【謝謝】台湾OFF総合5【支援ありがとう】

このエントリーをはてなブックマークに追加
161エージェント・774
 その海軍記念日のあたりに、大空襲があって死に損なったこともあります。
 B29が百二十五機ほど三回に分かれて飛来し、高雄の海兵団に絨毯爆撃をしたのです。
五百キロの大型爆弾も落としたのです。その時、私はまだ海兵団にいました。
 海兵団には特一防空壕といって、特別強く作った防空壕がありました。
汽車のレールで鉄骨を作り、コンクリートで固めた防空壕です。いざ空襲となると、
その中に士官達が逃げ込むのです。士官の従兵達も逃げ込みました。
 その日、空襲警報が鳴った時、運動場で訓練していた私は、慌てて特一防空壕に
向かって駆け出しました。しかし。もう入り口は閉められてしまい、間に合いません。
それで、庭に丸い蛸壺が沢山掘ってあったので、その一つに飛び込みました。
下士官の教官の一人が、私と一緒に飛び込んで、二人でギュウギュウ詰めになって
潜んでいました。頭上では、爆弾がガンガンガンガン鳴って、生きた心地がしませんでした。
162エージェント・774:2011/10/12(水) 06:58:03.33 ID:WsMrSfh7
 何分ぐらいだったでしょうか。長い長い時間でした。ようやく嵐が去って外に出てみると、
特一防空壕が潰れているのです。直撃を受け、完全にペチャンコになっていました。
 中にいた人は全員潰されて死んでいました。私の同期の見習い尉官の従兵が四人いましたけれど、
彼らも全員が中で命を落としました。中村大尉という教官が一人、潰れた特一に足を挟まれて
動けなくなっていました。まだ息をしているけれど、足が抜けないのです。すぐさま、
もう一人の教官が日本刀を持ってきて、止血して切り落としました。それで、引っ張り出して、
すぐ病院に運んで治療して、命は取り留めたのです。死ぬか生きるかの瀬戸際です。紙一重でした。
私も、もし特一防空壕に間に合っていたら、潰されて死んでいたところでした。
 将校の身の回りの雑用をする当番兵達の中にも、特一防空壕で死んだ者がいました。当番兵は、
私達が訓練している間は、することがありません。空襲警報が鳴ったら、真っ先に中に避難したわけです。
米軍も、その防空壕には偉い人達が入るということを知っていて、そこを狙ったのだと思います。
当時、爆撃は割合に正確でしたから。
 その米軍の絨毯爆撃で、左営の海軍基地は壊滅的な打撃を受けました。
 左営には、海軍病院から練油所から海兵団から水交社から、空C廠、飛行機の組み立て工場まで、
様々な施設が集中していましたが、それら全てが、一日で無くなってしまったのです。
163エージェント・774:2011/10/12(水) 07:00:22.48 ID:WsMrSfh7
以上、引用

単純に比較できませんが、大津波と同じかそれ以上のことが、米軍によって人工的に繰り広げられていたのですね。