大阪!公立の滑り止め!清風・明星・桃山・関倉

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331実名攻撃大好きKITTY
大阪星光学院の卒業生ではありませんが、60年代に入学してまもなく退学しました。
北野高校を目指していたのでしたが、星光を併願で受けようとしましたところ、
当時の担任教師は、星光を知らず、のこのこ天王寺まで出かけ、「おい、大変な進学校にすると校長は言ってるぞ。お前の成績じゃ、専願でなければだめだ。」と、
私は、専願で受けたのでした。入学してみて驚いたのは、どれも、公立を落ちた者ばかりで、皆、落ちた学校の名を自慢し合っていました。
それでも、まだのんびりした学校でした。
 辞める時、君の成績は併願でも充分だったのですよ、と言われたのを今でも覚えています。
それから、ほどなくして、帝塚山にあった塾に入り、翌年また、私学や公立を受けました。
ある府立高校に入りましたが、まもなく学園紛争になり、250日ものストライキ。70年安保を過ぎて私はふたたび中退し、大検を受けました。
学院を辞し、しばらくして、このまま中学浪人をしているのも何だし、ということで、鶴橋にあった「英林社」という、
学習教材の出版社の紹介で訪ねたのが、帝塚山の塾でした。
のちに、この学舎の近くのお惣菜屋の息子さんも入塾されたとのことで、その方が、現在の、ラサール・石井さんなのです。
〈カン・カン・ドウ・リツなんぞ、大学ではない!〉なんて、柔らかい頭に、すごい摺りこみをするところで、
ゆとり教育、情緒教育なんて、どこ吹く風の勢いでした。小5で高2の授業を、なんなくこなすなんてのがいまして、ボクラ、ボンクラは、兢々とした半年を送ったものでした。
 そのころは、星光を辞めて来るといった人が何人もいて、ちょうど、清風南海ができるころで、まったく、今の事情とは、異なっていたのです。
大阪星光が今では大阪兵庫間で甲陽に準ずる学校にまでなったのに感慨もひとしおです。