【共産党は】女子学院 Part 2【いりません】

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48実名攻撃大好きKITTY:2005/12/16(金) 19:12:20 ID:b1ToFPz2
>>38-46
大変興味深い歴史の講義を、有難うございます。
問題は、JGの生徒たちが、こうした多様性のある複眼的な歴史観の教育を受けられているのかどうか
・・・ということですね。
まだまだ道は遠い、と言わざるを得ません。
49実名攻撃大好きKITTY:2005/12/18(日) 09:46:36 ID:FqTptB99
>>35のように、自分の意見と違うことがすべて「誹謗中傷」に見えてしまう目には、
複眼的歴史観なんてありえないでしょうなwww
50実名攻撃大好きKITTY:2005/12/19(月) 16:26:01 ID:N5j6ttIq0
インターエジュの掲示板に、広島と沖縄出身の人は日の丸+君が代に拒否反応を示すというカキコが出てましたけど、ほんとなの?
「ひろしまの旅」の薫陶を受けたカキコ主でしょうかね?w
沖縄の人が拒否反応なのはわかりますけど・・・ あそこは昔は琉球という別の王国だったわけだから。
51出張 軍板:2005/12/19(月) 20:47:30 ID:unH/mI350
つづきです

歴史というものは、立場・視点によって変わります。
客観的 ・ 多面的にアプローチする習慣が必要です。

さて、日清・日露戦争〜対ドイツ戦争と日本の10年毎の対外戦争は続い
てきましたが、これらは明治維新からわずか1世代の間の出来事です。

「極東の未開国」と思われていた有色人種の国家が憲法や議会を持ち、
地下鉄が走る世界最大の首都を持つ列強にのし上がってきたことは、今
の日本人が中国の発展に抱く危機感とは比較にならないほどの「脅威&
驚異」そのものでありました。

対ドイツ戦の結果日本が手に入れた中国の権益は、山東省に関わるもの
と、内南洋に関わるものがあります。歴史の本では、日本の中国に対する
要求がエスカレートするきっかけとなった方に目がいきますね。

しかし、国際的な緊張をはらんだものとしては、はるかに「内南洋=中部
太平洋」の方が重要でした。
52出張 軍板:2005/12/19(月) 20:49:34 ID:unH/mI350

米国は、せっかく武力で日本を開国し、その利権を拡大しようとしていた矢先
国内の内戦で大きく国力、発言力、機会を後退させていました。ことあるごと
に「機会均等」の要求を出すのもこうした背景があります。

そんなただでさえ、苦々しい思いでいるところに本土〜マーシャル〜フィリ
ピンの生命線を直接脅かす存在が現れたのです。

さっそく、中部太平洋の非武装化の条約が締結されますが、両国の軍事的
対決が運命付けられた瞬間でもありました。
米国は仮想敵国のトップに日本を置くことになり、日本の仮想敵国のトップ
はソ連でしたが、海軍の仮想敵は米国になりました。

民主主義国家では国民の意思が政策に反映します。戦前の日本がそうで
あったように、米国民は利権の拡大を求めていました。特に南北間の経済
格差は深刻さを増し、日本を始めとする国からの競争に晒されていました。
黒人差別撤廃によって、人件費の高騰についていけなかったのです。
第一次大戦は、米国の国内経済格差、金融力の格差をさらに増大させてし
まいました。

移民による安価な労働力に支えられていた(今でもですが)米国経済は、
内部的な矛盾の解決を対外政策によって打破しようと試みはじめます。公共
事業のモデルであり、世界恐慌を乗り切ったといわれたニューディール政策
については現在完全な失敗であったことがわかっており、巨額の財政赤字と
回収不能の海外債権(まるで今の日本にたいですねw)にあえいでいた−
これが当時の米国の姿であったのです。
53出張 軍板:2005/12/19(月) 20:51:37 ID:unH/mI350

もっとも、これらの状況をもって「戦争を引き起こしたのは米国の責任」などと
言うつもりはありません。むしろそうした考えでヨーロッパに派兵した米国は、
期間の割りにはひどい損害をこうむっていました。国民=議会は明らかに戦
争を避ける意思を持っていましたし、荒廃した国から賠償金も、貸したお金も
回収できないことを学んだのです。
英国の借金踏み倒しに、主要な企業や美術館の所蔵品を投げ売りするよう
に迫ったのは有名な話です。

そんなただでさえ、苦しい思いでいるところに、移民で余剰労働力を米国に
送り自国に送金し、一方では中国で勢力を伸ばし、殖産興業に成功し、軍事
的には直接脅威となった、

「元獲物の日本」

を当時の米国の為政者がどう見ていたか容易に想像できるでしょう。歴史的
には、こうした米国の独善的で近視眼的な政策が、最終的に中国大陸の共
産化を招き、全ての権益を結局失うことになるのですがここでは深く触れません。

こうした米国の状況に近づいた国・・・それは孤立無援の新生共産主義国家
ソ連そして、敗戦国ドイツです。

意外ですか?

ところが、日本と米国ほどこの両国からの諜報活動に翻弄された国はない
といえます。日本もゾルゲ事件のはるか前から、仕掛けられていましたが、
人種的な差異からより深刻な影響があったのは米国です。
54出張 軍板:2005/12/19(月) 20:53:53 ID:unH/mI350

第一次大戦後のルーズベルトが強烈な共産主義シンパであったことはよく
知られていますが、これは冷戦前までの米国の基本スタンスでもありました。
第二次大戦でドイツとソ連が戦ったことは誰でも知っていますが、その直前
フィンランドとソ連が戦争したときには、英仏両国は、ドイツに石油を送って
いるソ連(コーカサス油田)の爆撃を真剣に準備していました。当時、ポーラ
ンド分割を仲良くやってのけたのがドイツとソ連だったのです。

この行動に暗黙の了承をしていたのが、米国です。

このソ連VSフィンランド戦争(1939年)の結果、ソ連は12月14日付で国際
連盟から除名されています。
連合国VS枢軸国とか、自由主義VS全体主義とか言われますが、そんな単純
な構図は後で付け加えられたものです。政治体制的には日本と英国は非常
に似た形態でした。松岡 洋右外相が国際連盟を脱退したことは、米国に大
義名分を与えないという戦略からは大失敗でした。

侵略国家という概念も、大変いかがわしいものです。

いきなり本土決戦を受け入れられる国は、地積のある米国、ソ連、中国など
一部の国しかありえません(今の日本をのぞく)。しかも当時の列強の軍隊は
例外なく侵攻軍です。これは外征軍ということです。
開国以来、日本が進めてきた独立の保持とは、いかに外国からの軍事行動
を、本土から遠ざけるかにありました。四方の海を内堀に見立てて、朝鮮半島
を出丸、満州を武者駐屯の曲輪として考えていたことが国防施策に見てとれ
ます。
55出張 軍板:2005/12/19(月) 20:55:59 ID:unH/mI350

日本に朝鮮や中国は必要だったか?答えはYESです。対馬をロシアが占拠し
たときに軍隊を送って退去させたのは英国です。日本は英国の同盟国として、
自国の安全保障を実現することに成功しました。もし、朝鮮や中国に強力な
独立国家が存在していれば膨大な軍事・戦争経費を社会資本に回すことが
可能で、当時の日本ははるかに早く、経済的な繁栄を実現できていたでしょう。

もちろん、そうなれば朝鮮や中国から独立を脅かされていたかもしれません。
結局歴史のIFは無限にありますが、現実として、日本の独立はこの地域の安定
と軍事的な緊張の除去にかかっていました。

支配地域の軍事的緊張を取り除くことに熱心な国は数多くありますが、そこを
繁栄させ安定させようとした国は戦前の日本と戦後の米国のみです。この時期
に併合後の朝鮮では、人口が倍増しています。ちょっと悲劇の日帝36年支配
とは様子が違いますね。

一方、軍事的な要求度の低かった台湾でも、同じような殖産興業政策は行われ
ました。帝国大学の創設順序からも、いかに日本が朝鮮の安定化を重視してい
たかが分かります。果たして、彼らはこうした改革の機会を自力で果たすことが
可能だったかどうか、歴史のIFは無限にありますが、事実朝鮮半島は大きく発展
しました。今また、満州において、建国と殖産興業が始まったわけです。

中国(漢民族)のインテリ層は日本の発展に刺激を受けつつも、大中華の復興
を夢見てようやく民族運動を開始しますが、彼らの理想は、列強の利権争いと
国内の軍閥の勢力争いに飲み込まれていきました。日本に学んだ孫文の理念
すら、蒋介石の国民党軍の権謀術数の道具となりました。
56XXX:2005/12/19(月) 20:57:16 ID:hpvhPzdB0
ご心配なく

取捨選択できるぐらいの家庭教育はしてますから

みんなそうじゃないですか

57出張 軍板:2005/12/19(月) 20:58:01 ID:unH/mI350

ともあれ、満州事変、第一次上海事変直後の日本を取り巻く環境は、遅れてきた
大国である米国との深刻な摩擦=それ自体は日本は極力避けようとしていた=
との関係で動いていきます。
また、明治以来の伝統的な国防概念を覆す、海から(内堀から)の侵攻に対処し
なければならなくなりました。シーレーン防衛・・・あの黒船がたった4隻で江戸湾
を封鎖して日本を開国させた悪夢がよみがえったことでしょう。

いまだ、中国人民なるものの定義が、支配地域の住民の域を出ないころの話です。


いよいよ、第二次上海事変、日華事変へと話がすすみますが、日本の国内におい
ても大きな変化が現れました。

よく、軍部独裁の進行という人がいますが、軍部といっても陸軍省、海軍省の2つ
はとても同じ国の軍隊とは思えないほど対立し利権を争っていました。帝国議会で
予算承認を必要とする日本では、軍部の独裁など絶対に不可能な政治体制であり
ましたが、何故かこのような言葉がまことしやかに定着?しています。

戦前の日本は、いうまでもなく民主的な国家であったと思います。普通選挙が行わ
れ議院内閣制、憲法があり、3権分立は保障され、天皇の統治は事実上抽象的な
ものでありました。
58出張 軍板:2005/12/19(月) 21:00:03 ID:unH/mI350

軍が政治の実権を掌握する、もっとも典型的な方法はクーデターですが、五・一五
事件と二・二六事件がありますね。どうでしょう?これは軍事政権の出現を招いた
のでしょうか?

教科書では、五・一五事件で日本の政党内閣制は終わり、このあと軍国主義のう
ねりとなって、陸軍クーデター(二・二六事件)を経て日中戦争、太平洋戦争へと
突入していく。と説明されています。

答えはNOです。見事に鎮圧されました。天皇の親政を標榜したにもかかわらず、
当の昭和天皇によって「反乱軍」扱いされてしまいました。いったい何故彼らは
このようなクーデターを起こし、何をしようとしていたのでしょうか?

この当時、日本は昭和恐慌の影響から農村の破壊(米や繭(まゆ)といった日本
農業の代表的産物をはじめ、野菜・果実等の価格が大暴落する)が起こっていま
した。
日本の軍隊は徴兵制であり、貧乏な学生でも優秀な者は軍の士官学校、兵学校
へ進学できました。難易度は帝国大学の法学部よりも上です。また下士官教育に
も熱心であり西欧諸国では下士官が軍艦の操艦を行うことなどありえませんでした
が、日本では常識であり、兵にいたっても読み書きそろばんに始まり、高度な兵器
の操作に必要な教育も行っていました。まさに軍隊は日本の貧乏な世帯の次男
三男教育の場であり、職業訓練の場でもあったのです。
59出張 軍板:2005/12/19(月) 21:02:47 ID:unH/mI350

軍隊には農家出身者が数多くいました。彼らは、政党政治=政治家が財閥と結託
して、農村の簒奪を行っていると考えました。また、戦争で死ぬのは貧しい彼らで
あって、徴兵逃れした良家の子息は、金儲けと贅沢にふけるとも考えていました。

どこか共産主義の臭いがしますね。理念・理想はともかく、当時共産主義はアルカ
イダ並みの危険思想でしたから、このようなものが軍隊に入り込むことは、絶対に
あってはならないことでした。

1932(昭和7)年5月15日夕刻、農村の窮乏、財閥の膨張、政党政治の腐敗に
憤った海軍青年将校らが、民間の茨城県の農本主義(農業こそが国の基である
とする思想)団体「愛郷塾」と結んで起こした、首相官邸・日本銀行などを襲撃した
(テロ)事件。

これが、五・一五事件です。

前年の陸軍が起こした満州事変とは、何の因果関係もありません。

日本が侵略国家として暴走を開始するきっかけというには、どうもピントがずれてる
ような感じがするのは、私だけでしょうか?むしろ共産革命に近い印象をもつのは
私だけでしょうか?
彼らの要求&目的の中に、軍部による改造政権(内閣制の廃止)がありますが、
とてもそれを推進しうるような計画性もなく、非常に稚拙で単発的な印象を与えます。
これは権力奪取というより、当時の国民の空気を反映した、突発的な事件という位置
づけが相当なのかも知れません。事実、国民からの支持は大変なものだったのです
が、国民は政治体制の変更まで望んでいませんでした。
60出張 軍板:2005/12/19(月) 21:04:49 ID:unH/mI350

次の二・二六事件とは何だったのでしょうか?

北一輝(きたいっき)の国家改造思想に影響を受けた陸軍皇道派青年将校が起こ
した(国家改造=昭和維新断行の)クーデター事件であり、いわゆる軍部大臣現役
武官制をもたらし、これによって内閣を流産させて(つまり大臣を出さない)しまうと
いう、軍部の独裁(笑ってしまいますが)を確定した事件であると教科書に書いてあ
ります。

こちらは、本格的なクーデターであり、その計画性、規模においても五・一五事件と
は比較にならないほどの衝撃を当時の社会に与えました。

この事件の本質は、陸軍の派閥抗争です。

皇道派と統制派という陸軍内の派閥抗争の果てに起こった武力決起でした。
決起した皇道派は、天皇が神であるという説にもとづき、当時の腐敗した財界や政
界をクーデターのような過激な直接行動で破壊し、天皇親政を実現するという考え
でした。
一方、中央による統制下に軍を置き、腐敗、癒着した政治から切り離して国益を守
るとしたのが統制派です。

結果はどうなったか。

皇道派の決起後、政府は戒厳令を敷き、海軍は東京湾に戦艦を派遣して反乱軍に
主砲を向けました。また昭和天皇みずから鎮圧軍の先頭に立つといわれるなど、こ
の純粋な軍部クーデターは徹底的に鎮圧されたのです。

日本が侵略国家としての暴走を決定づけたというには、どうもピントがずれてるよう
な感じがするのは、私だけでしょうか?むしろ極右の暴走に歯止めをかけた印象を
もつのは私だけでしょうか?
61出張 軍板:2005/12/19(月) 21:07:33 ID:unH/mI350

この事件以降、日本軍は日本の経済的な権益(早く言えば日本の財界の望むこと)
のための戦争を放棄します。官尊民卑に凝り固まるような、今の官僚そっくりの組織
へと変容していきます。

その結果、もたらされた悲劇とは、組織の存在目的のための戦争であり、予算獲得
のための戦争であり、戦争という手段の目的化でありました。

この2つの事件は同列に置けるようなものではありませんし、これによって軍部の独
裁が行われたなどという世迷言を信じる根拠もありません。が、日本国民の多くが、
こうした軍を政治家よりも信用する「空気」ができあがった事は大変重要なことです。

小泉人気=自民党をぶっ壊し、抵抗勢力をぶっ壊し=とちょっと似ているのは、日本
人の世直し大明神信仰と無関係ではないでしょう。

軍部大臣現役武官制の復活という、軍の政治介入を許す結果となっても、当時の日
本人は「これで、金持ちのための戦争はなくなる」と信じていました。

しかしものごとには両面があります。

日本をはじめ列強は相次ぐ軍備の拡張にあえいでいました。恐慌下で国家財政は
破綻の危機にありました。各国はブロック経済とよばれる排他的な経済仲良しグル
ープを作り、域外の国との貿易には高い関税や、参入障壁をもうけていました。

もちろん日本も円ブロックと呼ばれる経済圏を作っていました。しかし当時の円ブロ
ックには重大な弱点がありました。それは急速に進んだ産業資源革命=石油、ボー
キサイト、錫、ゴムといった産業の血液が絶対的に不足していたのです。

当時の産油国といえば、米国、オランダ領インド(インドネシア)です。
62出張 軍板:2005/12/19(月) 21:09:31 ID:unH/mI350

海軍の軍縮条約を、軍部の反対を押し切って締結した当時の政府にとって、こうした
物資を安定して確保するためにも国際的な緊張を高める軍事行動には、極めて消極
的でした。
満州事変にあっても、それがやむをえないこととはいえ、産油国米国との対立を恐れ
て不拡大方針を取っていました。それが、軍部への国民の信頼を背景にした「軍の
権威」の増大によって、徐々に制御不能の状態に陥っていきます。

上でも書きましたが、当時の列強の軍隊の本質は「外征軍」です。これは本来攻撃
専門の軍隊ですから、自分が攻撃されるかもしれない状況下でじっとしていることが
苦手な軍隊です。したがって、自軍の根拠地から敵国の策源地を遠ざけるよう行動
する癖をもっています。
この癖は、満州事変の関東軍にも当てはまります。純粋な軍事常識として行動した
結果中央の不拡大方針に従わなかった(従うことは不可能だった)ということです。

一方、対峙していた中国の国民党軍は、群雄割拠の軍閥が本質であり、共産主義
の八路軍も共産匪賊と同義でした。彼らは常に自分の勢力拡大を第一に考えており
私兵の存在こそが自らの存在を保証する唯一のものでありました。民族主義も抗日
運動も、そのための手段にしか過ぎなかったと言ってもいいでしょう。実際、蒋介石は
米国から兵器、兵員、お金など膨大な援助を手にしますが、実に終戦間際になるまで
積極的な攻勢にでることはありませんでした。むしろ毛沢東の共産軍を攻撃したがって
いたという話もあります。この点ではソ連の援助を得ていた八路軍も大差ありません。
63出張 軍板:2005/12/19(月) 21:12:30 ID:unH/mI350

いよいよ本題の、日本軍は侵略をおこなったか?という問いに対する検証になります。

当時中国で最大勢力となっていた中国国民党は、ドイツから武器、弾薬をはじめ軍事
教練のための武官を幅広く受け入れていました。国民党軍(国府軍ともいう)は第二次
上海事変勃発までに、ゼークトラインと呼ばれる第一次大戦で威力を発揮した塹壕陣地
帯をつくりあげました。駐在の軍事顧問は数百人にのぼりました。

また、米国からも大規模な援助を引き出すことに成功し(もっぱら日本と戦うためという
理由でしたが、本心はそう思っていなかったようです)、国民党軍の士気と装備は以前
と比較にならないほど高まっていきます。彼は軍事的な成功が、もっと多くの援助を引き
出す鍵であることをよく知っていました。そして各国の租界がある上海でそれを行う事
の意味もよく知っていました。

やる気マンマンというわけです。

1930年の日本軍と日本政府であれば、こうした状況でも切り抜けたかもしれません。
うまく先制攻撃をさせて、英仏との連合を果たせたかもしれないのですが、残念なこと
に、この当時の日本軍はその任務に対する忠誠心が比較にならないほど高く、自信
に満ち、能力があり、かつ独善的でした。

日本軍もやる気マンマンというわけです。

1937年7月7日に中国軍(中国共産軍の謀略説がある)の発砲事件に端を発した
日華事変は、早くも8月13日に上海に飛火して日支両軍の全面衝突となりました。

ここで、日本軍はやる気マンマンと書きましたが、政府はそうではありませんでした。
第二次上海事変が起こった日、日華事変の停戦のための閣僚級の会談が行われて
いたぐらいです。
64出張 軍板:2005/12/19(月) 21:14:54 ID:unH/mI350

当時の新聞に「蒋介石は孫文の薫陶を受けた立派な人物であるが、米国をはじめと
する列強に乗せられて、日本軍を攻撃するとは愚かなことだ」と書かれています。
これを見て、愚かなのは日本の諜報戦能力の方だと思うのですが、相対的に力を
落としていた外交部の言うことなど当時の日本軍の「根本的解決方針」の前では無力
でした。

とにかく、蒋介石は上海では日本軍に勝てると思っていたようです。

どうも、イメージでは日本軍が弱い国民党軍を攻撃していたように思いがちですが

                25万  VS  75万  だったのです

8月13日に蒋介石の軍は25個師団33万人(ゼークト線後方を含めると75万人)を
前面に集中して上海を包囲しました。
対する日本軍は7個師団半20万人です。(あとで2個師団5万人追加)

装備(機関銃、野砲、戦車)は日本軍を上回っており、士気も高い精鋭の軍隊でした。

陸上の兵力では圧倒的に不利な日本軍でしたが、近代戦でのキーとなる制空権、
制海権は日本軍が握っていました。

黄浦江の日本艦隊は中国軍陣地に砲撃を加えましたが。翌日8月14日、中国空軍が
日本艦隊を空襲してきました。、爆弾のほとんどはフランス租界や共同租界に落ち、
民間人に2000人あまりの死者が出ています。その同じ日、日本海軍は中国本土への
空襲を始めました(渡洋爆撃)。こうして両国は互いに宣戦布告しないまま、本格的な
戦争へと進んでいったのです。
65出張 軍板:2005/12/19(月) 21:16:55 ID:unH/mI350

少なくとも、上海で戦争を始める理由は日本側にはありませんでしたが、結局のとこ
ろ、米国、ソ連、ドイツの思惑どおりに紛争が勃発しました。しかし戦況は思わぬ展開
を見せ始めます。

まず、艦砲射撃と航空攻撃によって戦線を立て直した日本軍は、逆に国民党軍を押し
返します。ドイツの多大な援助で構築されたゼークトラインは、日本軍の攻撃に十分
耐えられ、逆襲できると思われていました。

この兵力と物量、場合によっては士気も上回っていた敵の守る陣地を日本軍は簡単
に突破してしまいます。制海権・制空権は日本側にありました。7月から海軍を中心と
して敵の偵察を行っていた日本軍は、前面の敵の自由行動を許しながら、タイミング
を見て兵力を集中させて捕捉殲滅していきました。

ちょっと専門的になりますが、第一次大戦は壮絶な塹壕陣地の闘いであり、膠着した
戦線で多くの兵士が死んでいきました。ドイツの軍事顧問は、この戦訓から数に劣る
日本軍を消耗戦に引き込み、勝利しようとしたのです。

しかし、同じように第一次大戦の戦訓を研究していた日本軍は、まったく違った戦法
を編み出しました。少人数の歩兵部隊を、敵の中に浸透させるという、現代の歩兵
戦術の基本と呼ばれる戦い方です。

いかにドイツ人が自信をもっていたかというと、このゼークトラインで200名を超える
軍事顧問が玉砕(全員戦死)しているのです。日本、ドイツ、イタリアは同盟国で、全
体主義の悪の枢軸だと習った人には、ちょっと信じられない話ではないですか?
太平洋戦争開始の4年前のことです。
66出張 軍板:2005/12/19(月) 21:23:34 ID:unH/mI350

10月10日上海派遣軍(松井石根)は突如総攻撃(第二次攻撃)にうつりほぼ全部の
ゼークトラインを突破します。12日までに国民党軍前進壕の全縦深は崩壊しました。

10月26日防衛線最後の要衝大場鎮(だいじょうちん)が陥落、国府軍は総撤退に移
りました。その後上海攻囲軍は南京方面への壊走に陥ったのです。

なぜ長々と戦況を書いたかといいますと、ここに南京大虐殺なるものの本当の姿が
あるからです。

日本軍の戦い方は極めて特異なものでした。
航空偵察で敵の所在や動向を把握し、今で言うピンポイントで兵員や物資の集積地
を砲撃、爆撃していきました。歩兵が敵の戦線の背後に浸透していきますので、敵は
大混乱を起こします。その後、主力の部隊が攻勢に出るのですが、その進撃速度は
日本軍の方が国民党軍を遥かに上回っていました。
いたるところで殲滅されたのです。

国民党軍は相当な自信があったせいか、撤退戦の計画を十分おこなっていなかった
ように分析されています。ゼークトラインを突破された後は、予備兵力のある南京ま
で各個に壊乱状態で逃げていきました。パニック状態になったわけです。

また、第1次上海事変のとき第19路軍が志願者を募ったのと同じ手段をとったのも
大きな被害を出した要因といわれています。特に、補給部隊が早期に壊滅したため
男女学生による部隊を編成しましたが、大変いたましい結果となりました。前線の33
万の軍が崩壊すると南京、蘇州ー江陰線にいた総予備も含めて総崩れとなってしま
ったのです。
67出張 軍板:2005/12/19(月) 21:25:37 ID:unH/mI350

彼らの名誉のために言うと、彼らは祖国防衛の立派な使命感に燃えた正規軍人で
あります。悲惨な闘いや戦争の惨劇を嫌うことはあるとしても、それを理由に、その
名誉まで汚してはならないものだとも思います。
これを戦死ではなく虐殺などと称することは許されないのではないでしょうか。

ともあれ、11月5日、杭州湾に敵前上陸(実際抵抗はあまりなかった)した日本軍
(第10軍:柳川平助)も加えて、第二次上海事変は南京まで残敵掃討(敗走の軍を
追撃する)の段階に移ったのです。
12月5日に南京周辺に達しましたが、そこには南京保衛軍の弱い防衛線があるだけ
で中世の城壁に頼って抗戦を続けようとしましたが、当然無益な戦となりました。

ここで、南京大虐殺を検証してみます。

まず第二次上海事変が勃発した当時、国民党軍の指揮はドイツ国防軍軍人がとって
おり、日本軍に全縦深を突破されたことを知ると、自ら銃をとり前線に赴き多数が戦死
してしまいました。上海攻囲軍は結果として11月12日以降、命令が錯綜し壊乱状態
となったのです。

本来安全なゼークトラインの後方で物資の輸送にあたっていた、学生部隊(正規軍で
すが)はほとんど撤退のルートも知らせれないまま、まともに日本軍の攻撃を受けまし
た。弾薬の少ない日本軍にとって、航空偵察により効果的なピンポイント攻撃を行う
ことが絶対必要だったからです。物資の集積場所は最優先の攻撃目標です。

ここらへん、自衛隊の派遣で後方補給は安全などというのも、笑い話ですね。

結局、上海前面だけで戦死者は8万人を越えると言われ(国民党政府は後で上海
攻囲軍の戦死25万人と発表)ました。これは撤退が徒歩で行われ、日本軍に捕捉
されたためです。撤退方法や降伏方法について事前に考慮・教育されていなかった
のが原因です。

そしてこの数字は全滅を意味します。
68出張 軍板:2005/12/19(月) 21:27:47 ID:unH/mI350

松井司令官に与えられた命令は、敵の野戦軍の殲滅であり、名目上の敵の首都
南京攻略ではありませんでした。また日本軍の参謀本部もゼークトラインで膠着す
すると考えていたようで、明確な突破後の作戦指導を決めていませんでした。

日本軍は追撃に移りました。敵軍の包囲殲滅のため、敵軍を上回る速度で撤退先
の南京城を包囲したのです。

後の調査で南京城外の埋葬遺体は20万という数字が記録されています。
当時、南京城の守備軍は10万人でした。

この大量の遺棄された遺体の原因は次のどれかであろうと思われます。

・南京に遅れて到着した上海攻囲軍を捕捉戦死させた。
・南京防衛軍が城外に脱出するところを戦死させた。
・上海攻囲軍または南京防衛軍に属する、降伏した中国軍兵士を処刑した。
・城内外で便衣兵を摘出し処刑した。
・城内外で同士討ちや現在地離脱者の射殺体が残存していた。

もし仮に、非戦闘員がこの中に大量に入っているとすれば、その責任は誰にあるの
のでしょうか?
近代戦では戦場に存在する全ての人間・家屋などの遮蔽物・動くものが攻撃の対象と
なります。兵士や、まして前線部隊の参謀将校に目標が民間人または制服を着た兵士
かをその都度確認しろなどと要求する軍隊は存在しません。つまり都市を除く戦場に
民間人を入れないのは互いの交戦国の義務であり、戦場にいた民間人死亡の責任は
攻撃側にないのです。

沖縄戦の米軍に民間人死亡の責任を問えないのもそれが理由です。
69出張 軍板:2005/12/19(月) 21:30:18 ID:unH/mI350

ただし、この状況は最前線にのみいえるのであって、軍隊全体での戦っている兵士の
パーセンテージは決して高くありません。むしろ輸送や協力部隊、砲兵などの方が数が
多いのです。そしてこれらの兵士は、あとから戦場にやってきます。

果たして、日本軍の進撃速度に追いつけない補給部隊は、大量に発生した捕虜を給養で
きたでしょうか?

おそらく答えはNOでしょう。

武器弾薬をケチる日本軍が、何万人も銃殺できるかという疑問をお持ちの方には、1万人
を機関銃で殺害するには10丁の軽機関銃で弾丸が十分に補充され銃身過熱を防止でき
れば1時間以上かかることはないという事実を知っていただく必要があります。
つまり1個歩兵中隊200名程度の兵力があれば無抵抗の人間1万人を30分もあれば全
員射殺できます。1個連隊で12個歩兵中隊を保有していますから、無抵抗の1万人を殺害
したところで1個連隊からみれば局所の出来事にすぎないのです。

しかも後方の部隊ですから弾薬は豊富にあります。

日本軍に降伏というルールがなく、当然捕虜の身分保障のための条約も締結していなかっ
たことを考えると、南京城外の遺体は、ほぼ戦死、捕虜処刑のものであろうと推測されます。

それでは、捕虜はどれくらい出たのか?
これは今となっては推察する以外にありませんが、南京城周辺の戦闘は12月いっぱいま
で戦われていて、手榴弾を持って日本軍に飛び込む兵士も多くいました。この士気の高さ
から見て、10万を超える捕虜が出たとは考えにくく、また日本軍が意図的に捕虜を取らな
かったことをあわせて、徹底抗戦が主体であったと思われます。

では南京城内はどうかというと、日本軍は攻撃準備砲撃(といっても15cm砲2門ですが)
を行っています。しかし市民の大半は難民区に避難していました。日本軍は難民区の設定
を認め無差別に砲撃を加えなかったのです。
70出張 軍板:2005/12/19(月) 21:32:21 ID:unH/mI350

ここで、日本軍は便衣兵との闘いに遭遇します。便衣兵は通常武器を保有しながら逃亡、
再起を図ろうとするもので戦闘意思を完全に喪失したわけではありません。この場合の
戦闘意思とは自力で逃亡する、併せて強盗も辞さないことも含まれます。
南京方面以外の方向に逃げ成功した国民党軍の将校は、日本軍より武装した逃亡兵の
方が恐ろしかったと書き残しているほどです。

この便衣兵は、南京の市民にとっても恐怖の対象でした。実際に南京城に突入した日本軍
は、城門の近くで多くの射殺された遺体を発見しています。これは降伏ないしは逃亡を企て
た市民に対する懲罰処刑ではないかといわれています。また補給の途絶えた城内で国民
党の軍隊がどのような行動を行ったか、避難地域に逃れる市民をどのような目で見ていたか
考えると、この悲劇の背景が見えてくるようなきがします。

上海の戦闘では、日本軍は外国人や市民を避難させています。南京城でもしかりです。
わざわざ市民を虐殺したとは考えられないと思います。仮に便衣兵の掃討のためにめくら
めっぽうに殺したならば、かえって便衣兵の数を増やすことになり、軍政上むしろ逆効果で
あろうと思うからです。

いかがでしょうか?

戦争とは、無慈悲で愚かで残酷なものです。
が、戦争を引き起こすのは無慈悲で愚かで残酷な人ではありません。

硬直した価値観、行動・・これらは勤勉さやモラルにつながります。
しかし、勤勉でモラルの高い日本軍は、結果として日本を崩壊させました。

物事を多面的に考え、本質を見抜き柔軟であることが、歴史に学ぶ我々の責任であろうと
考えます。
71実名攻撃大好きKITTY:2005/12/20(火) 14:31:45 ID:Yn14+Ex90
むずい
72実名攻撃大好きKITTY:2005/12/22(木) 10:41:43 ID:5w5KZm500
>>51-70
歴史を専門に研究していらっしゃる、JG保護者の方とお見受けしました。
次は、「ひろしまの旅」教育にかかわる核心部分、米国が日本に原爆を投下したいきさつについて、御高説を読んでみたいものです! 
カキコを心待ちにしています。
73出張軍板:2005/12/23(金) 04:58:56 ID:a6g7cD+T0
私は歴史の専門家でも研究家でもありませんが、戦史に関しては
ずっと興味があり、子供のころから読めない漢字を聞きながら本や
話に夢中になっていました。

さて、我々日本人にとって太平洋戦争の悲劇の象徴とも言える原子
爆弾の投下についてですが、あらゆる議論や考えの前提になっている

「人道的戦争」

という考え方について、触れておく必要があると思います。
学問的(早い話が理屈の上でという意味)には、戦争という暴力行為が
一般の刑法上のそれと異なるのは、国家の主権において正当化され
紛争国の間で利害関係を処理する、政治的手段として認識されている
ところにあります。

難しいですね。
分かりやすく言うと、国同士の利害が対立してケンカになった場合、その
国の政府は政治的手段として「暴力に訴えてもいい」ということなのです。
これは主権を持つ国家とその国の政府に認められた権利であるという
訳です。

敵国の兵士を戦場で殺しても罪にはなりません。が、講和後に殺せば
殺人罪になります。これは、戦争は国の利害を解決するのが目的であ
って、敵国の兵士の殺人は手段であっても目的ではないからです。
74出張軍板:2005/12/23(金) 05:02:11 ID:a6g7cD+T0

だからこそ、この目的から外れた行為には厳しい戦争犯罪というものが
問われます。また、目的のためには何をやってもいいかというと、そうで
はなく、各国の軍隊には厳しい「交戦規定」というものが存在しています。
勝手に私兵として軍を動かした場合、最悪銃殺刑もありえます。

この交戦規定には、戦闘開始、対象、戦闘地域、捕虜の処遇など、近代
的な軍が持たなければならない重要な規範(軍規)のうち、最も重要であ
る=本来の存在理由である=戦闘に関する規範が盛り込まれています。

交戦規定のない軍隊とは、何をするか分からない軍隊と同じ意味であり
軍の戦闘行為の裁量に対して、予め政治が範囲をかぶせないという恐ろ
しい暴力装置であるということです。

人道的戦争なるものの意味を考えるとき、軍の任務と軍の行動を戦場で
規制する(あるいは認める)交戦規定をしっかり認識しておく必要がありま
す。

本来、人道的という言葉が、戦争という言葉につながるのは違和感があり
ますね。きれいなゴミのような。言葉としても何かバランスを欠いた、どうも
納得感の薄い変な印象があります。

それは、戦争を行う主体が国家であり、軍隊という装置であり、生命をいか
に効率よく奪い、敵国の機能を破壊するかを追及しているように思えるから
です。これは決して人道的であると思えないからです。
75出張軍板:2005/12/23(金) 05:05:48 ID:a6g7cD+T0

軍隊も警察も、国家が持つ物理的強制力=暴力装置であると政治学では
学びます。
しかし、その中身は大きな差があります。まず、警察の持っている銃火器
は「武器」であっても「兵器」ではありません。例え同じものを装備していても
です。
何が言いたいのかというと、「目的」が違うのです。

警察は治安の維持のため、犯人の逮捕が任務であり、検挙〜裁判という
司法権システムを機能させるための、行政権のシステムです。司法権の
システムは、死刑によって犯罪人を「殺す」場合があります。

軍の任務とは、脅威の排除です。つまり「殺す」ことが最優先のシステムな
のです。

任務が違えば、おのずと手段も違う。

このことをよく覚えておく必要があります。結果「殺す」というところが同じでも
手段が違うというところです。
警察が、犯人が抵抗しないのにいきなり射殺すれば、残虐な行為として処罰
されます。しかし軍隊では「投降のルール」に従わない敵は、抵抗の有無にか
かわらず「即射殺」で何の処罰も受けません。勲章を貰うこともあるくらいです。

人道的という概念にもどると、たとえ死刑に処する場合でも、残虐な方法は人
道的ではないとされています。これは罪人の生命を奪うことが治安維持の目的
であって、無用な苦痛を与えることが目的ではない(公的復讐の放棄)からです。
戦争の場合、苦痛の有無が人道的であるか否かの基準になることは限定され
ています。普通は、戦争の目的が充分果たされているにも関わらず、敵に降伏
や停戦の手段を与えず(制限し)、過剰に攻撃と破壊を行った場合というのであ
って戦争犯罪とは全く別物ですし、その判断基準も非常にあいまいです。
76出張軍板:2005/12/23(金) 05:12:50 ID:a6g7cD+T0

最近の例をあげると、帰化爆弾という兵器が「非人道的」といわれました。これ
は火薬と破片の爆弾ではなく、燃料をエアロゾル化して、一瞬で広範囲の酸素
を燃焼し尽して、一人の生存者もいなくする爆弾です。

アメリカはイラクとの実戦でこれを使用し、イラク兵士は核を使ったのかと誤解
したほどの破壊力(人のみですが)でした。

もちろん、アメリカは「非人道的」であるか否かは殺傷力や生命を奪う方法で規
定されるものではなく、降伏する意図のない軍隊をどのように攻撃するかは、軍
の裁量行為であるとしてこれをつっぱねました。交戦地域に非戦闘員(民間人)
を入れたのはイラク政府の責任であるとも言っています。

ひどい話ですね。

しかし、近代的で民主的な国家が持つ軍隊の「交戦規定」としては、まったく、完
全に、これは普通です。

ここから、本題の原爆=核について考えていきます。

あくまで、現在の考え方ですが、たとえ降伏する意思のない軍隊を攻撃する場合
でも、核の先制攻撃は「軍の裁量行為とはならない」とされています。政府の最高
承認が必要とされています。


77出張軍板:2005/12/23(金) 05:16:45 ID:a6g7cD+T0

なぜか?

核の使用によって起こる被害は、地域の利用を不可能にし、生態系、環境破壊
を無関係の周辺にも深刻に及ぼし、本来戦争の目的である国家の利益の実現
に大変な害を与える=目的の喪失=手段の正当性の喪失になると考えられて
いるからです。

誰の利益にもならない戦争はダメということです。

自衛の場合は「自国民の防衛」という利益がありますから、躊躇なく使用します。
自動的に報復攻撃します。

1945年8月当時のアメリカ政府の認識、国家間の戦争にたいする認識は、現在
のそれとは大きく違います。

ここまででまとめておくと

・人道的という言葉本来の常識的な意味は、戦争での軍隊の行動を規制する意味
 とはかけ離れている。
・軍隊の任務は脅威の排除である。殺人は非人道的行為だが、任務上認められる。
・軍隊の戦争遂行手段は、国家の利益の実現という目的によってのみ正当化される。

ということではないかと思います。
78出張軍板:2005/12/23(金) 05:26:36 ID:a6g7cD+T0

では、どういう認識でいたのかというと、まず第一に、戦争については、こういうこと
です。

日本=国家総動員&制限戦争(第一次大戦当時の考え方。条件講和可能)
アメリカ=国家総動員&無制限戦争(無条件降伏もしくは国家の殲滅)

これはもう、日本政府(たとえ陸軍大将が総理大臣でも、決っして軍隊の責任では
ありません。もちろん外務省の責任でもありません。内閣の責任です)の能力の低さ
を感じないではいられない、日本の悲劇であったと思います。

1943年11月にカイロでローズヴェルト・チャーチル・蒋介石が対日戦と対日戦後処
理の方針について会談し(カイロ会談)、その内容はカイロ宣言(1943.12)として発表
されます。カイロ宣言では日本に無条件降伏を要求すること、降伏後の日本の領土に
ついては第一次世界大戦以後に日本が獲得した太平洋諸島の放棄、満州・台湾・澎
湖島の中国への返還、朝鮮の独立などが決められました。

この時点で、日本の条件付講和は可能性がなくなりました。

つまり、講和とは自分に戦力があって、相手にそれを奪うことが非常に困難と思わせ
ることが可能な場合にのみできる相談なのです。1943年つまり昭和18年末はよう
やく日本が押され始めてきた時期ですが、まだまだ軍事的には余力を残していました。

しかし、連合国はすでに対日戦争勝利を確信しています。戦後の調査では、日本が
アメリカ、英国に条件講和を実現できた唯一のタイミングは、オランダ領インドネシア
を占領した直後であると言われています。ただし、撤兵の必要がありますが・・・念願
の石油は輸入できたということです。開戦後3ヶ月で連戦連勝の日本軍が撤兵など
あの自信マンマンの東条内閣には無理でしょうね。それこそクーデターが起こってる
かもしれません。
79出張軍板:2005/12/23(金) 05:34:02 ID:a6g7cD+T0

日露講和を、すさまじい国民の反対を押し切って成立させた豪腕かつ優秀な政治家
はこの当時、官僚軍人にとって代わられています。可能性はゼロでしょう。

忘れてはいけないことがあります。こうした軍隊を、海軍省、陸軍省、内閣を作ったの
は他でもない、我々日本国民であるということです。自虐でもなんでもありません。バラ
ンスを欠いた、偏狭な自信と、根拠の無い楽観的予想で国を破壊に導いたのです。

そして、それを煽りつづけ、官に張り付いてスクープのみに血道をあげ、世論の醸成
をついに為しえなかった当時の新聞メディアも同罪です。

戦う前に、冷静に相手を知る。そして自分を知る。

日本人にとって、格言になるほど実行が難しいことです。無意味に卑屈になったり
根拠もなく過小評価したりすることが、どれほどの破壊と悲劇をもたらしたか、今一度
しっかり腹にすえて考える必要があります。

これは、アジアの人に迷惑を云々などという、安っぽい某国や相変わらずの新聞メディ
アに迎合することを言ってるのではありません。
一度戦争を始めたら、それは軍事行動であって、ほどほどで止めることができない性質
を持っていることをはっきり認識する必要があるということです。
そして勝てないまでも負けないこと、それが確保できない戦争は、こちらから仕掛けては
いけないということです。

ちょっと脱線しましたが、当時日本の主要交戦国であったアメリカの大統領は「これから
は君たち軍人のの仕事だ」と開戦直後に言っています。
80出張軍板:2005/12/23(金) 05:40:35 ID:a6g7cD+T0

では当時、アメリカの軍事予算の30%近くを投入して開発された原子爆弾に対する認識
とはどういうものであったのでしょうか?

原子爆弾の研究そのものは、アメリカだけではなく、イギリス、ドイツ、日本、ソ連でも行わ
れていました。しかし、実際に開発が進められていたのはアメリカのみと言ってもいいと
思います。

もともと、イギリスの諜報機関によってドイツで原子爆弾の研究が行われているという情報
がもたらされたために、アメリカがこれを開発して装備する必要があるとされたのが始まり
です。

詳しい経緯はどこにでもありますので省略しますが、亡命したアインシュタインの手紙は
ほんのきっかけになったに過ぎません。実際にはイギリスに亡命した科学者の研究から
爆発可能な原爆の研究が始まっています。これは、彼ら亡命科学者がレーダーなどの高度
な軍事技術開発から外されたために、やむなく彼らはウラン研究を研究テ−マとしたため
に進められたものです。

この研究情報と、ドイツの研究情報が情報交換協定でアメリカに渡り、アメリカの科学研究
開発局(OSRD:科学技術を軍事動員するための機構)の局長であったブッシュの目にとま
ります。ブッシュは、原爆が既存の爆弾を数千倍うわまわり、戦争の帰雛を決する威力を持
っているものと判断したのです。
その年12月6日、原爆開発に「全力をあげよ」と指示されるに至ります。

1942年になると、実験用核連鎖反応炉がつくられ、夏には陸軍の管轄のもとに原爆製造
「マンハッタン計画」が発足します。ついで、爆弾の製作の最終的基地となる研究所の建設
が始まり、本格的な原子爆弾製造が展開されます。
81出張軍板:2005/12/23(金) 06:00:50 ID:a6g7cD+T0

科学者たちは軍管理、劣悪な研究条件に反発しこそすれ、積極的に爆弾製造に取り組み
ます。それは何といってもドイツに遅れをとってはならないとの思いが、そうした態度をとら
せたのでしょう。

実は、科学者たちには極秘にしましたが、1944年初頭には政策決定者らはドイツ原爆なし
との情報を得ていました。ドイツの降伏は時間の問題となり、ドイツ原爆はありえないと思わ
れたからです。シラ−ドは1945年春、原爆開発の行方を心配し、これを管理する国際組織
の設置の必要性を説いた覚書を大統領に差しだし、その年の7月には、シラ−ドら冶金研
の科学者を中心に日本への無警告投下反対の請願署名運動が展開されました。

また日本の仁科研究所も、東京大空襲で原料のウランを焼失してしまい、その研究を事実
上打ち切っていました。

もはや、対日戦争目的は原爆を「対抗手段」として使用する正当性はなくなっていました。

では、降伏する意思の無い(意思はあっても、軍事行動を止められない)軍隊=国家への
行使としてはどうでしょうか?その正当性はあるのでしょうか?

まず、日本はポツダム宣言を黙殺するという行動を起こし、アメリカに大義名分を与えて
しまいます。原爆の使用はすでに決定済みでしたが少なくとも、長崎への投下は回避でき
た可能性があります。

九州上陸作戦、関東上陸作戦を秋〜冬に準備していたアメリカ軍にとって、100万人の
損害回避というのは「言い訳」にもならないセリフです。原爆使用は既定の方針であり別
次元の問題でした。
どういう問題かというと、みなさんよくご存知のソ連との衝突です。すでにドイツの占領政策
では摩擦が出始め、満州への怒涛の侵攻は、積年の中国進出を願うアメリカの警戒感を
いやがうえにも刺激しました。
82出張軍板:2005/12/23(金) 06:26:48 ID:a6g7cD+T0

このソ連への使用を含めた、実戦データを採取すること、政治的なデモンストレーションを
果たすことが、アメリカの政治・軍事目的として国家の利益目標になってしまったのです。

これはもはや、対日戦争目的とは乖離したものです。
この点において、【現在の尺度から言えば】アメリカは原爆使用の正当性を失っていたと
言えるでしょう。

しかし、現実には原爆は投下されました。

その理由は2つあります。
@政府、軍ともに原爆を使用する意思があった
A報復を恐れる心配がなかった

言うまでもないことですが、1945年当時の国家に現在の理屈は通じません。
そして、投下した理由のなかで、今でも充分根拠となるものがあります。

報復手段の有無です。

アメリカは、日本の生物・化学兵器について大変な脅威を感じていました。何度も日本に
使用した場合には大量報復すると警告しています。実は沖縄戦ではアメリカ軍は使用した
(サイパン、硫黄島でも)形跡がありますが、小規模なものです。
頑強な日本軍に手を焼いた結果、おっかなびっくり使っています。日本軍は報復をしませ
んでした。実際通常弾も補給に事欠くほどだったのが理由です。

要は、この報復手段を持っていなかったこと、開発者の民族的なつながりがドイツに比べて
希薄であったことが投下を決断させた原因であるといえます。
このことは、日本政府が原爆開発&実戦使用をつかめなかったのはやむを得ないとしても
2発目は止めるべきでした。
83出張軍板:2005/12/23(金) 06:32:25 ID:a6g7cD+T0

何か拉致被害者への無関心をみる思いがします。
テポドンショックしかりです。

ただ、日本の降伏を準備していた為政者の本心は分かりません。中途半端な降伏は
イタリアのパドリオの二の舞と言われていましたし、未だ陸軍はやれると信じていました。
もし、米軍の本土上陸を許し、陸軍が反政府軍化すれば国民の犠牲者は1000万を
軽く超えたものにり、国土の荒廃は再起不能なレベルに至ったかもしれません。

私は、日本人が原爆から学ばねばならないことをこう考えます。

・恐るべき官僚体質の傲慢と怠惰を忘れてはならない
・その官僚体質は、我々日本人の性質そのものにあること
・三度日本人の頭上に核の炸裂をみてはならないこと
・敵対する国にも馬鹿がいることを忘れてはならない
 (踏まれないと痛みが分からない)

最後に、核廃絶は人類の願いですが、その核がどんな外交よりも大国間の平和を
維持したことの意味を理解できない人こそ、核のボタンを押す人になるでしょう。


原爆の惨劇と苦痛、日本人の非戦闘員の味わった惨劇と苦痛を考えると冷静では
いられなくなりますが、だからこそ、柔軟でバランスの取れた平和への努力と備えを
忘れてはいけません。

戦争が日本を放棄したわけでは決してないのです。
84実名攻撃大好きKITTY:2005/12/23(金) 07:58:56 ID:j6IwnyMU0
大変有益。
85実名攻撃大好きKITTY:2005/12/23(金) 08:27:55 ID:j6IwnyMU0
有名私立校の社会教師には新左翼崩れが生息。
86実名攻撃大好きKITTY:2005/12/23(金) 08:55:22 ID:tlSnt896O
体操部は活発か?
87実名攻撃大好きKITTY:2005/12/23(金) 12:31:02 ID:42euKV2UO
VIPでやれ
88実名攻撃大好きKITTY:2005/12/23(金) 20:50:04 ID:a6g7cD+T0

 他国の領域で戦争をする=侵略戦争 でなはい

 組織の存在目的のための戦争であり、予算獲得のための戦争であり、戦争という手段の目的化

 敵対する国にも馬鹿がいることを忘れてはならない



なるほど・・・



89出張軍板:2005/12/24(土) 20:45:22 ID:lDmDifp20
失礼、中途書き込み上げてしまいました

 他国の領域で戦争をする=侵略戦争 でなはい

 組織の存在目的のための戦争であり、予算獲得のための戦争であり、戦争という手段の目的化
 が本質であった

 敵対する国にも馬鹿がいることを忘れてはならない



なるほど・・・と思える事がひとつでもあった人は、多面的で柔軟な考え方や行動ができる方です。
そうかな?・・・と思った人も、大丈夫です。
そんなことあるわけが無い!・・・と思った方は、気をつけてください。

日本を破壊に導いたのは、優秀ではあるけれども、柔軟で多面的に、本質を見極められない
私たち日本人の中にある「気質」であったことを忘れてはいけません。

姉歯が何人いても、いくら圧力をかけられても、本質を知り柔軟でありさえすれば、あのような
無様なお役所仕事のせいで、家を失い、税金を無駄にしなくてもよかったはずです。たった一人
まともな人が居れば防げた暴走ですね。

90出張軍板:2005/12/25(日) 11:08:43 ID:y+own/vj0
長々と書いてきましたが、最後に一言
このスレのタイトルにある【共産党は】【いりません】について

単純なイデオロギーで、世の中を動せる時代は、過去も
現在も、未来も存在しないということです。

もともと日本人は、非常に(村)社会主義の精神構造とモラル
を持ち合わせています。言われなくても原始共産主義のシス
テムは幼稚園から叩き込まれています。
「おもちゃはじゅんばんこしなさい」
(アメリカでは「I got it. It's mine!]と言わないと怒られます)


いつか、第二次朝鮮戦争 1994年6月の真珠湾攻撃の話を
しましょう。
オウムの松本サリン事件が起き、社会党の村山内閣が発足した
この年の6月、アメリカは10万人の米軍の犠牲を覚悟した戦争を
一度決意しました。

SMAPが、「がんばりましょう」を歌ってたときのことです。
91実名攻撃大好きKITTY:2005/12/26(月) 21:41:44 ID:eq6CDRcw0
>アメリカでは「I got it. It's mine!]と言わないと怒られます
幼児のときからこういう風に怒られて育ってきたアメリカ人が、
日本に原爆を落として、I got it. It's mine ⇒ 日本は、惨めなアメポチ国家になってしまいました
イラクを侵略して、I got it. It's mine! ⇒ 石油をアメリカに独り占めされてしまいました

こういうアメリカのことを、JGの歴史教育は、どう問題にしているんでしょうか。
日本がすべて悪い、原爆を落としたアメリカのことは悪くない・・・ こうだとしたら、日本人として、
悲しいですね。
92実名攻撃大好きKITTY:2005/12/27(火) 13:20:24 ID:etZ4O2Gk0
【社会】 「日本を売ることはできない」 中国に機密強要され?上海の日本総領事館員、昨年自殺
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051227-00000401-yom-soci


16 名前: 名無しさん@6周年 投稿日: 2005/12/27(火) 10:49:13 ID:fxQR+mbr0
まず、戦時中に中国人を捕まえて拷問しまくった日本が
謝罪し、遺族に補償するべきだ。
これが無ければ議論自体が意味を成さない。
93実名攻撃大好きKITTY:2005/12/29(木) 10:23:02 ID:ITV0AR5g0
東京で、米兵が小学生男児3名をひき逃げ!
警察は犯人の米兵を逮捕したが、日米地位協定により、米国に引き渡さなければならなかった。
日本に、この米兵の裁判権はない。
しかも、この重大な事実が、6日間も隠蔽されていた。
(12/29の「東京新聞」大スクープ)

・・・まるで、占領下と同じですな。
原爆は落とすは、ひき逃げするは、アメリカは日本でやりたい放題。
そういうアメリカよりも、とにかく日本が悪いから謝罪しろ、それが無ければ議論自体が意味を成さないというのが、JGの歴史教育なんでしょうか?
ならば、それはアメリカ弁護の教育と言ってもいいくらいですね。
94実名攻撃大好きKITTY:2005/12/31(土) 10:39:33 ID:zbpz0u2S0
むかし、ソ連から日本の共産党に、第2次大戦について
「あの戦争は、反ファシズム民主主義統一戦線だったが、戦後アメリカや西欧諸国がそれを裏切ったのだ」
というふうに規定しろ、という指令が飛んだ。
ソ連自身が、千島樺太や、満州、ポーランド、ドイツ、フィンランドなどで大量に帝国主義的な領土・覇権
領域拡張をした事実を隠蔽しようとしたのだ。
日本共産党はそれに唯々諾々としたがって、そのように規定した。つまり、第2次大戦中の連合国は、すべて
ただしい民主主義国家、悪いのはすべて日独枢軸国、という理解が作られた。
これが、各学校にはびこる日本共産党系の教員に大きな影響力を与え、日本がすべて悪いと生徒に教える
歴史教育が作られていった。
ちなみに、新左翼諸派は、第2次大戦について、このようなソ連の見解を受け入れてはいない。
95実名攻撃大好きKITTY:2006/01/02(月) 07:48:56 ID:JP888DYI0
>>94
ということは、授業や行事での自虐史観強調度は、

日共系教師>>>>新左翼系教師

ということですね。

納得。
96実名攻撃大好きKITTY:2006/01/02(月) 21:09:03 ID:rnAwV0c10
ミス女子学院
http://www.jp-nanpa.com/
97実名攻撃大好きKITTY
日本が満州国を作らなかったら、中国共産党が国共内戦で勝利することはなく、
それゆえ、中華人民共和国という国が成立することはなかった。

・・・これは歴史の真実なのだが、JGの歴史教育ではきちんと教えているかな?
中国は、歴史問題で日本に謝罪と賠償要求どころか、日本に大感謝しなくてはいけない
立場にあるのだよ。