【複合選抜】愛知県の高校受験part14【尾張・三河】

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163実名攻撃大好きKITTY
>>162
のんびりは明倫であって明和ではないけどな。
戦後の明和、特にバブル全盛期だった大学区制時代の明和に
ふさわしい言葉はやはり「ガリ勉」だろう。

医者や地元財界人の息子は、戦後は明和よりも東海に入るようになった。
ただし、染木氏にはやや「吹かし」気味のところもあり、
一中卒の医者・財界人、CA卒の地元財界人もとても多かった。
(これは著名OB名簿を見ればすぐわかること)

戦前の明倫は一中とは相手にならず、頭ふたつくらい下がって
五中(現瑞陵高校)と二番手争いをしている学校だった。

戦後の明和は筋金入りの「ガリ勉」校となり、むしろ庶民色、成り上がり色が強くなる。

学校群制度導入されると、明倫OBが明和を見限り、
息子を東海へ入れる傾向に拍車がかかる。
著名OBでいうと、仲谷義明(教育長→県知事、ボコボコに叩かれる)、
伊藤喜一郎(東海銀行頭取、息子は落選中の伊藤忠彦)などがそうである。

この当時、明倫・明和OBや明和ファンがことあるごとに言っていたことは、
2群(千種・旭丘)や1群(市立菊里・千種)がなぜ人気があるのかまったく理解できない、
なぜ6群(中村・明和)の上、旧制中学同士の組み合わせである7群(明和・松蔭)の
はるか上に行くのかわからない、ということと、
千種・中村は創立から20年も経っていない市内辺境の新設校、
市立菊里は元女学校ではないか、ということであった。
(なぜか元県二女の名西が大学区制時代に進学校だったことについては
 何も言わないのは、二重基準・ダブルスタンダードだとは言えそうである)

明和の凋落と東海の躍進には相関関係がある。