も何人か彼氏をトッカエヒッカエしていましたが一度も長続きすることなく、29歳になった今も独身です。 これが9年前に体験したマン臭コンタクトの経験です。 度を過ぎたマン臭は悪だという事をこのスレを機に女性の皆様に少しでも浸透する事を心よりお祈り申し上げます。 長いお話にお付き合い戴きまして有難う御座いました。
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/19(木) 08:55:27.88 ID:HMfjSDw6
稀に見る良スレw
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/19(木) 12:03:53.99 ID:ZyME5gEc
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70 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/20(金) 02:03:50.70 ID:Qn5y0hES
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/20(金) 04:52:45.18 ID:84H0Eo1k
[ある妹] クリスマス・イブの朝、俺を起こす声に目を開けると、ベッド脇に妹が全裸で立っていた。 なんで、はだか?と、思いながら妹を、というか枕のすぐそばのワレメをつい凝視した。 ぴったり閉じられた谷間から目が離せないでいたが、「あ、起きた?」の声にあまり大きくない胸越しに妹の顔を見た。 「うん」と返事をしてベッドから起きると、何で裸なのか聞いてみた。 「?何で、て事もないけど…?」「…?」 妹は近くの椅子にすわってこっちをみてる。俺もベッドにすわったまま裸の妹を見続けた。 色白で華奢なからだがとってもきれいだった。 「何で着替えないの?」と言われて、「おまえが見てるから」て言うと、 妹は部屋を出て行こうとしたので俺は後ろから引き留めた、というか、胸をつかんで揉んでしまっていた。 「えー、ちょっと何すんの!」と振りほどこうとする妹の反応を当然と思いつつ、じゃあ何で裸なのよ、と考えていると、、、、、制服姿の妹に起こされた…。 イブの朝だってのに、 激しく鬱だった。
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/20(金) 04:53:06.25 ID:84H0Eo1k
元旦の朝は家族で挨拶して、おせち。ちょっと日本酒とかも飲むわけだが、未成年の妹もショットグラスで二杯飲んでいた。 妹は結構弱くて、みっともないくらい真っ赤になっていた。 朝食が終わって、こたつで年賀状を見たりしてるうちに、俺も妹もウトウトしてしまっていたが、「おまいら、こたつで寝るな」と母。 俺は何とか起きたが、妹は完全にダウンしていて、俺は妹をベッドまで運んだ。 42s程度でも、ぐたっとしていたので重かった。妹を寝かしたが、俺も眠たくなっていて妹の寝てるベッドについ横になった。 軽い掛け布団が心地よく、赤みが薄くなってピンク色になった妹を見ながら、俺もそのまま眠ってしまっていた。 体に重みを感じて目を開けると、「あ、起きた?」と横から妹の声がした。 「ごめん、寝ちゃった」と、焦って起きようとしたが、妹が抱きついていて起きれなかった。 服を着ている事に気づいてホッとしながら、何してんの、と聞いてみると 「目が覚めたら、となりにお兄ちゃんが寝ててさ、見てたら…くっつきたくなっちゃた。……ベッド、せまいしさぁ」 「何よ、それ…」 いつもの妹と違うと思ったが、変に甘えてくる妹は可愛かった。
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/20(金) 04:53:30.51 ID:84H0Eo1k
抱きついている妹の感触は服の上からでも伝わってきて「あったかいね」と妹が顔を近づけると息が俺の口に触れた。 俺はドキドキして息が荒くなりそうだったが、無理してゆっくり呼吸してた。 妹もそんな感じなのか、ときどき、ふぅ、と息を漏らした。喉が渇いて何度も妹の息を吸い込んだ。 その内に妹はもっと寄ってきて、しゃべると唇がわずかにあたる様になっていた。俺は頭が変になってしまって、そのまま 妹とキスしていた。喉が渇いて妹の唇を吸い続けた。妹も吸おうとするのでお互い離れられなかった。 何度も何度もキスが続いて息が苦しくなって、ようやく唇を離した。 俺はとっくに勃起していて、妹が欲しくてたまらなかったが、服を脱がすどころか、服の上から何かするのも躊躇われた。 結局、キスの後は何も出来ず、妹に「もう、よそう…」と言った。 妹はまだ唇をわずかに動かして求めていたが、「こんなふうに、キスしちゃダメ…」と言うと、 いくぶん正気を取り戻したのか「はぅ、ぅん…」と渇いた様な声で返事をした。 喉が渇いてて、キッチンで何か飲もう、と言ったが、妹は飲み物を取りに行った。 一人になると、俺は今のキスの事や、付き合ってる彼女にこんなにキスしたいと思ったことなんて無かった、なんて考えていた。 妹がコーラとグラスを持って戻ってくると、「お父さんとお母さん、居るんだった…」と言われた。
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/20(金) 04:53:50.29 ID:84H0Eo1k
「!!」 俺も両親が在宅だったのをすっかり忘れていた。 色ボケって怖いと思ったが、それでも二人でベッドに腰掛けて寄り添ってコーラを飲んだ。 ゆっくり飲むんだYO!とか言いながらも500mlはすぐに無くなった。 その後もなんかベタベタしながら1日が終わった。 翌日になると昨日のおかしな気分はすっかり無くなっていて(かえって、よそよそしいくらいで)俺は彼女と初詣に行き、 妹も友達と出かけていった。 その後もこれといった事柄もなく、ありふれた日常が続いている。 ただ、元日から妹とあんな事を、と思い返すと鬱、ではある。 去年の秋、妹が大学祭を見に来た。 俺が参加した催し物にも顔を出して、ちょっと喋ったが友達とすぐ行ってしまった。 そのとき一緒にいた仲間に「妹さん、アンタの彼女に似てるね」と言われた。 俺はそんな事ない、と言おうとしたが、それより早く「あ、私もそう思った」と別の奴に同意されて二人に、 いや、数人からしばらくからかわれた。 …以前、空き時間に「好みのタイプの異性」なんて話をしてて、 「自分のお兄ちゃんみたいな人がイイ!」なんて公言してるやつが居て、 (はぁ?キモイ女)とか思った事があったが…俺、同類だったのか○| ̄|_ まあ、彼女は彼女で妹とは関係ないし、とか思っていたが… さっき書いたとおり妹と実際怪しげなことになってる。 自分でもマズイなと思う。 何かありそうになったら、彼女がいる事を妹に告白するしかないな…。
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/20(金) 05:53:35.20 ID:84H0Eo1k
>70 真帆タンだよ。
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/21(土) 00:43:48.33 ID:KPrJfHCb
??? ??????? ???. ??? ?????? ?? ???? ??? ??????? ?????? ????? ??? ?????? ????? ?? ??? ????
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/21(土) 00:44:02.43 ID:KPrJfHCb
??? ??????? ???. ??? ?????? ?? ???? ??? ??????? ?????? ????? ??? ?????? ????? ?? ??? ????
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/21(土) 15:45:00.08 ID:49PHLYyA
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/21(土) 19:15:58.41 ID:WnnUhdV+
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/21(土) 19:17:38.31 ID:WnnUhdV+
82 :
飛び入り ◆jTB9pDYWXw :2006/10/21(土) 20:59:02.26 ID:KPrJfHCb
女体の素晴らしさをあなたに・・・
83 :
飛び入り ◆jTB9pDYWXw :
2006/10/21(土) 20:59:54.91 ID:KPrJfHCb