【キャスター】静香様に冷たく罵られたい73【デビュー】

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ああでもなく こうでもなく橋本治 No.104

「政治のことなんか触れたくないなァ」と思っていて、でも結局
「触れざるをえないんだなァ」になるにきまっている。 そういう
ことになると書きたいことが書けなくなるから、最初にそっちを
やっちゃおう。 「旧聞に属することですが」ではあるけれど、
トリノオリンピックの女子フィギュアスケートの話である。

367叙情性
私は、金メダルを取った荒川静香よりも、村主章枝の方に関心が
あった。 全日本フィギュアで優勝してトリノオリンピックの出場
権を獲得して、「どうなるのかな?」という点で。
 村主章枝というと、必ず「表現力に定評のある」と言う評語が
くっついて来る。 いつの間にかそうなっていたから、その前から
村主章枝を見て「一体この人はなんなんだ?」と思っていた私として
は、「あ、そういうことになってるんだ」と嘉(よみ)したいよう
なものである。
村主章枝の動きは日本舞踊みたいだった。 「どうしても日本舞踊
だよな。 どうなってんだろう?」と思っていて、去年の全日本フィ
ギュアで優勝する前の、「故障続き」と言われていた時期のビデオ
を見て、「あ、そうなのか」と思った。 その村主章枝は、肩から
動いていたから。
フィギュアスケートの起点になるのが「腰」であることは決まって
いる。 「腰」を起点にして「脚」が動く、背骨がある−−−−−
だから、腕の動きもある。 荒川静香のスケーティングはまさに
そうしたもので、トリノオリンピックに出場が決まる以前、ステン
レスのように正確な動きを見せる荒川静香の動きを見ていて、「日本
のフィギュアスケートもここまで来たんだな」と思った。
ただ「正確」だけでおもしろいかどうかは別だけれど。
702515:2006/06/11(日) 05:08:21
 ところが村主章枝の動きの起点は「腰」じゃない。「肩」だ。
もちろん「肩」だけでスケートが滑れるわけでもないから、下半身を
統括する「腰」も重要になる。 足腰に故障がなければ「肩で動く」
なんていうことも目立たなかったろうが、身体の動きが十分でなかった
から「肩で全身を引っ張る」という動きも見えてしまったのだろう。
肩から動きの出る村主章枝の身体行動は、日本的な「ナンバ」という
やつなんだろうと思う。
 主役であり、身体の命令中枢は肩にある。 スケートを履く下半身
は、これに従属する。 「よく滑れる」は当然の前提としてあって、
その部分を「肩」という表現力中枢が従える。
下半身から出た動きが全身に及んで、そこに表現力が生まれるという
普通のあり方とは違って、村主章枝の動きは、まず「肩」という表現力
中枢に主導される。 村主章枝が「表現力に定評がある」のは、当たり
前である。 村主章枝の上半身の動きは、下半身の動きに制約される
ことなく、自由に動ける−−−−−つまり、表現力を獲得できる。
ただしかし、この表現には限界がある。 表現力が主体で、その下に
足腰があるということは、表現力を生み出す基盤がある「一定レベル」
を獲得してしまうと、それ以上の飛躍的な表現力の増大を生まないのだ。
あるところで完成してしまうと、その先、表現力は内へ内へと内向して
いく−−−−−そのことによって、表現力の深みは増す。
日本の伝統芸能の表現の質は、実はこういうものである。 だから、
ちょっと見には分かりにくい−−−−−親しみが湧きにくい。 表現者
が観客を置き去りにして、一人でどんどん深いところへ行ってしまう
危険性があるからだ。 村主章枝が「観客と一つになる」ということを
求めるのは、観客に支えられる−−−−−付いて来てもらうことによって、
初めて「表現力の深み」が意味を持つからだと思う。 それはパッシヴな
スケートで、マゾヒスティックな美でもある。 別に悪いと言っているの
ではない。 日本の伝統芸能が獲得してしまった「内向の美」が、フィ
ギュアスケートという純粋西洋スポーツの中で開花してしまっているその
ことに、私は驚いているのである。
703515:2006/06/11(日) 05:10:34
 この種の美は、表現者が追い詰められている時ほど、その真価を発揮する。
去年の冬の全日本フィギュアで、「この機会を逃したら私の出番はなく
なる」的な追い詰められ方をしていた村主章枝が、アンナ・パヴロワの
「瀕死の白鳥」か坂東玉三郎の「鷺娘」かとでも言いたいような素晴しい
スピンで優勝をもぎ取ってしまったのは、「追い詰められた」という要素
が、彼女の表現力に「爆発する」と言っていいほどの躍動のチャンスを与
えたからだろう。
 トリノオリンピックの出場権獲得に向けて、村主章枝は絶頂まで登り
つめた。 それは「奈落の底まで落ちきる」ということと同義ではある
けれど。 一方、荒川静香は淡々と欲を出していた。 彼女はもう「やる
べきことは全部出来る」というレベルまで行っている。 しかし、それが
まだ「はじけて開花する」というところにまで行っていない。 彼女が
自分の動きを自分でコントロールしてしまっているから、見る方もその
コントロール上で、「ちゃんとやっているな」と思うしかない。 彼女が
「堅実」あるいは「注意力の鬼」とでも言うべき「自分への監視」を放棄
しなければ、「おお・・・」と言いたいような見る側の放心は生まれない。
感動と言うのは、自分の手にした理性を手放してしまうことでもある。
荒川静香はトリノでの本番に向けて、「自分は手放しで自由になりうる
のか」ということを、ずっと試し、その機会を待ち続けていたんだろうと
思う。 だから、フリーの前のショートプログラムの荒川静香を見て、
「彼女は優勝するな」と思った。 「ステンレスのような正確さ」は消え
て、彼女が殻の中に閉じ込めていた彼女自身の叙情性が、素直に美しく
開花していた。 だから私は、彼女が優勝を決めたフリーの演技より、
「今までの荒川静香」とは違う荒川静香が、自然に無垢に顔を出した
ショートプログラムの時の方が感動した。
704515:2006/06/11(日) 05:11:57
 開花した叙情性は、その後「表現」となって、一定のレベルを保って
行かなければならない。 「保っていく」というのは、「きわどいところ
で存在する感動を失う」ということとも裏腹で、結構むずかしい。
そこには「鮮度を失っていく」という危機もある。 「叙情性の開花」と
いうものは、春の初めのフキノトウの美しい苦味みたいなもので、格別
なのである。(これは完全に、スケベオヤジの書く文章だな)
 これに対して、トリノの村主章枝は気の毒だった。 既に確定して
存在している彼女の表現力=演技が、トリノのスケートリンクでは、
「小さくまとまっている」ように見えた。 優勝候補の外人選手二人が
転倒をして、しかしミスをしない村主章枝の演技がその下にしかランク
されないというのは、やっぱり彼女の演技が小さく見えたからだろう。
陽気で華やかなリンクで、「自分を殺す」系の内向的な演技は損だ。
やはり、全身の動きが積み上げる表現力の大きさは、「自分を殺して
得る表現力」の小ささに勝ってしまう。 引き算の手法で勝利を得るため
には、引き算をしてもなお十分に残るだけの「大きさ」を獲得しておか
なければならない。
 「引き算」という日本的−−−−−特に日本の伝統的女性表現の手法
が間違っているとは思わない。 しかし、手法なら効果的に使わないと
意味は無い。 そして、村主章枝の場合は「手法」ではなく「体質」で
あり「身体性に合致した方向」だと思うので、「肩」が統率する表現力
の拡大のためには、それを支える腰から下の構築のし直しが必要になる。
大変だと思うが、「大変」は誰もが背負っていることだから仕方がない。
705515:2006/06/11(日) 05:13:31
 トリノオリンピックは、「村主なのか荒川なのか」であったはずなの
だが、日本のマスコミは、まずその前に安藤美姫を持って来る。
今シーズンの安藤美姫は「気の毒」としか言いようが無い。 「美姫
ちゃんに必要なのは、大人の女の表現力、叙情性だ」ということで、無理
なことばかりやらされていた。 十八歳の彼女に必要なのは、「元気一杯、
持てる力を出し切りなさい。 叙情性はその後」であってしかるべきなの
に、「持てる力」を殺す方向にばかり進まされていた。 彼女が転んで
ばかりいたのは、やはりコーチの誘導する方向ミスだろう。 
 日本のフィギュアスケートは、伊藤みどりの後に大きく変わった。
女子だけではない。 高橋大輔が出てきた時は驚いた。 それまでの選手
とは違って、スケートの動きを「自分の動き」にしている。 だから、
その後で織田信成が出て来ても驚かない。 浅田真央が出て来たのと同じ、
「当然の時代の勢い」みたいなものである。 しかし、浅田真央の前にいる
のは、安藤美姫じゃない。 安藤美姫には、まだ伊藤みどりの時代にあった
「どうなるか分からない原始の力」みたいなものがある。 これをまず
「我が物」にしないと、その先はない。 そのプロセスを省略して、いき
なり「大人の女の叙情性」は、無理以前の無茶だ。 「どうしてそういう
ことを誰も言わないのかな」と思って、私は今頃、こんな時期はずれのこと
を書いているのである。

=オワリ=

前回の鞠暮のときは、誤字が多かったので見直したつもりですが、タイプ
ミスがありましたら、お許しを・・・
文字で上げてもスキャンしても同じかとは思いましたが、再利用に便利かと
思って敢えてテキストにしました。