【中学校新設】早稲田大学高等学院【Part8】

このエントリーをはてなブックマークに追加
422朝倉泉
 勉強ができることはそのまま社会で認められることにつながる。「認め
られる」ことを望むのは人間の根本的な欲望の一つである。本能と言って
もいいかもしれない。そして認められた人間に対して認められない人間が
嫉妬するのも半ば本能のようなものである。だから優者に対する劣者の嫉
妬が最も強いのは「勉強」の面においてである。勉強の出来・不出来が、
たとえばスポーツ等と違ってすぐに社会で認められるか認められないかに
つながるからだ。だからスポーツに精を出して強くなったとしてもその人
は特に妬まれはしないが、「スポーツ」が「勉強」に変わると他の生徒は
途端に「点取り虫」などと騒ぎたててその人間をけなし始める。

 勉強のできない者、すなわち劣等生は勉強ができる者、すなわちエリー
トをねたむのである。また劣等生を持つ家庭はエリートの家庭をねたむの
だ。エリートは言うまでもなく少数派である。このエリートに対して多数
派の大衆・劣等生はねたみの感情を持っている。嫉妬とは憎悪と密着した
感情である。嫉妬の対象を攻撃したいと、嫉妬する大衆は強く思う。しか
し嫉妬とは極めてみにくい感情であるがゆえに大衆は自分達の、エリート
に対するねたみを必死で認めまいとする。だがエリートは攻撃したい。そ
こで彼等大衆は、なんらかの理屈をふりかざしてエリートを批判しようと
する。こうすれば自分達の嫉妬を認めないで、エリートを攻撃することが
できるからだ。だから大衆は新聞などに「受験戦争批判」「高校間格差批
判」「学歴偏重主義批判」といった記事がのったりすると、わが意を得た
りとばかりに自分達もそう言った理屈をたてにとって少数派エリートを批
判するのである。

_ttp://www.geocities.co.jp/SiliconValley/9776/izumi/isyo/i_isyo.txt
423あぼーん:あぼーん
あぼーん